はてなキーワード: 新人類とは
年々、発達障害とされる人々は増えている。
以下、発達障害者を発達と略す。
あと、ここでは「発達障害は障害ではない」とか「スペクトラムの問題だから」みたいなことは扱わない。そんなこと言われても現実にあってないし何の慰めにも奮起にもならない発達は多いだろ。昔は発達にも居場所があったみたいな話も同じく。ただの社会的隔離を美化してる場合がある。
なんで発達が増えてるのか、医者と、教師の知り合いに聞いてみたことがある。それぞれの考えは違っていた。
ある中年男性の医師は、一般生活に求められる技術や社会性のハードルが上がり過ぎたから、と言っていた。つまり殆どは外部の、要因だと。
教師は、ちょっと違ったことを言っていた。後天的な要素もあるけど、それに反応してしまうトリガーについては常に先天的にあるだろうし、それには確かに遺伝があるのでは、みたいな事を言っていた。
上の意見は参考意見として、俺が言いたいのは、発達は新人類じゃないかってこと。そしてそれをめちゃくちゃに、クソみたいに、バカみたいに誇って良いんじゃないかってこと。
クソとかバカとか書いたのは、図書館とかにある上品な福祉本みたいな生やさしい肯定ではなく、社会に敵対したりキモがられたり腫れ物にされたりする存在なのを本格的に誇るために。
「発達」「アスペ」「コミュ障」・・・言葉や名前が付けられたと思ったら、すぐにそこいら中で蔑称となって蔑視が広まってる。
アスペルガーの時も、ほんの少しの間にアスペ、アスペ、アスペ。「アスペを採用しないようにはどうする?」「彼氏がアスペかも!」「アスペは犯罪気質がある!」みたいな記事だらけになった。
今度ネット上で流行ってた「ケーキが切れない」とやらもそうなりつつある。そして社会は発達障害と向き合うことなく、排除と嘲笑と腫れ物扱いのやり方だけ上手になるんだよな。
これまで、発達はそれぞれ一人一人の苦しみのなかで閉じ込んでしまっていたり、自助グループみたいなのに繋がっても「定型の、現行の社会」に矯正されるための監視された自助みたいなことしか出来なかった。
CPの人たちは「青い芝の会」という戦闘的な障害者活動をしてたし、なんなら同性愛者もラディフェミも色々やってる。発達もそろそろ似たやり方をとるべきなんじゃねえか。
発達は、よく「挨拶や謝罪の形式みたいな社会的マナーや文化が備わってない」と言われる。いいじゃん。新しい文化作ろうよ。今まで現れてきた色々な文化もマナーも、「新しく」作られた瞬間はあるんだろ。発達もそれなんだよ。それが見れて嬉しいだろ。学者は心配してないで、これについて論文書けよ。
カサンドラがどうとか「発達は身近な人を傷つける」とか騒ぐやつもいる。いいじゃん。俺たちは新しい人間関係のモデルを今作ってんだよ。なんでパートナーが発達だって分かった瞬間「答えが得られた」気になってんだよ。相手が発達じゃないなら「傷つき度25」で発達なら「傷つき度100」なのかよ。
でも、個人的な人間関係ばかりやっても限界があるし根本的な問題は解決しない。もっと根幹に切り込もう。
発達障害手帳の効果が他の手帳よりかなり少ないよな。役所にみんなで乗り込んで訴えようぜ。
発達は税金関連の処理が苦手だよな。税務署を占拠して「もっと簡単にしろ、発達の税金軽くしろ」って示威しなきゃだめだ。
「ケーキの切れない」とかなんとかで有名になって、発達がかなり牢屋に入れられてる事が分かったじゃん。それでそんな記事みて「なるほどな」って思ってるだけなの?刑務所を取り囲むべきだろ。発達を社会に返せって。社会が発達と直接向き合って新しい文化を作る機会を奪ってるって。
少数民族レベルでも自治権を得て、これから増えていく発達の数に見あった土地を得るべきでは?
強めに書いてきたけど。
発達が増えてるとかいう情報に触れて、発達自身が何で卑下しなきゃいけないのか?それに腫れ物ともキモがりともつかない態度で接する社会ってなんなの?その社会は必要な社会なの?って事なんだよな。
そしてそれは、発達が、ホモ・サピエンスの新しい形みたいなこと、そういうレベルにしないと、説明がつかない。ホモ・ハッタツトゥス。
俺は定型社会こそぶっ壊れるべきだと思うから、どんどん発達障害の社員が面接をすり抜けて会社の「慣習やマナー」を滅茶苦茶にすればいいと思うし、どんどんキモいコミュ障が「正しいコミュニケーション」を破壊してくれればいいと思ってるよ。発達と定型社会の対立軸が揃いつつある今、根本から発達障害者とされた人々が社会を問うていく必要がある。
発達は新しい人間だ。発達も、アスペも、コミュ障も、「青い芝の会」をやろう。CPがバスを占拠した様に、発達も社会を占拠しよう。「不自然」を「自然」にしよう、というかそんな言葉を辞書から消そう。
コロナ軽症者はコロナ重症者を隔離しつつ、新人類として新しい社会、新しい資本主義を形成しつつあった
初出はニュータイプのほうが新人類より先。しかもその時の「新人類」のルビは「ニュータイプ」
「新人類」を最初に「新しいタイプの若者」の意味で使ったのは、確認できる範囲では『月刊ACROSS』1983年6月号(パルコ出版)の特集記事「今、新人類(ニュータイプ)たちが時代を先導する」です。この記事を企画・執筆した同誌の元編集者に直接聞いたところ、「新人類」と名づけたのはその本人で、参考としたのはSF作品や『機動戦士ガンダム』に出てくる「ニュータイプ」だったそうです。「新人類」に「ニュータイプ」とルビが打ってあったのもそのためです。そして、この記事で「新人類」の代表的存在として記事の冒頭で取り上げられていたのは、当時14歳の女流棋士として注目されていた林葉直子さんでした。
https://news.yahoo.co.jp/byline/soichiromatsutani/20160331-00056069
あの「ミレニアル世代ガー」とか」「Z世代ガー」とかいうアレのことなんですけどね。
ああいうの、昔っから散々やってましたよ。「宇宙船地球号」とか。もう全然聞かなくなりましたけど。
「若い世代の環境意識が高い」みたいなのも、まあ全くのウソではないんでしょう。
でもそこで彼らを持ち上げて、隙あらば「目覚めた彼らvsいまだ目覚めぬおっさん」の図式にしたがるのが、まあなんとも汚えなあって思うわけです。
というかぶっちゃけキモいんですよ。「最近の若者は」みたいなのと表裏一体のキモさ。
だいたい「彼らが環境問題とかああいうのに比較的熱心な理由」なんて、皆さんわかってますよね?
上の世代に比べれば、彼らはまだまだカネもステータスも持ち合わせてない。将来だってわかったものじゃない。
承認欲求と暇だけは有り余っていても、それをどうしていいやらわからない。
そんなお年頃にちょいと背伸びをするのにちょうどいい話題があの手のアレってことぐらい、もうみんな知ってるでしょうが。
マウント取るためのネタが環境かジェンダーか、あるいは共産主義か反戦フォークか、せいぜいその程度の違いしかない。
だからその目覚めた彼らにしたって、大半はそのうちまた目ぇつぶっちゃうんです。環境やらジェンダーやらより、自分のカネや子育ての方が優先になるから。
かつての若者も、学生運動にあれだけ血道を上げながら、ブームが去るやしれっとサラリーマン生活に順応していったらしいですが、アレと全く同じ。
いつまでも昔のオモチャで遊んでいるのはよほどの暇人か、あとはブクマカや活動家ぐらいのもんです。気持ち悪いオタクのやることなんですよ。
私は何もそういうのを否定したいわけじゃありません。
世間の流行りやてめえの都合に合わせて思想を着たり脱いだりすることが悪だと、そこまで言い切りたいわけじゃないんです。
本当にセコいのが誰かって、所詮一過性のファッションだとわかっていながら無責任に持ち上げる人たちなんですから。
世代というより単に年齢の違いでしかないと十分理解していながら、こいつらは違うんだぞとばかりにバンザイしちゃう奴ら。
「次の世代こそはワシらの思い通り動いてくれるじゃろう」と、フガフガしながら皮算用しちゃってる連中。
ハシカみたいにそういうのにとりつかれて、いずれは冷めて、そしてリタイアして暇ができたら、今度は居場所か社会に参加してる感でも求めてネトウヨとかパヨクとかに走る。
沢山書いたやで
・実名主義
80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数の社会的人格を持って経済活動する事ができた。
職場で旧姓を使い続けても問題無かった。1986年に米国でマネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。
MDMAが非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。
心臓発作を惹起する為に規制。m.o.v.e.のmotsuが所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。
90年代のクラブではマリファナは普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙で景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員も米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。
・式場での結婚式
1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式、キリスト教教会一般的。
団塊世代のロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻の自由は憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手と結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。
団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。
古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。
1990年頃まで日本人の公共空間でのマナーは先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。
・外国で旅の恥をかき捨てない
かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本人旅行者(特に団体)は眉を顰められる存在だった。
遺跡に名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクターに痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。
これを西洋は宗教倫理の文化で日本は恥の文化、共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。
電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。
この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年頃から段階的に廃止された。
森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバのIIS(インターネットインフォメーションサーバー)サービスでHPを提供していたため。
終業時間になるとサーバとルータの電源を落として帰っていた。サイトの作成は役人の趣味みたいな感じで作っていた。
1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタはパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。
駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口に100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。
民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。
90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両とタクシーの客待ちで二重駐車になっていた。
2000年頃から増える。警察が路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。
和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習。
家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員と交渉で決めるという風になった。この為に店員は電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。
客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。
バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎(1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機と建物袖看板の道路使用料徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。
これに対応して既存機の撤去とスリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。
以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフ、リセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。
2006年ころに一世を風靡したネットブックでSSDが一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。
嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局、銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。
当然平日3時までしかやっていない銀行に会社員が行けるわけがない。
そこで振り込みの為に仕事を中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅。
18才は未成年で飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。
ゼミの飲み会で普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。
・線路を歩かない
都電やローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関が線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。
90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故が連続し、その後厳しくなっていった。
初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキーは酩酊するからダメ」と書かれている。
・小銭を所持しないで外出
1000円札の読み取り装置が一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道の券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。
この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。
1989年の消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉は公共料金以外殆ど使われていなかった。
・個室
和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。
・個人
家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員のプライバシーに踏み込む」という感覚が余りなかった。
「会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。
ウオークマンは街で個人的空間に浸るものだとして批判の対象になった。個人主義はそれ自体が罵倒文句だった。
全共闘運動はあらゆる権威を攻撃し、大学の知の権威というものも破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態が継続。やがて学生は脱政治化したが大学や学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。
90年前後の大学改革でICUや上智の比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり、学生が勉強するという当たり前の状態が復活した。
この為に卒業年1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。
・様々な塩製品
塩は国家専売品だったので専売公社の製造する塩以外の岩塩、ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可と標識の掲出が必要だった。
・「メイド喫茶」などの語
「メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制や階級制の象徴のような職業であって、戦後の身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤が一般的な「雇用」となった。
一周回ってメイドの構造が過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。
・キャノーラ油
キャノーラ油の原料は菜種。
米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。
米国で生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。
過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法が改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。
1991年に大店法が改正されるまではデパートの閉店時間はPM6時、スーパーの閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。
基本的に地元の商工会の意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正が商店街の全滅に繋がった。
・生ビール
ビールは酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール。
この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。
1970年代末にサントリーがフィルターで酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。
だから地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品の生ビールはサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。
バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。
それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。
これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導の対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。
1990年から。1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業の有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去。札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的。
1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。
冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまち、ひとめぼれが席巻するようになった。
駐車違反にバイクと車の別はないが、バイクの駐車違反は2006年まで摘発されていなかった。摘発を民間に委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗に駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。
・大学生の専攻無し
学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行や福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から。
https://news.careerconnection.jp/news/126157/
こういうことを書くと周りから怒られるんだろうけど、「独身っていいなぁ」って心から思う。好きなことに時間を避けて、仕事が終われば基本自由で、自分が行きたいときに飲みに出掛けることもできる。
むしろ年々、結婚願望自体がどんどんすり減っている。理由は簡単で、僕は現在37歳。周りも結婚をした友人ばっかりになってきたが、やっぱりどこか大変そうに見えるのだ。
奥さんが文句を言うからリモートでもなかなか一緒にゲームできないだとか。奥さんが文句を言うから洗い物をしないとならないとか。奥さんが文句を言うから子供の面倒をしっかり見ないとならないとか。
なまじ、小学生の頃からの付き合いの連中がそういうことを言っているのを見るたびに「うへえ、じゃあ結婚しなくていいよ俺は」となってしまう。また、結婚をした女性の知人友人なんかを見ていても、隙あらば旦那の文句だったり、不満だったりを吐露しがち。男女ともに、結婚という契約のせいで日々不愉快な思いをしているケースばかりが目についてしまうのだ。
「毎日お父さんが疲れて帰ってくるの見てるから、将来ボク仕事なんてやらない!」って言ってる幼稚園児並みの思考。
筆者が専門的な調査などの客観的な数値・指標を一切用いずに周囲の半径数mの人間観察のみで記事を一つ仕上げてるから、
俺も周囲の半径数mの人間観察のみで話をさせていただくけれど、皆40超えると自分自身を欺けなくなってきてるよ。
「趣味があるから平気w」とか宣ってた連中は、押し並べてその趣味に向き合う体力や感性が衰えてくる。
同世代の連中は子育て優先で相手してくれないし、基本的におっさんという生き物が嫌いな若者からは露骨に避けられる。
かといって自分達より年上の中高年(バブル世代・新人類・団塊)とは価値観が違いすぎるし、内心老害と見下してるので当然話が合わない。
その結果、孤独感を紛らわすために自分自身興味も失せてたいして面白いと思ってもいないような、一人で完結できる趣味に金と時間を無為に費やす。
緩やかなセルフネグレクトで生活そのものが疎かになっていき、頭が禿げて腹の出た、ものの見事にキモいおっさんに成り果てる。
気まずさから親兄弟や親類とは疎遠になるし、高齢独身は存在自体が不審者扱いなので新しいコミュニティや地域社会に溶け込むのもまず無理。
慈悲の心を持って、不幸極まりない高齢独身者達と酒を酌み交わしてやると半泣きで「結婚すればよかった」「家族が欲しかった」とこぼすよ。
酒飲んだ帰りに塾帰りの中学生とすれ違って「俺にもあれくらいの子が居てもおかしく無いんだよな・・・」とか泣き言を言われた時には
年々、発達障害とされる人々は増えている。
以下、発達障害者を発達と略す。
あと、ここでは「発達障害は障害ではない」とか「スペクトラムの問題だから」みたいなことは扱わない。そんなこと言われても現実にあってないし何の慰めにも奮起にもならない発達は多いだろ。昔は発達にも居場所があったみたいな話も同じく。ただの社会的隔離を美化してる場合がある。
なんで発達が増えてるのか、医者と、教師の知り合いに聞いてみたことがある。それぞれの考えは違っていた。
ある中年男性の医師は、一般生活に求められる技術や社会性のハードルが上がり過ぎたから、と言っていた。つまり殆どは外部の、要因だと。
教師は、ちょっと違ったことを言っていた。後天的な要素もあるけど、それに反応してしまうトリガーについては常に先天的にあるだろうし、それには確かに遺伝があるのでは、みたいな事を言っていた。
上の意見は参考意見として、俺が言いたいのは、発達は新人類じゃないかってこと。そしてそれをめちゃくちゃに、クソみたいに、バカみたいに誇って良いんじゃないかってこと。
クソとかバカとか書いたのは、図書館とかにある上品な福祉本みたいな生やさしい肯定ではなく、社会に敵対したりキモがられたり腫れ物にされたりする存在なのを本格的に誇るために。
これまで、発達はそれぞれ一人一人の苦しみのなかで閉じ込んでしまっていたり、自助グループみたいなのに繋がっても「定型の、現行の社会」に矯正されるための監視された自助みたいなことしか出来なかった。
CPの人たちは青い芝の会という戦闘的な障害者活動をしてたし、なんなら同性愛者もラディフェミも色々やってる。発達もそろそろ似たやり方をとるべきなんじゃねえか。
発達は、よく「挨拶や謝罪の形式みたいな社会的マナーや文化が備わってない」と言われる。いいじゃん。新しい文化作ろうよ。今まで現れてきた色々な文化もマナーも、「新しく」作られた瞬間はあるんだろ。発達もそれなんだよ。それが見れて嬉しいだろ。学者は心配してないで、これについて論文書けよ。
カサンドラがどうとか「発達は身近な人を傷つける」とか騒ぐやつもいる。いいじゃん。俺たちは新しい人間関係のモデルを今作ってんだよ。なんでパートナーが発達だって分かった瞬間「答えが得られた」気になってんだよ。相手が発達じゃないなら「傷つき度25」で発達なら「傷つき度100」なのかよ。
でも、個人的な人間関係ばかりやっても限界があるし根本的な問題は解決しない。もっと根幹に切り込もう。
発達障害手帳の効果が他の手帳よりかなり少ない。役所にみんなで乗り込んで訴えようぜ。
発達は税金関連の処理が苦手だよな。税務署を占拠して「もっと簡単にしろ、発達の税金軽くしろ」って示威しなきゃだめだ。
「ケーキの切れない」とかなんとかで有名になって、発達がかなり牢屋に入れられてる事が分かったじゃん。それでそんな記事みて「なるほどな」って思ってるだけなの?刑務所を取り囲むべきだろ。発達を社会に返せって。社会が発達と直接向き合って新しい文化を作る機会を奪ってるって。
そもそも、少数民族レベルでも自治権を得て、これから増えていく発達の数に見あった土地を得るべきでは?
強めに書いてきたけど。
発達が増えてるとかいう情報に触れて、発達自身が何で卑下しなきゃいけないのか?それに腫れ物ともキモがりともつかない態度で接する社会ってなんなの?その社会は必要な社会なの?って事なんだよな。
そしてそれは、発達が、ホモ・サピエンスの新しい形みたいなこと、そういうレベルにしないと、説明がつかない。
発達は新しい人間。おめでとう。
新人類はもう死に絶えたの?
男子トイレの掃除にきても気にならんってので普遍化しとるやんけ。
何むつかしい言葉使って、あたしって新しい感覚持った新人類〜って感出しとんねん。
LGBT云々の記事は「男は〜とか女は〜なんて話は今しちゃいけないぞ!」と攻め立ててくるのばっか。
いや、一部性別に強烈にアイデンティティ持って強制してくるやつおるが
それに傷付いた!傷ついた!て騒ぎたてるやつを何持ち上げてんの?
俺が天気の話に傷つく人間やったら世間の話から「天気の話禁止!」て協力してくれんの?
適当な話をしてるだけなのに傷ついた傷ついた!私の性アイデンティティはこう!とか言わんといてくれ。
そんなんみんなや。いちいち理解してられん。
理性や謙譲や温和が評価される世界なんて、ナウシカの新人類の世界みたいな日本で言えば超上流階級の世界しかありえない
教育資本を邪教のように単語聞くだけで発狂する増田が多いが、何でお金持ちは数千万払ってでもそういう私立とかに行かせたがるのかというのをわかってない
善人とかかわれば、みんな善人になっていくし、クズや悪人やキチガイや精神病患者や発達障害のゴミとかかわれば、自分の心も自己防衛のために荒んでいかざるを得ないから
結果的に、数千万払って金持ち喧嘩せずの温和なお金持ちたちの間で生きていられて、そいつら理解不能のモンスターと一生関わらないという選択ができるのであれば、全く安くない投資だからだ
就職したらしたで、霞が関だとかブラック企業に最適化された、共感性が全くなく育てられた、ジョジョSBRのウェカピポの妹の夫みたいな、嫁さんぶん殴って首絞めながらセックスしないとイけないみたいな性能特化型のエリートキチ〇イやスキンヘッドごま塩頭で目が釣りあがったいかにも自分以外の社会すべてに不満持ってますよ的なブラック企業特化型の他害的キチ〇イ中年や
それの進化前みたいな狂ったツーブロック絶倫ゴリラとか、海魔妖族マリバロンみたいな攻撃的なキチ〇イ女と相対せざるを得なくなる、そいつらへの対処のリソースだけで生活はいっぱいいっぱいになる、お金稼ぐどころの騒ぎじゃない
成り上がりはそれをよく知ってるから、子供に教えられてそんな人間の形をした畜獣とかかわらないような世界に押し上げてくれるが
生まれついての金持ちは稀にこの法治国家日本にそんな理解不能のキ〇ガイがいるとは思わないから、そいつらと接触してひどい目にあったりすることもあるが
それは不幸な事故だ
今まで無名の存在だった彼らは、連発する140字以内のツイートによって、ある者は本を出版し、またある者は有料noteでぼろ儲けした。
140字以内でのレスバに最適化された脳を持つ新人類に、既存の知識人や有名人は誰も敵わなかった。
Twitterで一発当てる。それは、万人に開かれてた希望だった。
ところで、ClubHouseである。
このSNSには拡散機能がない。ClubHouse外での権力関係がそのまま持ち込まれ、行われているのは、
無名の者が有名になることはなく、有名人の話を有り難がって聞き、コネクションを繋ぎ、自分の出世に結びつけたいという世間。
つまりClubHouseは開かれたオンラインサロンに過ぎないのだ。