はてなキーワード: 死ぬことと見つけたりとは
イェール大の成田が集団自決発言で燃えてるけど、こういう若者の高齢者排斥思想はエスカレートしていくだろう。
まず高齢化の進行で、医療や福祉による社会負担が加速度的に増加していくのは100%間違いない。
団塊世代が後期高齢者に突入するあと10年ほどの間に、日本は介護地獄に直面し、
その介護を担う団塊ジュニア、氷河期、ゆとりの現役世代は、「子孝行とは死ぬことと見つけたり」という真理を見出すだろう。
子供がいる者はなるべく介護の負担を子に掛けたくないと思い、終活の極北として自決という手段を望む者が少しずつ増えてくる。
さらに、子に介護される見込みのない孤独な独身世帯も、ただただ社会のお荷物として迫害される老後に耐えられないものが出てくる。
もちろんこれからの現役世代となる今のZ世代からも、老人にはなるべく早く現世から退場してほしいという願望が噴出してくる。
そうした需要により、30年ほど後には安楽死需要が今の100倍以上に膨れ上がるだろう。
「死ぬ権利」という言葉がキーワードとなり、国会でも議論される社会問題になる。
ついさっき調べて知ったんだけど武士道の本だった。
有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり。じゃあ死ねよ(山岡)」の出典なのね。
で、じゃあなんで忍者と勘違いしてたんだってのが気になって調べてみたんだけど、
バーチャファイターに影丸っていうザ・ニンジャみたいなキャラがいるんだけど
そいつの出身地が「葉隠れの里」で葉隠流の忍者で葉隠流柔術の使い手って設定なんよね。
NARUTOの主人公のナルトが所属する里が「木の葉隠れの里」。
明らかにこのあたりの影響で「葉隠」=「忍者」と思い込んでたけど、実際には武士のバイブルでした。
うーん、誰かに話す前で助かった。
ゴウジュンーッス
いつでも基本を思い出したり、原点に立ち返ることって大事だと思うんですけど
まぁだからってゼロの状態に戻せってんじゃなくて、ゼロの時自分はどういう気持ちで動き始めたのか、また活動方針を変えるときはどういう思いで活動方針を変えたのか、とかを考えた方が苦しい気持ちが少しは楽になるよね、って感じです。
なんせ人間いつでも五里霧中になってしまうし、だのに周囲は無味乾燥に思えてしまうこともしばしばな訳で、それじゃあ何を潤いとして生きてきたのか、何を指針として生きてきたのかということも死んでからもわからずに活動停止しちゃうんでしょう。
だからせめて縄が首にかかる手前ぐらい、そんなことを考え出す手前ぐらい、なんかややこしくなってきたな、きな臭くなってきたなという思考が巡ってきた時に自分はどの立場として胸を張ったり居直ったりして居られるかを考えて生きるのを考えるのもアリかもしれないです。
なんたらとは死ぬことと見つけたりとか思っちゃってるなら、それで後悔が無いなら仕方ないなぁとは思うんですけどね
でもそれは救いのないことなのだろうか、結局人が救われるのならばその結果何者かが地獄の業火にその魂を投げ込んだとしても、行為が過ちだったと業火の中で喘ぐ思いをしても、人間として生きて定めて死んだのならそれは
ということで本日は【安全目標の確認よいか】でいきたいと思います。
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
目次 [非表示]
1 概要
1.2 書名の由来
2 脚注
3 刊本
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。