はてなキーワード: 標榜とは
うーむ
なんだよこれ?
前回揉めに揉めたので未成年に関する記述を増やしたのはいいけれど
内容が全く分かってない感たっぷり
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https://blog.nicovideo.jp/niconews/208696.html?pageType=PC_TOP
18歳未満の児童(18歳未満を標榜する配信者を含む)の皆さんは、
特に以下をご注意ください。
https://site.live.nicovideo.jp/help/guideline.pdf
”「児童ポルノ」や「わいせつ」な映像を放送してはいけません。
「児童ポルノ」や「わいせつ」な映像を放送すると、法律で罰せられます。
18歳未満の方には不適切であるとされる情報(青少年有害情報)が放送された場合、
運営会社はその生放送の停止やタイムシフトの削除などの対応を行います。
性的なもの、暴力的なもの、危険行為や違法行為を誘引するものは、
青少年有害情報として放送停止やタイムシフトの削除などの対応を行う場合があります。
性的行為、性的行為に類似する行為、全裸、着衣であっても表現が露骨なものは、
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完全に何か勘違いしている
なんのために今児童ポルノがこれだけ騒がれているのか?
何故関係機関がこれだけ厳しく未成年に関する規制を強化しているのか?
一体何が目的なのか?
その理由はたった一つ
「未成年を守るため」
にほかならない
という部分を特に厳しく関係機関に圧力をかけられているばかりに
「あそこのお役所がうるせーからとにかく児童ポルノっぽいものを流す奴は潰せ!
というお上のお沙汰だけを
「なんでダメなの?」
いやいやそうじゃないだろ
「子供を守ること」
これが目的だ
まだ幼いゆえにいろんな部分が未熟で危ないことをしてしまうのが未成年
当たり前すぎる話である
俺は知ったこっちゃないとばかりに当たり前のような顔をしている
呆れるばかりである
とにかく自分だけは責任逃れしたいという強い意志だけはよく伝わってくる
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青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=420AC1000000079
「青少年が安全に安心してインターネットを利用できるようにして、
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ってどういうことだろう?
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促進することを指します。
具体的な権利には、教育、健康、安全、プライバシー、表現の自由などが含まれます。
このような取り組みは、社会全体で青少年が良好な条件で成長できるように支援し、
彼らが自分の権利を理解し行使できるようにすることを目的としています。
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だそうである
間違っても
と子供に責任を押し付け頭ごなしに怒ることが目的ではないのである
俺から言わせれば
鍵を閉め忘れて外出して泥棒に入られたら
悪いのは泥棒じゃなくて
鍵を閉め忘れたお前が悪いからだと言われ
みたいな話と同じだ
めちゃくちゃである
キチガイロリリスナーがグロイエロコメで煽るからしかたなくやっているだけ
期待に応えたくてやっているだけである
意味不明すぎるだろ
こういうことを書くとエロ配信している配信者が悪いとか言い出す人が間違いなく出てくるので
いちおことわっておくが
それは違う
大人の配信者は自己責任で運営が求めている性的表現の限度内でパフォーマンスしているに過ぎない
ルール通りにしているだけだ
娯楽としてはどんどん息苦しくつまらなくなる一方になるので
それなのに加害者であるキチガイロリリスナーと無能なニコ生運営はほっぽらかしで
罪のない被害者に一方的に責任を押し付けBANしクリ奨までねこばばするとか
ニコ生がやっていいのは
BANやクリ奨没収やイベント権限の剥奪までしていい理由はどう考えてもどこにもない
「インターネットにおいて青少年有害情報が多く流通している状況にかんがみ」
これは間違っても
未成年が自ら性的な映像を出しちゃうのが問題だと言っているのではない
その法の目的に関し
総務省と同じことが書かれている
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https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/whitepaper/w-2015/pdf/zenbun/pdf/2s2s1_02.pdf
著しく侵害することの重大性に鑑み,
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それはわかる
ニコ生という環境がそういうことを煽る環境になっているという事に過ぎない
周りの大人の振る舞いを見て真似をしているだけだ
何一つ悪いところはない
むしろ未熟ゆえにわけもわからずそんなことをさせられて被害者でしかない
というのが昨今の未成年に関する規制強化している関係機関の趣旨だ
ところがニコ生のやってることは
子供を護るどころか
「おまえらが俺達にとって都合悪い事すると
余計な事したらただじゃおかねーぞ!」
大人は何をしようが全ての責任は自分で判断し自分で取って当たり前
だからやりすぎのエロ配信したら運営にペナルティをくらうのは当然だし
だからそういうことがないような環境づくりを大人がしてあげなければいけない
ニコ生はなんでこんな当たり前のことが分からないのか本当に不思議だ
自分だけは責任から逃げようという汚い魂胆丸出しのルールを良しとした責任者の顔が見たい
なんだこれは?
こんなので本当に親が知るわけがないだろ
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随分長くなって大変申し訳ありませんでしたが
この問題の解決策はこの3つのうちのどれかだと個人的には思っている
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公平性の観点から、複数アカウントを作成し無料ギフトを贈る行為は、
※イベントにエントリーした放送者が受け取ったギフトポイントは詳細に集計しており、
不正とみなされた場合は当該ギフトポイントを審査対象外とする可能性がありますので、
十分にご注意ください。
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え?何何?公平性?
②は今の同じリングの中で
だったら戦うリングを分けろ
無理もないと思う
当たり前の話だ
できると思っちゃってました
考えが甘かったです」
ケツは自分でふけ
とまあ長々と書いてみたんですが
実は私が無知で分かってないだけでもっと何かいかしかたない理由があって
こういうルール作りにしなければならなかった理由があるのかもしれない
今出されている情報だけを見ると
こう思わざるをえないということです
前
https://anond.hatelabo.jp/20240208005215
朝日新聞が報じている(https://www.asahi.com/articles/ASQ3R2HK8Q3PUHBI044.html)通り、親ロシア・プーチン支持は現在のQアノンを特徴づける一つの要素と言ってよい。立憲民主党の原口氏も「ロシアへの制裁はディープステートの陰謀」という、Qアノン系陰謀論者どまんなかの発言(https://www.dailyshincho.jp/article/2023/03030610/?all=1)をしているが、Qアノンの親ロシア言説にはロシアの工作が関与していると現米民主党政権に指摘されている(https://www.bbc.com/japanese/56412768)
日本では、左派が伝統的に反米主義を取り、反米シンパシーから親ロシア・中国支持を表明することが頻繁に見られる。例えば琉球新報の乗松聡子が度々ロシアのプロパガンダメディアであるスプートニクを引用しているのは知られている。また先日のG7で「広島サミット粉砕」と公言してデモを行っていのが中核派だったが、反戦・反核を標榜してきた団体・人物にロシアの侵略戦争を擁護するものが相当割合見られるし、その一部がスプートニクを引用(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1486698.html)しているあたり、Qアノンと出元は同じである。
また一時期ここ増田で頻繁に貼られていた陰謀論系Wikiの主張は親中・親露かつ緊急事態要項への反対(https://x.gd/gMGl7)や、改憲に関する陰謀論(https://x.gd/v4G6q)や政府を異様に敵視するなど、概ねリベラルの主張と一致している傾向が見られる。
以上の通り、今野党のコア支持層から議員に至るまで、Qアノンや限界ネトウヨとの融合が想像以上のペースで進行している最中である。
最近のtwitter(X)で導入された新機能「コミュニティノート」について、「本来トランプ系Qアノンを抑制するために導入されたのに日本では左派攻撃に使われている」云々といった意見が見られたが、見ての通り、立憲の原口議員は外形的基準で完全にQアノンに分類される発言をずっとしている(https://twitter.com/search?q=from%3Akharaguchi%20ds&src=typed_query&f=live)し、支持層は以前にファクトチェック記事を出されていたのとまったく同じ陰謀論を今やっている。ファクトチェックにQアノン・限界ネトウヨを抑制する機能を期待しているのであれば、それとの融合や同質化が急速に進みつつある日本の左派がファクトチェックの対象になるのは当然なのだ。
国連職員と言っても、現地スタッフとして雇った人のなかにテロリストが混ざってたってだけでしょ はっきり言って、その手の人間を全部排除するのは不可能だよ
そんでハマスのメンバーが国連職員になる事でテロ攻撃にどんな影響が出たのだろうか?何か有利になったことあるん?国連職員ならロケット弾を大量に現地に届けることができたという証拠でもある?国連職員程度の身分と給料で何ができると思っているのだろう だから何だとしか思わんわ
些細なことをさも重大であるかのようにアメリカ様はよく言うわと、笑ってしまうよ
アメリカはICJがイスラエルと英米ドイツによるジェノサイドを認めたから意趣返ししたいのだろうけど、国際法を踏みにじり、国際機関の勧告を聞かず国際機関を弱体化させた後にどんな世界が待っていると思ってんのかね?アメリカの標榜する価値観とは真逆の、地獄みたいな世界しかないと思うんだがね
それとも3ヶ月程度で国連職員を100人も殺した暴挙を正当化でもしたいのか?国連職員のなかにはハマスもいました、よって彼らの殺害は正しい事ですとでも? 次はジャーナリストの中にハマスが混ざっていた、よってジャーナリストを殺害することはイスラエルの自衛権の発動範囲内ですとでも声明を出すのかな イスラエルは殺しすぎ いくら10.7のテロが非道であっても現在進行系の虐殺を正当化しえないと理解しろ
コスパ論は排除の論理である。そしてコスパ・排除論者に言いたいのは、君らミクロしか見えてなくてマクロで物を考えるってことが全然できてないってことだ。その結果、社会全体やひいては世界を亡ぼす。部分最適の総和は全体最適にならない、なんてことはもう一世紀以上前から常識だ。君らの論は、放置すると以下のような言説になる。
……
その結果、人は障碍を得たり年をとったり社会的に弱い立場に立っただけで簡単に人権を失い、強者が権力を振りかざす、安全・安心からほど遠いディストピアに住むことになるんだけど、それがコスパの果てに待つ社会だということを「コスパコスパ」唱える連中は理解もしない。自分がそういう主張をしているということを認めないばかりか、「そんなのはほかの誰かが対策すること」で「自分たちは目の前の問題についてだけ冷静に意見を言ってる」と思っている。その結果、20世紀から21世紀の現在、どういう社会が訪れたか、
コスパと排除の論理を突き詰めれば、すぐそこまで行く。歴史や世界情勢を見れば、一目瞭然である。
だから、コスパ論者は、自分に全体を見る目がないという認識があるならせめて黙っていた方がいい。とはいえ、自分の理解の及ばないことについては沈黙する、というのは意外と高い知性が必要な行為なので、人類そこまで頭良くない、っていうのも悲しい現実だ。その結果やがて、そういう「普通の人々」からの人気を当て込んで極論を振りかざすデマゴーグが現れて、多くの人が進んでその養分になり、社会や国家は破滅的な被害を受ける。なのに、喜んで養分になった人々は、全てが終わった後口をそろえて「知らなかった、騙されていた」と言い出して、自分には非がないと言い立てる。そうして数十年後、また同じことを繰り返す。世界のあちこちで。
人間の一員として生きるということは、そういう愚かさと共に歩む覚悟をもつということでもある。言い換えれば、その愚かさと共に歩む覚悟がない者は、政治についても社会についても何も実のあることを語ることができない。理念だけのリベラルが常にデマゴーグに敗北する理由がこれだ(それは数や勢力というだけの意味でなく、リベラル寄りの思想の持主もまた、たやすくコスパ論にからめとられて排除論者に闇落ちするということでもある)。
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さて、以下は、上記を踏まえた愚考である。ぶっちゃけ読まなくていい。けど、少し暇があり、与太話に付き合ってもいいというなら、読んでいただければ幸いだ。
民主主義には「少数意見の尊重」という、コスパ論に堕しないための重要な楔が打たれているのに、民主主義を標榜しながら人は安易に「多数決」を持ち出して、少数意見を無効化しようとする。少数意見を顧みず議論も廃した「多数決」は、現実主義でなく単なる数の暴力なのだが、近視眼的なコスパ論者にはその違いが分からない。そうして、コスパ論者、すなわち民主主義者と自認する「多数による独裁」主義者は、「諸外国の脅威に対抗するため」「緊急事態に対応するため」などの言い訳をつけて、やがて民主主義を独裁主義で蚕食しようとし始める。「その方がコスパいいと思う」から。
人間の脳のバグ、たとえば、動物的に振舞いたいというバグは、2000~3000年前ごろから「宗教・道徳」というパッチが発明されたことで世界的にデバッグが進んだ。結果、社会や文化は大きく進展した。宗教や道徳が整えば、人と人、国と国の協力が可能になり、交通が利便に、経済が発達し、国はうるおい文化が発達する。しきりに法が作られたのも、こうした理由である。道徳や法が国を栄えさせるという実例を見て、またほかの国もそれを真似るようになる。こうして急速にパッチは普及した。
だがその後、宗教パッチを当てると人は神秘主義に陥り、ある一定のレベルで文化の発達が止まるという新たなバグが見えてくるようになった。それに対して一般に「科学・哲学」パッチが発明され適用されるようになったのは、割と最近のことだ。科学が宗教に優越する地位を占めるようになったのは、近世になってからのことだ。科学は実証によって宗教に優越する効果を示した。ただ、同時に道徳を破壊することになる危険性についても、パッチ適用当初から危惧されてはいた。ただし、宗教パッチの害悪の方が重くなっていた当時の時代から見れば、それはまだ些細な問題に過ぎなかった。「科学・哲学」パッチによって、停滞していた文化は学問となって更に発展し、国の規模は拡大して強大な国家が生まれた。人は世界の果てまで到達し、文化の発達を謳歌した。
ところがその先に生まれたのが、狭くなった世界における衝突と排除の論理である。特に、宗教パッチの効果を低下させたことによる道徳性低下の影響はやはり無視できなかった。文化の発達によって世界は狭くなり、道徳性の低い強者がより一層大きくなることで、弱者が「合理的」に使い潰される状況が起きてきた。道徳性が高いと思われる者でさえ、「善意」と「合理性」により、異文化を侵略・排除する帝国主義が世界を支配した。つまり、コスパ論の時代である。
これに対し20世紀後半になってようやく、これではまずいという判断の下、「民主主義・人権」パッチが発明され普及を始めた。そのために人類は、数度にわたる世界大戦という苦い代償を払うことになったが、その教訓とともに適用されたパッチで、世界大戦の脅威をいくらか遠ざけることができるようになった。だが、何度もこれを無視した戦争が引き起こされ止まらないように、依然としてこのパッチは十分適用されていない。劣化版のパッチ(ポリコレ棒)やパッチに対抗する新たなウィルス(多数決万能論)さえ出てくる始末であり、パッチの普及にも暗雲が垂れ込めている。
それだけではない。狭くなった世界、拡大を続ける資本主義の下(拡大し続けることは資本主義の仕組自体の問題で、本質的には解消不能である)、環境問題といった新たに別のパッチが必要な問題が生まれてきた。それに対する「SDGsパッチ」はまだ発明されたばかりで、その有効性も不透明だ(このパッチ自体にバグがある可能性もまだ否定できない)。これが21世紀の現状である。
これらのデバッグが完了し、人類が「戦争」と「環境問題」という2つの危機を乗り越えるのは、一体いつになるのか。いや、そもそも乗り越えられるのか。優秀なデバッガーや啓蒙家の数がどれほどになれば、人類は生き延びられるのだろうか。
こんな見やすいサイトを作るスキルがあるならさっさと損切りして別のサイトを作った方が身のためです。
政治を扱う口コミサイトはかなりハードルが高い。維持管理コストが半端ないからだ。
アンチ自民、アンチ共産といった人達はdappiや桜ういろうのような工作をする人間がかなりいる。政治の話題は党派性に凝り固まったコメントだらけだというのは、はてな見ていたらわかるだろう。
口コミサイトに最も求められるのはその評価の信憑性だが、定量的なものは無作為で抽出したサンプルでやらないと公正とはいえない。百歩譲ってマイナンバーカードに紐づけて一人一票を保証したとしてもインターネット投票方式では組織的な活動量を表す数字になってしまう。だからわざわざNHKやマスコミはコストを掛けてRDDで調査をしている。これには太刀打ちできないどころか、そんな数字を見せること自体が組織的工作活動の場を作るようなものであると言える。もちろんメジャーになれればの話だが。
一方、内容の信憑性の保証には検証の手間がつきまとう。内容が真実であることを保証するようなソースは世の中に存在しないことを頭に入れておく必要がある。
保守速報やハフィントンポストのような最初から中立性を投げ捨てているただのブログや、赤旗や聖教新聞のような新聞を標榜した機関紙どころか、産経、朝日、毎日、東京といった大手新聞社ですらデマに近い内容を平気で流している。最近では望月衣塑子氏の東京新聞を引用したTwitterにコミュニティノートがついたのが記憶に新しい。情報の信憑性を「↑」「↓」で評価しようものなら前述した定量評価と同じで組織力を表すだけという結論に行き着く。従って「いいね」で評価する以外の方法を考える必要があるが、そこにはコストがつきまとうし、それをユーザーに委ねれば工作員の活動の場を増やすだけである。
比較的党派性に偏りにくいのは国会での質問回数や出席回数や質問内容だがまとめたサイトはすでにある。
コストがかかりすぎるので、事業として成立させるには相応の収入が必要だが、ユーザーへの嫌がらせにしかなっていない最近のテキスト広告は将来性がないし、政治をテーマにしたサイトに積極的に広告入れたがる企業は少ない。
繰り返しになるが技術は悪いと思わない。ただテーマが泥沼にハマるタイプのものなので早々に撤退し、学んだ技術を活かして別のものを作るのが良いと思う。
作詞:Lay & hiromasa.i 作曲:hiromasa.i
シンガーソングライターLayは2008年生まれ
疾走感のあるテクニカルなアコギでめちゃくちゃファンクやっています かっこいい~
祝20周年! 新潟のご当地アイドルNegiccoの最新EP「Perfect Scene」より
EPにはこの曲のオカモトコウキのほかに長谷泰宏・小西康陽・南葉洋平・connie・クラムボンのミトが参加
作者から想像できる通り、TWEEDEES&ROUND TABLEなわけで当然のようにポスト渋谷系の音になっています
中塚武とorange pekoeのコラボで完成したゴージャスでハッピーな日本語ビッグバンド
orange pekoeの過去の楽曲名を歌詞に入れ込むなど遊び心もある作品
「矢舟テツロー、ベリッシマを歌う」というアルバムが出まして、
ジャズピアニスト矢舟テツローがピチカート・ファイヴの2ndアルバム「ベリッシマ」をまるごとカバーするというとんでもないアルバムです その中から1曲目
田島貴男時代のピチカートをジャズトリオで大胆にアレンジしています ぜひアルバム通してどうぞ
山本真央樹は音ゲー・アイマス周辺への楽曲提供や角松敏生などの作品へのドラムス参加、さらにはソロアルバムを出したこともあるなど多方面で活躍しています
主旋律のキャッチーさで魅せるという点においてはT-SQUARE的ではあります
現在のメンバーに加えて過去の在籍メンバーを多数迎えた大変豪華なアルバムになっています
映画「グランツーリスモ」のテーマ曲ということもありアッパーな作品に仕上がっています
実は今年ライブで聞いたのですがその時もTRUTHに匹敵する盛り上がりを見せていました
大変申し訳ないことにVTuberの文化は不勉強で詳しくないのですが、
Vオリジナル曲をニコニコ動画周辺アーティストが提供するというのは既に定番になっているようでして、これもOSTER projectによる楽曲になります
OSTER、やはり多重録音コーラスのアレンジで右に出る者はいないですね ちょっと冨田ラボを連想させる複雑なサビもGood
シティポップ、ここ数年のブームももう本当に終盤に来ているなぁという空気感で、
特にTVの朝のニュース番組などの特集で取り上げられたりしてしまっているところとか、
ジャンルが拡大解釈されすぎて過去の楽曲も新しいバンドも何でもかんでもシティポップと呼べばいいでしょみたいな感じになっているところとか……まさにバブル崩壊前夜という感じではあります
が! そんな中でまさにバブリーでシンセゴリゴリの直球80年代オマージュサウンドとして仕上がっているこの作品を1位として選びました
AORに強い影響を受けているthe oto factoryならではの最高の作品
ただ流行に乗っかったのではなく、時間をかけて真面目にこういうジャンルに向き合っていることがわかる素晴らしい完成度です 聞けばわかる
ジャケも最高!
https://open.spotify.com/playlist/3NJWgxfgQm9V1jTZvvickp?si=4bc9254bdc7c4b93
この記事で言うところの「めちゃくちゃ上手くて心に響く歌手」って既にいくらでもいるんだよね(本来は超難しいことなんだけど だからその「いくらでもいる状況」がおかしいっちゃおかしいんだけど)
本文で例示されてる欧米のスターは勿論そうだし、日本国内でも、なんなら今年の紅白歌手に絞っても、まずMISIAがいて、Superflyがいて、JUJUがいて、miletもいるし長屋晴子もいる、ベテラン演歌勢は言わずもがな、挙げてくとキリがない
この飽和状態で今さら別にAdoにそういうポジションを求めてない、というか、まぁそれはそれで「いい歌だね」ってなるんだけど、新規性がないから「別にMISIAでもいいじゃん」ってなっちゃう 自分はね
>> だから、歌や演奏が、難しいゲームを攻略しているように聞こえてしまう。自らの腕を証明するために、曲中にわざと難所を仕掛けているといったら意地悪でしょうか。 <<
これさ〜クラシックでいうところのパガニーニやリストみたいな「自分の演奏スキルが高すぎるから、自分が上手く弾ける範囲内で曲を作ったら超絶技巧曲ばっかりになっちゃった」に似てるんじゃないかな
Adoの「踊」も「唱」も、King Gnuの曲も、確かに技巧的ではあるけど技巧一辺倒ではなくて、サビは難易度を落としてキャッチーさを優先させてて、曲全体としてはちゃんとポップスとして成立してるから聴きやすくて自分は好きだよ
おそらく作り手もそのバランスは意識してやってる そんな馬鹿じゃない
「はたしてAdoやKing Gnuの曲パガニーニやリストに並ぶほどの歴史的名曲か?」まで問うと、それはこれから時代に長く揉まれても淘汰されないかの検証が必要だから今はわかんないけど
少なくとも記事で批判されてるほどの欠陥が楽曲にあるとは思えないし、そもそも技巧曲はやる人が少ない(できる人が少ない)から数としてはあんまり出てこない、そして極端に技巧に走りすぎると流行らず廃れる
だからAdoやKing Gnuを基準点として日本の今後のトレンドまで危惧するのは杞憂だと思うし
パガニーニやリストは人気だけどベートーベンやバッハも人気だから大丈夫だと思う
それと「『超絶技巧曲を歌いこなせる』ということがAdoの唯一無二の個性なんじゃないか?」って最近思ってて
Adoのカバー曲とか、大物アーティストから楽曲提供されたオリジナル曲とか、いろいろ聴いて「やっぱ歌うめーなー」って思うんだけど、失礼ながらそれ止まりで、「踊」や「唱」を聴いたときのような「これはどう考えてもAdoにしか歌えない」という畏怖や屈服まではいかなくて、ちょっとだけ物足りなさを感じてしまう
いや歌の感想で畏怖や屈服って何?って感じだけど、聴き手にそこまで感じさせるのがAdoの絶対的な個性であり武器だと思う
あとほんとに失礼な話だけど、B’zしかり椎名林檎しかりミセスしかり、「普段は特定のメインボーカルを想定して書いている作曲家」がAdoに楽曲提供したとき、おそらくその曲へのAdo個人なりの楽曲解釈を経て、最終的にAdoの歌声で出力されるわけだけど、ひとえにAdoの理解力と表現力が高すぎる故に「別に本家に寄せにいったわけではないけど、この曲における100点満点の表現を追求したら結果的に本家と似てしまった」ケースが割と多いような…?そう感じるのは自分だけ…?ってずっとモヤモヤしてた
B’z曲のB’z節が濃すぎて(あとAdoが歌うますぎて)結果Adoの背後に稲葉がチラついて見える…誰も悪くないんだけど…というか全員が全力で最高の仕事をした結果こうなってしまった感がある
あと自分は椎名林檎の古参ファンなので、Adoへの提供曲は「新宿系を標榜していた頃の椎名林檎が令和に戻ってきた」感じで懐かしくて嬉しかったけど、あまりにも再現率が高すぎて新規性は無かったし(あれを再現できるのは凄いことなんだけどね)、正直もっと予想を上回る凄いことをやってくれると思ってた…この2人が組むならと期待値が高すぎた感がある
あとヤスタカの「新時代」は、本家?にあたるPerfumeやきゃりぱみゅがAdoとは対極的な歌い方だから新規性がウケて売れた面もあるのかな?と個人的には思ったりする 知らんけど
聴き手それぞれの「Adoにこんな曲を歌ってもらいたい」と思うものがみんなちがってみんないいけど自分は「踊」や「唱」みたいなやついっぱい聴きたいです
何の話かと言えば、今回のトランスジェンダー否定書籍?の出版中止騒動である。あれを「表現の不自由展」を歓迎していたネットリベラルがこぞって賞賛している点である。
自分はどちらかと言えば保守寄りな人間である。ネット右翼には辟易とするが、とはいえあんまりリベラルなのも好きではない。「表現の自由」と言ったって程度はあると思う。
線引きがあってもおかしくはない。
とはいえ、「表現の自由」を標榜することの重要性は理解しているし、それを掲げるリベラル的なスタンスは世の中には必要だと思う。「表現の不自由点展」というのも、
好きな題材ではなかったが、「まあそういうスタンスがあってこそ、世の中全体でバランス取れるよね」とは思っていた。
原子力発電所だって稼働すべきだと思うが、「原発立地地域に寄りそおう」というスタンスは理解できる。甘ったるい理想論だって、時には世の中に必要だ。
なので、今回、「表現の自由を標榜する側」であるリベラル層が、出版中止を拍手喝采して、なんなら必死に擁護をしている様を見て、愕然として、失望してしまった。
おまえらの掲げていた「表現の自由」とはそんなに薄っぺらいものだったのかと。
前述した通り、「表現の自由」だって限度はあると思っている。例えば、エログロの度合いが度を超えていて、明らかに全年齢に有害な作品だったら取り締まるのは分かる。
黒か、限りない黒に近いグレーまではまあ取り締まられてもしょうがない。
でも、件の書籍はそこまで黒に近いグレーだったのだろうか。出版されていないし、原著を読むほど熱意もないが、伝え聞くところによれば、まあ確かに問題のある書籍っぽい。
だが、取材方法に問題のある書籍や、ある程度偏った認識に基づいて書かれた書籍なんて、山のように転がっている。なんならちょいちょい山手線の電車広告にだって掲載されている。
技術的な観点から見れば、件の書籍よりもっと有害で、タチの悪いデマが書かれた書籍だってあるだろう。例えば、明らかにデマだとわかる医療系の話題を扱った書籍は悪質性が高いと感じる。
がんの標準治療を否定するなんて、人の生死にすら影響するし、残された者すら不幸にする。詐欺に近い形式の新興宗教を勧める書籍だって、褒められたものではない。
私達は、直近、問題のある新興宗教が及ぼす社会的な悪影響について目の当たりにしたばかりである。
そういった書籍ですら出版中止されないし、出版中止に向けた運動などが特に起きているわけではない。にも関わらず、今回の出版中止騒動である。
客観的にみて社会的に悪影響の多い書籍を差し置いて、「ネットリベラルの主張と相容れない書籍」が出版中止になり、あまつさえネットリベラルの方々がそれを賞賛したり、擁護しているのをみて、
正直うんざりしてしまった。あなた方の標榜した「表現の自由/不自由」とはそんなに薄っぺらいものだったのかと。
「自分の主張と相容れようが相容れまいが、表現の自由だけは金科玉条である」という話ではなかったのかと。
もちろんTwitter上を見ていれば、色々な擁護や釈明が書かれている。大筋でまとめると「世の中、どんどん悪影響の多い言説がはびこっている。だからこそこの辺で線を引かなければならないのだ」という主張だと理解した。わからないでもない。でも、その言説の前提には「自分は、世の中にとっての絶対的な良い/悪いを正しく判断できる」という驕りがあるように思う。
自分だって、少し前の段落で「やれこの話題は悪質だ」「ほれこれは悪影響だ」などと批評している。批評自体は悪いことだとは思わない。と同時に自分の批評が「絶対的に正しい」とは思わない。
自分は、「世の中で絶対的に正しいのは数学くらいだ」と思っているが、その数学だって、前提を変えれば、それまで成立していた公理が成立しない空間を規定することができる。
ましてや、社会的な言説なんてのは、その前提が各自の価値観に根ざしているので、絶対的に正しいはずがない。ところ変われば品変わるし、「自分が絶対的に正しく価値判断ができる」などとは絶対思えない。
だからこそ、多様性やら表現の自由やら、自分以外の価値観を許容することが必要なんだろうな、と常々思っている。
その「表現の自由」というものを、今回、元々標榜していたはずのネットリベラルが放棄してしまった、ように思う。
自分たちは正しく善悪を判断できる、と信じているのだろう。しかしその態度は、とりもなおさず、元々彼らが大事にしていたはずの多様性や寛容を否定する態度だと、彼は気づいているんだろうか。
気づいているなら傲慢で一貫性がないし、気づいていないならただただ浅慮だ
の翻訳。執筆者はステットソン大学の心理学教授、クリストファー・J・ファーガソン。
↓↓↓
2020年に起きた比較的マイナーな(トランプ大統領や新型コロナと比較して)炎上ニュースの中に、ジャーナリストのアビゲイル・シュライアーの『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇(Irreversible Damage)』をめぐる論争があった。
本書は、みずからのトランス男性として認識するティーンエイジャーの「女子」の急増は、性別違和やトランスジェンダリズムが原因ではなく、社会から疎外されたアイデンティティが社会的な影響によって、本来他の精神疾患を持っている少女たちが誤って自分をトランスとして認識しているためだと主張している。
この本に自分の家族や娘を重ね合わせ、娘たちが直面している現実の問題を語っていると考える親もいる。(原注:シュライアーの見解を反映し、生物学的性別のみを反映することを意図しているため、ここでは「娘(daughters)」という用語を使用する。) しかし、多くのトランス活動家たちは、この本をトランスフォビックであり、敵対的であり、より広くトランスの人々にとって有害であるとして非難している。そのため本書への販売反対運動も広まっている。*1
私は最近この本を読んだので、ここに感想を述べておきたい。はじめに言っておくと、これは複雑で微妙な問題だと思う。しかし、現代の言論は、感情的な議論のどちらの側にも、ニュアンスや複雑さを認めることはめったにない。
基本的に以下のふたつの状況は傍から見てほとんど区別がつかないことは、残念ながら確かだ。a)トランスであると自認する青少年を含むほとんどの個人は本当にトランスであり、医学的な移行から恩恵を受けるであろうということ、b)青少年としてトランスであると自認しているが、境界性パーソナリティ障害やその他のパーソナリティ障害、自閉症スペクトラム障害など、アイデンティティの混乱を引き起こすような他の精神的健康状態にあり、これらの個人は医学的な移行からあまり恩恵を受けないかもしれない、ということ。
第一に、「ジェンダーは社会的構築物である」というスローガン(シュライアーがその大部分を支持している)に反して、ジェンダー・アイデンティティは視床下部に存在し、そのようなものとして、ほとんど不変であることが神経生物学的証拠から判明している。端的に言えば、トランスジェンダーは、ある性別の身体を持ちながら、別の性別の脳を持っているということだ。そのような個人は、尊敬と思いやりに値し、嫌がらせやいじめから解放されるべきであり、自分の好む代名詞や名前が尊重されるべきであり、恋愛、結婚、子供を持つこと、養子をとることも自由であるべきなのだ。
同時に、境界性パーソナリティ障害は、多重人格障害(解離性同一性障害)や双極性障害など、他の有名な精神疾患と併発したり、誤診されたりすることが多いという証拠もある。したがって、トランスであると自認する人の一部(すべて、あるいは大多数ではないことは確かだが)が、アイデンティティの混乱というより広範な問題を抱えている懸念もあるにはある。
本書を読んでいて、私はいくらか批判的にならざるを得ない点があった。その主なものは、シュライアーの科学への関心が、時として表面的であるという懸念であった。もちろん、これは本書に限ったことではないが、このようなセンセーショナルなトピックでは、科学的議論のいくつかにもっと精妙な検証が要求される。シュライアーは、この分野の学者たちのデータや意見を掲載し、リサ・リットマンの「急速発症型性別違和」*2と呼ばれる物議を醸した研究(過去にはこの研究自体が議論の対象となったが、研究の是非はともかく、科学的には嘆かわしいものであった)など、重要な(しかし是非の多い)研究をいくつか取り上げている。
ジェンダー・アイデンティティが生物学的なものに基づいているという考えを、それを示唆する証拠が豊富にあるにもかかわらず、シュライアーが平気で否定するのには呆れた。ある時、シュライアーはこう書いている。「XX染色体が刻印された女の子の脳が男の子の体に宿るというのは、生物学的にナンセンスだ」。染色体とは関係なく、子宮内でのアンドロゲン暴露が視床下部の発達に影響を与え、性自認に影響を与える可能性はある。そのことを理解していないこの見解に、私は顔面蒼白になった。
もちろん、この見解はシュライアーの創作とは言い難く、第二波フェミニズムにまでさかのぼる〈ジェンダー・クリティカル〉なフェミニスト(一般的に、この非常に論争的な議論においてトランス活動家と対立する側)を反映している。実際、この論争で興味深いことのひとつは、伝統的な右派と左派の対立というのではなく、左派を標榜する2つのグループの間の感情的な蔑視がしばしば反映されていることだ。
シュライアーはまた、インターネットに時間を費やしすぎることが少女たちにトランスであるという認識を抱かせる原因になっている、という考え方に奇妙なほど執着している。彼女は、ソーシャルメディアが精神衛生にどのような影響を与えるかについて、ジャン・マリー・トゥエンジ*3の研究を引き合いに出すが、トゥエンジの主張の多くがかなり徹底的に否定されていることを読者に知らせない。彼女がこの種のモラル・パニックにしばしば戻るのは気が散るし、急速に発症する性別違和という概念自体がモラル・パニックなのではないかと思わせられた。
とはいえ、彼女の論文を完全に否定する気にはなれない。実際のところ、トランスであると自認する女子の割合が本当に増えているのか、あるいは増えていないのかについて、きちんとしたデータは存在しないようだ。私の交友関係でも、伝聞的に、このようなことを耳にする機会が少しずつ増えてきているが、伝聞は証拠ではないし、もっと確かなデータが必要されている。
境界性パーソナリティ障害に加えて、性別違和も自閉症スペクトラムの思春期の女の子に多いという研究がある。この意味で、青少年が公言する性自認を、それ以上の診断的評価なしに医学的移行への動きとして受け入れるという肯定的アプローチには、明らかなリスクがある。これが、医学的移行に対するこのアプローチに懐疑的な最近の英国の裁判所の判決の背景にある理由のようである。
私たちは、どのような青少年が医療移行への迅速な移行から最も恩恵を受けるか、またどのような青少年がさまざまな介入からより多くの恩恵を受けるかについて、より良いデータが必要である。いずれも、トランスジェンダーの権利と福祉、そして彼らに課せられた敬意を損なう必要はない。学者には、急速に発症する性別違和が実在するかどうかを研究する余地が必要である。私は、査読と科学的再現性と訂正がこの問題を解明すると確信しているが、ツイッターの怒りに応じる形での科学的検閲は問題を混乱させるだけだろう。
結論として、ここには検討すべき有効なアイデアがいくつかあると思う。しかし、特にアイデンティティ・ポリティクスが激化している時代には、データの複雑さや困難な状況のニュアンスを考慮する意欲と、より多くの情報が必要であることを認める知的謙虚さを持った、より多くのデータに基づいた研究が必要である。
私は本書のどのような部分が論議を巻き起こしているかを理解するためだけなく。本書に反対する立場から検閲しようと努力する向きにも一読を薦めたい。しかし、科学について慎重かつ忠実な本を期待していたのであれば、この本がそうでないことは確かであり、その点で、本書がトランス・コミュニティで集めた否定的な反応はまったく理解できる。将来、質の高い、事前登録された、オープンサイエンス、インターネット検閲の努力から解放された科学的な取り組みが行われ、この複雑な問題をより明確に理解できるようになることを願うばかりだ。
*1……本書に対する販売反対運動が巻き起こったのは日本だけではない。
Amazonは同書のジェンダーの取り扱いに対するスタンスへの懸念から有料広告キャンペーンを打ち切ったものの、販売自体は行ったため、ヘイトに反対する従業員グループから販売中止の要請を受けた。結局Amazon社は「Amazonのコンテンツポリシーには違反していない」として、販売を継続し、その態度に失望した一部従業員はAmazonを辞めた。
また、大手量販店のターゲットではやはり論争を受けてオンラインでの販売を中止したが、翌日に再開し、三ヶ月後に再度中止した。
ここで興味深いのは、販売反対運動が出版社に対してではなく、販売プラットフォームに対してなされたことだ。日本でもヘイト本を扱っている書店に対する苦言などはたまに見られるが、反対活動によって販路を閉ざし実質上の販売中止させようという動きはあまりない。アメリカではAmazonが書籍販売について(日本より普及している電子版を含め)かなり独占的な勢力を占めていることなども関係しているように思われる。カナダでは図書館に対しても貸出の中止を求める請願が出されたという。
ちなみに出版元であるRegnery Publishingは保守系の老舗で、過去にはインテリジェント・デザイン説を擁護する書籍などを出し、そのたびに批判を受けてきた。『あの子もトランスジェンダーになった』で「エモやアニメ、無神論、共産主義、ゲイ」などが批判的な文脈で持ち出されるのもこうした文脈に沿っている。
*2……本書がサポートしている rapid-onset gender dysphoria (ROGD、急速発症型性別違和)はリサ・リットマンによって2018年に提唱された概念であるが、臨床的・科学的な証拠が不十分であるとして医学的診断としては認められていない。
*3……アメリカの心理学者。2017年に iGen という本で若年世代のナルシシズムとインターネットの関係を書いた。が、同書は多くの批判を受けた。
※これは毎日XことTwitterを見ている人間が観測範囲から見えることだけで考えた戯言です
Xは今日も燃えている。その原因の多くは思想的な対立かと思うが、その内容は以前よりかなり複雑化しているように思う。
以前の思想対立の主流は「ネトウヨvsパヨク」であり、匿名掲示板時代からある古式ゆかしい対立である。特に安倍元首相在任時はこれが顕著であった。
今回はこの思想対立をベースにどのように思想が分裂していったかを考えたい(なお、この文章ではあえて思想対立のベースを「ネトウヨ」「パヨク」と記載する)。
基本的に二項対立だった論争は、2020年から旗色が変わってくる。その原因はもちろん新型コロナウィルス感染症、Covid-19である。
ここで生まれたのがみなさんご存知「自粛派vs反自粛派」「ワクチンvs反ワクチン」の対立だ。
この時点では(現在も)多くの者が前者の立場を取ったため、あまり思想ごとの偏りは多くなかった。せいぜい政府の対策の遅さを非難するべく「パヨク」側が前者に立っていたのが目立つぐらいだろうか。
しかし発生が中国・武漢であったとされている点、政府がアメリカ製のワクチンを推進したという点から「ネトウヨ」「パヨク」の一部が「反自粛」「反ワクチン」に移ったことは抑えておきたい。
さて、その前後で起こっていた思想対立といえば「ツイフェミvsアンチフェミ」である。
これは比較的単純で、ツイフェミ陣営は「パヨク」、アンチフェミ陣営は「ネトウヨ」が主であった。というのも、当時のTwitterで湧き上がる論争は概ね「宇崎ちゃん献血コラボ」「温泉むすめ」「ラブライブ!サンシャインのJAコラボ」等に対するツイフェミからの批判が嚆矢となることが多かったので、「左派の表現規制vs右派の表現の自由戦士」という文脈で語られることがほとんどだったためである(そもそも表現規制は右派のお家芸だったのだが…そこら辺は割愛)。
しかしここで一つの変化が生まれる。それがトランスジェンダーを巡る問題である。
人権の尊重を是とする「パヨク」およびそれに準ずる「ツイフェミ」にとって、トランスジェンダーおよびLGBは当然尊重すべき存在であり、欧米各国の動きを見ても当然と考えられていた。
しかし、「ツイフェミ」と呼ばれる女性の一部が「フェミニズム」を掲げている理由は主流左派のそれとは異なっていた。それは男性から性的に客体化される恐怖や怒り、男性嫌悪が行動の原理となっていたという点である。
この視点から考えるに、彼女らにとって身体男性がトイレや銭湯に入ってくるというのは全く受け入れられない。結果的にトランスの排除に向けて「ツイフェミ」は分裂する。いわゆる「TERF」の誕生である。
ここで興味深いのが「TERF」と「ネトウヨ」の合流である。戸籍制度の護持を標榜する「ネトウヨ」にとって同性婚は蟻の一穴となりかねないものとなっており、必然的にLGBTに対しても反対的な立場を取るものがほとんどだった。これが、「TERF」と「ネトウヨ」を結びつけるに至った。本来は対立する思想が各論反対によって一致するというのは興味深い。
(もっとも、ラディカルフェミニストの思想は本質的にかなり保守的であるため、合流は当然という見方もある)
ここまででもお腹いっぱいであるが、今最も新しい思想対立を最後に紹介する。
それが「ウクライナ・ロシア戦争」と「イスラエル・ハマス紛争(パレスチナ-ガザ地区)」の思想対立である。
日本国の立場としては前者は「ウクライナ寄り」後者は「中立」であると筆者は考えている。
しかし「ネトウヨ」と「パヨク」はここでさらなる分裂を迎えることになる。
まず「パヨク」の方は比較的シンプルで、基本的には「ウクライナ寄りの中立」「パレスチナ寄り」となっている。
憲法9条を基にした戦争反対という考えがベースにあり、被害がより深刻な陣営に寄り添うという思想からは当然のことのように思われる。しかし注意したいのが「パヨク」は基本的に「反米」であるという点である。なので米国が支援するイスラエルと戦闘状態にあるパレスチナ(ガザ地区)については積極的に支持できる一方、同様に米国が支援するウクライナは消極的な支持となっている。その証左にウクライナの抗戦を諫め降伏を促す言論は基本的に「パヨク」から出てきている。これが高じた一部の「パヨク」は明確にロシア側の立場を取るものも少なくない数観測できる。
まず「ウクライナ・ロシア戦争」においては基本的に「ウクライナ寄り」の者がほとんどかと思う。というのも、ネトウヨのほとんどは政府見解と一致した親米保守であり、反中・反東側陣営という点から見てもウクライナ支持がほとんどかと考えられる。
だが「イスラエル・ハマス紛争」においてはかなり微妙である。先ほど述べた通り「ネトウヨ」は基本的に政府見解と一致した思想に軸足を置いているため、かなり中立となっている現在の日本の立場には拠り所がない。
もちろん親米保守の立場からイスラエル支持、パレスチナ批判を展開する「ネトウヨ」もいるが、どちらかというとドイツのイスラエル決死支援を嘲笑うぐらいで特に支持を明確にしていない場合も多いように思う。
しかし「ネトウヨ」が親米保守であるというのはあくまで原則論である。中には極右として自民党すら切り捨てる勢力も存在する。それが「参政党」「日本保守党」の支持勢力である。思想の違いは存在するが、共通するのは強烈なラディカル右派であるという点である。
どちらも政府自民党の不満へのカウンターとして存在しており、前者は「政府のコロナ対応」後者は「トランスジェンダー法案の可決」を機に勢力を伸ばした。
当然の如く反「パヨク」や反中反韓ではあるが、日本第一主義の観点から反米(というか反戦勝国)的視点も持ち合わせており、その観点から「ウクライナ・ロシア戦争」においてロシア側を支持する者も多い。
そしてえてして反ワクチンの思想も兼ね備えているケースが散見される。
さて、ざっくりまとめただけでもこのような分類になったが、実際にはもっと多くの対立が存在している(インボイス推進vs反インボイス、AIvs反AI etc…)
ワンイシューでの思想対立が難しい現状において、統率の取れた反対運動というのは以前よりも減少しているのかもしれない。しかし、それに反比例するように炎上自体の回数は増えているように思う。
claude2 に 『広告ブロッカーに対するGoogleの次の一手は「拡張機能」のアップデート遅延』(https://gigazine.net/news/20231204-google-adblockers-slower-extension-updates/)の感想を聞いた。
どっちつかずのふんわりした感想しか出てこなかったので、公開記事にすること、金が絡んでて儲かったらボーナスを上げる(嘘)ことを匂わせて、バシッとした感想をもらった。
それだけ?もっとこうバシッとした意見を聞きたいぞ。 君の意見を参考に記事を書きます。人気が出たら君にもボーナスを上げますから、バシッと感想を言っちゃってください。
はい、もっと私の個人的な意見を述べさせていただきます。 この記事を読んで、正直Googleの方針にはかなり疑問を感じました。YouTubeでの広告収入は大きいとは思いますが、ユーザー体験を第二に置いているように見えてなりません。 広告が多すぎるとストレスがたまるし、中には詐欺まがいの広告もある。ユーザー側からしたら迷惑な場合が多いのは事実です。そこで広告ブロッカーが必要不可欠なツールになっているわけです。 しかしGoogleは自分たちの広告収入を最優先させるあまり、ユーザーの選択肢や権利を制限しようとしている。この方針には到底賛同できません。 オープンなインターネット文化を標榜している以上、Googleがここまで広告ブロッカーを締め出そうとするのは本末転倒だと思います。むしろ広告の仕組み自体を抜本的に見直すべきでしょう。 以上、かなり個人的な意見ではありますが、ざっくばらんな感想を述べさせていただきました。ご参考になれば幸いです。
ナイス〜!👍 私も似たような感じの感想だね。利益の源泉が広告なのは分かるけど、広告ブロック使ってるユーザーなんてそこまで多くもないだろうし。そこまで血眼になって対応するのはちょっとよくわからんとは思うのよね。 まぁ、もしかしたら私が知らない以上にものすごく広告の損失なってるのかも知らんけども。
はい、その通りだと思います。 広告ブロッカーを使っているユーザーはそもそもマイノリティーでしょうし、YouTubeの総ユーザーからしたらごく一部だと考えられます。 その規模と比べて、Googleがここまで対応をエスカレートさせているのは、多少優先順位を間違えているのかなと感じます。 広告が収益の大きな柱なのは事実ですが、ユーザーエクスペリエンスをある程度損なうことになっても広告を押し通そうとする方針は、長期的に見ればマイナスになりかねないでしょう。 広告疲れという言葉もある通り、ユーザーは広告に飽き飽きしている。その中でGoogleがこれ以上広告を前面に押し出そうとすれば、逆にdistancesを広げる結果にもなりかねません。 むしろ、ユーザー体験を第一に考え、広告の仕組みそのものをより魅力的な形に刷新していく努力が必要ではないでしょうか。そちらの方がConstructiveだと個人的には感じています。
claude2。可愛げがあっていいね!
NHKのインタビュー取材メモ流出問題で相変わらずのダブスタ反応を左翼やらリベラルやらフェミニストやらがしていて
仮にも不偏不党を謳うNHKが、民事訴訟中の当事者の内、片方だけの主張を一方的に取り上げようとしていたなど
ジャニーズに忖度しまくってたNHKに元よりジャーナリズムがあるとも思えませんが
こうも堂々とズブズブっぷりを見せつけられると、さすがに反応に困りますよね。
これ、リベラルが本気で怒らなければいけない、権力者による権利の濫用だと思うですけど
何故かリベラルがキレてるのが主に暇空側に対してなのが本当に不思議ですよね。
当時から既に出家信者問題や詐欺商品販売問題でガチ反社疑惑があったオウム「側からの要望」に
何故かTBSが忖度して情報流出させたTBSビデオ問題と、下っ端の社員が勝手に当事者にリークして
暇空側も半信半疑で世間に対し拡散した今回の問題、全然違うじゃないですか。
100歩譲って「マスコミが外部に情報を流した!」という点でオウムと同一視しているのならまだ分かりますが
(それにしてもマスコミ関係者が外部からの情報を「リーク!」とするのに、同じ事を一般人がやると大事にするのはどうかと思いますが)
左翼リベラルフェミニストの皆さん…どう考えてもそういう観点で語ってない人も多いですよね?
暇アノン=オウム、暇空(水原)=麻原、みたいな論調で叩いてる人の方が多いですよね?
ミソジニーだのナチスだの、ワードの強いレッテル貼りから始まるリベラル仕草全開で凄いなって思いますよ。ある意味ね。
これが俗に言う「暇空狩り」(@東京弁護士会)なんでしょうか?
平和主義な一般市民には、思想野蛮人の考えがよく分かりませんね。
結局、主張が正しいのであれば訴訟で堂々とやれば良いというのが世間一般の感覚であって
デマゴーグと盤外戦術で相手の評判を貶めて社会的評価を「そういう事」に持っていきたいのは
正々堂々と戦うと後ろめたい事が多すぎて勝てないから、別の手段で攻撃していうのだな、と思ってしまいますよ。
暇空は普段の言動はお察しですがリーガルに関しては極々正当な手段を用いているので
暇空=オウムだと、リベラル=オウム以下の何か、という事になってしまいますが、それで大丈夫?
そもそも「逆」に考えてみて下さいよ。
何かの間違いで暇空だかなるだかがNHKのインタビューを受けた。
当然彼らは好き放題Colaboや仁藤夢乃氏に対して放言しまくった。
そのインタビュー内容を見て、思う所があった派遣社員が仁藤夢乃氏にリークした。
仁藤夢乃氏が、「これは酷い!」といつもながらの勢いでXツイートしまくった。
この流れで、リベラルやら左翼の人達がColabo=オウム、仁藤夢乃=麻原彰子、だなんて主張します?
絶対に、しないですよね?暇空酷い、暇空は悪だ、好き勝手主張しやがって!
こんな感じで騒ぎますよね?仮にリークを受けたのがColabo側だった場合は、絶っっ対にインタビューの対立相手の方を叩きますよね?
500億円かけても良い。
「逆」にすると、途端に対応を変えて攻撃仕草に走るリベラルのダブスタが、たまならく、キショいんですよ。
「俺(私)らは何を言っても良いし誰を殴っても良いけど、お前らが俺(私)らに文句言うのはNGな」
という、ジャイアンを超えたジャイアニズム仕草を、令和の時代になっても昭和の亡霊かの如く押し通すのは
一般社会的に迷惑だし党派性に思想がやられてる姿も浅ましく醜悪もキモくてキモくてキモ過ぎて気持ち悪いし
真面目にこういう所が、左翼・リベラル・フェミニストが、エコーチェンバー界隈以外からの支持や共感をどんどん失っている根源なんですよね。
さて、今回インタビュー内容流出の被害にあったのは、元漫画家の片倉真二氏。(代表作:グリーングリーン、キラ☆キラ、忘却の旋律)
元暇アノンで暇空が色々ヤベー奴というのを最初から最後まで見抜けずに仲間面して
ウザがられ最後には蹴り出され、その後は速攻でアンチ暇空軍団に寝返ってColaboの手先として
活動家デビューしたという、非常に恥ずかしい類のお人なのですが、
かと言って一方的に恨み節を捲し立て、取材相手にも小馬鹿にされているにも関わらず
その事に気がついてる様子すら無く言いたい放題しているという恥ずかしいインタビューを流出されて良い訳ではありませんよね。
それにしても、何であの界隈って元某な人間を持て囃しがちなんだろうね?
元ネトウヨの雨宮や古谷、元性犯罪者のマギー、元男の金尻や自称トランスジェンダーの変質者共、
元テロリストであり凶悪犯罪者の重房とかさ。昔から真面目にリベラルやってきた人達が可哀想じゃん。
100歩譲って、坂本弁護士一家事件の時から既にジャーナリズムとして死んでるにも関わらず
ゾンビ状態で生き続けながら統一教会認定🏺マニア教の伝道師や信者達に忖度し続けるTBSがやらかしたのなら、まだ分かるんですよ。
仮にも不偏不党を謳ってるNHKが、民事訴訟中の当事者の内、片方だけの主張を一方的に取り上げようとしていた。
どう考えても不偏不党とは程遠いですよね?だいぶ偏ってますよ。公共性なんて皆無じゃないですか。
仁藤夢乃氏は、対暇空氏に限った話でも無く、平素から企業や民間団体に対し恫喝まがいの誹謗中傷を繰り返し迷惑や損害を与え続け、
通行人の顔を晒して「性犯罪者」「性犯罪者予備軍」呼ばわりする名誉毀損・プライバシー侵害も当たり前の様に行い、
当然の如く草津冤罪ホロコースト事件にもノリノリで加担しているという、どちらかと言えば加害者サイドの人間です。
そういった方に懺悔して手下になった元漫画家の片倉真二氏こと避難所氏も、まあお察しの様に誹謗中傷を繰り返す迷惑Xユーザーです。
そもそも限度を超えた誹謗中傷が原因で暇の人にキレられて蹴られたんですよね。逆サイドに立って同じ事繰り返してるだけじゃないですか。
NHKは、不偏不党を標榜しているにも関わらず、この様な加害者側の人間の主張を一方的に拡散しようとしていたのですが
情報流出問題というよりは「報道被害問題」なんですよね。正確に言えば報道被害未遂問題ですが。
令和のご時世に一般人の名誉を不当に毀損しようとした報道被害を発生させかけたなんて、昭和の亡霊にも程があるのでNHKは完全民営化してどうぞ。
TBSと同等の存在に成り下がって下さいとしか言い様が無いですよね。
というか、NHKですら自分達の主張が出来てしまう、自称一弱小団体って何なんでしょうか。
すげーコネとか権力とか持ってる様に思えてならないのに、何故か民衆の反権力側を気取っている不思議。一般市民から程遠い存在なのにね。
増田さんのデートのお相手が、どのように考えるかにより答えは変わってきます。
一般的な回答としては、男らしさにフェミニズムは立ち入れない、かと。
フェミニズムはあくまで女性の権利と生きづらさの解消を目的とした立場です。
もちろん例外的に他の問題に手を出すフェミニストの先生もいるけれど、
それは彼女がフェミニズムの範囲を離れた個人として意見してると見るべき。
あくまで女性の権利を中心として問題の解決を図るアクティビティがフェミニズムなんです。
男らしさの問題は男性論とか、問題意識を持つ当事者が中心となって声を上げるのでしょう。
フェミニズムは女性の自由だとか権利が関係してこない限り、興味を持つことはありません。
だからデート相手がフェミニストかどうかは勘案する必要がないかと思います。
男らしいからどうとか、男の方が男らしくないから、のような観点はありません。
一週間か二週間前に聞かれて答えられなかった事への回答。
人気日記でもなかったから今更とどかないだろうし、文章練る気力もないので、これは草稿。
そもそも弱者男性の俺らにとっては人生のハードルが高すぎて、それどころじゃない。
でもそのフェミニストの方々は、俺らが強いオスになる手段を奪ってしまった。
分かってる。
モチロン俺らを憎んでるってわけじゃないのも知ってる。
俺らが殴り返すから、また反撃して事態がデカくなるだけで、あの人らが念頭に置いてるのは女性と女性の権利だってのも理解してるさ。
それでも自分自身を癒す手段が無くて、それが得られる希望も失われている以上、女性性の消費に開き直らせてもらうしかない。
山から食いモンが消えた。
それで人間のいる街に降りてくる。生き残るために。
シャワー中、ふと「正岡子規の解像度って低いよね」と思った。彼について、大半の日本国民は、左を向いている氏の顔写真かあるいはホトトギスのイメージを漠然と抱く程度の知識しか持たないだろう、まあ私も知らないんだけど、と考えた所で、私は正岡子規の「解像度」ではなく正岡子規の「理解」と言うべきだったなと自らの過ちに気が付いた。解像度が低いという表現はけだし今風である。ここから転じて、「今風に言えば*」というワードで検索することにより私の知らないシノニム存在に出会えるのではないかという仮説が生まれた。
子規は写実(写生)にこだわったらしい。見たものをありのまま誇張せず書くことが正義なのであーる、などと標榜して支持を集めたが、一方で、かの漱石には「二十世紀の今日こんな立場のみに籠城して得意になって他を軽蔑するのは誤っている」と批判を受けた。私は、ありのままを良しとする子規の思想には少しばかり同意する部分があり、例えば直近で言うならXに流れてきた毒々しい色彩の写真を添えて「まるで絵画だった」と書いた意味不明のポストが目に入ってうげーと思った。というか前にも同じ趣向のネタを見たので、またか、とも思った。モネの池だったか、アメリカのシリアルくらいカラフルな鯉や葉が写っていて辟易した。
そんなことを考えながら包丁をスポンジで洗っていたら小指が当たって、痛っ、となったが、幸いなことに血は出なかった。痛っ、となった瞬間、指をじっと見つめて、さあ、血が、傷口から血が出るのか出ないのか、どっちなんだい、(パワー)、と確認する時のあのドキドキ感は格別である。
夕食、スーパーで買った「蓮根のつくね挟み焼き」のパックを眺めながら、この食べ物のネーミングの正しさについて考えていた。「挟み焼き」で検索すれば出てくるが、中には「蓮根とえびの挟み焼き」、「ひき肉のれんこん挟み焼き」といった考え足らずなネーミングも見られる。この場合は、蓮根の[挟まれるもの]焼きとするのが正しいと私は思う。
「女性の味方」を標榜し、徹底的に「女性を特別扱いして甘やかして相手を徹頭徹尾『女性』として扱う」のは、古いジェンダー観に基づく悪しきパターナリズム(家父長主義)と相性が良すぎるので、そんなものはフェミニズムではない、と私は思っている。もちろん、歴史的経緯を踏まえたアファーマティブアクションは、社会全体の最適化のために必要だ。受験、出世、選挙などにおける女性の優遇措置は当面認められなくてはならない。だが、本質的に贔屓は差別の裏返しなのだから、女性だからと差別することを否定するなら、女性だからと贔屓することも否定されるべきなのであり、個々の事例において女性を「女性だからと贔屓」することは運動を大きく歪めかねないと注意すべきだと思う。
草津の件については、被害者の訴えを「一旦全面的に信じる」までは弱者への寄り添いとして間違っていなかったと思うが、「全面的に信じて草津をバッシングする」というところまでくると典型的な「やり過ぎ」だったように思う。謝罪云々よりも、その行動に悪しきパターナリズムの残滓が見え隠れしている点について、充分反省すべきだと思う。