はてなキーワード: 浄土真宗とは
こんにちは。この間と同じ方ですね。
の4要素を訴える運動のことと書いてありましたが、そこに非宗教を唱える方も現れてきている、ということなのでしょうか。
いずれにしても、これらはすべて、個人の尊厳を取り戻すために、これまで社会の(暗黙的ないし強制的)要請によって様々な形で抑圧され虐げられてきた方々の悲痛な叫びとして表れた動きだと受け止めています。
古今東西、あらゆる宗教が女性差別的思想の醸成に一役買ってきた歴史があることは私も理解しています。
日本においては、神社神道は現代でも女性差別的な側面は変わっていませんし、伝統仏教の各宗派も長きにわたって女性差別を繰り返してきました。各所各山で自浄・改善の動きが少しずつ見受けられるようになったとは言え、理想にはまだまだ程遠いのが現実です。大変に嘆かわしいことです。
お尋ねの件についてですが、信仰の自由は守られて然るべきですから、私は彼女たちの願いそれ自体は悲しみと共にうなずきます。やはりそこには、宗教を否定・拒絶するだけの動機があるのです。おそらく宗教によって何らかの理不尽や痛苦を味わわされた経験が根底にはあるはずです。
しかし、何事も行き過ぎるとかえってよくない結果をもたらします。極端な行動で解決するということは、往々にしてないのです。お釈迦さまが右でも左でもなく中道を歩めと仰せになったのも、こうした話にも通じると思います。
彼女たちが「宗教に属さない」、「自分のことは自分で決める」、と決意することは素晴らしいことです。自分の尊厳を守るための大切な選択だと思います。ただし、その思いが行き過ぎた場合、彼女たちが次に取る行動は、
ということです。自分たちの在り方が正しいと信じれば、そうではない人間が正しくないと信じるのが私たちです(これは僧侶にも言える難しい問題です)。そうすれば、差別され苦しめられてきた側の人間が、また別の人間の新たな苦しみを生み出すことにもなりかねません。それだけは互いに避けねばならないでしょう。
あの人は信じてる、自分は信じない、でも仲良し。そういう、違いを乗り越えて出会える道を、女性も男性も性的マイノリティも関係なく共に探ってゆかなければ、そこにはただの断絶と分断、怒りと憎しみしか待ち受けていません。そもそも、彼女たちがこうした運動を起こさざるを得なくなるような社会通念を生み出した不特定多数を変えない限り、問題はそうそう容易くは解決しないと思います。
このことは誰もが、ゆめゆめ肝に銘じなければならないでしょう。
現代の人々にとって、「宗教」という言葉の持つ意味合いがあまりに変容してしまったことを第一に考えねばならないのではないかと、日頃から感じております。
私がこうした事象について何よりも訴えたいのは、
すべての宗教は、その時その時の時代背景・社会構造の中でたびたび利用されてきました。そのために大切な教えまで歪められることさえありました。日本においてもイスラムにおいても、家父長制とうまく融合させて、男性優位の支配構造を作ってきたのです。これは宗教が求める人間の姿ではありません。宗教という、ある種神秘の領域を振りかざすことで、精神の内外から強烈な規範となって人々(特に女性)を抑え付けてきたのです。それを行ってきたのは“人間”(特に男性)です。
この“人間”をどうにかしない限り、私たちは未来永劫救われることはないという教えを私は信順しています。見渡せば、その通りとしか思えない世界が広がっているからです。
いささか乱雑な論述になってしまいましたが、これが私の思うところです。
合掌
浄土真宗の僧侶です。増田さんの投稿に私自身感ずるところがあったので、少しお話させてください。
私の敬愛する大正時代の求道者が、このような詩を書かれています。
一見すると取るに足らない、なんとも味気ない散文のような詩ですが、今の増田さんならば、この詩が言わんとすることが響くのではないでしょうか。
私たち人間はみな、快適さや便利さを求めて世代を重ねてきました。快適さや便利さのその先に、幸福が待っていると信じてきたからです。逆に考えれば、不快と不便は不幸である、と信じてきたとも言えるでしょう。
そしてその結果、先人の努力によって築かれてきたテクノロジー・システムがもたらす恩恵の中で、得体のしれない窮屈さ、居心地の悪さを感じる人が現れ始めています。ちょうど増田さんがそうであるように。
これは一体どういうことなのでしょうか。
ここで例を挙げて考えてみましょう。
お腹が空くのはつらいからいつでもどこでもご飯が食べられるようになりたい、暑さや寒さはつらいからいつでもどこでも涼しく暖かく過ごせるようになりたい、誰かと離れてしまうのはつらいからいつでもどこでも顔が見れたり声が聞けるようになりたい、分からないことだらけなのはつらいからいつでもどこでも自分の求める情報を得られるようになりたい、……。
人間としてのシンプルな欲求をいくつかざっと書いてみました。これらの欲求がことごとく叶い、望んだ通りの社会が出来上がっていることは、誰でも理解できますね。
では、そうして一体、どれだけの人が幸せになったでしょうか。社会のほとんどの人がこのような環境に恵まれた今、どれだけの人が自分の人生・自分の所在をよろこべているでしょうか。
増田さんはきっと、ご自分の所在をよろこべずにいるのですよね。情報社会に溢れかえる、無数の「正しさ」と「間違い」の中で、振り回されてしまう自分と生活を考えた時、途方に暮れてしまうのですよね。
それは人として正常な反応です。あなたは自分の「ほんとう」を求めているからこそ、今迷っているのです。戸惑っているのです。
これは、「たとえ八万冊にも及ぶ膨大なお経(真実の教え)を情報・知識として学んだところで、その教えに全身でうなずき、心から満たされて生きて死んでゆけないのならば、その人は救われない」といった意味の言葉です(大意)。
事実として、TwitterだのYahooコメントだの、ここはてなにも、こうした人がたくさんおられますね。出どころのわからない正しさや間違いを頼りに、「自分こそが正しい」と言わんばかりに、ああでもないこうでもないと罵り合う方々が。そうした振る舞いをする必要が彼らにあるということは、知識(ないし価値観)の是非を巡って他者と争い合うのが、よりよい人生を送り、よりよい最期を迎えられるための手段なのでしょうか。だとすれば、彼らはそれが自分の幸福を手繰り寄せるための必然的行動だと信じているということになります。
そしてその中の、どれだけの人が、本当に満ち足りて生きているというのでしょうか。
その気になれば増田さんも、ありとあらゆる宗教・自己啓発・ライフハックにたどり着くことは可能です。可能な社会を私たち自身が望んだからです。その中には、ご自分にふさわしいと感じる教えや“手立て”が見つかることもあるでしょう。そうして増田さんが憂いや窮屈さから解放されて生きてゆけるのなら、素敵なことだと思います。
ですが、人生の苦悩は、人生の悲哀は、自分でも思ってもみないようなところから、ふいに沸き起こってきます。中でも代表的な苦しみが、“後悔”です。この苦しみには、過去幾千年と人類のほとんどがのたうち回ってきました。私も、増田さんも、これを読む方も、私たちの知らない誰かも、みな、一度や二度ならず後悔の責め苦にあえいでいます。
この後悔を消すためには、どうしたらいいのか。検索してみたとして、本当に答えは得られるのだろうか。一度は「そうかも知れない」とうなずいた後で、実は違っていたなんてことにはならないだろうか。自分とは相容れない、訳の分からない理屈で生きている人のためだけの“正解”を見せつけられるだけで、結局は打ちひしがれる未来が待っているのではないだろうか……。様々な疑念やおそれが次から次へと頭に浮かんで、調べるという一歩さえも、踏みとどまってはしまいませんか。
もしもその通りなら、ここで視点を一つ変えてみませんか。あなたの感じてきた窮屈さ・居心地の悪さ・疑念や戸惑い、そして後悔。
すべてはその対義語を求めているからこそ、生まれる感情なのです。増田さんは後悔のない人生、情報に振り回されず自分らしくのびのびと生きてゆける社会や人生を求めているからこそ、この悩みが生まれたのです。それは他でもない、あなた自身の内に眠っていた大切な願いです。あなたがあなたをよりよく生きるために必要なこととして、あなたの毎日に満を持して現れた“問い”なのです。
あなたにとって今目障りでしかない、早く消えてほしいとさえ思うであろうその悩みは、あなたにとって本当に要らないものでしょうか。どうしようもなく邪魔で煩わしいものでしょうか。私は、そうは思いません。
最後に一つ、私が心から尊んでいる、親鸞さまのお言葉を紹介したいと思います。
「後悔のない人生」を生きようとするのではなく、「後悔すらもよろこべる人生」を生きることがもしもできるのなら、私はそういう人生の方が素晴らしいのではないだろうか、と思って毎日をいただいています。
増田さんを悩ませ苦しめていることが、いつかあなたのよろこびと変わる日が来ますように。
合掌
あなたが宗教を嘘だと思うのなら、あなたにとっては正しいのでしょう。揺るぎのない事実なのでしょう。その疑いがあなたの中から湧いてきただけの理由が、あなたの人生にはあったのでしょうから。
そしてその原因を作ったのが、他でもない宗教者たちだということもあるはずです。もしかしたら私自身も、今回の投稿によって、誰かにより疑いを深めさせる結果を招いてしまったかも知れない、とも考えております。
あなたが宗教を嘘だと思うことで、あなたが安心し、宗教に頼らず生きてゆけるのなら、それも一つの生き方です。あなたの正解です。個人の思想・信条の自由は憲法でも保障されていますし、宗教の名のもとに世間を騒がせ他者の弱みに漬け込む人間に比べれば、特段誰かに迷惑を掛けるものではないでしょう。
私はかつて、浄土真宗の教えなどなくても生きてゆける、宗教なんてろくなもんじゃない、宗教者たちなど仏の仮面を被った鬼の集まり……そのように考えて生きて参りました。皮肉なことに、誰よりも宗教を否定してきた私が、宗教によって救われていったのです。
案外に些細なことで、人の心はいかようにも変わっていくのだということを私は知りました。憎しみや侮蔑の対象が詫びと感謝の対象に変わるよろこびとかたじけなさを知りました。
そしてそれは、ひょっとすると他の方々もそうなのではないか、とも思いました。
ですから、無理に「宗教は嘘だ」と思い込む必要もありませんし、無理に「宗教こそ人生を救う最良の手立てだ」と思い込む必要もありません。縁がなければ自分には所詮その程度のもの、縁があれば自分にも意味をなすもの……それぐらいの気構えでいいのです。肩肘張って頑なな心で世界に臨んでも、かえって息が詰まり、苦しくなるだけです。
あなたはそのままのあなたでいてください。ご自分だけの正解と幸せを追い求めてください。そうしてあなたが自分も他者も、喜びの中歩んでゆければ、とても素晴らしいことです。
そしてもしも、「それでも駄目だった」、「自分の信じた幸せのためにたくさん頑張ってみたけどやっぱり違っていた」、「もうどうしたらいいか分からない」。
そんな苦しみにつまずき、膝から崩れ落ちる日が来てしまった時。
そんな方にも開かれてくる世界、両の手を広げて待ち受ける世界があるのだということを、なんとなくでも構いませんから、覚えていていただければ、私はとてもうれしいです。
あなたの素直な気持ちを私に聞かせてくださって、ありがとうございます。宗教を嘘だと思う(、あるいは嘘だと思いたい)あなたの幸せをも、私は願っています。
合掌
ニュースの中では、事件事故などで誰かが死ぬという不幸な項目もあるが、
それを見て述べる「かわいそうだね」という素朴な私の言葉に対し、
親は「それはその人の運命だから」と言って、憐れみを示すことはなかった。
いわく、人間の不幸はその人の運命なのだから、かわいそうなことではない。
その人が受けるべき運命を受けるだけだから、他人には仕方のないことなのであって、
それは誰かが助ける対象ではない。その人自身がなんとかすべきである、とのことだそうだ。
どうやら、被害者が何も悪いことをしていなくても、その人が存在している「運命」そのものが不幸の原因であるようなのだ。
親のこのような発想は、被害者への共感を削ぎ、それこそ新たな不幸の発生源に成りうる
と思うのだが、どうすれば変えることができるのだろう。
誰も悪くなくても、「運命」でなくとも、不幸は発生しうることをどうやって示せば理解してもらえるのだろう。
(そうだ。あの浄土真宗の増田にでも質問してみればよかったが、ピークが過ぎたのでトラバしてももう無理だろな。)
ちなみに、「運命」とは言っているが、うちの母親は特定の宗教観を持つわけではなかったので、
おそらく、自分の不幸が結局救われなかった辛い経験があり、それを宗教的理路とは関係なく、
今一度、お付き合いいただければと思います。
まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わず、ブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからからに渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。
「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」
「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」
とコメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います。
お祖父様の生前のご希望・ご親族のわだかまり・元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。
一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります。
たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。
しかし同時に、私が一方的にご親族を非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。
元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗の教義や宗旨そのものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております。
身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体と言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。
今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。
ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。
そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないかと検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。
また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います。
お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。
合掌
お釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、
と仰せになりました。
お釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実 = 悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。
100人いれば100通りのものの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事をねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。
信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。
信じてくださった方には、
とお伝えしたく思います。
法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。
どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。
という言葉を遺しておられます。理想的とはいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法は平等に一切に施されるべきなのです。
これは浄土真宗の三大経典のひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子の阿難(あなん)に対して、
と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております。
我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています。
さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。
たとえば、もしもあなたが、
「世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」
と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?
「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)」
「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね」
と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?
我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。
世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門の尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通の人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗の僧侶なのです。
という言葉で表され、また
と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。
であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。
ありがとうございます。しかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。
もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間と人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議な現象は、なぜ起きたのでしょうか。
今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり、私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。
すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています。
私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています。
と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対の事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき、今日まで生かされております。この歓喜と慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます。
真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります。南無阿弥陀仏。
件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。
「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」
と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。
結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏。
現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います。
準備ができ次第、こちらの投稿に言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。
最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれるきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます。
私増田は、僧侶増田と同じく真宗宗派(浄土真宗の中でも、さらに宗派がいろいろあるよ、という意)なので、僧侶増田の説法には一定の理解をしています。
それと同じぐらいの意味で、もし増田が真宗宗派じゃないとしたら、違和感を持って当然だと思います。
私増田の思うところ、増田が指摘することは「だって、宗教だもの」、そして、「浄土真宗だもの」という話に収斂すると考えています。
悪人正機説という、真宗宗派ではよく説かれる話にもつながります。
ご縁があって、救われると思えば救われます。
そのご縁につながらなかったり、またはご縁をないがしろにしては、救われるものも救われません。
それが「浄土真宗だもの」と感じるところであり、その説法によって救われたいと願う人を惹きつけるからこそ「だって、宗教だもの」であり「浄土真宗だもの」と、私増田は感じています。
何かを重ねて見知ったような物言いですが
・言い換えてみた
・価値観は人それぞれ
・事を知れ
発言した委細を言葉として取り合うために話すことではないので文中にあるとかないとかで言った言わないは勘弁してください
まず最初に名乗りをあげている身上ですが、これは何か必要あることでしょうか
何教徒のどんな立場であるかを相手に告げて言説になにかの意味を含ませようとするのはその言葉が立場によっては意味がない言葉であるということでしょうか
乞食に化けた聖人は乞食が行ったことであるので聖人のそれとは関係がないはずだとするならばそれはその価値観をお持ちであることについて理解できます
物乞いに施しをする姿をみて聖人がとされない理由は何でしょうか
次に事例を引用するにあたって出典を前述の教養からとしやすくしただけであれば自ずと宗教関係の事例を挙げてこられると思います
過去の事例からして正しい行いをしたと評価してあげるために何かしら評価にまつわる根拠のない話をいくつかされていますが意味があるというその意味が何であるか宗教を出した上でされているのだからご自身の範疇でその評価をしてさしあげるのが道理ではないでしょうか
それぞれ個人の何か大切なものを見つけていけるし見つけていってください と突き放すのではそれを支えるべく教えを用意しているはずの宗教の救済の意味がすべて喪失していませんか
当人個人の判断で自身を救えるのならば初めからそんな長い話を聞かせて要点が何点ありどうすべきで基準のそれを「基準」と呼んでいるそれは何なのかひけらかす必要はないでしょう
相手に情報を押し付けることについてのみ思考されているため視点が抜けているように見えます
相手に選択肢の存在を示すのであれば自らの身上を述べ参考にしてもらうだけで充分ではないでしょうか 自分が信じているものや自分を信じてもらえたら出来ること等あるはずです
最後にいろんな方の心の内を勝手に想定してイタコをされていますがどのような宗教でどんな戒律があればそのような事が行えるのでしょうか
生きている人の本音を霊体を呼び寄せて聞くという宗教もあるかもしれませんがそれでしょうか
少なくとも浄土真宗は死者の例を呼び寄せ思考を読み代弁できるという能力が存在したという話はないと思いますがこれはもの知らずの浅知恵でしたでしょうか
仏教というものに僅かでも関わり僧侶という立場にあるのだとしたら頭をまるめ結婚をせず肉食を控え私財を蓄えず物を乞うて生きるの意味くらいは深くご理解があるかと思います
そもそもそのための組織といっても過言ではないしその意義によって成り立っている組織ですよね
坊主になるのは個を無くすため ファッションや外見的特徴で教えの元にある者を区別しない 僧侶の格好をしていればみな同じ教えの元に対応ができることを示す
どの坊主が良いとか悪いとか誰のせいだとかどんな格好をしているから偉いとかありません 皆が同じ仏の教えの元に集っているのです
至らぬ者があればほかの同門がそれを補う 個人で新しく独自路線を開拓したわけではない 常に仏に帰依する現実的なスタンスが外見的特徴の喪失ですよね
髪の毛はやしてますか? ファッションに気を付けてますか? アクセサリーとかつけてますか?
結婚せず肉食をせず肉食を控え私財を蓄えず物を乞う
人の里にあって人の営みをするものと離れて生活します 里の人と同じ世界という規模で共存するにあたってそれらを得るという選択肢を無くします
もし僧侶と娘が結婚したら 人の里において娘と結婚する人が一人減ります 私財を蓄えるとその取引によって人の里から失われるものがあります
営利目的で僧侶をやっていいなら営利団体が宗教的なものを発布してもよいはずです 従業員がまるで宗教のような企業に労働を強いられていることもあると思いますが宗教となれば「その労働者の家族も含め」となります
価値があるものとしてその知識を村や人が保有するために支払うコストが必要ならばそれは村や人が金庫にいれたり資産を投じて運用すべきです
そうすると運営元が恣意的に内容や情報を変更する可能性があります 伝承や歴史が歪められる可能性があります
できるかぎり中立で正確な情報を残していくため それを得ることができるようにするのには公平で自由に接することができなくてはなりません
だれかの資産で運営するわけにはいかないのです だれか一人のトップ僧侶の能力で人の判断を歪めてはいけないのです 独立した公平な組織となるためにはその戒律が必要なのです
肉食は生物を殺さないという根源的な保証のために行っているものです 実際にはどうのという話ではなくただのタンパク質ならどうなのかという話でもなくだれも殺さない むしろ殺すくらいなら死ぬというものであることの証明のためです
これらをこなしたうえで極楽浄土がある 死後に苦しむことになるので現世での苦しみを耐えよの言葉に意味がでてくるわけなので 意味のない言葉を聞きかじったままに伝播するのでなければ当然されているかと思います
ご自身が常に戒律によって自覚しているあたりまえの日常の最低限の事ではあるでしょうけれども 人に道を示すのにこれだけしておかなければ中立であると言えない 恣意的に利己的に利益を求めて助言をしていると言われないようにできないですよね
名乗られている浄土真宗はそんなものではなく営利目的の団体で 顧客獲得のためのセールス手段の一つをここでお話させてもらうと良い話なので是非聞いてくださいというのならば納得もします
あくまで浄土真宗の何派かわかりませんが宗教にあって僧侶をされている方の立場と名誉について 今一度そんなに金がほしいのか人に知がありと説いて健やかなれと願っているのかお聞かせいただきたい
なぜ一人を救うのに何人も汚名の淵に蹴落とさなければならなかったのか その判断は公平で平等に判断したその何かにおいて当然だったのか
親族の誤った葬儀や宗教に対する考え方を正すこともなく利用してたのは、それこそ宗教・葬儀の業界だと思うんだが…
そもそも増田の祖父がこのご時世に葬式挙げたいって言いだしたのもそこが原因じゃないのか。
増田を慰めたい気持ちもわかるけど、彼らを糾弾して徒に分断を煽る前に、まず自分たちを顧み反省するところからまずスタートすべきではないのか。
はっきり言って新しいビジネスに対して古臭い信者の考えが邪魔になったから切り捨ててるようにしか見えん。
まぁ最近どこかの界隈でもよく見かけるけどね。ネトウヨ系のYoutuberあたりだけど。あれも宗教臭いよな考えてみたら。
無宗教の人はこれ見てどう思うかってブコメあったけどこんなことを思った。
そして、この人は浄土真宗の肩書を持って説法にあたったのだから、おそらく当該宗派では教義の中で分断を煽ることも許容してるんだろうなとも考えた。
浄土真宗の僧侶様、大変素晴らしい説法ありがとうございます。
素晴らしいついでに、今のコロナの状況を浄土真宗的にどうお考えか、
また、どう乗り越えていけばいいか、よろしければお考えをお聞かせください。
こちらこそ、このような書き込みを受け止めてくださってありがとうございました。
「坊主なんて所詮は偉そうなこと言いながら、自分は働かずに、檀家の金を巻き上げるだけ巻き上げて、後はせいぜい葬儀するしか能のない存在」
だと思っていたことがありましたので。今ではその疑い謗る眼差しと声が、自分自身に突き刺さるようになりました。
「わたしも自分の人生をちゃんと生きられるようにがんばろうと思いました」、
大変に尊いお気持ちだと思います。そういう気持ちのことを仏教では「發菩提心(ほつぼだいしん)」と言います。
それは即ち、「わたし」が「わたし」として生まれてきたこと、生きていくこと、いのち終えていくことを、心から喜びたい(納得したい)と思う気持ちのことです。そして、それが成就した方のことを「仏」といい、そのさまを「成仏する」というのです。
しかし、「がんばる」という言葉には元来「無理をする」という意味もあります。
願わくば、ご無理はできる範囲でなさってください。人生生きていれば、無理ができない時も訪れます。その目標を自分の力だけで成し遂げようとすることは、仏教では「三千大千世界を持ち上げることよりも難しい」と言われています。
あなたが「がんばろう」と思えたそのお気持ちこそが尊いのです。そう思われるだけの縁がもたらされていることが尊いのです。
雨の日も風の日も、あなたの心に光あらんことを。
合掌
拙文にもかかわらず、お読みいただき、またもったいないお言葉をありがとうございます。このような形でご法縁を賜るのは初めてのことです。
仏教の最大の目的は、抜苦与楽(ばっくよらく)にあります。苦しみを抜き去り、喜びを与えるという意味です。
特に日本では死別の悲しみを和らげることが重視されてきた面があると言えますから、(我々浄土真宗の場合は)他宗の49日間という習慣を仮に使わせていただき、その期間中ご遺族の心と向き合い、教えに従って慰めていくことも法務活動の一環としております。そうした意味でも、「見送った人の心を整える」というあなた様の解釈は誤りではありません。
「生きることは即ち苦である」、という大前提の上に仏教は成り立っています。
様々な出来事に直面し、悩み苦しむ方々にとって、その方を照らす光となるような、その方を温める熱となるような教えをもたらすことが我々僧侶の使命であると言えます。
ですから、このように謝意を向けていただけると、私自身もまた苦しい日々の中に光をいただける思いです。これがお釈迦さまの目指された「自利利他円満(じりりたえんまん:相手も私も喜びに満ちる)」ということなのだろうと感じ入ります。
また、お恥ずかしくも増田さんのご親族への批判じみた物言いに終止してしまった私に代わって、現実的かつ理想的なアフターフォローの形をご提示いただいたこと、ありがとうございます。観念的な話だけではなく、具体策も伴った上でご遺族を慰められるようになりたいという思いをいただきました。
悲しみはいつ訪れるか分かりません。
その痛みがいつ引くのかも分かりません。
後悔のないように生きたくとも、現実生活の前では様々なことがおざなりになってしまいます。
それでも、「わたし」も、先立ったあの人も、いつかまた出会える場処を夢見て、今日を明日を進みましょう。
心が揺さぶられる時ほど、足元がぐらつく時ほど、「わたし」と人生が問われている時です。
いつか、自分に問うてくださるこの痛みにも、苦しみにも、心からありがとうとごめんなさいの気持ちを持って、手を合わせてゆきたいものですね。
合掌
老人層はなぜかそう古くないここ数十年で一般化したようなことを
さも古からの伝統のように理由もわからず大事にしてたりする節はあるな。
結婚式を挙げないなんて親戚に顔向けできない、
友引に葬式をしてはいけない(これを浄土真宗のやつが言ったりする)など
極端に狭い世界で生きてるな、という印象。
狭いコミュニティで生きてるとそういうのも大変だよなとは思う。
不慣れなため、先ほど書いた文章がすべて消えてしまい心折れかけましたが、やはり大事なことなので、増田さんに伝わればと願って改めて書き直します。
お祖父様のことをお悔やみ申し上げるとともに、今回このような形で、増田さんやお母様が悲しまれる結果になってしまったこと、痛惜に堪えません。
結論から言わせていただくと、リモート葬儀それ自体に否はありません。そんなもので台無しになるのが仏の教えならば、仏法は2500年も受け継がれたりなどしません。
私から言わせれば、死者を軽んじ、葬儀を台無しにしているのは、ご親族の方だと思います。
葬儀とは「弔(とむら)い」であります。弔いとは元来、「訪(とぶら)い」という字を用いました。これは遠近様々な場所から死者の元へと人々が訪れる様子を意味していますが、決してそれだけではありません。
死者に出会うということは、まだ生きている自分自身と出会うということです。やがては我が身も命尽きてゆく存在である、ということは誰しも頭では理解していますが、近しく親しい者の死を前にでもしなければ、そうした厳然たる事実さえも忘却してしまうのが私たち人間の本質です。
そんな私たちが死者の元に集い、故人の人生の意味、人の生き死にの重さや儚さ、そしていつかは同じように必ず死んでゆく私たちの進むべき道や生き方について、死者の姿に「問い」・「訪ねる」こと。
仮にご親族が正しかったとして、実際に葬儀場に遺族知友が寄り集まり、そこで増田さんの危惧した通りに感染者が出たり、最悪死者が出たとしたら、どうでしょうか。お祖父様の死によって、お祖父様に連なる命がさらに失われてゆくことになってしまいます。遺族知友が命を危険に晒すリスクを負うことを心から望んで、お祖父様は何が何でも葬儀式を執り行って欲しいと願われたのでしょうか。
そうではなくて、「自分の死(一生)を大事に受け止めて欲しい」。それこそがお祖父様の本当の願いだったのではないでしょうか。
ご親族の方々は、ろくに理解もできていない宗教の「神聖さ」とやらを根拠に、「普通の」葬儀が営めなかった戸惑いや苛立ちを、増田さんにぶつけたのでしょう。
このような時勢の中、増田さんやご両親が取った苦渋の選択に理解を示したりねぎらうどころか、自分たちの思い通りにならないことに腹を立て、挙げ句の果てには職業を理由に非難の眼差しさえ向ける。お祖父様の生きた証でもある子や孫に対して、いまだ生き残った者たちのする仕打ちがこれです。故人の死が自分たちに何を訴えているかも受け止めず、自らの愚かさや罪を顧みない姿を、わざわざ露呈しているようなものです。
従来の葬儀式や、死者の元に人が集うことにも、もちろん大切な意味があります。しかし、いちばん大切なことは、遺族知友が故人の死を「無駄にしないこと」です。
人は死を前にして生と出会います。普段は照れ臭さ・煩わしさ・遠慮・怒りや嫌悪で、身近な人にはなかなか真正面から向き合えないのが私たち人間です。しかし、いつかは私も周りの人も、故人と同じように冷たくなり骨となってゆく。そのことを思えば、自分自身の今までの他者に対する接し方や身の振り方にも、自然と目が向けられます。そうして自分の姿を見つめ直し、振る舞いを思い直し、そのきっかけを与えてくれた故人とはたらきとに手を合わせ、まだ生かされた者同士が手を取り合って明日からを歩んでゆく……それこそが仏の道であります。
ですから、本当に故人の死や一生を受け止めようとする心に、現地もリモートも関係ありません。むしろ、「葬儀らしいことをやった気になりたいだけ」の方が、よほど問題です。
これではお祖父様が報われません。自分が命尽きたその後で、遺族が葬儀の形どうこうで争いを起こすのならば、お祖父様は一体、何のために生まれて、生きて、死んでいったのでしょうか。
死後の遺族の姿勢次第で故人とそのご生涯の意味が決まる訳ではないとしても、あまりに嘆かわしいことです。
お釈迦さまはかつて、「縁なき衆生は度し難し」という言葉を残されました。どれだけの言葉や思いを尽くしても、死ぬまで気付けない・分かり合えない人間というのは、古今東西必ずいるものです。そういう人たちはお釈迦さまにもどうすることもできない存在でした。何故なら彼らは自分から目を閉じ、耳を塞ぎ、心を閉ざしているからです。そうであれば、まずは他者よりも、「わたし」自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません。
増田さんにおかれては、お母様を悲しませてしまったつらさ、ご自分の配慮が望まぬ結果をもたらしたつらさにうなだれていることと拝察致します。
しかし、だからこそ、お祖父様のことを今一度思ってください。お祖父様がいなければ、お母様も増田さんもこの世に生を受けることはありませんでした。授かったその命を、どうすれば願いと喜びの中で全うして終えてゆけるか、見つめ直す時間を受け取ってください。人がひとり死んでも、傲岸不遜に振る舞ってしまえる人間の恐ろしさを学んでください。分かり合えない人間から植え付けられる理不尽の怒りや悲しさを、自分自身が他の誰かに繰り返さないよう身口意(しんくい:身と口と心の振る舞い方)を正してください。切られる縁もあれば、そこから始まる縁もあることを信じてください。
それらを増田さん自身がもしも「ああ、そうだな」とうなずけたなら、あなたこそ仏の道をまっすぐに歩んでゆける方です。
つらい気持ちはリングコンにぶつけて、涙も汗も流したら、美味しいものを食べて、温かいお風呂に浸かって、よく眠り、あなたのお命を大切に、明日からまたあなたを続けてゆきましょう。口にはしなかったかも知れませんが、それもきっと、お祖父様がかつて願われたことのひとつのはずです。
こうしてはてなという場に一石を投じてくださった増田さんに、心から敬意を表します。私たち仏に仕える者たちも、此度のことをよくよく考えねばならないと衣服を整える思いです。
合掌
(ご親族に対して少し冷たい言葉を選びすぎたかも知れませんが、彼らもまた、そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁を受けて生きてきたのだということを私自身うなずき直すとともに、増田さんにもそのことを、どうか頭の片隅に留めていただければと思います。お祖父様から受け継いだ命を、分かり合えない人との不和を嘆いたり、他者を憎んだり呪ったりすることに使うのではなく、あなた自身の本当のプログラムを人生に打ち込むことに使ってください)
現実世界では新型ウイルスが猛威を振るい、緊急事態宣言まで出された中、ネットではフェミニスト(と自分では称している)とアンチフェミニスト(特にツイッター上の)が今日も今日とて喧喧囂囂とやりあっている。
やり取りを眺めていると、飛んでくるはずのない飛沫までが可視化しそうである。
かかる舌戦の最中、アンチフェミニストが偶に「ツイフェミニストは宗教のようだ」と言い出すことがある。
男女問題には大して意見もないが、これは少々いただけないと思う。
まず、我々は様々な宗教に浸かって生きている。
よく言われることかもしれないが、12/25はキリスト教に倣ってクリスマスを祝い、年が明ければ氏子の如く神社に参拝し、冬の寒さで誰かが逝去すれば寺で葬式をあげる。
日本人は無宗教などと言われることもあるが、そんなことはない。元来八百万の神と生きてきた我々は世界中の神や神秘を広く受容できており、むしろ無宗教からは程遠い。
次に、宗教には明確な教義体系がある場合が殆どであり、それは学術的な研究に裏打ちされたものでもある。
禅宗などは古来、師から弟子に相伝されるものであり、おいそれと教えを口にすることなどできないのだ。
また、宗教には派閥があり、派閥同士戦うこともあれば、穏健な論議が交わされることもある。日本の寺では、檀家の見る前で曹洞宗と浄土真宗の僧が教義について議論するなどいうイベントもよくある。現代フェミニズムの「一人一派」とは意味が違う。
そして、多くの宗教の研究は、世界中のあらゆる学府で高名な研究者たちによって、今も行われている。
つまり、宗教者の発言と誰でも片手でできるインターネット上のツイートとはそもそも質が異なるものである。
「修行に邁進し、得悟した者の教え」と「どこの馬の骨の発言かも分からないが「いいね!」が沢山付いているツイート」を並列に扱うのは冒涜に近い。
「いいね!」を付けている者が宗教信者のように見えるのかもしれない。しかし、「救いや教えを求めて日々祈りを捧げ、文献を読漁り、社会奉仕を続ける宗教信者」と「気に入らない発言に的外れな文句を垂れ、そのくせ自分へのあらゆる批判を「クソリプ」と決めつけ、自分だけが不幸そうな顔をしている強い女メーカーのアイコンの人」は同一視するべきではない。
去年
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
を書いた増田です。
去年は散々な一年でしたね。
私も、去年は個人的にも色々と散々な年だったんですが、そんな中でも「年始には半分釣りでタイトルつけたけど、ほんとに人生変わったかも」と思うところがありました。
まぁ正確には、変わってきたかも、、、?ですが。
以下つらつらと書いていますが、まとめると
「100分で名著とは別のジャンルで、去年実感した「知識がつながって読めるようになる」が再現できた」
それでいて、
それによって、去年一年で少し世界が広がったと思いますし、それでいつつ、本業で必要な知識の深化も出来たと思っています。
これが何故出来たかと言うと、一昨年本業と関係ない本を100冊読むという行為をしたメタ効果じゃないかな、と思うわけです。
以下詳細。
いきなり自分語りスイマセン。
去年もちらっと書きましたが、私は趣味の一つとして持久系スポーツをやっています。
レベルとしては社会人アマチュアでは上位1-2%くらいには入っていましたので、まぁまぁ本気の趣味です。でした。
が、一昨年(2019)の末に足をボキッとやりまして、都合4ヶ月ぐらい走れませんでした。
長い時間をかけて鍛えてきたものが為す術なく失われるのを見ているだけという喪失感は中々きつくて、だいぶメンタルやられました。
の上、御存知の通りコロナで夏以降の大会も全て中止、日常復帰後の練習モチベーションも上がらず正直一年で別人レベルまで体力落ちたと思います。
健全な肉体に健全な魂が宿る、あれは「だったらいいな」という話らしいですが、少なくとも肉体が「健全でなくなるカーブ」を描いているときには魂も降下カーブを描きますね。
振り返るとマジで生活全般にやる気の出ずやっとメンタルが上向いてきたのが晩秋ごろ、という一年でしたが、唯一分量を維持ないし増加させられた生産的アクションが読書でした。
結構これに精神的に救われていた部分もあると思います(クソみたいな1日だったが一応本は読めた。。。と言う感じ)。
春頃はもう死にたいとか思った瞬間もあった気がしますが、今は寝たきりになっても少なくとも本は読めるな、という心持ちでいます。
気持ちがどんだけ落ち込んでいても、ベッドの中でできる生産的活動がある安心感があるという感じです。
100分で名著解説本で掴んだペースを維持したかったのもあり、読書の方向性を広げる方向として去年はNHK出版のテキストを中心に選びました。
本の物理的サイズ、厚さ、章毎の分量等々が似ていたからです。(これは今まで読んでいた場所、時間、等々がそのまま続けられるということです。)
あと、NHKが好む文化人というのは大体決まっているので、百分で名著シリーズで知っている人が著者だったりして安心感あります。
結果読んだ数(下記しますが、28冊)が物語っていますが、良かったです。
NHKは番組内容とか受信料であれやこれや言われることもありますが、教育系のコンテンツは極めて良質だと思います。
前置きが長くなりましたが、特に読んでよかったのが宗教の時間シリーズです。
最初の7-8冊程度は、これは求めているレベルを超えている、九分九厘内容忘れるなと思いながら読んでいましたが、
これも何冊か読んでいうちに「知識がつながって」読めるようになってきました。
この年になっても、何かを身につける、学ぶことができる。それは読書による独学だけでもある程度可能である、ということは個人的に心強いメタ経験になっています。
逆に言うと最初の数冊はほぼわからないままなので、数年後また一気に読み返したいですね。
去年は、自発的にはまず読まないであろう本も、読んでみたいと思っていました。
そのための方法として、友人におすすめの本を聞くという方法を取りました。
また、一週間以内くらいには実際に読んで感想を伝えて内容についてやりとりするというマイルールを作りました。
これによって狙い通り、新しい関心フックが幾つか作れましたが、想定外の効果としてある程度親しくなった人とさらに距離を縮める手段としてかなり有効だったように思います。
一昨年以前の私だったら、それが有効だと知っていても負荷が大きかったでしょうが今なら別に無理せずやれる、むしろ楽しい、というところがポイントです。
今のところ猛烈につまらないものを紹介してきた人がいないのもありますが。。
何かについて知りたいと考えた時、ネットで検索するという初動は変わりませんが、さらに知りたいことがあるor体系化したいor記憶への定着率を挙げたい時、本を読むというアクションが自然に追加されました。
また、読書をするにあたって、ちょっとした障害になっていた事が怖くなくりました。例えば下記のように。
・中断:面白そうな本を見つけたらそっちを読み出してしまう。中断してもまた一週間もしたら読めるのだから。もし中身忘れていたら都度振り返ればいいのだから。とシンプルに考えられるようになりました。自由です。
・積読:いま読めなくても恐れることはない、そのうち読めると素直に考えられるようになりました。流石にそろそろ消化に一年ぐらいは掛かりそうなくらい本が積まれていますが、現在のところ三年後の自分を信じられます。
・読書履歴・読書キュー汚染:穏やかでない単語を使いました。これは要するに「話題になっているけど、こんな俗っぽい本を読む時間を~もっと重要な本が~」とか考えなくなったということです。気になったら読みます。
これらって結局全部やらない言い訳だと思うんですが、単純に読書に対する心理的ハードルを下げて読書量で解決するというパワープレイ(一昨年の私比)が可能になりました。
一昨年解説本を100冊読んだのは運動部一年生がやるような練習のための練習だと書きましたが、あれはそんなに外してないなと今でも思います。
百分で名著シリーズ:12冊(2021年1月分の「資本論」も、もう読みました)
で、個人的に出色なのは教養系の読書がたっぷりできたことより、仕事の本がたくさん読めたことです。
去年までは年間7-8冊ほど読んでるかな?という感じでした。
ところが、今年は読書に占める仕事本の割合は減ったにも関わらず、倍以上読めました。
本を読むという行為自体がスムースになったと言うか、「仕事の本は(趣味・教養の本より)重要である」という心の中の序列がどうでも良くなり、いつかは読めるのだから、になった効果だと思います。
はてなあたりで使われがちな「文化資本」「分断」あたりの用語の社会学的なバックボーンについて理解できました。
はてブ見てると「社会学者って、、、」と思うシーンも多いですが、必要な学問だと捉えなおすいい機会になりました。
面白くない話として社会を伝えて分析するのが社会学、という分類はなるほどと思いました。
逆に言えば、美しい弱者、貧者のストーリーなんかばっかり見ている人は社会学者とは言えないのだなと。こういう人はてブあたりでよく見る気もしますが。。。
年末だったのもあり、久しぶりに放送の方も全て見たのですが、やっぱりできたら放送も見るべきですね。
解説本の著者の言いたいことが、スルスル入ってきます。それと、伊集院光さんやっぱすごいなと。ああいうレスポンス返せる人間になりたい。
能楽師の安田登氏解説の古典説明本です。下記する「史記」でもそうですが、
漢字の成り立ちに纏わる深い知識(今ある漢字が成立した年代には開きがある)から独特な解釈をされています。
これが真実なのかはわかりませんが非常に興味深く、この著者の著書をあたったり、この視点で更に歴史を追ってみたいなと思わせてくれる本でした。
安田登氏の能舞台も見てみたいと思ったのですが、昨今の状況では難しいですよね、、、今年あたり何処かで見に行けるといいな。
タイトルのとおり、経典や歴史的事件ではなく残っている手紙から親鸞聖人の人物に迫ろうという趣旨の本です。
上記したとおり「何冊か読んだ効果」が大きいのでしょうが、これ読んで、はじめて浄土真宗わかった気分になりました。
ちなみにうちは曹洞宗なんですが、曹洞宗はいまのところわかったと思う瞬間がないです、、、
観無量寿経をベースに、浄土系の教えが中国~日本で花開いていった過程を追った本です。
私が読んだ中では最も単独で理解しやすく、去年おすすめした「集中講義・大乗仏教」と合わせて読むとより日本仏教の流れが理解できるかなと思いました。
宗教の時間は多くが前後編の2冊構成なのですが、1冊構成なのも読み返しやすくて良いです。
著者の釈徹宗さんには、もっといろんなお経の解説書を書いて欲しい、、、!!
単純に、日々の話題の元ネタとして興味深くまた著者が「面白い人」であると感じてとても読みやすかった。
独立した章立てで分割した読書もしやすく、何方にもおすすめできる本だと思います。
子供向けに実施された19世紀の科学講義を書籍化したもので、科学レクチャーの傑作と言われているそうです。
当時はプロジェクター等も無いため図があまりなく、正直、本として読んだだけでは当時の雰囲気を十分に味わうことは出来ないかと思ったのですが、
ファラデーという当代最高の学者がが全力をもって子供たちに科学の楽しさを伝えようとしていることはとても良くわかりました。
去年は西欧文明というか西欧社会の限界的なものが色々見えた年かなとも思うのですが、ソロモンの指輪もそうですが、こういった本を著した方々が繋いできたものはやっぱり尊いなと思います。
100分で名著の解説本を読んでから、絶対に読もうと思っていた原典の一つ。
下記の、薩摩焼窯元めぐりと合わせて水俣に行く前に読みました。
内容については私が今更感想をいうのもあれなんですが、「読む前と後で違う自分になっているような気がする」読書体験ができる数少ない本の一冊と思います。
あとがきにある通り、書かれていることは読んだ印象より遥かに創作の比率が高い、ということを差っ引いてもこれは日本人全員が読んだほうがいいんじゃないかと。
恥ずかしながら初・司馬遼太郎でした。焼き物が好きで窯元めぐりも趣味なもので、薩摩焼の里をめぐる前にと思って読んだんですが、面白かったです。
声に出して読みたい日本語というか、何でしょう、文章がうまいと言うより文章の響きが格好いいというか、流石昭和の大作家ですね。一気に好きな作家リストに載りました。
今、ちょっと重めのものもと思って坂の上の雲もちょっとずつ読んでいます。
タイトルの付け方も最高にうまいですよね、、頭にのこるというか。