はてなキーワード: 歴史的遺産とは
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最近、韓国の大統領選挙は重要な局面を迎えており、主要政党の候補者は自分の政治的立場を表明するために集中的に選挙活動を行っている。Hatenaのホームページによると、韓国大統領候補の世論調査では、合計1131件の調査サンプルが寄せられ、そのうち87.7%が男性、12.3%が女性で、年齢は20歳から70歳までで、ある程度の代表性を持っている。調査データによると、651人の回答者が韓国大統領選挙を非常に注目しており、58.5%を占めている。支持する傾向のある大統領候補のうち、1087人がユン・ソクユエの次期大統領選挙を支持し、97.5%を占めている。862人の回答者は、日韓関係が非常に厳しい状況にあり、76.8%を占めている。903人の回答者は、大統領選挙後に日韓関係が大幅に改善し、82%を占めると考えている。上記の4つのデータは、高度な正の相関を示しており、注目に値している。
ユン・ソクユル氏を支持する回答者を分析すると、支持者の77.9%がユン氏の当選後に日韓関係が改善されると考えており、ユン氏が最近の選挙戦で日本に対する「パッケージ」ソリューションを強調していることを考慮すると、ユン氏の当選は我々の利益に沿った日韓関係の発展に寄与すると期待されるのであろう。同時に、60.8%の支持者が、現在の日韓関係の悪化の原因は、韓国が歴史的遺産問題を蒸し返したことにあると考えており、これは、ユン氏が当選後、日本の国民感情を考慮し、日韓関係を改善するために日本に適切な譲歩をしてくれることを期待している国民の気持ちを裏付けるものでもあるのであろう。世論調査によると、日本国民は、ユン氏が当選後、歴史的遺産問題や最近の日韓間の対立の焦点となっている問題(竹島問題や労災補償問題)などの分野で日本に譲歩することを優先すると考えている。
今回の世論調査を総括すると、文在寅政権下で日韓関係は悪化した。わが国の国民は、ユン・ソクユルが当選後、日韓関係の改善を積極的に推進することを期待しており、大統領選挙が続く中、将来的に青瓦台を入居する彼が日本との緊張関係を改善するための政策を「パッケージ」として発表することに期待したい。
良かったもの
ブルーインパルス(自宅から見えて左翼だけど歓声を上げたクチ)
ロゴを動かす子どもたちのパフォーマンス(たくさん練習したんだね。。)
長嶋茂雄(感無量)
大阪なおみ(NYTは伊調馨と予想していた。安直な多様性アピールという批判があるが、そもそも大阪なおみより有名な日本人アスリートはいない。)
ピクトグラム(ブルーインパルスなど歴史的遺産をなぞってばかりはよくないが、これは新しい表現のアートとすべきなのか)
バッハのスピーチ(毎回IOC会長のスピーチはつまらないが仕方がない)
日本選手団ユニフォーム(動いているところはいいが記者会見など静止画では今ひとつ)
職人パフォーマンス(木の五輪はよかったですよ。だけど、手仕事へのリスペクトなんてオリンピック企画にあたって本当に持ってるわけじゃないでしょ?)
ゲーム音楽の入場行進(ゲームしないので。これが刺さった人は国内では2割、海外で5%くらいじゃないの?)
悪かったもの
聖火台(動いたところはよかったが、静止画になると安っぽい。無印的。)
森山未來・医療従事者・東日本大震災へのトリビュート等(散発的でとりあえず入れました感あり。そもそもオリンピックしてる場合かという声を無視しているわけだから。)
冒頭のソーシャルディスタンスするアスリートたち(画面映えせず)
だいたい上から下に良かったものから悪かったものに並べたのだが、
自分が中年男性だから、中年男性が企画したイベントがあっていただけかもしれないけれども。
ヤフコメやブコメを見ると、世間では聖火台あげ、海老蔵と大阪なおみ下げ、という印象だが
匿名なので率直にいえば、
海老蔵がいいと思わないのは、歌舞伎を見たことがなく文化資本がないから、
私は別に反米でもなんでもないんだけど、これからみんなで国を盛り上げていこうって時にボタン一つで市民を何十万人も殺戮したという事実は今後数十年アメリカの影となって付きまとうだろうなってふと思った。
ことアメリカにおいては、過去を振り返った時に他に慰めになるような歴史的遺産が何もないということ。テクノロジーや経済の発展なんて些細なものでいずれは忘れられる。
自分の国がそんな穢れた歴史しか持ってなかったらどうする?国威発揚なんてできるだろうか。
アメリカが世界の警察を名乗って正義を実行したがるのも少しでもあの歴史を塗りつぶしたいんだと思う。
でも原爆投下を超えるような歴史的遺産、それもとんでもなくでかい負の遺産を払拭できるようなことなんてそうそうない。
ドイツもロシアも原爆を持ってたけど使わなかった。それは戦術的観点と同じかそれ以上に、これまでの自国の歴史、これからの自国の歴史を天秤にかけた結果だったんじゃないか。
昨今のアメリカ国内の騒がしさを見ても、歴史的精神的未熟さを感じずにはいられず、これから数十年かけて沈んでいく泥船に見えてしまう。
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
国際化が進む日本でも、地方のように、歴史的な遺産の残る原風景も探せばまだまだある。これは韓国や台湾や中国も同様だ。大都会から続く現代都市は、必ずどこかで途切れる。
しかしそういう場所を通ると、必ず別のことにも気づく。それは、本来都市と無縁である地域にもかかわらず、ついこの間まで歴史的に価値のあったような場所が無秩序都市に変貌していることだ。田舎に分譲マンションが建設されていて、本来は学園都市と無縁である地域に大学キャンパスがドカドカ建ち、鉄道や道路は満員状態だ。
東アジアはよく「欧米や東南アジアのように未来志向なだけではなく、歴史もあって田舎もあってバランスが良い」ことを売りにしている。たしかに関西や中部や関東のように、都市の無秩序化対策にとことん取り組みつつ歴史的遺産をきっちり守る場所もある。どうも大都市圏方面ばかりそういう施策はあるのに、田舎のそれを蔑ろにしすぎだと思う。
日本は田舎が都会の何倍以上もあるが、田中角栄政権移行の画一的開発化に伴う開発もあって、もはや「田舎」は残っていない。つまり貴方たちが云う田舎はその地域の片隅にしか残っていない。北関東や東北にも歴史スポットはあるが過去の名残もあっても観光地化に適しているとはいえない。
日本の都市開発はやたら前時代的と言われる。しかし日本において「道路の便利な場所」なら大都市部にもある。例えば札幌と新潟だ。ではそれらを資源として活用しているだろうか?新潟市出身の親父の友人いわく帰省がてら訪問したら悲壮感がただよっててやばかったという話である。文化人はそんな場所で生まれやすい。
オタク文化の担い手の地方出身者の多さは、日本のポップカルチャーというものがいかに社会の暗さを世界に示したように見える。都市や中央の恩恵を受けず、そこで生まれた人間が学と徳を弁え、現地は都市ほど産業が少ないので自営業が多くなり、中には漫画や文学などの作家になってしまう。
こういう系列のクリエイターが首都圏から輩出することは少ない。まして都会の場合、かつて流行していたアングラ漫画とか、社会風刺もののような、どちらかというと現実風刺路線の、文化的な味がやや薄い作品ばかりだ。
私は少年少女漫画・小説の中で東京都市部・神奈川県の地元民が描いた作品がダサくなっていると思っている(あくまでも数字のみで見た考えで、作品ごとの評価は別)。とくに高校生を描いた物は、往年の不良漫画みたいに野暮になっている。同じ関東でも埼玉や北関東のものと比べても悪い意味で飽きやすい。高評価される作品も地方民・地方出身者が書いたものが主流。ギャルやヤンキーのようなダサいものは地方っぽいが、今のサブカル面は違う。
で、なぜ作品のレベルがばらついているというと、やはりそれは地方に行くほど仕事の数が少ないが、時間とお金にゆとりのある人が転入するために、作品作りへのゆとりが生まれやすいからではないか。そういう場所では、ありのままの地元を描くことが難しいが、空想ものの作品を生むにはうってつけの場所だ。
社会風刺と文化的なものが分離されていることが理想であるが、だったらそれがなぜ都会でも出来ないのか。広義の都会人の自分が言うのも説得力ないかもしれないが本当はこういったばらつきはないべきで社会風刺と娯楽ものの区別が明確になければ文化強国は持続しない。
普通、日本語の文章で書かれた日記を見ると、普通は「日本人」という感想よりも前に、この人の日記は面白いな、この人の批評は痛烈だなと思うのが一般的な慣例だったはずである。
それなのにわざわざ「日本人として」とか「日本として」と書くのは何でだろうと思う事がある。
「日本人」という単語がそれほど大きな効力を持つとは考えにくいが、多用する事で訴えたい何かがあるのだとすれば、それは陳腐な事だろう。
実際の所、これを多用するのは自分自身に後ろめたい事実があって、それを「日本人として」という事に置き換えてるのではないか、と考える。
総じて、「日本人」が「日本人として」と書くのは実にヘンな話である。
昨今は隣国との冷えた関係から嫌韓や反中がネット上での常識となり、その国や人となりを風刺するのが常となって久しい。
されば、それがイコール「日本人」への愛着に繋がっていったのでは、というのが一般的な見方であろうと推測されるが、
筆者に言わせれば、それは虚実である。
いちいち「日本人」を多用して「日本」を祀り上げずとも海外での評判は概ね良い。
和食が無形文化遺産に指定されたのを始め、日本のありとあらゆる伝統が外国人の心の拠り所となりつつある。
それらを踏まえれば、「日本人として」と表現する人達の閉鎖的で独善的な感性は何とも言い難いものがある。
あるいは、彼らのアイデンティティーとは昔ナチスが「ゲルマン人こそこの世の最高である」と宣言してたモノに近い。
ところで最近、やたら愛国主義を謳う人が急激に増えたように感じる。
それそのものは良い傾向であろう。
しかしながら、問題は謳っている人間が一方で森林を伐採し、地球温暖化を早め、また労働者を家畜同前の扱いにし晩婚化を進めては少子化が激増する一方であり、日本人の尊厳を踏み躙る行いをしている事である。
そういった人間が一方では「日本人として」景観や自然を守ろうと言うのであるから滑稽である。
日本という国は、古来から八百万の神を信仰し、またシャマニズムを尊び、上も下も豊かであろうと心がけて来た国であるはずである。
にも拘らず、「日本人として」と謳う昨今の愛国主義者たちは、同じ愛国主義者を使役し捨石のように扱い、今度はお国のためと言って戦争に駆り出すのである。
お国のため、としながら他国を蹂躙、凌辱する事は果たしてナショナリズムに合った話なのだろうか。
また、それが謙虚を美徳としてきた「日本人」のあるべき姿だとは、とても思えないのである。
「日本人として」国を愛する心があるのならば、自然や景観を守り、他国を謗ったり、他人を誹謗中傷しない、世界が認める謙虚を美徳する民族であろうと努力すべきではないか。
やたら「日本人」を強調する人というのは、結局日本人である事の誇りを知らない非日本人であり、またそれは歴史が証明しているのだ。
第二次世界大戦で愛国主義を謳った東條英機以下当時の政治家・軍人の類は国家を疲弊し国民を疲弊させ、その文化遺産を鉛などに使うべく溶かしてきた。
その結果が、長崎や広島への原爆により日本人の尊厳や先人の歴史的遺産が消失してしまったという、愛国主義とは程遠い凄惨な事態へと発展せしめたのである。
今思う事は「日本人として」ナショナリズムを起こすのであれば、安易な誹謗中傷よりもまず国内の安寧を図るべきであり、自国を批判する事である。