はてなキーワード: 日本語教育とは
黒人と付き合ってるネーチャンの例を上げれば普通にそのへんでも英会話ぐらいはやってる。
英文法を正確にって話しになると難しいけど、日常会話を普通にって話なら難しくないんだよね。
なぜならば、多少違っていても相手は聞き取ってくれるから。Give me a chocolate といおうと take me a chocolate といおうと
I want chocolateといおうと chocolate!chocolate!と言おうとw
どれでも通じるからねぇ。aがついてねーとか動詞はこれだとか、そういう話はあまりでないからねぇ。
日本人は うまく話そう、正確に話そうとするあまり、話そうとすることを教えないのが最悪の教育と昔から言われているとおり。
相手も人間だから、話そうと思えば通じるし あとは、練習をするだけなんだけどね。
話すことにモチベーションがなければ、話さない。
つまり、日本語教育の英語のモチベーションは受験だけってのが最悪。もっと 英語を使うことに対するモチベーションを持たせる教育にしないと
日常で使うわけなかろと。
いや、教育と分離した「国語学」なんて存在し得ないんですって。
例えば「文法」ってのも国語学では扱うけれど、言語学において「文法的に間違ってる」って言葉はありえないんですよ。
ところが、国語学っていうのは「文法的な正しさ」、文学・文法・言語における「聖典」を構築する学派なんですよ。
いわゆる、モダンからポストモダンの移行期に「文学」と言われるジャンルが分派して
保守層が国語学へ移行していった。国語学には教育分野からの要請が強くあるからね。正しい日本語がなければ日本語教育は出来ない。
だから、国文学っていうのは教育・アカデミズムなしでは存在し得ないジャンルだし、保守こそが存在意義。
それなしで存在している国文学があったら、それは「国文学」ではないです。単なる文学研究です。
そういう学問だから「国文学」とジャンル分けされてるわけで。増田さんのおっしゃるとおりであれば、ジャンルわけいらないでしょ?
国語学・国文学と言語学・文学の関係は、神学と宗教学、考古学と文化人類学のそれなんですよ。
ほんと、いい加減なこと言うなぁ・・・。
ちなみに、「日本語学」は「言語学として日本語に特化した領域を取り扱う」という意味を指す場合もあります。
「国語学」は国の言葉を正しく構築する(ポストモダンの現代では「理解する」といった語彙は使われません)学問です。
昔、ソシュール辺りの構造主義ショックがあったころ学者さんたちが散々大喧嘩して決めた住み分けですよ。
イデオロギーであることを自覚しながら必要に迫られて存在するのが国語学。イデオロギーから抜け出すことを志向したのが言語学。
これ重要。
1.今回の暗黙の前提となっているのはネイティブ<>非ネイティブ対立構造軸。
英語教育問題になると非ネイティブ間での共通言語の問題と議論の途中で混同されるがそれをするのはすくなくとも
対ネイティブへの利用を前提とした議論の中で用いるのは不適。
2.日本における言語教育では米語でもなく英語でもなく豪語でもなく日本における教育に適した日本英語を創作している。
非ネイティブ間での利用を前提とするならこれでいいがもし対ネイティブ(特に英国?)を考えるなら
http://anond.hatelabo.jp/20100621020930
このあたりの噂も含め英語を教えるべきか?(結局これは日本における英語教育をどのようにするかという根本議論になる)
3.自分は現状では現在の日本語教育に不満を持っていない。理由としては主として英語を利用する機会が読み書きのみだからである。
4.ただし大学の専門課程以上では今後英語による教育に移行すべきかもしれない。というのも専門課程を日本語で教育されると
さらに後、研究室配属以降の段階で再度その用語の該当英単語を学習しなおす必要があるからである。
5.英語が共通語になったのってホントに無敵艦隊が敗れたことが理由か?少なくとも明治の開国前後の日本人は英語以外の言語を主として学習してたって話を聞いたことある気がするが。
6.この議論の流れどこかで読んだなと思ったらhttp://blog.tatsuru.com/2010/05/12_1857.php
だった。
そんなのはその人の祖国によって千差万別だよ。
>そのとき、お前は、一個人としてアメリカが日本に有利な政策を採るようにわざわざ活動すると思うか?そもそも、そんなことは現実的に可能だと思うか?せいぜいが、日米の友好を目指す政治家に一票を入れて満足するのが限度だろう。
そう?たとえば日本人拉致に荷担した北朝鮮の工作員の半分近くが日本生まれなのは知られた話でしょ。朝鮮学校の中でも特に優秀なエリートだったわけだし。北朝鮮に行って現地の連中に日本語教育とかしてた奴も居たし。
それに一時期、日本にはスパイ防止法が無いからCIAだのMI6だのが大手を振って歩いてるとか言い張ってた人もゴロゴロ居たでしょ。多分今も居るんじゃないかな。
>つかね、結論ありきで抽象的に考えるせいで、話がおかしくなる。個々の外国人なんて、自分の人生を生きるだけで精一杯。国政を左右するほどの勢力なんて築こうとも築けるとも思っていないだろう。数人で意見を束ねるのだけでも大変なのに、政治を左右するほどの勢力を築くのなんてもっと大変だろう。
別にそれほど大変でもないけどね。何せこっちは「遠く離れた土地で同じ祖国を持つ者同士」って共通したアイデンティティあるから。だから朝鮮総連とか民団とか何十年も存続してるし、日本の国会議員におべっかを使わせる程度の影響力は持ってるし。在○○県人会みたいなのだって日本人もあちこちの国で作ってるでしょ。
自分の生活を守るためには徒党を組むのが一番だよ。
>頑張りに頑張って地方議会に一人自分達の代表を送り込んだとしても、議会は多数決で決まるんだから、母国のために便宜を図れとか議案を出しても、そんなことはどうでも良い他の議員に圧倒的大差で負けておしまいだ。つまりは、議会なんて過半数をとるくらいに勢力を拡大して初めて意味が出てくるもんだからな。(しかも、議会で多数をとって議決しても、外国にただ便宜をはかるような行為は法律上許されないから、裁判所に止められて終わりだが)
そりゃないわー。
今の日本の政権とか見てたら分かるでしょ。郵政なんたらとか、政党支持率1パーセントも無いような国民新党が重要法案をごり押し出来ちゃってるじゃん。衆参併せてたった5人の党だよ?
最大勢力が過半数維持に汲々としてるような状況だと、ほんの数議席の勢力でも容易に状況を引っかき回せるよ。外国人参政権に必死になってる連中もそれが目当てだし。
>ついでに、帰化人とかを選ぶのは、自分の立場に理解のある人間に政治家になって貰いたいから、そして議会で自分達の意見を代弁して欲しいからであって、いちいち母国への便宜を図って欲しいとか思ってないだろ。そもそも、地方自治体レベルの議員一人には、予算を動かす権力なんてありはしないんだから、期待する意味すら疑わしいし。
でも帰化人は前半でも書いたように、彼らが自分達の生活を守るために組んだ徒党の出身者とか普通にいるし、そういったある程度まとまった人数の組織的な支持とか支援があるから議員になれている面もある。生粋の日本人じゃなくてそういうバックグラウンドを持ってる人間をわざわざ敢えて投票するって事は、つまりはそういう事だととらえて良いと思うけど?
なんか全体的に俺らの力をやたらと矮小化したがってるように見えるけど、それこそ生粋の日本人が帰化人を下に見ているようで気分が悪い。たかが虫けらに何が出来る?みたいな論法で。
外国語を学習する理由、動機を高める学習法という考え方でまとめてみる
(語学学習サイト個人的リンクメモ / Lists of Language Learning Links)
根本的な面ではオタクはマニア・学者と略同一で、年齢的、 一般的基準として外れている物を趣味とする人をオタクと呼ぶだけであり、 明確な差は見受けられない。
が、自身をマニアと呼称して、オタクとの同一視を拒絶する者もいる。「マニア」と認識していても、より限定された対象の「マニア」やそのジャンルに全く興味の無い者から見れば「オタク」として捉えられることもある。近年のオタク概念の汎用から、従来はマニアとされた区分とおたくの同一視(広義のオタク)も発生している。
オタク以前にも、何か特定の物に執着して、生活を省みない人は存在した。これらはマニアと呼ばれている。ただ、マニアがその原義において、ある特定方向にのみ情熱を持って接するのに対し、オタクは「オタク市場向け製品」が様々な分野・ジャンルにまたがりながら、一定の属性によって区分されるように、ある特定範疇にある対象群に慣れ親しむという、やや曖昧な嗜好対象となっていることが多々ある。
学術的な専門家とオタクとの違いは、前者は知識を世のために活かすことを目的とするのに対し、オタクは知的満足・収集的満足・同じ志向のオタクとの交流・共感による寛ぎ・安らぎに留まる点である。強いてあげる学者とマニアとの差は、後者はジャンル全般における体系的知識が欠けていても特に問題としない点である。
オタクであることによる副作用が、世間一般から「不健全」であると誤認される。オーディオマニアや釣り馬鹿(→釣りバカ日誌・釣りキチ三平)などのような既存の「マニア」という区分が、一般にとって文化性の高い・あるいは健全な(ただし行き過ぎた)趣味にもみなされるのに対し、オタク傾向が社会的に拒否感を被りやすいのは否定できない。
勘違いして欲しくないのは、別にWikipediaにこう書かれているからといって、この定義が正しいと主張したいわけではない。
ただ、以下、僕はこの定義で「オタク」と「マニア」について話をするという、表明。
「マニア」自称するなら知識は必要で、「オタ」は姿勢だから知識関係ないとか言っている奴いるけど、何なの。
親切心から言っているのかも知れないけれど、オタとマニアを勘違いしてるでしょ。
マニアは一般的基準の範疇内、オタは範疇外ってだけなのに。
大体、オタクな時点で、一般的基準の範疇外の物に熱狂したはみ出し者なんだから、マナーだの配慮だの初心者への優しさだの言う方がおかしいでしょ。
そういうのもわからないで、オタ名乗ってんじゃねーよ。
それでいて自分の定義で「オタク」と「マニア」を規定して、それに合わない奴を見下して優越感に浸りたいなら、オタなんて向いてないから。
テレビや雑誌に普通の生活なんて出てないと思うから、ごくありふれてメディア取り上げられない普通の生活すればいいと思うよ。
というわけで、自己定義を示した上で語るのは勝手だが、その自己定義を他人に押し付けるのは間違い。
まだ学生さんかな?
たとえば俺が「オタクは人間ではない」と定義したとして、「うわ、あいつオタクのくせに人間名乗ってやがる」なんてのは通用しない。
論理として通用しないのではなく、俺が定義した「オタク」「人間」という意味とは全く別の意味で、「あいつ」は「オタク」「人間」という言葉を使っているから。
同様に、「なんとかオタなら絶対押さえておくべき」と言っている奴が、どういう定義で「オタ」という言葉を使っているのかわからないのであれば、「『なんとかオタなら絶対押さえておくべき』というのは間違い」というのは間違い。
君がどんなに「オタなのに知識を押さえておくとかおかしい」と主張したところで、相手は「オタク」と「マニア」をWikipediaにあるような、同列の者としての意味で使っているのかも知れない。
と、ここまで語ればわかるように、各人が勝手に自己定義をした言葉で語り始めたら、収集がつかなくなる。
そのために、辞書や百科事典があり、我々は日本語教育を受けるわけである。
君がどういう意味で「オタ」という言葉を使おうと勝手だが、使う前に、それが一般的なのかどうか、また相手も自分と同じ意味で使っているのかどうかを、よく考えた方が良いと思うよ。
なるほど。数日の議論を読んでみて、水村本の目次を確認してみると、否定派および肯定派がそれぞれの立場に別れた理由が少しわかっってきた。
目次・水村美苗『日本語が亡びるとき』http://books.yahoo.co.jp/book_detail/32157995/
2章 パリでの話
なるほど。本で第4章以降を読んだ人からは、もう知ってるよという反応や具体的提案についての否定的コメントが出てくるのも頷ける。日本語とか英語とかあるいは語学教育とかについて何か語りたくなる人も現れるだろうし、反対に、多文化主義的な観点からのコメントも出てくるだろう。
わたしなどは、8月に読んだからでもあるが、むしろ第1章がとてもおもしく感じられた(そりゃあだって、理論的な解決がこの本にあると思って読む人なんているだろうか。水村さん作品に親しんでいる人はもちろんそんなこと思わないだろうし、煽った人たちの力点もそこにないだろう)。
おそらく、
柄谷周辺の論者の問題意識に沿って書いた議論の向かう先・解決策を期待してこの本を手に取るか、あるいは、「アイオワの青い空の下で「自分たちの言葉」で書く人々」と交流しながら問題の所在を発見するというその出発点に着目するか、これにより、この本の評価はかなり分かれるのではないか。
多分、梅田さんがこの本について語りたくなったのも、水村さんがアイオワで様々な国からやってきた文学者と触れあう内に、日本や日本語についての問題に近づいていったというプロセスを、梅田さんの場合であればシリコンバレーでの経験になるかと思うが、この本を読みながら追体験し共感したからのではないか、とわたしは思った。
第1章のところだが、アイオワに各国の作家とともに招かれて出会った内の一人が、若いころロシア娘と恋に落ちたりもしたことがありその頃学んだロシア語を用いて盆栽に詳しいリトアニアの青年と会話のできるモンゴルの老詩人で、何かの時に水村が老詩人に向かって“You are an important person”といったときに、英語が苦手なのでたどたどしいながらもゆっくりと静かに“Everbody is important”と答える場面やそのほかの場面は、外のものに触れることでいくつかのばらばらの点が繋がり問題が自分のものとして感じられるプロセスとして見ることができ、さすがにマドル・スルーというようなものではないが、問題を自分のものとして受け止める過程はそれなりに緊張し疲れるのだが充実した読書だった。
そういうことが問題となってるのはずっと昔から知っているよ、何この話、古くさい、というのは十分あり得る反応だろう。ただ、問題の所在を個々人がそれぞれ理解するというのはそれとは独立に重要なことだろう。もちろん、この本とは別の入り口でも全然かまわないのだが。
そういう意味では、今回の騒ぎをきっかけに、こういう問題があるんだあ、と思った人にとっては水村さんの本は一つの入り口として悪いものではないと思う。
別の話。
http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20081109/p2
話は少しそれるが、これを読んで、まず、「あたし彼女」読もうと思った。
もうひとつ思ったのは、
『新潮』9月号に載った前半部読んだ感想としちゃ、読めたもんじゃないよ。
何の説明もなく日本の文学は一人で幼稚なものになっていっていたと断じている作家が、この『ひとり』をひらがなに開く言語センスすら持ち合わせない作家が、<叡智を求める人>は今の日本文学など読まないなどとぬかしているのだよ。
という記述について。この方の水村本の理解からはそのように読めるし、きっと正しいだろうと思う。
ただ、もうひとつの可能性もあるのではないかとわたしは考えた。(いま新潮および本が手元にないので原文を確認することができない。「一人で」あるいは「ひとりで」が本のどのような箇所でどれくらい用いられれているか確認しないままではあるが、Thscさんの指摘にインスピレーションを受けてわたしの理解を書いてみることにする。)
Thscさんの主張はおそらくこうだろう。
という文の「一人で」は、「おのずから(自ずから)」あるいは「ひとりで勝手に」というニュアンスで用いられていると理解できる。そうであれば、「ひとりで」とひらがなで表記するべきであろう、と。
しかし、もしかすると別の考え方もあるのではないか。
「一人で」と漢字で表記するという点に固有の意味を見ようとするならば、日本語が「ひとりで勝手に」幼稚なものとなっていった、という理解とは別の理解でこの文を読まなければならない。その理解とはこうだ。
水村の議論全体をふまえると、水村は「言語というものは孤立すると衰退する」と考えているのではないだろうか。言語は「一人」になると衰退する。
このようなニュアンスを込めて、ひらがなにせず、あえて漢字を用いて「一人で」と表記したと考えることはできないだろうか。ここではそのような理解の可能性を指摘してみよう(もちろんこれはまだ単なる思いつきの段階であり、実際には、本文で語が使用されている箇所を逐一チェックしていく必要がある)。
ただし、このように考えたとしても、それならば違った書き方をするはずだ、等の疑問は当然に出てくるだろうし、結局のところは、Thscさんの理解が穏当なところだろうとわたしも思う。
別の可能性を指摘しただけでは水村さんが確信犯で「一人で」を用いたことの立証にはならないし、ひらがなか漢字かの選択だけでこのような微細な部分をオミットするのは文章家として正しい態度ではないのだから、いずれにせよ批判されても仕方のないところだろう。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1
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日本人は人も国も冷めているのが多いですね。
とりあえずくだらない日本語の延命措置の方法を考えてみました。
●少子化を解決する
(今の政治では無理です。)
(国は文化にお金をかけたがりません。)
●再び経済強国になる
(経済的にメリットがあれば外国の方も積極的に学んでくれたがもう無理っぽいですね。80年代はオーストラリアとかも日本語教育に熱心だったけど最近は閑古鳥。大連などオフショアリング拠点や東南アジアからの移民受け入れがせいぜい。)
●文化的に魅力的になる
(円安とともにビジットジャパン計画はとりあえず成功したがそこから日本語普及へは壁が高い。それに国や地域を挙げて文化を守るという意識は低い。)
●文化を積極的に輸出する
(日本文学の翻訳は英語圏では圧倒的に減った、日本文化に精通した外国人が減ったともいえる。例外なのがフランス。日本食は健康ブームに乗って広まったがそれが言語普及へとはつながらない。)
●ジャパニーズポップカルチャーを好きになったついでに日本語を覚えてもらう。
(これが一番可能性がある?幸いアニメがハリウッドに次ぐくらい世界中に広まっていますし、ビジュアル系も一時欧州などで人気もありました。
ポップカルチャーに日本語教材を拡充してアニメの世界だけでもコミュニケーションを日本語にしてしまうとかニッチな世界で日本語をグローバル言語にする野望。)
(どこかの学者が日本語を覚えると頭が良くなるとか平和な考えになるとかの学説を発表し、DSなんかで「脳を鍛える日本語トレーニング」とかいうソフトを流行らせる。)
とりあえず最近の日本人は海外に出る人も少なくなっていると聞くし、外国からの訪問者にもかなり厳しい。
多分そう。
本人からしたら、「ハア? そんなどうでもいいこと何言ってるの?」
って感じで、間違ってるとは思わないみたい。選択肢がたくさんある中のAかBかで、どっちかを選んだだけというか。
全然????って書いたら、「ない」が来るのが正解だって分かると思うんだけど、「ある」って書いても別に気にならない、って感じみたい。こっちとしては正解があってそれが来てないのが実に気持ち悪い…。
あと年代でいえば25歳以下の人は、学校の日本語教育がおかしかったみたいで
慣用句とか、主観・客観とか全然理解できてない人がいる。言っても意味が分からないみたい。
(一見普通な文章は書けるんだけど、れる・られるとか、主語が誰かという統一性を取るとかができない。説明すると小難しく感じるんだけど、日常的に誰でもできてる言葉遣いなんだよねえ)