はてなキーワード: 格言とは
どうして自分自身に暗示を掛けて神さまとかいうウソを信じ込むのが推奨されているのか。
現に、日本人の多くが神さまとかいう欺瞞に頼らなくても十分暮らしていけてる。
神さまに拝まなきゃ辛いほど追い詰められてるなら、抗うつ剤とかストラテラに頼ればよくね?
お墓とか祈祷とか宗教に貢いでるカネを取っておいて、アイドル Vtuber にスパチャした方がまだしも幸福のコスパはいいと思うが。
生物多様性を大切にするとか言ってるのと同じ口で、せいぜい数個のバリエーションしかない宗教にこだわってるの意味がわからん。
追記・
議論のツリーで「科学的に天国は存在しない」と言ってる人を見かけた。
いや混乱するかもしれないが、それは誤解だ。
科学に身を置いて生きれば宗教は必要ないと主張するオレだが、しかし別に天国はないなんて言ってない。
宝クジが当たる確率とか、流れ星が落ちてくる確率とか、婚活が成功する確率とか。
ランダムで何回に一回あたるはずと想定する、小惑星帯に流れ星を妨害する障害物が一様に散らばっていて数パーセントの確率で軌道が変わるはずと想定する、とか。統計的に今までペアになった確率は数パーセントで未来もさほど変わらないはず、などなど。
「天国の存在する確率はわからない」が正しい答えだ。十分に妥当な確率モデルを示せないんだよ。
天国は存在するかも知れないし、しないかも知れない、わからない。
つ オッカムの剃刀
オッカムの剃刀とは理論は可能な限りシンプルである方がいい、という提言だ。
しかし、この格言は科学界で人気の思想というだけで、外せない原理原則ではない。
もしシンプルな方がいつも正しいのなら、光速度不変の原理という速度上限は必要なく
近年、GPSの 狂いやブラックホールによる光の湾曲など、相対性理論があって初めて説明できる事象が観測されるようになった。
しかし昔を思い出してほしい。
それらが確証事例が無かった時代にも相対性理論は議論されてたんだよ。
「カネに色はない」って格言が真っ先に出てくるのに。
ユダヤ人とかユダヤ系団体とか、そんなふうに呼ぶから自分はてっきりそういうなんかの人種的特徴をもつ民族集団があると思ってた
そうじゃなくて、ユダヤ教の信徒をユダヤ人とかユダヤ系とかみたいに呼んでいるのか……
スラブ系とかゲルマン系と並列で並ぶようなものだとてっきり……
ということはモンゴロイドの日本人かつユダヤ系というパターンも当然ありうるわけか
ややこしい、なんでユダヤ教徒と呼ばないのだろう
不思議だなあ
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ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている[10]。
※ハラーハーって何
ハラーハー、ハラハー(halakhah, הֲלָכָה hălākhāh)は、ヘブライ語の概念用語で、ユダヤ法(Jewish law)とも呼ばれる。次の意味で使用される。
3.ラビ文献において、アッガーダー(聖書の注解や格言を通して教訓的なものを引き出したり、聖書に書かれていない物語、様々な逸話などの類)との対象として用いる用語。
言語の面をみても、イディッシュ語の話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、ひとつの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている[12]。
内田樹は、英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語では単に「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」「〜民族」「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいるが、実際にはユダヤ人とほかの民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はないという[17]。
「活動的な馬鹿より恐ろしいものはない」や「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」みたいな言葉をやたら好む人いるよね。
出典がナポレオンとかゲーテとか言われてるから調べてみたけどいずれも出典がない。
よっぽど周りに足を引っ張られてると感じてるのか知らんが、この言葉を好む人の方が問題があるんじゃないか?とふと思ってしまった。どういう人が使ってるのだろうか。
ナポレオンの言葉だとは断言できないとして堂々とwikipediaにも登録してしまった疑惑の格言。
ナポレオンは濡れ衣だと思うが石原慎太郎が都知事時代に政府のことを指して引用している。
ネットで調べて感心したのがwikipediaのクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトの項目。これが真相だと思う。つまり元々軍事ジョークみたいな扱いで、軍事ヲタが面白がってたのがいつの間にか広まってしまったのだろう。
この記事https://wezz-y.com/archives/74014は一応真面目に出典探して見つからなかったのにたどり着いた結論がおかしいのでは。格言でもなんでもないがべつにいいのだと開き直ってるとも言える。
ゲーテの言葉としての引用プログは大量にあるし、ドイツ語原文まであるのにwikipediaにすら書けないほど怪しい格言。偉人の架空の名言ジョークだと言うならそれでいいのだが「おやおや?」という人まで大真面目に引用して活動的なバカを憂いてくれている。適菜収という人はゲーテの本まで出してるけど真面目な研究書ならこれを出典にできるはずだが・・・。ちなみに適菜が得意げにこの言葉を引用していた対談の相手が呉智英だった。たしかに先代のバカバカ言う人、とでもいえる人物なので編集部がマッチアップさせたのだろうがあれだけ俗流教養を批判してた人なのでちと残念ではある。
軽く調べてみた。半数近くは元ネタが分からず、分かったのも「これが元ネタかな?」程度で、確実にこれだと断言できるほどではなかった。
不明。
不明。「沈黙は金、雄弁は銀」「親しき中にも礼儀あり」「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」とかの合成?
BL漫画の囀る鳥は羽ばたかない? キジも鳴かずは撃たれまい、かと思ったけど、原文ママのほうを優先。
シェイクスピアの賢明に、そしてゆっくりと。速く走るやつは転ぶ。? 「急がば回れ」や「急いては事をしそんじる」あたりの意訳?
不明。本系の言葉は、ことわざというより、個々人の格言な気がする。
三本の矢?
追記:元増田のブクマコメントからベンジャミン・フランクリンの"Three removes are as bad as a fire."。
不明。
京アニ放火事件の青葉被告の、裁判での言動が日々メディアを騒がせている。
ヤフコメやXで見られる反応では青葉被告を徹底的に断罪したいようだが、私は公の法廷に現れた存在としての青葉被告を応援しているし、彼が無罪になればいいとも思っている。
少なくとも、青葉被告が、予定調和的に死刑になることは絶対に望んでいない。
被害者(=京アニ)についてはよく知らないし、遺族ほかを非難するつもりもない。これはただ私の思い入れこみによる勝手な文だ。
「もしお前やお前の家族が殺されたらどう思う」みたいな質問はここでは意味をなさない。そんな質問しかできない時点で、大きな断絶があるのだ。
青葉被告の死刑を容認する人々でさえも一部が指摘しているように、世間には「青葉」的な者がいる。そしてそれは、どんどん増えている。
魔の82年生まれとか発達障害の増加とかそういうお茶の濁し方ではなく、明確に、「青葉」被告的な苦痛に満ちた者が増えているのだ。
世間は少なくともそれをずっと認知して来た。それも、机上のグラフの上の数値ではない。
クラスに一人はいる彼。職場に一人紛れ込む彼女。近所や親戚に一人いるあいつ。
青葉の体験を一般化することはできないだろうが、あえて広く「彼等」の問題として考えたい。
彼等がコミュニケーションに行き詰った時、あなたはどう振舞っていたのか。
彼等がコンビニの列の最前列で何かにつっかえた時、あなたは舌打ちしなかったか。
彼等が同じ教室・職場で、教師・上司に何度も叱責される中で、ただ「そう」であることで評価を下げていなかったか。
私は、平均とか標準という考え方で言えば、「青葉」側の人間である。
ただ、例えば、世間の人々が得られる「幸せ」をあきらめることには納得はいく。
しかし、世間の人々に与えられる「逃げ道」をなぜか私が使えないとなったとき、その惨めさは何百倍にも何千倍にもなる。
私は青葉被告のどうにもならない体験を見て、そんな説明をひねり出すことができた。だが過去のいろいろな事件の時点でひねり出すべきだった。
小学校・中学校を通して、本人でもうまく説明が出来ない様な過ちをして、しょっちゅう教師にクラスメイトの面前で厳しく叱責されている、今でいえば学習障害とか自閉症なのだろうか、そんな同級生がいた。
この男子同級生はとても「愚か」「間抜け」ということになっていて、実際何を考えているのか、私達にもわからなかった。いや、わからないようになっていった。教師の度重なる叱責や軽視によって。彼が精いっぱい受け答えを捻りだすたびに、教師はその言動を叩き潰した。
今考えれば、教師は彼を叱責すべきではなく、話をゆっくりと聞くべきだった。もっと言ってしまえば、もはや「赦す」べきだった。教師こそがこの同級生の代弁を私達にすべきだった。
大げさに言えば、人に生きる意味を考えさせ、死の世界から遠ざける、ということをこの教師や社会はしていなかった。健全な市民を育むとかそんなのはどうしようもない建前だ。
そしてそれが為されないとき、この同級生が、教師を刺し殺したり私たちごと教室に「理不尽に」「逆恨みで」放火したとしても、私はもはや文句は言えない。これは一言で言えば「窮鼠猫を嚙む」という格言であり、逃げ場の許されない中で当然生じうる人間のむしろ正常な反応だとおもう。
そうできないならば、世間が彼を徹底的にバカにした通りに、彼はナイフやマッチの使い方もわからないまま見当違いの人を刺して燃やす。それは自然なことでしかない。世間が彼をそうさせた。
人を大切にしない社会は、そのどこをやりかえされてもしょうがないとおもう。
私は、あの同級生やそれと同じ人々が何千人と重なって一人となり、被告となって証言台に立っているのだとすら思う。
監禁された人間が「ストックホルム症候群」を起すことには同情されるのに、なぜ狭い世界で逃げ場を失った人間の行動には同情がされないのか。
そこで世間の人々は目を逸らし、「仕方ない、悲惨だけど、死刑」などという。
私は堂々と「青葉は無罪だ。無罪にすべきだ」という。それだけの問題提起をすべき理由がある。青葉を診療し死の淵から回復させた医者は「生きて裁かせる」という信念があったそうだが、直接関係ない私は「生きて無罪になれ」といいたい。
そして99%くらいの確率で青葉が死刑になったとしても、私はいい続ける。似た様な事件がまた起きればその被告を擁護する。
世間は、事件を繰り返させる前に、「青葉」的なものを真摯に今度こそ見つめ、「赦し」、我々の社会の要素として自然に見なすべきだ。それが達成されるまで、世間が目を背けた回数の分だけ事件が起きても、無罪にすべきだ。
十九世紀末のヨーロッパでも、社会の矛盾に対し、富裕層の集まる場所や公務員への爆弾攻撃で答えたアナーキストたちがいた。彼らは少なくとも自分の言葉と道具があった。
今は自分の言葉も道具すらも持てない時代が来ている。少しでもそんな時代から遠ざかるために。
私の匿名の日記は世間には何の影響も与えないだろうが、たくさんある非難に対して一つでもこういう意見があったと、どこかで思い出してもらえればいいなとおもっています。
toraba araikacang氏「フェミを貶めるための釣りでしょ?あと一段落一文とか1つの文がむやみに長いので、短く文を分ける事を心がけると読みやすくなると思います。」https://b.hatena.ne.jp/entry/4706702763054973762/comment/araikacan
相手に理想を求めた時、指示するべきことは多岐に渡る。すべてのテストで100点を取る、家に帰ってもずっと勉強する、友達とのかかわりでは衝突を起こさない等である。
更に、苦労すればするほど偉い、などといったの認知の歪みがある場合には、コレに加えて、相手が苦労していないと許せないという考えが加わってしまう。
事実として、理想をそのまま実現すれば良い結果が得られるのは間違いないだろう。
しかし、そうはならない。理想は実現するのはコストを要するからだ。
自分のした苦労というのは相手に10%も伝わらない。それは逆もまた然りである。
相手が苦労して実現した理想に対し、それを報うのに一体どれほどのコストが必要になるのだろうか?
相手から自分に伝わる苦労が10%、自分から相手に伝わる苦労が10%である。
相手の100倍苦労しなければ、相手はやったことが報われたと思わないだろう。
ちょっとした緩和として、相手に礼を言うというのはある。礼の効果はデカい。
デカいが、相手に理想を押し付ける人間に礼を言われた事がない。そりゃそうか。
一方で義務がある。これは、何かを成す為に必要な最低限の事を指す。この何かというのは人それぞれで、その人に合った目標がある事が大前提としてある。
義務は相手に求めるコストが少ない。一方でやってもらう事も少ない。
報われたと思う事で、指示されたという不快感を帳消しにできる。
こういった積み重ねをすることで長期的な信頼を得られる。
衆愚が声高く己の自己保全の為に叫ぶ根拠に、科学がある。が、そこにこそ現代日本の敗北があると私は認める。渋谷のセンター街、なんなら東京駅前で歩く屍のような彼らに尋ねるがいい。あなた方はレイチェル・カーソンをご存知か。そして地動説の確たる根拠をもご存知なのかと。約束してもいい、彼ら自身或は他人の採ったデータで証明出来得る者は皆無だと。今や情報化社会にあって我らは肝心のデータそのものの価値を忘れた。そればかりか、どうすれば演繹出来るかすら忘れてしまったのだ。今や知識に訴えかける時代は終わった。故に学生闘争は終わったのだ。いつしかインテリの自己満足に人々が飽きてしまったから。
思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる