はてなキーワード: 此岸とは
小保方氏であるが、個人的には、「心中」を図ってるように見える。
かのノートの公開は、研究者生命の「自殺」に等しいと思われるが、
なぜそのような道を選んだのか。
いくら何でも、「陽性かくにん」で批判者の矛を食い止められると考えてのことではあるまい。
勝手な憶測に過ぎないが、そんな彼女をユニットリーダーとして採用した理研、
さらにはそんな理研を一流研究所として遇してきた我が国科学界、
ひいては我が国社会をも、此岸に引き摺り込まんとする試み―――わたくしの語の選択に言う「心中」―――に映る。
そうであるならば、「素人の落書きだ」的な批判は、彼女の狙いにハマっている一面があるとも言い得よう。
こんなアホの子をやすやすと上り詰めさせた環境の程度もまた、たかが知れているということにならざるを得ない。
ノートの残された部分に、どれだけ衝撃的なモノが潜んでいるのか、想像するも恐ろしい。
「陽性かくにん」未満なんだぜ。
でまあまったくもって想像したくないのだが、もっともヤバい手札は、
http://anond.hatelabo.jp/20131204162437
高学歴の人々は偏見や差別と無縁の世界に生きてきたのでビッチは殺されて当然と言う人の気持が分からないという話ですが、本当にそうなんですかね? 例えばそういう人は低学歴は貧困に陥って当然とかブサイクは恋愛弱者で当然とかも思わないのでしょうか? 馬鹿は蔑まれて当然だし犯罪者は指弾されるのが当然とは考えないのでしょうか? もしそうなのだとしたら、一体この世界を、怨嗟渦巻く此岸を、彼らはどう生きているんですか、あなたはどう生きてるんですか? インテリゲンチャって、いつからか世間知らずの言い換えになったのでしょうか?
それとも高学歴の人々の世界に足を踏み入れると、貧困者や恋愛弱者や無能者や犯罪者やに無限の施しが与えられるのでしょうか? 彼らは、あなた方はいまだにセツルメント運動だとか言っていたあの時代から何も変わっていないのでしょうか?
こうも考えられます、ビッチは美人なのでインテリ層の仲間だが、ストーカー殺人を犯すようなDQNは世界を同じくする存在ではない。 そのようなもたざるものが持てるものを弑逆したというのは、我々インテリ層の支配体制をゆるがせにする行為で看過出来ない。 あまつさえそれを当然のことと嘯くなどと、到底受け入れることは出来ない。 そういうことなんでしょうか?
■ ■
ビッチは殺されて当然だと言われるのは何故か、それは単純に悲惨な事件に対して因果論的な納得を欲するからではないでしょうか。 彼女はビッチだから殺されたのであり、ここには条理がある。不条理ではない。 そう「理解」して「安心」したい。 それだけのことでしょう?
「ビッチは殺されて当然なんて言うべきでも思うべきでもない」と言う意見が出てくるのは何故か、そう言っておけば殺されるのが当然と言う世界観から自分を撤退させられるから。 殺人という不条理はそれが起こるのが当然と思っている人間の界隈で起こるのであって、殺人を当然のものと受け入れない姿勢を見せれば見せるほど殺人から遠ざかることが出来ると信仰しているから。
両者は同じコインの裏表なんじゃないですかね、穢れを外集団にアウトソーシングして安心したいただの小市民の自己防衛だと、自分は思いますけれど。
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ところでどうでもいいことですが、ビッチは殺されて当然ではありません。 そりゃあ世にはビッチだから殺されたという人もいるとは思いますが(今回の事件の被害者がどうなのかは知りません)、ビッチだから幸せになった人もいるでしょうし。 貞淑だからといって幸せになれるわけではないからで、要するにこの世界はカオスだから、AだからBされて当然なんてことは無いと思うからです。
多分、今月の収入は10万を切る。恐らく今後増えることはない。もうおしまいだ。
これからどうすればいいんだろう
「アフィサイト死ね」「コピペブログ死ね」というのは簡単なんだけど、別段そんな話じゃないだろう。いわゆる正社員の人たちがお前はグレーゾーンの河原ものだからバチにあたっていい気味だ、いひひヒヒ。みたいに笑っているのはけっこうなのだが、彼岸と此岸はそんなに距離ないんじゃねえのかな。
つまり、たとえば「俺はそこそこの企業に入って、九時五時部署で仕事も難しくないし、もう人生最高だあ」とか言ってた自称「一般人」が45歳でリストラにあいました。そんなストーリーもはや珍しくも何ともないと思うんだよ。別段技術もなんにもなくて大学を出て名刺の渡し方をおぼえただけのそのまんまで十年たったみたいな社会人、沢山いないか? 来週会社潰れちゃっても食いつなぐだけのスキル、みんなちゃんと持ってるのか? 日本は(というか世界規模で)労働力の流動性が高まって今後そういう世界になる事は既定路線なわけだが、みんな対応できてるンかなあ。
もともと子供欲しいと思わないし、産んで欲しいとも、双方両親からも旦那からも言われない。
デキ婚には反対だったし、結婚したけど計画外の出産をする気はないので必ず避妊してる。
がまぁ一応産む可能性はゼロではないよな、とは思っている。
産まないと固く決意してる訳でもなし、女に生まれた以上想定から外す必要性も感じない。
どっちでもいいよりは産まない方にちょっと振れてる、という感じ。
が、ネットでいろいろ見てると、「やっぱ産まないでおこう」と思う。
幸せそうに感じられない。
彼女たちに言わせれば「社会のせいだ」ということなんだろうけど。
あんなに事あるごとに
「私は悪くない!被害者だ!」
「社会が悪いんだ!」
と噛みついたり叫んだりしないといけないほど鬱憤溜めるのが母親なのなら、
別になりたくないなぁ、と思う。
そういう精神状態になりたくもないし、
そういう人たちのコミュニティに入りたくもない。めんどくさそうすぎて。
みんな、色々ある中でも日々楽しみと幸せ見つけて、子供可愛がって、
社会や他者には譲るべきところはきちんと譲って、
満たされてるようで「良かったなぁ」と思うのになぁ。
彼女たちは「産んでないあんたなんかに私の苦労は分からない!」とか
突然叫びだしたりしないしな。
自分の生活が完全に悪くないというために、いきなり社会情勢や国政を根拠にしたりしないし。
あー、ほんとに、周囲に恵まれてよかった。しみじみ、つくづく感謝。
そうやって、
彼岸と此岸を住み分けた上で仲良く気持ちよくやれてる今を放り出して
わざわざ彼岸に飛び込みたいと思わないんだよな。
あっちに行くと、ネットで大声上げてる人たちと同類の人たちも沢山いるんだろし、
なんか同調圧力も凄そうだし。
何が彼女たちをそうさせるのか、には最早興味がないなと最近思う。
人は言いたいことを言うし、それが常に真とは限らない。
社会のせいなのかもしれないし、本人にも問題があるのかもしれないし、
そういうとこ、別に精査したくない。
私にはどうでもいい。
結果的にこんなに荒れない未来が来るのかもしれないけど、
それを待つ気もない。
ただただ、あちらとはなるべく距離の遠いところで、
穏やかに今の幸せを大切にしてるのが一番良いなと思う。
もし行政が、子供産んだ人にものすごく手厚く、そうでない人にはものすごく手薄く、
という方向に変わったとしても、
デメリットがあっても産む方が嫌なら産まないだけ。
あちらの方々が満足して下さるなら、
とかって責められたりするのかしらね?
だからいくらでも社会保障受けてくれていいって言ってるやん、て感じ。
わざわざ直接言ってくるのがうざい。
あー、想像したらげっそりした。
やっぱり母親ソサイエティには入りたくないし、深入りしたくもない。
めんどくさそすぎる。
大学に入って暫くしてのことだが、某深夜アニメにはまってしまった。
そもそも大学入学まではアニメなどゴールデンタイムに観るぐらいしかなかったし、ジャンプなど漫画雑誌も購読していなかったので、そういうものに疎かった面はある。
初めて買ったゲームを朝までやり続けたように、どの程度が異常なのか、それともよくあることなのかがわからなかった。
きっかけはなんだっただろうか。放送をぼちぼち見始めて、世界設定や元ネタ、キャラクタを調べているうちにどっぷり浸かってしまった。
たとえ入口が一つであっても、そこから先は広いと分かった。それこそ考察・カップリング・作画・声優・公式・非公式・メディアミックス……全てに手を付けたわけではないけど、きっと望めば望むほどコンテンツは存在し、それが枯渇すると今度は自分が供給に回るのだろう。自分にはそれが深淵のようにも見える。そして自分はそれに覗き込まれてしまったのだろう。覗き込んだのは、どちらも自分自身だというのに。
気づけばアニメ系まとめサイトを逐一チェックし、公式のメディア展開に一喜一憂し、日常生活でもキャラクタ名を空目する自分がいた。それについて割と恐怖したし、自分を律しようと試みた。今のところそれは成功しているように思える。毎日のweb巡回ルートと、日々保存される画像を除いては。
またはサブカル系の考察や思想に手を出してみたが、こちらはちょいと微妙である。コンテンツと消費の話は個人的には面白いのだけど、妄執を解決するには至らなかった。
頭ではあの世界が、あの作品がフィクションであると解っている。解っているのにそれでもフィギュアを見たりアニラジなんかを聴いたりすると混乱する。混乱すると判っているのに、その情報を検索するのを止めない。
たまにSSや同人のたぐいを目にすることがあるが、自分自身はそれを好まない。メアリー・スーよろしくキャラクタとオリキャラを絡めたりするものもあるが――自己嫌悪に陥ってこれまた混乱する。少しでも想像すると自己中毒になる。
誤解しないでいただきたいのは、作品自体を批判したり、ファン活動や同人活動を嫌悪しているわけではない、ということだ。むしろ、何かに夢中になったり自分を捧げるというのは素晴らしいことのように感じる。自分にはその覚悟がなくて、自分で引いた境界線の前から、此岸から彼岸の人々を見ているに過ぎない。ぶどうを取れなかった狐のように、指をくわえて。それでもその線を越えようとしない、越えたくとも越えられないのは、越えれば自分が自分でなくなるとでも思っているのか、それをよしとする自分が許せないのか。
この「病気」とも言えるものは、きっとそのアニメのコンテンツを全て絶つか別のコンテンツに移行するか、同人も含めた全てが終わらない限り、一生治らない依存症なのだと思う。このまま距離を取り続けて、それがオワコン化しても耐えられるだろうか。……それはまだわからない。どこかで折り合いを付けるか、そこから別のものにシフトして昇華させる必要があるのだと思う。孤独な誰得チキンレースである。
どんな飛躍がしたいだろう?
私はどんな生理的な物を持ちだすだろう?
血や涙など、いくつか組み合わせて突然歌い出すだろうか?
それとも効力を失った、それらさまざまな愛をひとまとめに嘆くことで
息切れするだろうか?
息を吸いこんだら、それはもう飛躍の準備をするようなもので
吐きだしたときにはもう何か言動的、イデオロギー的なものが勢いよく漏れ出してしまいそうだから
私はこうして暗闇の中、ずっと息を潜めている。
今まで漏出した存在の、その数と多様性を考えたら頭がおかしくなりそう
今まで街でそのようなたくさんの蠢く生き物たちを見てきたけれど
家で籠りながら幻聴に苛まれているほうが、よほど多くの生身の人間と関わっているような気になれる
それほどの程度のものではないが、人を好きになることもできる
ならばもう告白していいのでは?
距離はそれほど離れてないのだから