はてなキーワード: 無為とは
誰かを好きになると
世界が色づく。
ただそこら辺を歩くときも、好きな人のことを考えると、スキップしちゃいそうなぐらい楽しくなる。
そういえばラジオであれが好きって言ってたなとか考えながら、自分が普段選ばないものを選んだりする。
誰かを好きになると
毎日を無為に過ごしたりせず、世間一般的によりよい人間になろうと思える。
普段買わないのにおしゃれな組み合わせ欲しくてお洋服セットアップで買ったり
今までやってこなかったことをするようになる。
でも恋しちゃったんだから仕方ないじゃん。
相手に彼氏が居ようが居まいが、今好きになったものはどうしようもない。
「メディアに出てくる情報しか見てないくせに」とか言われるかもしれない。
じゃあ彼女いる人はその人のことすべて知ってから好きになったの?
自分も彼女いた事はあるけど、好きになって付き合い始めてから相手のことを色々と知るようになった。
だから好きって感情を抱くのに少なくとも自分はすべてを知る必要はないと思っている。
でも、色々語ったけど
まあ、そのうち好きな人は誰か知らない業界の人と結婚してしまうんだろうな。
せめて、この恋は、身を削るんじゃなくて、自身の成長の糧にしたいなと思いました。
絶対結実しないってわかってても、作品見て、ラジオ聞いて、イベント行って、もらった元気とこの気持ちで明日からも生きていきます。
だから、できるだけ長い間好きで居させてください。
今年も無為の中で終わりそうだ。
仕事の中で巻き込まれたトラブル、それに最適な対応をできなかった後悔と心身に負ったダメージ。それを癒すためと言い訳をしながら、気力を失った数ヶ月間。
新しいことにチャレンジできただろうか、いや、しようとしただろうか。年々、挑戦の割合が減り、惰性や現状維持の割合が増える。じわじわとそのグラデーションは広がり、やがて深まり夜が訪れるだろう。
それでも感謝はしなければいけない。少なくとも旅先でもてなしてくれた人たちに。おいしい食事を提供してくれた人たちに。食事の元になるあれこれを生産してくれた、素敵な商品を開発してくれた人たちに。何度も訪れたいと思える場所を作り、守り続ける人たちに。
何より、無為の時間に意味を与えてくれる、創作を行う人たちに。彼らの映像、音、言葉、物語が無ければ、時間の余白は耐え難い長さと重さに変わり、押しつぶされてしまうだろうから。
今現在どんな「損」や「困苦」を味わっていようとも、10代、20代の頃になに不自由なく暮らしやりたい事を親にやらせてもらい、ちゃんと社会に居場所を得て最低でも「年齢と同額の月収」得て30代くらいまで穏当に生きてきた人間は、そのような道を歩めなかったヒトから無条件にサンドバッグにされるくらいの「不幸」は味わって然るべきだと思うし、なんも言い返す権利はないと思ってる。
能力や技術獲得する上で当人がどんだけ努力し工夫した的な事実は一切関係ない。
努力し工夫できる環境や知性を与えられた時点で一切合切全部「外的要因に基づく運の良さ」でしかないのだ。下地がちゃんとしてりゃ努力や工夫なんて誰でもできる。AIが描いた絵にちょろっと加筆するくらいの難易度でしかないからだ。
だから「運が悪い」ヒトは無限かつ無条件に運が良いヒトを叩いても良い、と僕個人は考える。
もとい、そうはいっても運良いサイドも腹が立ったら自分のこと棚上げして運悪いヒトに反論してもいいし、より運がいいヒトに対しルサンチマンをぶつけても良い。それによって被る「損」はそこれそ他罰などせず当人が自己責任やXX税として引き受ければよいだけ。「既に得している側」が損している側と同じカード切るならより沢山税金払うのは当たり前。
能力や立場の全ては「運」が生み出した格差でしかなく、各々が立脚する地平に見合った「正義」を信じて納得するなり怒ったり泣いたりしていればよい。
持つもの、あるいは「かつて持っていた者」は持たざるものの無限の愚痴と悪意をぶつけられても「仕方ない」と言わざるをえない。さもなければ不公平すぎる。
・
人間社会に属している限り絶対の善などというものはないし万人にとって得のある秩序などというものもない。
「真の自由」とはむちゃくちゃ厳しく何のフォローもないクッソ塩対応の「荒野」で暮らす事であり、その中で「自然(ネイチャー)」と対話できたと実感できた時こそ、真の意味で「自活できている状態」と言えるだろう。自由と安心は容易には両立できない。
人間が管理し親を努めている環境はことごとく「親の利益」を最優先にした環境となっている。親の利益が「強い子孫を維持する事」であれば、仮に子供の主観的には地獄のような体験をさせてでも「親を継ぐ事ができるだけの強度」を獲得させるべく「負荷」をかけるだろうし、それをしなければ子供はオートで親の財産や親が築いたインフラを食いつぶして「弱体化」するのは人間元来の性質的にも、歴史的にも自明の事実である。
「弱体化する方向に餌を巻いたりヒトを操る」事ほど邪悪で無為なアプローチはなく、エンタメというのは基本的にそういう性質(無責任甘やかし特性)を備えているので個人的には「悪カテゴリ」に入れてある。
「楽しい時間を過ごす代わりにむっちゃ無為に歳だけとってその責任は全部エンタメ摂取した人間の自己責任」。そんな残酷があってたまるかという話だが、世界は事実そのように仕組まれ、ユーザーを「嗜好品中毒」にする事を是として回っている。
抗いがたい魅力をふりまきながら「それに翻弄される側が悪い」と嘯く態度は「挑発的」だし「残酷」だ。
「魅力や快楽を用いて他者に何らかのアクションを起こさせようとする振る舞い」はことごとく「挑発」かつ「暴力」であり、これを無自覚アンド無責任に行う人間こそが「真の邪悪」だと僕は思っている。
普通の悪人は自身がやっている事の加害性を多少は理解しているのでまだ対話の余地があるぶん「相対的には善良」である。しかし、何故か世の中では自覚的悪人の方が無自覚なそれよりも悪者扱いされていて納得いかない。
「自身の加害性を理解できず加減無く加害してしまう人間」のほうがどうして純粋で可愛いという事になってしまうのだろう。力を持ったピュアな加害者の方こそ真の邪悪だろう。
しかしやはり感情的には「力加減を知らずに無自覚に加害してしまう赤ちゃんみたいな存在」は可愛いと言わざるをえない。ゆえに、私は邪悪なものが好きだと結論する。
「悪と邪悪を弱体化させる」ならば、まずは暴力的で挑発的な魅力に溢れたエンタメを共産国ばりに「制限」かけて抑制する必要があるだろう。
―と、そこまで話をシリアスに飛躍させずに「なあなあで終わらせる」為にはふつうにどん詰まりになるまでなんも考えずテキトーに現状維持して(エンタメ中毒のまま弱体化するに任せて)暮らしましょうねという話にしかならない。「真剣」になったら上記理屈にたどり着かないほうがおかしい。
障碍を持って生まれた。
喋りが遅れたし身体も弱いからスポーツなんてする機会もなかった。
見た目に出る障碍だったからそっちにも期待できなかった。
親はしきりに勉強を薦めてきた。そこそこいい大学を出させて公務員にさせたいようだった。
選択肢の少ない自分にとってよりよい落としどころとして考えてくれていたのだろうが、両親共不安定な職業である事の反動のようにも思えた。
勉強はあまり好きではなかったが、それをしないと本当に何の取り柄もなかった。
夕方も土日も部活に明け暮れている人達とテストの点数が変わらなかったからだ。
小学校の頃から一緒に遊んでいた友達はみんな偏差値65以上の高校へ進学した。彼らとは社交辞令で何度か会ったきり自然と疎遠になった。
高校では手を抜く事を覚えた。
授業という形式が自分に向いていない事に気付いたので、あらゆる授業をボイコットした。
点数になるため出席こそしていたが、袖からイヤホンを通して音楽を聴いていたり、携帯ゲーム機で遊んでいたりしていた。
大して頭のよくない学校だったので暗記さえすれば八割取れるようなテストだった。
それまで要領のいい人間に嫉妬していた反動で少し浮かれていたと思う。
調子に乗って効率を詰め過ぎた挙句、カンニングペーパーに手を染める。
二年次までは上手くやれていたが、指定校推薦が決まろうかという時期に知り合いでもない奴の密告によりパーになる。
結局普通に勉強してニッコマに受かる。ニッコマはバカなので暗記だけで受かる。一学年上の知的障碍者すら受験していた。
思えばここで立ち止まった方が良かった。
本当の意味で血肉になる能力がなんなのか、自分の頭で考えるべきだった。
親に言われるがまま、周囲の意見や世間の風潮などを余す事なく聞き入れ、ただノルマ的にスコアを出す事以外に喜びを見出せていなかったように思う。
大学の四年間はただ遊んだ。私文だったのでコピペと感想文だけで点数になった。
私文のおめでたい思考回路に染まっていたのでこれは何の意味もないクソみたいな教科学習を乗り越えたご褒美くらいに考えていた。
半年程度とは言え詰め込みで勉強した反動でもう勉強なんてしたくなかったため、公務員の勉強はしなかった。
論文を書かなくていいというただそれだけの理由で文芸創作のゼミに入った。
周囲と意識のレベルが違い過ぎて時々眩暈に見舞われたが、後になって考えてみるとただのワナビの群れだった。
就職活動はしなかった。
ただ気持ち悪いという一時の感情で参加すらせずに新卒チケットを破り捨てていた。
今にしてみると正気の沙汰とは思えない。
紆余曲折あり数年後、赤ちゃんレベルの社会性で何のスキルもない中古品として出荷された先はSIerだった。
そろそろ30になるが、マジで一体何のために生きてるのか分からない。
目的なんかないので、こんな箇条書きみたいな文章を書いてしまう。
こんな事を頼むのは筋違いだと思う。
誰か俺が何をしたかったのか解き明かしてくれ。
どうあればよかったのか。
これからどうすればいいのか。
誰か正解を教えてほしい。
アセクシャル(女)のTwitterアカウントを見ると漏れなく地獄で草。高確率で昔の彼氏ガーとかセクハラがーとか男ガーキイイイイイイとかやってる
いやそれアセクシャルじゃなくてただの性嫌悪やんけ・・・っていう
まぁわざわざTwitterで自分のセックスについて世界中に向けて発信しようって言うんだから、
LGBTQAに限らず、性に関する『強い怒り』or『強い喜び』が原動力になっているのは必然か
人のむちゃくちゃ多い東京に出る機会があったのでせっかくだからセクマイ交流に参加してみようかなと思ったけどなんか難しそうやな
あと人となりがわかって交流がしやすい?ってことなのかTwitterをベースにしてるの多いな
いやいや何が楽しくてTwitterで自分のセックスについて熱心に発信せなアカンねん
さっきも書いた通り、性に関する『強い怒り』or『強い喜び』があるか、ジェンダーにまつわる活動家じゃないと無理くない?
どうしてもTwitterでやるなら仕事の関係者に見せても大丈夫な『見せる様のネットの自分』を作ってそれに紐づけるかだな
最近、名刺やプロモーション代わりに見せる様のネットの自分があっても良いかなと思い始めている
けどインスタ映えみたいな事に時間を割くのって増田で無為に過ごす以上にどうなの?とも同時に思っている
増田はストレス解消や考えの整理に役立つけど、オンラインサロンみたいのでメシ食う心づもりがあるわけでもないのに
便利かどうかはわからないが、視覚的にはとりあえず新しく、手触り・操作感がいい、
見せる様の自分をゆるくげられるSNS作っても良いかなぁとぼんやり思ったり
マイノリティー向けに限定したSNS作ってもいいかなって一瞬思ったけど、昔作って運営してた時は手間ほど得るものはなかったので、
マイノリティーには限定せず、最初から人に見せていい自分でお願いする
あとメタバースな。1秒も関わってないけど見せる様ならうってつけな気はする
4年も前に別れて、今日やっと。
この石鹸を使い切るまでの4年間で、新しい彼氏もできて結婚もして、子供もできたっておかしくなかった。なにも無かった。自分の市場価値の低さをまざまざと見せつけられ無為に過ごした4年間。友人はやれ結婚やれ出産と、着実に人生のステージを上っていくのに。
元彼との出会いは大学だった。今から10年前。向こうからアタックされて付き合った。そこから卒業まで同棲していた。就職の際、勤務地を選べない職種だったので、遠距離も覚悟した。しかし、辞令が来るとお互いのオフィスが2駅の距離だと分かり運命だと笑い合った。当然就職してからも同棲した。落ち着いたら結婚もしたいとも言っていた。
ところが、彼の就職先はそこそこのブラックで、彼は1年と経たず辞めてしまった。いつもは明朗快活だった彼が、日々くたびれた顔で帰ってくる様子を見ていたから、辞めてくれてほっとした。
彼は一旦私のヒモになりつつ、再就職に向けて活動していた。数ヶ月後、彼は実家近くの役所を再就職先として選んだ。
いずれ実家を継ぐつもりらしい。それはよくある話だが、そこに私の意思確認などは無かった。彼に今後についての考えを尋ねると、私が数年後、彼の実家近くで起業するとのことだった。
私は会社も2年目になり忙しい日々を送っていた。一方彼は第二新卒、実家暮らし、役所勤め。前の職場とは比べ物にならないくらい余裕のある日々を送っているようだった。余裕があり過ぎて、そこで彼は他の女に浮気した。職場の女性だった。
私は慣れない忙しさに心身が堪えて、自分の暮らしが疎かになっていた。彼と一緒に資格を取ろうと言っていたが、正直勉強する体力も気力もなかった。当然ながら私は試験に落ち、彼は合格した。
「なんでそんなにだらしないの?」
「このままだとお前は駄目になる。だからお前のために別れよう。」
私はそこで初めて、彼が他の女にうつつを抜かしていたことを知った。いや浮気だろそれ。完全に事後報告じゃん。だらしないのどっちだよ。
彼の浮気は初犯ではない。私が就活であちこち駆け回って落ち込んでいたときにもやられた。そのとき彼はブラックに内定を貰って余裕綽々だった。
なぜその時点で別れなかったんだろう、許してしまったんだろう。もう二度としないと言ったから許したんだった。
そんなことを思い出している間に、電話で一方的に振られた。5年間の交際はこうして呆気なく終わった。そうして私のもとに残されたのは、彼が同棲解消の際に大量に置いていった固形石鹸だった。退職の際に配ろうとして余ったらしい。あと他にも色々彼の私物が置きっぱなしだったが、引き取りに来ることもしなかった。
それから4年。日頃は忘れたふりをして過ごしている。が、元彼は2、3日に一度必ず夢に出てくる。ものすごい未練だ。まだ好きなのではない。憎悪と怒りがいつまでも消えないのだ。
別れて良かったと心から思っている。
しかし当然のように浮気を正当化されたことや、私が振られた理由は納得がいかない。最後に会いに来ることを拒まれたのも意味が分からない。会いたいと泣きながら電話したが、「別れないと会わない」と言われた。意味が分からない。私から言わせれば、別れる為に会いに来るのが筋だと思う。浮気相手に乗り換えるんだから、向こうから率先して一発や二発くらい殴られに来るべきだ。
まだ許せない。自分勝手な元彼も許せないし、当時訳も分からずなし崩し的に破局を了承した自分も許せない。とはいえ、こんなしょうもない怒り、許せなくとも乗り越えるのが人生である。頭では分かっていてもそれができない。病的な執着で、こんなに陰湿な自分が惨めになる。元彼は浮気相手に乗り換えて正解だったと思う。
4年もあればどんな傷も癒えるだろう。でも時間が経つ“だけ”で解決する問題なんて無いのだと知った。私は4年間で一歩も前に進めなかった。写真や連絡先その他の物は全て処分したが、大量の石鹸は捨てられなかった。それで身体を洗い続けた。身体は清潔になったが、精神衛生は悪化した。石鹸にはなんの罪もないが、こういう小さなことで私は一々元彼への怒りを募らせていた。この4年の暮らしぶりを再確認させられた。
4年もあれば新しい彼氏もできて結婚もして、子供もできたっておかしくなかった。でも何もできなかった。
怒りだけが育った。市場価値がどうとかいう話ではなかった。どうしたらよかったんだろう。
こんなに感情が拗れるなら、元彼に会いに行って、顔の形が分からなくなるまで殴って、牢に入れられて4年と言わず数年過ごした方がマシだったのかもしれない。何もできなかったのは私の落ち度だ。
婚活するなら今がチャンス、お仕事的にも未経験で入れるのは(うちの業界だと)そろそろギリギリ。
私はそういうのに弱かった。
大学四年生のとき、新卒カードがいかに強いかネットで無限に思い知らされ私はダメになった。徹底的に無気力になった。食べるとき、トイレ行くとき以外はベッドに横たわっていた。ベッドに横たわっていて尚背中が痛くてしょうがなかった。心臓の裏が搾られるように苦しかった。私は、これが最初で最後の大勝負というプレッシャーに弱かった。新卒カードが大勝負?笑う人もいるかもしれないけど、私はとにかくそういうのに弱かった。
そして28歳になった。経歴はボロボロだ。3年仕事をしたあと2年無職をしていた。気付いたら28歳。陳腐な表現だ。気付いたら、なんて。毎日毎日365日24時間日々を歩んでいるのは私自身が知っているはずなのに。そしてその時間を無為に過ごしていることだって。
とにかく今がラストチャンスなんだと思った。28歳、再就職にするには悪くない年齢だ。婚活だって別に遅いわけじゃない。ベストな年齢。そりゃもっと早いなら早いほうがよかっただろうけど。だって来年には29になる。そしたらもっと不利だ。会社も結婚もめぐり合いだけど、そのめぐり合うための確率が低くなるのは明白だ。
2年無職やってて何言ってんだって感じだけど私はとにかく普通の人生を送りたい。中学生のころからずっと思っていた。普通の人になりたい。他人からみたらそこそこ普通の人になれていると思う、今は。内面はぐちゃぐちゃだけど。はりぼてでもいいから普通の人になりたい。人に見下されたくない。見下されない経歴の人間になりたい。その一心で生きている。その一心で生きているから、今、28歳は私にとって重要な歳で、そしてそれがプレッシャーで、押しつぶされそうになっていて、失踪しようと思った。アホみたいだ。自意識過剰な「見下されたくない」という気持ちから勝手にプレッシャーを感じ、そしてその結果最も見下される(そうか?)失踪という結末を選ぼうとしている。イカレてる。イカレてるよ。それは十分に分かってる。もう10年?も心療内科に通ってるんだ。私はメンヘラだ。メンヘラの使い方これで合ってるかわかんないけど。病名が何なのか知らないけど。ともかく処方された薬を飲んで、それでなんとか今までやってきたんだよ。でも今限界を感じてる。まあなんでこのタイミングなのかというと、明日初出勤だからなんだけど。ほら、くだらないでしょう?皆そう思うよ、きっと。わかってるんだよ。初出勤なんて皆緊張する。嫌になる。逃げ出したくなる。でもそれが嫌で失踪なんて言葉が過る人なんてそんなにいないでしょう。私はおかしいんだよ。どうにもならない。本当に。
失敗するのが怖い。怒られるのが怖い。邪険にされるのが怖い。評価が怖い。他人の目が怖い。
気にするなって言う奴の気が知れない。じゃあその気にしない方法を教えてほしい。薬でもいい。気にならなくなる薬。
慣れるって言う人もいる。前職、3年間、とうとう私は慣れなかった。他人の目、評価、怒られること。何にも慣れなかった。悪い職場じゃなかった。むしろいい方だったと思う。それでも辞めるのは私がおかしいからだ。
私がおかしいのは驚くべきことに親にも保障されている。何年前だろう。父親と喧嘩をした。喧嘩というか私がふっかけたというべきか。弟妹の教育方針(大学を休学するなら家から出ていけという旨だった)があまりにも理不尽に感じ、怒りをぶつけたというわけだ。長女としてやらなければいけないと感じていた。使命感ってやつだ。奮い立たされていた。まあそんな流れがあり、「死んでるべきだった」と言われた。私に対してだ。前後の文脈を補完すると、「私のようにメンタルが弱い人間は昔の時代だったら淘汰され死んでいた。だからお前も死んでいるべきだったんだ」ということだ。少なくとも私はそう受け取った。なんてひどいことを言うんだと思うが、今はその通りだと思う。「私のようにメンタルが弱い人間は昔の時代だったら淘汰され死んでいた」という部分もそうだし、後半もだ。私は死んでいるべきだったんだ。もっと早く。死ぬべきタイミングはいくらでもあったんだ。
私の家にはお金がある。お嬢様ってわけじゃないけど。お金で苦しんだことはない。ので、私が生きるのに困難を感じたときはそのお金で全部解決してきた。結果、(詳しくは知らないけど)膨大な金額が私に注がれている、と思う。少なくとも中学受験+留学4年キメてる時点で普通の人よりもかなりのお金が注がれているはずだ。
その結果がこれ?
大した職業にも就けず、2年無職をやった挙句にまだ逃げようとしている。不幸だよ、こんなのは。「親は子供が生きてるだけで幸せ」なんて言葉があるけどそりゃ死んでるよりは幸せだろうと思う。でも子供が賢いほうが、勤勉なほうが、良い子なほうが、年収高いほうが、顔がいいほうがもっと幸せなんじゃないか?これは幼い考えだろうか。私が子供を持ったことがないから。でも私は死んでるべきだと言われたんだ。1回きりだけど、確かに言われた。そして今私はその通りだと思っている。もっと早く死ぬべきだったとも思っている。だってそしたら無駄にお金を使わずに済んだでしょう?無駄遣いなんて、本当にもったいない。
ここまで死についてつらつら書いてきたけど死ぬ勇気はない。今のところ。今まで一番つらかったときだって死ぬ勇気はなかった。死ぬのは怖い。自殺者を尊敬するくらいだ。どうやったらこの恐怖を乗り越えられるんだろう?まあともかく、私に自殺する勇気は無く、でも今ここで生きていく勇気もないので失踪することにした。言うだけならタダだ。そうだ、これは妄想だ。失踪する妄想。タイトル詐欺でごめんね。
今、私の口座には貯金がある。250万。まとまった金額だと言えるだろう。何もせずに生きていけるかというと厳しいけれど、初期費用には十分だ。住みかは転々としたい。そういうサービスがある。空き家を利用した家のサブスクサービスだ。家は予約制らしく、予約がとれなければ野宿となる。その点が心配だ。私は貧弱だ。でも野宿には興味がある。10代の頃だったらさすがに危ないが、年齢を重ねた分性的な危険性は減るんじゃないだろうか。甘い考えなんだろうな。普通にホテルを取ろう。
転々とするとなると移動のためのお金も嵩むだろう。転々とする、は数か月とか半年とかのペースじゃない。数週間だ。下手すると1週間かも。連続で予約を取れるのがそれくらいの期間なのだ。実際、このサービスを利用している人は野宿することもあるらしいと記事で見た。
このへんのホテル代と移動費用が読めないのが懸念材料だ。やってみないとわからないというのは怖い。
食費は月1万とかに抑えられないだろうか。近所に安いスーパーがあるかないかが全てだな。昔独り暮らしをしていたときは1万円ちょいだった気がする。安いスーパーもあったし、相当倹約していた。ともかく働きたくなかったのだ。
光熱費、インターネット代はサブスク代に入っている。これに家賃込みで月4万。私は安いと思う。それに食費1.5を足して、雑費2万(今もこれくらい毎月出費してる)、予備費1万。月8.5万。うーん……。30ヵ月は遊んで暮らせる。減っていく貯金に発狂しなければ。するだろうな。この無職だった2年、お金が減っていくたびに陰鬱な気分になっていっていた。100万切ったら死んじゃうんじゃないか?
でも住む場所を転々とするから仕事には就けない。まあそもそも就きたくないという話なんだけど……。
働きたくない、貯金を切り崩したくない。そうなるとそもそも実家を出ないのが大正解となる。2年無職をした結果、私は1年で25万円しか使わないことがわかった。尚家にお金は入れていない。入れたことはない。この理屈でいくと私はあと10年は家でぬくぬく暮らしていけることになる。まあ無理だけど…多分追い出されるけど…。いや、そもそも無理なんだ。”他人に見下されないために生きている”私は、無職という職業名(これ職業名か?)に耐えられない。耐えられないから、今、明日から、仕事を始めるんだ。
他人に見下されたくないから仕事をしたい、でも仕事をすると精神を病むから辞めたい、辞めたら見下されている気がするから辛い。見下されているというのはちょっと違うかな。「普通じゃなくなるから」。私は「普通であること」に固執しているんだ。結果、どんな生き方でも私はしんどい。普通になりたい。普通に。
辛い。辛いよ。誰かに救われたい。救ってほしい。でもそんな人間はいないんだよ。こういうのには大抵「理解のある彼くん」とかいうのがいるらしいけどいない。いたとしてもそんなものは健全じゃない。対等じゃないよな、そんな関係って。一方が救って一方が救われるだけなんて関係性は。歪んだ関係性ってのは支配欲が出てくるとめちゃくちゃ不健全になる。両親がそんな感じだから身をもって知っている。だから誰だって自分を救えるのは自分だけだ。もっと言うと、自分の中の「普通であることに執着する部分」を取り除かないといけないんだ、きっと。多分。いやもしかしたらこれは取り外したらいけない部分で、「働くのがつらい」とか「他人の目が気になる」とかそういう部分を取り外すべきなのかもだけど。ともかく自分で自分を変えるべきなんだ。医療機関とかそういうのの手を借りて。でももう十分それをやっているつもりだよ。ちゃんと通院してるし。これ以上どうしたらいいのかわからない。助かりたい。助かりたいよ。救われたい。助けてほしい。誰でもいいなんて言わないけど。誰か。辛いよ。
全く死ぬ気はないし、私はたぶん自殺しないと思う。そういう部分で他人の気を引けないのを残念だと思う(こういうところ、本気で自分はメンヘラ気質だなと思う)。
でも辛い。辛い、ので、誰か助けてください。医者なんだと思うんだけど、今のお医者さんは診察30秒で終わらせて薬も前回と同じですを繰り返す人で、それで私は救われてない。それで救われるなら正しい診察なんだろうけど私はそうなってない。助けてください。苦しいよ。苦しい。
思ったんだけど男の人ってこんなメンヘラ長文書かないよね。私が見えないところで書いてるのか?脳の構造が根本から違うんだろうか。羨ましいよ。こんな苦痛を感じなくて済むってのは。いや、性別の問題じゃないか。私の問題だ。私とそれ以外の人たちの。私と、普通に生きれている人たちの。こういう言い方も失礼か。普通に生きてるように見えて頑張っている人たちだって沢山いるし普通に生きれずに頑張ってる人だっている。私は頑張れてない。生きてるだけ。
ところで私は今は名古屋に住んでいる。どう書こうか悩んでるんだけど(そしてこれがはてな的にOKなのかわからないけれど)誰か私に会ってくれない?お茶代くらいなら奢るよ。誰でもいいとは言わないけど。この文章見て私に興味を持った人がいれば私の話相手になってほしい。この狂気をこの身体に押し込めておくのはもう無理っぽいから。うーんダメだな、どう書いても詐欺っぽい。どうだろう、美人局っぽくもある?私としても一生懸命書いた文章の最後にこんなこと書きたくないんだよ。読後感最悪でしょう?時間使って頭使って気力使って書いた文章を読んでくれた人にさ、なんだ出会い厨かよ死ねやなんて思って欲しくはないんだよ、ないんだけどさ、それくらい切羽詰まってるわけ。こっちは。メールアドレス乗っけとくから。gepefosu@choco.laね。多分1週間もしたらチェックしなくなると思う。待ち合わせは名古屋駅で。性別問わず。こう書いてると本当に出会い系みたいで嫌になるな。マッチングアプリでもやればなんて言う人も出てくると思うから書いておくね、無理だった。会うまでのやりとりがしんどくて返信できなかった。
なかなかいい文章を書けたと思ったのにこんな終わりかたになるなんて最悪だな。まあ私は最悪だからいいか。もうどうでも。メールだってきっと来ないでしょ、来ないなら出会い厨してるとこ全部消したいけど。でももしかしたら来るかもって思うと消せないよね。それで毎回0件の受信箱を見るんだ。私にお似合いだよ。こんな文章を書いたところで人生は変わらないし、私に会う人なんていないし、メールだって。人生は変わらない。一生このまま。
感染者の情報登録がボトルネックとなってそこかしこが破綻するのは全くもって好ましくなく、全感染者の詳細な情報登録を取りやめるのは妥当だろう。一方で、感染者数の把握を引き続き行うことにしたことは評価できる。陽性率が異常に高くなっている現在、捕捉感染者数が実感染者数から相当乖離していると推測されるが、それでもなお、感染者数は感染状況の把握や統計学的検証に有用であると考えている。特に波の真っ只中で数の基準を変えることは、そのような検証を無為にしかねず、数の把握を維持したのは妥当だ。
今回の全数把握の緩和は妥当であると考えているものの、これはやむを得ずそうせざるを得なくなったという前提での妥当であって、そこに至った経緯は全く評価できない。まず、この変更が、状況がいよいよまずくなってきてから議論され実行されていることだ。こういうのは落ち着いているときに話をすべきであって、逼迫してから急いで変えると無駄な過ちを犯しかねない。現に、都道府県への「丸投げ」が問題とされているが、これは結局、何のために情報登録をしていたのか、そして何故今やめることができるのか、そこが曖昧なまま、ただ逼迫しているからやめたという短絡的な対応をしていることの現れだろう。
また、同じように全数把握を行っている韓国は、日本よりもはるかに多くの感染者数を出しながら破綻していない。マイナンバーや医療機関のデジタル化など広範に渡る政治的問題だが、なぜ韓国のようにできなかったかは省みられるべきだろう。
リスク低減の観点からは水際対策を続行するのが好ましいが、諸外国とのバランスや、日本国内で感染拡大している現状を考えれば、この施策の合理性を見出すのがいよいよ難しくなってきており、やむを得ないだろう。ただし、今後も変異株の可能性は消えず、どういった条件でどのように水際対策を復活させるかはあらかじめ決めておくべきだろう。
ウイルスの流入を防ぐという目的に立てば、検査免除の対象をワクチン3回目(以上)接種者に限定しているのは意味不明である。オミクロン株に対して、現在使用されているワクチンの感染予防効果は数か月で急速に低減する。2回目以降のワクチン接種後の期間を指定するのであればまだしも、3回目以上とするのは合理的ではない。一気に緩和したくないので、クッションを設けたかったのかもしれないが、理由が立たない規制はすべきではない。これもまた全数把握と同じく、施策の目的が曖昧になってしまっている。
これはまだ決まった話ではないが、感染者の隔離期間短縮が検討されている。現在の10日間という期間は感染者の感染性(発症後ウイルス量)の検証結果から決められた値で、これを短縮するのは明確にリスクを増加させるものである。またもや同じような話になるが、「社会が成り立たないので、短くします」という短絡的な判断があってはならない。短縮するのであれば、リスクを評価した上で国民に提示し、明確な目的を持った上で実行すべきだ。
学生時代勉強は程々になんとなくで短大に入り、卒業した後は転職すること無く、大学の先生に進められて入った中堅メーカーの営業所でずっと営業事務をしている
残業は無いから定時後は即家路につき、夜は母親のご飯を食べたあとはダラダラNetflixを観ながら過ごすだけで無為な毎日を反復している
20代の頃は同じ独身の友達とランチや夜ご飯に行ったりしたものだが、
歳を重ねるにつね周りの友人も結婚し始め、今はもう遊びに声をかけてくれる人もいなくなった
仕事では中堅メーカーの営業所レベルなので事務の女性は欠員が生じない限り採用はせず、入社してから誰も辞めなかったため事務の中では私がずっと一番下だ
入社当時からの先輩・大先輩も同じフロアにいるが、私と同じでみんな実家暮らしの独身には変わりない
昔はお昼休憩のときに事務同士で少しは会話があったかと思うが、時が経つにつれて自然と会話がなくなり、誰が何しているとかもう知る由もない
仕事場の男性は全国転勤ありで、各地から営業所に配属されている
でもみんな各々家庭を作っており、先週は2年前に配属されたばかりの新人君が朝礼で結婚報告をしていた
仕事でもプライベートでも、歳を重ねるごとに孤立感を感じて心が段々と締め付けられていくのを感じる
普通の人は進んでいくのに、私はマスの無いすごろくで無意味に止まれを繰り返している気がする
かといって特に何をするとかは考えていない
私はこれまでのように誰かが私の人生を進めてくれる、流してくれるのを期待しているのかもしれない
努力を質や成果に転換することは非常に重要で、それが無い努力には基本的には意味がない。
それは厳然とした絶対事実であって、我々はその事実を厳粛に受け止めなければならない。質に転換することのない無為な努力に対して、我々は常に自戒しなければならない。
しかし具体的にどうすれば努力が質なり成果なりに転換するのかと言うと難しい。努力の転換、あるいは変換、その神秘さえ分かれば我々は今いる場所よりもずっと遠くに行けることに間違いはないのだけれど。
技術的特異点という言葉はSFの筋書にのみ使われるのではなく、現代において現実味を帯びて語られている言葉でもある。AIが自分よりも優れたAIを無際限に産出し続ける状態へと移行すること、これが技術的特異点である。これが実現すると、AIは無際限に進歩を遂げることとなり、その高度さは到底人間の及ぶところではなくなる。
努力的特異点というものがあるとすれば、恐らくそれは、努力が努力の質に対して向けられ、無際限に努力の質が進歩していくあるポイントのことを指すのだろう。努力を続けることによって、努力の質自体をより良質なものへと転換していくことのできる努力。そんなものがあると良いのだけれど。そんなものが本当に存在するのだろうか。
逆に考えてみよう。短期的に効果はあるかもしれないが、やればやるほど努力の質を下げていくタイプの努力。そういうマイナスの努力というものは実際に存在する。例えば、過度にカフェインを飲んで集中力を高めた状態で何らかの目的に取り組むこと。時にこういう努力は短期的な成果に繋がるけれど、一方でカフェインによって酷使された肝臓やら副腎やらは徐々に彼の努力の足かせとなっていく。つまり、これは努力の質を下げるタイプの努力であると言えよう。このような努力によっては、努力的特異点に到達することは夢のまた夢である。
逆に、努力の質を上昇させる努力というものが存在しているとすれば、それはどんなものであろうか。そして実際に存在し得るのであろうか。
結論から言えば、そのような努力は恐らくは存在している。つまり、先程の努力の逆を考えてみれば良い。体の状態を悪化させる一種の薬剤やサプリメントとは逆に、身体の状態を良くする栄養価の高い食事や深い睡眠、好ましい人間との有意味な会話、適度な運動、適度なストレス、そういったものが人間の努力の質を高めることには論を待たない。こういう努力は、努力の質を漸進させる努力、人を努力的特異点へと誘なっていく努力であると言って相違ないだろう。
とは言え、そのような努力はあくまで補助的であり、また、そのような努力によって漸進される努力の質にも限界はある。そういう意味で、もっと質の高い、努力の質を高めるための努力が必要になっている。
最近分かってきたのだけど、この「努力の質を高める努力」に有力なのは、「脳のモードを切り替えること」だと気付いた(気がする)。
脳のモードを切り替えるというのはどういうことかと言うと、例えば、ある時に文章を書いている。文章に集中することによって、その文章を書いている人間の脳味噌は文章モードへとシフトしている。そのようなモードは、きっと人間が料理モードに入っている時とは異なっているはずだ。
このように、とある事柄に対して集中し、ある種の「モード」へと入り、然る後に、例えば絵を描くことなり将棋の棋書を読むことなりといった別の「モード」へと、脳を切り替えること。
こういう努力の仕方が、恐らくは努力の質を大きく高めることへと繋がっていくのである。と最近になって感じた次第である。
ちょっと話は変わるが、漫画『おおきく振りかぶって』にて、野球選手の故障について語られるシーンがある。野球選手の故障は何故起きるのか、また、どのようにして防ぐことができるのか、という重要な質問に対して、作中で以下のように語られている。
つまり、野球選手は左右の筋肉のバランスが崩れがちであることが、故障の原因なのではなかろうか、と作中では結論されていたのである。
例えば、右投げのピッチャーは当然右腕を酷使する。その結果、左右の筋肉の配置のバランス、あるいは骨格の配置のバランスが、非対称になる。筋肉や骨格のバランスが崩れる。
本作によれば、このバランスが崩れた状態こそが、選手の故障を招きやすい状態であり、少なからず故障の原因となりうる状態なのである。
そのため、右投げの選手は左右の腕に同様のトレーニングを、左右対称的に施すことによって、筋肉の対称性とバランスを保ち、故障を予防することができるのではないか、と作中では仮説が述べられていた。
例えば、テニス選手は野球選手同様に手足を酷使するが、バックハンドとフォアハンド双方の筋肉を鍛えるため、バランス良く筋肉が育ち、故障しにくい対称的な骨格と筋肉を手に入れることができるのである――とも作中では述べられていた。
当然ながら、あくまでこの「左右のバランスを保つことによって故障を回避できる」という説は仮説に過ぎず、検証が必要な仮説であり、すぐに信用することはできない。
とは言えこの仮説においてポイントとなるのは、ある行為をする際に、直接的に使う筋肉以外の筋肉を育てておくことが、時に重要になるのではないか、という主張である。右投げの投手が主に使う筋肉以外の筋肉、例えば左腕の筋肉が、右投げの選手の身体運動において補助的な効果を発揮するのではないか――それも、好意的な効果を発揮するのではないか――という主張。大元の仮説の当否には怪しいものがあったとしても、このような主張は興味深く、特筆に値するポイントであるように思われる。
それを踏まえた上で、話を元へと戻す。
つまり、脳のモードを切り替えて、様々な脳のモードを鍛えることによって、ある物事に集中する際に際立って用いられる脳の部分『以外の』部分も鍛えられ、そのような努力によって、例えば文章を書く際に際立って活性化される脳の部分『以外』の部分についても鍛えることができ、そのような一見直接的に関係なく連関の無い脳の鍛え方が、却って補助的に、ある分野の知的活動に寄与するのではないかということなのである。つまり、文章を上達させたいのであれば、愚直に文章だけを書き続けるのではなく、様々な別分野の努力をすることで、様々な脳のモードを鍛え上げ、文章を書く際の補助的な効果を促進していくことが重要なのではないか、ということなのである。
かつて俗説で、人間は生涯において脳の三割程度の能力しか用いていない、というものがあった。このような俗説は現在否定されているが、翻って、脳はどんな行動をするにせよ『全体的に』用いられるものなのだ、という主張を導くことができるだろう。つまり、文章を書く際に活性化する脳の部位以外の部分も、文章を書く際にはある程度使用されている。となれば、このような部分について鍛えるために、例えば文章を書く以外の努力をすることが有力なのではないか、ということを私は言いたいのである。
絵を描く時には、恐らく脳の中には際立って活性化する部位があり、あるいは将棋やチェスを指す際にも、恐らく絵を描くために活性化する部位とはまた異なって活性化する部位が存在することになるだろう。そうだとすれば、様々な努力のモードを体験することは、脳の様々な部位を活性化させることに繋がる。したがって(あるいは翻って)、そのような様々な部位を活性化させる努力は、絵を描くことでもなく、将棋やチェスを指すことでもない別の行為をする際に、補助的な役割を果たすのではないか、ということなのである。
色々なことに集中して、モードを切り替える努力が、脳の成長には欠かせないのではあるまいか。それらの努力こそが、我らが努力的特異点に寄与する努力ということになるのではあるまいか。
親が居て、兄弟が居て、友人が居て、恋人がいる。壁越しに隣人の音が聞こえて、定期的に仕事のミーティングがあり、メッセージに返信しないと心配される。
逃げられないような気がしていた。どれだけ一人になりたいと思っても、わたしは孤独にはなれない。コンビニで店員から袋を受け取るときや、自分の Twitter のプロフィールがまだ存在することを確認するとき、「わたしという何かしら」への視線がまだそこにあることを感じ、一人になれていないなと肩身狭く感じてうすら笑いを浮かべる。それが唯一の生きる術のように感じて。
その日の夜、わたしは洗濯機が布団カバーを乾かし切るのを待っていた。2万円で購入した乾燥機能付き縦型洗濯機は乾燥こそできるものの異様に時間がかかり、わたしはその日深夜2時まで待たされることが確定していた。分かっていてどうして夕方に洗濯を始めてしまったのかは自分でも謎で普通に後悔していたけど、始めてしまった以上待つほかないのでひたすらに待っていた。洗濯機のあるリビングは音がうるさく湿気もすごいので自室にこもり、何をするでもなく。
いつの間にか絨毯の上で寝ていたようで、背中にじっとりした汗を感じて目が覚めた。クーラーを強めてから、頭の上にあったスマホに手を伸ばして時刻を確認すると1時を回った頃。確かにまだ洗濯機の音も続いている。起き上がって、無為に時間を過ごしても仕方ない、なにかすることはないかとぼんやり考えた。そういえば大家さんに連絡するのを忘れていた。窓の木枠に虫が湧いているのを言っておかなければならなかった。明日起きたらやろう。明日はほかに何かすることはあったか。友人が家に来るんだった。その友人にさっきメッセージを送ったけど返信は来たかな… そういうとりとめのないことを、暗闇の中で一人考えているうちに、ふと、孤独はここにあった、と思った。
孤独を求めるわたしは、つまり自由を求めていた。他者の視線から逃れ、自身の「こうありたい」の理想像から逃れ、着の身着のまま、身体の赴くままに生きたいという欲求だった。洗濯機に寝る時刻を縛られ、いつもは起きていないイレギュラーな時間の暗闇に体を預けたわたしは、つかの間、「こうありたい」の像が無かった。そのときわたしが起きているとは他の誰にも想定できる事態ではなかった。わたし自身でさえ予期せぬものだった。だからわたしはつかの間孤独になれた。予期せぬ自由に、一人で着の身着のまま放り出されるという不条理感によって。