「沿岸部」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 沿岸部とは

2021-12-30

anond:20211230072712

水産業はなんとかしないと生けないにしても、沿岸部更地再開発は、今後も同様の災害が起きるかもと思えば、どうかなあ、と。

あの震災で地下のプレートの噛み合わせがおかしくなってしまったんよ。以前は太平洋側のプレートの上に端を軽く巻き込まれる形で陸側のプレートが載ってたんだけど、今は巻き込み部分が外れて平たく載ってるんだって。だから大きな地震が起きると陸側のプレートが太平洋の方に滑っていってしまい、大きな横揺れが起きるんだよ。そのためにちょくちょく大きな余震が起きてるんで、沿岸部にまた家を建てるとかは、仮に津波心配がなくとも止めとこうかなってなるんでないの。

2021-08-17

anond:20210817085119

川沿いとか沿岸部とかの水害に遭いやすいところって底辺層が住むところだからなぁ

引越しするとき普通不動産屋ならそれとなく気を利かせて進めてこないはず

2021-06-09

二進のπ

マンホールのフタの大きさを決める目安となった人から聞いた話だけど、冷凍技術進歩によって今まで沿岸部しか食べられていなかった魚が内陸部でも食べられるようになり、その結果魚食人口が何倍にも膨れ上がり、漁業資源に深刻な打撃を与えているらしい。テクノロジー世界を均一にし、長期的に見れば格差是正するように働く。でも地球という方舟はもともとそんなに大きくない。21世紀の人が考える「地球は70億を養える」という発想には格差が前提にある。

2021-06-08

大半の井の上の蛙、大海を知らず

沿岸部の山や海水浴へ行かないといけない

雲海も知らないかもしれない

あなたはどんな景色を見た蛙ですか?

どんな景色を見たいですか?

転職したくなったら便利なサービスがあるようですね

2021-05-23

anond:20210523103235

さらに東に太平洋があるから、その名前はありえない。

かと言って、沿岸部の国が日本だけじゃないので日本海では納得行かないという国の主張も一理ある。

結局、新しい名前を作るのが一番いいのでは? って気もする。

2021-04-18

anond:20210418131952

沿岸部ちょっと発展しただけやぞ。

一人当たりGDPが半分以下の国に統治されて嬉しいわけがないだろ。

2021-03-20

さっきの地震の後(宮城県沿岸部)

この前の地震と違って、宮城県津波注意報が出たので、、発災後宮城県沿岸部から避難することになった。

実際に車を走らせると、内陸部に向かう道路渋滞続きで、揺れを感じてから30分後くらいは、のろが車で埋まっていた。

その後も、場所によって車が密集して動けないみたいな状況はあって、川一本挟んだ向こう岸の風景が、とても危機的に感じられた。

少し内陸に入ったガソリンスタンドは混雑しているところもあり、3.11災後風景を思いだした。

今でも、道路の整備や信号機の設置は行われているものの、まだまだ対策は不十分なんだと感じた。

我々は被災地ということで、沢山の恩恵を受けているが、全ての海と共に暮らす人々に意識してほしいものだと思った。

2021-03-11

震災から10年経って「花は咲く」を受け止めた

震災から10年ということで感傷的な文章をつらつら書こうと思う。

NHK復興支援ソングで「花は咲く」という曲がある、

私は大のNHK好きで受信料お布施のような気持ちで支払っているが、あの曲が真っ向から受け止められなかった。

花は咲く」ってそんなふわっとしたきれいごとを、、、くらいに思っていた。

けれど最近この時期に合わせて放送しているのを聞いてみて、印象が変わった。

歌詞を読むと、自分幸福未来について言及していない、

「誰かの」、「いつか生まれる君」の幸せ未来を歌っている、それに気づいたときに何故かこの曲を素直に受け止められるようになった。

震災当時大学生だった私は、住んでいた自治体が受け入れた被災者のための避難所ボランティアをしていた。

発災から数日は、自身電気水道等のインフラ停止の影響を受けたが、時間と体力が有り余る大学生こそなにかをしなければと、避難所にほぼ常駐で、炊き出しの調整、物資差配避難所環境整備等をしていた。

そこでは様々な避難者の現実を見た。

無邪気に遊ぶ子供たちもいれば、情緒不安定で泣き出す子供もいる。

大人避難の疲れとストレスがたまっており、被災の度合いによって避難スタンスも違うので、被災者同士が喧嘩になることも多々あった。

自宅と息子夫婦、孫が津波で流されて行方不明の老人、自宅は全壊したがなんとか全員無事で避難してきた一家放射能影響を考慮して自宅を離れた若い夫婦、、、状況は本当に様々だったので仕方ないのかもしれない。

避難所ボランティアしている際、自分の中で決めていたことがある、

それは、被災者気持ちになったつもりで泣かないことだ。

私は感動映画を見ればすぐ泣く質で、もらい泣きすることがしょっちゅうある。

からこそ、この時は泣かないように毎日気を張っていた。

映画ではない、現実に大変な思いをしている人が目の前にいる。

話を聞くと共感して辛い気持ちになるが、決して泣かないようと頑張った。

その悲しみは私のものではない、彼らのものから

彼らからその話を聞いたとしても、その悲しみは私のものにはならない。

彼らの悲しみは、彼らだけのものだ、私が聞いて泣いたらそれは勝手に悲しんでいるだけだ、自分が可哀そうで泣いているだけだ、と。

そんな風に思わなくても良いのかな、と思ったのは最近だ。

震災のことを思い出すと、自分の関わった被災者のことが思い出されて辛い気持ちになる。

でもその悲しみは、私が自分が可哀そうだと思って感じる悲しみなのか?

勝手に人の苦しみを想像して泣いているだけなのか?

かに彼らの悲しみは彼らのもので、誰も「理解した」なんて言えないと思う、

けれど彼らの悲しみに寄り添って一緒に悲しむことは、必ずしも自分勝手なことではない。

過去自分擁護するなら、震災直後、壊滅した沿岸部映像を見ながら被災者のことを思って本当に胸が苦しかったし、

からこそ少しでも助けになりたいと思っていた。

私が悲しかたことは事実なのだ

そしてそれは私以外も一緒だと思う、悲しみに寄り添う人を認めていきたい。

10年は長い時間なので、被災者ではない私の人生も変わる、

当時大学生だった私が、なんとかかんとか働きながら、

伴侶を見つけ結婚し、子供を育てている、

10年というのはそういう時間だ。

私にとっての「誰かの」、「いつか生まれる君」は、

ベッドの隣で眠る息子や、これからまれてくるかもしれないわが子だ。

自分のために何か努力したり、我慢するのは容易ではないと思う。

大人なので一通りのことはできるようになったが、自分のためにという思いは続かない。

だが家族や、わが子のためなら違う。

コロナ禍で生まれた息子は、一瞬のほほえみで私を勇気づけ、一声で私を不安にさせる。

花は咲く」は、私にとってこの子を思う曲だ、と思った。

自分のためではなく、誰かのために生きていける、

自分が生きていくということも、また誰かの願いなのではないかと思う。

2021-03-04

東日本大震災10年ということで当時はこうだった特集があちこちで出てきて少し辛い。

思い出したことをとりあえず書いてみる。

時系列じゃないです。

本震の後外に避難すると、それまで穏やかだった空がいきなり暗くなって雪が降ってきた

誰かが「この世の終わりか」と叫んだ。

幸い酷い津波は見なかったけど、原発事故範囲だった。

もう少し避難範囲が広がっていたら確実に避難しなくてはいけない距離にいた。

原発水素爆発したとき、多くの人は片付けや給水車に並んでいた。

爆発の速報を聞いてまずは「本当に死ぬのかな」と思った。

その後「でも多分死ぬならみんな一緒だから寂しくないな」と思った。

1週間家から出ることが出来なかった。

外に出る時は雨合羽羽織って行った。

ガソリンは枯渇していた。

古い家の瓦がボロボロ落ちていた。

物資はなくなって、謎の配給が始まった。

犬が不安になってずっと鳴いていた。

家の近くを自衛隊の大きな車があちこち走ってた。

近所の体育館遺体安置所になっていた。

避難所は津波避難原発避難混沌としていた。

ぽぽぽぽーん

毎日余震震度5弱くらいが来る。

揺れたら入口に走っていく。

割れ食器ゴミが多かった。

エネルギー節約で毛布にずっとくるまっていた。

野菜がなくなった。

風呂入った?」が挨拶みたいになってた。

衣装ケースを抱えて水をもらいに行った。

テレビは相変わらず首都圏電車情報津波映像ばかりだった。

ヘリコプターからの放水は見守ってしまった。

避難所でバラバラになった家族との再開があると泣けた。

必死家族を探す人がいた。

ストーブで沸かしたお湯で髪の毛を流した。

ヨウ素剤が送られてきた。

沿岸部の片付けであちこち花が供えられているところがあると聞いた。

おにぎりをたくさん作った。

差別的言動苦笑いした。

高円寺デモにムカついた。

mixi日記書いたらよく知らん人から「泣けました!」と言われた。

節水プロになった。

風呂に入るのはとても気持ちいい。

人間の嫌な面を見た。

それでもヘラヘラしていく図太さを知った。

いつまで経っても全国的報道なんかなかった。

思い出の海岸がなくなって泣いた。

何でこんなにたくさんの人が亡くならなければならないのか考えると死にたくなるから考えないことにした。

車を流された友人は津波を見ていた。

電話で当時の話を聞き、一緒に泣いた。

スクリーニング検査に行った。

近所の広場がみんな仮設住宅になった。

知らない人がたくさんいきなり移住してきた。

好きで来てるわけじゃないけど、好きで受け入れているわけでもない。

人それぞれに地獄があった。

当時の復興大臣にムカついた。

電車が開通したときたは嬉しかった。

桜が咲くのが遅かった。

私たちは生き残ってしまった。

未だに放射線量ニュース天気予報のコーナーで流れる



被災したと言うとおこがましいくらいの経験しかしてないけど、当時のことをつらつら書いてみた。

毎年3月11日はいい天気だ。

今年もいい天気だといいと思う。

2021-02-22

地球温暖化を推進したいのだぜ?

近年、地球温暖化を食い止めようと世界中で皆が躍起になっている。大気への二酸化炭素放出を最小限にすることが、その運動のメインテーマの様だ。

ところで温暖化温暖化ってよく言われるけど、何がそんなに問題なんだろうか?

よく聞くのは、海面上昇によって沿岸部が水没する、気候の変動で農作物等がうまく育たなくなる、スーパー台風等の未曾有の大災害が頻発する…等々だ。生態系への影響を懸念する声も多い。

かに土地が水没すれば多くの人間が住み処を追われるだろうし、気候が大きく変われば世界食糧計画に狂いが生じ、下手をすれば大飢饉ってこともあるんだろう。

ここ数年の日本でも大きな台風豪雨による自然災害記憶も新しい。

それでも僕は『温暖化対策』なるものにどうにも欺瞞めいたものを感じずには居られないのだ。あんもの既得権益者の悪あがきでしょ、と。

地球を守るためじゃなくて、わが身を守りたいだけでしょ。

いや、頭では解っているんだよ? 今の環境が激変すれば多くの人が困るだろうってことはさ。

でも古今東西もっとダイレクト人間の都合で住み慣れた土地を追われた例なんて枚挙に暇がないわけだし…。都市開発での地上げダム湖に沈んだ村、原発事故なんてのもあったな。

僕の住む地域では雪が降る。万年日陰で冬場はガリガリに凍りつくあの道も、温暖化が進めば多少は歩きやすくなるはずさ。

現在実り豊かな土地砂漠に変わることがあっても、逆も然り。不毛の地が豊穣の地に変わることだってあるはずだ。

はっきり言って僕は地球温暖化を推進したいと思ってる。

アイドリングストップなぞ何処吹く風。出発前には5分の暖気運転を欠かさない。

オール電化なんて知りません。ガスや灯油を使う器具割合を増やそう。

出来る事から始めています

ただ、僕が温暖化を推進したいのは、「雪かきメンドイ」とか、「今度は下流の奴らが沈む番だぜ! ヒャッハー!!」とかいミニマル事情(だけ)ではないと思う。

多分、温暖化によって世界は変わる。多かれ少なかれ、間違いなく変わる。

既存の秩序が崩壊し、新しい秩序が興るかも知れない。死人も沢山出るかも知れない。それを経て人類は何か変わるだろうか?

とにかくね、人類史始まって以来の世界の大変革が訪れるかも知れないのに、それに水を差すなんてあり得ないんですよ。

こんなビッグイベント先祖代々子々孫々の代まで通しても1度あるかもわからないのに。

戦争なんて目じゃないんですよ。

世界が変わる瞬間を目の当たりにするチャンスをどうして棒に振れようか。

から僕は温暖化に勝って欲しい。

2021-02-04

日本一住みやす都市or地域ってどこだと思う?

 ちなみに俺は三重県志摩市出身京都市住まい京都は夏は暑くて冬は寒いので遊ぶにはいいが、住むには適さない。三重沿岸部気候が穏やかで食材が美味いが、何もなく不便。何となく静岡金沢は住みやすそうなイメージ

2020-12-13

実家の裏山が切り崩されてソーラーパネルが設置されることになった

その一報を父から聞いて胸中に去来したのは、幼き日の思い出ではなく、むしろ長じてから度々意識した故郷の衰退のイメージだった。

元より地場産業として誇れるものが取り立ててあったわけではない地元は、緩やかだが確実な経済的衰退と人口減少の影響を受け、公共施設老朽化や各種インフラ経年劣化という形で自治体としてのほうれい線を隠す術を失っていった。

それでも、いや、それゆえに明確な転換点などなく、ただゆっくりとした老化から鈍感なふりをし続けた首長自治体、そして何より住民が半ば共犯のように地元の腐敗と死滅とを看過していった。

からこそ、いまさら太陽光発電などで延命を図ろうとする醜さにほとほと嫌気が差した、その実感があった。

それでも友人の結婚式に出席するために数年ぶりに帰省してみると、どうも聞いていた状況と乖離があったために改めて確認を取ったところ、どうやらこの度設置が決まったのはソーラーパネルではなく、例の宇宙太陽光発電の受電設備ということらしかった。

年齢を重ねたが故に知識と語彙の更新をやめた父をいまさら責める気も起きず、数か月前にニュースサイトで多少話題になっていたトピックに思いを馳せることで2次会の無聊を慰めていた。

令和4n-21年に決定された第n次エネルギー基本計画では、ついに原子力発電の占める発電電力量の占める割合が0%になった。

平成震災とそれに連なる事故以降窮地に立たされていた原子力産業はついに時勢に降参し、明るい未来エネルギーから歴史教科書上の記述となることを選んだ、という建前を本気にしている奴は少々イデオロギーに傾倒しすぎているきらいがある。

現実は、国内ソーラーパネルメーカーの開発した、そこまで安価とは言えないまでもそこそこ効率改善の図られた新型パネル推したい産業界が、細々と開発を続けていた国産ロケットペイロードの使い途を探していた経産文科省に仮託した、おままごとのような科学技術国威発揚煽りを受けた全廃、と言ったところだ。

どこまで行っても消極的な退場に、却って日本という国を感じざるを得ず、左派メディアのこじんまりとした勝利宣言にわざわざ難癖を付ける余力もなかったと見え、平成後期から令和初頭に掛けてあれほど紙面を賑わした役者とは思えぬほど粛々としたレームダック期を享受していた。

実際、人々とメディアの関心は、中国による、気前の良い提供と、経済協力を人質に取った押し付け中間の様な形で供与された受精遺伝子改変技術をどれだけ受け入れるかという議論にあった。

(科学技術という側面において現代日本中国に対して如何にサブジェクト・トゥしているか、という話だ。宇宙太陽光発電所はさながらパクス・シニカに立ち向かうドン・キホーテのようだ、と明に暗に揶揄された。)

米原子力協定の次回更新がないことは誰の目に見ても明らかであり、山のように余っているMOX燃料の行き先はIAEAも知らないようだった。

そんなことだから中間貯蔵施設という名目の、事実上最終処分場たる六ヶ所にすべてを押し付け政府行政と大多数の国民NIMBY精神遺憾なく発揮することで各々の精神の安寧を獲得していった。

とにかく、ことの主犯たる国産宇宙太陽光発電所は「ひかり」という、加齢臭むせ返る横文字候補からはなんとか逃げ果せた通称を拝命し、20GWもの大電力を供給し始め、東京万博会場の灯りが一斉に点った日をもってひとまずのプロジェクト成功と見る向きもあった。

(日本による宇宙開発の数少ない世界成功に肖って「はやぶさ」なんてネーミングを推す動きもあったが、流石にこの国にも一抹ながら恥の概念は残っていたらしい。また、「まりし」などという旧動燃残留思念、いや怨念が具現化したかのような案も提出されていたもと聞くが、真偽の程は定かではない。)

実際、こんな大規模プロジェクトを実行する能力エネルギーをこの国がいまだに持っていたことに驚いた。

ただ、ひかりから降り注ぐ高密度マイクロ波分散して受電する設備、すなわち受電所の立地が不足していると言う問題は依然として解決の目を見ていなかった。

安全よりも安心を求める国民性に変わりはなく(「焼き鳥デモ」の映像を見たときは流石に乾いた笑いしか出なかった)、電源交付金雀の涙と来れば宜なるかな積極的に手を挙げるごく少数の自治体は奇異の目で見られた。

とはいえ、大流量の循環水系のために沿岸部であることが求められる汽力発電でもなく、大規模な河川と高低差が求められる水力発電でもなく、只広い土地さえあれば良いというだけの必要十分条件は今まで大規模電源立地となることなど考えもしなかった自治体の目には福音として映ったらしく、それらの首長は新たな時代権益ホルダーとなることを選んでいった。

反対に、新規基準適合審査の遅々とした進展と繰り返される住民訴訟、そして最終的な結論としての廃炉の影響をもろに受けた原子力立地の反応はさっぱりであり、政治の影響をもろに受ける歳入に頭を悩ませられるエネルギー立地はもう懲り懲りと言った風情で、役人の誘いをアイリスアウトの向こう側に押しやっていた。

結局、ひかり設計容量のすべてを受電するに必要な30GW分の受電所を運開当初から用意することを諦め、漸次募集という名の先送りを決定した政府は経産文科省を矢面に立たせることを選び、自らは飄々としていたというのだから大したものだ。

結局、運開から5年が経過した段階でもひかりの擁する200k㎡に及ぶパネル3分の1は折り畳まれたままであり、白衣十人黒衣五人などと不必要比喩披露した大臣メディアの総バッシングを浴びる権利を恣にしていた。

そうした、古式ゆかしい伝統的な時勢の中で、2次立地募集に手を挙げた自治体の内の1つが、我が郷里だったのである

「親父が色々動き回ってたみたいなんだけど、さ。正直言うと、あんま関わりたくないなってのがあって」

私の友人であり本日の助演男優、またの名を新郎が、半分ほど空けたアサヒビールのジョッキをテーブルに慎重に据えながら、疲労を隠さぬ赤ら顔で言う。

彼の父親町議を務めており、「太郎」というシンプルすぎる名前出馬を見越して付けた名前だと言っていた。

(国政選挙に出るわけでもないのにな、とは彼の自嘲だ。)

その親父さんはどうやらこの度の誘致に際し懸命に旗を振っていたという。

しかし、僅かばかりとは言え受け取る交付金と、"多少の"造成による環境破壊と、電源立地になるという誇り(この価値観だけは共有が出来なさそうだ)と、それら3つをとりまく可愛らしい権力闘争の予感に、父親の説得と説教とに玉虫色の回答を重ねることでのらりくらりと回答の明言を避けてきたのだという。

彼のこの手の身のこなしは素直に凄いと思うし、そうした人付き合いに嫌気が差していた、というのは私の上京に係る動機の半分を占める。

「でもお前、今更そんなこと訊いてくるだなんて、本当にここの人間じゃなくなっちまったんだな」

この地でこの話題が取り沙汰され始めたのは軽く2年以上は前だという。

誘致か否かで侃侃諤諤の論争があり、どこに建てるかでまた侃々諤々の論争があり、さら用地買収に係るあれやこれやのトラブルがあり、それでも最終決定がなされたのがひと月前というのだから、どれほど地元の世情に疎くなっているかを実感させられる。

あるいは、上京して好き放題やっている(ように見える)私に対する軽蔑嫉妬の念が多少なりとも混じっていたのかも知れない。

なるほど、確かに私には家庭もなく、親族との濃密な付き合いもなく、仕事周りの土地付き合いもなく、自由気ままにやっていると言われても反論する材料がないことに気づく。

であるなら、こんな日くらい友人の愚痴と誹りを受ける義務も果たすべきだろう。

そう思って、コークハイを傍らに、言葉少なに彼の言葉に相槌を打つことに決める。

まったく、本当に大変な役回りだと思う。

返す返す、自分には出来る気がしない。

翌朝、久々に実家の自室で目を覚ますと(物置と化していなかったことに驚いた、こうした面に関する母の義理堅さには感謝しても仕切れない)、やはり気になっていた裏山に足を伸ばした。

アルコールが多少残ってはいたが、丁度良い運動だと体に言い聞かせて路を辿っていく。

子供の時から変わらない、というのはフィクションの中にだけ許される情景で、長らく人の手が入っていないことを伺わせる荒れ様には流石に心のどこかが痛んだ。

…いや、いや。

地元を出て戻らぬお前に心を痛める権利などあるのか?

よそ者同然と化したお前が捨て犬に見せるような仏心を発揮して碌なことになるのか?

もはや何も言う権利などないことに遅ればせながら気付き、せめて在りし日の遊び場の記憶が損なわれぬよう、路の途中で踵を返した。

もう2度と見れぬであろう山の景色を視界から追いやり、そういえば客先から急ぎの問い合わせを受けていたな、などと頭からも追いやり、足早に帰路に就いた。

帰路。

実家への帰路か、東京への帰路か、自問せずとも回答は明白だった。

思い出深き裏山は、もはや私の裏庭ではない。

地方都市はいいぞ(茨城県日立市編)

就職でなんとなく日立市に流れ着いて永住することになりそうな身として、淡々生活感想を書いてみる。

中核市でも農村でもない、日本中に沢山ある人口20万人弱の地方都市の一生活者の記録です。

環境

3年ほど前に建売4LDKを購入。

働き方改革が始まる数年前までは残業して帰る時間に空いている店も少なく、娯楽が少ない環境で、他に使い道もなかったので、20代で新築する夫婦は同期の中で珍しいほうはなかった。

田舎人間は、家を転売可能資産などとは思っていない。

掛け捨てのアパート代よりマシぐらいの気持ちで35年ローンを組む。

マンション…はJR駅の近くに新築分譲マンションが1棟ぐらい出ていたが、駅の近くに何もない街並みなので、価格ほどの魅力は感じなかった。

でも某H社の関係転勤族単身赴任の人も多いので、マンションは主にそういう方に需要があるのだと思う。

客間が在宅勤務の仕事部屋になり、将来の子ども部屋は物置部屋になっている。

もともと私は物を増やす性質で、夫は物持ちが良くあまりものを増やさないので、ほとんど私の荷物占領しているのはいちおう申し訳なく思っている。

アパート暮らしとき電子書籍一択だったのが、紙の本を買えるようになって嬉しい(ほとんど漫画だが)

徒歩5分圏内には、コンビニ24時間営業のチェーン系飲食店が1件。

決して充実はしていないが、孤独を感じるほど何もないわけではないのが良いなあと思っている。

10分歩くと砂浜。

まれ育ったところは海まで2~3時間盆地だったので、移住したての頃はどこまでも続く水平線結構感動した。

今ではすっかり見慣れてしまい、インドア人間なので夏でもいちいち海に行ったりはしないが、それでも晴れの日は通勤中に海が見えるとちょっと爽快な気持ちになる。

オーシャンビューな感じのカフェにもたまに行く。

国道沿いにはスーパーとかホームセンターとかニトリとかチェーン系のファミレスが一通り揃っているので、日常的な買い出しはそこに車で行く。

しかに車がないとかなり不便。

うちは夫婦ともバス通勤なので、車は1台で充分なんだけど、うちも含めて周辺の物件には3~4台の駐車スペースが確保されている。

そのくらい車社会なのだ

私は元々かなり運転に苦手意識があったのだけれど、前職を辞めて1年ほど在宅パート生活をしていた期間があり、時間に余裕があって必要にも迫られていたので、生活に困らない程度には運転できるようになった。

慣れると運転楽しい

あと、夜でも気兼ねなく出かけられるのは、特に女性にとってはかなり大きなメリットなんじゃないかと思っている。

娯楽

市内に娯楽施設らしいものはないが、最近話題公立動物園はなかなか立派なものがあり、子どもが出来たら連れて行ってあげたいと思う。

今にも逃げだしそうなゆるい囲いのカピバラと近距離で触れ合えるのと、珍しいヘビとトカゲがいっぱいいる。

週末何してるかというと、夫はゲームラズパイ開発か資格勉強してるし、私はネット漫画か知り合いのサイト開発などしていて、自宅を謳歌している。

たまには30分ほど海沿いを運転して隣の市のショッピングモール(withシネコン)に行く。

あと、土曜の夜は隔週で、やっぱり30分ほど運転して絵画教室に通っている。

先生が昼は喫茶店マスターをしている気軽な教室で、デッサン楽しいが、半分くらいは先生高校生たちの明るい雑談を聞きに行っている気分。

数年前、インドア人間のくせに、思い立ってSUP(スタンドアップパドルボード)に行ったことがあった。

独身時代に住んでいたアパートの近くに、体験プランをやっているショップがあったのだ

ちょうど今くらいの季節で、めちゃくちゃ寒かった。

そのときは海じゃなく流れが穏やかな川で、インストラクターに促されてボードの上に仰向けに寝そべってみると、川の上に寝ている感じが心地よかった。

川で獲れた(?)という鮭のイクラ載せ放題の昼食と、1日SUP体験合わせて5千円。

かなり満足度の高い体験だったが、当時は趣味に投入する色々な(主に精神的な)リソースが足りていなくて、続けるには至らなかった。

でもまあ、その気になればそういうウォータースポーツができる環境もあるし、釣り好きな人には最高の環境だと思われる。

車に乗れない人や学生は遊ぶところがなくて寂しさを感じるかもしれない。

私はこの町で青春を過ごしておらず、余計なお世話ではあるのだが、そのあたりの寂寥感日立市出身の人気ラノベ作家ヤマグチノボル氏(ゼロの使い魔で有名)の著作からも伺えた。

若くして亡くなった氏の作品には衰退しつつある故郷への愛が込められていて、よそ者の私が後から読んでも、何というか非常にしんみりしてしまものであった。

これも隣のひたちなか市だけど、邦楽好きとしてROCK IN JAPANに気軽に行けるのは最高。

今年はコロナでなくなっちゃったけど。

ネモフィラコキアも良いのだけど、最近は人気で人が多すぎてあまり行っていない。

仕事

ぽんこつプログラマとしてまあまあ楽しく働いている。

某H社様のおかげで市内の同業種求人はいつも需要供給を上回っている印象。

1回辞めた既婚アラサー女の私でも再就職できたし。

通勤バス使ってドアtoドア30分弱。

バス乗車が10分で、公園のカモを数えながら15分ほど歩く。

全部歩いても45分くらいなので、気が向いたら音楽を聴きながら歩いて帰る。

バスは、2005年に廃線になった日立電鉄線路跡をバス専用道路にしたBRTというものが開通して、かなり便利になった。渋滞に巻き込まれないバスは良いものだ。

(ローカル線好きとしては、電鉄に残ってて欲しかった気もするが)

BRTは自動運転試験運行も始まったりしていて、ちょっとクワクしている。

雇用がある町は強いなと思う。私は地元がかなり好きだけど、就きたい仕事の枠が無くて地元を出たので。

正直最初に越してきた頃は、工業都市特有の無機質な景観沿岸部らしい雨風の強さに冷たい印象も受けたのだけど、ここは働くための町なんだと思う。おかげで図書館とか病院とかも新しくて綺麗。

教育

まだ子ももいないので何とも言えないが。

子どもの興味と合致したら将来は茨城大か茨城高専か筑波大に行ってくれたら経済的には嬉しいかな、ぐらいには思っている。

東京に出たとしても、週末気軽に行き来できる距離なのは良い。特急で片道1時間半、高速バスで片道2時間半。

東京(というか上京)に対して北東北民ほどの執着が無さそうだもの

需要全然ないと思うけど、生まれ育った岩手県盛岡市についてもそのうち書きたいと思います

2020-08-15

日中戦争従軍した祖父

過去記憶を頼りに書いているため、情報の正確性を保証できません。それを了承の上でお読みください。

前置きを飛ばしたい場合引用ブロック部分へ

今は亡き私の祖父は、日本軍兵士として末期の日中戦争従軍した。

10年前、祖父は私にその時の詳細を一度だけ語った。

第二次世界大戦が終わって75年、その話を自分記憶がこれ以上劣化しないうちに書き留めておく。

祖父1920年12月まれ1944年頃〜1945年従軍体験を語った当時90歳(認知機能正常)

・私 …1990年まれ、話を聞いた当時21歳

私は幼い頃から祖父中国戦争に行ったことを知っていた。

しかしそれ以上のことは何も知らないままだった。

大学2年のGW、私は両親、妹と共に父方の祖父母宅へ遊びに行った。

祖母と母が台所食事の片付けをし、祖父、父、妹、私が居間で団欒していたその時だった。

祖父が何の前置きもなく、そして極めて淡々と、幼少期から戦争体験を語り出した。


祖父淡路島の山深い農村で生まれた(長男ではない)。

高等小学校卒業後、街の酒屋で奉公した。

将来なりたい職業兵隊だった。

こんな田舎の子供でも「兵隊になる」と思わせる学校教育がなされていた。

奉公が終わった祖父本州民間企業就職した。

そして、徴集がかかった(徴兵検査1921年春?)。

戦地へ赴くよう命令されるまでは、日本国内で訓練を受ける。

兵隊には任期があり、その任期を過ぎると、戦場へ行かなくても良くなる。

任期陸軍・常備兵役現役の2年間?)

祖父任期満了の直前に「中国・石家荘」への出兵命令を受けた。

祖父の話しぶりからは、小学生頃は兵士に本気でなりたいと思っていたが、

いざ徴集される段階になってからは、出兵せずの任期満了を願っていたように感じられた。

ちなみに祖父JR国鉄と呼ぶノリで、中国全体を「満洲」と呼んでいた。

そのため私は石家荘を旧満洲国の都市勘違いしていた。


祖父日本から中国沿岸部まで船で移動し、その後陸路にて石家荘に到着した。

石家荘で祖父はある鉄道の警備を任された。

この鉄道を走る汽車日本軍の物資を運んでおり、これを中国側に妨害される恐れがある。

そのため駅だけではなく途中の線路も警備する必要があり、

祖父担当箇所は山あい農村に近い線路であった。

日本軍は農村占拠し、逃げ遅れたり抵抗した現地の民間人捕虜として捕らえ、使役していた。

しか日本軍に捕まっていない現地人もいて、

彼らが日本軍を襲ってくることがあった。

祖父は彼らに応戦し、山中を駆けずり回った。

当然ながら地の利日本軍より現地人にある。

それに山は樹木で覆われ視界が悪く、敵の姿が見えず、どこから襲ってくるかがわかりにくい。

彼らは銃を含む武器を持っており、しか自分たちの生活基盤を取り戻すべく必死こちらに向かってくる。

木と木の間からは、壮大な万里の長城が見えた。

祖父が戦ったのは民間人のみだったのか、民間人擬態した軍人だったのか、それとも両者混ざっていたのか」

という、かなり重要情報が私の記憶から抜け落ちてしまっている。


ある日、祖父は仲間達と共に銃の撃ち合いをしていた。

もちろん敵から銃弾自分達に向かって飛んでくる(祖父は「プププププッ」という効果音と共に

親指と人差し指でつまむようなポーズをとり、右から左に水平に移動させることで弾道を表現した)。

その時、横にいた年上の兵隊に弾が命中し、彼は息絶えた。

そしてその後、祖父の片脚にも弾が当たった。

祖父は山の中を担架で野戦病院へと運ばれた。

運んだのは、中国人の捕虜達だった。

銃創のでき方によっては、当時の医療技術では脚を切断しなければならなかった。

しか祖父場合銃弾は膝上を貫通しており、脚の切断は免れた。

ただ、祖父の傷の縫合は無麻酔で行われ、激痛が伴った。

祖父野戦病院入院している間、祖父のいた部隊中国側の総攻撃に遭った。

結果、部隊の多くの兵士犠牲となった。

祖父は小柄で屈強ではないため、戦友会では「あの時入院していなかったらお前も死んでいただろう」とよく言われたという。

祖父はその後、1945年8月15日太平洋戦争終戦」を現地で迎えた。

一ヶ月後に日中戦争終結したが、他の任務があったらしく、

祖父帰国は1945〜1946年の冬頃となった。

この部分を聞いた時、私は色々なショックを受けた。

戦争リアル、穏やかでニコニコしている「おじいちゃん」の抱える痛み、そして父や自分誕生紙一重だったということ。

私は祖父の膝上・その裏の傷跡をこの時初めて認識した。


祖父による戦争体験の話には後日談がある。

実は、祖父は膝上の銃弾貫通と同時に片足の小指を失っていた。

このことは、祖父葬儀喪主の伯父(祖父長男)が挨拶の場で初めて語った。

喪主挨拶では他にも、祖父が夜中に大声を出して飛び起きていた(のを幼き日の伯父が目撃した)ことが明かされた。

祖父戦地体験を引き金としたPTSD発症していた可能性がある。

これらの話を祖父がすることはなかったし、裸足の祖父を何度も見ているはずなのに、指が無いことに全く気がつかなかった。

銃弾効果音まぬけさといい、「自分中国人を撃った」経験を話さなかったことといい、

祖父の語りは孫娘用にかなりマイルドになされていたに違いない。

祖父がなぜあのタイミング戦争体験を孫に話したのか、その意図を聞くことはもうできない。

話に圧倒されてしまい、また深堀りを戸惑ってしまい、曖昧情報確認や疑問の解決ほとんどできなかった。

90歳で突如戦争体験を語った3年後、祖父は93歳で他界した。

2020-08-10

それでも人は田舎を捨てる

9・11都市テロの標的になった。

都市部はテロに遭遇するリスクが高まった。

じゃあみんなで安全田舎に引っ越そう。とはならなかった。

テロに遭遇するリスクがあっても人は都市に住み続けている。

3・11の地震では都市震源地から離れていたこともあり、それほど大きな被害には遭わなかった。

でも都市で同じ規模の地震が起きたら多大な被害が出ることがわかった。地震ビルは倒壊し、津波地下街をも飲み込む。液状化現象沿岸部は住めなくなるかもしれない。

都市地方原発依存するリスクも明らかになった。

じゃあみんなで地盤のしっかりした高台に引っ越そう。電力も地方負担を強いるのはやめてみんな分散して暮らそう。とはならなかった。

災害に遭遇するリスクがあっても人は都市に住み続けている。

新型コロナウイルス禍では、都市感染リスクが非常に高いことが明らかになった。

人が密集して暮らせば未知のウイルスを前にひとたまりもないことがわかった。人が多すぎると医療ももたないこともわかった。

なかには人の少ない地方移住しようと叫ぶ人もいた。実際に移住した人もいた。

じゃあ都市に残っている人もなるべく地方移住しよう。これから分散して暮らそう。ひとつ場所人間が密集して暮らすのは良くない。とはならなかった。

未知のウイルス感染するリスクがあっても人は都市に住み続けている。

結局、人間田舎では暮らせないのだ。それにはいろいろな要因があるのだろう。

田舎の人たちの考え方の古さ。排他性。陰湿さ。田舎の不便さ。

都市部はリスクがあるかもしれないけれど、自分だけは大丈夫だろうという正常性バイアス

やっぱり人は人がたくさんいるところで暮らしたいという心理もあるのかもしれない。

この先も都市は様々なリスクさらされ、多くの犠牲が出るだろう。都市で未曽有の大災害が発生する日も遠くはない。

それでも生き残った人たちは逃げることなくそこで暮らし続けるのだろう。この流れは不可逆的である

2020-06-23

anond:20200622195053

おおむね正しい認識世界各国のデータ合致する。

使い捨てビニール袋の規制有料化は、その使用量を大きく減らし(だいたい40~90%減)、その結果ポイ捨てが減る。

具体例なら、

カリフォルニア州サンノゼではビニール規制紙袋有料化ののち、ビニールゴミ雨水排水管で89%、河川で60%、住宅地で59%減少した

ワシントン州シアトルでは有料化後、ビニール袋が家庭ゴミで48%、産業廃棄物で76%減少した

イスラエル使い捨てビニール袋の部分的規制をおこない、一年使用量8割減、沿岸部ビニールごみは半減した

オランダ無料ビニール袋配布を禁止後、一年後、使用量7割減、プラごみ4割減

なお使い捨てビニール袋の削減は環境中のマクロプラスチック問題への回答なので、マイクロプラスチック問題とは少し毛色が違う。

2020-06-04

anond:20200604230416

『じゃけん』は(ヾノ・∀・`)ナイ、

『じゃけえ』もしくは『じゃけ』だろ

(まあ沿岸部山間部、あと何処の県と接しているかで変わってくるがのう...)

2020-04-27

anond:20200427095047

これやると中国いちばんキツいと思うので、ホントどうするんだろうなぁ

沿岸部に集積してた出稼ぎ工場中国全土に分散するわけにも行かないし、

そんなことしたらさすがに生産コストが爆上がりだしな。

今来ている出稼ぎ農民を3年くらい田舎に帰らせないようにして深セン広東省あたりを2億人くらいの完全閉鎖都市にしてその城壁のなかで生産を維持するとかどうかな

2020-04-15

anond:20200415002846

でも農民沿岸部出稼ぎに出してブロイラーのように働かせるのが彼らの競争力の源泉なわけじゃんね?

コロナがあると肝心の労働集約性が出せないわけだけど、どうするのかなって注目してる

2020-03-24

今の「コロナの対して日本、圧倒的に善戦してるじゃん!」ムードって

太平洋戦争で言う↓の状態だろ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89

真珠湾攻撃から2ヶ月後の)1942年2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部カリフォルニア州サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設破壊した。(略)日本海軍は、同月に行われたジャワ海戦アメリカイギリスオランダ海軍を中心とする連合軍諸国艦隊を打破する。(略)また、日本陸軍も3月中にイギリスビルマ首都であるラングーン占領ビルマの戦い)し、日本連戦連勝の破竹の勢いであった。

2020-02-06

anond:20200206092405

リベラルって豊かさが必要なんだよ

アメリカとかが分かりやすいけど、大統領選沿岸部都市部の豊かな地域ではリベラル(反トランプ)の勢いがあったけど、実際にアメリカを支えてる労働者階級トランプを支持してる。

日本が衰退してるから余裕がなくなって「国連中心主義」が衰退して「自国第一主義」が盛り上がってる。

衰退国家であるイタリアギリシャスペインなんかも同じ状況だからわかりやすいよね。

歴史ある無能国家になってしまって、歴史ある分体制を変えるのが難しく、過去にすがった「国粋主義」が人気になってしまう。

2020-01-06

anond:20200106101132

いちおう科学工業は健在でしょ。

めぼしい技術がまるまる手に入るなら儲けもの、と思われる程度には。

あと中国沿岸部を塞ぐように日本列島が並んでるので地政学的にもわりと重要

2019-10-26

anond:20191026010730

イタリア沿岸部に「ソルテミサーニャ・レルカ」って有名なレストランがあるんだけど、そこはワインを入れる時プラスチック製のを使うんだよね。

勿論プラスチック匂いがしない奴で、人によってはガラスは冷たすぎるので、プラスチックの方が口触りが良いという人も居る。

まぁ実際にそのソルテってレストランの、プラスチックワイン容器の為に、常温で一番香りが出るソルテワインってものが作られてるから実際そうなんだろうけど、

実はそのソルテレストランには悲しい歴史があるんだよね。

イタリアって結構古い大学が多くて、隠しワイン貯蔵庫がある大学もある。ソルテレストラン創業者はそこでワイン密造してたわけだ。

古いレンガと常に肌寒い地下に作られた貯蔵庫でできるワインは、一大学生が作るにしてはかなり美味で、瞬く間にイタリアで人気になった。

当然大学にもばれて退学させられて、その元大学生は海沿いの実家に戻り小さなレストランを始めるんだよね。

あるひその大学に元学友が訪ねてきて、その後勢いで、大きなレストランを作ろうって事になった。そして美味しいワインと共に、そのお店は大繁盛したんだ。

ここまではいい話なんだけど、当然浮き沈みはあるわけで、元々その元学友が出資してたんだけど、資金繰りが上手く行かなくなって、軽く喧嘩になったんだ。

それでその元大学生は、持っていたワイングラス、勿論ガラスで元学友を殴った。本来なら死ぬはずじゃなかったんだけど、頸動脈を切って失血死してしまったんだ。

刑期を終えて出てきた元大学生は、自分の店ではワイングラスを使わないと誓って、ワインを出さなくなってしまった。でも近代になってプラスチックワイングラスが出来ると、

の子孫も、せっかく美味しいワインを作り続けてるんだから、お店で出さなきゃもったいないってことで、それをつかって店でワインを出し始めたんだね。

からソルテワインってブランドのほかにボンワインってブランドがある。そのボンレっていうのは元学友のあだ名で、その店にはソルテワインボンワインが二つ並べておいてあるらしい。

そう思うとサイゼワイングラスがプラスチックでも、なんか乙だと思わないか

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん