はてなキーワード: 曖昧とは
https://note.com/takahashi_shiro1/n/n50d842e6a877
駒澤大学の森田成也氏(マルクス経済学)がトランスジェンダリズムに疑問を持つに至った理由の第一は、主として海外の情報から、とりわけラディカル・フェミニストに対してひどい攻撃や脅迫と暴力を振るっていることを知ったこと。第二は、熱心なトランスジェンダー派ほど、売買春肯定、ポルノ肯定であることを知ったこと。第三に、トランスジェンダーとは性同一性障害の人のことと思っていたが、実際には後者はトランスジェンダーのごく少数の一部に過ぎないことを知ったこと。第四に、2020年6月にJ.K、ローリングさんが、トランス当事者に対して非常に配慮しつつも女性の「身体的性別に基づく権利」の重要性を訴えた声明文(https://note.com/f_overseas_info/n/nb9dee80c5f82)に対して、全世界のトランス活動家と左派が信じたいほど暴力的で誹謗中傷的な攻撃をしているのを目の当たりにしたことである。
注目すべきはアメリカのリベラル新聞『ニューヨーク・タイムズ』やイギリスの左派系新聞『がーディアン』などが相次いで、子供の拙速な性別移行措置に対する強い懸念を示す記事を掲載したことである。ローリング攻撃に加担してきた両紙が全面的擁護に一変したのは画期的といえる。
トランスジェンダリズムには、「生物学的性別」を認めつつ、それとは異なる「心の性別」ないし何等かの生得的な「性自認」が存在するとみなし、後者を前者よりも優先させようとするソフトバージョン(自治体や国際機関などの公的機関など)とハードバージョン(ジェンダー学者、トランス活動家など)がある。
ハードバージョンは「身体の性別」すなわち「生物学的性別」の存在そのものを認めず、「性自認」「性表現」等の曖昧模糊としたものが唯一絶対の性別決定要因であるとみなす。トランス活動家たちはトランスジェンダリズムへの異論を「差別者」ないし「ヘイタ―」の誘惑として、読むな、見るな、議論するなと主張する。彼らはトランス当事者のために運動しているのではなく、トランスジェンダリズムというイデオロギーのために運動しているイデオロギー優先の「カルト集団」と見做すべきである。
クビー著『グローバル性革命』によれば、2007年にインドネシアのジョグジャカルタで29の「ジョグジャカルタ原則」が作成され、それを実行するためにJGBT活動家のための200頁の『ジョグジャカルタ原則の活動家のガイド』ハンドブックが作成され、「混乱を招く方法」「LGBT問題の目標を実現するための具体的な実行方法」等を明示した。
同序文には、「どのような類型の性的嗜好や行為も、小児性愛、近親相姦、一夫多妻、不特定多数との性的関係あるいは獣姦までも排除されない」と書かれている。
砲丸投げほど力のいるものはなかろう。力のいるわりにこれほどおもしろくないものもたんとない。ただ文字どおり砲丸を投げるのである。芸でもなんでもない。野々宮さんは柵の所で、ちょっとこの様子を見て笑っていた。けれども見物のじゃまになると悪いと思ったのであろう。柵を離れて芝生の中へ引き取った。二人の女も、もとの席へ復した。砲丸は時々投げられている。第一どのくらい遠くまでゆくんだか、ほとんど三四郎にはわからない。三四郎はばかばかしくなった。それでも我慢して立っていた。ようやくのことで片がついたとみえて、野々宮さんはまた黒板へ十一メートル三八と書いた。
それからまた競走があって、長飛びがあって、その次には槌投げが始まった。三四郎はこの槌投げにいたって、とうとう辛抱がしきれなくなった。運動会はめいめいかってに開くべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女はことごとく間違っているとまで思い込んで、会場を抜け出して、裏の築山の所まで来た。幕が張ってあって通れない。引き返して砂利の敷いてある所を少し来ると、会場から逃げた人がちらほら歩いている。盛装した婦人も見える。三四郎はまた右へ折れて、爪先上りを丘のてっぺんまで来た。道はてっぺんで尽きている。大きな石がある。三四郎はその上へ腰をかけて、高い崖の下にある池をながめた。下の運動会場でわあというおおぜいの声がする。
三四郎はおよそ五分ばかり石へ腰をかけたままぼんやりしていた。やがてまた動く気になったので腰を上げて、立ちながら靴の踵を向け直すと、丘の上りぎわの、薄く色づいた紅葉の間に、さっきの女の影が見えた。並んで丘の裾を通る。
三四郎は上から、二人を見おろしていた。二人は枝の隙から明らかな日向へ出て来た。黙っていると、前を通り抜けてしまう。三四郎は声をかけようかと考えた。距離があまり遠すぎる。急いで二、三歩芝の上を裾の方へ降りた。降り出すといいぐあいに女の一人がこっちを向いてくれた。三四郎はそれでとまった。じつはこちらからあまりごきげんをとりたくない。運動会が少し癪にさわっている。
「あんな所に……」とよし子が言いだした。驚いて笑っている。この女はどんな陳腐なものを見ても珍しそうな目つきをするように思われる。その代り、いかな珍しいものに出会っても、やはり待ち受けていたような目つきで迎えるかと想像される。だからこの女に会うと重苦しいところが少しもなくって、しかもおちついた感じが起こる。三四郎は立ったまま、これはまったく、この大きな、常にぬれている、黒い眸のおかげだと考えた。
美禰子も留まった。三四郎を見た。しかしその目はこの時にかぎって何物をも訴えていなかった。まるで高い木をながめるような目であった。三四郎は心のうちで、火の消えたランプを見る心持ちがした。もとの所に立ちすくんでいる。美禰子も動かない。
よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色を動かさない。三四郎は、
「それより、あなたがたこそなぜ出て来たんです。たいへん熱心に見ていたじゃありませんか」と当てたような当てないようなことを大きな声で言った。美禰子はこの時はじめて、少し笑った。三四郎にはその笑いの意味がよくわからない。二歩ばかり女の方に近づいた。
「もう宅へ帰るんですか」
女は二人とも答えなかった。三四郎はまた二歩ばかり女の方へ近づいた。
「どこかへ行くんですか」
「ええ、ちょっと」と美禰子が小さな声で言う。よく聞こえない。三四郎はとうとう女の前まで降りて来た。しかしどこへ行くとも追窮もしないで立っている。会場の方で喝采の声が聞こえる。
「高飛びよ」とよし子が言う。「今度は何メートルになったでしょう」
美禰子は軽く笑ったばかりである。三四郎も黙っている。三四郎は高飛びに口を出すのをいさぎよしとしないつもりである。すると美禰子が聞いた。
この上には石があって、崖があるばかりである。おもしろいものがありようはずがない。
「なんにもないです」
「そう」と疑いを残したように言った。
「ちょいと上がってみましょうか」よし子が、快く言う。
「あなた、まだここを御存じないの」と相手の女はおちついて出た。
「いいからいらっしゃいよ」
よし子は先へ上る。二人はまたついて行った。よし子は足を芝生のはしまで出して、振り向きながら、
「絶壁ね」と大げさな言葉を使った。「サッフォーでも飛び込みそうな所じゃありませんか」
美禰子と三四郎は声を出して笑った。そのくせ三四郎はサッフォーがどんな所から飛び込んだかよくわからなかった。
「あなたも飛び込んでごらんなさい」と美禰子が言う。
「私? 飛び込みましょうか。でもあんまり水がきたないわね」と言いながら、こっちへ帰って来た。
やがて女二人のあいだに用談が始まった。
「あなた、いらしって」と美禰子が言う。
「ええ。あなたは」とよし子が言う。
「どうしましょう」
「どうでも。なんならわたしちょっと行ってくるから、ここに待っていらっしゃい」
「そうね」
なかなか片づかない。三四郎が聞いてみると、よし子が病院の看護婦のところへ、ついでだから、ちょっと礼に行ってくるんだと言う。美禰子はこの夏自分の親戚が入院していた時近づきになった看護婦を尋ねれば尋ねるのだが、これは必要でもなんでもないのだそうだ。
よし子は、すなおに気の軽い女だから、しまいに、すぐ帰って来ますと言い捨てて、早足に一人丘を降りて行った。止めるほどの必要もなし、いっしょに行くほどの事件でもないので、二人はしぜん後にのこるわけになった。二人の消極な態度からいえば、のこるというより、のこされたかたちにもなる。
三四郎はまた石に腰をかけた。女は立っている。秋の日は鏡のように濁った池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはただ二本の木がはえている。青い松と薄い紅葉がぐあいよく枝をかわし合って、箱庭の趣がある。島を越して向こう側の突き当りがこんもりとどす黒く光っている。女は丘の上からその暗い木陰を指さした。
「あの木を知っていらしって」と言う。
「あれは椎」
女は笑い出した。
「よく覚えていらっしゃること」
「ええ」
「よし子さんの看護婦とは違うんですか」
今度は三四郎が笑い出した。
「あすこですね。あなたがあの看護婦といっしょに団扇を持って立っていたのは」
二人のいる所は高く池の中に突き出している。この丘とはまるで縁のない小山が一段低く、右側を走っている。大きな松と御殿の一角と、運動会の幕の一部と、なだらかな芝生が見える。
「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とうとうこらえきれないで出てきたの。――あなたはまたなんであんな所にしゃがんでいらしったんです」
「熱いからです。あの日ははじめて野々宮さんに会って、それから、あすこへ来てぼんやりしていたのです。なんだか心細くなって」
「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」
「いいえ、そういうわけじゃない」と言いかけて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。
「野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いていますね」
「ええ、珍しくフロックコートをお着になって――ずいぶん御迷惑でしょう。朝から晩までですから」
「だってだいぶ得意のようじゃありませんか」
「だれが、野々宮さんが。――あなたもずいぶんね」
「なぜですか」
「だって、まさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう」
三四郎はまた話頭を転じた。
「さっきあなたの所へ来て何か話していましたね」
「会場で?」
「ええ、運動会の柵の所で」と言ったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。女は「ええ」と言ったまま男の顔をじっと見ている。少し下唇をそらして笑いかけている。三四郎はたまらなくなった。何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。
「あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」
三四郎はまごつきながら「あげます」と答えた。女はくれともなんとも言わない。
「知りません」
「そう」
「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです」
美禰子はそばへ来て腰をかけた。三四郎は自分がいかにも愚物のような気がした。
「よし子さんはにいさんといっしょに帰らないんですか」
「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんは、きのうから私の家にいるんですもの」
三四郎はその時はじめて美禰子から野々宮のおっかさんが国へ帰ったということを聞いた。おっかさんが帰ると同時に、大久保を引き払って、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の家から学校へ通うことに、相談がきまったんだそうである。
三四郎はむしろ野々宮さんの気楽なのに驚いた。そうたやすく下宿生活にもどるくらいなら、はじめから家を持たないほうがよかろう。第一鍋、釜、手桶などという世帯道具の始末はどうつけたろうと、よけいなことまで考えたが、口に出して言うほどのことでもないから、べつだんの批評は加えなかった。そのうえ、野々宮さんが一家の主人から、あともどりをして、ふたたび純書生と同様な生活状態に復するのは、とりもなおさず家族制度から一歩遠のいたと同じことで、自分にとっては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移したような好都合にもなる。その代りよし子が美禰子の家へ同居してしまった。この兄妹は絶えず往来していないと治まらないようにできあがっている。絶えず往来しているうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移ってくる。すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活を永久にやめる時機がこないともかぎらない。
三四郎は頭のなかに、こういう疑いある未来を、描きながら、美禰子と応対をしている。いっこうに気が乗らない。それを外部の態度だけでも普通のごとくつくろおうとすると苦痛になってくる。そこへうまいぐあいによし子が帰ってきてくれた。女同志のあいだには、もう一ぺん競技を見に行こうかという相談があったが、短くなりかけた秋の日がだいぶ回ったのと、回るにつれて、広い戸外の肌寒がようやく増してくるので、帰ることに話がきまる。
三四郎も女連に別れて下宿へもどろうと思ったが、三人が話しながら、ずるずるべったりに歩き出したものだから、きわだった挨拶をする機会がない。二人は自分を引っ張ってゆくようにみえる。自分もまた引っ張られてゆきたいような気がする。それで二人にくっついて池の端を図書館の横から、方角違いの赤門の方へ向いてきた。そのとき三四郎は、よし子に向かって、
「お兄いさんは下宿をなすったそうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、
「ええ。とうとう。ひとを美禰子さんの所へ押しつけておいて。ひどいでしょう」と同意を求めるように言った。三四郎は何か返事をしようとした。そのまえに美禰子が口を開いた。
「宗八さんのようなかたは、我々の考えじゃわかりませんよ。ずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」と大いに野々宮さんをほめだした。よし子は黙って聞いている。
学問をする人がうるさい俗用を避けて、なるべく単純な生活にがまんするのは、みんな研究のためやむをえないんだからしかたがない。野々宮のような外国にまで聞こえるほどの仕事をする人が、普通の学生同様な下宿にはいっているのも必竟野々宮が偉いからのことで、下宿がきたなければきたないほど尊敬しなくってはならない。――美禰子の野々宮に対する賛辞のつづきは、ざっとこうである。
三四郎は赤門の所で二人に別れた。追分の方へ足を向けながら考えだした。――なるほど美禰子の言ったとおりである。自分と野々宮を比較してみるとだいぶ段が違う。自分は田舎から出て大学へはいったばかりである。学問という学問もなければ、見識という見識もない。自分が、野々宮に対するほどな尊敬を美禰子から受けえないのは当然である。そういえばなんだか、あの女からばかにされているようでもある。さっき、運動会はつまらないから、ここにいると、丘の上で答えた時に、美禰子はまじめな顔をして、この上には何かおもしろいものがありますかと聞いた。あの時は気がつかなかったが、いま解釈してみると、故意に自分を愚弄した言葉かもしれない。――三四郎は気がついて、きょうまで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味がつけられる。三四郎は往来のまん中でまっ赤になってうつむいた。ふと、顔を上げると向こうから、与次郎とゆうべの会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を縦に振ったぎり黙っている。学生は帽子をとって礼をしながら、
「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」と笑って行き過ぎた。
借金玉先生、キャラ変えして最期にありがとうございますマンになっていたのに元のキャラみたいなビキビキヤクザマンに戻っちまっただ…
ついでに会ってお話しましょと一昔前の胡散臭い人間仕草もしちまって巻き戻すダイヤルをひねりすぎている…
先生の提案も素人の傍目で読んでも「そりゃ曖昧すぎでしょ…」と蹴られるだろうなという内容だった。返答は+彼らしい内容でしたけど
いまはことさら自分以外の様々な大きなものを背負っている・慮っているという面をアピールしているけど(前からしてたけど)ずっと借金玉先生個人へ焦点を当てることを自他共に避けさせているように見えて、先生の思惑通り直視に耐えられない
出版社や世の中の障害者や内縁の妻だとかもいいけれど、行動を転嫁しすぎて自分の意思で動きたくない、動いたことにしたくないのかな、と考えてしまう
しかしまあ一部金銭的勝利もしましたし、ここまで先生に利がありそうな騒動でこうなったのかには興味があるのでぜひ筆は折らずに頑張って欲しいとおもいます
今、NHKでやってるの見てて思ったんだけど、どっちが生産性が上がるか?じゃねーんだよ…😟
人間はみんな同じじゃない
勝手に自分と同じタイプだと思った背の低い赤髪は一人では平気じゃない普通の女の子だって…
俺も主人公の温水とか、ぼっちざろっくのベースと同じで、一人がつらくないタイプ
まあ、寂しい気持ちにときどきなるのは否めないけど、楽器弾いたり、絵を描いたり、ボクササイズしたり、なんか色々やってればそういうのは忘れられる
そういう趣味とか娯楽とかさえあれば、宇宙船の閉鎖環境みたいなところでもかなり生きていける自信がある
話を戻すと、ぶっちゃけ、プログラミングの仕事だったら、俺は在宅が一番生産性が上がる
家には大量の技術書、数学や物理、機械関係、音楽関係、数万円するような絵画の資料もある
あと、自分は社交不安とか、外出した環境で過剰なストレスを感じてしまって、大量の汗が出たり、汚い話だけどウンコ漏らしたこともあったし、
家だったらすぐに着替えて、シャワーが浴びられる、好きな紅茶が飲めるし、数年前の自分はもうちょっと健康だったから散歩にも行ってた
良くないことだけど、フリーランスとかやってた頃は仕事が止まらなくて、深夜までやってたりした
客の時間外の連絡にも対応して、データを読み込むスクリプトを即興で書いて、客からデータを受け取り、DBに流し込んで、
流し込んだデータが地図データで間違えが多かったので、それを修正するためのツールも作成して、客に提供した
その客とは、ちょっと色々後にトラブルがあって、最近は連絡を取っていないのだけど、在宅の怖い所は、仕事が楽しいと止まらなくなるところ
あと、よく言われるように、客とか同僚の指示が曖昧、なんかチャットからでも伝わってくる空気が不穏、みたいなのは在宅だと確かに困る
だらだら机に向かってるだけで、仕事を進めようにも自分以外の理由でペンディングしてしまうわけだから、周りに人がいて、おい、ここからどうするよ?みたいに話せないのは凄い不安ではある
しかし、プログラミングをひたすらガリガリ書く作業になったら、在宅がいい
余計な電話対応をさせられたり、指示が明確になってないのに呼ばれて、ぐだぐださせられたり、ちゃんと話をまとめてから指示してくれ、と思うわけだけど、
在宅だとその辺がきっちりすることがあるし、それでもきっちりしない指示の人だったりしても、チャットならまあ聞き流し、というか読み流していられる
納期がカリカリに迫っていなければ、チャットに~の部分は~使っていいですか?とか、~の部分どうやったらいいのか分からない、論文とかありますか?みたいに書いておいて、
非同期で誰かが対応してくれるから、そういうのが楽、在宅というよりチャットの話だけど
これを出社で、リアルタイムでせっついてこられるようになると困る
もしくは、こっちからせっつくことを強要されるような仕事環境も凄く不愉快だ
でも、業種によっては、プログラミングなんかじゃなければ、明らかに出社じゃないと成り立たない仕事、職種、業種は存在するし、
在宅vs出社で生産性を比較する議論なんて、本当に馬鹿げている
で、それをちゃんと見極めたりするのが人事の本来の仕事なんだろうけど、ぶっちゃけ人事って実務を知らないアホが多かったりするから、役に立たないことが多いんだよな
そのくせ、文系出世コースでもあるから、人事は他人を選択したり切り捨てる人事権があるし、社長より自分は偉いと錯覚してるような輩までいる
人事が、この人は在宅が適任、この人は出社が適任というのを見極めるべきだし、
山岡屋とともにずっと気になってはいるけれど、どちらも絶妙にアクセスが悪い。車も乗らないし。
日常の重力というものは中々強くて、行動圏内を逸脱するのにラーメン屋だけではちょっと弱い。そのためだけにわざわざ足を伸ばすのもなんだかさもしいお出かけに思える。
でも普段のおれの過ごし方も大概だ。
頭に浮かんだ単語を自分でこねくり回す事もせず、SNSの検索ボックスに放り込む。そこに出る他人がまとめた言葉に乗っかって、何かを考えたような気になる。もしかしたらコミュニケーションをした気になってるのかもしれない。何度も同じ言葉で検索したりもする。
反復の日々の中で内容を変化させる刺激もなく、何度も同じ話を繰り返す老人と同じだ。
更新など来てないだろうと分かりながら、YoutubeとTVerとWeb漫画サイトをぐるぐるローテーションしたりもする。それにも飽きたら過去の面白かった回を見たり。同じ回を何度も繰り返し見ていれば味もしなくなってくる。
それか、変わり映えしない手癖でギターを弾くか。頭の中で漂う音を取り出したいが、ろくに技術もない。そのためのセオリーを知ろうと知識の検索まではするが、頭に入れようとはしない。開きまくったタブを閉じるのもなんだか惜しくて、ブラウザの隅にグループにまとめられたまま。埃でも積もれば少しはやる気にもなったのかもしれない。
こんな過ごし方なら出かけた方が少しはマシかもしれない。
週末、ジャンガレへ向かう決意をした。
山岡屋もついでに行きたいが、微妙に場所がズレている。まあ折角出かけるのだから両方回ってやろう。
と思っていたが、ベッドでダラダラ過ごしていたら出発時間がズルズル延びていく。
結局山岡家は諦め、比較的アクセスのマシなジャンガレ新所沢店を目指す。
縦の移動を滅多にしないので気付かないが、埼玉は意外と近い。国分寺から西武に乗り換えればすぐだ。
近場でも県を跨げばなんだか旅行気分になる。それが移動の楽しさでもあり、億劫さを生じてもいる。
国分寺線は車内に電子表示がないらしい。イヤホンつけてスマホを凝視している現代の陰気人間に対して実に優しくない。Yahoo路線とgoogleマップで現在地を神経質に確認しつつ、新所沢駅へと降り立つ。
西友と一体化した駅のロータリーは、郊外平均の生活感漂う趣。決して高円寺やそこらの「生活感」ではない。
都心に住んでる者には田舎、郊外に住む者には日常の光景、ガチ田舎に住む者には割と都会。寂れはせずとも活気もない風景は決して気分の上がるものではない。
ジャンガレを目指し脇の通りに出ると飲み屋が並ぶ。町の息づきを隠しやがって、と思うのも束の間、スタスタ歩いているとそれも一瞬で過ぎ去り国道沿いへと放り出される。歩道と車道の曖昧さに少し田舎さを感じる。いやむしろ駅に近いからか。
コンビニかファミレスか、塾やら車屋やらブックオフやらが点在する、ネットでバカにされがちなあの光景。
中高生の頃もほっつき回れる範囲は「コレ」か住宅外の二択だった。
晩飯までの時間制限はそのまま距離の制限になる。電車であっちこっち行くような金もない。楽しげな景色は全て画面の向こう側だったな。せめて河川敷でもあれば良かったのだけど。
歩行者がマイノリティのそういう道を歩く度、当時の事を思い出す。目に入る情報が少ないと意識は自分の内に向きがちなのかもしれない。今も昔も。
小綺麗で小さめの店内にもう一軒ラーメンの入った、二店舗だけのフードコート形式。
卵なしまぜそば(790JPY)の食券を購入し、受け渡し口へ。
店員のおばちゃんの声色と表情が「それだけでええんか……?」的な雰囲気を漂わせる。
別にいいだろ。おれは口の中の味が少ない方が好きなんだよ。
何やらメニュー表の写真を指差しながら説明しているが、ここで掌を返せば自分が不慣れのようではないか。実際不慣れなのだから何ら恥じることはないのだが、意地になってロクに確認もせず「それで大丈夫です」で通す。
そこまで言うからにはよほど質素な素ラーメンが供されるのではないかと若干怯えつつ、10秒程度の駆け引きを済ませる。フードコート特有のブーブー鳴るアレを渡され、テーブル席へ陣取る。
すぐさま脳内で自分反省回を開く。おれのトッピングは変だったのだろうか。
数m先のメニュー表を確認することなく、インターネットで無料トッピングの情報を探る。
ニンニク。入れた。
ベビースター。いらん。カリッとしたもんをわざわざふやかすのは嫌いだ。
辛味。まあ初回だしいらんだろう。
あ、アブラを入れ忘れてた……
まあ致命的なミスはなかろう。
スマホを置き店内を改めて見渡すと、数割の埋まり具合といったところ。
二郎(系)特有の窮屈で急かされてるような雰囲気はない。もう一軒普通(?)のラーメン屋も入ってるしな。
これを求めてたんだよ。家で手間をかけることもなくゆったり食える。
二郎は好きだけどあのガツガツした空気は嫌いだ。早食いが美徳とも思わない。回転率とか店の都合だし 。
ナイト・ホークスとまでは言わないが、郊外の週末夕方の気怠い空気が心地よい。
時間がゆったりと流れるような感覚。でも給水器の水の出がやたら遅かったのは多分気のせいではない。
呼び出しのブザーが鳴る。
ネットで確認して尚も素ラーメンが出てくるのを若干恐れつつ、受け取りへ。
受け取り口脇で紙エプロンが目につく。周りに目を遣ると着けてる奴はいない。こういう時、なんかお上品ぶってるみたいで使うのが恥ずかしい。だが、週末のお出かけだしと着てきたお気に入りの白シャツは守りたい。
と悩んでいると、店員から「よければ紙エプロンどうぞ」の声が。渡りに船。まあ、勧められたなら使っといてやるか。
席へ戻る。卓上のカエシを垂らし、ヤサイを除去するように喰らう。コショウをドバドバ振り撒いてブタを喰らう。ニンニクをかき混ぜて麺を喰らう。
他の二郎系と何が違うのかはよく分からんけど、かねてから実行しかねていた欲求をきちんと消化し、しかも美味いのだ。何の不満があろうか。
一気に萎える。
シミ抜きめんどくせえな。忘れないようアラームをつけ、自分で抱えてると気の滅入る記憶を外部委託する。
最後の一啜りを慎重に済ませ、退店。
まだ7時頃だかすっかり日も暮れた。もう夏も終わりか。
道路沿いで光り輝く塾の中でガキ共が勉強してやがる。こいつらは幸せなんだろうか。幸せになれるんだろうか。まあおれの知ったことではない。
完全に一服の口になってきたので、googleマップで喫煙所を探す。駅前にタバコ屋があるらしい。
喫煙所のある街は良い所だ。目に楽しい街は傾向的に大体パブリックな喫煙所が設置されている。寛容さとか、そういう抽象的な理屈じゃなく。
プライベートサービスの灰皿があるだけとなると、ギリギリ及第点といったところか。まあそれもすぐ消えゆくのかもしれない。
タバコ屋へに辿り着くと、分煙もへったくれもなく灰皿だけが置かれたストロングスタイル。
くどいラーメン後の一服は実にうまい。肉体作業でもした後ならさぞ染み渡るんだろうな。まあそんなんしなとも十分満足だ。さて帰るか。
駅でオシッコしようとしたら、トイレは仮設らしい。小×2と大×1の窮屈なボックスが3つ並ぶだけ。駅の規模の割に小さい。ええんかこれで。
このまま新宿まで行ってしまおうか。映画でも観て、バスタか高島屋でボーッと夜景でも眺めたら締まりのある週末だ。
乗り換えるまでの数駅分の猶予で、まあ今日はもういいかなと思った。
車窓の向こうは晩夏か初秋の暗闇。団地とタワマンの灯りだけが浮かぶ。
なんというか、西武線に揺られ所沢に降り立ちジャンガレを啜るという全ての体験に所沢感、というか郊外感があったな。非日常にすら感じるほどの、絵に描いたような日常。それに抗うつもりでゲーセン行ったのがむしろ更にそれを強める。
これをいつもの週末にしたくはないなって思いと、そうなりそうな予感があった。
帰ってフロがてらシャツのシミをシコシコ落とす。かったるい。汚れてもいいTシャツで近所をうろつくばかりの日々はもうすぐそこまで来てるのかもしれない。
後日山岡家も行った。
最寄りは箱根ヶ崎とかいう温泉街のパチモンみたいな名前しといて、実態は八高線の田舎駅。ドアの開閉はボタン式。狛犬ポジションの罪は重い。
国道沿いの道は片側二車線で、より歩行者の疎外感が強い。リサイクルショップの掲げる「作業靴買い取ります」の文言に色々な想像を浮かべる。
15分ほど歩き山岡家に着く。駐車場はかなり埋まってる。思ってたほど臭くねえ。
醤油大盛り
店内は金髪ツーブロの兄ちゃんと家族連れ。一人者にテーブル席は許されず、肩身の狭いカウンターへ。
しばし待たされ着丼。
啜る。なんなシメの雑炊の出汁みてえな味がする。気がする。分からん。濃くてうまい。
ニンニクとコショウをドバドバ入れると、叩かれがちな壱系とあんまり変わらん気がする。まあ美味いのでいい。
おれの人生から非日常はどんどん失われて、着実に「これ」へと染まりつつあるのかもしれない。
2ch脳じみた考えもとっくに薄れてきて、そういう日常をバカにする気もあんまりなくなってきた。自分が楽しいか、満足してるか、納得してるか。それが全てなんだし。
一般論として「頭の悪い人を馬鹿にするのは良くない」は正しいと思う。
しかしこれが「自分に対して害のある頭の悪い人を馬鹿にするのは」どうだろうか?
いや、褒められたものではないという事は理解できるよ。でもさぁ。。。
例えば私の妻がこれに該当し、それを見下しているのが私である。
そして妻に「私の事を馬鹿にしてるでしょ」と非難されるわけだが
「はい馬鹿にしてます」とも言えないから曖昧な反応をするしかない。
若い頃(?)HPVワクチン打てなかった勢だけど私以外もいるよね?
当時の記憶は曖昧なんだけど、うちは母親がマスゴミの報道をすごい気にしてて打たせなかったっぽい。
別に反ワクだったとか自然派とかではなくて、母が困ったような顔をして「でもなあ…何かあったら怖いしなあ…」とすごく怖がっていたのを覚えている。
ありがとう、お母さん。心配の気持ちはとても嬉しかったよ。今でもそう思う。
ただその後、私生活がものすごく大変になって、キャッチアップがなんたら~みたいな情報を取り逃してしまったっぽい。
事故だの病気だのめっちゃ色々あって、ここ数年でやっっっっと経済的に落ち着いてきて、ユニクロのワンピースを買えるようになった感じよ。
今の年齢的にあと数年、感染するようなことをしなければ、もういいのかなと思ったりする。
だって自己負担MAXで10万円だよ?決断できる?それも期間あけて3回。
そういう経験する予定も一切ないのに、今アラフォーで性加害に遭う可能性だけ心配して10万円って。
あーあ、なんだかなあーー!
未だにこの主張をしている人たちが居て呆れるが、一周回って彼らがどんな思考をしているのか気になってきた
そもそも「切り貼りコラージュ」と簡単に言うが、これをシステムで実現するのは相当難しい
→膨大な保存領域が必要になるがこれが無ければコラージュが出来ない。その都度ネット検索する方法も考えられるが、相当数のダウンロードと②の工程が必要になり時間がかかる
→各画像の各要素を区分けし(この時点でかなり難しい)、その要素が何かをラベル付けできなければ「切り貼り」の切る工程すら実現できない
→プロンプトに従い良い感じの要素を抽出し、それらを良い感じの位置に配置しいい感じに繋ぎ合わせなくてはならない。曖昧な書き方になったがどう実現すればよいのか分からないのでしょうがない。
正直言ってこれを実現出来たら生成AIどころの話ではない、②だけでもあらゆる分野に応用できる。完全自動運転も今すぐに実現するだろう。
世の中当たり前に「出身地」って使っているが、定義が曖昧すぎるだろ。出生地=出身地って思って使っている人もいるし。
物心つかない頃に住んでいた場所を出身地とするのもおかしいし、働けるようになった年齢で住んでいた場所を出身地とするのもおかしい。
子持ちの友人と会うときにお互いに子連れでも良いよと思える人とうーんめんどくさ…!ってなる人がいて何の違いかな、そもそもの仲の良さか?とか思ってたけど、
たぶん子どもとの自他境界が曖昧だったり、自己肯定感的なものを子育てのみに依存してる人だったりすると無理なのかなって思った。
同じ子持ちでもキツイわ。
「育児という孤独な真っ暗闇の中で戦う私達ママは……」みたいな自意識で生きてる系の子、たぶん自分に自信がないのかな、と。
子育てしてるとわたしも自分が守らないと死ぬ生き物がいることで万能感?有能感?でアドレナリンをギュンギュンに感じるときはあるな〜と思うし、それ以外に自尊心のよりどころがない人はそうなるのかなあと。
そういう子と会って話すとなにかにつけて子どもや旦那や周囲の人に結びつけられるし、結びつけないと話ができない。
すべての会話が「それうちの子供(または旦那)が好きで〜」みたいな感じで収束される。
私の友人はあなたの旦那でも子どもでもなく、あなたであって、私はあなたとあなたの話をしたくて時間をつくって会っているんですが…。
生活の中心が家庭になっても私は自分の話いくらでもできてしまうけど…。
自他境界が曖昧ですぐ子どもの写真見せたり鍵垢といえどSNSに載せたりLINEのアイコンにしたりも怖い。
自分がヨダレたらして寝てる写真をおもしろおかしく使われたいか?自己主張できない子どもならそういうことしても良いと思ってるのか?と感じてしまう。
遊びに行く話してるときに「子ども連れていっても良い?」って言う子に一度独身の友人がやんわりと「じゃあ私もその日ショートステイからおばあちゃん帰って来るし連れて行こうかな」って本気か冗談かわからん感じで言ったことがあって、そのときにわたしの中にも「育児という孤独な真っ暗闇の中で戦う私達ママは……」みたいな自意識があることに気付かされた。
なんか周囲に申し訳ない気持ちで育児してますみたいなことを言いながら、当たり前に優先されて当然でみたいな感覚はどこかにあるし、育児以外で家族のサポートをしてる人をナチュラルに透明化したり下に見てたなと。
何て言ったら良いかわからなくて子持ち側が困ってまごついてる間に独身の子には「冗談だよ」って言われたけどあれは彼女なりに自分を客観視できてないよっていう忠告だったなと思った。
私は気づかせてもらえる機会があったけど、そういう機会がないと客観視できないまま「孤独な真っ暗闇で戦う自分」に酔い続けてしまうんだろうなあ。
ネットの友達を作る手段として、Twitter以上に優れたツールはなかった
これら要素により、個の強さが目立ち過ぎず、クラスタごとの断絶も無い、緩やかなムラのような集団形成が可能となっていた。その結果、近い嗜好、思考様式の人間がなんとなーく緩やかに結びついたストレスレスな関係性がいろんな分野で生まれていた
イーロンに買収される前まではずっと良いツールであり続けていたと思うが、個人的には2011年くらいまでが特に素晴らしかったと思う。比較的テキストベースのコミュニケーションが得意なユーザーたちと、巨大な一つのムラの中でわちゃわちゃやったり、それを眺めたりする楽しさはそれまでのどのネットコミュニティにも存在しなかった
画像や動画ツイートが可能になったり、震災をきっかけに少しユーザーの質が変化してきたのが2010年代前半だったが、それでもまだ自衛すれば全然よかった。2010年代後半からはだんだんつらくなっていった。スマホの普及が本格化した結果、Twitterも一般化、大衆化し、現実社会と同じ面倒臭さを持った人間(異論を認めないマウント大好き界隈)がジャンルを問わず跋扈するようになった。イーロンマスクがとどめを刺した後の現状は語るまでもない。
今はDiscordに引きこもって身内とまあまあ楽しく過ごしているけど、その身内ってほとんどTwitterで出会った人たちなんだよな。今何もない状況から彼らと知り合って友達になる方法は思いつかない。はっきり言って今のTwitterで出会った人とオフ会とかしたいと思えない
Xで気軽に出来なくなった話題を匿名という立場をいいことに書き記そうと決めた。
この文章は殴り書きに近く、分かりやすく熟慮しやすいように噛み砕いた文章を書く才がないことを先に謝罪しなければいけない。
ここにそういう人がいるかは分からないけど、一人でも私の気持ちを理解してくれる人がいれば救われると思う。
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こういう話題をSNSで話そうものならAI推進派や反生成AIに攻撃されるのを知ると、とてもじゃないが素性を明かしての発言が出来ない。
少し名のある漫画家やイラストレーターが生成AIに対して褒めればAI推進派と決めつけて燃やされる。
同じように忌避感が少しでもあれば反生成AIというレッテルを貼られる。
画像生成AIを使っていないのにAIイラストだと疑われて潔白を証明しても謝ってくれない。
自分の気持ちを表明してもお気持ちだと笑われて理解してもらえない。
そうやって気持ちを蔑ろにされたクリエイターは多いはず、私もその一人だから。
卑怯な私は匿名でこうやって吐き出すことで消化することしか出来ない。
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SNSにおいて出身や学歴、どんな人であるかはもはや関係ない。
おもちゃになるか、おもちゃにされるか、傍観者の三種類しかない。
クリエイターだろうが一般人であろうが意味を成さない、私からしてみれば反生成AIはただの蒙昧無知なピエロなのだ。
何故名のあるクリエイターたちが間違った知識を振りかざしてピエロとして踊るのか、TLを見て共通点があることに気づいた。
もしかして無断学習に怒るイラストレーターの中に無断転載やトレースなどさまざまな被害者が多いのでは?
人間は傷ついたり怒ったりすると正常な判断が出来なくなって感情の洪水に飲み込まれ、法律の正しい意味を読み取れなくなり、法律とマナーの区別、トレースやパクリと学習(ディープラーニング)の区別が曖昧になってしまい反生成AIというピエロが誕生してしまったのではと推測してる。
SNSさえなければ間違った思想に染まることも哀れなピエロを演じることはなかった。
画像生成AIに対して忌避感があるのは否定しないし、間違った知識を振りかざすことは誰しもが起きうること。
画像生成AIから生まれるAIイラストを絶賛することも間違っていない。
しかし間違った知識を振りかざせば正論されて、納得いかず反発することを繰り返す。
それらを利用反生成AIやAI推進派に話題として消費されるのも事実としてある。
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クリエイターの本当の敵は《生成AI》ではなく《生成AI》という言葉を利用してクリエイターたちを蔑ろにする人間だ。
画像生成AIを使わないイラストレーターにAIイラストだと疑ったり決めつけて攻撃するのは《生成AI》のせいではない。
些細なきっかけから火種が大きくなり、戦争などに発展して収拾つかなくなることが多いけど、その原因を作っているのは昔も今も人間しかいない。
人間の敵はいつだって人間だけということを認識しなければいけない。
怒り、悲しみ、疑心が生成AIという武器に変わってそれを使って殴り始めた。
包丁が凶器に変わって人を殺めるのと同じ状況になってしまった。
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絵を生業としている人間は何故か下に見られがちな職種だと思う。
他の職種と比べて受ける劣等感は大きく、名が売れなければ自己肯定感が下がってしまう。
頑張って描いたのに下手くそと言われた。
頑張って描いたのに無断転載された。
依頼してくれたと思ったら安く値踏まれた。
さまざまな被害を受けて傷ついた心を癒そうと都合のいい言葉しか耳を貸さなくなり、目に入らなくなったのが反生成AIになる理由ではないかと思う。
心当たりがある人はSNSから離れて外に出て空気を吸いに行こう。
そこで感じた光景はSNSの殺伐とした雰囲気と違ってとても平和だから。
閉じられたコミュニティで殴り合うより絵を描いたり、外で体を動かす方が健全だと思う。
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何も悩まずに絵を描きたい。
生成AIを使うことを認めよう。
正しい知識を学ぼう。
願わくば行き場のない怒りや悲しみを生成AIに向けないでください。
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小括:イラストレーターの本当の敵は《生成AI》ではなく《攻撃する人間たち》である。
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