はてなキーワード: 棚ボタとは
旧帝大とは、
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のうちのどれかを指す言葉だよ。上から目線の文章と思って読むべき(もしかしたら釣り)。
それに、今年は既に夏からインターンと銘打って、夏休みに企業でインターン活動していた大学生も多い。昔から、そういうのは居たけどさ。
3月はじまりで行う採用会社は経団連の指針に従った企業で、外資系やIT系は既に活動している。
とりあえず、どこかで正社員(間違っても契約や派遣は絶対やるな)2年くらい勤めて、それから転職すればいい。
転職は、企業の大きさよりも、どういった立場で、どういう仕事をやってきて、どういう結果を出してきたか、を求める企業が多い。会社の規模に関わらず。
運良ければ、内定ドタキャンした奴からの棚ボタもあるかもしれない。
再チャンスはある。がんばれ。
私の場合、自分より努力に於いても精神レベルに於いても(苦労しているからレベルが高い)遥かに優れていたら尊敬しかしないな~。
それは自分より若くても同じかな。
自分より優れている人間なんて、いて当たり前だし、自分のレベルを受け入れて認めるしかないんだよね。マラソンで走っていて真ん中程度を自分は走っているのを認めるしかないのと同じ。
だけど自分よりも、努力していなくて精神レベルも低くて子供で、すごいと思えないのに棚ぼた式で自分より良いポジションにいる場合にこそ理不尽を感じるな…。
けれど最近はそれも、棚ボタ式は羨ましいものではないんだ、と知って理不尽さを感じなくなった。
今まで余程、周囲の人達が、あなたの自我を大切に守ってきたのかもしれないよね…。これからは自我を砕いていく練習ができるじゃないか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20150207005122
レス返してないのも特にコメントが思いつかなかっただけで、他意はないよ
ほんとだよ
金に使い道がないならくれよなああああああああああああああああああああ
俺にはあるんだ
税金きちんとするなら拾得物として半分持っていかれるみたいだな
国民健康保険くらいおまけしてもらわな耐えられんな
そりゃ
kibarashi9 1億円あれば、年間200万つかって50年。まー死んでもいいかって年まではイケるな。金握ってるやつのワガママ聞かなくていいっていう人生はすばらしいよな。
せやろ
同僚に後輩に馬鹿にされたり女の子にキモイって言われることもないんやで
trash__box ホリエモンが言うには「見栄」「世間体」の二つを捨てれば、少なくとも金のためには働かなくていいそうだ。確かにそうだと思う。命とは宇宙が滅びる200億年の間にたった一回だけ与えられた刹那。楽しく、自分らしく!
あんま真に受けん方がええで
そうやって甘やかしてきたので2年で10kg太りました
nowa_s 棚ボタの金を一億円か。控えめに、1年で500万使うとしても20年で使い切る。あぶく銭を手に入れて、生活費込みで1年500万で済むとは思えないから、もっと早いかな
20年あれば次のまくらが1億円になってるだろ
a2de 寝てる間に枕がアタッシュケースになってるの気づかんとかよっぽどだ
早くしろ間に合わなくなっても知らんぞだよね
良いアイデア
就活ほど嫌な作業は無い
枕がそのくらいの大きさだから(1億円なんて見たこと無いから適当だけど)
1億円(の一部)でもうちょっと大きな枕を買ったら次は3億円くらいにはなってるはずだ
bell_chime_ring238 なぜ働きたくないって気持ちが湧いてくるのかね。客とか上司とか自分より上位の連中がたくさんいて、クビも出世もそいつら次第なのが耐えられないの?だとしたらただの負け犬だ。そいつらより強くなってみせろ。
俺は働かずに金が欲しいんだ
それな
そりゃ横領する奴も出てくるわって思うよな
せんけど
noabooon 僕も昔は「働きたくない」と思ってたけど、あれは正確には「会社員になりたくない」だったんだ。自分で商売始めたら毎日が楽しいよ。仕事ってこんなに楽しいものだったんだと驚くよ。
働いて楽しい人はどんどん働いて、働くのが嫌な人にお金をあげればいいと思うよ
cyberglass 1億円だと一生は暮らしていけないよ。
もともとオスとメスでは、どの生物もメスがオスを選別する側だが、人間の場合はさらに顕著だ。
というのも
基本的に性行為が出来るということは、能動的に動き回れる一定以上健康な個体であり、つまり群れに貢献する立場の個体だ。
特に原始人類の生命線である炎の管理や、暖を取る衣服を作る技術、動物性と違い切らすと即飢えに繋がる植物性栄養源の採取など、群れのライフラインは概ねメスの管轄にあった。
そいつが一匹無駄に死ぬのは群れにとっての損失となる。社会性が強ければ強いほど、そういう損失は個体が子供を残すことより重要だ。
群れの構成員が一匹増えるか、一匹減るかという、五分五分のギャンブルなので、必然的に成功確率が高い間は挑んで良いが、成功確率が下がる年齢になると、メスはとっとと閉経して、以降生殖から解放され、単純に社会を維持する活動に専念するようになる。
更にそもそも生まれた子供は、これまた二足歩行の弊害で、他の哺乳類に比べ極めて未熟児の状態で生まれてくる。
成体まで持っていくには、多分なリソースを注ぎ込まねばならず、あまり育てるのに乗り気がしない子供は、原始社会では産まれてまもなく母の手で間引きされた。
選んで選んで、なんなら一生産まない方が群れへの貢献になるなら、一生産まない選択肢も下手に産むよりは良いことであり、それでもなお育てると選んだ子供だけを群れに加えて良い。
女性はひたすらに選ばなくてはならない性だ。
一方男はリスクがない。
時間がたてばたつほど精子は劣化し、それを示す加齢臭によって女性に避けられるため、選ばれる確率は落ちていくものの、別にそれでうっかり選ばれたとしても、特に子供が出来ないか、問題児が出来ても間引けば良いので、とりあえず生殖能力を維持し続けても群れの害にはならない。
ひょっとすると上手い具合に年を食っていても、育てるに値する子供が生まれる確率もないではないし、棚ボタ狙いも込めて、生殖能力は維持され続ける。
かくして例え一生涯相手にされないままでも、性的な存在であることから免れない。
選ばれることがノーリスクな分、選ばれるに越したことはなく、逆に一生選ばれないというのは、自身が無価値な存在であるということをダイレクトに突きつけられる。
なんで自分はこんなに求めているのに、向こうは誰もが片っ端から自分を断り続けて、自分抜きの方が幸せに生きられるというのか。選ぶ側になれるものならなりたい。選ばれたがる必死な相手から、自分は断れる立場になりたい。
しかし基本的にリスクがある側が、リスクと天秤にかけて選ぶ形になるのは当然だ。リスクのせいでそもそも、相手を求める度合いが釣り合っていないのだ。
一方そんな女達も、ノーリスクで選ばれる側に立てる男を羨む。
自分ではなく相手が「選んだことによるリスクの全て」を背負う。相手はそれだけのリスクを背負う覚悟を持った上で選んでくれる。そんな立場。
選ぶものと選ばれるものでは、結果は常に選ぶ者の責任になるが、その全てを負わなくて良い。選ばれずともデメリットはない状態で、あれやこれやつまみ食いする自由がある。
出来るものなら何の責任もなく、そういう立場になりたい。そう羨む。
しばらくして時代が下り、人口密度が高まると、部族闘争が増え、男の地位が高まり、やがて男達がライフラインを握って、全てを支配する文明の時代がやってくる。
初期は誘拐婚などで、オスが好きなメスを強制的に選ぶ方式ができる。
ただこれ、選ばれたがる相手の中から、優越を持って自分が選ぶ立場になれるようなものではない。
どっちかっつーと、選ばれるせいで女性は不幸になる。つまり女性としては選ばれないに越したことはない。女が男に選ばれたがってくれない。結局形的には選べても、根っこは元のままである。
あるいは交換婚が発生する。女を村の財産として別の村と交換する方式だ。
村と村の関係の円滑化にはなるが、やっぱり女性は嫌がるので、実質誘拐婚と同じである。
やがて社会構造が複雑化し、階級が生まれたあたりで、なかなか上手い制度が生まれる。
上位婚・下位婚。身分の高い男性が、低い女性を選んで結婚する。
社会の中で一番高い身分は大体男性が占めるので、最下層の男性を除けば、誰もがそれなりに結婚機会に恵まれる。
めでたしめでたし……か?
しかしオスにとっては、メスとくっつければそれだけでプラス事象だが、メスにとっては自分が選んだ相手以外とくっつくのは、一生独身であることよりも悪いマイナスでしかないことは、どうあがいても変わらないのだ。いくら文明が発達しても。
女は嫌な相手と結ばれるマイナスを帳消しにするだけの、生活環境の向上が約束されてようやく選ばれたがるようになる。
いずれの場合も、金や地位が女を選ぶ権利を持っているのであり、男は金や地位を持つことは出来ても、女を選ぶ権利を手にすることはないのだ。
相手が地位があれば、それを失うリスクが発生する、と一瞬は考えられる。
男がリスクを推してでも女を選ぶ、そんな幻想が成立するように。
しかし実際のところリスクなんて形式的なレベルくらいしかなく、大した障害もなく男は女を選べてしまう。大した覚悟もいらないままだ。
結局このシステムは、擬似的に男を選ぶ者に、女を選ばれる者にしようとはしてくれるけれど、本質的にお互い選ぶ立場にも選ばれる立場にもなれないものだ。
全員が全員、生物的なくびきと無関係に生きられるほど、余裕に溢れているわけではない。
そして中には、膨らんだ幻想を現実とごちゃまぜにしていく人たちもいる。
今でもはてなには、女同士では絶対に仲良くなれないのがデフォだとか、婚期逃して後悔する女とか、あり得ない女の幻想物語を書き散らす人がいる。
今でもブログ界隈には「仕事と私どっちが大事?」的な質問で自分を選んで職場での不幸に耐えたり、複数の女性をリスクなしに渡り歩いた結果職を失う、ありえない男の幻想物語を書き散らす人がいる。
「お前らも男に選ばれないことで不幸になれよぉぉぉぉ」という男の怨嗟と「お前らも女を選ぶことで不幸になれよぉぉぉぉ」という女の怨嗟が漂っている。
どちらも現実には叶わない夢であるがゆえ、怨嗟の声は終わらない。
女にとって独身より下手な男に目をつけられることのほうが不幸だ。女性は嫌いな男をどれだけ断り続けても、無事閉経すればむしろ男に目をつけらずに済む平和な状態になり、後は女同士で楽しく年を取っていくものだし、男性は女をどれだけほいほい軽率に選んでも、まったくリスクを背負わず、何度失敗を繰り返そうが男性社会での信用を失わず、そのまま平和に生き続けるものだ。
考察が合ってるかどうかはしらんが。
いやでも本当に、ハーレムものはいかにして、主人公に選ばれない女の子を不幸にするかに血道をあげて、逆ハーものはいかにして、主人公を選ぶ男の子を不幸にするかに血道をあげてるからなぁ。
基本ハッピーエンドものだから、両者とも不幸になる可能性を匂わせた上で、概ね結ばれた上で不幸を回避するけども。
ハーレムものだと大体、女の子は何かしか問題抱えていて、主人公と仲良くなりつつも、問題が肥大化して行き、何とかしなければならないと思った主人公の行動が、彼女を救ってめでたしめでたし。
逆ハーだと地位が高かったりするキャラは、大体それを失うリスクを犯してでも主人公を選ぶ展開、ってのをやるためにその地位持ってる。地位を失っても二人で新しい人生歩んで、それはそれで幸せ、的な結末がデフォ。
それぞれドス黒い感情を、上手く綺麗な世界に昇華しているというか。
あ、あと青年漫画・少女漫画の、異性の三下悪役とかも特徴的だよなぁ。
青年漫画でヒロイン苛める意地悪な女の子が、主人公とかに声かけた挙句振られて「女として屈辱」みたいな。
ねーよ。声かけた男に選ばれないのは、大した屈辱でもないよ。はんっ、空気よめねー奴、って思う程度だ。
どっちかっつーと声かけてもいねーキモイのに、声かけたと勘違いされて付きまとわれるほうが、よっぽど屈辱的で不幸だ。
逆に少女マンガで、ワルな男の子が所属するワルな組織で、そいつが主人公選んだせいで、「掟破りだ!!」って、男の子ボコボコにしにくる悪人仲間の男。
ねーよ。ボスの女ちょろまかしたとかでもない限り、こいつが食い扶持に困ったら女のところに転がり込ませときゃいいな、いざとなったらソープに沈めて金づるに出来るし上手くやっとけよ、ってくらいだ。
わかるよ。大人になると確かに幸福感が変わる。子供の頃目指していた大人になれていないし。
子供の幸福感の正体ってなにかな?自由に夢を描いたり、欲しいものが手に入ることなんじゃないかな?
だけど大人になると、根拠がない幸せには不安が芽生えてきてしまう。
これは、棚ボタの幸せに一喜一憂することのバカらしさを学んだからじゃないでしょうか?
“何のために”欲しい物を手に入れるのか、手に入れて何ができるのかを考えだした。それは決してネガティブではないと思います。
例えば、子供は「うんこ」とかのリアクションで笑える。ハラハラドキドキの、ワンパターンな映画でも素直に楽しめる。意味やテーマを咀嚼せず、反応しているだけだから。
でも大人になるにつれて(頭が良くなるにつれて)「うんこの何がおもしろいの?」「あの映画と同じテーマだよね」って気づきはじめる。裏側の意味を楽しむようになる。
ワンランク上がるって言い方は語弊を招くかもしれないけど、意味のないものに楽しさや幸せを見いだせなくなった。ただそれだけじゃないかな?
そして、それを受け入れてみるのはどうでしょう。
と言うのは、幸せになろうとするんじゃなくて
ってこと。
大人の幸せは「今の自分を肯定すること」だと思います。今の自分が未来に繋がってるから。今の自分にしっくりきてないのに、バラ色の未来を描くのは難しい。
あなたはそれがわかっているから、バラ色の未来が描けないでいる。頭がいいんだよ。根拠もなくハッピーな未来を夢見るのは、子供だからできること。
だけど不幸だとは思っていない。自己実現はともかく、ある程度の欲求は満ちている。
可もなく不可もなく幸せです。
とか、そこらへんの考え方の根本的な部分が知りたいのかもです。
「諦め」って言葉はネガティブに使われがちだけど、元来は「明らかにする」って意味だし、悟り。明らかなうえで受け入れる。
妥協は受け入れないで、擦り合わせること。
自分の場合は、暗→明のほうへ人生が180度変わる出来事があった。とは言っても、精神的な変化だから、きっかけらしいきっかけはないけど。
ただ、それ以前が底辺すぎたから平穏を手に入れて嬉しいと感じた。
「幸せって精神的なものなんだ」って気づくと同時に欲が消えた。煩悩が消えた感じ?冒頭の例のように、奥行きが必要になってしまった。
あ、欲がなくなったと言っても食欲と睡眠欲はあるよ。性欲はなくても困らない。
時々「鬱なのかな?」って心配にはなるけど、死のうとは思ってないから大丈夫なんだと思う。
で、気とかオーラとか占いとかスピリチュアルとか、なぜか周囲にそういう人たちが増えて、一般的にあやしいと思われている分野へ足を突っ込んだ。
最初は、あなたと同じで疑り深くて苦手でした。今でも信じてないです。
でも「なぜそう言えるのか?」を調べていくのは楽しい。いずれも元を辿ると西洋哲学や東洋思想にたどり着く。
すると、人が人であるがゆえの悩みは普遍的で、それを整理する方法も大昔から研究され尽くしていて、それなのに未だに人は悩み多き生き物なんだってわかった。
ハードは進化してるけどソフトはあまり進化していないって。だから生きてるんだなって思えました。考える葦なんです。
前者は「内なる子供」で、後者は「高次の自分」と訳されるけど、適当にアレンジして「子供性」と「大人性」で解釈するとわかりやすいかな?
そのバランスを意識しなきゃいけない時期に差し掛かっているのかもしれませんね。
二十歳になったら成人式やって法的に大人になるけど、本当に大人になる瞬間は、経験によって人それぞれにバラバラで、
あなたが今置かれている状態は通過儀礼ではないかと思います。自分は20~24歳までモラトリアムになって、24の時に脱皮した。
大人性というのは、いつも自分を律したり、自分に指図している自分。
一方の子供性は、ありのままでいようとする自分そのもの。子供は「快・不快」に敏感。
ハイヤーセルフは、自分をあるべき姿へと導いている。だけどインナーチャイルドが時々「私って幸せなの?」と問いかけてくる。
心をないがしろにして自分を律しすぎている時には「素直に泣いてもいいよ」って子供が出てきていて、
ウダウダが長く続けば「あんた、ヤバイんじゃないの?」って大人が出てくる。
ややスピった考えを言いますが、
と考えてみてはいかがでしょう?律している自分も必要だし、駄々っ子の自分も必要。
「よくわからないけど、幸せじゃない。おかしいな」って感じている。今、そういう状態だよね?
今は心の中にいる子供がグズグズしている。そう考えると、啓発より癒やしかなぁと思います。
自分だって考えたら自分を上手く癒せないけど、自分の子供だって考えたら少し優しくなれませんか?
子供だと思ったら「泣くな、元気出せ」って言えないでしょ?
「無邪気に幸せを感じていた子供の自分」を否定しちゃうと辛いです。
それはそれ、仕切り直しの気持ちで「子供の頃はこうだったけど、今の自分はこう」って考える。
今が充たされないと、未来は見えないです。
あちこちのサイトを見るとわかると思いますが、インナーチャイルドとかハイヤーセルフが出てくるサイトには
天使やら偉大なるマスターやら、神秘的に説明されていて、知性面から捉えると「あやしい」ですw
でも、
これも持論だけど、啓発って「気づき」を得ることだから、人に教えてもらうもんじゃないと思います。
啓発本は「こうしたらイケてる奴になれるぜ」ってやつだから、すでに前向きな意志が持てて、契機づけたい時にのみ有効。
「教えやがれ!この野郎」って思える時に読むのがおすすめで、やる気が落ちている時にはあまり意味がない。
啓発本には啓蒙的なものが多すぎるし、意識だけやたら高くなっても、肉体がついていかないと使えないです。
スピ用語を使わずに伝えるにはどうしたらいいかな?と思っているうちに、長文になっちゃいました。
上手くまとめられていないと思うので、わかりにくいところはまた質問ください。参考になれば幸いです。