はてなキーワード: 文芸作品とは
会場の警備、海外観光客の誘致、交通整備など様々なところで税金が使われてるかと思いますが。なんなら同人誌自体も申請すれば助成金もらえるわけですし
https://b.hatena.ne.jp/entry/4672598644092735426/comment/nunnnunn
会場の警備
自腹だそうだが
https://togetter.com/li/1139197
仮に呼んでたとして別に呼ばなくても成り立つからコミケ側としてはどうでも良いと思うんだが
どうせこれのこと言ってんだろ?
https://www.google.com/amp/s/nlab.itmedia.co.jp/nl/amp/1804/04/news096.html (同人誌の印刷製本費を助成!? 名古屋市の制度、どんな同人誌が対象なのか市役所に聞いてみた)
担当者によると、助成の対象となる出版物は「文芸作品」または「名古屋の郷土研究」を内容とするもの。文芸作品とは小説、評論、詩、短歌、俳句、川柳などです。漫画の同人誌が助成の対象になるのか聞いたところ、ここ3年間には前例がなく明確な回答はできないとのことでした。
話題につられて珍しく三体というSFを読んでみたが作品を名乗るのもおこがましい愚書悪書だったので騙されて買わされた鬱憤を晴らすべくいかに愚劣にして悪辣か書き並べる。購入を検討している人に端的に警告するとハリウッド映画によくある知的弱者を喜ばせるための頭の悪い定型表現が嫌いな人は拒絶反応が出るだろう。また実際の人類の理論及び種族的進歩を顧みず作者の浅薄で無知蒙昧な妄想から逆に進歩をを後退させており極めて愚劣にして悪辣である。買ってはいけない。以下解説。
本が読めない。
読書家が人生において遅かれ早かれ直面するところの事件である。
本が読めない。
当方二十代後半の男であるが、今より遡ること十八年ほど前にラノベ(ブギーポップは笑わない)と出会い、それ以降文芸における視野を国内外の純文学や文芸作品へと広げ、様々なジャンルにおける読書体験を営みながら、これまでの人生を生きてきたのである。
そして、その読書体験の勢いと呼ぶべきものを二十代の前半辺りにまで持続させ、さてこれからの人生においても長い付き合いになりそうだなあ、などと呑気に構えていた時分、不意にその能力が消失したのであった。
何故なのかは分からないけれど、突然本が読めなくなったのだ。
書物との別れ。
何故なのだろう?
当方通勤に一時間以上を費やす難儀な民であるため、通勤時間中は心を半ば無にし、脳の活動を極低状態にまで抑え、死んだ目で通勤していたのが仇になったのだろうか。
(皆さん、覚えておいてほしいのだけれど、通勤時間が20分を上回るようになると脳の鬱傾向が加速するというエヴィデンスがあるそうなので、通勤時間はできるだけ短縮するようにしましょう)
でも、俺に関して言えば未だに通勤時間は二十代の前半から変わっていない。むしろ職場の変更から伸びたくらいであって、つまりその移動距離は未だに脳に対して厄介な負担を掛け続けているということになる。
まあそら本も読めなくなるわな。
とにかく去年の夏に至るまでの数年間、俺は本を読むことができなかった。
読みたい本はたくさんあった。それこそ山のようにあった。かつて、若き日の盛りに大阪へと日帰りの小旅行に行った思い出があるのだけれど、それは梅田に存在する某超大型一般書店に立ち寄るためだけに計画された小旅行なのであった。そんなこんなで、俺はその超大型書店へと赴き、そこで購入できる限りの本をわんさと買った後で、地元へと帰還したわけである。無論、それらの本の内の殆どは積ん読ルートを辿り、今も尚本棚の一角を占めその存在感を俺にアピールし続けている。
まるでそれは十字架だった。
俺の、購入した時点で尽き果ててしまった、知識に対する独占欲と好奇心に対して釘を打ち付けるかのような、それは罪悪感を俺に植え付けるための十字架だった。
何故なのだろう。
何故我々は本が読めなくなってしまうのだろう?
ここに至る理由には色々あると思うのだけれど、第一に思い浮かぶ理由といえば加齢である。
人間の脳は部位によっては三十代を超えてもなお成長し続けると一般に言われているが、しかし厳然として人間の肉体は二十代の半ばを境に衰え続けるのも事実である。というか、どちらかと言えば成長よりも衰退の方を意識せざるを得ないのが殆どではなかろうか、と思う。我々は衰退している。というか、我々の脳は衰退しているのである。衰退しました。
――つまりは、我々は一度読書能力を失ってしまうと、よっぽどの克己心を持たない限り――あるいは、そのような驚異的克己心を持たない限り――そのような超人的克己心に基づく人格改造なり人体改造を経ない限り――再び読書能力を取り戻すことは、難しいということなのである。
俺もそうであった。
それは、まるで一人の気のおけない友人との別れにも似ている。
ぶっちゃけると何でなのかは分からない。でも、確かにできるようになった。
復活した。アーメン。
(イースターの季節ですね)
去年の夏頃からその能力は突如として再生した。昨年から現在に至るまでの読書量は、読書能力が失われていた時代を遥かに超えている。ここのところお硬い文学小説にばかり目を通しているのだけれども、ここ一年間くらいで読んだページ数は5000頁を優に超えた。これまでの読書量を遥かに凌駕するレベルである(待っててくれプルースト)
正直なところ、何かを意識して自己改革したという記憶は殆どない。強いて言うならば、当時スマートフォンの通信量制限が喫緊の重要な課題と成り果てていたため、そのデータ通信量を節約するという実情に迫られて、通勤手段である電車に乗り込んでから本を読むようになったのがその理由と言えるかもしれない。
行きに十ページ、帰りに十ページ。
それを毎日。
仮に、一ヶ月の間に通勤期間が二十三日存在するとすれば、行きに十ページ帰りに十ページを繰り返すのであれば、一ヶ月で我々の読書量は460ページに到達するということになる。
とは言え、まずはそういうレベルから始めるのが得策であろうと思われる。人間は恐らく一日の間に二十ページ以上の本を読むことはできないのだ――特に文学小説のような対象を相手取るのであれば、僕らの克己心は我々の想像する以上に貧弱なのである。
さて。
これは正確に言うとライフハックではない。
電車の行き帰りで、それぞれ十頁ほどの時間を読書に費やすようになった男が存在している、というだけの話である。
そう、キーワードは電車だ。脳ミソと通信量のダブルダメージを避けようと、不意に読書を人生途上で――つまりはレールの上で――再開しただけの、それだけの話なのである。
参考になったであろうか?
恐らくは、なるまいと思う。
とは言え、かつて存在しその後に失われてしまったところの能力が、突如として復活するということは有り得るのだと――俺はただただその事だけを――伝えたかったのだ。今日を生き始めたものだけが、かつての息吹に再び胸をなでおろすことができるようになるのである。
皆さん、本を読みましょう。
魂を取り戻すために。
本が読めない。
読書家が人生において遅かれ早かれ直面するところの事件である。
本が読めない。
当方二十代後半の男であるが、今より遡ること十八年ほど前にラノベ(ブギーポップは笑わない)と出会い、それ以降文芸における視野を国内外の純文学や文芸作品へと広げ、様々なジャンルにおける読書体験を営みながら、これまでの人生を生きてきたのである。
そして、その読書体験の勢いと呼ぶべきものを二十代の前半辺りにまで持続させ、さてこれからの人生においても長い付き合いになりそうだなあ、などと呑気に構えていた時分、不意にその能力が消失したのであった。
何故なのかは分からないけれど、突然本が読めなくなったのだ。
書物との別れ。
何故なのだろう?
当方通勤に一時間以上を費やす難儀な民であるため、通勤時間中は心を半ば無にし、脳の活動を極低状態にまで抑え、死んだ目で通勤していたのが仇になったのだろうか。
(皆さん、覚えておいてほしいのだけれど、通勤時間が20分を上回るようになると脳の鬱傾向が加速するというエヴィデンスがあるそうなので、通勤時間はできるだけ短縮するようにしましょう)
でも、俺に関して言えば未だに通勤時間は二十代の前半から変わっていない。むしろ職場の変更から伸びたくらいであって、つまりその移動距離は未だに脳に対して厄介な負担を掛け続けているということになる。
まあそら本も読めなくなるわな。
とにかく去年の夏に至るまでの数年間、俺は本を読むことができなかった。
読みたい本はたくさんあった。それこそ山のようにあった。かつて、若き日の盛りに大阪へと日帰りの小旅行に行った思い出があるのだけれど、それは梅田に存在する某超大型一般書店に立ち寄るためだけに計画された小旅行なのであった。そんなこんなで、俺はその超大型書店へと赴き、そこで購入できる限りの本をわんさと買った後で、地元へと帰還したわけである。無論、それらの本の内の殆どは積ん読ルートを辿り、今も尚本棚の一角を占めその存在感を俺にアピールし続けている。
まるでそれは十字架だった。
俺の、購入した時点で尽き果ててしまった、知識に対する独占欲と好奇心に対して釘を打ち付けるかのような、それは罪悪感を俺に植え付けるための十字架だった。
何故なのだろう。
何故我々は本が読めなくなってしまうのだろう?
ここに至る理由には色々あると思うのだけれど、第一に思い浮かぶ理由といえば加齢である。
人間の脳は部位によっては三十代を超えてもなお成長し続けると一般に言われているが、しかし厳然として人間の肉体は二十代の半ばを境に衰え続けるのも事実である。というか、どちらかと言えば成長よりも衰退の方を意識せざるを得ないのが殆どではなかろうか、と思う。我々は衰退している。というか、我々の脳は衰退しているのである。衰退しました。
――つまりは、我々は一度読書能力を失ってしまうと、よっぽどの克己心を持たない限り――あるいは、そのような驚異的克己心を持たない限り――そのような超人的克己心に基づく人格改造なり人体改造を経ない限り――再び読書能力を取り戻すことは、難しいということなのである。
俺もそうであった。
それは、まるで一人の気のおけない友人との別れにも似ている。
ぶっちゃけると何でなのかは分からない。でも、確かにできるようになった。
復活した。アーメン。
(イースターの季節ですね)
去年の夏頃からその能力は突如として再生した。昨年から現在に至るまでの読書量は、読書能力が失われていた時代を遥かに超えている。ここのところお硬い文学小説にばかり目を通しているのだけれども、ここ一年間くらいで読んだページ数は5000頁を優に超えた。これまでの読書量を遥かに凌駕するレベルである(待っててくれプルースト)
正直なところ、何かを意識して自己改革したという記憶は殆どない。強いて言うならば、当時スマートフォンの通信量制限が喫緊の重要な課題と成り果てていたため、そのデータ通信量を節約するという実情に迫られて、通勤手段である電車に乗り込んでから本を読むようになったのがその理由と言えるかもしれない。
行きに十ページ、帰りに十ページ。
それを毎日。
仮に、一ヶ月の間に通勤期間が二十三日存在するとすれば、行きに十ページ帰りに十ページを繰り返すのであれば、一ヶ月で我々の読書量は460ページに到達するということになる。
とは言え、まずはそういうレベルから始めるのが得策であろうと思われる。人間は恐らく一日の間に二十ページ以上の本を読むことはできないのだ――特に文学小説のような対象を相手取るのであれば、僕らの克己心は我々の想像する以上に貧弱なのである。
さて。
これは正確に言うとライフハックではない。
電車の行き帰りで、それぞれ十頁ほどの時間を読書に費やすようになった男が存在している、というだけの話である。
そう、キーワードは電車だ。脳ミソと通信量のダブルダメージを避けようと、不意に読書を人生途上で――つまりはレールの上で――再開しただけの、それだけの話なのである。
参考になったであろうか?
恐らくは、なるまいと思う。
とは言え、かつて存在しその後に失われてしまったところの能力が、突如として復活するということは有り得るのだと――俺はただただその事だけを――伝えたかったのだ。今日を生き始めたものだけが、かつての息吹に再び胸をなでおろすことができるようになるのである。
皆さん、本を読みましょう。
魂を取り戻すために。
論文が単なる研究報告ではなく同時に文芸作品でもあることを求められるような分野では、たとえ査読誌システムが確立していても単行本化されたモノグラフの地位は高いのです。歴史学とか人文系の多くはそう。ただ単行本にも査読があってしかるべき、とは言える。— 稲葉振一郎 (@shinichiroinaba) 2018年10月8日
某氏の記事で議論中にひたすら個人の体験談や感想が書かれていた理由がこれで理解ができた。
論理ではなく相手の感情を揺さぶることで勝敗の決まる分野であるのならばあのような書き方になるわけか。
ついでに言うと、小保方さんへの反応の違いもわかってきた
当時理系が「捏造だ!」と騒いでいる中、一部の文系の人たちは「コピペだ!」と騒いでいた。
ある種の文芸作品であるとするならばたしかにコピペは重罪だろう。
オリジナリティを出すべきは研究と考察に関してだ。文章にオリジナリティを出すのは嫌われる。文章はなるべく短くシンプルにわかりやすく。
当初コピペが発見された箇所が method の部分であったこともあり、理系のコピペへの反応は薄かったと思う。
業界ごとに決まっている定型文も多いし、装置の設定なんてたまたま一致してしまうこともあるだろう。
これが後に小保方さんの使っていない装置だったと判明、つまり捏造ということで一気に炎上した。
理系は大体こんな流れだったように思うけれども、文系の方は一貫して「コピペだ!」と言い続けていた印象がある。
理系にとってコピペが「信号無視」だとすると捏造は「殺人」レベルの重罪だ。
5時に夢中という番組で「美しい顔」の盗用問題に対する作者の謝罪コメントについて、作家で伝統文化評論家の岩下尚史氏が次の意見を述べた。「この作者は"想像力の力でもって被災地の嘘になるようなことを書いてはいけない考えた"というが、本当は想像力の力でもって被災地の"真実"を書くのが小説だと思う。事実でなく、いかにもありそうな話(真実の話)に仕立て上げることが大切である。」
また、盗用問題について次の意見を述べている。「文芸作品は必ず前の作品があって書けるものだから、そうやかましく考えなくても良いと思う。オリジナリティというものを非常に神経質に考える世の中になっている。自分一人で1から10まで考え出すことはないのだから表現というのは。私だったら誰かに真似されたら嬉しく思う。」
私はどちらの意見にも賛同する。フィクションは現実世界を作者の心の目を通して主観的に描くものだと思うし、人間の情報処理を仕組みを知ればオリジナリティなど存在しないことがわかる。私は今まで岩下尚史氏を気難しい中年のオカマぐらいにしか思っていなかったが、この人は創作の本質をよく理解していると思う。しかし、「オリジナリティは幻想である」という主張は商売上都合が悪いので、このような意見はコンテンツビジネスで生計を立てている人たちから黙殺されるだろう。
今回の問題についていろんな人がいろんな意見を述べているが、結局は金の話だと思う。誰かが時間をかけて作ったものを利用して金儲けをする人を許せないと思った。ただそれだけの話である。
小学生の頃に父の寝床にあったミステリ短編アンソロジーのひとつ。
小学生の頃にはこれに恐怖しながら頁を繰っていたものだが、そんな感性を持っていれば読書は楽しくて仕方ないだろうと思う。
作者もタイトルも覚えてないので、もう二度と会えない作品でもある。
ネタバレも糞もないけど以下あらすじ。詳細はたぶん色々と違ってるはず。
ビジュアルのよい若い女性である事もあってマスコミは色めき立ち、連日週刊誌やワイドショーで引っ張りだことなる。
当人のキャラクターと裏腹に作品の内容は重く暗いものだたが、選考委員を唸らせるだけの内容のあるものだった。
狂言回しの編集者はマスコミに出る女子大生の軽い言動と作品の乖離に違和感を覚える。
一方、彼女が写ってる写真や取材の映像で高頻度である男が背景に写り込んでいる事に気付く。
そんな事をしているうちに、彼女は受賞後第二作を発表、これも受賞作ほどではないが高い評価を得る。
このペースで内容の伴う作品を連続で書くのはベテランでも無理だろう、
何かあると調べて行くと、文藝マニアの知人が、彼女の二作品と戦後まもない頃にデビューして注目されつつも病か何かですぐに姿を消したある新進作家の作品との類似点に気付く。
その作家のデビュー作はそれなりに注目されたため巻頭で近影が掲載されたが、その顔は彼女の背景に写り込んでいる男の顔そのものだった。
そこに辿り着いた時点で、彼女が交通事故に遭い意識不明の重体とのニュースが飛び込んできた。出版社に第三作の一部を届けに行く途中の事故だった。
同僚の担当編集と共に彼女が搬送された病院に行き、ICU前で彼女の家族から聞いたその作品の内容は前二作と文体も内容もかけ離れたものだった。
「ある文学部に通う女子大生が授業のレポートで、何の気なしに戦後の頃のあまり知られてない作家を取り上げてみる事にした。
それから暫くしたある日、彼女の元に差出人不明で手書きの古びた原稿用紙の束が届く。どうやら文芸作品のようだ。
原稿と一緒に「これを世に出して欲しい」とのメッセージも入っていた。訝しんだが文芸方面で名のある出版社に投稿すると、その女子大生の素性も相まって大々的に売り出される事になった。
そこからしばらく、差出人不明で礼を述べる手紙等が届き、次に発表する用の原稿も届く。
女子大生は世間からちやほやされて浮かれてたが、送り主から「メディアに出過ぎるな」「露出を控えろ、喋り過ぎるな」と警告されるようになる。
彼女は常に監視されている事に恐怖を覚え、この事を世間に発表しようとする。」
話はその書き掛けで止まっていた。
そんな事を編集者たちが考えていると、ICUの扉が開き、そして告げられた。
「彼女が息を引き取りました」
いつも当意即妙のコメントありがとうございます! 今年もどうぞよろしくお願いいたします!!
失敗作
①円安により割安になった日本の株に外国人投資家の買いが入った。
2012年12月28日日経平均10395円、85円/ドル。円は第二次安部内閣発足時より40%程度毀損している。
10395円×0.4=4158円、少なくとも4000円程度の上昇分は円の毀損による株価の上昇。
②円安による家計から企業への所得移転により企業の売り上げが増えた。
トヨタの売上 20兆円(80円)
円安によりトヨタの売り上げが10兆増えたとしても、それは家計の負担増が為替市場を通じ移転されたに過ぎない。
③将来の財政破綻による銀行券の大量発行を見越し投資家に買われた。
アルゼンチンやジンバブエなどにおいても財政破綻時は著しく株価は上昇した。
【結論】サギノミクスによる株価上昇は、①円安により国民負担を増加させ、かつ、それを
為替市場を通じて企業の利益へ移転させた。②ドル建てで割安感の出た外国人投資家が
日本株を買った。③日銀によるETF買い。④将来の財政破綻を見越し投資家の買いが入った。
⑤デフレ脱却をお題目に企業に値上げを促し、それによって家計の所得を企業へ移転させた。
ことによるものである。企業が強くなったものでは全くなく、国民を苦しめた結果生じたものである。
原価率7割として原価200円、利益80円。付加価値が80円から180円になった(225%増)。
GDPが牛丼一杯あたり225%も増えた。これがサギノミクスによるGDP増の正体。
デフレ脱却をお題目に意図的に企業に値上げを促し、その結果、効用(満足)は変わらないのに物価だけが上がり、
国民を苦しめたことにより達成されたGDP増がサギノミクスのGDP増。
企業利益になるくらいなら、その利益分を消費税増税で税収として徴収し、国民の福祉
(教育や行政の効率化を促す投資)に回したほうがよっぽど良かった。
安部自民は消費税増税の時に散々値上げを促していたが、企業利益のための値上げと
消費税増税による値上げをいっぺんにやったら、物価は急激に上がり消費が落ち込むのは
明らか、結果、個人消費の落ち込みは想定以上になった。あの対応は馬鹿としか言いようがない。
【結論】サギノミクスによるGDP増は国民を豊かにした(財産などを与えた)のではなく、国民を苦しめ、
国民の財産を企業に移転させたことによって生じたものである。これは貯蓄率などからも伺える。
① 円安と企業の売り上げを増やすための意図的な値上げで貧困層が増え、
今まで働いていなかった主婦が働かざるを得なくなった。
② 円安と企業の売り上げを増やすための意図的な値上げで年金だけでは
生活できなくなり、今まで働いていなかった高齢者が働かざるを得なくなった。
③ 今まで大手の正規社員だった夫や家族が非正規になったため、賃金が減り、
主婦が働かざるを得なくなった。
④ 高齢者の増加で医療介護の需要が増え、それを賄うための雇用が増えた。
⑤ 円安により国力を弱めた結果、外国人観光客が増え、それに伴う観光業の雇用が増えた。
国力を弱めれば外国人観光客が増えるというのは後進国などを見れば自明。
⑥ 資格取得など教育に関する補助金などにより、教育関連の雇用が増えた。
⑦ 円安により製造業が強くなったというのは全くの出鱈目。雇用はほとんど増えていない。
雇用者数 製造業 宿泊観光 医療介護 教育支援 公務員 (万人)
2011 5459 998 314 647 267 222
増減 237 1 20 131 15 9
http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/
【結論】サギノミクスによる雇用増加は①高齢者の増加。②円安による国力低下(国民貧困化と外国人観光客増)。③財政支出(公)により需要を創出した(バラマキ)。の結果生じたものである。
① 若年労働人口の減少(求人は圧倒的に若い労働者に対するものが多い)。
■労働力人口の推移
15-24歳 25-34歳 合計
2015 516 1191 1707 ▲25
③ 政府に有利になるように数字を操作している可能性もあり得る。企業が偽りの求人を出したとしても統計でそれを省くことは不可能。
【結論】サギノミクスによる有効求人倍率の改善は、少子化による若年労働人口の減少と高齢者の増大
による医療介護の求人の増大によるものである。金融緩和や政府の経済政策によるものではない。
そもそも安倍自民が優れた行政集団であるならば、あらゆる分野(医療介護、製造業、飲食など)で生産性を
効率化させたはずであり、そうなれば雇用者数は減っているはずである。
それでも家計が窮することのない豊かな社会を作り、余剰労働力はもっと知的な生産活動(科学文芸など)
に投入され、科学や音楽、映画、ゲーム、文学などの分野において、もっと優れた作品や技術革新が
生み出されたはずである。
だが、現実は正反対あり、世界で賞賛されるほどの文芸作品や技術革新はほとんど生み出されず、
極論には極論で返しただけ。
本音のところロリショタレイプはトラウマに近いし見たくないと思ってる(非人間的かどうかはご勝手にラベリングして結構)けど、これは論として酷過ぎるからね。
>誘発させると思った。
それは貴方の主観ですよね? 私の挙げた文芸作品や数多の思想、報道に誘発の可能性は全くないとでも?
>~影響があるのであれば~
そう、問題はこれ。ずっとこれが分からないから議論が続いてる。
>~賛成派になったのは~ネトウヨ~
影響のあるなしが問題なのに、反対派(の一部)が気に入らないから転向? 冗談言ってもらっちゃ困るよ。左翼にも反対派はいるしオタク(と呼ばれている人達)にも規制派はいる。この人ははどれだけ文献に当たったの? 論文は何本読んだ? その果ての懸念表明ならまだしも、ネトウヨがおかしいから規制して影響を与えた漫画家は責任を取って辞めるべきだって?
これこそ単なる感情論であって、子供の被害を防ぐ事とは少しも繋がらないよ。問題を矮小化して「あの漫画さえなければ」って考えはどんな思想や作品にも通じる。
だから私は吐き気がするほど嫌いな凌辱同人にもペドレイプにも何も言わないでいる。自分が嫌いだから規制しろなんて我儘過ぎると思ってね。だけど、この意見にはそれすらないでしょ? 嫌いだからではなくて、擁護している連中が嫌いだから、なんだよ? 真面目に返答をするべき意見かどうか、もう少し吟味して「非人間的」と断じて下さいな。
そうそう、余談だけど私は"個人的に"は、史上最も多くの人に影響を与えて今でも多くの殺人の一因になってるのがキリスト教の救世主で、その次がイスラム教の預言者だと"思ってる"。戦争の原因は、多分お互いに相手を規制しようとしたから。人間的な増田さんはその辺りはどう思ってるのか、ぜひ聞いてみたいな。
つまり、マイナスの自尊心と言うべきなんだろうけれど、いわゆる「神話」みたいなものを持っている人は多数派であり、そして自分のように「神話」を失ってしまった人間というのは少数派なのだと思っている。
つまり、神話というのは誰かにとっての信じるに足る世界なのであり、自分自身の根拠の裏付けみたいなものなのであり、つまりは自分と世界の価値が存在すると信じられるだけの証拠みたいなものなのであって、そういうものを殆どの人は持ち続けているような気がするのである。
だからこそ、そういった人々は無邪気に生きていて、自分自身の存在が価値あるものであると思うことができて、大体今のまま生きることを望んでいる――そんな気がするのである。
勿論、これは歪んだ自己認識であり歪んだ世界認識であるわけで、つまりは偏見なわけだけど、でも、そんな気がするのである。
自分に関して言えば、「神話」を失ってしまったのは僕が十五歳くらいの時で、確かその時くらいから阿呆みたいに文章やら文芸作品やらを書き始めていたと記憶している。その二つが完全にリンクしているわけでは無いにせよ、ある意味ではそれはシンクロしていたし、ちょっとした引き金のようなものになっていたのではないかと思っている。いずれにしても、僕にとってその時神話は失われてしまっていて、じゃあ神話が失われてしまった後の世界にはもう神話と呼ぶべきものは何一つ存在しないのかと言えばそうではなくて、新しく選ばれるのを待っている神話の気配がそこには息づいていて、でもそういうものに関しては僕は殆どの部分で拒否していて、ちょくちょく受け入れたりはするものの、基本的にはかつて存在していはしたものの今となっては失われてしまった神話の回復と復権だけが生きる目的になってしまっていたわけで。というわけで、現在僕の世界には古い時代の神話が少しだけ息を吹き返していて、そのお陰で僕は少しだけ安心して昔みたいな世界を生きることができているというわけなのであった。
思うに、若い頃から今にかけてまともな恋愛ができなかったというのは、その所為もあるのかもしれない。つまり、恋愛とは一種の「物語」の共有であると僕は思っているのだけれど、つまり、お互いが信じている何らかの価値とかそういうものを擦り合わせて、「あ、大体自分達の『物語』は同じっぽいぞ」というテレパスを感じた時点でまともな(世間では「まともだ」と思われている)恋愛というのが始まるということではないかと思っている。で、僕はそういう誰かと共有するべき物語というか神話というか何というかを持ち合わせていなかったので、どうにも自分の隣に立っている女の子が異星人か何かのように思えたりして、それでどうにも上手くいかなかったのではないか。いや、たくさんの女の子を愛したのだ。愛だけはたくさんあったのだ。僕の中には、新しく息づこうとしている神話が幾つか生まれつつあったのだ。でも、それは女の子たちが持っている物語とは全く違ったものだった。女の子が求めている物語と、僕の持っている神話というものは随分違ったものだったのだ、結局のところ。
まあ僕が恋愛下手であるというそれ以上の結論は存在しないんだけれど、それでも、同じような物語をお互いに「持っている」と感じることができたのであれば、その恋愛は割と上手くいくものなのではないか、とそんなことを思う。
というわけで、僕は誰かと共有するあてのない物語を書き続けている。
何かを失ったり、何かを手に入れたりする人々の話を書き続けている。
それらが日の目を見ることはひょっとしたら無いのかもしれない。
それでも、僕は書き続けている。
それらの物語を、他の、誰かと共有するために。いつの日か、自分にも価値があったんだと思うことができるようになるために。
神話を失っていないひと達へ。
枯れた作品がメディアミックスwによってみずみずしく息を吹き返すことで定評ある池井戸せんせーの最新作
「下町ロケット2」はドラマと同時進行で連載が更新される、という画期的な状況
……なんですけど、どーにも読む気になれなくて。という事実を認めようと思います。
理由はかんたん。
朝日新聞の土曜と日曜の朝刊全15段で連載されてるんですが
レイアウトを含めて、これがいかにも「広告局の企画」っぽいんですの(ホメてない)。
うわっ...私の頭、固すぎ...?
新聞の連載小説が文芸作品の発表媒体として意義あった時代は既に終わっている・と思っていたので
広告の体裁で/ドラマ放映に連動させるタイミングで更新していく、というスタイルは
チャレンジングで良いんじゃね。と思っていたのに
文章がまるで頭に入ってこないっていうのはこれ、私ひとりの問題なんですかね。
後追いを生みそうなほどの話題になれていないあたりは、果敢な失敗事例として