はてなキーワード: 断崖絶壁とは
実際のコンテンツを題材にすると面倒なので、例え話として書く。
その「秘密基地」はA公園の裏山の断崖絶壁をよじ登って到達しなければならない。
「秘密基地」に入れるメンバーは承認制であり、そこには色々なルールや役割分担が存在している。
人目に付かない場所なので、A公園では禁止事項の花火やサバゲー、飼育や工作、エロ本収集など何でもできる。
危険で粗野だが、クリエイティブな遊びが日夜そこで開発されていた。
当然、「秘密基地」なので緘口令によりごく一部の男児にしか認知されていない。
その「秘密基地」の存在を嗅ぎ付けた女児達が「私達も秘密基地を使いたい!」と騒ぎ始めたとする。
女がなんらかの壁や障害物に直面した場合、「自らの力で超克しよう」とは考えず、
「壁や障害物があるのが悪い」「力のある第三者が取り除いてくれるだろう」という思考に至る。
・「私達も秘密基地は使いたいけど、あんなに危険な断崖絶壁は登りたくない。」
・「男達だけ遊べてずるい。力のある男達が断崖絶壁を登り易く整備するべき。」
まず、女達は上記のような事を言い出す。全てが他力本願であり、自らの労力を差し出す気骨も根性もない。
そもそも「断崖絶壁」が参入障壁として機能しているからこその「秘密基地」だったはずだ。
その「断崖絶壁」を取り除け、というような荒唐無稽な事を言い出す。
怖い先生に言いつけられては困るので、男児達は泣く泣く断崖絶壁にロープを垂らしてバリアフリー化を行うはめになる。
自分たちが使う分には何も困っていなかったのに、だ。
次に女達は「この秘密基地は限られた人達でなく、もっとみんなが遊べるようにするべき。」などと言い始める。
耳触りの良い素晴らしい御題目であるが、この時点で当初の「秘密基地」という目的と限定性が失われる。
バリアフリー化された「秘密基地」には下級生や他校の連中などが引っ切りなしに訪れるようになる。
当初存在していたマナーやルールは正しく伝播されず、「秘密基地」はどんどん荒廃していく。
古参の男児達はこの状況に辟易して、この時点で撤退してしまう。
「秘密基地」で遊ぶ子供達は増え続け、付近一帯でその存在を知らぬ子供はいなくなった。
組織運営や役割分担、ルールづくりといったものが必要になってくる局面だが、
前述の通り女達は面倒くさがり・他力本願なのでといったこの類の作業は徹底的に避ける。
各々が好き勝手に振る舞った結果、断崖絶壁から落ちて大怪我をする児童が出てきてしまった。
「秘密基地」の存在は大人達に露見、「秘密基地」への入口には有刺鉄線が張られ、見張りが立つようになった。
こうして「秘密基地」で育まれつつあった男児達の独創性はみごとに消滅しました。めでたし、めでたし。
勘のいい人が気づいたように「増田に書いている」時点で、この文章は中学生に向けたものではない。君たちはてな民に向けて書いた文章なんだ。
僕のことを「カイジに出てくる成金」と言う人もいた。だが、ちょっと待ってほしい。僕は良識ある大人として社会生活を営んでいる。安定した収入に、自然豊かな住環境に、性格の良い家族に恵まれて満足している、普通の大人なんだ。
リアルでの僕は「アメリカ横断なんて危ないことをしてはいけないよ」と、子供たちを諭すことさえあるんだ。ああ神様、こんなことがあって!
口に含んだおでんを吐き出しただけで人生が終わったコンビニ店員とか、
わずかばかりの投げ銭欲しさにブラジャーをずらす女子中学生とか、
自らを切り売りするしか注目を浴びる術のない中身空っぽの奴らが必死こいて藻掻き苦しむContentsで満たされて。いる、べき満たさ満たされているべきているべき満た満たされて満たさ満たされているされているべき場所なんだ。
みんなだって、本当は見たいだろう?
本当は
見
た
いんだ
ろ
う?
だから僕が面白くするんだ、規制ばかり増えるこのネットを。約束しようじゃないか! 誰にも無理強いはしない。危害も加えない。その代わり、自発的にやってくれる人を育てる。応援する。応援の何が悪い? 応援は合法だ。どんな規約にも違反しない。AIは喜んでトップページに載せるだろう。人間がチェックしたって見抜けない。100%クリーンで安全なContentsだ。
次の作品を楽しんでほしい。
特別顔がかわいいわけではないが、滅多に怒らなくて酒好きで映画をよく見るとてもいい子。付き合って3年ほど経つが、同じ女性とこれほど長く続いた事はなかった。
料理ができない、遅刻癖がある、味付けの好みが濃い等の不満もあるけれど、それほど大した問題ではなかったし、それで大きく喧嘩をしたこともない。
ただひとつ、貧乳すぎる。AカップBカップとかそういうレベルじゃなくて、無乳。下着のサイズを盗み見する趣味はないから正確なサイズは知らないけど、本当に真っ平ら。
自分はというと、「巨乳は好きだけど、巨乳じゃないとダメというわけではない」ぐらいのおっぱい星人。
付き合ってるという認識しかなかったときはなんとも思わなかったし、セックスでも「ちょっと物足りないけどまあいいか」程度にしか感じていなかった。
それが最近強く結婚を意識するようになって思った。「俺はもう一生おっぱいに触れられない」と。
胸で押し上げられてみぞおちのあたりの布が少し浮いているのを見るのが好き。
前ボタンを留めた女性会社員のジャケットの襟が外側に反ってるのが好き。
別に大きくなくてもいいし、「おっぱいがそこに存在する」ということだけで癒される。
もしこのまま結婚したら、自分が手の届くおっぱいはこの世に存在しなくなってしまう。
まあ付き合ってる今でも他の人のおっぱいに手が届く事っていうのは基本的にないんだけど、結婚すれば可能性すらも失ってしまう。
そう気付いてしまってから、セックスをする気も起きなくなってしまってもうここ数ヶ月は何もない。(持病の薬の副作用でインポ気味とか言って誤魔化してる。まあ精神的インポなのは事実なんだけど)
最近はどうやって他の理由をでっちあげて別れるかばっかりを考えてる。
「愛があれば~」なんてのは嘘だよ。愛があってもおっぱいなしじゃ生きていけない男もいるんだよ。
追記
早めに仕事終わって酒飲んで帰ってきたらすげー伸びててびっくりした。
否定的なものも含めて全部のコメントとトラックバック読ませてもらいました。
一番しっくりきたのは「マリッジブルー」ってやつで、なるほど確かにそういうことなのかもしれないです。
でも前おっパブ行ったのがバレて死ぬほど泣きながら怒られたので、ましてや結婚後の生活と生計を一にした状態ではたぶん行けない。
にしのあきひろ著、『えんとつ町のプペル』を読んだ感想を書く。
先に書いておくが、私は紙の本を購入していない。
作品を批評、特に批判的な批評する際、本来であればお金を払うべきだと思う。
でも、本人の意向で無料公開したのだから、私も好きなように書きたいことを書く。
最初にただしておきたいが、六七質さんの背景画が駄目だと言いたいのではない。
むしろ、ものすごい技量をお持ちのイラストレーターさんだと思う。
緻密な建物の描き込みはもちろんのこと、空間の奥行き感じさせるぼやかした遠くの景色、
夢の世界へいざなってくれるようなファンタジックさがありながらも、懐かしい記憶を刺激するようなノスタルジックさを併せ持つ独自の世界観、等々。
私が言うまでもなく、素晴らしい作品をたくさん創作されている方だと思う。
では、この絵本の絵の何が駄目なのか。
それは「構図」である。
一言で言えば、キャラクターが小さすぎ、背景が主張しすぎである。
文字だけ抽出して読むと分かりやすいが、この物語はプペルとルビッチの2人のやりとりをメインに話が進んでいく。
2人の間で育まれる友情や、ルビッチの父親の形見を2人で探しに行く冒険の描写がほとんどで、町の風景の美しさを語る叙景詩ではけっしてない。
もちろん、後述するようにこのえんとつ町自体が、物語全体のテーマに通ずる要素にはなっている。
しかし、町の風景描写はあくまでもサブ的な要素として、もう少し控えめに描くべきであった。
具体的には、キャラクターを大きく、背景のコントラストを落として、キャラクターを浮き立たせるように全体の色彩設計すべきであった。
では、なぜこのようになったのか。
それは推測でしかないが、要するに作者はこの町の風景、世界観を表現したかったのだろう。
最初から中盤まで、とにかく町の風景、風景、風景、風景・・・と同じようなページがずっと続く。
描かれている看板などはそれぞれ違うようにしてあるが、ひたすら同じようなトーンの町の風景ばかりだ。
この町の風景単体で作品としての価値があるかというと、私はそうは思わない。
「ブレードランナー」みたいな町を、「千と千尋の神隠し」みたいな色彩で味付けしただけと私は思った。
ブレラン自体が真似されまくっているので、これも世界中に数多あるブレランの50番煎じ、60番煎じの一つだと思う。
絵については、他にもある。
でも途中で、町は海に面していることが分かる。
ここで驚いたというか、ずっこけた読者も多いのではないだろうか。
「えんとつの町に住むひとは、くろい煙にとじこめられて、あおい空を知りません。かがやく星を知りません。」
とあるが、別にえんとつ町は外界から隔絶された町なのではないのだ。
それと、えんとつ町だけが高いところにあって、断崖絶壁の低地に囲まれているのか、
それとも、えんとつ町だけが低いところにあって、高い崖に囲まれているのか、海が出てくる場面まではっきりしない。
これだけ多くのページで町の風景を描いているのだから、町の置かれた地形が分かるように、町の風景を描くべきだった。
絵について、最後にもう一つ。
プペルは、醜い姿をしながらも、清くて純真な心を持った、他のさまざまな物語にも登場する典型的な怪物キャラクターである。
しかし、絵本の序盤ではプペルの姿ははっきり見えず、終盤に近づくにつれてプペルの姿が明るく映し出されて全容が分かるようになる。
あとがきで作者が 懇 切 丁 寧 に 説明してくれていたように、プペルが「ゴミ」から構成されているのは物語の重要な部分である。
それであるなら、プペルの姿の醜さは、序盤からはっきり分かるように描くべきであった。
あとがきには、この物語について次のように説明している。(※太字は筆者)
えんとつ町は煙突だらけで、そこかしこから煙が上がり、頭の上はモックモク。朝から晩までモックモク。えんとつ町に住む人は、青い空を知りやしない。輝く空を知りやしない。『空』という概念がないものですから、見上げることもしません。
そんな町に突如現れたゴミ人間と、その友達の煙突掃除屋が、それでも空を見上げるもんだから、町から袋叩きに遭ってしまいます。えんとつ町は、夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる、現代社会の風刺。そして、「夢を見る」「夢を語る」「行動する」といった、大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノをまだ持ち続けているという意味で、主人公を《ゴミ人間》にしてみました。
あとがきで「現代社会の風刺」と説明する野暮さには目も当てられないが、ここではひとまず流しておく。
プペルは「『夢を見る』『夢を語る』『行動する』といった、大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノ」、いわば「夢の残骸」である。
子供の頃は誰もが持っていた「夢を見る」「夢を語る」「行動する」は、プペルの心のように清くて純真なもので、
それはえんとつ町(大人の社会、大人の常識)の住民からすればゴミ、汚い、臭いものとして扱われる世界観なのである。
西野氏が、ルビッチのようなサスペンダーとハットを好むのを見れば、一目瞭然である。
http://news.mynavi.jp/news/2015/01/04/138/images/001.jpg
http://up.gc-img.net/post_img_web/2013/02/55cb8b02247b92662b9e0a71412ec0f3_0.jpeg
http://s.eximg.jp/exnews/feed/Taishu/Taishu_21980_1.jpg
http://jgweb.jp/wp-content/uploads/2013/06/new_IMG_0039.jpg
http://img.u-note.me/note/uploadimage/1407827558970.jpg
http://s.eximg.jp/exnews/feed/Yoshimoto/Yoshimoto_201306_post-0995_1_s.jpg
駄目押しで書くと、煙突掃除夫にはこのような制服があるので、作者がルビッチに自分を投影していなかったのならば、ルビッチはこのような容姿になったはずである。
google:image:Chimney sweep uniform
つまり、この物語は、現実世界で「夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる」作者・西野氏自身が、清くて純真な「夢の残骸(プペル)」の尊さを自分だけが理解し、そして夢を叶えるという概念(空にはホシがあるということ)は自分だけしか知らず、自分だけが夢を叶えることができたという話なのである。
それでは、西野亮廣氏は「夢を語るから、行動するから」笑われたり、叩かれたりするのか。
もちろん、そうではない。
https://www.youtube.com/watch?v=asx0938br3E
現代の現実世界では「夢を見る」「夢を語る」「行動する」は、「大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノ」なのだろうか。
社会で生活している人々は皆「『空』という概念がないものですから、見上げることもしません」、つまり夢を見たり叶えたりする概念すら知らないのだろうか。
一部ではその通りかもしれないが、しかし、すべてがそうではないはずだ。
夢を見て、語って、行動し、実際に夢を叶える大人は、この社会にはたくさんいるからである。
しかし、作者・西野氏は「自分だけが『夢』という概念を知っている。自分だけが大人になっても夢を見て、語って、行動している。だから自分は笑われ、叩かれるのだ」という考えを、この物語のなかで自己正当化しているのだ。
まとわりつく湿度はまるで全身が呼吸するかのように心の外と中とを行き来している。
曲がり角の手前に立ち、呼吸を整えようとする。
これから断崖絶壁を覗きこむような覚悟と緊張感で足元がおぼつかない。
すこしでも落ち着こうとケータイを取り出すとメッセージの新着を知らせるランプが光っていた。
読み切ると同時に声が掛かる。
「あ!ちょうどよかった!早かったですね!」
意表を突かれて取り繕った笑顔を返すのが精一杯だった僕の心に、底抜けに明るい声が鈍く刺ささる。
お互いが人の親になり、忙しさを理由に連絡を取らなくなって3年が過ぎた頃だ。
こちらの気持ちなど構う様子もなく、一方的に熱量に溢返った言葉たちが並べられていた。
逢いたい。声が聞きたい。話を聞いて欲しい。
その言葉どれをとっても、今の疲れ果てた自分には麻薬のように魅惑的だった。
結婚を条件に上京してきた彼女にとって、都会での生活は何もかもが苦痛だったそうだ。
しかし、仕事と接待に明け暮れる夫は彼女を癒やそうとはしなかった。
そんな彼女が僕に対して癒やしを求めてきたことが、二人の関係の始まりだった。
働き盛りだった僕も疲れていたが、僕に癒やされる存在がいるということが、僕にしてみれば最大の癒やしになった。
そもそも独り身が長い僕にしてみれば彼女の重荷にならないように付き合うことは簡単だったし、今までの生活やしがらみに疲れた彼女にしてみればそこから離れて素直になれることだけで十分に癒やされていたのだろう。
夫の仕事の帰りが遅いことをいいことに、一緒に食事をしたりカラオケで歌を歌ったりする毎日を過ごしていた。
その一度もあったといっていいかは難しい。お互いが裸になって抱き合っただけで終わってしまったのだ。
なぜだか分からないが、いざそういう関係になろうとしたときにお互いが急に冷静になったのだ。
求めていたことはこれだったのだろうか。それをしてしまうことでこれからの付き合いが慣れ合いになってしまうのではないだろうか。
もはや戻れない所まで来ているつもりだったが、高いと思っていたハードルを不意に超えてしまったことで拍子抜けしてしまったというのが正直なところかもしれない。
ただ、彼女に対する愛が本物なのだという確信に変わったのはむしろこのことがきっかけだった。
略奪愛は何度も考えた。慰謝料がどれほどになるかわからないけど離婚させたいと真剣に考えていた。
しかし彼女は何度も結論をはぐらかし、それを理由に会うことを拒んでもいつの間にか現れては、気付いたらまた一緒の時間を過ごしていた。
そんなふうに憎めないところが彼女の一番やっかいなところだった。
自分に素直だといえば聞こえがいいが、自分がそうだと思ったら相手の考えなどお構いなしに真正面から突っ込んでくるのだ。
いつまでたっても彼女が結論を出す様子はなく、つかず離れずの日々ばかりが過ぎていった。
それもこれも自分がしっかりしないのが悪いのかもしれない。そう思って、別の女性との結婚を真剣に考えるようになった。
程なくして、知人の紹介で知り合った女性とまさにトントン拍子で縁談がまとまることになった。
まさに奇跡的な出会いで、実に出会いから結婚まで半年もかからないほどだった。
その事実を彼女に伝えると、僕の期待とは裏腹に彼女は無邪気に喜んだ。
そして、彼女から妊娠を聞かされたのはそれからすぐのことだった。
彼女とは忘れた頃に送られてくるメールでほそぼそとつながっていたが、ある日生まれた子供を見たいと言い出した。
妻とも会いたがっているようで、いわゆるママ友が欲しいというのだ。
冗談ではないと思いつつも、いつも通りの押しの強さに僕はあっけなく折れてしまった。
はたして当日はいつ地雷が爆発しないかと生きた心地がしなかったのだが、母親になったことで責任感が目覚めたのか、そもそも僕に興味をなくしたのか全ては杞憂のまま時間は過ぎ去っていった。
結局ママ友になったわけでもなく、それっきり連絡もよこさなくなりこのまま自然と離れて忘れていくのだと思っていた。
CMで人の良さそうに振る舞う無名の女優が彼女にそっくりだったのだ。
大げさに目を見開いて驚く様子や、目尻のシワを構う様子を感じさせないような満面の笑顔、肉厚な唇を表情豊かに動かす大きめの口。
忘れていたはずの感情に血液が注ぎ込まれて鼓動を始めるかのように、彼女を求める気持ちが目覚めていくのが分かった。
妻は子育てに疲弊しながら結婚生活に慣れ、僕をないがしろにし始めた。
僕は妻から愛され続けられるように家事や子育てに積極的に参加したし、妻の疲れを少しでも癒せるように外に連れ出したり話に耳を傾けたり妻が楽しめそうなものは何でも用意した。
同時に、僕は妻のことを好きで居続けようと毎日努力をし続けた。妻の何が魅力なのかを考え、思い出し、再確認する毎日だった。
でも、妻が僕のことを好きでいてくれる努力をしてくれているかは疑問だった。
結婚して7年。二人目の子供を授かってから4年になるが、それ以来身体を交わすことはなかった。
何度か誘ってみたものの、願いが受け入れられることはなかった。
こんな状況だからこそ彼女からの誘いははっきりと断ったのだが、熱量と無邪気さに押し切られてこの日に至ってしまった。
今足を踏み外せば僕は全てを失って奈落に落ちるだろう。
こんな憔悴した状態で崖の上を歩くのが危険なことだというのは子供でもわかることだというのに。
僕のそんな気持ちもつゆ知らぬ様子で、彼女は無邪気に自分のことを話し続けた。
僕の話す言葉一つ一つを本当に嬉しそうに聞いては、無邪気な笑顔を見せていた。
僕の精神は何度も僕の身体を離れ、彼女の手を握ろうとしていた。
その度に僕の手は空を切り、彼女の手は蝶のように気ままに舞い遊んだ。
お互いには家庭があり待っている人間がいるのだ。
この日彼女に会うことは当然妻にも伝えてある。むしろそうしたほうが自分が足を踏み外さない保険になると思ったのだ。
それに、隠れてコソコソ会えるような器用なことは自分にはできない。
楽しくなかったといえば嘘だ。でも、それを楽しんでいいのかどうかはずっと疑問だった。
大げさな話をすれば自分の人生は何のためにあるのかという話になる。
でも、そんなことをいちいち考えたい気分ではなかった。
彼女は満足できたのだろうか。彼女が望んでいたのはほんとうにこうして気軽に話すことのできる状況だけだったのだろうか。
僕がどんな気持ちでここに来たのか、彼女はわかっているのだろうか。
そんなことを考えていると、いつの間にか僕の手は無意識に彼女の方へと伸びていた。
僕の手は、彼女の胸の高さまで来ると平を上にして開いた。
そのまま数秒の時が過ぎ、僕は苦笑いとともにその手を引っ込めた。
彼女もつられて笑い、別れの挨拶とともに改札へと消えていった。
僕が今いるこの世界は、彼女がその手を握り返さなかった世界だ。
今朝はまたリビングで眠り込んでしまったことに対する小言を妻に言われ、問題が起きるまで大してやることのない職場でこうして文章を書いている。