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はてなキーワード: 断薬とは

2024-05-17

高度な科学の力は魔法区別がつかない

幼少期よりある身体症状に悩まされていた私は、保険のきかない薬という高度な医療科学の力を借りて元気になった。まるで魔法のように困りごとは消え、人生を楽しむための障壁はすべて消え去った。

ところが最近、その魔法を使いすぎて血が固まってきたらしい。血液検査の結果を見た医師に薬を控えるよう言われ、処方箋は当然ながら貰えなかった。断薬期間を設け、それから血液検査をしてみようとのこと。納得して帰った。

断薬期間は大変だった。すっかり忘れていた苦しみを思い出し、しか対処法を忘れていたので昔より苦痛だった。魔法のない生活に慣れた頃、再度病院に行った。そこで聞いたのは思いがけない言葉だった。再投薬は難しいという。医師検討した結果、薬の影響力が強かったので、専門家として処方するわけにはいかないとのことだった。

てっきり薬をもらえる気でいたのでびっくり、そしてガッカリだった。どうにか処方してもらえないかと食い下がってみたものの、医師意思は固かった。代わりになる薬を提案され、それを処方してもらうことで決着した。

どうやらもう魔法は使えないらしい。あり得た未来なのに、悲しい。

2024-05-12

ホメオパシーの人怖過ぎ

矢鱈と断薬と通院拒否を勧めてくる。

でも、この人増田が急性症状で救急医療必要になった時や強制入院になった時に治療費払ってくれるわけでもないよね。

それどころか、免責書類書かせるでしょ。

人体実験したいからって、他人に命や人生まで賭けさせてお金もらおうとするの狂ってるよ。

増田自分が飲んでる薬がどんな中身でも良いから、日常生活を送れる方が大事

2024-01-07

ピル無償化を国は考えるべきではないか

学生の頃から15年以上ピルユーザーで今回手術を受ける為にピル断薬をして久々に生理前〜生理体験したんだけど生理現代において必要ないし社会にとって迷惑存在だなと強く思った。

生理前の2週間に起きた事

体温が1.5度上がり常に微熱で頭が回らない

片頭痛嘔吐

尾てい骨?の強い痛みで座れない

胸焼けと吐き気がずっと続く

下腹部筋肉痛

生理中の1週間に起きた事

貧血

下腹部の強い痛み

腰痛

下痢


ほぼ3週間体調不良が続いて死ぬかと思ったんだけど人によって生理の重さは違うとは言えこんなくだらない事に3週間も時間を使うのは無駄過ぎる。

ピル使用中の生理出血もほぼなく1.2日で終わるのが5日間しっかり出血したのもダルかった。

常にどん兵衛のお出汁の染み込んだお揚げをパンツに突っ込んでる様な不快感しんどい


薬によって合う合わないはあるにせよ妊活中の人間以外には無理にでもピル飲ませた方がパフォーマンスの安定と向上して税収も上がるんではなかろうか。

少なくとも怖い不安だって言ってる人は合う薬見つけて飲み続けた方が絶対にいい。

2023-12-18

anond:20231218044500

私も元増田と似たことを考えてた。

複数の持病で病弱だから妊娠したら持病の薬が飲めなくなって日常生活送れないんだわ。

断薬はできるけどその状態フルタイム労働を続けられるかはわからない。

10から気力体力がない。

筋トレもしてるけど効果がない。

筋トレ健康になれるのは元から体力ある人間だけだろ。

病院行けってコメントあるけど、行ったところで服薬治療するなら妊娠できない可能性も高いよ。

世の中一二回通院して治るような病気ばかりじゃないんだわ。

8時間労働家事をやりつつ、妊娠出産に耐えるなんて無理。

子供しかったなあ。

2023-10-15

anond:20231015123824

自己判断での断薬は決して行ってはいけないと言われるが

何か怪しいなと思った時どうすればいいんやろうね・・・

2023-07-17

虐待から性犯罪から幸福

正直、こういった文章を書くのは批判の的であり、読んで不快になるであろう人間が大多数だということを分かった上で、書きたいから書く。

最初にしっかりと明言しておくが、言い訳したいわけではなく、僕は僕がした罪、行いを許してもらおうとは微塵も思っていない。一生をかけて償わなければならず、一生忘れずに背負い続ける。そうして当然である

被害者に刺されて死ぬのであれば、当たり前だ。そう覚悟して今生きている。それを分かった上で、吐かせて欲しい。

 

 当方現在アラサー祖母が住んでいた家に恋人と二人で暮らしている。僕はフリーターであり、恋人製菓業界で働いている。養われていると言っても過言ではない。

 

在り来りと言えば在り来りなカップルなんだろうが、自分には在り来りという言葉では片付けられない過去がある。

 

 幼少期、5歳頃に両親が離婚してから母親虐待が始まった。

そもそも母親子育てに向いていなかったらしく、兄には過度の期待を寄せストレス精神破壊し、僕には殴る蹴るの暴行罵声を浴びせかけた。らしい。

 

「らしい」というのは、僕自身は殴られた記憶がない。よく聞く解離とかではなく、シンプルに思い出せないし、そんな思い出が無い。虐待自体記憶はある。

 大人になってから母に聞いたところ、「私は色んな虐待をしていた。だから貴方が人を傷つけてしまったのだと思っている。」と自白している。本当っぽいし、嘘をついてる風でもない。なので事実としてここに書く。

思い出せるものといえば、小学3年生まで床やパンツに放尿し糞をする僕を、家から締め出し、「自分で食ってみろ」とスプーンを渡され、自らの糞を食わされそうになったこと。

からそう遠くない河川敷に車で連れて行かれ、「もう捨ててやるよ」と置いていかれそうになり、それを兄が泣きながら止めてくれたこと。

から虐待記憶は、これくらいであり、僕自身は、「まぁ時々いるヒステリックな親だよな」くらいにしか思っていない。僕がおかしいのだろうかとも思うが、大して気にしていない。

勘違いしないで欲しいが、これが世の常識みたいに思ってるわけではなく、許されざることであり、もし友人がこんな親になろうものならぶん殴り通報する。僕が僕に大して、どうでも良い記憶として処理してるだけである

 

 小学3年生までと書いたが、小学3年生になり、僕がトイレで大便小便ができるようになった時、母から虐待が止まった。

どこが契機だったか定かではないが、確実に母の心へ衝撃を与え、虐待を止めたのであろう出来事がある。僕の作文だ。

 道徳の授業だったか忘れたが、「お母さんへの気持ちを書いてみましょう」みたいな授業だった気がする。

僕は虐待されていたにも関わらず、母親のことが大好きだった。ほぼ依存だった。たった一人の親だった。そんな僕が書く作文には、「おかあさん、ぼくのことを、うんでくれて、ありがとう」と書いていた。

心の底から思って書いたわけじゃないことは覚えいている。なんて書いていいのかわからず、「とりあえずみんなに見られて構わないことを書こう」みたいなことを考えて書いたことで、褒められたかったんだと思う。

 先生がそれを、家で母に読んで聞かせてこいと言うので、読んで聞かせた。直後、母から抱擁された。

とても、とても力強く抱きしめられたことを覚えてる。苦しかったし、意味がわからなかった。ただ、抱きしめられて嬉しい気持ちはあった。大人になってからあの時のことを聞くと、「自分がどれだけ酷いことをしたのか、心の底から申し訳なく思った。」と言っていた。母自身も、子供とどう接していいかからなかったが故の虐待だったのだろうか。

 

 それ以降、母は虐待することなく、むしろ僕のことを甘やかし、欲しいものは全て買い、やりたいことを全てやらせてくれた。

結果、どんな子供が出来上がるか。

 自己コミュ障チー牛オタク誕生である物心つく前から虐待により、僕には人との話し方がわからなかった。人の気持ち理解できなかった。

そうなると人間、居場所や仲間を求めるもので、僕はMMOネット掲示板に傾倒した。その末のチー牛である

 中学生時代黒歴史のもので、学校ではオタク友達ボカロ歌い手について語り、やれ鏡音リンレンが可愛いだの、やれこの歌い手が今アツいだの、自分達だけの世界を堪能し、家に帰れば仮想世界に入り浸り、非現実的な刺激を求めた。

この先の話に大事ことなので書くが、僕の性癖はこの第二次性徴で歪みに歪みまくった。ロリレイプ物の動画同人誌にのめり込んだのだ。

 後に精神科に罹り、勉強する中で知ったが、幼少から虐待された人間は、自分より弱い立場、弱い存在に大して加虐的になる傾向にあるらしい。性のエネルギーが向くのも想像に容易い。

そんな歪んだ僕は、ネカマ公言している当時高校生男の子と、マビノギ結婚するくらいには頭がおかしくなっていた。「男でも可愛いじゃん」と。今でもその性癖が残っているというのが、思春期時代での振る舞いの大切さがよく分かる。

 

 あまり詳しく書くと、コミュニティガイドライン抵触する恐れがある上、人によってはフラッシュバックを誘発する可能性があるので、抽象的に留めるが、僕は性犯罪をした。

時期は中学2年生のとき。13歳だった。相手は当時8歳。更に高校生の時、17歳だった。相手は18歳。どちらも性犯罪

1度目は13歳ということで犯罪として扱われず、施設に入り、2度目は正式(?)に逮捕され、留置場に入り、少年院送致された。

 

 結果的に今、再犯せず社会生活をしているわけだが、自分幸せにした人の数より、不幸にした人の数のほうが圧倒的に上だ。

何故、性犯罪を犯す人は再犯率が高いのか。そもそも何を考えているのか、加害当事者として、考えてることを書こうと思う。不快にする内容であるのは百も承知している。けど、耐えられなくなってしまった。申し訳なく思う。

 僕は虐待されていたからか、因果関係は定かではないが、人との関わり方、感情の読み取りが苦手だった。先生が怒っている顔をしていても怒ってるのかわからなかったし、悲しそうな人を見ても何とも思わなかった。

自分感情を抑える術も知らず、何時しか自己正当化するようになっていた。

相手はこれこれこうだから、こう言われても仕方なく、自分は正しい。そういう思考が常になり、自分以外が間違えていて、自分が最も正しいと勘違いしていた。

ここまでは、割とある話だと思う。小学中学生は皆、自分のことを正しいと思っているだろうし、大人でさえ自分が正しいと疑わない人がいる。

 

 だが、性犯罪者、もっと広く言えば、依存症者。これらは「認知の歪み」が生じている。一先ず性犯罪が「依存症」なのかという話だが、以前関東にある、性依存症専門の精神科に通った時の先生の話では、依存であるしかった。

もちろん、依存的でない性犯罪もあるとは思う。僕は知らないが。

依存症」という病気と「ただの依存」の違いは何かという話では、「依存症は代替が効かない」、「ただの依存代替が効く」という違いだと言う。人は電車バス依存しているが、最悪それが無くとも徒歩や自転車で通学や通勤することができる。

依存患者は、そうやって代替することができず、依存している対象「のみ」に執着する。故に治し方を知らなければ治せないとのこと。

僕はこの話を聞いて、「あぁそういうことなのか」と納得した。

 

 話を戻す。依存症における「認知の歪み」とは、考えれば当然であることなのに、あたかも当然でないように考え、自分矯正してしまっていることである。間違った捉え方、考え方とも言える。

道行く美女或いはタイプ女の子に対して、「触りたいな」と思う心を「社会的ダメだろ」と抑制することができることが正しい認知であるが、「認知の歪み」があると、これが変わってくる。

「触りたいな」と思う反面、「ダメだろ」と思うのだが、「でも触りたいし」「でも今触らないと勿体ない」「周りに人いないし叫ばれなければ大丈夫」と、自己正当化する思考が頭の中を占拠する。「自分は間違えてない」と、強烈な自己暗示をしてしまうのである。僕も例外ではなかった。

自分より弱い存在を見つけ、虐げ、凌辱する術を探した。何が何でも自分が正しいと思い込んだ。

 

 よく「何いってんだコイツ」という供述をする犯罪者がニュースになる。「目を合わせてくれたから好きなのかと思った」「露出の多い服を着てるから触って欲しいのかと思った」、こういった供述発言は、認知が歪んでいないと出てこない。

こういった歪みを正し、矯正することができれば、所謂更生することができる。

 

 僕の通った精神科では、専門の性依存カリキュラムがあり、ほぼ毎日15時頃から18時頃まで講義のようなものに出席し、運動をし、帰宅するというスケジュールだった。

認知の歪みを直すというのは、簡単なようで難しく、性に関することのみならず、日常生活における思考すらも省みて、全ての視点から自分を見ることを要求される。更に先生や周りの同じ講義を受けてる人間から第三者視点を交えて、初めて矯正できる。

1人で悩み、1人で解決しようとしても、見ている視点自分からのみで、そもそも何が歪んで何が間違ってるのかわからないので修正しようがなく、人の力を借りられなかった性犯罪者は、ほぼ必ず再犯すると言っても良い。

 ストレス関係していて、ストレス解消すれば治ると思っている人もいるが、間違いでなくとも正しくはない。例えば性犯罪を犯すことでストレスを発散、より細かく言えばドーパミンを分泌し多幸感を感じているとして、別の方法で同じことをしようとしても、

性犯罪を犯したことのある人間にとって、性犯罪を犯すこと以上にドーパミンを分泌するものが無いのであるご飯を食べることや寝ること、セックスすることでドーパミンが分泌されるが、比にならないのだ。

 だが、禁煙禁酒断薬と同じく、認知の歪みを治し、断てば断つほど欲求は減り、自制心で抑えることが出来るようになる。「認知の歪み」が治せていることが前提である。考え方が変わってなければ結局再発する。

 

 話が逸れたが、結果的に僕は比較的良い方向へ持ち直す事が出来、現在性犯罪への欲求はほぼ無く、趣味恋人とのコミュニケーションストレスを上手く解消している。

ストレスが溜まっていたとしても、溜まっていることを自覚し、自分感情欲求に振り回されることは無くなった。

 

しかし、結局は性犯罪者であり、生きている価値があるかと言われれば、多分ない。

事実、不幸にした人の数を数えれば、両の手じゃ足りない。

 

 ある日、通っていた精神科の先生に、この悩みを打ち明けたら、衝撃的なことを言われた。

「傷つけた被害者のことや、被害者家族のことを考える必要は無いよ。関係いから。」

僕は全くそうは思えなかった。僕は加害者であり、加害者は一生を持って償い、幸せに生きることは許されないと。

 

 けど、冷静に、理屈で考えてみれば、確かにそうだとも言える。関係ない。

僕がどれだけ反省してもどれだけお金で償おうと、どれだけ謝罪しようと、被害者幸せになるか。ならない。 何なら僕の顔、声、文字すら認知したくないだろう。

なら僕が死ねばいいか。死んだら被害者幸せになるか。ならない。 一時は恨みを晴らした気分になり、今後同じような被害者が増えないことを喜ぶだろう。けど幸せ成るかと言われれば、僕が死ぬことのみで成るとは思えない。

そして、何よりも、過去は変えられない。やらなければ良いに越したことはないが、やってしまったものは、どうしようもないのであり、既に過去であり、「今」この瞬間には存在していない。

 

理屈で考えれば考えるほど、「過去」というのは学びとしての価値はあれど、「今」の自分の持ちうるリソースを割いてまで悩む価値は無いと思えてくる。

 

 性犯罪加害者が、そう考えていいのか? 多分社会は許さないだろう。罪を犯したら、犯した者は同等の傷を負わなければならない。でなければ、傷つけ得な世界になる。

少なくとも僕は、先生のような割り切ったというか、吹っ切れた考え方はできない。やはり僕は犯罪者であり、人を傷つけた者であり、背負い続け苦しみ続けなければならないと思う。

 

 ただ、僕にも曲がりなりにも過保護バカ親が居て、何故だか出会ってしまった恋人がいて、こんな僕でも見捨てないでいてくれた友人が居る。この人たちは、幸せにしなくてはならないのではないか

この人達は、正に「関係ない」のではなかろうか。

いつ何時でも「今の僕を被害者が見たら」と思う。きっと殺されるだろう。でも、これもまた、起こってもない未来、「今」存在していないものに対する気持ちであって、「今」この瞬間に横にいる恋人には関係ないのである

 

 だから最近は人を幸せにすることが、せめてもの責務なのではないかと考えている。フリーターだが、時々ちょっとだけ贅沢できるくらいの生活で、恋人も僕も満足していて、誕生日にはサプライズケーキを買う。

これで良いのか。これで良いのだろうか。

色々考えるが、やはり「今」は「今」。忘れてはならないが、背負いすぎて不幸にする人を増やす方が、よっぽど社会迷惑まりない。

 

 二度と再犯せず、二度と同じ過ちを繰り返さず、二度と母親あんな顔をさせない。それだけが、僕の最低限守るべきもので、あとはただの我儘だよなと思う。

 

 

拙い文章だが、ここまで読んでくれた方が居たならば、ありがとう非難轟々でも構わない、ただ、耐えられなくなってしまって、思うがまま書いた。人に見られる前提で書いているのが気持ち悪いが。

 

ちなみに、恋人や友人は僕のしたこと全てを知っている。包み隠さず全て話した。

恋人に関しては、「今の〇〇さんと関係ないし興味ない」と一蹴された。いいのかそれで?いいならいいんだろうけど。

被害者に関しては、捕まった後に賠償金謝罪文を申し出ても、軒並み断られている。

総じて考えていることは、「二度と私の人生に登場しないでください」ということだと思っている。本当に、申し訳なく思う。

 

2023-06-07

anond:20230607025112

子供欲しい手帳持ちの子は2年断薬して辛かったって言ってたな

2023-05-23

肌荒れに効いたもの

軽度アトピー性皮膚炎、ニキビ、手足の汗疱、蕁麻疹とか持ちの万年皮膚炎病持ち。

ステロイド系の塗り薬

ステロイドに3年以上かけて挑んだことがあるが無理だった。ステロイドと長い付き合いで折り合いつけるほうがずっと人生が楽。人生一番楽しむべき若い時期に脱ステロイドで全身真っ赤っかで引きこもって過ごすのは私には出来なかったしお勧めしない。

抗不安薬

どうもストレス性の皮膚炎だったらしいのかこれが一番効いた。皮膚炎が原因でストレスが爆発したのか、ストレスが原因で皮膚炎が起きたのかはわからない。

3年ほど飲んだあたりで必要性を感じなくなり減らし始めて今は1年ほど断薬してる。季節の変わり目に肌荒れが酷くなりだすとたまに処方してもらうぐらいの付き合い。

スキンオイル

これはとにかくニキビに効いた。医療系なのでコロナ禍と関係なく万年マスク生活を送ってるのでマスク荒れがあったがスキンオイルを塗るようになって保湿した物が保たれてるのかニキビが全部消えた。おすすめ冬季に出るIPSAのオイルサラサラしてるしべったりしない。コスパも最強。今の時期は手に入らないので適当な安めのスキンオイル使っている。

プロテイン

筋トレきっかけに飲み始めたが飲むと肌の回復の速さが段違い。筋トレしてなくても飲むようにしている。肌を作るのはタンパク質なのだから当たり前のことかもしれないが肌荒れや外傷を治すときには絶対に飲むべき。

漢方

副作用が嫌で抗アレルギー薬を服用したくないので痒みに効く漢方を飲んでる。対症療法なので根治には意味がないがすぐに痒みが治る効果があるのでストレスがかなり減った。蕁麻疹持ちにはマジで漢方おすすめ

2023-04-12

SSRI減薬中

今のところ特に支障はない

今度こそ断薬できるかも

2023-03-03

ADHD当事者リアル感覚

ふと、ADHD当事者リアル感覚表現したいと思った。

物心ついた頃から現在までのことを(ボカしやフェイクを入れつつ)時系列で書かせていただく。

N=1の話で恐縮だが、読者には少しでもADHDについて知って欲しいし、それにより社会の分断がなくなって欲しいと思う。

と、ここまで書いて思ったのだが、私は数日前よりADHD治療薬を断薬しており、マトモに「書く」ことができないことに気がついた。数日ぶりに薬を飲むこととする。

1.〜小学生

およそ30年前、共に高卒の両親から長男として産まれた。

母親専業主婦だったり、少しパートをしたりしていた。

父親について覚えているのは、しょっちゅう会社を辞めてしまうということだ。それも突然に。

故に、夫婦喧嘩が絶えない家庭だった。

何かが(主にカネ)キッカケで口論となる。

不貞寝する父親。怒り狂う母親

暴力を振るう父親実家電話しようとする母親

電話線をハサミで切り、電話機を叩き潰す父親

父親包丁を突きつける母親。まだ産まれたばかりの弟を盾のように前に突き出す父親

床にぶちまけられる牛乳

警察を呼んだ方がよいのか本気で悩む自分

私が思い出せる小学校低学年頃の家庭の記憶はほぼこれだ。

弟が1歳の頃、「ハロワいけ!」と喋ったことを覚えている。母親の真似である

自分自身について書くと、忘れ物の多い子供だった。

教科書を忘れ、資料集を忘れ、宿題の提出を忘れ…

机をくっつけて、隣の席の子しょっちゅう見せてもらっていた。授業はまあまあ理解できていたと思う。

宿題に関しては「忘れる」というより「やろうとしても動けない」が正しい感覚

テコでも動けなかった。

宿題の代わりに家で何をしていたかというと、デュエル・マスターズデッキを組んだり、ミニ四駆カスタマイズをしたり、スマブラDXをしたり…?あれ、そんなもんかな。当時何してたか自分…あまり思い出せない。熱中すると深く深くどこまでも熱中し続ける性格だった。(過集中)

同じマンションに1つ下、1つ上の子供が何人か住んでいたので、毎日遊んだ河原秘密基地作ったりとかしていた。

また、男女分け隔てなく誰とでも遊ぶ子供であった。

違う。

(上で挙げたマンションの住人以外の)男の友達がどうしても出来なかった。

全く交流できないということではなかった。

あいさつはするし、何人かでサッカーをする時は参加していた。

同学年で話したことがない人は恐らくいない。

誰とでもそれなりの雑談ができた。

しかし、そこ止まりだった。

輪に入れはするが、誘われる人間ではなかった。

故に、常に疎外感を感じていた。

今になって振り返ると、原因は恐らく「自分の話ばかりして止まらない」から嫌われたのだと思う。

次第に、無理してグループにいなくてもいいと思うようになり、休み時間教室でひとりでボーっとしていた。

かねた心優しい女子グループが、自分を輪に入れてくれた。情報量0のどうでもいい雑談がとても楽しかった。自分が輪に誘われたことが、なんだか初めて他人に受け入れられたようで、とても嬉しかった。

通信簿の「担任からコメント欄」には毎年「男女分け隔てなく仲良く友達がおり〜」と書かれていたので、客観的にはそう見えていたようだ。

2.中学高校大学

地方なので中学受験をする人なんてひとりもおらず、当然のように地元公立に進む。

当時は中学受験という言葉すら知らなかった。

中学での成績は150/200あたりだった。

日々の勉強時間は0分。

たまに一夜漬けの過集中が爆発して、50番あたりになった。

国、社、英は不得意で、理数が得意だった。

相変わらず宿題はできないし忘れ物は多かった。

勉強をしない分の時間は何をしていたかというと、運動部活動をするか、家のパソコンニコニコYouTubeを見たり、携帯を買い与えてもらえたのでモバゲーMixiをやっていた。

中学3年で麻雀を覚え、どハマりした。

ハンゲーム天鳳毎日夜中まで打つようになった。

高校受験は持ち前の過集中で上振れを引き、偏差値50位の公立情報学科に滑り込んだ。

元がアホなので上振れしてもこの程度である

地方偏差値50なんてハナクソオブハナクソである

なぜ情報系にしたかというと、自分専用のパソコンを親に買ってもらう為だ。

高校では朝読書時間があったので、とつげき東北氏の「科学する麻雀」を何度も何度も読み込んだ。熱心に読みすぎて、本の小口が手垢で黒くなった。点数計算を覚えたり、チンイツの牌効率を考えたり、24時間麻雀のことを考えていた。

この頃はもう自分の行動を制御できなくなっていた。自室のPC毎日朝までニコ生をしながら天鳳を打っていた。学校の授業は全部寝ていた。教師は注意しても無駄だと悟ったようだった。自分人生天鳳の段位とレーティングが全てだった。

謎の過集中で競技プログラミングが少し出来たので(当時はchokudai氏もまだ大学生で、AtCoderもない時代だった)、大会に参加して何度か受賞するなどした。

その後、持ち前の過集中により小論文面接突破し、AO(アホでもオッケー入試)により近所の私大に滑り込む。

麻雀への情熱大学に入っても変わらず、1限どころか2限3限も出席できなかった。たまに講義に出ても何も分からなかった。

イプシロンデルタはみんなも分かってないようだったが。

情報系科目だけはテストだけ出て100点を取るという天才ムーブかました(自慢)。

数学情報科学だけは好きだった。

麻雀サークルに入った。楽しかった。今でも付き合いのある友人が数人できた。

2年次が終わった時点で16単位しか持ってなかった。中退した。

3.社会

バイト経験すらないない、学位すらない、麻雀廃人の二十歳が社会放出された。

なんていうか、普通に死のうと思った。

ある日、ふと一回死んだ。

自○未遂をしたということではない。

自分は今死んだ。そして新しい自分が今生まれた。そう思うことにした。

どうせ一回死んだのだから、もう好きに生きよう。

それでなんともならなくなったら、生活保護でも受けよう。

それもダメなら最終的に死ねばよいだけだ。

とにかく今死ぬのはもったいない、と思うことにした。

一応、親は家に住まわせてくれた。

速やかに就職して家を出ろということだったので(言われなくてもそうするが)仕事を探し始めた。

やり方がわからなかったので、若者向けハローワーク的な所に行った。色々親身に相談に乗ってくれて、クソみたいな人売りSIerを紹介していただき内定が出た。

自分内定が出るということは、「バイト経験すらないない、学位すらない、麻雀廃人の二十歳に内定を出さざるを得ないクソ企業であることが導かれるのである

人売りのクソさを書くと主旨がブレるので割愛する。

結果的に、一年半で会社を辞めた。

自分特別社会適応できなかったのかは分からない。他にも大勢辞めていたから。

この辺で(不快になる方もおられると思うので大変恐縮なのだが)所謂理解ある彼女ちゃんが突然地面から生えてきて、家を出て2人暮らしを始めた。

会社を辞める前に人生初の精神科に行き、うつ診断書を書いてもらい、色々金に困らないような諸手続きをした。こういう手続き自分では何もできないので、理解ある彼女ちゃんサポートしてくれて本当に助かった。

うつ治療で通院する中で、医師よりADHDについて指摘された。

ストラテラというADHD治療薬を飲み始めた。

3割負担だとバカ高かった。1ヶ月分で5000円以上したのではないだろうか。当時はジェネリックがなかったと思う。無職にはとても支払えなかった。

色々手続きをして、1割負担になった。

4.現在

ストラテラを飲み始めてから、本当に変わった。

脳の中の話なのでうまく言語化するのは難しい。

簡単にいうと頭がめっちゃ良くなる感じだ。

特に「読み書き計算」がすごい。

今まで自分は文をうまく読めなかった。

脳のメモリが小さいので、読んだ瞬間内容を忘れてしまい、戻り読みばかりしていた。

また書くのはもっと苦手だった。いくら考えても頭にモヤがかかり、表現が出てこなかった。

そして計算は最も苦手だった。一時的に何かを記憶しておいて、他のことを考えるのが無理だった。

プログラミングが得意だったのは、自分計算する必要がなく脳のメモリがあまり要らないからだろう。

皆これが普通だと思っていた。

薬を飲む前は苦手だとも思っていなかった。

当然みんなもそうなんだと思っていた。

こんな「脳縛りプレイ」で学生生活を送ったら、そりゃ、こうなるわと思った。

薬を飲んでからは夜更かしが減った。

自分の1日を計画コントロールできるようになった。

アホみたいな情熱に突き動かされることはなくなったが、その方が穏やかで心地よかった。

人生も徐々に良い方向に向かった。

5.総括

長々と書いてしまった。

もし読んでくださった方がいるのだとしたら、とてもありがたいと思う。

自分ADHD当事者として、発達障害で苦しむ人の気持ちが分かる。

「○○ができないだけでしょ?」「やれないっていうかやろうとしてないだけでしょ」のような反応を見ると、心が痛む。

かに、その瞬間を点で見ればただそれだけのことである

しかしながら、発達障害はその「できない」「うまくやれない」があらゆるライフステージで常に足枷となり、人生全体に負の影響を及ぼし続ける。

そして大人からは常に怒られ続け、自己肯定感もなくなり、「自分可能性」を信じられなくなる。

その一瞬だけではないのだ。「常にその状態が続く」ことによる不利が、生まれた瞬間からその人にはあるんだということを、できれば理解してほしいと思う。

そして、今小さい子供を持っている親に言いたいこと。

もし子供が何かをできなくても、その全てを無条件に受け入れてあげてほしい。

学校安心感を得られない子供には、家庭しか場所がない。

そして、もし発達障害の疑いがあるなら、早い段階で医療アクセスしてほしい。

子供保険証を持って一人で病院に行くことなんてできない。親が全てだ。

治療は早ければ早いほどよいと個人的に思う。

子供の1日1日はかけがえがない。その1日をデバフがかかった状態で過ごすことの影響は、子供の一生を左右しかねない。

2023-02-26

睡眠薬

心療内科に通ってた頃はすぐ眠くなる薬をドカドカ処方されて文字通り薬漬け

考えることができなくなるのが怖くなって勝手断薬

気持ちも上向きになって心療内科に通う必要もなくなる

余った薬をどうしたらいいかからなくて薬局に返却

その後〆ノレ力リとかで高く売れるらしいけど

そこれ買われた睡眠薬が何に使われるのかはしらんけど

2022-11-01

病識がない、という絶望

水谷緑さんの「私だけ年を取っているみたいだ〜ヤングケアラー再生日記〜」(文藝春秋)を読んで、病識のない精神障がい・患者を抱えた家族がどうやって社会と繋がれたか書こうと思った。

母も当時、自分病気じゃないと思っていて(病識(びょうしき)がない、と今は言ってる)、明らかに家族や周りが見たらおかしくて、その認識乖離のせいでさら信頼関係が崩れたり、暴走が激しくなったりした。

精神科は本人を連れてきて、と言う。

それを言われた家族絶望感は、計り知れない。

母が調子最初に崩した時、父がすぐに何か気付いて東京病院に連れて行った。

そこで話を聞いてもらって、薬をもらった。

気分が落ち着くような薬で、代わりにうつ病のように1日のほとんど寝ていることになる。

お酒も飲めない。

それでも家族としては暴走されるよりマシだから飲んでて欲しいけれど、本人は「薬を一生飲むのかな」「薬がなければ家事をきちんとできるのに」「私は薬なんかなくてもまともだ」と思うのだろうか。

勝手断薬して、調子を崩す。

薬を飲んでいない時で躁状態の時、最初に行なったのは都内に出かけて高価な買い物をしてきたことだった。

出かけた先で予定を変えて夜遅くまで帰ってこなかったり、突然深夜に出かけることもあった。

おかしな行動をし始めた頃、父は必要あれば迎えに行ったり連絡を試みていたが、だんだんほっとくようになった。

お父さんは浮気してるとか、お父さんは嫌いと言って家出という形で出ていくことも多くて、父としてもあまり優しくして構うのも限界があったのだと思う。

ある時、学生時代友達の家に遊びに行って泊めてもらっていた。友達も泊まるとは思わなかったし様子もおかしいので、父に連絡がくる。母が車で出かけていたので始発を待って翌朝父が迎えに行くと、友達の家のベランダから何かを叫んで怒っていて、友達は怯えて寝室に閉じこもっていた。

父が車を運転して母を連れて帰ってきて、その翌日、数年ぶりに病院に連れて行くことにした。

それまで母に「診てもらおうよ」と言ってもまた喧嘩になるから諦めていた。

その時は、妹や父が(色々あって)鬱かも、みんなで診てもらおう、と連れ出したらしい。

(私は進学で別の土地にいたのでこの辺りは伝聞だ。)

日曜だったのでやっている病院が少なく、隣の町の小さなメンタルクリニックに連れていった。

少し離れた有料駐車場に車を停めて3人でクリニックに向かう間も、母は「やっぱりやめようよ」「あそこに行ってみたい」「どこに連れてくの?」と、足を止めていたらしいが、なんとかクリニックの前まで連れてきた。

クリニックの看板には、「心療内科整形外科内科」みたいなことが書いてあった。

それを見て母は、「整形外科って何!私を整形させたいの!?整形しようとしてると思われる!みっともなくてこんなところは入れない!」と言ったが、とにかくいいから、と院内に入る。

待合室で少し待っていると、母がだんだん気分が上がってきて、診察を待たずに待合室で父と喧嘩になった。

妹が泣きそうになりながら、クリニックの人に「早く診てください」と言うと、クリニックの先生が出てきて、「うちではここまで調子悪い人診れないよ」と言った。

暴れたり叫んだりするのをやめないので、クリニックが警察を呼んだ。

警察

これが初めての警察のお世話になった場面だった。

みんな家族警察に捕まるなんて恥ずかしいしとんでもないと思うかもしれないけど、本当に家族おかしくて困っているなら警察は悪手ではないと今は思ってる。

本人は嫌だったと思うけど。

警察が来ても頭がおかしい人は「捕まる」訳ではない。でも、一晩署にいて、そのあと病院送還される。そこで度合いによるが「措置入院」となると、県知事都知事市長入院しないといけない人と判断した、となり、その入院にはお金がかからない。

その分それくらいのレベル、ということで病院では拘束されたり外部との連絡や交流制限されたりするが。

この時は措置入院になり、つまり母としては「無理矢理頭がおかしいことにさせられて警察強制的入院させられた」となっていたと思う。

母が署に一晩いることになって父と妹だけで帰宅した夜、初めて電話が来て、「なるべく早く、可能なら明日にでも帰ってきて」と言われた。

2人とも料理洗濯もできないと言ってやり方を教えてくれ、と。

入院にあたってタオルなど荷物を届けるためみんなで病院にも行った。面会はできなかった。

入院は2ヶ月程度だったと思う。

2ヶ月経って面会が許された頃、病院に久しぶりに行くと、先生に「本人が退院したがっていて、症状も落ち着いてるのでこちらとしては患者さんの意向尊重する」と言われた。

だが、面会した時に話した感じで、母に病識がないことがわかっていたので私と妹は反対だった。

だが結局その時は退院になってしまった。父が母を信用してみることにしたのだ。ここから入院お金がかかるから躊躇したものあるかもしれない。

案の定1ヶ月以内に躁状態は戻ってきたが、通院と薬で押し込めて落ち着けられた。

そのあと2年後に、大きな動きがあった。

入院の時お世話になった先生のところに、2ヶ月に一回のペースで通院していた頃だった。

その回の通院で話し合って、薬を少しだけ減らしたらしい。

そこから2週間ほど。

母がいつもより気合の入った料理を作り、元気になってきた。

教育関係者の偉い人の講演会に感動して、ビラ配りに参加したり活動的になってきていた。

だがそんなもの趣味と同じ扱いで制限もできないと思っていたこからたった3日ほど経ったある日、パート先で勤務中に、母がいなくなった。

仕事着のまま、運動会中の近所の小学校に来て騒いでると小学校教頭から父のところに連絡があった。

小学校に来て、〇〇さん(教育関係者の偉い人)が来てないかと騒いだと。

保護者教員で取り押さえていたが、父が仕事中で母の実家に連絡をとっている間に脱走。

母の実母は、母の姉に連絡し、妹にも連絡し、様子を見に向かっていた。妹はデートに行く途中で連絡が来て、相手に断りを入れなきゃいけないし、自分の予定を邪魔されるし、そんな状態の母も見たくないしで泣きながら戻ってきたという。(私は妹にこの時、母のところに行きたくなかったら行かなくてもいい、時間をおいて帰宅したらどうか、と言った気がする。デートについてはなんて言えばいいかからなかった。)

みんなが母を迎えに行こうとしている中、GPSで父が母の場所を探っていたが、急に移動のスピードが上がる。

教育関係者の偉い人の事務所の前にて、騒いでいるところを通報を受けて警察連行された。パトカーに乗っていたかGPSが速く移動したのだった。

署で面談中、母は暴れ、叫んでいた。

服を脱いでいたらしく、警察に渡された布を纏って、面談相手とは距離を取って面談をしていたという。

気が大きくなっていたのもあるが、離れて会話するから叫んでいたとも思う。

前回と同じ流れで措置入院になり、前回より近所の病院入院した。

私は今度こそ病識が持てるまで入院させよう、と強く主張し、妹・父と、先生に伝えたいことをまとめた。

また訪問看護も利用できないか聞きたかった。私は勘違いをしていて、家の中に来て少し家事をしたりしていってくれる人だと思っていたが、そのあと聞いたら訪問看護は薬を飲み忘れてないかとか様子がどうか見るだけのものらしい。

それでも家族以外の外部の人に見守ってもらえるなら今までよりいいと思う。

とにかく家の中に他人の目を入れたかった。

家族だけじゃ息が詰まる。

今回の先生女性先生私たちの話をよく聞いてくれて、「病識を持ってもらう」というゴール設定をよく理解して汲み取ってくれた。

薬を性質の違うものに変えて代わりに量を増やし、症状を抑えていた。

私は「心理的きっかけがあるんでしょうか?トラウマとか…」と聞いた。

先生は「違います。脳の障がいなんです。双極性は心理的な原因があることは少ないです。」と言ったと思う。(私の解釈が入っていて医療的に間違っていたらすみません。)自律神経の不調やホルモンの不調と似たものだという理解だった。

結局入院は3ヶ月程度だった。

退院した数日後に会いに行くと、母は前回と違い周りの患者さんと交流もできて、自分から障がい者手帳」「障がい年金」をもらおう、と言っていた。

一緒に申請に付き添って行ったが、明らかに前回と違うと思った。

今は自宅で過ごしている。家事自分のペースでして、やはりよく昼寝をしている。

勤務中に脱走したパート先には謝罪して辞めさせてもらった。

作業所などに通うことも検討したが、落ち着いていればパートもできるのだから本人としては新しいところでパートを始めたいらしい。

今症状と付き合い始めて10年ほど経つ。

今やってる向き合い方が正解かはまた数年経たないとわからないが、とりあえず穏やかにやってると思う。

暴走の仕方によるが、私たち場合調子の良い時は家族同士仲がいいし母の暴走は人を暴行したりはしないので、暴走させて警察などの権力のある機関に介入してもらう、というやり方で結果的に良かったと思っている。これが暴走するのが父で、ほっといたら人を殺すような人だったら思うとゾッとする。

でも、私もすごく怒りっぽいところがある。「暴走自体他人事と思えないし、私自身いつそちら側に行くかわからない。その時入院となったら、犯罪を犯してしまったらと思うとゾッとする。

私は病気が原因で人の命がどうにかなってしまうことだけが恐ろしい。

双極性障がいは、鬱に振り切って自殺をしてしま患者もいると言う。

母が自分を責めてそんな選択をすることもないよう気をつけている。

精神病気が「病気」と言われる所以はここにあると思う。死に至る病絶望と言ったのはキルケゴールか。

どんなふうに暴走しても人の命が侵されない限り、絶望しないでほしい。

anond:20221031235110

そこまでドラスティックな変化でもなかったけど言いたいことわかる

自分脳内多動タイプで、ある意味マルチタスク人間だったんだけど

薬を飲んだせいでシングルタスクになってしまった

(「音楽を聴きながら文章を打つ・動画を見ながら文章を読む」とかが苦手になってしまった)

集中力が上がったといえば聞こえは良いが、正直不便だ(断薬して数年立っても未だにこのままだ)

個人的にはその程度の変化で全く役に立たなかったので断薬したんだが

もしかして辛いもの苦手になったのもストのせいかなと疑っている

関係ないが、コンサータ飲みたい

気軽に処方してくれる認定医は居らんのだろうか

(自分主治医は頑として出さない人だった。困りごとの解決寄与するのがあんたの仕事だろうが。あんたの主義なんぞ知らんのだ)

2022-09-27

anond:20220927034620

あれだけ辛かったのに抗うつ剤を処方されてからマイナス5億のメンタルが本当にそれだけでマイナス500くらいになった

抗うつ剤は本当に効く

しろ毎日服用してないと精神問題をきたすものなのに「献血してみたいんだけど薬飲んでるとダメらしいから3日勝手断薬して献血してきますたw」みたいな奴みるとふざけてんのかこいつは?になる

2022-08-27

anond:20220827131121

薬物依存症治療プロ清原和博のいまをこう見ている

https://gendai.media/articles/-/52312

この実験で何がわかったかヘロインはそれ自体で強力な依存性を持つ薬物であるが、ラット依存症になってしまうのは、ヘロイン単独作用だけではなく、そこに孤独や退屈という要因が加わっていたということだ。

まり、「依存症アディクション)」の反対語は、「断薬」でも「強い意志」でもなく、「つながり(コネクション)」だということだ。

2022-05-23

睡眠薬を服薬しないと眠れないけど、薬をやめたい

実家事情もあって、専門卒業後に別業種だったシステムエンジニア転職した。

パソコンなんてパワポフォトショくらいしか触ったことないのに、プログラムを0から勉強して騙し騙し仕事をしていた。

元々勉強に向いているタイプだったのもあって、23から30歳の7年間で年収は1200万円程もらえるようになった。

学歴のない自分には身に余るような光栄仕事ばかり与えてくれる会社や、周りの人には本当に感謝しかない。

殴られたって、いじめられる時だってあったけど、結果的に金になっちゃったんだからオーケーオーケー

お金には困っていない。新卒から早々に一人暮らししながら実家に数十万の仕送りを送り続けた。

その生活も、今年の春で終わった。自分お金はもう一人で使える状態になった。

そんなタイミングで来る、結婚適齢期妊娠出産タイムリミット

運良く結婚前提交際1年、同棲半年婚約とんとんで進んで、生活力もある容姿も好み、価値観性格もぴったりの婚約者ができた。

これから私は、この人と私の幸せのために働くのだと思うととても幸福に満ちている。


ただ、7年間の激務で自律神経がめっきりぐっしゃり壊れてしまった。

顔面神経麻痺チック症、不眠、夢遊病悪夢症、体温・発汗バグ、手足の震え。

並べると些細なことに見えるが、これが結構しんどい

避けていたが、婚約者の勧めもあり2年前から心療内科に通っている。

処方されている薬は、精神科医によると「これ以上強い睡眠薬は出せない」レベル

これさえ飲めば、中途覚醒悪夢で叫んで起きることはたまにあれど、6時間ほどは眠れて働ける。


メンヘラといえばメンヘラなのだが、精神状態問題はなく、神経がちょっとバグっちゃっただけなのだ

ヒスを起こすことも、暴力も、リスカも、ODもしない、模範的精神病者である

結婚をしたら子どもが欲しい。妊娠を望む際はこれらの薬を断薬する必要がある。

眠れぬ暮らしをしながら働けるだろうか。

婚約者はそれなら仕事をしばらくセーブすればいいと言ってくれてる。

でもお金はあればあるだけ安心だし、産んだあとこそ働けなくなるのではという不安がある。

子ども婚約者の仕事生活力、暮らし貯金、全部問題ない。

私の自律神経だけが問題

低学歴の汚い野良犬みたいな自分を拾って仕事お金をくれた会社にも感謝している。

でも、失った対価は大きかったのかもしれない。

少しずつでも薬の量を減らしていこうと思う。

2022-05-14

anond:20220514221219

謝るほどのことでもないさ。ありがとう

あと、精神薬は減薬、断薬受診離脱症状が怖いね。まだ当分先の話だけど。

2022-04-10

anond:20220409235248

素人勝手自分の病状をネットで調べて知った気になってはダメだぞ

まず、断薬のものがまずい

医者は選んでもいいかちゃんと行こう

anond:20220409235248

拝見した限りでは、医師見立ての方が精度が高いように思われます最初の処方にSSRIが含まれていたものと思われますが、その副作用典型的な不眠・悪夢タイプに見られます

また、エピソード的にはうつをまず考えて不思議ではないし、解離性とはあわないように思えます感情が思い出せないという感じはこれもまたSSRI効果が出てる場合に見られるので。

今まで理解できなかったレポートがすっきり理解できるようになるのも、抑うつ状態改善した事による理解力の回復による典型例に見受けられます

基本的には断薬漢方ではなく、処方による副作用医師に伝えて処方の見直しをお願いするか、その意向にまったく応えてくれないのならば別の医者に掛かるほうがよいかと思います

疑心暗鬼になりやすものですが、いずれにしろ精神症状はインターネット検索の内容をもとに自分自身判断することは不可能だとお考えください。

精神症状において、「自分の体は自分がわかっている」ことはまずありません。このレスも含めてこういったインターネット上のエピソードレスポンスが的確なこともまずありません。それらに比べれば精神科医の先生見立てのほうがずっと的確なのです。

残念ながらいまの先生に信頼が置けなくなってしまったのなら、別の医師にかかるのがよろしいかと思いますが、その場合、まえは信頼が置けなくなったことと、どう信頼が置けなくなったのか、処方がどのように副作用を持っていたのかをまず伝えるようになさると良いでしょう。

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