はてなキーワード: 映画鑑賞とは
夫曰く、「友達と言える人が人生で一人もいたことがない」らしい。
夫と出会ったのは婚活サービスで、わりと早いうちからそう漏らしていたんだけど、話半分に流してしまっていた。
私だって友達が多い方ではないけれど、友達の支えみたいなのを一切なく生きてきた人がいるなんて信じられなかった。
でも結婚式のときに「家族と親戚以外に呼べる人が一人もいない」と言って、ご両親と祖父母、弟さん、叔父さん夫婦の7名が最大人数だった。
私は地元の友達も呼びたかったし、夫も別にいいよと言っていたけど、流石にバランスが悪すぎるので結局うちの方も親戚だけを呼んだ。
私は他県から大学進学を機に定住したけれど、夫は地元生まれ地元育ち。結婚してから夫の実家から数キロ程度の場所でアパート暮らし。
地元の友達がいてもよさそうなものだけど、少なくとも自分と出会ってから以降の6~7年で、夫が友達と出かけたり食事に行ったりすることは一度もなさそうだった。
休みの日に出かけることや家に連れてくることはもちろん、飲みに行ったことも一度もない。
夫曰く「うちは飲み会とかやらない職場だから」というが、仕事の飲み会すら行ったことがない。
趣味は読書と映画鑑賞。私が仕事で夫が休みの日は、私の出勤に合わせて起きてから私が帰宅するまで食事も取らずに延々とアマプラで映画を観ていたこともあった。
ただ内向的でインドアな人ではあるが、別に人当たりが悪いわけでもコミュニケーションに極端な難があるわけでもない。
飲食店員、宅配業者、不動産屋等々との応対も腰低めに丁寧な対応だけど、質問とかはちゃんとするし言われるがままって感じではない。
商業施設で夫の職場の同僚に出くわしたことが数回あるのだけど、そのときもわりと明るい感じで挨拶と会話を少ししていたので、別に嫌われたり無視されたりしているわけでもなさそうな印象。
たぶん会社でも当たり障りないのない付き合いはしてるんじゃないかな。
もしかするとネット上に友達がいるのかも、とも思ったけれど、ソシャゲもオンラインゲームもSNSもやってる様子はない。(もちろん増田も)
絶対にいないとは言い切れないけれど、そうだとしたら彼の性格上、「友達がいない」じゃなくて「ネットにいる」って言いそうだなとは思う。
きっと、友達ができないんじゃなくて、意図的に人との関わり合いを避けているんだと思う。
結婚式のときだって、会社の偉い人や上司に頼み込めば誰かしらは呼ぶことができたんじゃないかな。
でもそうしないのは、他人と関わりを持つことを極力避けているんじゃないか。
屋外レジャーとか、食にも興味が薄い。自分の好きなものだけあればいいってタイプだ。
まあそういう人もいると思うけど、不思議なのが婚活サイトに登録してまで結婚しようとしてたこと。
どうして結婚したのか、なんだか怖くて聞けないでいる。
娘には「お友達と仲良くね」なんて言っている。
夫も別に自分のスタンスを強要するつもりはなく、一般的っぽいことを口走っているんだろうけど、空虚に聞こえる。
別に離婚したいとか、いまからでも友達を作ってほしいとかは一切ない。彼の持つ不思議な雰囲気も魅力だと思ってる。
ただ繋がりをほとんど持たない人だから、ある日ふっ、といなくなってしまうんじゃないかって無性に怖くなることがある。
これ。
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
あの映画はストーリーが破綻しまくってるので逆に心に引っ掛かりを残して、見た後に誰もかれも監督である宮崎駿を読み解こうとする。
鬼滅の刃を見て、原作者がどうのとか監督がどうのなんて話は誰もしない。
新海誠の君縄以降は売れ線志向でも監督を深読みされることもあるが、素直にエンタメとして楽しむことが本道であるように思う。
翻って君生きは、エンタメとしては煮え切らない不発弾に過ぎず、宮崎駿を知らない人間にはまったくとるにたらない駄作に映ることだろう。
いいや宮崎駿はそれほどの人間なのだから自分の表現の終着点としてああいう作品はあってしかるべきだ、というのも分かる。
あとは見たものにゆだねるから、勝手にいろいろ読み取って自分だけに映画にしなさい、という意図もあるかもしれない。
であるならば、岡田斗司夫を蛇蝎のごとく嫌ってSNSでカラーと結託してディスったのは蛇足だったなと思う。
岡田斗司夫的な物語の読み解きがこれほど必要になる映画もないからだ。
誰もかれも深読みしてSNSに私はこう読み解いた、あれはこういうことだと思うという「答え」が並ぶ。
皆答えを探しているので、有名無名に関わらずそうしたSNSの感想へのview数も増えていく。
いや案外目論見どおりなのかもしれない。
これはSNSバズを狙ったプロモーションであり、巧妙な岡田斗司夫潰しなのかも。
だってもうこの後に岡田斗司夫が何を言おうが、たぶん自分の中の答えがある人には自分のほうが正解になるから。
いずれにしても商業映画としてはどこかいびつで健全でないと思う。
そしてアオサギは鈴木敏夫の投影であるのはほぼ間違いないと思うが、鈴木敏夫のくちばしの穴に挿さった栓を握ってるカンヤダには、ぜひその栓を一思いに引き抜いてもらいたいものだ。
初対面のひととの会話のなかで「趣味はなんですか?」って聞かれるけど、適切に答えるのが難しい
相手との会話の糸口にするのが目的だから、話が膨らみそうな物を趣味と言いたいけど、難しい。
・ドライブ(目的なく走るのがすきだから、✕✕へ行ったとか、次の話が膨らまない)
・音楽のライブ(好きなアーティストのツアーがあったら家の近くの公演に一回行くだけだし、頻度が少ないから趣味と言いずらい)
・映画鑑賞(3ヶ月に一回くらいしか行かないし、話題作しか見ないから趣味とは言いずらい)
・ボルダリング(一時期毎週ジムに行くくらいはまってたけど、コロナ禍になってからやめてしまった)
まじでみんな初対面のひとと話すとき、なんて答えてるの?
奴はAとしよう
ある日、同好会の消耗品を買い足すために仕事帰りにAと数名で買い物に行ったんだが、その店でポイントカードをAは提示したんだ
dポイントとかそういうのね
そしたらちょうど期限切れ間近のポイントがあり、Aは500ポイント使おうと言い出した
金は折半だし大した金額でもないからそれで了承したんだが、その数日後にAから意見がでた
「あのときの500円返して」
ようはポイントは彼のお金で貯めたものであり彼の財産だ。それを使ってなおかつ折半したのだからAは500円損をしていると。
どこかの映画のヤクザ者みたいな口調を少しは取り入れておどけるように言っていた
まあ分からなくもないしそれくらいならと俺が建て替えたのだが、後からメンバーから「それってポイントの現金化だよな」とモヤッとしたことを言われた。
もちろんたかが500円程度だが、そういえなくもない。
いや、そもそも折半ではなくAが500円少なく払えばいいだけなのだが、Aも流れで払っていたので後出しじゃないかと
総額にして2000円もない商品なので別に気にし過ぎといえるが、そのあたりからAと他のメンバーの距離が広がった気もする。いや、別に仲が悪いんじゃないけどね。
まあその程度の話。
大抵の人は辞められない。
頻尿の人はRRRを見ることは出来ない。大福を食べても尿意は止まらないし、水を飲まなくても尿は出る。オムツを履いて映画館に行くという変態プレイが許容されるのはエロ漫画の世界だけ。
会社で携帯を持つことが義務付けられている人は映画館でもバイブを常に意識する必要がある。特に自衛隊はそれが顕著。映画を見ている間に遠くで災害が起こり、それに気づかないで2時間の間報告義務さえ怠りましたは許されない。
色盲の人は普通の人と同じように映画を見れないし、時には色盲であるが故に重要な情報を見落とすだろう。まして盲目であれば……盲目の人でも音を楽しむために映画館に行く人はいるだろうが、その人は映像を見ることが出来ない自分という存在から離れることは出来はしない。逆に難聴の人間にとっては映像だけしかそこに存在しない。
単に語学力や読解力が試されることもある。吹き替えのないアクション映画で必死に字幕を追わされたり、訛りの独特なニュアンスを感じ取れなかったり。外人の顔は区別がつきにくいが、相貌失認気味の人間であればそれはなおさらで、時には登場キャラクターが少し髪型を変えただけで誰が今どうしているのかを見落としてしまうだろう。
「映画館で映画を見ている間は自分が自分であることを辞められる」というのは、自己の心身や能力に纏わる事柄によって映画鑑賞に支障が起きない人間が一時全てから離れて自由になれる権利を有して初めて起きる現象だ。
本当に完全にこの条件を満たせるのは日本人の半数程度だろう。
当たり前に誰にでも起きうるものとして扱うのは辞めてもらいたい。
幸せになるために何をしたら良いのか
友達夫妻は大手共働きで郊外に買ったマンションで2人の子育て中、友達は不妊理由で離婚して戸建でリモートワークしながら猫3匹と暮らしてる
ペットなし彼氏なし賃貸住まいのノースキル事務職がささやかに幸せを得る方法ってなんだろうね
コロナ前は年2回一泊2日の弾丸海外旅行が生きる意味だったけど行かなくなったらなんであんなに元気だったのか不思議に思える。今はもう国内旅行でさえ面倒で出かけられない。帰宅途中のターミナル駅でのショッピングとかも面倒で、まず降りることない。とりあえず1秒でも早く布団の中へ入りたいと言う気持ちでいっぱい。
今回、事前情報は全くなし。
自分は仮面ライダーに対する思い入れはなく、知識もほぼないので怪人の元ネタとかもさっぱりわからない人である。
映画鑑賞後も他の人の感想とかは全く読まずにこの増田を書いている。
と書くと言いすぎかもしれないが自分にとってはかなり辛かった。
もしも端っこの席だったら途中で帰っていたと思う。
という庵野監督に対する信頼感から安心しながら見ているのだが、
だんだんとこれはひょっとして、ちょっとヤバい映画じゃないのか?と不安になってくる。
とくに大昔に見たキューティハニーのようなコメディタッチな演出が始まるといよいよその不安が確信に変わってくる。
これ、やっちゃってる?
事前情報を入れなかったの大失敗?
と座っている席の左右を見ると
たくさん人が座っているので
そこを横切って離席する勇気が出ずにやむなく座っていたが、
ケツが痛いということと、昨日の仕事のことばかり考えていた。
それでも映画の内容は追加料金を払って馬鹿でかいスクリーンで見ていたので否応なしに入ってくる。
ところが中盤にラスボスが登場する当たりから一気に映画はよくなる。
ケレン味のあるカッコいい画作りと、
例え短時間でもいいのでその映画に没入する瞬間がある映画は合格点である。
シン・仮面ライダーは映画の中盤までは合格点にはまったく入らなかった。
映画を見ながらも、
映画終わったら何食べようかなとか、
ケツが痛いとか、
常に他のことが頭の中に浮かんでいる状況だった。
しかし、映画の終盤の最終決戦に至るところから俄然映画は盛り上がり始める。
最終決戦が始まり、
完全に心奪われて日常の自分が消えてなくなっていた瞬間に気づく。
そして最後になってスタートレックピカードのパクリかよ、展開も悪くない。
いやー、途中で帰らなくて良かったなあ、
ということと
庵野秀明が監督した映画は観客の期待を裏切ることをすることはもうないのだろうな、
ということを思いました。
終わり。
高校の頃の倫理の教員は、授業中にanother brick in the wallのMVを見せる(多分フーコーかなんかにこじつけて)痛い人だった。
いわゆる進学校で、生徒も教員も事あるごとに「自由」と「個性」を口にするし、その倫理の教員も特にそれに乗っかっているような感じだった。生徒からは良く言えばゆるい、悪く言えばいい加減という専らの評判で、その教員自身もそれを自負してこと演じている節があった気がする。
他の環境を知らない一貫校で、しかもそこそこ以上に裕福な家庭の男子という画一的な環境。そんな場所で周りがしきりに個性だのキチガイだの変人だのと口にするのがいけすかなかった。捻くれたガキだったから。だからそれに乗じて「変人」エピソードを披露するその教員にもあまり良い印象はなかった。
最後の定期試験に「倫理の教員のイメージ」というアンケート欄があり、多くの生徒の答えは「変人」だったし、それは教員の想定ないし期待する答えでもあったんじゃないかと思う。私はそのノリが気に食わなかったので、確か「哲学科に入ったかと思えば教員職を得る、趣味人なのか現実志向なのか分からない、でも運任せの人。変人の巣窟の凡人」みたいな事を書いた。真面目にそう思っていたのだが、「すげえブラックジョーク!」と書かれて返された気がする。その辺はちゃんと大人だったんだな。
彼の授業のスタイルは大学のそれっぽかった。教科書は使わずプリントを配り、指導要領通りの内容もほどほどに授業内容とこじつけた内容の映画を見せられた。定期テストも、映像のレポート(という体の感想文)のウェイトが結構大きかった。
生徒を大人として扱いたかったのか、ガキ相手のなんか型に嵌った授業をするのがバカらしかったのか、どうだったんだろう。
なんにせよ、倫理なんて3年の選択で取る少数以外には無縁な科目だし、それならばと好きにやりたかったのかもしれない。
トゥルーマンショー
2001年宇宙の旅(一部)
フルメタルジャケット(一部)
あとなんかインディーズの映画と事変だか椎名林檎だかの百色眼鏡ってMV
こんな感じのを見せられた。愛のむきだしが一番好きだった。あの作品が好きなのか『空洞です』が好きなのかは未だに分からんけど。
映画垂れ流し授業には結構人生に影響を与えられたような気がする。その後ネットの映画好き必修作品に挙がるようなのを片っ端から観るようになった。
今や映画鑑賞は自分の人生の核に近い部分にある。本当は何か自らの手を動かして脳内のものを描き出すアウトプットの趣味を持ちたいのだけれど、怠惰には中々勝てないな。
あの教員の嫌いな部分は嫌いなままだが、悪い人ではなかったなと思う。
当たり前のように岡田斗司夫が訳知り顔で持論を語ってるし面倒な特撮ヲタが「これって普通の人には分かるのか?(拙者は分かるでござるがな。デュフフ)」って言ってるが、庵野監督的には完成して上映出来た時点でもう勝ちなのさ。
M-1でウエストランドが「佐久間さ~ん」言って知ったかお笑いファンが「大丈夫?素人が佐久間さんとか分かる?」と勝手に心配して後日井口にボロクソディスられてたが、それと同じで石ノ森章太郎の萬画版や初代仮面ライダーの藤岡弘、降板前とか見る必要とか全くない。これは庵野秀明監督が好きだった仮面ライダーを自分なりに演じただけの『俺ならこうする仮面ライダー』だから。なので評価とか興行収入とかではなく上映したら勝ち。ゴジラとウルトラマンで仕事したご褒美。特撮がショボいとかそれはわざととかほんとどうでもいい。ショッカーがなんなのかってのも映画鑑賞者の共通意識にショッカーがあればそれすら削ったと思う。
吉岡里帆です!
ポイントアプリってあんじゃないあれって起動に時間かかるから何とかならないの?
それなら昔のカードの会員証の方がまだ素早いと思うんだけど、
あれってポイントアプリのバーコードをハードコピーして画面を保存しておけば良いってものじゃないらしくて時限の期限があるっぽく噂に聞いたところによるとなのよ。
でね、
ポイントカードアプリのインストールされているスマートフォンは
もうかれこれ何年も前の端末なので起動に遅いので、
レジでもたついている人だと思われるのもなんだか悲しいわよね。
だから事前に起動しておくんだけど、
それでもアプリの切り替えとか
今ならお店ごとのアプリもあって会員証もあったりしーの
ポイントカードを次切り替えて二重取り!みたいな店舗もあるじゃない。
もうそうなると面倒くさいからいいです!って言いがち山脈に向かってヤッホー!って叫びたいのよね。
そんなポインツ無視していい範疇の微々たるアンチリツモだと思っていたけど、
結局使える術がなく私はポイントを張り切って日々コツコツと貯めていたのよね。
それもでも過去の私!
映画をこの間観たときにインターネッツのチケット販売の予約の凄いのよ!座席も一緒に指定出来るヤツの今どきの昨今!
それも昔の私!
な、なんとそのポイントカードアプリのポイントが使える映画の予約システムだったの!
キタコレ山脈に向かってヤッホー!って本当に叫んじゃったレヴェルで
私の使い方が分からない期限をもうすぐ迎えるであろうポイントは900ポインツ無駄にならずに
映画鑑賞代として無事ポインツを使うことが出来たのよね。
ここはヤッホーって叫ばないのかよ!ってちゃんと無事に使えてポイント使えてこそヤッホー!って言うのよ!
地味にそうやってテリトリーの箇所に使えたら便利なのよね。
だからiDに移行できるポイントもコツコツと無視できないわーって。
私前書いたかも知れないけど
多分恐らく飛び込み前転で入店したときに落としたと思うんだけど紛失してしまって
って思っていたら65535ポイント!
つまりそのポイントカードが限界に貯められる頂点まで突き詰めていたのよ!
それはいかん!と言うことで
流石にこれは65535ポインツは無駄に出来ない有栖川なので、
今度はちゃんとポケットや鞄の中身が飛び散らないように抑えつつ飛び込み前転!
そんでものの5分ぐらいでポイントカード再発行無事完了で事なきを得たの。
うーん
以後気を付けます!ってセルフお灸を据えてもう二度とポインツカード無くさないように!ってしないとね。
でもさー今回貯めても使い方が分からなかったポイントが映画鑑賞に使えるって発見したことが世界の不思議を解決でインスパイヤザネクスト級に嬉しかったわー!
無駄にせずによかったじゃん!って
まあ今じゃ銀行にお金を預けてもお金が減るぐらいの金利なので、
ポイ活のさ例えば100円で1ポイントの金利1パーとみるなら凄い金利じゃない?って考えるレヴェルの仕組みの経済マクロで考えると
一時期乱立していたとばかりに思っていたポイントサービスとかなんとかペイとかの類いのサービスも
落ち着いてきて使う物が絞られつつあるわよね。
でも
なんとかペイは
ポイントカードの種類のサービスですら4つもあるのってありすぎじゃあい?
ガソリンスタンドとか専用もあるからお店毎に出すぽいとカードが違うくて
ぼんやりノールックでレジを迎えようとしたら寸前で慌てなくてはいけない状況にもなるし、
お買い物するとて油断できないわよね!
レジでモタモタしていたらカッコ悪いと自分は自分自身思うのでスマートに済ませないけれどもこのポイントカードの多さよ!って
これだけ種類が多いってことは
私は映画鑑賞で使いどころが分からなかったポイント使えたからそれはそれでナイスポイント!だったわ!って最後に言っておしまいとしたいわ。
うふふ。
海苔が巻いてあるやつが好きなんだけど、
炊き込みご飯おにぎりとか赤飯おにぎりとかはその手の類いは海苔巻いてないタイプなので
この手のタイプも全てしなしなフランクシナトラ級になってもいいので
でも美味しいから梅~ってね。
炭酸レモンウォーラーにピンクグレープフルーツマジ搾り果汁追加のフレッシュ炭酸レモンピンクグレープフルーツウォーラーね。
グレープフルーツは1つ買ってみたの。
もちろん習慣続けているホッツ緑茶ウォーラーも今朝淹れて水筒に詰めて持って行ってるわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
最近、「働きたくないから生活保護を受けてみた。毎日が豊かになった。」というタイトルのnoteを読んだ。「働きたくない」という理由で生活保護を受給し始めた人の体験談で、労働に追われることのない悠々自適な暮らしを手にいれ、現在は読書を通じて勉強したいことを自由に勉強する日々を送っているという。「現代の高等遊民」ともいうべき生活をしている様子が窺える内容だった。
しかし、ふと疑問に思った。
「どれだけ知識を身につけたところでそれを使って世の中に影響を与えないなら無意味で、いわば"百科事典の下位互換を目指すだけの人生"なのでは?」と。
確かに読書や勉強は世界の見方を変えるとは思う。例えば英語が分からない人生よりは英語が分かる人生の方が読書も映画鑑賞も幅が広がるし、翻訳や吹き替えでしか作品に触れることができない人よりも深い理解や感動が得られるだろう。だから働くつもりがなくても知識を身につけ続けること自体は悪いことではない。
しかし、それでもやっぱり"百科事典の下位互換"を目指しているようにしか思えないのだ。
学んだ知識で(良くか悪くか)世の中に影響を与え、賞賛や批判というフィードバックを受けることが現代人の「生きる実感」なんじゃないだろうか?
noteを読む限りまだ若い人のようなので、この人自身は読書の日々で得られたものが将来何かの仕事に繋がることもあるかもしれないし、仕事ではなくてもSNSで多数のフォロワーに影響を与えるのも「世の中に影響を与える」に当てはまるかもしれない。
ただ、このnoteを見て「ワーキングプアになるくらいなら生活保護」と言っている人が一定数いるのは事実で、その人たちの多くはSNSで多数のフォロワーを抱えるわけでもない、「なんでもないただの無職」になる確率が高いのではないだろうか?いくら労働から解放されて自由に学べたとして、それを発揮する機会のない人生に虚しさを1ミリも感じないほど達観できる人はそれほど多くないと思う。
最近はひろゆきブームもあってカジュアルに語られることが増えた生活保護だが、「働きたくないから生活保護」の人生にはそれなりの苦労があると思う。「耳をすませば」のセリフじゃないけど、「人と違う人生は、それなりにしんどい」というのが現実なんじゃないかな?
デェ学の相談室で初回の面談の時、趣味を聞かれたからそこまで深掘りされなさそうな「映画」と答えた。割と広げられて、そういう自負は全くないけどなんか映画好き青年みたいな認識をされた。
別に訂正するほどの事でもないし、実際息抜きでよく映画も観てるけど、本当は他にもっと大切な趣味がいくつかあった。それは自分の根源的な悩みと人生観に直結する部分だし、カウンセリングでそんな大風呂敷広げてもしょうがないと思ったので言わなかった。
映画鑑賞はあくまで息抜き。その場の気晴らし。人生の芯を為す所ではない。
けど、毎週映画について聴かれるし、感想を言えばリアクションもしてくれるから以前よりよく観るようになった。
漫然と観るのではなく、何を思ったかを頭の中でだけでも言葉にするようになった。しかし常に肩肘は張らず、時にひたすらちょけた映画、時に無名の凡作も観る。
昨日見に行って来た。
封切りから間もないのにもう上映回数が日に2回だけ。人気無いにも程がある。
トーキーが生まれる前、映画館がニコロデオンと呼ばれた時代。業界の好況に浮かれる映画スターと業界人を土台に、その時代イチのスターとしてブラッド・ピット演じるジャック、そのスターの座に駆け上がろうとする新星女優にマーゴット・ロビー演じるネリーが登場する。でも本当の主役は気の優しいメキシコ移民の青年のマヌエル。彼ら3人と映画業界の移り変わりを軸に話は展開して行く。
映画の作りはララランドの雰囲気を踏襲しつつサイケとドラッグとセックス、そして暴力的なシーンと絵作りを加えた感じ。
騒音と静寂。光と影。栄華と失墜。堕落。退廃。二度と戻れない転換点。
映画と音楽への溢れんばかりの愛情を描きつつ、嫌な面の描写が続くので見ていて結構辛い。これが3時間以上続く。
1つ、
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2つ、
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3つ。
ではネタバレの話。
最後は全員幸せは訪れない。ジャックはトーキーの時代の観客に受け入れられず自殺。ネリーも時代の波から溢れ落ち、這い上がろうとするも失敗続きで失踪の挙句に死亡。心優しい青年マヌエルも愛するネリーを助けようと奮闘するも自らの身を滅ぼす事になり、遂にはギャングに命を狙われる。
最後のシーンはLAを命からガラ逃げ出したマヌエルが20年近く経った後に家族と訪れる場面。彼は家族と離れ、1人映画館へと足を運ぶ。スクリーンに映し出される歌と踊り。そこから過去から現在までの様々な映画のシーンが登場する。そして涙するマヌエル。光の三元色の激しい点滅(映画鑑賞前に「てんかんに注意」の説明必要なんじゃないの?これってほど)。そして終劇。
見終わっての感想としては「最後は何じゃこりゃ」。悪いとは言わない。人間模様の描写は悪く無い。業界の退廃具合もこうだったんだろう。でも最後への持って来かたとラストシーンのサイケへの振り具合、酷すぎない?
地上波で流せる内容と尺じゃないのでTVで見る事は無いだろうけど、もう一度サブスクか何かで見るかと言われれば自分は見ない。一度でお腹いっぱい。
今日は用事があったし、そもそも担当もいないから2日目共々、元々現地も配信も申し込んでなかった。帰ってきたらトレンドに担当のユニット曲名があり、確認したらとても解釈違いなことをされたとわかった。
私はデレP(デュンヌ)である。ミリシャニMそれぞれ遊んではみたものの、性に合っているのはデレだけ。765はリアタイでアニメ→映画鑑賞まで。てかそこからデレにいったわけで。
昨年バンナムフェス2ndも楽しかったし、今回の公演も円盤が出たら買うつもりだった。ポプマスも好きだった。ノマカプに抵抗がないので、流れてくる程度の越境漫画は普通に読めてた。
そもそもリアルの女性アイドルオタクなので、お互いの曲をカバーするだの、メンバーシャッフルするだのは特別だし貴重で、大好物。その子が担当した歌割に勝手に意味深なものを感じて考察しちゃったりしてさ。デレのjewelrysも大好き。
でもさ、男が『Tulip』は違くない?
あれって女子が歌うからいいんじゃん。女の子の恋の駆け引きじゃん。ユニセックスな歌詞じゃないよね?
他で例えるなら、『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』を男にカバーされたようなもんだよ?
担当の大事な歌を、只々セクシー全面にしてるキャラに歌われてとても気持ちが悪い。なんでそこ選曲した。別の曲ならこんなこと思わなかったと思うから、そこは私が歪んでるんだろうな。
これまでの人生、腐ってるときも夢女してるときも地雷なんてほぼなかったし、同担拒否なこともなかったから、自分が今こんなにも嫌悪感を抱いてしまったことに戸惑ってる。
普通に既婚者なので男が嫌いってわけでもない。
男女問わずFFの人絶賛してるし、曲名をミュートしちゃったら本来の意味での情報取りこぼしちゃうからやりたくなくて、とりまここに書き捨てる。