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はてなキーワード: 本拠とは

2024-02-27

anond:20240227150016

http://fuseji.net/○○ン○○ン○

カウンセング元増田と重複
ブランディングブランド価値を高めるための施策
チャンピオンゲームドラゴンクエストチャンピオンズ、欧州サッカー大会UEFAチャンピオンズリーグテレビ東京系列BSジャパン放送されたTVチャンピオンの後続バラエティ番組、 魚乃目三太による週刊少年チャンピオン歴代編集長取材マンガ
コメンスメント本来は始まりの意だが米国では卒業式をさす。また日本の同名ファッションブランド
アイン・ランドロシア系アメリカ人小説家思想家映画脚本家リバタリアンアメリカ保守主義に大きな影響を与えた
バインディングbinding:結びつける、縛り付けること。またラグビースノボITなどで用語化している
フロントエンドWebサービスWebアプリケーションで直接ユーザーの目に触れる部分
コリンチャンスブラジルサンパウロ本拠とするサッカークラブ
オレンジレンジ日本男性5人組ロックバンド
ポインティングpointing:指し示すこと。また彫刻ITなどで用語化している

http://fuseji.net/○○ん○○ん○

にさんかたんそ元増田と重複
こてんこてんこ上野あつこによる日本漫画作品
にほんのぶんか日本の文化
かうんせりんぐ上と重複
いでんしけんさ遺伝子検査
ぶりんこうんこ辻希美加護亜依による非公式ユニット
ぶらんでぃんぐ上と重複
ゃんちゃんこ元増田と重複
おてんとさん社童謡雑誌『おてんとさん』の発行と児童文化運動のための結社
しゃんしゃん火天火の異称日本各地に伝わる怪火の一種

http://fuseji.net/○○ん○○ン○

こてんぐテン丸かぶと虫太郎による日本漫画作品
たらんたランタ槙ようこによる日本漫画作品
ぺぺんがペンゴセガメガドライブゲームソフト。Wiiバーチャルコンソールでも配信

http://fuseji.net/○○ン○○ん○

ブリンぶりん家2004年TBS系列から放送されたアニメバラエティ番組

2023-09-19

統一教会ロバートパリー文鮮明の暗黒面』(日本語要約)

ロバートパリー氏(調査報道ジャーナリスト)の連作記事のChatGPT要約です。

内容がよく理解され、岸田政権統一教会解散命令を出すことを希望します。

 

題名文鮮明の暗黒面

著者:ロバートパリー

https://consortiumnews.com/archive/moon.html

 

Dark Side of Rev. Moon: Hooking George Bush(https://www.consortiumnews.com/archive/moon1.html)

この記事は、文鮮明(文中では単に" 文"と呼ばれています)と元アメリカ大統領ジョージ・ブッシュとの関係に焦点を当てています記事の内容を要約すると以下のようになります

文鮮明は、韓国本拠を置く統一教会創設者で、高価なメディア政治世界への進出を試みていました。彼は南米新聞「Tiempos del Mundo」を開設し、この新聞を通じて南米での影響力を高めたいと考えていました。

しかし、開設に際して、南米新聞は文の過去に関連する不名誉出来事を取り上げ、彼と韓国の恐れられる情報機関および暴力的反共組織とのつながりについて批判的な記事を書いていました。

記事では、文が過去アルゼンチンウルグアイ軍事独裁政権と友好的な関係を築き、これらの国々に投資していたことも触れられています

この新聞の開幕ガラには、元アメリカ大統領ジョージ・ブッシュが招待されましたが、アルゼンチンの選出大統領であるカルロス・メネムはこの招待を辞退しました。しかし、ブッシュの出席は文にとって重要もので、ブッシュは「Tiempos del Mundo」の開幕イベントスピーチし、文とその新聞事業を称賛しました。ブッシュスピーチは、文の信者たちを驚かせるほど賞賛的でした。

記事ではさらに、ブッシュが文の関連団体から報酬を受けてスピーチを行ったと報じられており、その報酬は数百万ドルに上る可能性があると述べられています

この記事は、文の統一教会資金力を背景に、アメリカおよび南米で影響力を拡大しようとする試みと、その試みに協力する政治家や有力者、特にジョージ・ブッシュとの関係に焦点を当てています。また、文の教団がアメリカ南米でのビジネス宗教的活動を結びつけ、その富を増やすためにさまざまな手段を用いていることも強調されています

Dark Side of Rev. Moon: Buying the Right(https://www.consortiumnews.com/archive/moon3.html)

この記事は、1990年代に公開されたもので、ムーン文鮮明)とJerry Falwell(ジェリー・ファルウェル)の関係について述べています。以下に要約します:

1995年1月28日ジェリー・ファルウェル牧師は彼のテレビ伝道番組で、Liberty University(自由大学)の財政危機を救った2人のバージニア実業家賞賛しました。ファルウェルは、ダニエルリーバーDaniel Reber)とジミー・トーマス(Jimmy Thomas)を、Liberty Universityをおおよそ7300万ドル借金から救った財政救世主として称賛しました。ファルウェルは、Reberの背後に立って喜んでおり、Thomasは不在でした。

しかし、この記事の中で語られていないことは、ファルウェルの財政利益を遠くから、公にせずに守ってきた大天使の正体でした。この秘密の後援者は、文鮮明牧師であり、彼は自身韓国救世主として称賛され、独自聖書解釈洗脳手法によって批判的な基督教徒の間で物議を醸していました。文鮮明は、Liberty Universityの借金を購入した非営利団体であるChristian Heritage Foundationを通じて、Liberty Universityを救済するために350万ドル供給しました。

文鮮明のこの行動は、記事の筆者によって偶然発見されました。彼は、文鮮明のWomen's Federation for World Peace1995年ジョージ・ブッシュ大統領に支払った講演料を調べていたところ、350万ドル教育的な助成金がChristian Heritage Foundationに提供されたことを発見しました。

この記事には、ジェリー・ファルウェルがLiberty Universityの救済に文鮮明の助けを求めた証拠が含まれており、彼の政治的な関与や右派陰謀論の普及にどのように影響を与えたかについても指摘されています文鮮明寄付政治的影響力に与える可能性がある問題議論されています

Dark Side of Rev. Moon: Truth, Legend & Lies(https://www.consortiumnews.com/archive/moon4.html)

この記事は、1980年代から1990年代初頭にかけて、宗教指導者文鮮明が率いるワシントン・タイムズ新聞と彼の関連団体に焦点を当てています。以下に要約します:

ワシントン・タイムズは、1982年に創刊され、長らく右派新聞として知られていましたが、ワシントン政治メインストリーム進出し、その影響力が増大しています

1980年代には、ワシントン・タイムズロナルド・レーガン大統領とその政権を支持し、大統領批判者に攻撃を仕掛けました。この新聞は、共和党戦闘員として議会闘争選挙戦活動し、1988年にはマイケル・デュカキス精神健康についての誤った噂を広めました。

ビル・クリントン大統領就任後、ワシントン・タイムズクリントン政権攻撃し、Whitewaterや副大統領佐官ヴィンセントフォスターの死に関する報道で注目を浴びました。

ワシントン・タイムズアジアから資金援助に関して他のメディア非難しながらも、自身アジアから資金援助を隠そうとしています特に、この新聞編集長であるDong Moon Jooと創設者である文鮮明が登場しません。

文鮮明は、アメリカでの初期の活動に関連するスキャンダル存在し、アメリカ国内国家安全保障に対する潜在的な脅威としてアメリカ法執行機関情報機関によって監視されていました。CIAFBI防衛情報局(DIA)の報告書によれば、統一教会韓国情報機関KCIAと密接なつながりがあり、日本ヤクザと関連する右派実業家もつながりがあったとされています

1970年代後半には、"Koreagate"として知られるスキャンダルが爆発し、Tongsun Parkなどがアメリカ政府への影響力を買収し、統一教会KCIAの関連性が明らかになりました。

文鮮明は、ワシントンでの影響力を高めるために多額の資金提供し、政府関係者に接触しました。報告によれば、300人以上の女性議会議員ロビー活動を行う役割を果たしました。

文は、大統領リチャード・ニクソンウォーターゲート事件から脱出を助けるために国家祈祷断食委員会組織し、大統領から感謝言葉をもらいました。

1980年ロナルド・レーガン大統領に選出され、文の影響がさらに高まりました。教会の前面組織が増加し、政治ジャーナリズム学術などの分野で影響を持つ人々が文の資金を受け取り、彼の集会に出席しました。

しかし、統一教会内部では対立と奇怪な行動が広がり、1989年には文自身の指示で高官のBo Hi Pakが殴られ、その後日本に転任するという事件が発生しました。

この記事は、文鮮明と彼の統一教会アメリカでの活動において政治的、経済的な影響力を高め、その歴史的背景と連携について説明しています。 文と統一教会アメリカでの役割に関する洞察提供しています

Dark Side of Rev. Moon: Generation Next(https://www.consortiumnews.com/archive/moon5.html)

この記事1995年に発表されたもので、統一教会指導者である文鮮明ムーン)とその家族特に長男のヒョ・ジン・ムン(Hyo Jin Moon)に焦点を当てています。以下に、記事の要約を提供します。

この記事の中心的な話は、文鮮明の娘婿であるヒョ・ジン・ムンと彼の妻であるナンソク・ムン(Nansook Moon)の問題についてです。ナンソクは、ヒョ・ジン・ムンの妻として結婚し、統一教会財政を支える役割を果たす予定でした。しかし、ヒョ・ジン・ムンの暴力コカインの乱用、奇妙な性癖などに苦しむうちに、ナンソクは彼から逃れ、子供たちを連れて逃亡しました。この出来事が、統一教会権力お金、性に関するトラブル国際的スキャンダル秘密暴露する鍵となりました。

ナンソクはヒョ・ジン・ムンから暴力虐待についての証言提供し、ヒョ・ジン・ムンが大金を手に入れていたことを主張しました。ヒョ・ジン・ムンは、教会資産不正使用し、コカインの乱用、アルコール依存症、そして奇妙な性的習慣を持っていたとされています記事では、ヒョ・ジン・ムンが大金を適切に処理しなかったことや、統一教会お金海外から流入していたことについての詳細も示されています

また、この記事文鮮明とその家族教義とは異なる生活を送っていたことを指摘し、特に文鮮明性的儀式統一教会資金洗浄についても触れています。これにより、統一教会とその指導者合法的問題に直面する可能性が高まり連邦政府などの機関に対する調査が加速する可能性があることが示唆されています

記事はまた、統一教会とその指導者アメリカ政治に対して多大な影響力を行使し、保守派政治家やメディアに対して資金提供を行っていることにも言及しています文鮮明特にワシントンD.C.で影響力を増しており、その背後には海外から資金があると考えられています

要約: この記事は、統一教会指導者である文鮮明とその家族特にヒョ・ジン・ムンとナンソク・ムンの問題に焦点を当てており、彼らの生活や行動に関する告発を含んでいます。また、文鮮明とその家族合法的問題に直面する可能性が高まっていることも示唆されています

Dark Side of Rev. Moon (Cont.): Drug Allies(https://www.consortiumnews.com/archive/moon6.html)

この記事は、1997年にRobert Parryによって投稿されたもので、文鮮明と彼の組織に関連する一連の問題を取り上げています。以下に、記事の要約を提供します:

この記事は、文鮮明と彼の組織アメリカ政治的な影響力を購入し、資金提供を行っている問題に焦点を当てています記事は、文鮮明組織がかつてアメリカ政治指導者特にジョージ・ブッシュ大統領宗教右派指導者であるジェリー・ファルウェルに秘密の支払いを通じて影響力を購入し(て庇護を受け)、The Washington Timesなどのメディア機関資金提供してきたことを示しています。また、文鮮明は、アメリカを「サタンの収穫」と表現し、アメリカの人々を韓国拠点とする神権主義支配下に置くと誓っている一方で、アメリカでのネットワークを構築しています

さらに、記事文鮮明組織が依然として疑わしい財務取引を行っていることを示しており、裁判記録によれば、文鮮明組織資金洗浄を行い、息子であるHyo Jinコカインを含む個人的な贅沢品を買うために資金を流用していることが明らかにされています。これらの金融取引は、文鮮明1982年脱税罪で有罪判決を受けた事件に関連するものと似ています

さらに、記事文鮮明国際的政治的なつながりについても言及しており、特にアジア組織犯罪とラテンアメリカ麻薬取引に関連する極右人物との長いつながりに焦点を当てています。このようなつながりと文鮮明南アメリカでのビジネス活動の拡大は、アメリカ政府文鮮明がどのようにしてアメリカ政治的な帝国資金提供しているかを正確に把握する必要性を強調しています

最後に、記事では、麻薬取引武器密売に関連して利益を得ているという繰り返しの非難に対して、文鮮明は公に詳細を明らかにしないと述べ、これらの疑惑否定しています

要約:この記事は、文鮮明と彼の組織に関連するアメリカ政治的な影響力と疑わしい金融取引に焦点を当てており、アジア組織犯罪やラテンアメリカ麻薬取引との長いつながりを示唆しています文鮮明組織資金源についての疑念存在し、アメリカ政府調査を行う必要性があると強調されています

2023-09-14

極めて組織的ジャニーズ事件喜多川こそハーバードUU黒幕マサである

この大学植民地政策を立ててきたことは歴史上の事実

日本語ならマサと性愛はセットとなる(本拠はマサ・チュー・セット)

UU(悠々)はどうでもいいことには、ふざけたダジャレを使う 

しかし一方で外国人兵士に忠誠を求める計画がある

ジャニーズテレビから消え出征中の妻に男が近づいたら心配だろ? じゃあ米軍奉仕しろ

よって今回のジャニーズ災は、台中戦争計画の一部として起きたはずである

一方、ジャニーズが消えて性愛情報溢れる世間であっても、有閑マダム浮気しなければ良いだけである

マサチューセッツイギリス王室時代セイラム魔女裁判が行われた地域

2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
463年吉備氏の乱雄略天皇吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。
479年星川皇子の乱雄略天皇吉備田狭の妻のあいだに生まれ星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。
527年磐井の乱朝鮮半島出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。
587年丁未の乱仏教布教を巡って、大臣蘇我馬子と、大連物部守屋対立し、戦に発展した。蘇我氏勝利した。
645年乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らが、朝廷壟断していた蘇我入鹿暗殺、続いて蘇我氏粛清した。
672年壬申の乱天智天皇後継者争いが発生し、皇太子大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子挙兵した。大海人皇子勝利して天皇となった。
729年長屋王の変皇族長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。
740年藤原広嗣の乱藤原四兄弟の死により藤原氏勢力が退潮し、九州左遷されて不満を持った藤原広嗣太宰府挙兵したが、朝廷軍により討伐された。
757年橘奈良麻呂の乱橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。
764年藤原仲麻呂の乱孝謙上皇対立した太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。
780年宝亀の乱朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷族長伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純殺害して反乱を起こした。
782年氷上川継の乱天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。
807年伊予親王の変藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王自死したが、のちに冤罪と認められた。
810年薬子の変平城上皇嵯峨天皇対立が激化し、平城上皇挙兵決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇出家した。
842年承和の変嵯峨上皇崩御に伴い、皇太子恒貞親王擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王皇太子となった。
866年応天門の変応天門放火があり、大納言伴善男が「左大臣源信仕業だ」と告発したが、逆に伴善男真犯人だとされて流罪になった事件
878年元慶の乱長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。
889年寛平・延喜東国の乱関東治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。
901年昌泰の変右大臣菅原道真が失脚し、大宰府左遷された事件左大臣藤原時平陰謀だとされる。
938年天慶の出羽俘囚の乱朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明
939年承平天慶の乱東では坂東平氏平将門が、西では藤原一族藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。
947年藤原是助の乱伯耆豪族藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。
969年安和の変謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣源高明太宰府左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。
986年寛和の変皇太子の外祖父であった右大臣藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件
995年長徳の変「花山法皇自分恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したこと藤原道長が台頭していく。
1028年平忠常の乱坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。
1107年源義親の乱源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏繁栄きっかけとなった。
1113年永久の変千手丸という童子鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。
1156年保元の乱後白河天皇藤原忠通派と、崇徳上皇藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇流罪となった。
1160年平治の乱信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝クーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。
1180年治承・寿永の乱いわゆる源平合戦平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府樹立された。
1184年三日平氏の乱平氏都落ちのあと、伊賀平田家継、伊勢平信兼藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。
1189年大河兼任の乱奥州藤原氏の家臣だった大河兼任出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。
1199年梶原景時の変源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。
1201年建仁の乱梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府鎮圧された。
1203年比企能員の変将軍源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍地位を追われた。
1203年三日平氏の乱二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅鎮圧された。
1205年畠山重忠の乱平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。
1213年泉親衡の乱北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方くらませた。続く和田合戦きっかけとなった。
1221年承久の乱後鳥羽上皇北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇隠岐に配流された。
1293年平禅門の乱平頼綱北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。
1305年嘉元の乱得宗北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。
1325年安藤氏の乱津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。
1324年正中の変後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝佐渡流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。
1331年元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。
1335年中先代の乱最後得宗北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。
1336年建武の乱後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇吉野に逃れて南北朝時代が始まった。
1366年貞治の変室町幕府で権勢を振るった斯波高経斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。
1375年水島の変九州派遣された今川了俊が、同じ北朝少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏大友氏などが離反した。
1380年小山氏の乱鎌倉公方・足利氏満下野守護小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。
1387年小田氏の乱常陸小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。
1389年土岐康行の乱有力守護の弱体化を図る将軍足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。
1392年明徳の乱一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍足利義満挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。
1395年田村庄司の乱白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。
1399年応永の乱六カ国の守護である大内義弘が将軍足利義満対立鎌倉公方と手を結び、土岐氏山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。
1411年飛騨の乱飛騨国司姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。
1413年伊集院頼久の乱島津家後継者争いをきっかけに、当主島津久豊対立した重臣伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。
1416年上杉禅秀の乱関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。
1422年小栗満重の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。
1423年越後応永の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。
1429年大和永享の乱幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。
1438年永享の乱鎌倉公方・足利持氏関東管領・上杉憲実の対立から室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。
1441年嘉吉の乱三カ国守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍足利義教暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。
1443年禁闕の変南朝復興を唱える勢力御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。
1455年享徳の乱足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。
1457年蠣崎蔵人の乱陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。
1457年長禄の変赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。
1467年応仁の乱畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから東軍細川勝元西軍山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。
1476年長尾景春の乱関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。
1479年毛利次郎の乱赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。
1486年江戸城の乱谷上杉氏の当主上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。
1487年長享の乱享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。
1487年長享・延徳の乱将軍足利義尚が自ら軍を率いて近江守護六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。
1489年山名新九郎・小太郎の乱伯耆守護山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1490年佐竹の乱佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。
1502年伊庭氏の乱長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔挙兵するが、最終的に鎮圧された。
1507年永正の乱越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いか関東を二分する戦いに発展した。

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

2023-06-29

Mount & Blade 2: Bannerlordの結婚相手女性

 ほとんどメモ状態。現行の日本語訳に従っていないかも。アセライとクーザイトは書いてない。

 Mount & Blade 2では、主人公結婚することができる(ただし、MODでも入れないと同性婚はできない)。

 重要なのは配偶者能力である(顔ではない)。能力が高ければ管理者部隊長として即戦力からというだけではない。このゲーム子ども能力性格が、親(男子なら父、女子なら母)の初期ステータスを引き継いでいるようなのである。その点主人公の初期ステータスクソザコナメクジなので、配偶者の初期ステータスに期待するしかない(キャンペーンモードであれば初期ステータスが高い兄貴がいるので、兄貴ステータス高い配偶者政略結婚を狙うという手もありそう?)。

 狙い目は、戦闘ステータスが高い者(そういう女性稀少である)。戦闘ステータスがない場合は、高い管理スキル(家令など)と両性格複数持ち(女性場合はソラやミテラなど)。

※このゲームでは、5つある性格ステータス重要。敢えて悪性格を狙うというのもあるのだが。

 以下は男性主人公女性配偶者求婚する場合の例。

 北帝国

・エピフェリア(Epipheria)

 インペストレスなのだが、家長エンクリオンの娘というわけではないらしく、出自が謎。親が死んでるなら書いとけよというツッコミはともかく、戦闘スキルが高めの戦士。「勇敢」だが、「ケチ」「直情的」。もっとも、カルラディア世界怪物と並べるとやや影が薄いか

・ソラ(Sora)

 アルゴロス家のマンテオスの長女。「ケチ」だが、「誠実」「慈悲深い」。戦闘スキルのない典型的女性貴族だが、管理スキルが非常に高いのがポイント。なお、実家都市エピクロテアはバタニアやストゥルギアに落とされて蹂躙されていることが多い。

 西帝国

・ナデア(Nadea)

 西帝ガリオスの長女。戦闘ステータスやや高めで弓もいける。「勇敢」と「気前がいい」持ち。弟のテフィロス君とは母親が違うらしい。強いて悪いところを挙げるなら、カルラディア世界バケモノの中では影が薄いところか。

・ファエア(Phaea)

 西の名門ディオニコス家の長女。戦闘ステータスは高めで管理もできる。「誠実」持ち。あと、美人である(カルラディア基準)。某動画でNKTIDKSGが結婚していたんだよなぁ・・・(その動画での一番のツッコミどころは13,000デナルの結納金で一介の浪人と長女の結婚承知するクロトール親父である※)。

ゲーム上、結婚時には結納金として金品(アイテムでもいい)を支払う必要がある。ヨーロッパの慣習では、持参金を払うのは奥さんを送り出す側なのだが。

 南帝国

イーラIra

 現行日本語訳ではアイラと書かれている。女帝ラガエアの娘だが、ラガエアと異なり管理スキルは低めであり、「思慮深い」どころか「直情的」で、「気前がいい」どころか「ケチである。「勇敢」は持っているし、戦闘ステータスは非常に高いのだが。カルラディア世界の理を考えると、この性格戦闘スキルはお父ちゃんのアレニコスゲーム内では軍人政治家として凄まじい能力があった超人として描かれている)から受け継いでいる可能性が・・・。イーラちゃんよりもラガエア様と結婚したいというプレイヤーが非常に多い。 

 なお、ゲーム仕様上、イーラ結婚しても南帝国後継者になれるわけではない。

イタリア(Itaria)

 イタリア(直球)。イーラよりは低いが、戦闘スキルを持っている女戦士。「勇敢」と「誠実」持ち。実家のプリニコスはTier1の弱小クランで、城一つしか持っていない(Tier1だと主人公貴族叙任すらしてもらえないのだが・・・)。構成員も父、母、イタリアしかいないし、戦闘できるのは親父とこの子(親父も特に強いというほどでもない)だけだし、イタリア引っこ抜いて大丈夫か?

 ウランディア(Vlandia)

・リエナ(Liena)

 ディ・ティール(dey Tihr)家長アルドリックの長女。ステータスダメダメ親父、「残酷」持ちの母、悪性格盛りまくりトンデモ兄貴、「腹黒」妹の中で一人クラン品格を守っているという評判。良性格4つ持ちで戦闘、指揮、管理スキルも高レベルでまとめている。ヴランディア、いやカルラディア結婚したい人。

・ミテラ(Mitera)

 ディ・コルテイン(dey Cortain)家長インガルサーの末娘。戦闘スキルはない。騎乗管理スキルを持っている典型的女性貴族管理スキルにしても初期値は低い。ただ、良性格4つ持ちがポイント。開始時18歳なのも地味にポイント(年齢が高くなるにつれて子どもは出来にくくなるので)。

・シルウィンド(Silvind)

 ディ・アロマンク(dey Arromanc)の長女。珍しい女性家長の家門だが、なぜかカラティルドお母ちゃん戦闘スキル全然ない。「残酷性格持ちだが、「勇敢」と「思慮深い」(ゲーム内だと「計算中」というしょうもない誤訳がされている)持ちで、ステータスバランス良く、高い。なお、長男のトムンド君は「直情的」の悪性格持ちながら、戦闘スキルが非常に高い。女性主人公が狙うべき相手といえようか。

 バタニア(Battania)

・コレイン(Corein)

 バタニア上級王カラドグ(Caladog)の長女。カラドグは片手剣・両手剣・長柄スキルが300もあるカルラディア最強のバケモノ(こいつが出てきて闘技場で泣いたプレーヤーは多かろう)だが、長女も各210ある怪物性格は「勇敢」な一方、「ケチ」「残酷」持ち。ゲーム開始時は19歳というのもポイント(確かβ版ではもっと若かったような?)。あと、金髪美人である(カルラディア基準)。

・ラドグァル(Ladogual)

 フェン・デルギルfen Derngil)家。「慎重」と「腹黒」の悪性格を持っている(「寛大」と「思慮深い」の良性格あり)。ステータスはコレインほど高くないが、バランスよく纏まっている。部隊から管理職までできそう。家長の娘というわけではなく、一方で妹でもなく、出自がよく分からない(表示なし)。

 ストゥルギア(Sturgia)※現行訳はスタルジア

・スヴァナ(Svana)

 ストゥルギアの中でも東の辺境位置するトゥイアルに本拠を持つヴァギロヴィング(Vagiroving)の家長ゴドゥン(Godun)の長女。ステータスバランス良く、高い。「勇敢」と「誠実」持ち。悪性格はない。弟のオスヴェン君も似たようなステータスと同じ性格を持っているので、女性主人公場合も狙い目。お父ちゃん戦闘スキルも非常に高い。

・シガ(Siga)

 クロヴィング家の先代オレク公の娘で、現家長オレクの妹。開始時41歳なので子どもは厳しいが、戦闘ステータスが非常に高い。ここまで高いのはコレインくらいのものではないか(というかコレインよりもカラドグの方に近い)。「勇敢」「誠実」の一方で「ケチ」「残酷」「直情的」持ち。子どもステータス目当てで狙う人はまずいないだろうが、高機動戦士とか言われている。

2023-05-03

anond:20230503084650

よう瀬川深!

Twitter内山亜紀オタクなのをバラされたか本拠で他のオタク叩いて『オレのエロ好きは良いエロ』ってか?

後進にヘイトぶちまけてのオナニーとか相変わらず醜いなあ

とっとと草葉の陰に本拠を移したらどうだ?

2022-11-06

家康江戸に移ったのは天正18年(1590年)のことだった。家康はすぐに大きな城を築こうとはせず、まずインフラ整備に着手した。海水が入り込む低湿地帯であった江戸を耕作に適した地に変えていく。なかでも大規模な工事となったのが、文禄3年(1594年)に開始した「利根川東遷」である。当時の利根川江戸を流れていて、しばしば大洪水を起こしていた。そこで利根川の流れを銚子に注ぐように変える治水工事を行ったのである工事がすべて完了したのは承応3年(1654年)、四代将軍・家綱の時代だった。60年におよぶ大事である。この工事のおかげで、新田開発も飛躍的に進み、関東平野日本最大の穀倉地帯となった。

徳川家康江戸城の拡張に着手するのは、征夷大将軍となった慶長8年(1603年)である江戸本拠を構えてから、すでに10年以上の歳月がたっている。家康はこの時機を待っていたのかもしれない。将軍ともなれば、自分の好きなように城を築けるからである江戸城は全国の大名に協力を要請する天下普請(てんかぶしん)によって建造された。加藤清正藤堂高虎といった築城の名手をはじめ、すぐれた築城技術をもった前田細川池田毛利黒田など名だたる大名たちが参加した。この工事は三代将軍の家光の代まで続くことになる。

天下普請による築城費用人材も資材もすべて大名たちの持ち出しであり、経済的に大きな負担となった。徳川に刃向かう可能性のある豊臣恩顧の大名たちの力を削ぐうえでも有効な策であり、この築城方法はのちの名古屋城にも踏襲されるのである

2022-10-19

anond:20221019175106

実際無知人間によって自身生活本拠アイデンティティが脅かされかねないという意味では

沖縄基地問題に近しいセンシティブ問題ではあるのだろうし

AI側を肯定しようとすれば反基地活動家のような反応が飛んでくるのはあたり前の話でしょう

他のAI場合ガーって言ってくるのもはっきり言って沖縄基地の件で他の米軍基地の話その他をやたら無理に語りたがる沖縄アンチみたいになってるじゃん

2022-08-27

名将ですなあ

人物逸話

歌川芳虎「大日本六十余将」より『薩摩品津兵庫守義弘』

家康だけでなく秀吉島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟対立を煽ろうとしたが、島津兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。

敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山建設している。

祖父島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。

許三官仕込みの医術や茶の湯学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。

義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。

義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。

三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。

九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国領地管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先である島津製作所の歴史に記されている[14]。

秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由西軍積極的に参加したとも言われており、最初東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。

愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。

武勇と実直な人柄から福島正則武闘派武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原撤退戦においても松平忠吉井伊直政徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。

若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。

慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである

木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にの従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。

慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本生還した。この2匹を祀った神社鹿児島の仙厳園にある「猫神神社である[15]。

晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。

関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原合戦記』)。

義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。

戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。

茶の湯千利休古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。

2022-07-31

さて、先の6月23日より、「AV出演被害防止・救済法」、いわゆるAV新法が試行された。法の骨子としては、AV出演契約の際に契約関係を明文化し、その内容を出演者説明すること、撮影における同意のない行為禁止契約から撮影撮影から販売までの間に一定モラトリアムを設けること、出演者契約から1年間は無条件に契約を解除できる権利を持つこと、などというものであり、成人年齢の引き下げに伴って、責任能力不安のある新成人を中心とした、女性AVにまつわる被害を防止することを目的としている。

私の考えるこの法制問題点は、法が実際のAV業界実態に即しておらず、法の施行に伴ってAV業界で働くセックスワーカー雇用を奪うだけにとどまらず、「AV被害者」を増加させかねないというところである

第一に、AV業界セックスワーカー雇用が奪われる問題についてであるAVに出演する女性は、非常に流動的であり、この法で定める1年間の契約解除期間を必ず守るであろう女性を見極めるのは、当然メーカーにとっては困難である。そして、実際にAV販売前に契約が解除されてしまった場合メーカー撮影コストをはじめ広告宣伝費プロダクトの製造費用等を回収することはできず、丸損となる。また、AV女優の中で、ひとりで作品に出演することができるほど人気のある女優は全体の20%に満たないとされ、その他の女優は、複数女優が出演する作品女優の一人としてAVに出演する。このうち後者場合、新法適用後、メーカーにとっては、ひとつ作品に出演する女優が多ければ多いほどその作品が「だめになる」可能性は上昇するため、必然的にそうした作品撮影を避けることになり、先に挙げた残り約80%のAV女優雇用を失う可能性がある。すでにそうした動きはメーカーにみられ、撮影の中止が相次ぐなど、先行きは芳しくない。法案を提議した政治家やそれを支援した人権団体は、本当にAV業界クリーン化を目指しているのか、あるいは実際にはAV業の排除を目指しているのか、定かではないが、少なくとも前者をスローガンとして掲げている以上は、現場AV女優ベネフィットがある形での法制化を検討することはできなかったのだろうか。法制化という実績にかられて、セックスワーカー権利を置き去りにした、政治家人権団体の身勝手体現した法であるというように思えてならない。

第二に、新たな「AV被害者」を増やしかねないという点についてである。近年、にわかに数を増やしつつある「似非AVとして、アンダーグラウンドでペイ・パー・ビュー方式により販売されているものがある。これは、国内法の規制の届かない海外本拠を置く日本語プラットフォームにおいて、素性のわからない個人法人独自撮影したAV等を出品するというもので、当然風営法違反するものであり、同プラットフォームにおける出品者から逮捕者複数出ていながらも、依然として出品数は増え続けている。このようなAVが増えている原因としては、法制施行から煩雑契約手続きをすっ飛ばし撮影販売可能であることからAV撮影者・出演者の双方に一定需要があったことや、国内法規制では不可能映像表現可能であることなどがある。そして、AV新法の施行により、先に挙げた「雇用を奪われた」AV女優がこうした危険AVに流れ、新たな被害を生むのではないかという指摘がなされている。政策立案に携わった人々にAV業界への十分な理解があれば、あるいは現場への十分なヒアリングなどが行われていれば、こうしたアンダーグラウンドAVに対する規制を強化していく案を盛り込むなど、実際にAV女優被害から防ぐ法整備につなげることができたはずだが、そうしたヒアリングなどはほとんど行われることはなかったという。

近しい知人に複数セックスワーカーを持つ身として、こうした性産業に関する政治動向には強い関心を持っていたのだが、今回のAV新法についてはただただ残念である。この法案の成立の背景には人権団体による強い後押しがあったといい、私なりにそうした団体について調べることもしたのだが、その関係者には元セックスワーカーもおり、それではどうしてこのような現場の実情を無視した法案が提出されることとなってしまったのか、理解に苦しむ。そうした人権団体が掲げる「女性権利向上」というスローガンには、もちろん私は賛成なのだが、AV新法から見て取れるように、一部の人意見のみを取り上げることによって、男女間の分断どころか、女性間での分断も招きかねないということを、法整備に携わる方々には十分に考慮していただきたい。

2022-07-28

西田敏行の年表

ニシダトシキノネンピョウ

西田敏行の年表とは、日本史に燦然と輝く西田敏行の業績である

歴史

1169 西田敏行法住寺殿において出家法皇となる。

1180 西田敏行、父と共に源頼朝挙兵に加わり、山木館を襲撃

1561 西田敏行武田信玄啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれ討ち死に

1584 西田敏行西田敏行小牧長久手の戦いで敗れる

1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる

1600 西田敏行真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける

同年  西田敏行石田三成関ヶ原に破る

1603 西田敏行幕府を開き初代将軍になる

1605 西田敏行西田敏行将軍職を譲り、後に駿府城に移る

1614 西田敏行西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける

1716 西田敏行八代将軍になる

1745 西田敏行徳川家重将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る

1860 西田敏行会津藩家老となる

1861 西田敏行愛加那との間に西田敏行を授かる(ナレーション西田敏行

1867 西田敏行西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる(ナレーション西田敏行

1868 薩摩藩西田敏行らと長州藩西田敏行らが協力して幕府を倒す(ナレーション西田敏行

1869 西田敏行五稜郭の戦い新政府軍に敗れる

1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍西田敏行軍は鎮圧され、城山自刃ナレーション西田敏行

1883 西田敏行共立学校の初代校長となる

1904 西田敏行日銀総裁として日露戦争の戦費を調達する

1904 西田敏行京都市長就任し、父である西田敏行のことを、部下に語りだす

1945 西田敏行フィリピン戦場で誤って兄に撃たれる

https://togetter.com/li/976233

https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E6%95%8F%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8

2022-07-24

大西洋プランクトンが激減 - スコットランドの最新研究

https://www.axion.zone/0935297329573212345098/

エディンバラ本拠を置く研究チームは、大西洋で2年間かけて海水サンプルを採取した結果、

海の生命を維持する小さな生物であるプランクトンがほぼ全滅していると警鐘を鳴らした。

人類はもうすぐ滅亡する。

2022-06-23

anond:20220622231602

6世紀あたりの古代日本だと氏(うじ)名は職掌本拠地地名だったんだよね。

埴輪づくりを管理する土師氏とか、出雲国本拠とし徴税労役管理王権奉仕する出雲氏とか。世襲的に称されていたから誰か引退しても同じ一族の人がその仕事を引き継ぐ。

現代職業選択の自由権利としてあるから出自がどうとか関係なく「経理の人」でも何でもなれる。

2022-06-17

これが該当の法律判例な anond:20220617214853

インターネット異性紹介事業を利用して児童誘引する行為規制等に関する法律出会い系サイト規制法

 

第三章 インターネット異性紹介事業規制

インターネット異性紹介事業の届出)

七条 インターネット異性紹介事業を行おうとする者は、国家公安委員会規則で定めるところにより、次に掲げる事項を事業本拠となる事務所事務所のない者にあっては、住居。第三号を除き、以下「事務所」という。)の所在地管轄する都道府県公安委員会(以下「公安委員会」という。)に届け出なければならない。この場合において、届出には、国家公安委員会規則で定める書類を添付しなければならない。

チャットアプリのつもりだった」経営者逮捕…なぜ「出会い系アプリ」と判断された?

https://www.bengo4.com/c_1009/n_6506/

 

スマートフォン向けの「出会い系アプリ」を運営したのに、管轄公安委員会に届け出なかったとして、川崎市アプリ開発会社の経営者男性2人が8月上旬出会い系サイト規制法違反(無届け)の疑いで愛知県警逮捕された。

 

報道によると、2人が運営していたのは、「ツートーク」というアプリで、ユーザーチャット相手募集して、出会った人とメッセージのやり取りができるというもの。2人は2016年10月2017年4月ごろ、神奈川県公安委員会に届出ないまま、インターネット異性紹介事業運営した疑いが持たれている。

 

このアプリ現在サービスを停止しているが、昨年、アプリを利用した児童買春などの被害にあう事件が発生していたという。一方で、逮捕された経営者男性は「出会い系ではなく、チャットアプリのつもりだった」などと容疑を否認しているという。

2022-06-16

anond:20220616175653

二日市五日市(毎月2日、5日に市場が開かれたから)

橋本(橋の本なんだろう)

住吉住吉神社由来)

天神天満宮由来。本拠大阪)北九福岡久留米

2022-06-09

昔「両親に自分人生ネタにされて困ってます」って設定の日記創作小説サイトあったよね?

名前が思い出せねえ。

毎日かあさんの件でこのサイト存在を思い出して検索してみた。

15分ほど探したが見つからない。

かに存在した。

自分の夢じゃなかったはず。

ADSL日本中に広がりだした前後ぐらいの時期のサイトだ。

ネチケットという概念日本中を飛び交い、ディズニーデジモンキャラクターネチケットについて解説する二次創作ネット中にあふれていた頃。

かにそのサイト存在した。

サイトアクセスすると最初に出てくるのは子どもの成長を楽しげに描く両親の日記

赤ん坊の頃から日記は始まり子供の成長が赤裸々に綴られる。

子どもが成長して中学高校かに入ったところで「娘にも日記を書かせるようにしました」とリンクが貼られる。

娘のサイトは表向きは両親のサイトと大きく変わらない内容。

だが、画面内をドラッグすると隠しページが仕込まれている。

当時のインターネットでは個人HPを持ち、HPの中に隠しページを用意することが流行っていた。

一番多いパターン単一色の背景と全く同じ色のフォント文字が書かれているパターン

Tabキーを連打するか、ドラッグ選択して色を変えるかで簡単に見つけられる。

存在を匂わせてはくるが入り口が分からないサイトソースコードを見れば大抵はヒントが仕込まれていた。

隠しページの内容は、イラストサイトであれば18禁イラスト日記サイトなら人には言いにくい趣味の話についての日記が載っているのが常であった。

その当時のネットで暮らす人達本能的に、直感的に、画面の中の空白から隠しサイト存在気づきクリックする。

そこには「いじめられっ子日記」のようなタイトルで両親に勝手個人情報をばら撒かれ続けた子ども悲惨人生が描かれている。

自分赤ん坊の頃の話を誰もが知っているだとか、家であった内緒にしておきたい話がすぐに学校中の噂になるだとか、そしてその特異な立場から虐めにあってきたと。

両親はネットアップロードした子どもの姿にしか興味が無いので現実の子供を見ようとしてないのでイジメには気付いてないという吐露もあったと思う。

ネットにアップした情報不特定多数に広がってしまうので気をつけようという警鐘としてこのサイトは語り継がれていた。

いつからか、インターネット個人情報が廃れリンク集は消え、ジオシティーズさくらインターネット個人HPからTwitter本拠を移す者たちが増え、カトゆー家も断絶。

バカッター迷惑系Tuberの起訴代表されるようなネットで本当に痛い目にあった話が無数に供給される時代において、たとえばの話でしかなかったこサイトは忘れ去られたのだろう。

少なくとも、私の記憶から今日まで消えていた。

なあ、たしかにこんなサイトあったよな?

やっぱり自分妄想なのか?

20年ぐらい前の話だしなあ

2022-03-27

OSK日本歌劇団を見た

 OSK日本歌劇団レビュー「春のおどり」を見てきた。こういうの。 https://enterminal.jp/2022/03/osk100th-harunoodori-tokyo/

 かげきしょうじょとかスタァライトとかでアニメでも宝塚っぽいのが最近よく出てくるから、ここらで一丁レビューってのはどんなものなのか見ておくのも悪くないかなという気持ちで見に行った。なお自分は、かげきしょうじょもスタァライトも序盤だけ見て合わないなと思って投げた。

 OSKの存在自体よく知らなくって、宝塚以外のなにかが存在するらしいというのだけはうっすら知っていた程度。今年創立100周年らしい。調べてみるとだいぶ紆余曲折というか艱難辛苦を乗り越えてきていて、一度は完全に潰れたりもしていた模様。そもそも少女女性歌劇というジャンル自体絶滅危惧種で、宝塚は相当に特殊な事例らしい。

 今回の場所新橋演舞場。ここは銀橋はもちろんないけれど、その代わりちゃんとした花道のある舞台花道あるなぁと思っていたらレビューガンガン花道活用しててびっくりした。渡辺さらさはこっちに来ればよかったのでは。

 レビューは2部構成で、前半が和風、後半が洋風になっていて、特に前半の和風レビューは印象が鮮烈。日本舞踊から始まって吉原舞台歌舞伎の名場面をモチーフにした殺陣集団での群舞と続く。舞台衣装歌舞伎のようなしつらえなのに、かかってる音楽はわりとロックで、しかも当然全員女性。なんだかとても不思議ものを見ている気がして面白かった。花道はしごを二つ組んで脚立状にして、その上に登って見得を切るのとか派手で良かったし、途中で「しゃらくせえ」が口癖の写楽が出てくるのだけれど、そのあたりはちょっとストーリー仕立てになっていて飽きさせない工夫を感じた。

 個人的には踊りだけをずっと見続けるのはちょっと飽きるので、多少お芝居的な要素がある方が好きだなと思う。後半はほぼ踊りだけだったので、少し退屈さも感じてしまった。

 お客さんはわりとご高齢女性が多い印象。ただこれは行ったのが平日だったからかも。あとは本拠地関西から、そっちではもっと若いお客さんも多いのかも知れない。

 100周年のチラシで昔の写真見ると、若い子をたくさん並べて当時にしては露出多めな感じのショーも見せるような雰囲気もあって、昔はちょっと前のAKBポニーテルとシュシュとか、ヘビーローテーションとか、下着みたいな衣装MV作ってた頃)みたいな雰囲気だったのかも。実際、浅草本拠があったSKDなんかはセクシー路線に傾倒した結果、女性人気が獲得できずに解散したってウィキペディアには書いてあったりしたし(youtubeで探してみると、こんな感じ https://www.youtube.com/watch?v=-kfAuAzmG_Q)。ラインダンスは今回もやっていたけれども、あれって本当に今でもやる意味があるものなのだろうかとも思ったりした。まあ、バニーガールっぽい衣装で踊る人たちは迫力があって、それはそれでよかったとは思う。

2022-01-04

anond:20220104202440

miHoYoはシンガポールグローバル展開の本拠を移し、カナダモントリオールにも制作スタジオを新設して拡大してく予定

ちなみにモントリオールにはTencentやNetEaseもスタジオを構えてて、中国以外にもUBI、EAワーナーEpicなども拠点を構えているゲーム都市

共産党がアレだから中国還元される産業として発展するかどうか分からんが、中国から優秀なゲームクリエイターが輩出されてるのは事実から

中国オリジンゲームが強くなっていくことは間違いないと思うね

2021-10-28

さっき、サンヨー食品のこと書いている増田を見て、ちょと気になって調べてみた。

 本社=群馬県前橋市創業地)

 本店=東京都港区

本社本店意味を取り違えてた。

この説明からすると、先述の本社本店は逆の意味で使われてるようにも感じるんだが。

まあどうでもいいか

本店所在地本社性質性格が異なり、本店所在地とは、会社設立する上で必ず定めなければならないものとされ、登記簿上の会社本拠の事を言います。また、一方の本社とは、登記簿とは関係なく、会社事業運営において、中枢機能を置く、重要拠点の事を言います

 

結論的には、本店所在地法令で定められており、本社法令で定められていない点が異なります

 

ただし、一般的には本店所在地本社を同一とする事が大半です。本店所在地本社を別住所にする場合一般的な例は、経営の途中で本社移転した場合ですが、もとは同一だった場合があります

https://sogyotecho.jp/qa/honntennsyozaiti-or-honnsya/

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

2021-06-01

anond:20210601134918

居住地と違うところで登録しているお前さんが悪い。

ちゃん使用本拠=現住所で登録しろ

anond:20210601134918

法令に忠実に従えば、住民票を移したら使用本拠も変わるので、新しい住所で車庫証明を取り直して登録変更しなければならない

へたしたら罰則もあるかもしれない

登録の住所地以外で納税することはそもそも想定されていないのですよ

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