はてなキーワード: 流線型とは
(たとえばキャラクターについて言えば、感情を押し殺したようにして淡々と語る綾波は市川実日子に、外国語を混ぜたご機嫌なアスカは石原さとみに、真意のわからぬまま無理難題を突きつけてくるゲンドウは〈あの国〉アメリカに、それぞれ入れ替わっただけである。)
ゲンドウくんはあれでも現場の総司令という立場なわけで、矢口=ミサトさんとみるなら赤坂さん=ゲンドウくらいだろうか。
そこで米国代表としてか弱い女性を置くことで、日本人男性が日本人男性の力で国を守ったという体裁が保たれる。
かつ、あの日本語と英語を織り交ぜたヘンテコな日本語は、彼女をか弱い存在だけでなく変な奴として提示する。国際的な観点からでなく、あくまで日本人の側から見られた変人だ。
自分にはカヨコは強引でマッチョなキャラクターに見えたけれども、それでも「か弱い」という見方もあるんだな。
カヨコの優秀さの描写は足りないような気がしたし、終盤の日米の間で板挟みになって悩むのもとってつけたようには感じたけど。
あの映画は、機械オタクの男が設計室に引きこもってひたすら戦闘機の流線型のフォルムにうっとりしているだけで、その戦闘機がどれだけ戦争の悲劇を生んだか、とか、そうした男の機械オタクたちが生んだ戦争技術によって死んでいった女性への視点が欠如しているだとか、政治的またジェンダー的な観点からさまざまに批判を呼んだが、
シン・ゴジラを観た。
だが同時に庵野および日本映画の限界を示すドキュメンタリーのような映画でもあった。
この映画は、
復興ありき、
再建ありき、
日本にはまだ力がある、
立ち直れる、
そういう答えがもう先にある。
出来レースっぽい。
これは映画に限らず様々な場面で3.11の震災後なんども繰り返されていることだ。
力があるって主張をかたくなに、ほとんど反駁不可能なイデオロギーのように保持しているのは、
俺は出来る!って盲信しているやつは、強いんじゃなくて自分の弱さを直視できないだけだ。
もっとも、3.11以降繰り返されてるそうした自己欺瞞的な合唱に飲み込まれることは、まぁ仕方ない。
この作品を取り巻く精神的な状況からして、ほとんど不可抗力であるし、それだけで作品のすべてを否定するつもりはない。
しかし、せっかくゴジラほどの大怪物を召喚しておいて結果やっぱり俺らスゲーの大合唱かよ、と思わざるをえない。
俺らスゲーの出来レースはゴジラ以外の他のテーマでやってくれ、と言いたくなる。
ゴジラというキャラはもっともっと掘り下げるべきテーマを蓄えた宝庫なのであって、ゴジラをそんな自己欺瞞の物語のなかに埋もれさせて浪費してはいけないのだ。
新たな危機に直面すればこそそれに見合った国の体制を改めるよう反省を強いられ、
新たにテーマを掘り下げればこそそれに見合った映画の手法を発明するよう強いられる。
しかしそうした危機とテーマである当のゴジラが、ほとんど空虚な存在であるがゆえに(たしかにわずかだが神として語られ、放射能の脅威を連想させていても、しかしそれが物語の構造そのものに関わることはない)、
日本万歳のその国の概念そのものに反省を迫る映画にはなっていないし、その手法に関して言えば新たな手法の発明どころかエヴァンゲリオンとさして変わらない。
(たとえばキャラクターについて言えば、感情を押し殺したようにして淡々と語る綾波は市川実日子に、外国語を混ぜたご機嫌なアスカは石原さとみに、真意のわからぬまま無理難題を突きつけてくるゲンドウは〈あの国〉アメリカに、それぞれ入れ替わっただけである。)
シン・ゴジラはエヴァンゲリオンで庵野が確立した様々な設定を忠実に引き写している。そこには反省も発明も見つけられない。
もちろん何の変化もないわけではないが、
そうした変化が結局は日本の閉鎖的で差別的な視野に同一化する点、
自分に力があると信じたいがために他国と異性に対する偏見を利用する屈折した日本男性の視点に同一化する点は、
たとえばエヴァンゲリオンにはなくてシン・ゴジラには見られる新しい部分は、政治の前景化であるとともに、(それがつねに〈日本の〉政治である限りで)他国の政府との交渉だろう。
ここに石原さとみが登場するわけだが、彼女のキャラクターは、自信を回復したがる日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕している点で、やはりこの映画を保守的なものにしている。
石原さとみのチャラけた演技は真剣に事案に対処している他のキャラクターに比べかなり浮いて見えるが、
しかしあれは日本男性の閉鎖的で差別的な欲望からすると必然的な役柄になっているといえる。
演技がわざとらしいために良い演技とは言い難い、と思う観客もいるだろうが、しかしそういう演技も含めて必然的なキャラのあり方だと思う。
日本と米国の間に女性が入るというのは、日本からみて心理的な必然性をもっている。
日本と米国の関係はいわばスネ夫とジャイアンであって、ジャイアンのマッチョなところがあまりに出すぎると(たとえばジャイアンの力のみで事件を解決したり、その力がスネ夫である日本に向かったりすると)、日本を守る日本人男性たちのプライドや虚栄心が傷ついてしまう。
そこで米国代表としてか弱い女性を置くことで、日本人男性が日本人男性の力で国を守ったという体裁が保たれる。
かつ、あの日本語と英語を織り交ぜたヘンテコな日本語は、彼女をか弱い存在だけでなく変な奴として提示する。国際的な観点からでなく、あくまで日本人の側から見られた変人だ。
ここでは常識人と変人の対は、内部(日本人)と外部(外国人)という対と本質的に繋がっている。変人が変人であるのは、その者が外部から来た外国人であるからだ。
「〜アルヨー」とか「〜デース」とかいう言葉遣いのキャラが、日本人の側から見られた変な奴の象徴であるのと同じで、
彼女の奇妙な日本語は、他の日本人男性と観客とに米国でなく日本側からの観点を持たせ、その外部から来た変人として石原さとみを見させる。
視聴者たちが米国の目線から日本を弱小国として見る可能性が排除される。
このようなわけで、この映画は日本男性の精神性の問題をそのうちに含んでおり、その点ははっきりと批判されるべきであるが、
しかしその限界をはっきりと映画のなかで示しているという点においては、そうした限界の記録として、ドキュメントとして、歴史的な価値が大いにあると思われる。
これほどありありと、日本的および日本男性的想像力の限界を示した作品はなかなか見つからないのではないか。
あの映画は、機械オタクの男が設計室に引きこもってひたすら戦闘機の流線型のフォルムにうっとりしているだけで、その戦闘機がどれだけ戦争の悲劇を生んだか、とか、そうした男の機械オタクたちが生んだ戦争技術によって死んでいった女性への視点が欠如しているだとか、政治的またジェンダー的な観点からさまざまに批判を呼んだが、
しかしそうした戦中日本の精神の限界性をはっきりと示していたという点においては、ドキュメントとして大いに価値をもっている。
したがっておそらく、この映画において賭けられているのは、シリアスとコミカルの関係性ということになろう。これはどういうことか。
さしあたりこれまでの論述で明らかになったことは、この映画は限界を証言するドキュメントとしては優秀であるが、それはいわば限界にはっきりと居座っているからであって、丁寧になぞっているからであって、限界を越えようとしているからではない、ということであった。
つまり、エヴァンゲリオンを踏襲し、ナショナルなものとジェンダーの領域において日本男性の閉鎖的で差別的な欲望に奉仕するこの保守的な映画は、
限界を自ら反復し、演じている、ということであった。
日本の男性政治家が米国の女性とシリアスにセリフを交わす場面で、自身の力への欲望は満たされるだろう。
しかしまた、あることを反復し演じることは、つまりそれを真似することであり、その虚構性を示すことである。
そしてそれに応じて、批判されるべき部分は、評価されるべき部分ともなるのである。
したがって、このように問うことができるだろう。
限界を反復することは、限界に居座ることであると同時に、限界を茶化すことでもあるのではないか。つまり限界を批判することでもあるのではないか。
たとえばエヴァンゲリオンの設定を踏襲することは、新たな手法の発明の努力を放棄することであると同時に、反復しているその設定を茶化し、批判することでもあるのではないか。
そうであれば、シン・ゴジラへの正しい反応とは、それを積極的に笑うというものではないだろうか。
つまり、シン・ゴジラが何かを反復している限りでシン・ゴジラを笑い、またその反復によってシン・ゴジラが茶化しているものを笑う、と。
あの映画は、諸手を挙げて受け入れられているように見える。
この時期、どこかに潜伏していた蚊が現れて、
やっと安心と思っていたのに、
突然訪れる恐怖。
やってくる羽音。
蚊の1匹くらいなんとかなるわよ!
朝の支度のさなか、
うっとうしい形相で蚊を睨みながら
起動完了!
持ちこたえられるかが心配だけど。
なんとか持ちこたえて欲しいわ!
頼むわ!
ヤツをやったの!?
徐々に近未来感あふれる流線型のナウい銀色のテーブルとかが置いていないルームがフォースフィールドに満ちていく!はずだった
弾切れだわ!
こしゃくな!
つづく(つづきません)
やっぱり液体型のノーマットのがいいわね。
ジャンキーだけどたまにはこういうパンチも欲しいわ。
昨日のニラどうしようかと思ったけど
すいすいすいようび~
今日も頑張ろう!
京阪の子会社が作った新京阪線(今の阪急の京都線)の地下線の西院駅 - 大宮駅間は1931年に開業。
鉄道省は、対抗して関西急電と呼ばれる、料金不要の優等列車を設定。1936年には、流線型の車体デザインの52系(流電)を投入。現在の新快速の礎を築いた。京都駅 - 大阪駅間を34分、大阪駅 - 三ノ宮駅間を25分。
大阪市営地下鉄の御堂筋線は、1933年(昭和8年)5月20日:1号線 梅田駅(仮) - 心斎橋駅間 (3.1 km) が開業。
開業当初、御堂筋線はわずか1両編成での運転だったにも関わらず、当時からすべての駅のホームが、将来を見越して 17 m 級車による8両編成に対応するように建設されていた。
さらにいうと、東洋初の東京の銀座線と比べると電車が一回り大きい。
近鉄の前身のひとつの参宮急行電鉄は、大阪 - 伊勢間130km超の長大電車路線を作り、1932年(昭和7年)には、上本町駅 - 宇治山田駅間を2時間1分で走破した。ライバルの鉄道省の準急列車は、3時間、鈍行は5時間かかった。20m級車体で最高時速110km/h、二等客車並のクロスシートが装備された。21世紀初頭の電車と遜色ない性能があった。
阪和線の前身の阪和電気鉄道では、1933年に超特急の運転を開始、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間を45分で結んだ。表定速度81.6km/h。まじで速いよ。特急こだま号が登場するまでの日本で最速の鉄道だった。
戦前の話じゃないけど、自動改札機も1970年台には関西私鉄の主な駅にあった。大阪万博から続く未来がそこにあった。国鉄は人がきっぷにはさみを入れていたけどね。
nasneの流線型のボディは直方体の箱の中では不安定だが、ネット上の開封写真を見る限り、少量のプチプチが入っているのみで、振動を防止するには不十分な梱包に見える。
HDDは振動に弱いから、輸送時の振動に多くが耐えられなかったと考えられる。ネット上の報告をみても故障率が相当高いと思われ、実績あるHITACHIのHDDに原因があったとは考えにくい。
何年前の認識だよ。
SONYが発売予定だったネットワークハードディスクレコーダー nasneは、運送中にHDDが損傷する不具合のため、発売が延期された。
もっとも不具合発覚が発売直前だったため、一部のユーザーにはnasneが届いたらしい。
SONYは正常動作個体をユーザーがそのまま使う事を否定していないが、ユーザーは返品交換をするべきだ。以下、詳述する。
SONYの発表やネット上の報告記事を見る限り、輸送中にHDDが故障したというのは正しそうだ。
そして、その原因は梱包の設計不良にあると予想する。その理由は次の通りである。
nasneの流線型のボディは直方体の箱の中では不安定だが、ネット上の開封写真を見る限り、少量のプチプチが入っているのみで、振動を防止するには不十分な梱包に見える。
HDDは振動に弱いから、輸送時の振動に多くが耐えられなかったと考えられる。ネット上の報告をみても故障率が相当高いと思われ、実績あるHITACHIのHDDに原因があったとは考えにくい。
梱包の設計不良は全ての個体に影響するから、SONYが流通経路を問わず全面的な発売延期を決めた事と合致する。
そうであれば、動作する個体も完全な故障に至らないまでもHDDに相当なダメージがあると考えられる。
例えば不良セクターが多く発生し、容量の低下や録画の安定性の低下等が予想される。
したがって購入者としては、動作テストを行うまでもなく返品交換を行うべきだろう。
別に匿名で書きたいわけじゃないんだけど、便利だからココに書かせてもらおうと思う。
少しおっぱいの話をさせてくれ。あんたも好きだろ?おっぱい。乳。
今日、とある友人がこんな事を言っていた。
- 起伏のない胸など男の胸と同じだ。
- 揉めない乳は乳じゃない。
正直、暴論だと思った。
だから今このエントリを書いている。
どうやら友人はおっきなおっぱいがお好きで
ちぃさなおっぱいにはおっぱいとしての価値が全くないと考えているらしい。
では私はどうかというと「どちらかと言えば貧乳が好き」程度の貧乳好きだ。
もちろん巨乳だって心から愛せる。
そんな中途半端な趣向の持ち主である私でも分かることがある。
それは、彼の展開する「貧乳は揉めないから乳ではない」という理論は、世の貧乳好きには全く通用しないということだ。
従って「揉めないこと」は貧乳好きにとってはなんら問題無しなのだ(ただし一部例外もある)
「揉めない乳は乳ではない」という発言を撤回してもらうにはどうしたら良いだろう。
一言に「貧乳好き」と言っても、中には多様な価値観が存在するのだ。
貧乳好きの主な派閥
- 手に収まるサイズ感が良いんだよ:ハンディサイズ派
- もっと大きくしたいと悩む姿に萌えるんだよ:コンプレックス派
- 控え目なところに可愛らしさがあるんだよ:シャイ派
- 貧しさ・質素さこそ美徳だよ:ストイック派
- 自分の身体にも引け目があるから調度良いんだよ:シンパシー派
- 俺が育てていくんだよ:プロデュース派
- 流れるような流線型のフォルムこそ美しいよ:ストリームライン派
- 乳首と乳輪さえあればそれで十分だよ:ミニマルデザイン派
- なだらかな起伏はとても神秘的な風景だよ:ゴビ砂漠派
- 柔らかいのより固いのが好きだよ:ウェルダン派
- スポーツのためにはおっぱいなんて邪魔だよ:スポーツ派
- ファッションのためにはおっぱいなんて邪魔だよ:モード派
- 少女体型に萌えるんだよ:ロリ派
- 発展途上のふくらみが最も美しいんだよ:ツボミ派(ロリ過激派)
- 少しでも膨らんでいたらババアだよ:ペド派
- 中性的なところが素敵だよ:ボーイッシュ派
- 無駄な脂肪はいらないよ:ヘルシア派
- 掴めそうで掴めないから追い続けるんだよ:ドリーマー派
- 好きになった人のおっぱいが小さかったから、それを受け入れただけだよ:運命愛派
- 歳をとっても垂れないから長い目で見るとお得だよ:ライフイズロング派
- 弧の大きさを考えると貧乳ほど巨乳になる可能性を秘めてるよ:ポテンシャル派
- 見えぬけれどあるんだよ:ダークマター派
とまぁ素人が栄養足りてない頭で30分程度考えただけで20以上の派閥が思い浮かぶわけで。
本当はもっともっと細かい分類が出来るだろうし、ここに当てはまらない派閥も沢山あるはずだ。
もし友人が「揉めない乳は乳ではない」と言い切るならば
少なくとも上記の各派閥を相手に持論を展開し、打ち倒さなければならない。
だがそれは不可能だろう。
もちろん、貧乳側が理論で友人を説き伏せることも出来ないはずだ。
(実践的なやり方で中長期的に対処すれば、多少は趣向を変える事は可能かもしれない)
つまり「巨乳こそ乳だ」「いや、貧乳こそ乳だ」という議論は全くもって不毛なのだ。
だから私はそんな話をするつもりもないし、したくもない。
ただ、コレだけは言いたい。
「乳でない乳はないよ」
巨乳が素晴らしいのではない。
貧乳が素晴らしいのではない。
ただそこにある乳が素晴らしいのだ。
揉める乳も揉めない乳も、愛すべき乳だ。
汝の前の乳を愛せよ。
この思いよ彼に届け!
http://anond.hatelabo.jp/20071106200134
風呂行ってくる。・・・まで読んだ。
お肉大好き…でもカロリーが…という貴方のための料理。作り方は簡単、30分ぐらいでできるよ!たぶん!感覚的に!
ほら、パックにぴっちりと肌色の鶏肉が詰まっているヤツあるだろ?あれだよ。数個入って数百円のはず。
昨日のように小皿に一杯とかじゃなくて、大さじに浅く少しぐらいでいい。種類はまたしても適当。増田の台所にある「こった料理のために一回買ったけど、そのあと二度と使ってない」ハーブでいい。いろんな種類を混ぜるのがコツ。
二度と出せない味ができる。感動するほど旨かったときに再現できなくて落ち込むが、一期一会だと思って大切に味わえ。
粗塩だと味が引き締まるが、食卓塩でもいい。なんなら味塩でも。<味がぼやけるけどね。量がポイント。多すぎず少なすぎず。基本的に多すぎるとしょっぱくて食べられなくて泣いちゃうから、少なめで。豆スープみたいに後で振りかけて調節してもイイし。でも、焼き物は一発目でびしっと決まった塩味の方が絶対に美味い。
これらも下記で紹介するように胸肉を冷凍するといつでも調理できる便利食事になります。
一口サイズに切る。普段料理していない人は「一口サイズって言われても…」って困るよね。だから細かく書いてみるテスト。
カロリーが気になる貴方のために・・・ですので、鳥の皮は剥ぎます。食べません。でも、捨てちゃ駄目。うまみの元なんだから、ちゃんと一緒に焼いて少々の油と風味を頂きます。
きれいに剥けると思う。剥けたら3つぐらいに切り分ける。大きくていい。
肉の線維に沿って棒状というか流線型になるような感じに切る。おっきい塊の方を半分ぐらい、横に付いている小型の塊はそのまま…程度。
このへんは実物を見てフィーリングで感じろ。失敗しても涙がにじむ程度で食べられない訳じゃないから安心しる。
ここが一口サイズとなる。焼くと身が締まって小さくなるので、少々ビビりながら大きめに。焼き上がりが小さいと悲しくなるので。
切った身はそのままビニール袋に入れる。どんなビニール袋かって?ほら、スーパーの袋詰めの所にローラー状であるヤツあるだろ。あれだ、あれ。あのサイズがベストマッチ。最初はスーパーから頂いてきてもいい。でも、常用するようになったら買おうな。
生ゴミ入れて捨てるのに便利だし、自腹で買っておけ。100円ショップでも箱に入って売ってるぞ。
話がそれた。袋に入れるんだ、とりあえず。
空気を適度に入れてパンパン叩いたり、空気を抜いてぐにゅぐにゅしたりしてまんべんなく付いた気分になるまでやる。
もみすぎて穴が開いたりすると気分が萎えるのでほどほどに。
肉同士がびっちりくつくように表面積が最小な形にしたら、ビニール袋の口をくるくる回して空気が入らないようにして、肉の下にでも突っ込んでおく。
この間に風呂に入る。
あ、オーブン、またはオーブントースターの余熱も同時にやっておくと完璧だ。
じっくり味がなじんだような気分になったら網に乗せて焼こう。このとき、さっき切った油たっぷりの鳥の皮を身の上に乗せる。
たぶんハーブは鳥の皮の方にいっぱい付いていると思う。その香りがついた油を肉に移すのだだだだ。
焼き時間は適当。オーブントースターで見ながら焼くのが楽しいと思うけど。オーブンの時は13分ぐらいかな?<自宅の場合
熱々の方が百万倍美味いので、網のまま食べたいところだが、文明人なふりをしてぐっと我慢。皿に盛る。皮はカリカリになってると思うけど捨てろ。コラーゲン♪とか言って他人に食わせてもいい。
意外なほどぶくまが付いたから、いい気になって二本目を書いたぜ!
この鶏肉料理はこれ単体で一食分、ほかの食事いらない量なので覚悟するように。
調理途中の「ビニール袋に入れる」の所で、冷凍庫に入れると長期保存が出来る。とても便利。いまも自宅の冷凍庫には数袋入ってるはず。
俺の下半身が今年は芸術に生きろなんて小粋なアドバイスをしやがる。
おう、それじゃあお前さんはどうするんだよ、俺がかまってやらなくても平気なのかって聞いたら、
自分は他に面倒見てくれる人を見つけたらもういいよって言うんだ。
いや、たしかにお前の面倒は俺の面倒でもあるわけだが、どうにも納得がいかない。
別に今までの分を返してくれとかそんな話じゃなくて。
そもそもそいつ、本当に大丈夫なのか?信頼できるのか?
それより何より、俺よりいいってことか?
おいおい、それってずいぶん残酷じゃないか。
だいたい神経はすべて脳に繋がってるんだぞ?そして感覚や知覚は脳で生じてるんだぞ?
いくらお前が気持ちよかろうがそれはお前じゃなくて俺が気持ちいいんだからな。
そこんところ忘れんなよ!ああ虚しい。
こいつどうして一人で生きてられるような顔をしてるんだ?いつのまにか妙に流線型じゃねえか。
こうなったら徹底的にお前のことを作品にしてやる。
世間に晒して、二度と表を歩けないようにしてやる。
世界で一番有名なやつにして、紅白の審査員に呼ばれかねなくしてやる!
そしたらお前の新しい相手はどう思うかな?
もちろん、俺の芸術は誰かを不幸にするために存在するわけじゃない。
俺自身の生きることそのものの問題なんだ。
要するに、お前こそ俺の生きる全てだってことなんだ。