はてなキーワード: 有意義とは
理学部数学科で数学に価値が置かれるのはほとんどその形而上学の美の継続時間が長いことによる。人文社会科学系における例えば、 英語による詩作
にも同じような側面が認められるが、美の継続時間が短い。いわゆる 時代を超えて永遠に語り継がれる、というものも歴史学には多いが、最近の社会では、
そういうことも存在しないことが立証された。人文社会科学系にも、数学と同じようなものが認められる可能性はあるが、その数は少ない。
数学の教科書は大体次のような内容になっている。 有意義だからそのように定義する。広範に存在する有益なものだから、確定させておいていたるところで使う。
美しい定理を証明する。 定理の特徴として発見されたときに驚愕されるが、あまりにも時間が経過していると、その界隈でも、さすがに、それはもう終わったことではないか、ということで、
子育て大変やろな、小さいと余計大変だよな、って思って、今も思ってるけど
だから仕事とか協力したし、話ってか愚痴みたいなのも子ども自慢も聞いてさ、でもなんかうまく言葉にできない違和感を覚えてたんだけど、
子持ち女性のこの話、ただの奴隷の鎖自慢だなって気づいちゃったんだわ
共同親権の話題で結婚それ自体が今の日本じゃ男性配偶者の奴隷になりやすい状況だろとか、色々その周りの話聞いてたら
夫を手のひらで転がす妻(笑)
母は強し!
みたいな、状況に酔ってる発言がキツくなってきた。
子どもの存在の否定は虐待に通じるから決してそちらに足を踏み入れないために、状況に陶酔して悲劇のヒロイン的な感覚に入ってて自分の大変さアピール、不幸自慢合戦…
大変だと思うよ、これからも手伝えることは手伝いたいよ。
でもなんか心が冷めてきた。
「子どもがいない人生だって選択の一つ」ってフォローしてるような予防線ようなもの張りながら、それでも「自分は結婚して子どもを持ってて最高な気分だから、子どものいる人生ほど有意義で最高なものはない…あっ子ども持たないのも選択の一つだけどね?」みたいな調子の話をずっとされて、こうやってマウントとっていかないと無理なんだろうな、夫の経済力とかなしで自力で生きていけないことも、この人にとってすごいコンプレックスで必死にいまの自分を肯定するために独身や子なしを下げないといけないんだなって。
子持ちの人、みんな予防線張った上で必死に子どもを産んだ自分の人生は最高だし間違ってないと聞いてもないのに伝えてくる
もうそれが答えなんだなって思った。
連れ去りがどうこうだけでなく、他のメリットもあるよってことを言いたい
父親が子どもに暴力を振るい母親が庇い続けるも耐えきれず逃げる、共同親権に反対の人にもわかりやすいシナリオだと思う
そういう場合はいいのよ、子どものそばにまともな大人が一人はいるから介入しても話が通じるし親権も持っているから様々な対応が取れる
夫婦どちらも虐待してる場合はそれより厄介だけど、夫婦の関係が完全に対等でなおかつどちらも積極的に虐待したいことはまずなくて大抵は片方に引きずられてる
その温度差を利用して切り崩すことは意外と簡単で(当たり前だけど従属してる側は不満を貯めてるから)、従属してた側も権利があるからその後は容易なの
で、問題は片親
男女関係ないんだけど話すと大体被害者意識を持っていて、自分は虐待したくないけどしてしまう、でもそれは仕方ない事なんだという言い訳を始める
これ、100%とはいわないけど90%はそう言う、経済的に困窮してるから虐待してしまうのだと
それならと生活保護の受給に協力してそれなりに暮らせるようになっても虐待をつづけるのよ
だから養育費の強制徴収には賛成だけど、養育費が入っても駄目だろうなという気持ちもある
そうなるとこちらとしては強硬な対応をせざる得ないし、基本そうしているけど問題は相手には親権という印籠があることでこれが厄介極まりない
一時は保護できるけれど親権を盾に抗議されると長期間は難しい、そして元鞘
今のところ子どもが亡くなったケースはないけど、入院したケースは幾度もあって本当に紙一重
親はベッドに横になってる子どもの横で泣いて謝ってるけど、こっちからしたら噴飯モノだよね
DVと同じく虐待親も虐待続けるくせに謝るのがとてもとても上手で、なんなら涙まで流して謝るけど退院して一週間もすればまた虐待するのを見続けてきてるし
児童虐待を防ぐについて何が一番厄介かというと、ただ一人が親権を持っていて確信的に虐待を続けるケースなのよ
そういうクズみたいな親から子どもを守るのに共同親権はとても有意義だと思う
何がいいって利害が対立している親がそれぞれ親権を持っているのがいい
夏場になると高齢者の方が水分の補給を忘れてしまって熱中症になることがある。
話に聞くとどうも身体は脱水し始めているのにのどが渇いたという欲求を感じにくくなっていることによることに原因があるらしい。
自分の場合はそういう脱水を感じないこと性欲バージョンとでもいうのだろうか?
性欲が溜まってきていて、そろそろ抜いてあげないといけないのにそのことに気づきにくくなってきている。
もちろん自分は水分補給を忘れて熱中症になる高齢者の方ほど年齢がいっているわけではない。
それでも中年としては大ベテランといっていいほど月日は経った。
そのくらいの年令になると日々の強烈な性欲に惑わされることはなくなる。
週に一回程度は義務的に行っていた自慰行為ももうやめてしまった。
ときおり気が向いたときに興が乗ったときに自慰行為にふけることはあるものの、果てたあとの虚しさのほうが強くて気がつけばそのような行為を忌避するようになってしまっていた。
そう感じるほうが多くなってしまった。
我ながら歳をとったものだ。
……で、済んでいればいいのだがそうはいかないのが残念なところ。
性的な刺激を受ける機会が少なくなる。
いや、むしろ普段性的な感情を爆発させていないだけに一旦火が付くと抑えられなくなる。
そのことに気づいたのは半年まえほどのことだ。
ある日、仕事中ふと視界の中に入った、コピー機の前で用紙の補給をする新入社員の女性。
その曲げた腰つきが目に入った瞬間、異常な興奮とともに性器がカッチコチに固まってしまった。
自分の頬が上気して赤くなっていることだろうことが鏡を見なくても感じられる。
〇〇君(新入社員の女性の名前)から視線を外すことが出来ない。
その視線に気づいたのかどうか。
〇〇君がふりかえってこちらを見た。
今思い返すと。
世の中にはそれほど多くの人には読まれずに放置されている論文が山ほどあるのではないかと思う今日この頃です。
研究者の論文ですら読まれないのですから、私がブログやホームページを作ってみたところで、誰も気にしないでしょう。
もしブログを書くなら「見られることを前提としない備忘録」ぐらいの気持ちでないとやってられません。
しかし数学的に吟味したり、プログラムを書いたりするのでない限りは、おそらく黒歴史を積み上げるだけになるでしょう。
この廃人日記も例外ではありません。廃人日記の著者が誰なのか、それがストーカーによって知れ渡ったりしたら、恥を晒すだけです。
「悪名は無名にまさる」と言うのは愚者だけでしょう。聖書の箴言には、何度も舌の罪について書かれていますし、愚か者も何も言わなければまともだとさえ言っているのです。
なぜ私がブログについて気にしているのか。例の「趣味探し」の件です。
簡素なサイトで経済学の講義資料を公開する教授が数人いて「こういう良質なコンテンツであれば、ネットにどんどん載せるべきだけどなぁ」と思ったのです。
そこで私も真似して、数理経済学のブログを書こうと思いましたが、そこで出たのが「誰が見るの?」という話なのです。
単に「誰が見るの」というだけではなく、「その情報に付加価値はあるの?」という点も難しい点です。
私はこういう場合、「自分にはインプットが足りていないのではないか」といって、基本知識を身につけるために書籍を購入したり論文を読みます。
しかしその調子でやっていたら、ブログはもはや趣味ではなく労働になってしまいます。
もちろん「アクセス数を増やして稼ぐ」といった目的の場合は、愚者の戯言こそが注目を浴びます。
この点で、高品質の数理科学に基づいたブログを書こうなどとするのは、誰にも読まれない論文を世に出すのと同じようなものになっていることに気が付きます。
需要があり、誰にでもわかる内容で、知識としても価値がある。そういうブログを書こうとしてしまえば、イ○ハヤのような方向にまっしぐらです。
そういえば、私自身は「インフルエンサー」のような人々が本当に嫌いであることを思い出しました。
知名度・アクセス数・視聴率などを追従してそれを目指せば、愚者ロードを行くことになるでしょう。
アクセス数を目指さない「備忘録」さえ、問題があります。私は備忘録の自然言語処理ブログを書いていたとき「低品質の情報をネットに放流するな」というツイートを目撃して、撃沈しました。
人はいずれ死にます。それまでの間にアウトプットが評価されたとして、なんの意味もないのです。
もちろん、政治とは無関係で、学ぶことが楽しい分野はたくさんあります。以下にいくつかの例を挙げてみます:
- 数学:数学は純粋な論理とパターンを探求する学問で、政治とは全く関係ありません。また、数学の美しさと深さを理解することは、多くの人々にとって非常に楽しい経験です。
- プログラミング:コンピューターサイエンスとプログラミングは、創造性を発揮し、問題解決のスキルを磨くことができる分野です。また、自分のアプリケーションやウェブサイトを作成することは、多くの人々にとって楽しい経験です。
- 音楽:音楽理論を学び、楽器を演奏することは、芸術的な表現と創造性を追求する楽しい方法です。
- 天文学:宇宙の神秘を探求する天文学は、新しい視点を提供し、私たちの存在についての理解を深めることができます。
これらはあくまで一例であり、他にも多くの分野があります。あなたが何に興味を持つか、何を楽しむかは、あなた自身が最もよく知っていることです。興味があることを追求することで、学びはより楽しく、有意義なものになります。どの分野を選んでも、新しい知識とスキルを得ることは、自己成長と達成感につながります。それぞれの分野が提供する独自の視点と方法論は、私たちが世界を理解する方法を豊かにします。
数学は、例えばZFCの無限の公理を取り入れるかどうかにおいて政治的です。プログラミングはgithubで政治的に評価されます。音楽の評価も政治的です。天文学も、どの理論が評価されるかという点で、一部の学者は非常に政治的態度を取ります。
ご指摘の通り、学問の中には政治的な要素が含まれることがあります。それは、どの理論や方法が受け入れられるか、どの研究が資金を得られるか、どの成果が評価されるかなど、多くの要素が関わってきます。しかし、それらは学問の本質ではなく、人間がその学問をどのように運用するかによるものです。
例えば、数学の中にはZFCの無限の公理のような議論がありますが、それは数学そのものが政治的であるというよりは、その理論をどのように受け入れるか、どのように適用するかという問題です。同様に、プログラミングがGitHubで政治的に評価されることがあるとしても、それはプログラミングそのものが政治的であるというよりは、その成果がどのように評価されるかという社会的な問題です。
音楽や天文学も同様で、それらの分野が政治的であるというよりは、その成果がどのように評価され、どの理論が受け入れられるかという社会的な問題です。これらの問題は、学問の本質からは離れたところで起こるものであり、それぞれの学問が提供する知識や洞察、喜びを否定するものではありません。
したがって、政治的な要素を排除したい場合は、自分自身の学びのプロセスに集中し、自分が得た知識やスキルをどのように適用するかを考えることが重要です。
診断に行ったけどADHDじゃないって言われて惨めな気になって終わった話。まぁでも学ぶこともあったので、同じような気持ちの誰かの参考になるかもと思ったので書き留めておく。
仕事が何も上手くいかなくて落ち込んで、もしかしたら自分は軽度のADHDなんじゃないだろうかと思った。なので、とにかく一番近い病院を予約した。
診断でADHDじゃないと言われるのは怖さもあった。けど毎日苦しすぎてとにかく誰かに助けを求めたかった。例え結果がADHDではないと言われたとしても、鬱屈した気持ちを抱えたままよりかは、専門家に何かしら助けを求めた方が良いと思った。
一応ネットでその病院がADHD相談を受け付けているかどうかは確認していたが、検査まではやっていなかった。
予約した時点で聞いておけば良かった。完全に自分が悪いのだが、惨めな気持ちになって自己嫌悪が深まった。
検査はできないが話は聞いてくれるようなので、診察は受けることにした。
最初にこんなことを聞かれてたので、仕事でミスをしていたことと、今は出社できていることを伝えた。
素直な気持ちを言うとショックだった。全然深く聞いてくれないうちから言われても、お前に何がわかるんだと言い出したくなる気持ちだった。
先生としては問題なく出社できていることと、席を立ったりせずこうして診察を受けれていることからADHDではないと判断したみたいだった。
その後、軽い質問があったが「仕事に慣れなくて疲れが溜まってるんでしょ?」「出社できてるなら大丈夫だから」と言われた。自分の欲しい答えがもらえなかった自分は、もう先生の言葉を素直に聞けなかった。
自分の状態を決めつけのように話されているようにしか感じなくてその場で泣いた。泣きながら早く帰りたいと思った。
なんでもいいから早く終わってほしくて、全部「そうですね、そうだと思います」で返した。もう悩みを話す気になんてなれなかった。
診察時間は10分かそれに満たないぐらいだったと思う。会計で2000円ほど払った。
別にADHDじゃなくても良かった。それきっかけでなにか相談のとっかかりになればいいと思っていたが、結果は何もなかった。
非常に惨めでしにたくなったが、今冷静な頭で振り返るとまぁ学びはあった。
・まず診断を受けたいと思ったらちゃんと予約時点で診断をやっているかどうかを聞くこと
・おそらく診断を受けた方がよい人というのは、薬の力を借りないと日常生活が難しい人のこと。
→精神科と心療内科とカウンセリングで何やら色々違うらしいと後から知った。病気に対する治療が必要なら診断を受けた方がいい。
逆に私は会社に出社するという日常生活はできているので、治療よりも誰かに悩みを聞いてもらうカウンセリングというものの方が必要だったのかもしれないと自己分析した。
何もかも嫌でとにかく楽になりたくて病院に行ったが、診断書を貰う目的を何も考えていなかった。
私は日常生活をなんとか送れているので、相談できる人が欲しいと思っても、診断書が必要なサービス(障害者雇用とか薬とか)を受ける必要はない。ここに気付けたのは良かった。
なので、セカンドオピニオンは受けなくてもいいかなと思っている。次は診断ではなく、どこかのカウンセリングを受けたいと思っている。
もし自分はADHDかもしれないと思っている人がいれば自分は診断書が必要かどうかを一度考えてみるのも手かも知れない。思いつきで診断に行ったって惨めな気持ちになって終わるだけだから。
【追記】
勢いのまま書いた文章に反応ありがとう。思ってたよりも人に見てもらえてびっくりしている。
いろんなコメントを貰って自分の中の視野が広がったので本当にありがたい。
最後は尻切れトンボのように雑に終わらせてしまったのでちょっとした補足と、貰ったコメントへの返信をしたいと思う。
→これは本当に心を救われた。大人のADHDに対する理解は想定してたよりも世間で進んでなくて、みんな通る道っぽい。そんなもんなんだと苦しさが小さくなった。ありがとう。
ちゃんとした知能検査を受けてADHDではなかったとしても自分の特徴を知って対策を練れるのはいいなと思ったので、めげずに検査できる場所を探すのもありかも知れないなと思った。
→個人的な感情を正直に言えば碌に話を聞いてくれなくてむかついたのだが、医者としての判断は正しかったんだろうなとは思う。
働けてるのに「病人」になって働けなくなったら元も子もない。薬についてはまったく詳しくないが、副作用の話などもよく聞くのでそれで出社できなくなるのは確かに嫌だ。医者が患者を増やしてどうする的な。
それはそれとしてヤブというコメントを見て感情は幾分かスッキリした。先生すまんね。
→これは本当にそう。今考えると冷静じゃなかった。
仕事で滅入ってる時にたまたまADHDの話を見て、もしかしたらこの辛さはADHDだからなんじゃないか?そうに違いない!という思い込みというか、縋るような気持ちで検査を受けてみたいという発想に至った。
(ネット上にいっぱいあるセルフ診断を受けて可能性があるという結果だったのも一因)
後、これは完全に自分の甘っちょろい考えなんだけど、例えADHDじゃないと言われても「ADHDな気がするんです」→「結果は違いますね。ですが、増田さんに困り事はあるのは事実なので、別の方向で一緒に考えていきましょうか」みたいな流れでなんとかしてくれないかなと思ってた。漠然となんとかなりたいって気持ちだけで持っていって後は丸投げなんだから嫌な患者すぎる。
→これは今回受診して初めて気付けたことだった。医者はあくまで薬という手段で治療を手伝ってくれる相手であって慰めてくれる相手ではない。慰めや相談が欲しいならまずカウンセリングなどを受けるべきだったと思う。
今後大事にしたい考えとしては「目的を持って受診をしろ」ということだ。
本文にも最後に書いたが、この目的意識に関する話をコメントでも多く貰った。
漠然となんとかしてくれるなんて気持ちで受診するのはよくない。
(これは自戒なので否定的に書いたが、助かりたいと漠然とした気持ちでも誰かに相談するのも悪いことではない。しぬよりはマシだし、相談する一歩を踏み出せるのは偉いと思う)
どこかの本でも書いてあったが、診断をもらったとしてもそこがスタートであってゴールではない。診断書を貰って障害者雇用に回ったりだとか、薬を飲んで社会生活に戻りたいだとか、そういう具体的な未来像がないといけない。手段と目的をすり替えていた。
改めて今後の自分としては、カウンセリングでまず自分が何に悩んでるのかを具体化して、その悩みが努力だけでは解決できにくいようであれば、セカンドオピニオンに行ってみようと思う。
発達障害のコミュニティなどがあることもコメントで教えてもらえたので、そういった場にいくのもあり。
自分と同じように「ではない」判定を貰ってる人も沢山いるだろうから、この話がなんらかの手掛かりになれば嬉しい。厳しい道だけどお互いになんとかなろう。
ちなみに川で泣くの割と良かった。家だと布団に引っ込んで出勤までの時間があっという間だが、外だと時間がゆっくりでいい感じ。外出るの大事信者の言い分が分かったわ。
「増田!お前それはADHDだよ!」と同意を貰いたい訳ではなかったので省いていたが、自分がかも知れないなと思った要因を書いておく。似てる人はあるある〜ぐらいにでも思ってくれ。多分不注意が強いタイプ。
・締め切りがあるものをギリギリまでやらない。夏休みの宿題は最後まで忘れましたで通した
・「次は〇〇の作業をするぞ」→PCのフォルダ開く→「何しようとしてた...?」(しばらく考えたら思い出せる)
・上司から指示を受けている途中、後ろで誰かが話しているとそっちの会話を拾って上司の声を拾えなくなる
・議事録の作成で何度も見返すのだが、上司チェックを通すと誤字が見つかる(しかも直した筈の箇所が直ってなくてアレ?になることもある)
・人の前では多動っぽい症状はでないが(親に昔怒られたので)、一人の時はつま先を揺らしたり手首揺らしたりなんらか動いてる。人前でも感情が昂ると揺らしてしまう。
・優先順位がつけられない。新しく仕事を頼まれるとそれに集中して、それまでやってた仕事を忘れる。(備品整理してる途中に別の仕事任されたんだけど、床に備品出しっぱにしてて怒られた)
・自分はADHDだ!と思ったら、その日の退勤後に即病院に足を運ぶ。ワンチャン予約なしで見てもらえないかなと思った。そんな訳ない。(思いつきと衝動)
他にもあるけど大体こんな感じ。
基本的に自分はやらかすと思っているので、その前提で動くことでなんとかギリギリクビになるような大ポカはやらさずにすんでいる。
部屋出る前に部屋を一望する(物を出しっぱにしてないか)、帰る前にポケットに手を突っ込む(会社の物を持ち出してないか)とか。
そんな感じでなんとかやってたんだけど、ここ最近は特に上手くいかないことが多くて悩み、一番上に戻るという感じ。
構ってもらえたのが嬉しくて長々と書いてしまった。
見てくれてありがとう。
【最後の補足】
このまま締めようと思ったんだけど、書き方が悪かったのでこれだけ補足しておく。
今は自分がADHDであるかどうかということは考えていない。一旦棚上げしてる。
ADHDじゃなくて鬱とか他の症状なのかもしれないし、普通に仕事がキャパオーバーで落ち込んでるだけかも知れない。
なんでこんなに辛いんだ?っていうのをカウンセラーと話して見つけてくるよ。
https://anond.hatelabo.jp/20200719115703
https://anond.hatelabo.jp/20211210093328
増えるのは想定外だったけど、一時的なものであると案外冷静である。
なので減る恐怖というのはあまり味わっていない。減ることへの嫌だなという感覚はあるけど、恐怖を感じるほど減ってないので感想もかけない。
支出に関しては前回はガジェット買って満足と書いてたけどやや変化があったかな。
一つは子供が高校生なので塾、学費、遊行費などの支出が増えた。これもストレスなく出せるし、出せることに対して、親の仕事をしてる感はある。当然これだけが親の仕事ではないし、無条件に渡してるわけではないが、少なくとも機会を与える事はできてる。
もう一つは旅行。
コロナ中はあまり出かけられなかったけど、趣味の旅を再開した。回数・質ともに高まったので結構増えた。
家族旅行、親を連れての旅行は一泊3〜5万くらいの旅館に泊まる事が増えた。ボトムの部屋じゃない時も多い。
一人旅はアジア中心に二泊三日くらいで行く。ホテルは中くらいのところで、飛行機はLCCでもFSCでも何でも。そこそこ安くて良い時間帯に飛び立つもの。
飯食って、街歩きして帰る。
資産が一気に増えたという事に加えて、
・収入が1400万ほどある
も大きいだろう。
この2つは想定してなかった。
この3つ武器を持てたからお金の使い方も有意義になってるのだろう。
「お金に守られている」感じはする。無理やり使おうと思わない。欲しいものはそこまでない。
旅、食べ物くらい。
あと資産状況と関係するかはわからないけど、他人に対して穏やかになった。特にいい人には。
うざいやつには、何も言わなくなったけどかなり腹立つようになった。
前に「働きながら大学に行く意味」ってエントリを書いた増田です。久しぶり。
無事働きながら大学を4年で卒業できたので報告しにきた。とても有意義な時間を過ごせたと思う。
教員の方々は真剣にやり取りをしてくれる方々が多くて、いろいろ訂正されたりするのすらなんか楽しかった。入学当時と比べると3倍くらい賢くなれたんじゃないかな。
自分一人では学ぼうと思えないような科目を取る機会も多くて、多くの知見を得られた4年間だった。
働きながらでも受けることができる教育機会を提供してくれた大学には本当に頭が上がらない。
おかげで今からでも勉強して、なりたい人になろうとしていいんだみたいな気持ちを持てた。
前に書いた記事にコメントくれた人たちもありがとう。なんかたまに見返して嬉しくなってた。
振り返ると楽しいことも多かったけど、4年は長くて、生活とか仕事とか体調とか、いろいろうまくいかなくなることも多かった。
けどまあ、楽しかったことだけ思い出して今後過ごしていきたいな。
院に行く予定は今のところないのだけど、いつか行きたいなと思ってる。
卒業できて嬉しいなー。