はてなキーワード: 桜宮高校とは
http://bunshun.jp/articles/-/3929
「ドラム日野ビンタのダウンタウン松本さんと爆笑問題太田さんの意見が真逆すぎた」
http://www.kansou-blog.jp/entry/2017/09/04/073456
「日野皓正児童虐待(ビンタ)事件について元ジャズミュージシャンが考えてみた」
http://k-yahata.hatenablog.com/entry/2017/08/31/日野皓正児童虐待(ビンタ)事件について元ジャ
https://www.daily.co.jp/gossip/2017/09/01/0010515517.shtml
正直、他人の出番を無視してドラムを延々と叩いてた子がビンタ食らっただけでこれだけ喧々諤々の議論が巻き起こるのはうらやましいし、近年ネットで体罰動画などが拡散され、教師が処分されている事等を考えるとネットという存在が体罰への抑止力として働いているのは確かで、ろくでもないものも多いネットのもたらした大きなメリットのひとつだと思う。
で、僕がこれからするのはそんな便利なアイテムが普及してない時代のろくでもない体罰という名の暴力の話だ。
舞台は96年の東京高田馬場にある保善高校。偏差値でいえば55前後、昔ラグビーの名門で花園に出た以外に特に語る事のないパッとしない私立高校だ。
ちなみにお隣には後年某ブラックチャイルドな有名バスケマンガのモデルになった偏差値70台のエリートな高校があり、お隣だが近所の早稲田大学への距離は全く違うと言われていた。
我々が入学する前、この高校の理事だかなんだかわからないが、お偉いさんが「このなんの特徴もない学校をお隣みたいな超進学校にしよう」等とドラゴン桜みたいな事を考えた。
目的のみをみれば「少子化を見越し、進学校としてブランド価値を持たせる」という戦略は悪いものではないのかもしれない。
だが、彼らにドラゴン桜のような「外部の優秀な講師を招いて生徒の学力をup!」という策などあるわけがなく、結果としてできあがった保善高校特進クラスは地獄になった。
「三年の間に偏差値55前後の人間を普通に早慶受かるようにしろ」そんな無茶な目標を与えられた現場の教師達は大混乱しただろう。
それはそうだ。彼ら教師のほとんどが一般的に二流と言われる大学を出てこの高校に教員として努めている人間であり(文系だった我々のクラス担任は獨協の英文科卒だった )、当然だが中堅高校の生徒をトップレベルの私大に合格させられるノウハウといったものを持っていない。
そんなこんなで上に対して自分達が頑張った事をアピールしつつ、失敗しても責任を回避できるだろうと考えた彼らがとった方策は授業時間を8限までにするという手段だった。
そして入学してからその事を聞かされた特進クラスに選ばれた我ら生徒達は当然反発する。
部活を目当てにした生徒も多かったし、そもそも強制で8限までの授業なんて受けたい人間はいない。
正直、ここまでなら大人になった今になって考えると教師達に同情の余地がないでもない。
上の無茶に対してかかる現場への圧力のつらさは、それなりの歳になり、上と現場の板ばさみになってから嫌というほど知った。
現在の自分が負担をかけてしまっている現場の人達にひたすら頭下げたり、飲料を差し入れ、それでもイラつかれるように保善高校の現場教師達には我々生徒が分かりえない上の人との板ばさみのつらさがあったのかもしれない。
だが、我々の反発を抑えるのに担任教師が使った方法は頭を下げるでも飲料を差し入れるでもなく、「嫌ならやめろ」と暴力のセットだった。
そして出来上がった授業自体も適当なやる気ないプリントを配ったりするくらいで、正直これを8限聴くくらいなら予備校の授業1限聴いた方がはるかに有益なんじゃね?となる受験にはなんの役にも立たない内容だった(事実、自分は浪人して予備校通ってた時期に英語の偏差値がグングン上がり、今までやらされていた勉強がいかに非効率かを知った)。
結果的に我々は3年間に渡り、ほぼ毎日の様に殴られ、22人いたクラスメイトの内、3人は部活も自分のやりたい事もできない状況を受け入れられずに自主退学に追い込まれ、残った19人も相当に精神を病んだ。
正確な因果関係を立証する事はできないが、卒業時の我々の精神状態を鑑みると、遺族が因果関係を否定するならともかく、当時の保善の教師達が「関係ない」等とほざく事は許さない。
ここまで読んで何人かの人は「なんで体罰に対して対策をとらなかったの?通報するなりいくらでも手があるだろうし」と思われるだろう。
今にして思えば何故自分自身、当時の自分がなんら手を打たず、3年間、殴られるままでいたのかが理解できない。
現在の30代半ばの自分で、今の時代であれば同じ状況でもいくらでも手が打てる。
「教師が生徒を殴ってるのを動画なり音声をを記録し、youtubeに放流」「動画や音声を教育委員会や区議会に送りつける」「動画や音声をもって弁護士のところへ行き、教師を退職に追い込み、学校からは金を引き出し、なおかつ現況の改善する」「逆にこちらから暴力で制圧する」等。
だが残念だが、我々の時代には便利なものはなかったし、他の手段をとる勇気もなかった。当時の時代でも打てる手はあったのかも知れないが、結局我々は何も打てる手がないままひたすら3年間を暴力に耐え続けて過ごした。
他の教師に相談しても「君達の事を思ってあえて自分でもやりたくない事をなさってくれてるんだから」と黙殺されるし、「嫌ならやめればいいだけ」と常に脱落への恐怖を感じさせられ逃げられなかった。
それが事実だ。
今の自分のみならず、多くの人達当時の自分は怠惰に写るのかもしれない。
いくらでも打てる手があるし、場合によっては金にもできたのに何故なにもしなかったのかと。
言った瞬間、発言者を糞馬鹿認定する言葉では「公共の福祉」と並ぶ「自己責任」という言葉を使いたくなる。
だが、異論=即暴力&否定という立場に置かれるのは当時の10代の子供にとっては逃げ道のない牢獄で看守に見張られているようなものなのだ。
常に暴力や脱落の恐怖に晒される状態で冷静な判断ができるかと言われれば今の自分でもこころもとない。
現在自分内最高漫画を更新し続けてる「パンプキン・シザーズ」で主人公は8巻で町ぐるみの人身売買に巻き込まれ、結果共犯者になった住人を慰める為に「人間は新しい環境に放り込まれた時にまるで即興劇に放り込まれた役者のように本能的にその舞台を壊さないよう行動する」と言っていたが、結局我々はその舞台から3年間逃げ出す事ができなかった。
昔、自分はナチス、ソビエト、クメール・ルージュだのに属して上の言うままに行動する人々を笑えたが、この保善高校の体験を通して以降、全く笑えなくなった。
さて、色々回りくどい事を言ったが、ここら辺で私怨タイムにさせて頂く。
曳地利秋、お前はガチな屑だな。お前は三年間俺達の担任教師だったわけで、その間お前を「センセイ」と呼んでたが、お前を教師だとも尊敬する人間だとも思ったことは一度もなかったよ。
平賀が自殺して少しは反省したのかと思ってたが、仕事で出会った8歳下の保善のOBの人に聞いたらお前はあの後もなんら反省せず、特進クラス以外でも生徒を殴り続けてたらしいな。
もっとも俺達以前にも暴力を奮ってたろうし、「口答えする特進クラスの生徒」というのはお前にとって殴れる大義名分を更に与えただけだったろうが。
お前は殴る相手が反抗すると「いつか社会に出れば俺に感謝する時がくる」とかいってたが残念ながらそんな時は来なかったよ。
社会を知れば知るほどわかるのはお前という人間が対等な立場では殴り合い一つできない生徒に対し、能力でも人格でも統率できず、自分が殴られない立場に甘えて一方的に生徒を殴ってた屑である事。
それだけだ。
お前は教師でもなんでもない。
お前が定年退職したかどうかは知らないが、現在、学校でも塾でもあらゆる教職に関わってない事を心から祈ってるよ。
残念ながら俺やクラスのみんなに対しての暴行への公訴時効は過ぎてるんでお前に刑罰を与える事ができず、こういう形で書いたが、お前がこれを読んで反省するとかかけらも思っちゃいない。
原国の片山、お前は俺達が曳地に毎日殴られてると度々訴えたときも「曳地先生は生徒のためを思ってるんだ。甘えてるんじゃない!」とかほざきやがったな。
お前も曳地の同類の糞虫だよ。
そして96~98年に保善高校にいた教師達(現在在籍の確認がとれるのは地歴科の近藤八朗、数学科の三河一雄、公民科のト部昌次)お前ら俺達が散々殴られて助けを求めていたのを知りながら、無視、罵倒を対応にしてたよな。曳地も含めてお前らが全員地獄に行ってくれる事を心から願ってるよ。
ここまで書いといてなんだが、「抵抗できない相手を一方的に殴るのは保善高校の教師達と同じ」という心の声が聞えたんでこっちの身分もそっちに対して分かる範囲で明かしとく。
96年~98年に在籍し、文系特進クラスで正面二番目の列にいて、その後一浪経て法政大学に進学した生徒。それが俺だ。
そこから俺の名前はgoogleでたどれるようにしてあるし、そこからくれば答えるし、名誉毀損で訴えたいならばいつでもどうぞ。
・体罰、何も伝わらなかった 「殴られた」生徒語る - 朝日新聞デジタル http://t.asahi.com/9v
【田村剛】私立保善高校(東京都新宿区)の男性教諭が、男子生徒に暴行した罪で今月4日に罰金30万円の略式命令を受けた。被害者の生徒と、その友人で「同じ教諭に殴られた」と主張するもう一人の元生徒が、朝日新聞の取材に応じた。「もっと早く周囲の大人に気付いてほしかった」と訴えた。
2人によると、1年生で同じクラスにいた2011年の1学期ごろから、空手部の顧問でもあった担任の40代の男性教諭から、校内で平手打ちなどの暴力を受け始めたという。
携帯電話を学校に持ってきた▽読書感想文の本を忘れた▽授業中のおしゃべり……。さまざまなことがきっかけとなった。この生徒(17)は「高校では暴力が当たり前なのか」と思い込んだ。他の教諭も止めに入ってくれなかったという。
2年生になって登校できなくなり、休学した。親に話すうちに普通ではないと気付き、警察に届けた。
学校側は謝罪のため生徒宅を訪れ、暴行の理由も説明した。それでも、殴られなければならないとは思えなかった。「ただ苦しかった。先生の言いたいことは何も伝わってこなかった」と振り返る。この教諭は、この生徒を複数回にわたって平手打ちをするなどしたとして、略式起訴された。
もう一人の元生徒(18)は、暴力を受けても「先生の言うことを聞きなさい」と話す親を前に、学校に行きたくないと言えなかった。「誰にも相談できず、どこにも行き場所がない感じだった」と語る。
耐えられず、昨年5月に退学。一時はうつ状態になって精神科に通った。「同じことをしたらこうなる」という周囲への見せしめが、暴力の目的だったと感じている。「次は自分ではないか」と、他の生徒がビクビクしているのが伝わってきたから。
「自分はたまたま自殺せずに済んだ。でも、親や周囲の先生にはもっと早く気付いてほしかった」。大阪市立桜宮高校の教師による体罰で生徒が自殺したことが問題になり、そう思う。
同校の青木繁副校長は取材に「教諭が何度も暴行したという認識はない。生徒らの話は過大で、学校が把握する内容と大きな違いがある」としている。教諭の暴力については「許されないことだが、2人の就学姿勢を立て直すという思いがあった」と説明する。
という記事が出てきた(元記事は既に消えてるが)。当時の自分達の気持ちをそのまま表している記事だった。お前ら、90年代にあれだけやらかしたにも関わらず、何一つ反省してなかったんだね…
正直、我々の時代に体罰という理不尽な問題を取り上げ、裁判なりで戦って「教師が生徒を殴らない」という当たり前の権利を勝ち取っていれば彼がこのような目に合う事はなかったのかもしれない。
そういう意味では我々抗議の声を上げなかった人間も彼の目からすれば保善の教師と変わらないのかもしれない。
だが我々には声を上げる知恵も勇気もなく、結局、放置し、自分と同じ、もしくはもっと酷い状況を10数年後に後輩に味あわせた。
そして偏差値は51~58と我々がいた当時と何ら変わらない状況。
「進学校にするため」という大義名分で我々に奮われた暴力は結局何の意味もなかったのだと脱力するしかない。
保善高校の理事だの教師だの糞虫ども、正直お前ら全員死ねばいいと思うよ。
お前らは教育者でもなければ、経営者としても糞だ。お前らには何一つ敬意を持てるものがないし、何一つ美しいと言えるものがない。
「質実剛健」とか本当に笑えるわ。
とりあえずこの記事呼んで保善高校への受験を辞める人が増え、一人でも保善高校の犠牲者が増えない事を元生徒として祈っている。
・追記 保善高校の13年の空手部の体罰に関してはオンラインの記事は消えているが朝日新聞2013年2月24日の日曜版38頁、2014年7月4日の社会面の記事で確認ができた。体罰を受けた生徒は除籍処分にされたらしいその後、両親と共に保善高校及び同校を運営する学校法人保隣教育財団に550万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしたらしい。その後の顛末はネット上を探しても見つからないが、彼にとって良い方向に事態が動いていた事を祈っている。そして22人のうち後に退学に追い込まれた生徒3名、後に自殺した生徒1名を出し、何の成果も残さなかった保善高校初代文系特進クラスの生徒の一人として、彼がとった勇気ある行動に心から敬意を表したい。
自身の市長報酬4割カット 退職金は8割カット(市議会は維新が提出した議員歳費3割カットの条例案を自民・公明・民主・共産の反対で否決)
人件費を15%、年間360億円削減
事業をゼロベースで見直す‘市政改革プラン’により歳出を380億円削減(当初プラン見込み額のうち96%達成)
天下りポストだった外郭団体を府と統合・民営化を含め70団体から7団体へ最大9割削減予定(7割削減済み)
2013年改選だったポストで公募の無い天下りを29団体37人から10団体11人へ7割削減
前市長が領収書の不要な交付金へと不透明化し、4億円以上ばら撒いていた地域振興活動への補助金を透明化し、全て100%だった補助率を上限75%に引き下げ。
記者会見を記者クラブだけでなく、ネットメディアやフリージャーナリストにも開放
子育て・教育関連予算を前市長時代の67億円から336億円へ大幅アップ
塾代バウチャー制で組織への補助金から個人の選択権を重視した教育支援へ 市長「現金はパチンコに使っちゃう人がいるからICカードでw」
市バス事業が31年ぶりに黒字に
重点的医療扶助(生活保護者医療適正化)、不正受給取締り、就労支援で生活保護費が22年ぶりに減少(政令市で唯一)
朝鮮総連の関連施設について前市長が実施していた税の優遇措置を廃止
重度心身障害児の情報を一元管理する全国初の医療コーディネート事業 (重症心身障害者らが通う施設を視察した際、家族からの「医療機関への受け入れが円滑になるよう支援してほしい」との要望を受けて)
倍以上の差があった市立と私立幼稚園の保育料を同額にして、助成はあくまで所得に応じて行う
保育所入所枠3340人増(前市長の1.5倍ペース)、一方で自民党木下市議は市政に介入して保育所定員を減らすように指示。
訪問型病児保育モデル事業(7800円/日、一人親世帯2400円、生活保護世帯・市民税非課税世帯600円)
結婚の経歴が無くても一人親世帯には寡婦控除と同じ保育料控除を適用
校務支援・学校教育ICT活用事業開始 現在はモデル校に、15年度から全生徒にタブレット端末配布(モデル校では教員1人あたり年間130時間以上の効率化効果が見られた)
学校選択制導入
教育振興基本計画により、程度に応じていじめ加害者への対応を更生施設活用も含めて明確化
市営地下鉄売店の運営を天下り団体からファミリーマートとポプラに
市営地下鉄の薄暗いだけだった通路が駅ナカ商業施設「ekimo(エキモ)」に
芸術文化分野での補助金配分の審査を行う「大阪アーツカウンシル」設置
ふるさと納税制度を利用して、市に納税する代わりに文楽など文化への寄付が可能に (単に補助金を待つだけの文化団体ではなくなる)
体罰が横行していた桜宮高校に先進的なスポーツ教育を取り入れた改革プランを実行、さらに総合型スポーツクラブ設立を中心としたS-プロジェクトを推進
特別予算を組み、街頭犯罪多発地域における重点パトロールを実施
通行人にとって大迷惑だった繁華街キタ・ミナミでの客引き行為を禁止
建て替える予定だった市立住吉市民病院を民間に売却し、府立急性期・総合医療センターに統合
御堂筋の高さ規制を緩和で次々と新ビルが誕生(それに伴い企業が地下街の整備も)
鶴浜に関西発出店の東京インテリア家具を誘致(年間賃料1.5億円)
住民が行政に頼らず自らの負担で自ら街づくりを行える日本初のBID制度
大阪市情報化基本指針により、市営地下鉄に公衆無線LAN・WiMAXを設置
市営地下鉄の運賃を史上初めて値下げ
大阪北小学校・曾根崎幼稚園跡地、売却予定額68億円を145億円で売却し周辺地域活性化も目的にした52階建ての物販・飲食、文化交流施設、900世帯タワーマンションなどの複合施設へ
5カ国との競合を勝ち抜き「第3回インターナショナルジャズデイ」を誘致、開催は大阪城西の丸庭園
税金で管理運営していた大阪城公園を委託料ゼロで民間委託し、逆に年間2億円以上の納付金と収益の一部を受け取る。
税金で管理運営していた天王寺公園エントランスエリアを委託料ゼロで民間委託し、逆に使用料を受け取る。
ほとんど使用されずに7000万円の税金で維持管理していた元大阪市公館の維持管理費用を2000万円に縮小、さらに民間への貸与で由緒ある美しい建物でレストラン・ウェディング・パーティ・庭園の常時公開などに活用された上、1億円以上の賃料収入に。
ごみの収集を効率化し、森之宮・大正の2焼却場の建替え計画を停止。
企業と求職者のマッチングサイト「ジョブアタック チャレンジ!」
市有地を無償レンタルするイベント特別優遇エリア『イベント得区(とっく)』
アホなの?死ぬの?
●意見交換のため府庁に来た女子高校生を相手に思いっきり論破。女子高校生を泣かす。
「大阪の財政を良くするというのは私たちが苦しむことなんですか? ちゃんと税金取ってるんだったら教育、医療、福祉に使うべきです」
橋下市長「じゃあ、あなたが政治家になってそういう活動をやってください」(2008年10月23日)
「こんな猥雑な街、いやらしい街はない。ここにカジノを持ってきてどんどんバクチ打ちを集めたらいい。風俗街やホテル街、全部引き受ける」(2009年10月29日)
「日本はギャンブルを遠ざけておぼっちゃま、お嬢ちゃまの国になっている。小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、勝負師にならないと世界には勝てない」(2010年10月28日)
「普天間の司令官に「もっと風俗業を活用して欲しい」って言ったんですよ。そしたら司令官はもう凍り付いたように苦笑いになってしまって、「米軍では禁止だ」と。そんな建前みたいなこというからおかしくなる」(2013年5月13日)
●ツイッターで
「なぜストリップに助成金はダメなのか。自称インテリや役所は文楽やクラシックだけを最上のものとする。これは価値観の違いだけ。ストリップも芸術ですよ」(2012年8月12日)
●市立桜宮高校の男子生徒が体罰を受け自殺した問題を協議する教育委員会臨時会議で
「クラブで勝つより大事なことがある。桜宮高校の入試を継続すれば大阪の恥だ」(13年1月21日)
●保護者に「もうあんまり、やってないの?」「僕と会えなかったら寂しい?」10代少女に「もうやったん?」などと言った公募校長に対し
はじめに、桜宮高校による過度の体罰によって亡くなられた方には、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
また、トラウマとなるような体罰を受けたことのある方々にも、深くお詫び申し上げます。
その中で、「何を言っても本当に言うことをきかない生徒」を何人か目にしました。
こう言うと、「言ってもきかないのは、教師の力量不足だ」と言われそうですね。
その通りです。異論はありません。多くの教師は、間違いなく力量不足です。
よく言われる、「社会に出たことも無いのに”先生”ぶってる」のが大半の教師ですから。
そもそも、1対40という圧倒的数的不利状況、多数の事務作業、、、この先は本意では無いので、止めておきます。
どうしても変な方向に生える歯があるから、正しい方向に矯正する。
どうしても言うことをきかない生徒がいるから、正しい方向に矯正する。
でも、正しいって何でしょう。誰にとって、正しいのか。
ところで、日本社会の新卒信仰に対する異常さは、様々なところで耳にします。
それについての是非は今は置いておきますが、そこには「新人の矯正」という観点が見え隠れしているように思います。
日本人は、どうやら規格通りの、正しい製品を作るのにかけては、ほぼ世界一のようです。
ただ、それが得意すぎて、どうやら人間に対しても―学生であれ、新入社員であれ―規格にはめようとする傾向がありそうです。
日本人の、人間に対する考え方―教育方針―が「そのまま」である限りは、正しく矯正するために、体罰は必要でしょう。
規格に収まってもらわないと、困ることがあるからです。あなたが歯や骨盤にするように。
日本人が、もう少し多様性を認められるようになれば良いな、と思います。
もちろん、他人に過度の迷惑や危害を加えるのは論外です。
また、「自由」と「放縦」は違います。これについては、多くを書かなくても大丈夫でしょう。
多様性を認めるとは、「ありのままを認めること」だと思います。
そう言うと、「子供が努力しなくなる」という声も聞こえてきそうです。
僕は学生時代は、勉強(特に英語と化学)は得意な方で、大して自慢にはなりませんが、その2つは偏差値が70を切ったことはありません。
それだけの勉強も、毎日のようにしていました。でも、それを努力だなんて思ったことはありません。むしろ楽しかったです。
薔薇に向かって、「おいコラ、お前も紫陽花みたいな綺麗な青色を咲かせられるよう努力しろよ」という人がいるでしょうか。
もしいたとしたら、薔薇にとってはとんでもない苦痛でしょう。それこそ遺伝子操作をしてもらうしか無いわけです。
「おい、お前も立派な赤色を咲かせられるよう、頑張れよ」と言えば、本人(本花)は自ら喜んで精進するでしょう。
それが、「自分のまま」だと知っているから。認めてくれて、嬉しいから。
もう少し、もう少しで良いんです。
そして、それを―教育の場でも、会社でも、普段の生活でも―他者に展開する。
そういったことができれば、良いな、と思ったりもします。
数日に一件くらいは「教師の性犯罪。とりわけ教え子を含む未成年者への性犯罪」のニュースを聞く。
そういう理由もあるのだろう、ネットなどでは「教師は性犯罪者予備軍」のような扱いをされることもある。
が、リアルに教師やってる増田からすると。「そりゃあ他の職業に比べたら、教師が未成年者に性犯罪することも多くなるだろう」と思う理由はいくつもある。その理由にはまともな理由もまともでない理由もある。
だが実際、俺自身は教え子や未成年者相手に性犯罪行為をしたことはないが、「教え子に手を出す機会はごろごろ転がっている」し、「その後上手くやれば、発覚しないことは十分可能」だと思う。俺と同じ事に気がつく教師が何万人もいて、その中の何%かが一線を越えてしまえば、性犯罪者が大量に出来上がる。その中で隠すのに失敗したヤツが「教え子に手を出す性犯罪者」として報道されるわけだ。
前置きが長くなった。理由を書こう。
(※なお、俺が男である・男性教師→女子生徒の事件が多いという2つの理由から男→女を想定しているが、女教師→男子生徒や、希に見る同性愛系の事件でもほぼ通用するはずだ)
1.接する機会の多さ
ネットを見ているとしばしば、女子中学生や女子高生は半ば空想上の存在扱いされていたりする。あるいはリアルに、教師ですと自己紹介して「小中高どれ? 高校なんだ。共学?」とか言われた後、「毎日女子高生と話せるとか羨ましい」とか言われたりする。それくらい、教師以外の人にとって児童や生徒というのは接する機会の少ない物である(ということを最近ようやく理解した)。
で、考えてみよう。「犯罪をする対象はたいてい普段接する中から選ばれる」という犯罪一般に当てはまる話の中で、「1週間で10分も女子生徒と会話しない人」と、「一週間で何時間も女子生徒と会話する人」ではどちらが若い女の子に犯罪犯す割合が高くなるか。因果関係は明らかだよね。
……と言いたいところだけど、原因は「それだけではない」。理由の一つではあるけど。
教員と生徒は対等ではない。大人と子どもだからとかそういう次元ではなく、教員は生徒に対して優位に立っている。何故ならば、教員には「生徒の成績を判定する権限・それにより生徒の進路を左右する権限」が与えられているからだ。そして、成績というのはテストの点だけで決まる物ではない。出席状況や提出物などの平常点も加味される。だがこの「平常点」は密室の中……どころか担当教員の脳内基準でつけられる物だったりする。おかしな点数をつけられた生徒が多かったり、あるいはテストだけなら成績「1」になる生徒に「5」をつけたら問題になるから、ほとんどの生徒に対しては本来の平常点の精神に則り、普段の言行から当たり障りの無い点をつける。だが、特定の生徒に少しだけ加減するだけなら、さじ加減次第では発覚しないことは十分可能だと思う。やったことはないけど。
(話が多少脱線するが、桜宮高校の部活内体罰事件も、学校の部活という閉鎖空間の中で”部活のキャプテンを全うすれば大学に行ける”という「進路を左右する権限」を支配の道具に使った教員が起こした事件だと受け取っている)
が、読者はここで一度自分の学生時代を思い返し、「先生は僕の成績決める権力があるんだから言うこと聞いておこう」のように意識して教員に接していたかどうかを思い出して欲しい。みんなしてなかっただろうし、実際、そんなことを意識していない生徒が大多数である。というか、生徒がそれを分かってやりとり出来る相手だったらどれだけ楽だろうか(愚痴)。「平常点下げるぞ?」という脅しは、問題を起こすような生徒にはまず通用しないし、平常点を下げる方向に使うと保護者の抗議が来やすい。だがその逆……つまり、”普通に平常点をつけると赤点になるが、贔屓して平常点多めにつけて赤点脱出”のような使い方なら……問題にはなりにくい。そういう生徒に対して、有り体に言うなら『赤点脱出の代わりに体を提供する』ような取引を持ちかけ、本人が秘密を続ければ発覚しないことも可能である。平常点で行うとは限らない。その生徒にだけ問題を教えることも考えられる。そうやって、教師としての権限を使って、教え子に手を出すことが教師には可能になってくる。
2は教師としてを通り越して人としてアウトだが、教員としての権限を抜きに可能なこともたくさんある。
大人が想像する以上に、生徒というのは未熟で、世界が狭い。その中で、生徒は多かれ少なかれ悩んでいる。悩みを保護者に・友人に・教員に相談したり、あるいは誰にも相談できず表に出さなかったり……生徒によって色々だろうが、『悩みの相談相手』に教員を選ぶ生徒は少なくない。そして、生徒の抱えている悩みの中には、大人ならばあっさり解決策が見つかるような物もあったりする。あるいは教科書の事例そのままレベルでありきたりに、承認欲求で悩んでいたりする子もいる。そして、生徒が教員に悩みを相談する場合、たいていは『教員ならば誰でも良い』わけではなく、生徒から見て”良い先生”である。といっても、生徒から見た良い先生と大人から見た良い先生はそれほど違うわけではない。あるいは完全な『相談』という形を取らなくとも、授業で少し空き時間が出たときや休み時間の雑談、授業中の私語……そういったものから教員は「生徒が何に悩んでいるか」が(生徒が思っている以上に)分かる人もいる。が、そうやって小さな糸口から生徒の悩みを把握できる先生というのはやはり『良い先生』なのだ。
……つまり。2とは逆に”生徒の悩みにも気づいてくれる、親切な先生・良い先生”であるとその分『教え子の攻略法も分かる』。恋愛で口説く攻略法ならばまだいいのだが、もはやそっちの攻略法どころではなく、『こうすれば騙して体の関係に持ち込めるんじゃないか』や『こいつなら性格的に、脅せば言うことを聞くだろう』というセキュリティホールを教員の前で丸出しにしている生徒すら想像以上に多い。とはいえたいていの場合、教員は攻略法が分かっても実行はしない。その理由の1/3は人間・大人・教師としての職業倫理からで、1/3は発覚したときのリスクと天秤にかけた上での判断で、1/3はそれをするほど教え子が魅力的ではないという、それだけの理由だ。隠蔽することに自信があれば、あるいはその理由を乗り越えさせるほど生徒が魅力的ならば……そうやって、教え子に手を出す教員が出てくるのだろう。
え、増田? 女子として可愛いと思う教え子はそれなりにいますよ。「教え子はそういう対象じゃない」とかは、本当は気付いているのに認めたくない羽瀬川小鷹みたいな人が言うセリフです。
WHOの勧告を改めて読みかえしてみる。
http://whqlibdoc.who.int/hq/2000/WHO_MNH_MBD_00.2_jpn.pdf
すべきこと
・ 健康に関する事実を提供する際の責任者は、注意深く行動する
・ セルフ・エスチームの向上 (積極的な自己評価は精神的苦悩から成少年を保護し、生活上の困難とストレスに対処することができる)
・ 学校でのいじめと校内暴力の防止 (不寛容から解放された安全な環境の構築)
すべきではないこと
・ 断罪しない
ということなんだけど、今の桜宮高校の事件の報道はどうなんだろうね。大津のいじめ、今回の体罰と、どちらも問題が大きく取り上げられるきっかけになったのが「自殺」で、逆に言えば自殺がないかぎり注目してもらえないというのは悲しいことだ。
報道が「いじめ自殺」「体罰自殺」と名付けることで、自殺の理由が単純化されるわけだけど、この単純化が問題なのはそれが後追い自殺を生む可能性があるということだよね。
子供だった頃、自分はひどいいじめを受けていて、当時「いじめ自殺」のかなりセンセーショナルな報道が行われていた。やっぱりふと思ってしまったよ。あれ、自分も自殺していいんじゃない?自殺したら学校も親も気付いてくれて、いじめてる奴らも反省するんじゃない?復讐できるんじゃない?ってさ。実際当時、「いじめ自殺」が連鎖したらしい。
元増田です。
前の記事http://anond.hatelabo.jp/20130124080522を書いて一晩たって、またちょっと考えた。
朝日の記事をもう一回読み直してみることにする。
自殺前日学校で起きた事実に関することのみ抜粋。著作権の範囲を超えてはいるが、必要なことなので。関係者の方のクレームあったら削ります。
生徒がボールを取りにいかなかったり、パスを受ける際に相手の守備側選手を見ていなかったりするミスがあった。
「なぜ、相手を見ない」。顧問は試合中、生徒を呼び戻して、まず顔を平手でたたいた。さらに「なぜ、飛びつかない」などと、たたくたびに詰問。平手打ちは計4発ほどになった。
その後も、「やるのかやらないのか」などと質問を繰り返し、頭を6発ほど指先ではたいた。生徒は無言で耐えていたが、最後に「やります」と大声で返事し、顧問も「行け」とコートに送り出したという。
その後のタイムアウト(休憩・作戦タイム)でも、ばてて足元がふらついていた生徒に、「しっかりやれ」と3発ほど顔をたたいた。「たたかれてするのは動物。それでいいのか」と叱りつけたとされる。
生徒はさらにミスをしたとされる。顧問が再び「なぜ相手を見ないんだ」としかると、「余裕がありません」と答えた。
顧問は試合後、生徒を呼んで体育教官室に。話し合いは約1時間に及んだ。
「簡単なことを言っても、たたいても分からんようだし、どうすればいいんだ」と顧問は尋ねたという。
この日は試合以外でも、生徒が顧問の質問に口ごもる場面があった。「質問の意味がわかる者はいるか」。顧問がそう尋ねると、多くの部員が挙手した。顧問は「みんなが選んだキャプテンなんだから、教えてあげなさい」と促したという。
解散は午後7時40分ごろ。直前に部員だけのミーティングがあり、生徒が顧問とのやり取りを打ち明けたという。
「キャプテンを続けるのはつらい」
考え直した生徒は「(引き続き)キャプテンをやらせてください」。
「これからも怒ったり、たたいたりするかもしれない。それでやれるか」
「やります」
生徒はミーティングで部員に「覚悟を決めて、頑張るわ」と話した。
部員から「チームのために怒られているんやから、全員でカバーだ」「助けてやろう」と、励ましの声があがった。
帰り道。生徒は親しい部員に手を振って別れた。暗い感じはなかったという。
顧問の教師の指摘は正しい。
そして多分多くの学校でこういう指導がなされているだろう。桜宮高校を評して「犯罪空間」と言った人もいるが、これが犯罪空間なら、運動部を持っているほとんどの学校が犯罪空間だ、と感じた。
そして、チームメイトの言動も、正しい。
何で引っかかるんだろう、と、もう一回記事を読み返した。で、なぜ引っかかるかわかった。
教師も正しい。
チームメイトも正しい。
正しすぎるのだ。
正しいことしか言わない。
教師は、その時々に「なぜ」と問いかけている。
自分で考えさせるためだ。
「どうするか」とも問いかけている。
でも。
それは、はじめから答えが決まっている。
「いや」という答えは、許されていない。
別の社の記事では生徒は、なぜキャプテンをしているか、と言われ、「進学のためです」と答えたという。
そういう「立派でない」答えは許されなかった。
生徒はミーティングで部員に「覚悟を決めて、頑張るわ」と話したという。
それは、本音の言葉だっただろうか。
チームメイトも「みんなで助けていこう」と言った。
いい仲間だ。でもそこは、「おれもむかつくんだよな」とか、「間違ったこと」を言える場だったのだろうか?
*
私の先生は、いつも私たちに「スポーツマンらしく」、礼儀正しくしろと言っていた。
前にも書いたが、それは私たちが「そうしたい」と思ってやっていたわけではない。やらなければ怒られるし、それが「先生に言われた正しい振舞だから」だ。「やりたいから」やっていたわけではない。
「やる気」に関してもそうだ。
先生は、もうあらゆる機会を捉えて、私たちにやる気があるか、を試していた。ちょっとした言葉尻を捉えて、「やる気」があるかのチェックをしていた。
そこで怒られたわけではないんだけど、そこで「やる気がない自分」が表出してしまうと、今まで言ってたことは嘘じゃないかい、ってことになってしまう。
その「一貫した自分」を守るために、どんなことがあっても「やる気」がなきゃならないんだった。
だから、一挙一動を気にしていたのは私たちの方だった。この先生の問いかけは、「そう」であるか、「そう」でないか。
今でもそういうところがある。
この言説は、人間として不誠実か(と他人に思われるか)、「お前が言うな」とブーメランが飛んでこないか、「社会的に」間違ってないか。
言いたいことを言っているようだが、どこかでそれを気にしている。時々「あっこれを言ったら前の言説と矛盾する」と、消すことさえある。
若いうちの「訓練」というのは根強いもんだな、と、ため息が出てしまう。
そういうのがだんだんめんどくさくなってきたので、この頃はいやがられそうな言説でも「わざと」出すことがあるのだけど。
で。
朝日の記事を見ると、みんな「間違って」ない。
愛情と熱意にあふれた先生と、やる気と思いやりにあふれた仲間。
みんな「正しい」。
生徒だけが「間違って」いる。
正確に言うと、「正しくないことを考えちゃう生徒だけが」間違っている。
こりゃ、息が詰まるわ、と思う。
やる気に満ち溢れて、信頼によってつながれている仲間と一緒にやれば、確かに成長する。
けど、それは、「本当に思った」時だけだ。
「決められたことだから」やってるのって、本当につらい。
周りが正しいとなおつらい。
何回頑張っても「正しく」なれないのは、一番つらい。
こういうこと言うと、またマズーなのかもしれないが、今回生徒が自殺したのって、本当に体罰によるものか、自分的には疑問がある。
リンチに至るほどの暴力ならそれ自体がきついが、生徒の遺書から見えるのは「何で自分だけ」という不公平感のような気がするからだ。
個人的に体罰がきつかったのは、みんなの前でさらし者になって、「お前は間違ってる、間違ってる、速く答えを出せ」とせかされたからだ。考える時間はない。「正しい」答えは決まっている。でもそうできない。でも答えないといけない。早くしないと殴られる。
でも、わかんないのだ。
でも、「私なら」つらいのは体罰じゃなかった。「体罰によって」「正しい答えを」せかされることだった。
「これで自由に料理を作ってください」
と言われると、たいていの人が刺身を作る。
答えは、渡された時から決まっているのだ。
それは、「自分で考える」ことにならない。
「自分で考えた」ことでもない答えをせかされると、つらいのだ。
生徒と私とは違う。
体育科という特殊なところにいたこともない。
でも、高校のときの、あの「正しい自分」「やる気がある自分」を求められたつらさを思うと、この子、「正しすぎる」ところにいてつらかっただろうなあ、と感じてしまうのだ。
*
部活にいて、私はたった一つ嘘をついた。
やめる時、「親が進学のためやめろと言ってる。ケンカして抵抗しているがどうしようもない」という口実でやめたのだった。
もちろん、方便だ(親は知らない)。
引退試合前にやめることは無理だと思っていたので、ケンカして意思を通しているがやむをえない、という設定ならやめられる、と思ったのだ。先生は、「本気ならケンカしてでも意志を通せ」とよく言っていたから、「そういう設定」なら受け入れられると思ったのだ。
ちゃんと本音を話してやめる「べき」だったかなあ、と今考えるが、本音は言えなかった。
嘘をついてよろしくない行為ではあったが、多分それは、私が部活でたった一つ自分の意志を通した行為だったのだ。
人として不誠実だったし、間違ってはいたが、結果的に、私は残りの高校生活、大変大変幸せだった。
ダラダラ過ごせる自分のクラスが大好きだったし、たくさん笑ってたくさん勉強してたくさんの人と話せた。
やめてよかった、と今でも思う。
追記
現在の事件に関する考察はすべて推測であり、どなたかに責任があると指摘するものではありません。
ご友人を亡くされてつらい思いをなさっている方々について配慮が足りなかった部分がありました。
桜宮高校が行ってきた事は、社会にそういうレッテル張りをされるきっかけとなった…
と後世に語られるかもしれない。
いや、それでいいじゃん。擁護者全員自分の事しか考えていない。
4月過ぎたら騒がなくなるんだろうな。
元増田です。
桜宮高校の場合は、今日の朝日の記事を見るに、チームメイトからはいじめられてなかったみたい。だからこそプレッシャーがきつかった、ってのはあるんだろうけどね。。。。
体罰怖がっていた生徒は他にもいたらしいので、今は一息ついてるだろうけど、生徒自身から正確に聞き取りして、「どうしたいか」きいてほしいとは思う。
http://anond.hatelabo.jp/20130122033549
元増田です。
トラバとブクマ、ありがとう。いろいろ考えさせられて思い出すことも多かったです。
それでちょっと重要なことをいくつか書き忘れていたので、以下に補足します。
前にも増して読みづらいかもです。そして、前のエントリと印象違うかもしれないので「用心深く」読んでください。お願いします。
*
前のエントリで毎日体罰を受けていたような書き方をしてしまったが、何日かたって思い返すに、そんなに頻繁には殴られていなかった。ことに私に対してはそれほどむけられることはなかった。
私は心身ともにヘタレだったので、こいつを叩くとつぶれる、と思われていたのだろう。先生も人を見て叩いていたのだ。
バレーボールというスポーツの構造上、エースは「トスが上がったら必ず打たなければならない」宿命を担っている。
セッターはその時点のアタッカーの状態、あちらのチームのブロックの状態、ゲームの流れなどを考慮して、その時点で一番点が取れるアタッカーにトスを上げる。エースはレフトから、補助アタッカーはライト、センターから。
補助アタッカーにはクイック攻撃もあるが、エースはほとんど高いトスを打つオープン攻撃。どっかん大砲を撃つ役目だ。
ゲームの中盤くらいまではクイック攻撃なども使えるが、ラリーが続くと必ずボールはエースに上がる。
上がったら打たなければならない。どんなに疲れていても飛んで、打たなければならない。ラリーが続く限り、なん10発でも。打って、決めなければならない。それができるから「エース」なのだ。
もちろんほかのアタッカーを使うこともできるのだが、ゲームの流れで、「どうしてもエースしか通用しない場面」ってあるのだ。
だから、エースってきつい。昔は後衛に回れば休めたが、いまはバックアタックも打つから休みなし。本人が自覚しなくても、構造上チームを引っ張らなければならない。それが「エース」だ。
チーム全員で拾って拾って拾いまくって、粘って敵失を誘うというチームもあるけど、身体能力に優れた選手が一人いればやはりその選手に集中する構造になるだろうと思う。
「キャプテン」もそうだ。
ゲームで、チームの期待が集中したときにそれを受けて結果を出さなければならない。
だから、「エース」や「キャプテン」を練習でいじめぬく指導者は多い。ほかのメンバーがミスしても怒られないような場面でエースが気のないプレイをしたりするとそれはもう怒られる。「自覚」をたたき込むことが練習でのかなりのウエイトを占めているのではないかと思う。
そこにはかなりの不公平感が漂う。不公平であるのはほかの部員もよくわかっている。あるいは、自分たちのミスをかわりに怒られることもある。そんなとき、メンバーは
「ああ申し訳ない、自分たちがふがいないせいで、自分たちがミスしたせいで、エース(キャプテン)が怒られている。次は絶対にエースに負担をかけないようにしなくては」
と考える。こうやってチームのつながりは少しずつ強くなっていく。
体罰が起きていたときに、なぜほかの部員が止めに入らなかったか、といわれている。他ではわからないが、うちではこうだった。
そしてまた、体罰というのはたいていが理由がある。
記事でもあったが、「怒られるのは気のないプレイをしたとき」。理由はちゃんとあるし、その理由は常に筋が通っている。
うちのチームでは、エースがラリーで相手に拾われた、あるいはブロックで止められたときは怒られることはなかった。打ち損ねたとかタッチネットしたとかで、相手にポイントが行ってしまったときでも怒られることはなかった。
でも、苦しくてフェイントでごまかそうとしたり、ただ相手コートに入れるだけだったりするとものすごい勢いで怒られた。「そういう姑息なことをするな」と言われた。
力一杯ぶつかってだめだったらそれは仕方ない。が小手先でごまかしたり逃げたりすることに対しては非常に厳しかった。
大人になって働くようになってから、その意味はちょっと分かる。苦しい中ごまかさず、妥協せず頑張りとおす、みたいなことだった。
いい指導だった、と思う。
*
これって、どう感じられるだろうか。
ゲームでは、時に一人が重責を担わなくてはならないときがある。それに耐えるためにはどうするか。支える周りの人間はどうするか。
試合に負けたっていいのだ。大切なのはそれに立ち向かうことだ。
与えられた役割を担うこと。そして彼/彼女を信頼してサポートし、最後のボールをゆだねること。
それは悪いことではない。
だけど。
それじゃあ身体能力に優れて、夢を持って入学してきた生徒が自殺するのはなぜなんだろう。
だめな人だったんだろうか。
私の先生はいろいろとトラップを仕掛けて私たちの自主性を試していた。見捨てられても食いついてくるか。先生の意図を乗り越えて、自分の意志を通すか。
しかしヘタレであるところの私たちは、その意図を知りつつ、演技をした。自主性をもって動いているかのような演技。だから、空気を読むことは大変うまくなった。先生が望んでいるものを演じるようになった。表面は大変「スポーツマンらしく」なった。が、内面ではもう気力はつき、早くやめたいと思っていた。
今考えると、ため息が出る。
でも、これが現実だ。
もし、このとき先生が「善意」で、どこまでも私たちの演技を許さず、追及していたら
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは克己の物語を「美しい」と感じる文化の中に住んでいる。一方、頑張れ頑張れと強いられたあげく、追い詰められた末の死というものの悲惨さもよく知っている。
だからこそその双方を知る人々は口ごもる。
この矛盾は多分、誰でも持っている。そして明確に解決できていない。
だから、思う。
一人を責めても解決しない。
*
教師と生徒が一緒になったいじめを受けていたという増田もいる。
http://anond.hatelabo.jp/20130123190802
http://www.asahi.com/national/update/0124/OSK201301230152.html
生徒はミーティングで部員に「覚悟を決めて、頑張るわ」と話した。 部員から「チームのために怒られているんやから、全員でカバーだ」「助けてやろう」と、励ましの声があがった
いい、チームではないだろうか。
「いいチーム」なのになぜ死んだのか。
「いい人」だからだ。
本気で生徒を伸ばしてあげたいと思い、「本気で」体罰が彼らをよくすると思い込んでいるからだ。困難を克服することが、彼らにどうしても必要だと思っているからだ。
体罰を「誰かをスケープゴートのようにして恐怖の支配をする」という記者もいる。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130118k0000e070251000c.html
私はこれに強い違和感を覚える。
「いい人」だから、善意にあふれているから、何回注意しても体罰を繰り返すのだ。自分のことではなく、相手のことしか考えていないからだ。相手がよくなればそれでいい、と考えているからだ。それがチームの結束を強め、自分で考える力、自分で解決する力をつけると思っているからだ。実際は、そうじゃないのに。
ここが理解されない限り、世間は「体罰いけない」と「現場では体罰あっても仕方ない。頑張れば克服できるはず」のダブルスタンダードを繰り返す。
体罰が法律で禁じられていることは、建前だと思っている。生徒にわからせるには体罰が一番通じると思っている。だから、殴る。善意で。
だから、異常者を切っても解決しない。桜宮高校だけではない。日本全国に法律違反をしてでも生徒を指導しようという「熱くて」「いい先生」はいるのだから。
「いい先生」と、「いいチーム」。
生徒は、「部員の信頼を失うので『キャプテンを辞めたい』とは言い出せない」と言っていたそうだ。
http://mainichi.jp/feature/news/20130110ddm041040111000c.html
信頼を裏切ることは、ときに侮られるよりつらいことだ。
教師もきつそうだと、キャプテンを辞めさせようかと何回か提案していたが、そのたびに「やります」というやり取りを繰り返していたらしい。
折れそうなところを起き上がって、また折れて、起き上がって。
生徒が弱かったのではない。
休まなければならなかっただけだ。
全員部活参加の体育科で、進路に非常に重要な影響を持つ部活動、そして迫っている新人戦。練習試合のたびの詰問、体罰。
「体罰は、やらない方がいい」という結論は同じなのだけど、それは誰かに責任を覆いかぶせるとか、ましてや一つの学校を潰してすむことではないと思う。
徐々に問題が整理されて、一面的でない見方も増えてきている。
でも、増えて行くに従って違和感を覚える。
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20130122/1358872297
興味のないことを「知らんがな」と言い、理由を「3つでしかない」と限定する。
(勿論この記事を否定したいからじゃない。前段を書いてある分、誠実だ。)
全てが理由になり得るし、最も支配的な理由が、最も効果的な対策に繋がるとは限らない。
体罰とは何なのか、分類によって見ていきたい。
まず、体罰は許されるのか、だ。
効果があるかは議論の余地があり、根絶は出来ない無いが、対策は打てるだろう。
順に見ていこう。
昭和23年、法務庁(現在の法務省)は「児童懲戒権の限界について」として以下の定義を出している。
一 学校教育法第一一条にいう「体罰」とは、懲戒の内容が身体的性質のものである場合を意味する。すなわち
(1) 身体に対する侵害を内容とする懲戒-なぐる・けるの類-がこれに該当することはいうまでもないが、さらに
(2) 被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する。たとえば端坐・直立等、特定の姿勢を長時間にわたつて保持させるというような懲戒は体罰の一種と解せられなければならない。
懲戒とは職務上の懲罰なので、例えば退学や訓告(所謂お説教)、謹慎(居残りの自習など)などは懲戒処分とされうる。(※1前述の通牒には、遅刻した生徒に対して「廊下に立ってろ!」と授業を受けさせないことは、懲戒ではなく許されない等、かなり具体的な質疑形式で書いてある。(2)に関して、機械的に判定できないとするなど、現実的でもある)
これには、議論の余地がある。
文部科学省の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」の別紙に、
「児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではなく」とあり、裁判例を引いている。
つまり、一度出された定義であっても、状況(荒れた状況下での、腕力による鎮圧など)によって解釈が変わりうる。
学校教育法第十一条に、「懲戒は良いが体罰はダメ」と書いてある。
罰則はないが、法律である。法治国家では、法を守るのは社会の前提になる。
しかしこれは、「なぜダメなのか」「どうして体罰が許されないのか」には触れていない。
これは、「特に注意しておかないと、蔓延するから」という過去の経緯を踏まえてのものだろう。
学校教育法では、1〜7条が学校を定義し、8〜10条で校長と教師を定義する。
その次が11条の体罰の禁止だ。(その次に、12条の健康診断となる)
「公務員等が情報収集等のために身体的、精神的な重い苦痛を故意に与える行為」を禁止している。
これも特に禁止している例だろう。
通常これらは、刑法208条の暴行罪、刑法204条の傷害罪でカバーされうるからだ。
これに、刑法第222条脅迫罪を加えれば、体罰の禁止も拷問の禁止も敢えて謳わなくても良い。
「次の試合で勝たなければ、お前を竹刀で殴る」と言えば脅迫罪で、
負けたので殴った場合、怪我をしなければ暴行罪で、結果怪我すれば傷害罪だ。(※2「法令による行為または正当業務行為」は、「違法性阻却事由(法律違反ではないとみなされる)」となるので、それを封じていると見ることも出来る)
だから、日本が法治国家であるとするなら、学校教育法の言う「体罰」は特に禁止されているし、犯罪でもある。
これには議論の余地がない。
体罰が効果的なのかどうかは、探した限りでは決定的なものはなかった。
家庭での躾の一環としての体罰は、効果的(収入、学歴、犯罪歴)であるという報告もあれば、逆の報告もある。
大いに議論の余地があるだろう。
(一番誤解を招きそうな項目であるためここに書いておくが、議論の余地がある事と、現実の功罪は別である。また、効果が大きいと言って許されるとは限らない。本質的な議論だからと言って対策に繋がるとは限らないし、表層的であっても結果的に問題が解決することもありうる。)
これは、(定義を変更しないのであれば)根絶できないだろう。
これは、種痘によって自然界の天然痘ウイルスが感染をほぼ確実に防げたからだ。(※3もちろんWHOの多大な努力の結果である)
暴行も傷害も未だ根絶する手段すら見つかっていない。
ただし、程度問題ではある為、議論の余地はある。
例えば傷害事件は平成12年に急増したが、平成15年を境に低下を続けている。
把握し、対策を打ち、低下させる手段は議論できる。
ただし、低下はしても無くならないという前提を置いての議論になるだろう。
これを、傷害、暴行、体罰、懲戒に分類して考えることが出来る。
個人的には、体罰と傷害だと考えているが、議論の余地はあるだろう。(※4ここでは、懲戒として暴力をふるうことを体罰と呼んでいる。体罰は当然暴行若しくは傷害である。「体罰」の定義が厳密ではないため、体罰ではない単なる懲戒若しくは「有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒」を、体罰と呼んでいる事がある。)
ただし、この論点が問題になるのは、「体罰は許される/体罰はやむをえない(法に不備がある)」という前提を置いたときか、実際に刑法・民法で裁判になったときぐらいであろう。
一般論ともなり得るが、具体的に大阪市立桜宮高校の場合としてみていこう。
亡くなった生徒や入学希望者に責任は無く、顧問には責任がある。
教職員や在校生、卒業生の責任は、その度合いには議論の余地があるだろう。
こうすれば良かった、こうしていれば自殺しなくても済んだ等の話は、あくまでも対処の話であって、責任論にはならない。
これには議論の余地がない。
その指導法が効果的であった、効率的であったという話は、効果の話であって、責任論にはならない。
これには議論の余地がない。
彼らは(別の生徒に対して直接の体罰を行っていない限り)直接的な責任は無いだろう。
その為、議論の余地があるだろう。
例えば「実際の体罰の現場を目撃した」「体罰をしていると聞いていた」「体罰があると、(直接は知らずとも)告発を受けていた」など、状況によって責任の度合いが異なるだろう。
これには職務上の責務(校長など)、教育者としての責務(体育科の教員、普通科の教員など)、社会人としての責務(職員など)と、それぞれにおいて違う。
個人的には、体罰について知っていたであろう体育科の教員と、生徒の傷を見たとは限らない養護教諭とでは、責任が異なると思う。
ただし、少なくともバスケットボール部の生徒は、他人が体罰を受けているのを目撃している。
その為、議論の余地があるだろう。
個人的には、成人でありかつ教育者である教員の責任とは異なり、例え知っていたとしても生徒に責任は無いと思う。
通報すべき、相談すべき等の話は、善意の行為であって、義務では無いと思う。
また、保護者はより間接的な関わりになるため、その影響力と責任は、限定的だと思う。
さらに、「体罰は効果的だった」「顧問は善意から行っていた」などの言説は、その発言に対する責任は生じたとしても、体罰などを受けた結果、その様に教育された被害者ではないかと思う。
(ただし、責任がないから一切の制限が加えられるべきではない、という事ではない)
彼らは、当然、責任は無いだろう。
これには議論の余地がない。
個人的には、体罰が発覚した後に入学を望んだとしても、体罰を受けて良いと言うことにはならないと思う。
(例えば、メジャーリーガーになるべく渡米した人が銃による犯罪に巻き込まれたとして、アメリカの銃犯罪の多さをもって、彼が愚かだとは言えないだろう)
長くなってしまった為、別日に改めたい。
例えば、学校教育法の第四条は、「市町村の設置する高等学校」の「学校の設置廃止」は、「都道府県の教育委員会」が行うものとされている。
そして、同法第十三条には、「法令の規定に故意に違反したとき」には、「それぞれ同項各号に定める者は、当該学校の閉鎖を命ずることができる。」とある。
体罰を故意に行った今回のケースは、大阪府教育委員会が学校の閉鎖を命ずることもできる。
責任がなければ制限を受けるべきではないのか、責任が無くても制限を受けることがありうるのか、
対策の結果、制限が起こることが許容されうるのか、現状に影響を与えない制限を行うべきなのか、
懲罰的な対策なのか、状況を変えるために行った結果懲罰に見えるのか、
いろいろな論点があり得るだろう。
体罰とは何かに関しては、その定義から責任まで整理できたと思う。
特別な場合を除いて、ソースに対してのリンクは敢えて張らなかった。それぞれが調べて欲しい。
どう報道されているか、誰が何を考えているかの切っ掛けにして欲しい。
例えば冒頭に引いたブログポストは、体罰に関しては踏み込まず、この事件が起こる構造について論じているのが判るだろう。
生徒が逃げられないのは、体育科の部活動の他に選択肢がないからであり、教職員が体罰に走るのは失う報酬が少なく、また体罰を報酬とするからであり、また効果的な対策がほとんど無いからである。これは、言ってみれば体罰を積極的に行おうとする教職員が部活動の顧問になる制度設計になっているという指摘でもある。
先の例でも判るとおり、体罰の対策を議論する場合には、体罰がなぜ生じているのかを整理する必要があるし、対策が結果的に罰に見える(例えば、バスケットボール部の顧問が懲戒解雇になった場合、バスケットボール部の現役部員は指導の機会を奪われる。彼らは被害者であるにもかかわらず、さらに罰を与えられている、という言い方も可能である)場合には、功罪を論じる必要がある。
このまとめでは論点整理にしか役に立たず、対策を論じるには不十分である点は、申し訳ないと思っている。
「なぜ今、議論しなければならないか」への返答として、大津市教育委員会のWebサイトを提示して、結びとしたい。
http://www.city.otsu.shiga.jp/www/genre/0000000000000/1000000000625/index.html
学生時代の昔語りをしてはいけないと言われているから、匿名で書く。
俺は小中学校通じていじめられっ子で、毎日他の生徒に引っ叩かれ、学ランには毎日スリッパの跡がつくような楽しい学校生活を送っていました。部活動は体育系に強制加入で、そこでもサンドバッグでした。首の神経がどうにかなる寸前だった時は、加害者の方が自宅にニヤニヤしながら謝罪に来てくれましたが。でも、すぐに元の状況に逆戻りでしたね。
体育会系の教師が生徒指導の役割を担って体罰を加えて統治することは、昔はけっこうザラにあったと思うんですよ。俺はエリートが集う運動部に加入していたわけじゃないけど、桜宮高校で行われていたことが「あるある感」とともに過去の記憶を蘇らせるくらいの実感があります。
◆
http://anond.hatelabo.jp/20130122033549
その支配の構造は上記の記事と、そのブクマにある「自主性=言われなくても俺の思う通りに動け」のとおりだと思うのです。剣道部出身の社会科の先生が担任だったけど、気に食わないことがあると授業を中断して職員室に帰っちゃうわけです。それが5回に1回はあるわけですよ。それをねー、いじめられっ子兼学級委員長の俺が「お願いですから帰ってきてください!」と三文芝居しなきゃいけないんですよ!俺を殴っている態度不良な生徒の不始末を抱えて、こんな幼稚な教師の筋書き通りにいい子を演じるのは耐えられないけど、そういうもんだと思ってやってました。「いい子」だったから。それが役割だもん。
大津のいじめ問題でも同様のことを感じたんだけど、「学校を治める」ことは「生徒を健全な状態に保つ」こととは全く別の問題なんですよね。あたりまえか。生徒に対してプレッシャーを掛けて正しい指導をしていると思っている人が、現実を解決してくれるわけではないのです。
◆
【体罰問題】大阪市立桜宮高校の生徒・OBの声 まとめ - Togetter
学校の中で発言力が高い生徒が何の疑いもなくこういうことを言ってしまう環境の中で、俺がいじめのターゲットにされていたら、マジでやばかったんじゃないかと。学校の教育方針とそれに同調する生徒が甘ったるい美学で包囲する世界じゃないですか。生徒同士の「指導」がひとつの機能として認められかねない環境ですから、体罰やいじめが運動部だけの問題に収まっていたとはとても思えないんですよね。
もし、俺が桜宮高校の中にいたら、あの過去よりもさらに深い絶望に陥っていただろう。もし、桜宮高校で「攻撃してもよい生徒」になったとしたら「俺をこの地獄から一刻も早く救ってくれ!」と祈ったよ。
◆
橋下の政治手法がどーだこーだと言う人がいます。学校に圧力を掛けているだの、入学まで止めなくても、過去に体罰を容認していただろとか、大人の責任を子供に押し付けているだの。そのとおりだと思います。普通科への看板の掛け替えをしただけ、とも言われます。根本原因を解決していない。全くそのとおり。仰せのとおりでございます。
だけど、俺が追い詰められて死ぬ生徒の立場なら、そーんな政治や中・長期的な視野なんて、ク・ソ・ど・う・で・も・い・い!!こんなアホだらけの学校に自浄作用や自主性を促されて、平和な環境がいつできるの?つーか、殴られ続けている最中にそんなことを周りから聞かされたら、さらに絶望してビルの屋上に足がススム君だわ。
殴られて絶望している生徒は、一般の生徒と同じ仲間じゃないんです。殴られて絶望している生徒は、一般の生徒と同じ仲間でいなければならないからこそ絶望するんです。ミソもクソも一緒にして、生徒の自主性だの、大人が子供を騙しただの、なんていうロジックで、自殺したキャプテンとTogetterに出てくるような糞餓鬼をひとつのカテゴリに入れている場合か?何よりも優先して救うべきなのは、今暴力に押しつぶされようとしている生徒だろ?
◆
この糞餓鬼共にキチンとした人権意識を持たせたり、学校に行動を改めさせるのは、乱暴に言うと今すぐじゃなくていいんです。まず、手を出せない環境を作ること、手を出したら損をするという状況を作ることです。優先順位を誤って対策をすれば、初動で効果的な対策が延び延びになるだけですよ。まず初動、そのあとで誤った教育を行わないシステムの改修をするべきです。初動対策が終わったら、視野を広げて考えればいいし、むしろそうしなければいけません。そこで初めて、生徒というカテゴリを前提とした一般論が必要になるのだと思います。
「入試取止め」によって「桜宮高校固有の問題」にわい小化され、根本的な問題である「人を殺してしまった教育体制」の改革は望めなくなる。「入試取止め」で満足し、その後のことについて何も考えなくなる可能性が高いからだ。
たしかに「人を殺めた教育体制」は改革されるべきではある。しかし、「入試取止め」「教員全員異動」はその「手段」としては適切ではない。他にやるべきことがあるのではないだろうか。ただ根絶やしにして問題を解決したように見せかけるよりも、「何故体罰があったのか」「体罰を美化する下地をどのようにすればなくすことができるのか」などを検討して、体罰が発生しないように務めるべきなのではないかと思う。
そして、この「入試取止め」「教員全員異動」という手段そのものが、「暴力によって矯正を図る」というまさに「体罰的手段」であろう。
今回の一件に関して、橋下徹がやりすぎだとはぜんぜん思わないのですよ。
だってね、人が死んでるんですよ。
学校でですよ?
そりゃ、ワタミで出したってダメですけどね、学校で人を殺すのは絶対ダメです。
あそこであれを出したらもう終わりっていうやつがあると思います。
ワタミで自殺者が出たからって営業停止とかは、どうかなって思うんですけど、ワタミで集団食中毒を出したら、そりゃ店閉めないとって思います。
そういうのと同じだと思うんですよ。
他の生徒にはとばっちりだとか、政治が教育に口を出すべきじゃないとか、入試を取り仕切るのは市長じゃなくて教育委員会だとか言われたりしてるけど、学校で人が死ぬということは、そういうことだと思うんです。
どんなにバスケが好きだと言われても、
「それでもあの高校に通わせるわけにはいかない」
と答える。
自分にはバスケしかないとか、今が人生で一番輝いてるとか言われたら、
「そんなことはない。あなたの人生は、今だけじゃなくてこれからもずっと、輝かせないといけない。」
と答える。
在校生だって、後輩が入ってこないくらいでああいうのはどうかと思う。
後輩が入ってこようがこまいが、自分で選んだ高校でしょ。
部としては、層が薄くなるのは困るけど、それはそれ。
繰り返すけど、学校で自殺者、学校で体罰、それはとても重大なことだと思う。
人気取りだとか、連帯責任だとか言われてるけど、学校で自殺者というのはそういうレベルの大事件だと思う。
というより、そういうことにしないといけないと思う。
残念だとか、遺憾だとか、申し訳ないなんて言葉で済まそうってほうがおかしい。
人が亡くなった、というか殺したんでしょ?
人を殺した教育システムは、他にどんないいところがあったとしても、廃するべきだ。
伝統の重みなんか、人の命の重みに比べれば紙ペラよりも軽いよ。
その伝統とやらも、人を殺した教育システムの一部として、未来永劫糾弾されるべき。
教師は全員異勤すべきだと思うし、体育科どころか普通科の入試もやめさせるべきだと思う。
私は絶対に許さない。
私は絶対に絶対に許さない。
桜宮高校で体罰による自殺事件があった。その影響で体育科を普通科に切り替えて入試を実施するらしい。
個人的には、こうした事件による入試の中止は妥当な判断だったと考えている。
自殺事件があったとなれば、それは組織として欠陥があったということだろう。
無論「最近の軟弱な若者が云々」という声もあろうが、今回の件は明確に”教育ではなく加害”と判明しつつあるので無視する。
(そもそも、そんなに体罰教師が素晴らしいと思うなら「是非我が社で雇用しましょう!」と上司にでも掛け合えよ。)
そうした欠陥のある組織に対し、その欠陥を見直すことなく人員充填を認めるべきではないだろう。
(落盤事故のあったトンネルに、十分な調査や補強措置を行わず片付けだけして再開通するようなものだろ。中国か。)
亡くなったものは仕方がない、どんなに悼んでも戻ってこない。それより今年の受験生が大切だ、彼らには今年しかチャンスはないのだから。
いやいや言いたいことは分かるよ、でもそれを認めたら社会じゃない。一歩先の損得で判断するような話じゃないだろ。
(「この度」「たまたま体罰があり」「たまたま被害生徒が自殺しちゃった」「てへぺろ」ってお話じゃないのよ。)
別に「命は何よりも大切!」って言いたいわけじゃない。こういう事件が起こる環境があり、そうした環境が改善されることなく継続する。
一番言いたいことは、この社会は「そうした環境が改善されないほうが得」なんだよね、ってこと。
「改善しない方が得」「見て見ぬふりをしたほうが得」「状況を良くするなんて無駄」「このままでいい」っていう考え方。
これを単なる”モラルハザード”とか”日本人は西洋人に比べて云々”という社会論文化論打ちたいんじゃなくて、
本当に「何もしないほうが(経済的に)お得なシステムになってる」と思うんです。今回の高校の騒ぎなんか見てるとホントそう。
で、話は飛ぶけれどタイトルにある、”過労死は就活サイトも責任をとるべき”って話なんです。
ワタミなぞが過労死で新入社員を殺す事件がちょくちょくありますね。こういう事件があるたびに思うんです。
「この亡くなった社員を企業に仲介した人材サービス企業は、一体どう思っているのだろう?」
確証があるわけじゃあございませんが、ここ数年で就職した青年たちはたいていリクナビ・マイナビ・エンジャパンあたりの
就活サービスを利用して就職をしているのだと思う。そして過労死した方もこうしたサービスから就職したのではないか。
で、過労死事件が起こったあとに、被害者を仲介したサービスは、また同じ企業に人材を送り込むのだろうか?
なぜなら、加害企業に人材仲介するのをやめても利益にならないから。むしろサービス介して就職した人数で利益取ってるはず
だから、仲介やめたら利益が減る。今回の高校の件とちょっと似てるでしょ?「死んだものは仕方ない」「変わらないほうが得」。
異常ですよこの状況。
「過労死は就活サイトも責任をとるべきとか言っているが、就活サイトはただの情報提供サイトで、良い企業を選んだり
あるいは過労死しないような屈強な学生を選ぶことはできない。就活サイトに責任を負わせても、負担がかかるのは学生だ。」
仰るとおり、現状の就活サイトは「良い企業と良い学生を選んで登録し、マッチングする」サービスではない。
有象無象の企業と学生が、個々別々にアクセスしあうより、情報を一箇所に集めたほうが効率が良い、というあくまで機能的なものだ。
例えるならば生鮮青果でいう卸売市場、金融でいう株式とか外貨市場。
じゃあ就活サイトはこうした問題に知らぬ存ぜぬでいいのか?って言うとそうは思わない。
なぜなら上記の例えのように、就活サイトは”市場”だからだ。多数の売り手(学生)と買い手(企業)が集まるマーケットだ。
マーケットにはルールが必要だ。ルールを守らないものはマーケットに参加してはいけない。そうしないと「市場は失敗する」。
就活サイトは新卒市場のマーケット管理者であり、ルールの適正な運用に対して責任を持たなければならない。
過労死事件を起こしながら改善が行われない企業は、新卒労働市場から排除されるべきだ。
そうした”新卒採用が滞る”という明確な罰則があれば、過労死のような事件は減る。もちろん就活サイト側にも、問題を起こした
企業を市場から排除するためのインセンティブが必要だろう。こうなって初めて不正が起こりづらいシステムができるのではないか。
ルールを守る守らぬというと、何となく”道徳”とか”コンプライアンス”とか正義感の問題だと思われがちだが、ここに至っては
完全にシステム、経済の問題だ。心情の問題ではなく市場の問題。欠陥を見過ごすことが社会にとって損だ!という明白な事実を
合理的に遂行するべきだ。それを「今年の受験生が」という目先の損得で揺れ動くような社会ではイカンと思うのです。
(もちろん救済措置は要るのだろうけれど)
桜宮高校の生徒が自殺まで追い詰められた要因に、退部したら学校にいられなくなる、ということもあったらしい。
大阪市立桜宮高校の体罰事件が毎日伝えられている。生徒はキャプテンになってから毎日しかられ、体罰を受けて参っていたという。教師は体罰を辞めます、といった数日後の練習試合でまた生徒を殴り、キャプテンを辞めるならBチーム、やめないなら殴ってもええんやな、といったという。
ネットでは頭がおかしい、とか、クズだとかさんざん言われている。
でも、それは違うんじゃないか、という気が私にはする。あんまり整理できてなくてちょっとわかりづらいかもしれないけど、私の体験を書いてみる。参考になるかもしれないので。
*
私は中高6年間バレーボール部にいた。
今でも小さいがそのときも小さかったので中学ではずっと補欠だった。
最後の試合に出してもらったが、ミスをして交代となった。そのとき顧問の先生が何を思ったのか「出すのはおまえでなくてもよかったんだ」とつぶやいた。今でもどういう意味かわからないが、そんなこというなら高校でがっつりレギュラーになってやる、と高校でバレー部に入ることにした。
バレーはそこそこ好きだったが、そんなに上昇志向もなかった。体格も素質もなかったし、全国大会に行きたいとか、ましてやプロになりたいとかは全く思ってなかった。ただ中学の先生にいわれたことが悔しかったので見返したい。すごく単純な動機だった。
高校で入ったバレー部は体育大卒の若い先生が顧問で、熱心に指導していた。都立高校にしてはかなり厳しい練習をしていたし、実際わりといいとこまでいっていた。
都立は今でもそうだと思うけど、運動部の顧問は誰もがいやがった。ただでさえ大変な教職のほかの事務仕事をやらねばならず、その上に時間、体力、気力を使う運動部の顧問なんてみんなヤッテランナカッタのだった。
その先生は指導の最中にアキレス腱を切ったことがあるという。それも2回も。それを押してやってくれてるのだから感謝しないといけないよね、みたいな空気が生徒の中にはあった。
同時にそれはそこまでしてくれてるのだから、言うこと聞かないと悪いよね、期待に応えないと申し訳ないよね、みたいなものでもあった。
練習は厳しかったし、時々平手打ちもされた。
夜の7時、8時までやっていた。家に帰ると疲れて何もできない。食事をしながら寝てしまったこともある。
いやだったしきつかったのだが、「その辺のお遊びの運動部と私らはひと味ちがうのよフフフ」みたいな訳の分からないプライドみたいなものが部の中にはあって、苦しいのを耐えれば耐えるほど偉いのだ、みたいなところはあった。(でないとヤッテラレナイところはあった)
私には変な癖があったらしくて(自分ではわからない)、それを矯正するためにやらされたのだがなかなかうまくできなかった。
「手を下から出すように」
自分ではその通りやってるつもりだったが何回やっても違うといわれる。先輩後輩あわせチーム中が注目してるし、自分が練習を中断しているというプレッシャーもあった。違う違うといわれ続け、もうなんにもわからなくなってアンダーサーブをした。
「俺はおまえに手を下から出せとはいったがアンダーサーブをしろなんて言ってないぞ」
じゃあどうしろっつうんだよ、と思ったがさすがにそれは言えなかった。
厳しい練習はぜんぜん私の精神を鍛えることにはならなかった。先生に本音で質問することさえ出来なかったのだった。かといって自分で考えろ、というのは、その状態ではなおさら無理だった。それ以来、前から苦手だったサーブはまったく嫌いになった。
こう書くとがちがちの管理教育だったように見えるかもしれない。がしかし、先生としては自主性を持った選手になってほしかったようだった。
生徒がやる気がない態度を見せると、先生はたびたびボールを投げ出して帰っていくという振りをした。
「俺がやりたくてやってるわけじゃない。おまえたちがやりたいって言うからやってるんだ。おまえたちがやる気がないならやめる」というポーズだった。
それを追っていって、
「お願いします!」
と生徒全員で頭を下げるのがいつもの習慣だった。
「楽しくやりたいだけならそれでいいんだ。それならそういう風にやるから。でも本気でやりたいならそういう風にする」ともよく言われた。
生徒が望むなら、やりたいという気持ちがあるなら一緒にやりたい。そういう選手になってほしい、という気持ちの先生だった。
追っていったのは「先生がいなくなると困る」という気持ちだったし、見捨てられるのが怖い、とも思っていた。先生に見捨てられればその時点でダメダメなやる気のない私たち、という烙印を押されてしまうからだ。
そういう状態になりたくないという気持ちだけで「お願いします!」と毎日言いに言った。こうなるともはや意味のないお約束、儀式のようである。
そもそも、本当に自主性のある生徒であれば、先生が帰ってしまっても自分たちで練習すりゃよかったのである。でも自分たちで、これをやりたい!というものが私たちにはあんまりなかった。ただ日々の練習を修行のようにこなしていく。先のことは考えられなかった。ただ今の苦しさを耐え抜くことだけだった。ぶっちゃけ、自主性もへったくれもなかった。受け身で、受け身で、過ごしてきた。まじめでミスをしなければ、ボールが飛んでくることも、たたかれることもなかったから。
*
今回のことがあって、「私、バレーって好きだったかなあ」と思い返した。確かに好きではあった。レシーブがきれいにあがるとうれしい。難しいボールを拾えるとうれしい。トスをきれいに上げられればうれしい。アタックを気持ちよく打てるとうれしい。
で、ここまで考えてはたと気づいた。
全部個人技だったのだ。
バレーという団体競技をやってながら、私はチームプレイを楽しいと思った記憶がない。
団体競技をずっとやってきたのだから自分では協調性がある、他人と一緒にプレイするのが好きなのだと思いこんでいたがいやいや完全なヲタクじゃないか。自分で呆れて笑った。
でも。
コンビネーションプレイをうまくこなしたり相手と競う楽しさ、ゲームを運ぶ楽しさ、みたいなものは、たぶんバレーという競技にはあるのだと思う。
私にはそう感じる余裕はなかった。
日々の練習をこなすだけで精一杯だった。
日々の練習が修行のようになり、それをクリアすること自体が目的となってしまっていて、ほかのことは考えられなかった。もっとこういうことをしたいとか、こうなると楽しいとか、そんなことは全く頭になかった。
私に関して言えば、試合に勝つことさえどうでもよかった。試合は義務であり「ミスをしない」ことが第一目的であって、結果はあとでついてくるという感覚があった。
もったいなかったな、と自分でも思う。
*
が。もし私の先生であれば、たぶんこういう意味の発言だったかと思う。
「キャプテンを辞めるということは第一線で活動するのは無理です、ということなので、楽しくやりたいだけならBチームでやればいい。でももし、第一線で活動する意志があるなら厳しい指導もするし、体罰もある。自主性をもって立ち向かってほしい。覚悟がほしい」
先生はよく「意地を見せろ」と言っていた。
苦しくてもやりたいことならやりぬけ、ということだったのだと思う。
でも。
人間って、そんなに強くないのだ。
いくら好きであっても苦しい練習を続けさせられればそれ自体が目的となって、自分のスキルを伸ばすとか、何かに挑戦するとか言う余裕はなくなってくる。「好き」と言う気持ちはしぼむ。ただ「早く終わってくれればいい」になる。
まじめにやっていれば、受け身でもそれなりのスキルや体力は身に付くから、やる気がなくても勝ててしまう。
そういうのもありかもしれない。
でも、そういうのって、長く続かないのだ。
負荷が強くなっていけば、「義務」だけではきつくなる。「やらされてる」感が強くなり、「何で自分だけ」という気持ちが大きくなっていく。
ぱあんと破裂する。
悪いことに、「我慢」にたけた人間は限界点を越えても我慢するので、傷はより深くなる。
「我慢」はいらない。「やりたい」が一番。それがないと頑張れない。力が出ない。
試合で役に立ったことは皆無だった。もちろん「訓練」として体に染み着いてるので体は無意識のうちに動く。だから勝てる。でもそれがうれしいとはあんまり思えなかった。苦しいときにそれを思い出して頑張れる、ということもなかった。
うまくなってうれしい、自分の力を出し切った、というよりは、3年間耐え抜いた、という方が実感として正しい。
*
最後の試合、私は初めて結果を出した。苦手だったサーブでなぜか連続ポイントを上げたのだった。ストレートと、対角線上に打てばポイントをとりやすいというセオリーを単純に実行したら相手がミスってくれた。不思議なことに、そこに私の中学の先生が来賓として招かれていた。その場で結果を出せた。
それで気がすんでしまった。
まだ引退までには期間があったが、3年でもあったし、さっさと部をやめてしまった。
今思うと、「先生を見返したい」という意地だけでやっていたのだと思う。だからそれが達せられたらもういいのだった。
それはそれで初志貫徹といえるかもしれないけど、我ながら矮小な目的のために時間とエネルギーを使ってしまったなあ、と今は思う。
一応一つのことをやりきったのだし、「辞め癖」がつかなくてよかったんじゃないの、という人もいるかもしれない。でも、ポジティブな意味での達成感はなかった。やっと終われる!という解放感だけだった。
私は3年間を無駄にした。今思い返して、素直にそう思う。
*
今回の事件、生徒は義務とか責任感とか期待とかでぐるぐるになって「好き」という気持ち、自分がこうなりたい、という気持ちはもうぜんぜんなくなっていたのではないかと思う。
そういう状態になると人間は惨めだ。そういう身に暴力は堪える。
悪意とか、支配欲とか、そういうことは教師にはなかったとは思う。葬儀の席で親御さんに指摘されてすぐさま謝ったことを見ても悪人ではない。普通の人だ。
ほかの生徒も先生をかばっている。道を教えるのでも、ちゃんとついていってあげないとだめだぞ、と、普段の振る舞いを教えてくれた、と感謝する子供もいる。礼儀を教えてくれた、という子供もいる。かといって、べったり先生の側に立って、生徒の死を悼んでいないわけではない。校門に「キャプテンに捧ぐ」と幼い字で書かれたメモを添えた花束があった。
進路とか戦績とか、お互い保身はあったかもしれないが、生徒への愛情はあったと思う。でなければほとんど毎日、家庭まで巻き込んできつい指導はできない。
が。だからこそ逆らえない。情で縛られるところはある、と思う。
*
好きだった勉強を一生懸命できた。それについての専門書を読む時間もできた。その延長で大学に行って好きな研究もできた。早くやめてりゃよかったと今でも思う。
部活の影響は、今でも残っている。
負荷を耐えることは得意だ。が、ぎりぎりまで我慢するから限界を超えるとその負荷の影響を二倍三倍にも受けてしまう。
好きなことをしていてもなぜか途中からつらくなる。義務になる。理由はよくわからないが、たぶん何か「厳しくなくてはホンモノではない」という意識があって、「楽しむ」ということをどこかで軽蔑していたり、その結果思い切り楽しむことができなくなったりするんじゃないかと思う。あるいは自分のやることに自信が持ちきれなくて、先生のような絶対者の評価がほしくなったり、反対に他人の評価で自信を失ったり。
先生については、慕っていたかと言われれば、うーん、お世話になったので大変大変申し訳ないのだけど、ちょっと苦手だったような気がする。
先生はいつも「スポーツマンらしく」、礼儀正しくしろと言っていた。
「力」や「技術」に偏りがちなスポーツで、礼儀とか人のことを考えるとかは、重要なことだ。人としてたいせつなことを教えていただいたと思う。
が、それはなんというか、自主的にやる、と言うより、訓練のようなものだった。やらなければ怒られるし、手が飛んでくるような気がしていた。
私は先生の前でかなり礼儀正しく振舞っていたが、それはかなりの部分「演技」だったような気がする。「それが(先生に言われた)正しい振舞だから」やっていたのであって、「やりたいから」やっていたわけではない、と思う。
そういう「型」ではめられた振舞を厳しく求められたので、本音で接することはできなかった。本音で話せないので、自分の克服すべき問題を一緒に考えてもらうとかは考えられなかった。
いま先生について思うことは、「なんかうまくいかなかったね」「お互い失敗しちゃったね」という感じだ。
自分の意志で動く選手になってもらいたい、という先生の意図は分かっていたけど、少なくとも私に関してはもう疲れちゃっていた。自分の能力を伸ばすという気力はとうにつきていた。ただ自分の目的があったし、期待を裏切るのも悪いので3年間続けてしまった。
一回休んでいれば気力が回復することはあったのかな、と思うが、狭い学校生活の中で、一回レールをはずれるというのはなかなかできないことでもあった。
こういうの、「罪悪感を持たせて逆らえないようにする」「カルトだ」という人もいるかもしれないけど、それは日々の人間関係のすごく曖昧な線上にある。その渦中にいるとなかなかわからない。善意と、思いやりと、慕わしさと、依存心と、打算と、不満と、夢と、絶望と、責任感と、プレッシャーと、見栄と、もういろんなものがある。
単純じゃないし、それを理解せずに顧問をアクマ扱いしても問題は現場の教師にずっと残されると思う。
*
部活やその中での体罰を体験した人のことばがあんまりなかったので書いてみた。体罰がなされて、愛情ある指導がされて、生徒たちも先生を受容している環境で、それでもどうして体罰よくないかっていうのを、説明してみたかった。増田に書いたのは、何となく増田っぽかったので。
ひとつ。今顧問の先生をたたく人はすごく多いけど、今たたいても無駄だと思う。
葬儀の席で土下座したとあったけど、彼の頭の中はどうしよう、どうしよう、すみません、すみません、で、意味なく(そう、意味なく)ぐるぐるしてて、冷静に反省するどころじゃないと思うから。
責め殺したいならそれでもいいけど、たぶんそれじゃ自分のしたことが過不足なく理解されることはないと思う。そんな中じゃ何が問題かわからない。
朝鮮学校で思い出した。
誰かが言ってたが、補助金出さなかったら日本社会から孤立してしまう(だから支給しろ)って理屈は、金を出せば日本社会に馴染む努力するはず、て発想の裏返しだから、ある意味朝鮮学校の関係者たちの思想をバカにしてるらしい。
カネで手のひら返すような連中じゃないだろと。
桜宮高校の件は、明らかに違法な指導方法が行われていて尚且つ自殺者まで出てるのに、原因究明の目処すら立てずになし崩し的に現状維持するのは明らかにおかしい話。
最低限、問題の体育教師の出勤を、再発防止の目処が立つまで停止する位の事はすべきなんだろうけど、何故か教育委員会か全く動かない(実際問題の教師は校長の判断で一時的に休んでるだけでその気になればいつでも復帰させられる)。橋下はそこにキレて、生徒を人質に予算執行停止のカードを切ったと。
大阪の桜宮高校バスケ部員の自殺で発覚した体罰問題。橋下市長が根本的な改革を図るために今年度の体育科の入試を中止にさせた。入試を中止にしなければ予算をつけない、とお金を盾に教育委員会や生徒たちに迫る姿は何かを思い起こす。
拉致問題や核開発問題にからめて、朝鮮学校が反社会的な教育をしているという理由で、高校無償化の適用外になり、大阪では補助金不支給となった。
桜宮高校の生徒は、自分たちの現在の立場が、朝鮮学校の生徒と同じと考えるといい。
体罰した顧問を擁護したり、体罰をあるものとして黙認してきた今の桜宮高校の生徒たちは、朝鮮学校で金正日の肖像画に向かって「偉大なる将軍様」と無批判に挨拶している朝鮮人生徒と同じだ。
在日朝鮮人が拉致問題を教えられないまま朝鮮学校で北朝鮮の洗脳教育を受けているのと一緒で、桜宮高校の生徒も、そこで行われてきた体育会系の指導により体罰必須の頭に洗脳された状態にあるのだ。朝鮮学校が日本社会から批判されているように、当然桜宮高校も批判される。なぜなら反社会的な卒業生を毎年送り出す反社会的機関になってしまっていたからだ。
教育評論家の尾木直樹先生が「顧問を擁護する生徒は人格がゆがんでいる」と言っているように、現在の桜宮高校を卒業した生徒は皆、体罰容認という反社会的な感覚に洗脳されていて人格がゆがんでしまっている。そうした洗脳状態にある卒業生たちは、人に教える立場にたったとき体罰を繰り返すようになり、再び今回のような自殺事件を引き起こすはめになるのだ。
こういう悪い教育の再生産を止めるためには、朝鮮学校と同じく予算行使を盾に取り兵糧攻めにして自らの誤りを正してもらうしかない。今回の入試停止の決定はその第一歩だ。在日朝鮮人問題と同じように、日本に根深く蔓延り悪しき慣例を続けている体育会系脳筋人間を一掃するために、今後もこういう抜本的な改革をしていかなければいけない。