はてなキーワード: 曽祖父とは
ただし条件がある。
様々なケースに当てはまると思うが、主にいわゆるバリキャリ女性が子供も欲しいなら高校生で子供を産めばいいという話だ(バリキャリ男性も)。
バリキャリとは高学歴・高職歴を目指し仕事や資格取得に邁進する意識高い系の人たちだ。
一般的に10代で子供を産むのはヤンキーの所業だが、これには圧倒的なメリットがあるので、バリキャリ勢も彼らを見習ってその奥義を導入するべきだ。
どう考えても一番人生うまくいっているのは「高校を卒業して地元の工場とかに就職してから10代で結婚・出産」のパターンだ。
これは男女問わずそうだ。
まずここで、大学に行くより高卒で就職する方が有利であるといえる。
旧帝:0
駅弁:2人くらい
MARCH:1人くらい
さらにここを突き詰めていけば、実は高校生で子供を産むのが一番賢い選択なのではないかと思えてくる。
多くの20代後半から30代の男女が、仕事と私生活のバランスに悩まされている。
30をすぎると急激に婚活市場での価値が下がるので婚活は20代前半で始めないと間に合わない。
男性だって今どき育児を妻に任せきりにできない。ある程度仕事をセーブして育児を手伝う必要がある。
それであれば、30歳で婚活を始めるより、20代を育児に注いで30代で仕事を頑張り始める方が効率がいい。
さらに、悲しいことに30歳をすぎて独身の人は人間性に問題があり仕事ができない奴扱いされやすい。
よく就職直後の若者が『今はプライベートよりも仕事を優先したい』とか『今は仕事が忙しくて彼女(彼氏)作ってられない』などと呑気なことをおっしゃっているが、
もっと言えば30位になって『子供は欲しい』とか言っている未婚男女は、とっくに......
そうなると、仕事をそれなりにこなしてから結婚や出産などのライフイベントに挑むよりも、就職する前に子供を作る方が合理的なのではないかと思う。
高校生で子供を作ったら、一時はヒソヒソされるかもしれないが、30歳になったら今度は独身の方がヒソヒソされるし、男女とも子持ちはそれだけで『なんか立派な人』感が出るのでトータルで得だ。
いきなりだせえ。
これは馬鹿にできた話ではない。
世の中の多くのキャリア女性が、30後半になって子供を作ろうとして困っている現実を知って欲しい。
勉強は後で取り返せるが、体の年齢は取り返せない。
似たような点として、女性の場合は若い方が市場価値が高く有利である。
ただし、これは合成の誤謬が発生するので、高校生で結婚する人が増えたら意味がなくなる。
男性の場合は、勝ち組になるか負け組になるか確定していない状態で自分を売ることができる。
サブプライムローンみたい話だ。
もしその男性が『自分は現在モテていないが、将来仕事で活躍してお金持ちになって美女と結婚するのだ』という意思がない限り、
なるべく勝ち組になるか負け組になるか判断つかない時点で結婚することにはメリットがある。
親も10代で出産していた場合、大体30歳くらいで祖父・祖母になる。
ということは、子供を作った本人たちに経済力や育児力がなくても全く困らないのだ。
別の観点として、モテることにお金を使わなくて良いという点がある。
おまいらは今までモテることに幾らお金と時間を使っただろうか。
高校生で結婚すれば、後の人生のそれらの出費を全部節約できる。
圧倒的にコスパが良いのだ。
まず、出産する女性が物理的に高校に通えなくなるという批判があろう。
もちろん僕は妊娠した女子高生を放校したりするべきだとは思わないが、カリキュラム上自ずと限界はある。
だが問題ではない。そもそも大学なんか行かなくて良いし、高校だって『彼氏を見つける』以外の価値はほとんどない。
人間は知識と教養を身につけることで自律した人間になり、様々なことに対して事実をもとに公平に判断でき、自由人たる尊厳を得ることができる。
僕は決して『女性は産む機会だから教養なんて不要だ』と思っているわけではない。
もちろん僕は結婚や出産より勉強や仕事や趣味を優先する男女のことを全く否定していない。
あくまで、人生の中で子供が欲しいと思うなら、10代・20代・30代のどこで作るべきか冷静に比較検討すると10代が最善というところに落ち着くだけだ。
勉強なんて家でできる。
また、高校生で出産すれば、30歳くらいには子供の手がかからなくなる。
30歳くらいになって『子供欲しい』とか言ってる同僚を尻目に、子育てを終えて残りの人生は仕事と勉強と趣味に全力投球できるのだ。
こっちの方が強くないだろうか。
おかしいと思っている人がいるからおかしいということになるのであって、みんなが気にしなければ誰も気にしない。
確かに現代社会では人間的に成熟した人に結婚の権利があり、経済的に自立した人に子供を作る権利があるということになっている。
まず、そんな概念が定着したのは極々最近である。日本史をちょっと思い返せばわかるはずだ。
それ以上に、女性が22歳になってから本格的に婚活・妊活を始めるのが当たり前である今の社会の方がよほど狂気の沙汰ではないか。
また、残念ながら30歳になったって成熟しない人は成熟しない。
赤ちゃん:0歳
お父さん:35歳
お祖父さん:70歳
逆に、15歳でも子供を作って良いと言うことになったら
赤ちゃん:0歳
お父さん:15歳
お祖父さん:30歳
曽祖父さん:45歳
ひいひいじいさん:60歳
である。
そんなことを言っている人だって、子供が大学に行くなら学費を出すのだろう。
22歳の子供の学費はを出すなら、22歳の子供の子供のミルク代を出したって良いだろう。
時々、親(赤ちゃんから見てお祖父さんお祖母さん)と同居したくない理由に「考えが古い」をあげる人がいる。
今現在は高校生で妊娠するのは田舎のヤンキー感満載だが、実はそっちの方が合理的なので、それが当たり前になるべき。
これは程度問題なんだけど
今20歳の子の祖父母の年齢は70歳〜80歳ってところだろう、ほとんど戦争体験者ではなく、その次の世代だ
もちろん、明治維新のように事実としては語り継ぐべきだろうけど、今のリアルと地続きではなくなり特別さは徐々に薄らいでいる
戦争はもちろん悲惨なんだが、今戦争になった場合、当時のような雰囲気にはならないと言われている
ではどうすれば良いのかと言えば、近代の紛争や戦争の話を共有すべきなんじゃないだろうか
こういう話が出ると「戦争が語り継がれなくなったら大変だ」みたいな不安の声もあがるが
今の30代くらいまで覚えていれば、あと50年は語り告げる
そしたら戦後124年だ、十分だよ
描きたい内容を単純化しつつわかりやすい折り目をつけ、誰でもついていきやすい速度でありながら明確な変化を持って描かれる最大公約数的なストーリーテリング。画面を広く使いつつ視点を大きく動かさないようにする雄大なカメラワーク。日常と幻想の間に半透明の敷居を置き両者をはっきり区別しながら横へと並べる非連続的な非日常性。これがいい意味での細田守らしさ。
ショタコンにしてケモナー。自意識過剰なキャラクター。誰もが承認欲求に飢えているという断定の元に進む構ってちゃんストーリー。全てを自分の口で説明してしまう自信のなさ。ヒステリックさと寛容さの両極端。これが悪い意味での細田守らしさ。
未来のミライを面白かったと言えるかの全ては、細田守の悪癖、性癖、嗜癖を理解した上で、その発露を作家性として消費することが出来るかにかかっている。逆に、そういったものに対して一切無頓着に、ただ何も考えずに綺麗な映像が流れる2時間のパラパラ漫画だと思って鑑賞するかだ。
未来のミライには細田守の内面”だけ”が描かれている。”だけ”である。この映画は主成分が細田守なのではなく、すべての成分が細田守なのだ。全スタッフの労力、作業は製作の過程で全て細田守分として返還されてしまう。そこに慈悲はない。この映画は全力で細田守であり、それ以外のものが含まれることは認められていない。実際、この映画の制作にあたってスタッフに細田家のホームビデオが見せられたというエピソードすらある。スタッフが「家庭」というものに描くイメージを、「細田家の家庭」というイメージで塗りつぶし、他の家庭から異物を混入されることを防ぐ徹底した管理体制である。
甘えん坊でわがままで自分を認めてもらいたくてたまらない子供は当然細田守であり、彼の成長を通して鑑賞者から贈られる称賛を求めているのも細田守自身なのだ。彼が作中では徹底して直接その苦しみを認められることがないのは、そういうふうに世界を見る細田守が細田守の中に居るからである。電車好きである点などは細田守の実子がモデルとなっている。彼にとってこの映画は自分の子供が成長する姿を通して「かつて自分が子供だった頃に成長したことを客観的に見ることになった」という事実を描いたものでもあるのだ。ケモナー成分を取り込んだりハチゲームでクネクネしていたりと(ショタコンケモナー向け)サービスシーンも多く、彼が主人公であるということは、細田守にとってはケモナーやショタコンであることが自己同一性の核であることを示す。
客寄せパンダとして使われまくったのに、出てくるシーンは意外と少ない。未来という名前、赤ん坊であること、婚期を逃すことを気にする発言、最終的にくんちゃんに血縁上のつながりを思い出させる役目、これらの要素から「男女の関係によって子孫を残すこと」のメタファー、ひいては「(ショタコンではなく)普通の人間として生きること」のメタファーであることが伺える。同時に「世間で受け入れられ、未来に繋がる作品」のメタファーでもある。最初にキャッチコピーとして登場し、最後のクライマックスにおいてただの細田守回顧録であった映画を一般向けの娯楽映画へと引き戻す役目を追っていることからもこれが分かる。
仕事人間であり、子供の親でもある細田守。一般的役割に対して性別が反転しているのはジェンダーフリーというよりも、それぞれに細田守に繋がる要素をもたせることで、どちらもを細田守にするためである。時折ヒステリックなのも妙に余裕ぶってみせるのも、自分たちが変わってきたと殊更に言うのも、全て細田守の独り言なのだ。
オスケモ。王子だったという発言は、細田守の中で最も大事なものがケモナー性癖だったことの暴露である。それにかつてという言葉をつけるのは、今の自分はそれを卒業したという自負である。
ホモホモしい外見、言動、であるのだがそれがハッキリと語られることはない。ここまで赤裸々にショタコンもケモナーも自己開示してきて、それをあえて語らないのは、細田守の中において自分のホモセクシャルへの興味がまだ疑問の残るものであるからである。逆に言えば「それすらも」赤裸々にスクリーンに映し出したのだ。
上で述べたようにミライは『普通の家庭』や『世間一般の価値観』のメタファーであり、それが細田ハウスに持ち込まれるのは、ショタに興奮だけしていればよかった世界の終わりを意味している。ミライファーストの生活を否定する姿は、一般向け要素を散りばめた映画を作らされてきた細田守の姿である。その中で雑な反逆に出ては怒られる。悪い意味で細田守らしい映画を作ってきたことへの反省と、それに対する怒りが描かれる。『自由にショタでケモいアニメだけやらせてくれ』、くんちゃんが繰り返すミライ否定発言はつまる所こういうことなのだ・
『雛人形を毎年1日ずつ出し続けていたら1年ずつ婚期が伸びる』という会話は、ずっと結婚できないということを意味している。それを片付けてミライちゃんが未来で結婚できるようになった。これは、細田守が自分の中で幼少期から積み上げてきた結婚感を今一度棚卸しして、普通に恋愛をして普通に結婚をする人生を受け入れたことを意味している。作中に置いて、未来ちゃんが過去にやってくるのは、細田守の中で過去の細田守と共に今の細田守が気持ちの整理をつけた経験を描いているのだ。そこに犬が加わっている理由は、それが彼の性癖に置いて重要な意味を持つからである。普通に見ていると何がしたいのかわかりにくいシーンも、このように整理していくと理解できる。これが未来のミライの面白さだ。
これもうそのまま細田守が自分の親に対して「心の中で」やっていたことです。自分が親になって子供を持つ身となってそれで子供の頃の両親の大変さとか知って感謝してーっていうアレです。そのままかよ!そしてその中で全部セリフにしちゃうのかよ!このシンプルさ!観客への信頼の無さ!そして自分の表現への自信の無さ!これもまた細田守なんですわー。自分がちゃんと愛されているか不安だとそのまま口にするのは、自分の映画がちゃんと観客に伝わっているのか不安だっていう宣言でもあったりするわけで。メタいぜー。
ホモホモしいアンちゃんとの初体験。遠くを見据えろと語られるが、そのさきに見えるのは廃墟。この道の先に未来はない。細田守も分かっている。ショタコン一本では子孫は残せない。アニメだって歴史に残らない。分かっている。分かっているけど、そうして進んだ先で結果を出したのが今の細田守だろ?そんな叫びが聞こえてくる。補助輪無しで突き進むには、遠くに廃墟を見据えなきゃいけなかったんだ。そうしてバケモノの子が生まれてしまったんだ……。
自分を見失ったとき、戻ってくるためには家族の名前を呼ぶ必要がある。自分に流れる血の繋がりを思い出す必要がある。そして、そのためにはミライを認める必要がある。ミライは「普通の家庭」「普通の価値観」のメタファーであり、自分がそれと深くつながっていることを認めることが、自分を取り戻すためには必要だと、最後の最後で認めることになる。途中からひたすらショタキャラメインで妙な話ばかりしていた映画が、ここで突然なんとも一般受けしそうなキャラと共にさもストーリーがしっかりとある映画であるかのような物語へと戻っていく。細田守の敗北宣言だ。人間としての細田守がここにいるには、彼の父親や祖父がショタコン一本で通さなかったからである。映画監督としての細田守がここにいるのは、デジモンやサマーウォーズといった一般向けに迎合した作品を作ってきたからである。自分が今ここにいるなかで、ケモナーであったことや、同性愛的な面を抱えていたことはたしかにあったが、それでも『普通』を受け入れてきたからだ。そう認めることで、見失っていた自分は取り戻される。そして、和解は結ばれた。ケモノやショタへと一度は預けられた細田守界の王位継承権は、最後には『普通の未来』へと託された。
凄まじい映画だった。「作家性の塊」と呼ばれる映画はいくらでもあるが、純度99%作家性の劇物はそうそうはないだろう。アニメ映画というと娯楽作品ばかりで、文学性や哲学性を謳っておきながら結局は娯楽作品に片足と重心は置きっぱなしにした作品ばかりな中で異彩を放っている。そんな世界にこんなものが現れたらそりゃ受け入れられないだろうな。ましてそれを作った人間の最大のウリ文句がサマーウォーズや時をかける少女なんていう痛快娯楽一般層向け作品なら。サマーウォーズや時かけ期待してこれ見に行ったら羊頭狗肉も良いところだって怒りたくもなるだろうな。
この作品には作家性以外を求めちゃ駄目なんだよ。日本の広告業界や映画業界はそれを頑なに伝えようとしなかった。そこは紛れもなくEVILだね。
ミライちゃんがただの客寄せパンダであり、その使われ方も「はいはいこのへんでパンダ投入すれば良いんだろ?」っていう態度で行われることに、細田守の中に渦巻いた鬱憤を感じ取ろうっていう気概を最初から持って見る分にはね、いい映画なんですよ。
そこは分かってあげて欲しい。
でも娯楽映画としては本当に駄目だけどな。俺はこれを娯楽として楽しむことは出来たけど、それは正しい意味での娯楽じゃなくて単に俺の見方が捻くれてて性格が悪いから娯楽に出来ただけだわ。素直な心の持ち主が素直に楽しめる娯楽映画を作った方が最大多数の最大幸福だよ。新海誠の君の名はと、細田守の未来のミライ。このコントラストはある意味美しいけどね。
祖母の生家は広島県で曽祖父が亡くなった時に母親がぽろりと曽祖父のお姉さんは原爆で亡くなり遺体も見つかっていないと言っていた。祖母が始めて母に観たいから連れて行ってとお願いした映画は「この世界の片隅に」だった。見慣れた街の景色をとても楽しんでいたと聞いた。
小学生の頃の私は酷く内向的で人と話すより空想したり本を読むのが大好きで図書室にある本は全部読んだ。はだしのゲンが唯一置いてある漫画だったので漫画も読みたい私は全部読んだ。時間が余った総合学習の時間にサトウキビ畑の唄を全部見せてもらった。映画が好きで、あと嵐が好きだったから硫黄島からの手紙も父親たちの星条旗も見た。総合学習の時間に学内新聞を作るため私たちの班には日本軍が行なった生体実験というお題が与えられた。字を読むのが好きだし家に当時からパソコンがあったから調べまくった。
中学生の修学旅行では長崎に行き被爆地を目で見た。写真で見るのとは全く違って、建物は静かで異空間の恐怖を覚えた。それは原爆に対するものではなく長崎のそのピンポイントに対する恐怖だったと思う。
大学生になって、留学生が多い学校だったから何かの流れから戦争の話になり、アメリカ人、韓国人、日本人で話していた。韓国人が感情的に私へ怒りをぶつけてきたことを覚えている。講義で原子爆弾関係の映画をいくつか見た。一番印象的だったのは「太陽を盗んだ男」だ。パワフルさがたまらなく心に刺さった。映画を見て議論するという講義だったが、この時はあまり議論は盛り上がらなかった。それでもこの映画で描かれた9番という立場は当時の私にとって衝撃的だった。
多分私の生きてきた中に、戦争加害者としての日本が強く意識づけられている。原子爆弾を落とした蛮行は未来永劫たとえ彼の国が滅びようとも許すことはできず、曽祖父の姉を奪ったそれがとても憎い。曽祖父が爆弾の落とされた街を歩き姉を探しそうして見つかることなく生涯を終えるまで一体何を感じたのか想像することもないだろう世界は憎い。数多の人の命を一瞬に、そしてゆっくりと奪い今も苦しめ続ける原子爆弾をまた使うような未来は絶対に避けたい。
それと同じくらい、戦争をして私たちがその立場になるのが嫌だ。私は女なので戦地に行くことはないかもしれないけど女性の社会参加が都合よく叫ばれている今行かなくてはいけないかもしれない。そんなことはしたくない。見ず知らずの日本の誰かが顔も知らない世界の誰かを傷つけて欲しくはない。私に怒りをぶつけ暴言を吐いた彼女に不快な思いは偉大たがたとえ大義名分を得ようとも彼女の命を奪いたくはない。
奪いたくないし、もちろん奪われたくもない。それが保たれることはとても平和で、命に限らず生きる中で何も奪わず奪われないことは、ある視点から見たらつまらないけれどとてつもなく幸せなことだと思う。満たされているということだから。
そういうことを思う。
そして満たされないからあらゆるものを巡って争うのだなということも分かっている。切ない。欲望がもう少し小さければいいのに。
盛岡八幡宮境内にある Ingress の Mission 「盛岡八幡宮クイズ」(初級、中級、上級)は境内にあったクイズの答えが書いてあった由来書きがなくなっていたりネットで検索しても出てこなくて答えが分からなくなっているのでメモとしてここに残しておきます。
https://intel.ingress.com/mission/4886164f3a5d45f5b24029ed8d21b4f9.1c
Q、盛岡の総鎮守とされるこの盛岡八幡宮ですが、この盛岡八幡宮のシンボルともなっている社号標にはなんと記されているでしょうか?
Q、五臓の神、癌神、中風神、健康神、生命神、薬神など、健康にまつわる神々が祀られている健康神社ですが、神社横にある案内に記されている人生において「悪である」ものは
A、病気
Q、この高部神社と包丁塚ですが、高倍神社に祀られているのは何の守り神?(二文字)
A、料理
Q、この八幡宮の例大祭は毎年9月に何日間開催されるでしょうか?(数字一文字)
A、4
https://intel.ingress.com/mission/26bab5647322429aac96812e08b96b57.1c
Q、この大鳥居の横にある八幡宮社号標ですが、この社号標を書いたのは誰?
A、わらじ
A、6月15日
Q、この八幡宮前の広場ですが、流鏑馬奉納の為北側大鳥居から大鳥居までかなり長く広い敷地が用意されています。さてこの長辺の長さはおよそ何間
A、220
https://intel.ingress.com/mission/26bab5647322429aac96812e08b96b57.1c
Q、この大鳥居の横にある社号標ですが、書いたの方は、皇太子妃雅子さまのどの続柄にあたる方でしょうか?
Q、この健康神社には様々なけんこうにまつわる神々が祀られていますが、五臓の神、肺神、肝神、腎神、心神あと一柱は?
A、脾神(ひしん ひぞう)
Q、毎年開催される例大祭で奉納される包丁式では、調理人は、魚に手を直接触れず、何をかけない?
A、息