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https://mainichi.jp/senkyo/articles/20190529/k00/00m/010/222000c
桜田前五輪相「子ども最低3人産んで」発言を釈明「誰かを傷つける意図なし」
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20190530/k00/00m/010/005000c
https://www.asahi.com/articles/ASM5Y7VK5M5YUTFK031.html
https://this.kiji.is/506442349864371297
"「お子さんやお孫さんにぜひ、子どもを最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」"
記事のタイトルにある"子ども3人くらい産んで""子ども最低3人産んで"では誰に言ったかがわかりにくい
タイトルを見たときには、現在子育てをしている世代かこれから結婚出産をする世代に向けたメッセージだと思ったが、
記事見ると「お子さんやお孫さんに」とある様に、私が想定した世代の親世代への発言である。
言った内容は同じかもしれないが、直接現役世代に子供を産んでとお願いするのとその親にメッセージを託すのとは受ける印象が変わってくる。
現役世代に桜田前五輪相メッセージを伝えるのは聞いた親世代の判断だからだ。
各家庭の事情に直接口をだすのと、ワンクッション置いている違いである。
"桜田前五輪相「子ども最低3人産んで」発言を釈明「誰かを傷つける意図なし」"(36文字)
が可能ならば、
桜田前五輪相「お子さんにこども3人産むようにお願いして」 会合で発言(35文字)
とすることも出来たはずだ。
どんな人に向かって発言したかがわかる情報を削ぎ落として読み手の印象が変わってしまうのは、文章を書くための見本としてふさわしくない
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
世の中の大半の有権者は政治に殆ど関心がないわけだけど、流石に◯◯大臣が責任を取って辞任を表明しましたって報道を目にしたら「なんやなんや?」「どしたどした?」って一気に野次馬根性を刺激されて内閣の失点を認識し出してしまうんだよな
だからそもそも内閣の失点を失点と認めない姿勢が内閣の存続には重要になるんだよな。だから閣僚を辞任させるという明示的な失点の表明を避けることが何よりも重要。
安倍総理はとても賢い。
そしてそうして部下のミスを身体を張って守る安倍総理の党内の求心力は更に高まって一石二鳥ってわけだな。
逆に安倍総理周辺のミスを庇い総理を守る為に身体を張った柳瀬元総理秘書官や佐川前理財局長らにはしっかりと論功行賞として出世のご褒美も与えるという良采配。
こんなん最高の上司ですやん。
BUZAPPの
議員不祥事「自民は党名抜き、立憲民主なら党名あり」、Yahoo!ニュース見出しの怪
に関して仕事をしたくないので調べてみた
id:kaos2009氏が示していたwebアーカイブで2018年の1月1日〜12月31日までのyahooトップページの記事見出しを1日1件、合計365件調べた
調査対象は国会議員の名前が何件出て、それぞれどこの党に所属しそれが示されているか。
自民が30件
麻生11、河野4、石破3、安倍2、稲田2、片山2、進次郎2、桜田1、菅1、杉田1、鳩山二郎1
そのうち党名が出ていたのは0
立憲民主が3件
そのうち党名が出ていたのは0
国会議員に限らず、字数の関係か所属先まで記されていたのは少数であった
ただしwebアーカイブには1日10回以上の保存がされている。調査したのはそのごく一部であり調査していない部分に所属先まで記されていたものが大量にあるかもしれない。
桜田五輪・サイバーセキュリティ戦略本部担当大臣の、競泳・池江璃花子選手の白血病カムアウトに対する「がっかりした」発言が非難を浴びた後、桜田の立ち取材の発言全文とやらをメディアが流したタイミングで、「ほら、実は桜田大臣はそんなにヒドいことを言っていない」「発言を切り取ったマスゴミを真に受ける情弱乙www」などと言って憚らない連中が、当初に桜田発言が報道されたタイミングで非難をしていた人たちの中からも掌返しのように出てきているのが興味深い。
結論から先に言えば、お前らのその狭苦しい情強ランドでせいぜい楽しんでろ、ってところだ。掌返し、はあ、宗旨替えですかそうですかと。
全文とやらを読んでみても、「がっかりした」というたった6文字の発言からは不快感、あるいは病的と言ってよいほどのボキャブラリの乏しさを見る以外にない。じゃあ、情強・掌返しの皆さんは、自分が白血病に限らず難病持ちだとわかったときに偉い人から「がっかりした」と言われる場面を想像してみろよ。
あるいは、ちょっと話を変えてみよう。ワーキングウーマン()のあなたは、勤務先でも重要な戦略の担い手として活躍している。今まさに、来年のゴーライブを控えたプロジェクトでチームリードを任されている。そんなあなたが、妊娠に気づいた。誠実をモットーとし、かつその誠実さのために今の地位を築いてきたと信じているあなたは、直属の上司にそれとなく妊娠を報告した。そのとき、上司が「がっかりした」と言ったとしたら、あなたはどう思う?
人間だから、ましてや立ち取材だから、多少は不注意なワードも出てくるだろうとか言っているあなた、大臣を何だと思ってるんだ?我々庶民は、「末は博士か大臣か」と比喩されるくらいの立場の人間に、そんな素人臭さを期待しちゃいないし、ましてや期待してはいけない。
大臣に同情して見せることで、実は俺は大臣に伍する人材()なのに未だこんな地位に留まっているんだとでも言いたげな、ルサンチマンにしか見えない。
桜田がサイバーセキュリティ戦略本部担当大臣のクセにPCを使用した経験がないということが、前に話題となり、非難を受けた。でも、一部にはたとえPCを使わなくたって大臣としてできることがあると、桜田を擁護して見せる人がいたものだ。じゃあ、そんなときに桜田ができることとは何だ?それこそ、適切な言葉を使ってゴールを国民に示してあげることじゃないのかね?
意識の高い()連中が「マスゴミ」と言って憚らない集団が、恣意的な情報操作をすることが多々あるのは否定しない。でも、そういうマスゴミの後出し情報で我意を得たりとふんぞり返って見せる連中だって、要は等しくマスゴミに踊らされているということ。五十歩逃げたか百歩逃げたかで競い合ったという故事と、基本的には変わらない。だったらみんな同じ穴の狢で仲よくすりゃいいのにねえ、何なんだろうこの今の日韓関係みたいな不仲ぶりは。