はてなキーワード: 旧帝大とは
助手が()付きなのは単独では授業や研究室をもてず、特定の研究室のお手伝いをすることが多い役職だから。場合によっては、単年契約だったり年限付きのパートタイムだったりする場合もある。大学院生がアルバイトでやっていることも多いね。
なお2007年ごろまでは、以下のような順序だった。
「助教授」だと教授の下働きのように思われるので、そうでないことを強調するために、「助教授」→「准教授」という名称に2007年ごろ国の方針で変わった。
現在「助教授」はほとんど存在しないのではないかな。たいてい准教授だと思う。
なお、「助教」という役職が新しく増えたのは、人手不足の中、助手に授業をやらせるためという説を聞いたことあるけれど本当かどうかは知らない。
さてここからが大学の闇なんだけど、大学の専任のポストは非常に限られていて、そのため非常勤であったり年限付きの役職が増えている。
まず、毎年の契約更新という最も弱い立場なのが非常勤講師。特定の授業を受け持つために契約するのだけど、授業の人気がなかったりカリキュラムの変更があったりするとあっさり来年は契約更新ありませんのでと言われる悲しい職階です。
そして、大学が5年間計画などを立てて、独自に予算を確保したり、国からお金をもらって作る年限付きのポストが特任ほげほげという職階です。
特任助教、特任准教授、特任教授。こういう名称は、5年間などの期限のあるプロジェクトのために作られた臨時のポストですから、そのプロジェクトが終わったら職を失うことになる。
その意味で、数年たったら職を失う特任准教授よりも、専任講師や助教の方が安定感と安心感が上みたいな逆転現象も起きてしまう。
だから、色々な大学の非常勤・特任職を渡り歩きながら、なんとか常勤(専任)のポストに潜り込むことが大学系の定番のキャリアパスとなります。
レアケースだけど、私立大学の特任准教授(30代後半)から、国立大学の専任の助教になる人もいます。そのような人はたいてい優秀なので助教→准教授→教授とすぐに昇進するけどね。
もうかなり前です。
留学した当時は,その大学はスポーツ推薦はありませんでした。それが誇りでもあったと聞いたことがありますが,さすがにコンファレンスでいい成績が出ない。僕が帰国してからだったと記憶しますが,スポーツ推薦を始めたようです。
ただし,その大学だけじゃなく,最近バスケットボールで留学した渡邊君も言ってましたが,学期ごとに成績がある基準を下がると試合には出られなくなります。
ですから,そうなりそうな学生は,同級生の中からチューターを雇用して(もちろんお金がかかります),夕食後に図書館などで深夜まで勉強を教えてもらっていました。スポーツができるだけでは卒業はできない仕組みです。
さて,講義レベルのことですが,まず米国の入試では,共通テスト (SAT) 等以外に筆記試験がありません。
つまり日本の一般入試というシステムではなく,日本のAO(今の総合型)入試が,米国入試を真似たシステムです。
そして,共通テストの内容は,日本人の高校3年生が受ければ,多分簡単です。中学校レベルに毛が生えたくらいだと言われることもあります。これは,米国の中等教育の
しかし,SAT の成績がいいから合格するってわけでもありません。MIT も昨年度までは,入試の合否で SAT などのスコアを使っていませんでした。つまり面接や応募書類の中身で合否判定をしていたわけです。
しかしとうとう,今年からだったか MIT も共通テストのスコアを参考にすることになったようです。
秋ごろの日本の全国紙に,ハーバード大学が調査した大学卒業率の記事がありました。
米国の全国大学平均で,卒業率は50%,つまり二人に一人は退学になって卒業できないんです。これが入試に筆記試験が無いからなのかどうかは,記事には書いてありませんでしたが,さすがにハーバード大などの研究型大学の卒業率はもちろん90%を超えます。当たり前です。
さて,そういう事情ですから,例えば米国の研究型大学1年生と,東大の1年生に,東大の理科 I 類の1年生の数学の中の線形代数の試験を受けさえると,東大生が80%は合格するのに対し,米国大学の学生は20%しか合格しないかもしれません。
僕は留学先で,試しに1・2年生を対象とした複素関数の講義の一回目に(ひやかしで)座ってみました。日本の大学の数学の講義よりも丁寧で,分かりやすいです。
ところが60分の講義が終わった途端にひとりの学生が挙手をして質問しました。「先生,この時間内でしょっちゅう出てくる i って何ですか?」です。
日本の大学生なら,文系の学生でもこの発言にはびっくりしますよね。
つまり虚数単位を知らない学生が,世界大学ランキングで東大よりも上位の大学の1年生に,少なくとも一人はいたわけです。
これが,米国の高校までの教育目標と日本のそれが異なることの一例ではないでしょうか。
ところが,例えば工学部3年生以上の講義科目の内容を日米で比較してみましょう。ほぼ同じです。実際僕は,その両方を履修していますから,これは本当のことです。
僕の知人が勤めている日本の旧帝大工学部のある学科は毎年のように優秀な学生で英語で不自由しない3年生を,1年間の交換留学させていて,米国で取得した専門科目の単位を持ち帰ること(読み替えること)が可能でした。
ところが,東大よりもランキング上位の大学に留学した旧帝大学生の成績があまりにも悪いということが数年続いてしまいました。
講義内容は,3年生なら日米ではそんなに違いがありませんが,quarter 制度のあの詰め込み講義と毎週の宿題と,応用問題が出される期末試験でいい成績をおさめられないってわけです。
卒論は,オプションです。やる学生は圧倒的に少ないと感じましたが,これについては統計も何も持っていません。
僕が勤めていた大学では,工学部3年生の応用数学や力学などの一部の講義をすべて英語で実施しています。
これは,交換留学の公式のプログラムに,欧米やアジアの成績がいい3年生が半年か1年留学受け入れがあり,その学生が,日本人に提供している講義を一部だけ全部英語で実施しているものです。
僕の英語があまりにも上手だからでしょうか,日本人の学生には不評な講義でしたが,日本人の学生も80%は70点以上をとります。80点前後にピークが来ます。70点あたり
2024年3月、某大学大学院の修士課程を修了した。2024年4月からは同大学院の博士課程に進学する。
さてここで、折角なので、ここまでの自分の人生を少しだけ振り返ってみようと思う。
俺は、地元の自称進学校の中学校を出て、地元の商業高校に進学した。そこに行った理由は、高校を卒業したらとにかく働きたかったから。
小学校高学年の頃から、家を出たくて仕方がなくて気が狂う寸前だった。そんなんだから生きることに意味なんか見出せなくて、「ちょろっと働いて小金を稼いで、趣味のサッカーをそれなりに楽しみ、さっさと人生畳んでしまおう」というのが中3で進学先を考えていた時の完璧な人生設計だった。
何故そんな設計かと言うと、毎日死にたくて堪らなかったから。今でも少し。本当に、死にたくて堪らなかった。生きてる意味がなかった。ほとんど毎日、親や学校の教員からは理不尽に責められ、侮辱され、殴られた。友人と思っていた人間からも屈辱を受けた。生きてる意味なんてなかった。あるのは親への明確な殺意だとか、大人や友人、社会への怒りだった。大好きなサッカーだけはその感覚を少し忘れさせてくれたけど、それが続くのは90分だけだった。
本当に、死にたくて堪らなかった。今でも少し。生きてる意味なんてなかった。あるのは親への明確な殺意だとか、大人や社会への怒りだった。それは今でも変わらないし、たまに自分の内側から顔を覗かせる。何かがずれていたら新聞の一面を鮮やかに掻っ攫っていただろう。
だから、家を出たかった。サバイブするために絶対に抜け出さなきゃいけなかった。そのために、働いて家を抜け出して1人で生きる金を稼ぐために商業高校に通った。そこなら、高卒で働くのに有利だってって聞いていたから。3年耐えれば良いんだって、少し希望が見えた気がした。
20代後半まで生きてるつもりは想定してなかったし、できなかった。やりたいことなんてあるわけがないから、どうやって生きていけばいいのか、ほとんど分からなかった。
大学進学なんて微塵も興味がなくて自分には関係のない、想像もつかない世界の話だと思っていた。現在通っている大学院が旧帝大と称され、世界で有数の教育・研究機関だなんてマジで知らなかった。
仰々しいかもしれないけど、もう本当に、とにかく目の前の一日を誰にも脅かされずに、心穏やかに慎ましく生きるために必死だった。そんな一日だけが欲しかった。その一日を安定して手に入れて、噛み締めるためには最低限の金が必要だった。
運が良いことに、その高校は自分に合ってて、自分を受け入れてくれる最高に面白い友人達にも恵まれた。バイトもして、稼いだお金は家の外で過ごす時間に充てた。そのおかげで家にいる時間も少しずつ減らすことができるようになってきていた。
さて、こうなると「意外と楽しくなってきたし、もう少し長く人生やろうか」なんて考えそうだが、それでも当初のプランに変更はなかった。心の渇きは潤わず、やり場のない怒りが消えるわけもなく、遅くても30歳で終了だと漠然と考えながら日々の空虚感を味わっていた。
3年間耐えれば全ての苦しみから解放されるはずだと、そんな未来を祈りながら高校時代の生活をサバイブしていた。高校はマジで毎日が楽しくて仕方がなくて、今更すぎるけど本当に関係者に超感謝してる。
そしてどうしてか、家を出て関東の大学に4年間通うことになり、入ったゼミで最高の恩師と先輩・友人・後輩に出会ってしまった。
毎日が楽しくて仕方なくて、自分の居場所が少し見つかってしまった。自分が役立てる瞬間だとか、できることに気がつく瞬間にどんどん遭遇してしまった。ここでも人間に恵まれてしまい、人生を取り戻したいモードに心が傾いてしまった。大学時代の出会いは、本当に、人生が変わってしまうほどのものだった。感謝してもしきれない。
本当に、大学生の時は明日が来るのが全く怖くなかった。何なら楽しみで仕方がなかった。高校生までは、あんなに嫌で堪らなかったのに。眠っている時間と学校にいる時間のみが心の安寧が保たれる時間であることに心底腹が立ちながら、勘弁してくれよって思いながら、そのまま一生起き上がらないことを祈りながら床についてたのに。
働いてさっさと死ぬつもりが、気がついたら大学院まで行き、修士を修めていた。今は博士になろうとしている。こんな人間が大学院に進学しているなんて、人生はわからない。本当に運が良くて、人に恵まれたと思う。
といった感じで、俺はこんな人生を送ってきた。
俺について、周りの友人からは「よく分からない人間だ」と言われることが多い。
自分のことを基本的に話さないから当然だ。こんなことは話せないし、話すのが怖くて堪らない。話したところで何かが変わるわけでもないし誰も助けてくれないから、自分で解決しなきゃいけないことだから、話す必要がないと思っていた。話してはいけないとも思っていた。それに、それでここまで上手く立ち回ってこれた。
けど、人に自分のことを話せないって超辛いんだなって最近理解できた。
俺は、自分のことを誰かに理解してほしかった。「君は悪くない」と誰かに言ってほしかった。
そんなことは人に伝えられないから、自分はタフで強いんだと言い聞かせて、そうあらねばならないと思っていた。自分1人で生きていけるように振る舞い、悩みを隠してなるべく人に頼らず生きていた。そのせいで「悩みがなさそう」とよく言われる。そんなことはない。
大学院まで進学して、完璧に強い奴はどこにもいないんだと気づいた。周りにその強さを求めていたけど、そんなの無理なんだって気がついた。自分が一番苦しい思いをしているって驕りがどこかにあった。そんなことなくて、何かしらの傷を皆が抱えていて、それでも必死に生きているんだと気がついた。反省した。そう思うと同時に、少し心が軽くなった。
今、少しずつ自分を大事にして、心が充電されてきている。ようやく失った人生を取り戻せるところに来ている気がする。
博士課程に進学が決まり、少なくともあと3年間は生きてることが確定した。残りの人生設計はこれから考える。それくらいがちょうどいい。多くは望まないから、俺はそれで良いんだ。
防衛大は入った時点で自衛隊に就職できることがほぼ確定している。
同じように、旧帝大の学生は入学した時点で公務員(準公務員も含む)になれることはほぼ確定。
みたいな感じにしてやったらいいと思うんだけどどう?
県庁の総合職、技術職、(もうちょい待遇を上げた上で)国公立小中学校・高校の教員、国公立図書館司書、国公立美術館・博物館の学芸員など
これらには、よほど成績が悪かったり素行が悪かったりしない限りほぼ確実になれる。
旧帝大に入れる時点でそれなりに性格も真面目で地頭もいいだろうから、仕事は務まると思う。
もちろん公務員になるには旧帝大じゃなきゃいけないってわけではなくて、他大卒用の採用枠は用意する。
あと旧帝大に入ったら絶対公務員にならなきゃいけないわけでもなく、民間就職したければしてもよい。
いや、なんというか、
能力的には申し分ないんだから、さっさと国が雇って、国のために働かせればええやん。
芋っぽくて大人しいけど真面目で優秀な彼らには公共の仕事がうってつけでしょ。
なにSPIで小学生レベルの算数解かせてんねん。コミュ力とか容姿で落として自信失わせてんねん。
嘘のエントリーシート書かすな。
そんで「就職できなかったらどうしよう・・・」ってビクビクさせるんだろ?
あと、優秀層の囲い込みという意味もある。
旧帝大でも垢抜けていてコミュ力抜群なやつはいるけど、結局、そういう層は外資に取られてんじゃん(特に東大)。
外資に取られるくらいなら、日本で公務員やってくれた方が良くない?
大学で研究して新技術を開発したり、歴史・文化の保護をしたり、地域のために働いたり、子どもの教育に携わったり、
そうしてくれた方が良くないか?
学歴社会叩きとか公務員叩きとかあるけど、そんなの全部嫉妬じゃん。
ちゃんと社会全体で優秀なやつを持ち上げて(上手いことおだてて)、安心して活躍してもらった方がええに決まってるやん。
変に引き摺り下ろそうとするから、民衆に敵意を抱いたり、自分の利益しか考えなくなったりするんや。
旧帝大生の人生を保証してあげることで、安心して国の発展のために働いてもらう。
だと思うんだけど、どう?
【追記】
別に低学歴をいじめろとか一言も言ってないのに、みんな意地悪やな。
在野研究者として生きるということーお金についての真面目な話 | 磯野真穂ブログ
「在野研究者として生きるということ」を読んだので自分の経歴を振り返って感じたところを書いてみる。40代のおっさんの自分語り。
地方私立大学の理系に入学したが、単位が壊滅的に取れなかった。また理系に進学したのは就職率が良いから、というだけの理由だった。そのため元から興味のあった分野を学びたいと、卒業を待たずに地方公立大学の文系学部に転学し、言語学を学んだ。
良い師に恵まれ良い学びを得たが、地方公立大学の就職は壊滅的に悪かった。同じ学部の卒業生の就職先は地方のよく知らない会社(その地方に住んでいた親戚でも知らないようだった)か、当時有名だったブラック企業しかなかった。
これはまずいぞ、と思って大学院進学を決めた。だけど学部の新卒カードを使わない手はないと思ったので就職活動もしてみた。全国区のマスコミの二次面接とか最終面接まで進んだぐらいで、大学院進学を蹴るほど行きたい企業からの内定はもらえなかった。同級生と話したら、彼ら彼女らは全国区の企業を受けるという発想が無かったり、都市部の学生よりも明らかに就職活動開始時期が遅かった。場数を踏んだ方が有利になる、と思っていた自分はひどく驚いたのを覚えている。
就職活動で知り合った友人に『貧乏父さん金持ち父さん』を勧められて読んだ。資本家のために働くのは嫌だな、と思った。友人もそう思ったのか、彼は起業して成功し、資本家になった。
閑話休題。大学院については学部の師の退職も近かったし、そのまま上に進んでも就職は有利にならないだろうと考え、別の大学に行くことにした。なんとなくどこかには行けるだろうという気がしていたので焦らなかった。でも、旧帝国大学の大学院に受かったときはうれしかった。そこに進んだ。
そこでも良い師に出会い、厳しく指導を受けた。人文科学を学ぶ者は哲学も学ぶべし、との方針の下、マルクス『資本論』なども読んだ。やっぱり資本家のために働くのは嫌だな、と思った。『貧乏父さん金持ち父さん』は『資本論』の焼き直しだとも思った。
別の教員からは「国立大学の学生は私立大学の学費と比べたらわかる通り、毎年数十万円の補助を国からもらっている。そのお金を出すだけの価値があなたの研究にあるかどうか、考えなさい」と言われた。修士ではその言葉を肝に銘じて研究をしたつもりではある。
ある日、大学院の師から「研究者に向いていないと思う」と言われた。あっさりと、そうなのかな、と思ってしまったので、そうなのだろうと思う。アウトプットが下手な自覚はあった。研究者としては致命的である。別の教授からは夕食を奢られて「博士に進学した方がいい」と言われた。でも、就職については「運だね」とも言われたので、決意は揺るがなかった。
大学院時代の就職活動の結果、インフラ関係の会社からと、その旧帝大の事務職から内定をもらった。インプットは嫌いではなかったので、給料がそこそこよくて地方勤務のある前者より、給料は月並みでも図書館等の設備があって都市部にアクセスしやすい後者を選んだ。学部時代の経験で、地方より都市部の方が学問しやすそうな気がしていた。
アカデミアから抜けて後悔はないかと言われたら、少しは後悔はある。明らかに自分より勉強もしていないし、年間数十万の価値がある研究をしていたと思えない先輩、後輩、同級生らが大学教員になっているのを見ると、もやもやはする。彼ら研究が少なくとも私学助成金分に値するのか疑問に思うことだってある。だけど独立系大学院の悲しさか、教員としての就職状況は良くない。MARCH以上のレベルの大学に教員として採用された例はほとんど知らず、知る範囲では数十年で2人しかいない。経営状況もあまりよくなさそうな大学で語学教育とやらを看板にして語学を教えるのは大変だと思う。それでも教育や研究ができて幸せならそれでいい。好きなことを仕事にできるのは幸運だからだ。私には、そこまでの熱意はなかった。
大学院に行ってよかったかといえばよかったと答えるし、就職してよかったかと言われたらよかったと答える。大学院に行ってよかったことは、学んだ分、世の中を見るときの精度が高くなったことだ。認識論、経験論、存在論などいろんな考え方があるし、新自由主義や社会民主主義など、さまざまな主義主張がある。世の中の人たちの考え方をとらえる力はついたと思う。アカデミアに残らず、安定を取って就職したが、私の能力だと生涯賃金は今の選択肢のほうが多かったと思う。
仕事をしながらアウトプットを続けて、専門とは少し違う分野ではあるが財や研究者として、本の一章も書かせてもらった。仕事では出世コースからは外れてしまったが結婚もして子どももいる。幸せだ。アカデミアに絞らなくても幸せは手に入れられる。