はてなキーワード: 文章表現とは
「お前が 『好き』 と感じたことと、それが 『良い』 かどうかは別問題」
はてなにおける文章力あるなしの定義は、まさしく 「好き」 と 「良い」 を混同した状態となっております。
言葉の定義について後で揉めたくないので最初にここをハッキリ書いておきますね。
話し言葉に近づけた表現をするなら以下のようになるでしょうか。
はてなにおいて 「文章力がある」 「文章力がない」 という言葉が使われている場面の多くが、単にその文章の好き嫌いを語っているように感じます。
言っているはてなー本人が 「読み手に伝わりやすい良い文章」 とは何かを正しく認識できていないことによって想起している問題です。
文法が正しい。誤字脱字が少ない。無意味な造語が少ない。対象の曖昧な代名詞が使われていない。複数の読み解き方が可能な文章となっていない(意図してそれを行っている場合は除きます)。論理の飛躍がない。過剰な頻度で同じ話を何度も繰り返していない。こういったマイナス要素の少なさこそが、良い文章を形作ります。
契約文書や法律文書は、甲乙による呼び名を代表とした堅苦しい表現が使われています。これらは一般的には読みにくい文章となりますが、それぞれの表現が指す範囲を明確にする必要があり、かつ冗長にならないようにすることを最優先する必要があるために、独特の表現を使った文章となっています。
日常会話において法律文書のような表現を用いれば、伝達において齟齬が生じやすくなるでしょう。逆に契約書に砕けた表現を多用すれば、あとで揉める原因となるでしょう。
シチュエーションごとに適切な文章表現を選び出す能力は 「文章力」 の最重要の構成要素です。
「文章力」 の構成要素を羅列し見れば分かる通り、 「個人が好ましいと感じたか」 は 「文章力」 との関係性が極めて薄いのです。
過剰にヘイトを煽るような表現を多用して判断力を下げる文章が世の中にはありますが、それを書いた人間の目的が相手を感情的にさせて判断力を下げることであったならば、それはその目的にあった文章となっています。
自分の好き嫌いを基準に 「文章力」 を語るはてなーにはそういった視点さえも欠如しています。その証拠に、自分本位の好き嫌いの基準のままで文章の良し悪しを判断し 「文章力がある」 「文章力がない」 という表現が多用されているのを非常によく見かけます。
このような謝った言葉の濫用は、全く持って言葉に対して不誠実と言えるでしょう。
ですがそれらが悪意や、善意のなさによって生起していると考えるべきではないように思います。
単純に、 「文章力」 というものを正しく認識する機会に恵まれることの難しさが原因だと私は考えます。
高校までの教員の中に言語の研究において論文を何本も書き上げた経験がある人がどれほどいるのでしょうか?
大抵は大学に通い教員免許を取る過程において少し齧った程度のままで、その後は現場の忙しさに翻弄され、学生たちのしょうもないてにをはの間違いを如何に効率よく正していくかばかりが頭を支配することでしょう。
そして多くの日本人はそうした教員から受けた言語教育だけを、言語に対して深く触れた体験だと感じ、そこに言語能力というものの天井を感じてしまうのです。
虫かごに入れられたノミの話と同じように、人間は下手に天井を感じるとそれ以上を目指さなくなります。
正しい言語力というものを、単にセンター試験の国語で満点を取れるだけのものであると思えば、そこからの百分率で言語というものを考えるようになる。
ですが実際には言葉というものはもっとずっと複雑でいくらでも工夫のしがいがあるものなのです。
それを知らない人達が安直な好き嫌いで 「文章力がある」 「文章力がない」 といった表現を使っているのは非常に悲しいことです。
ですが、これは現代社会における教育コストの問題であり、一個人が過剰に憂いても仕方がないことなのです。
それでも吐き出したかったのでここに垂れ流させていただきます。
お目汚し大変失礼致しました。
エッチなシーンも盛り込める?
もちろん、エッチなシーンを盛り込むこともできます。ただし、ゲームのターゲット層や配信プラットフォームによっては、性的表現に制限がある場合がありますので、ご注意ください。
エッチなシーンの例:
瑠璃子: 主人公と瑠璃子は天文台で一緒に働くうちに、恋愛関係が深まる。ある夜、二人は天文台で二人きりになり、星空の下で情熱的なキスを交わす。その後、二人はオフィスで愛を確かめ合う。
美穂: 主人公と美穂はカフェを閉めた後、二人きりでディナーを楽しむ。美穂は主人公に対して愛情を告白し、キッチンで激しい抱擁に発展する。その後、二人はカフェのリビングで愛を育む。
詩織: 主人公は詩織の家を訪れ、彼女の過去の秘密を共有する。詩織は主人公に感謝し、彼女との信頼関係が深まる。その夜、二人は詩織の部屋で、互いの心を通わせる濃厚な愛撫を交わす。
これらのシーンは、登場人物との親密度が一定のレベルに達した場合に解禁されることが一般的です。また、エッチなシーンはグラフィック表現や文章表現で描写されることが多いです。表現の程度は、ゲームのレーティングや配信プラットフォームのガイドラインに従って調整してください。
一部の社会学者
どうも「文章表現」に力を入れたいというか
自身の著作を「文学」の領域で扱って欲しい欲求があるのでは、と勘繰ってしまう
実際、社会学者の本の中には「今の日本社会はなんちゃらかんちゃらで嘆かわしいことだ……ああ!」みたいなエッセイを羅列して、はいこれが社会学でござい的なもんがごろごろある
そして読者(正確にはその社会学者の信者)も、〇〇先生の新作、胸に沁みました!みたいな極めて情緒的な感想を述べるのである
社会学者及びその擁護者はしきりに社会学は必要な学問なんですよ!と言うが
歴史学者が「明智光秀は本当は世を憂いた優しい男だったんです……泣ける!」なんて言ってたらバカでしかないが、社会学は罷り通るのである
推すというのはアーティストの価値観に共感するからで推すのであり、
まぁ推すことは微塵もできないが(当然、義務教育が怪しいレベルのストーリーになってる)
漫画は構成要素が多いので、テキスト内容・舞台装置・小物・ストリートにドン引きつつも、
けど小説は文字だけだからな。ドン引くほどに常識が無いともうそこで世界に入り込めなくなってしまう
漫画の方は商業でも義務教育レベルが怪しい人が大作家やってたり、無限にちょっとアレな方はいらっしゃるが、
小説の方は商業だと『なろう』でもあまりいない(怪しい人もいるにはいるが、多くはご都合で浅いだけ)
個人的にはそりゃそうだろうよと思う
小説書きにそこそこの筆力がある場合、そこそこ本を読んでいるはずである
だからこそ、語彙力・表現力・リズム感・構成力を得ているはずで、常識的な知識を得る機会は無限にあったはずである
「おれは増田のみんなを愛してる。ほんとうだ、神様に誓ってもいい。おれは増田を愛してる、おまえたちみんなを!」
まずは『増田のやべーやつ番付』の作成者に感謝を述べる。ポリンキー増田は番付掲載を目標に活動していたからだ。2022年7月場所【anond:20220720211525】にて、初掲載ながらも小結という高い階級を与えてくれてありがとう。目標は達成できたので、ポリンキー増田は今日限りをもって引退することを宣言する。
引退するにあたって、ポリンキー増田のこれまでの活動を振り返るとともに『△△△<教えてあげないよ! ジャン♪』の投稿を愚直に繰り返してきた理由を教えてあげよう。
教えてあげないよジャン♪
私が最初に行ったポリンキー増田の投稿だ。なんと、原初のポリンキーには『△△△<』が無かったのだ。トラバ元は削除されているので、トラバ元のはてブエントリーを以下に示す。
私がなぜ「教えてあげないよジャン♪」とトラバしたのかはもう憶えていないが、おそらくは「教えてください」というタイトルの記事に対してわざわざトラバをしておきながら何も教えない、というギャグのつもりで書いたのだと思う。「わざわざトラバしておいて教えないの草」、「ポリンキー懐かしくて笑った」などと、読んだ人が感じてくれたらいいなと私は考えたのだろう。
2回目に行ったポリンキー投稿のトラバ元である。これもタイトルに「教えて」と付いている点では共通だが、トラバした意図は最初の物とは大きく異なっていることは記憶している。その意図の説明として、回りくどくなるが増田全般に対する私の思いから教えてあげることにする。
私は増田が好きだ。私は増田を愛している。しかしながら、ポリンキー増田は増田での質問やアンケートを嫌っていると考えている人もいるだろう。その誤解を解くためにも、冒頭にSF小説のセリフをパロディして増田への愛を語った。
私が増田を好きな理由としては、自由な書き込みが多いことにある。名前欄が無くIPアドレスどころかIDの表示すらないことが、便所の落書きと称される5ちゃんねるやバカッターと称されるTwitter以上に自由な文章表現を生むのだろう。内部告発じみた怪文書だったりセックスやジェンダーに関わる主張だったりは顕著な例だろう。増田が無ければ増田文学と称される名文の数々は投稿されなかったことだろう。
大量のブクマが付くような増田だけでなく、トラバやブクマが付かないにもかかわらず強烈なインパクトを残す増田も好きだ。いわゆる「増田のやべーやつ」である。字下げ増田の独特なスペースや改行の混じった怪文書を解読して、その人の精神状況を想像するのが好きだ。パリコレ増田の特徴的な「❌」「⭕」記号を見ると、相変わらずこの人は元気に活動しているなとほほえましい気分になる。
そして、ブクマが全く付かなくても「増田のやべーやつ」でなくても、くだらない質問やアンケートを書いたり答えたりするのも好きだ。議論やネットバトルでトラバを重ねることも、それを見ることも好きだ。
しかしながら、ブクマカに関しては必ずしもみんな好きだとは言えない。もちろん、面白い増田を発掘してくれるブクマカは好きだ。しかしながら、「三大〇〇、あと一つは?」や「〇〇な漫画orアニメ教えて」のような内容が皆無のアンケート風タイトルの増田に対して、面白くも無いブコメを書いてスターを送り合って、はてブをくだらない雑談や馴れ合いの場にしているブクマカは嫌いだ。
はてブのサービス趣旨は、ブックマークを保存・公開することによりネット上で話題になっているWebページの発見を補助することにある。【参考:はてなブックマークって? - はてなブックマーク】
かつてははてブ上で互助会ブロガーが跋扈していたが、公式がサービスの趣旨に反していると明言したことで互助会は次第に姿を消していった。互助会がいなくなったことに、多くのはてな利用者は賛同したことだろう。私もその一人だ。しかしながら、増田のくだらないアンケートにブクマを付けて、エントリーをアンケート解答欄にしてスターを送り合うことは互助会とどこが違うのか? 私には互助会行為と同じくはてブのサービス趣旨に反していると思っている。
やっと本題に入ることができたが、『一人称視点の漫画教えて』の増田を見た時には、トラバが1件も付いていないにもかかわらず既にブコメ欄ではくだらない雑談やスターの送り合いが始まっていた。
「お前(ブクマカ)がくだらない増田の質問を出しにしてブコメ欄で馴れ合うのは、はてブのサービス趣旨に反するぞ。だから教えるな」
「ブコメ欄じゃなくて、こっち(増田)に来て好きなだけ教えてろよ。もっとも私は教えてやらないけどな」
このようなことを当時の私は主張したかったのだろう。しかし、そのことをブクマしてブコメ欄に書くのはミイラ取りがミイラになることも同然であるし、トラバで私のお気持ちを長々と書いたとて元増田にとってはただのとばっちりになってしまう。私の複雑な気持ちを端的に表現しながら、道化を演じて角が立たないような文章にしたのが「教えてあげないよ! ジャン!」である。
それ以降、アンケート風のタイトルの増田を見かけたら「教えてあげないよ! ジャン!」となんとなしにトラバすることを繰り返していた。しかし、そんなことをしても反応はほとんどなかったので、私の思想が伝わったか否かはわからなかった。そもそも、元ネタがポリンキーということすら通じていないのでは? せめて、元ネタだけでも気づいてほしい。そう思って△△△の記号でポリンキーを示した初めての投稿がこちらだ。
△△△<教えてあげないよ! ジャン♪
現在お馴染みとなっているポリンキー増田のフォーマットは、この投稿により完成したのだ。当時私が考えたのは、記号付きの定型文で機械的に反応するのは「チョコエッグ🍫🥚」でおなじみのチョコエッグ増田の様だということだ。そして、チョコエッグ増田が短期間の活動ながらも番付に掲載される勢いがあったのだから(チョコエッグ増田は2022年3月場所にて初掲載)、同じ様なことをすれば私も番付を狙えるのではないか? と思いついた。はてブをアンケート解答欄にしているブクマカを諫めるという目的は、番付に掲載される「やべーやつ」を作ることへと変貌するのはあっという間だった。あとは質問やアンケートに類する投稿を見つける度に「△△△<教えてあげないよ! ジャン♪」とトラバするのを習慣にするだけだった。ポリンキー増田の投稿とは別に、はてブをアンケート解答欄にしているブクマカを諫める文章を公表したい欲もあったが、それはポリンキー増田の活動の妨げになる。だから今日この瞬間まで、ポリンキー増田を愚直に継続する理由は何も教えてあげなかったのである。
私が『増田のやべーやつ番付』の掲載を目指した理由ついても教えてあげよう。私は500users超の増田を書いてはてブのトップページに載ったことがある。自分の文章がはてブのトップページに載ったのは嬉しかった。顔も名前も全く知らない大勢の人たちの反応によって、自分の思想が多くの人に影響を与えたことを実感できたので、世界を変革したかのような快楽さえ感じた。トラバやブコメが大量についたことはもちろんだが、増田内での雑談でも私の増田が話題になったり、便乗した増田が出てきたりもした。さらには、はてなとは全く関係ないネットメディアにも私の増田が掲載されたことが私の精神を昂らせた。しかし、そんな盛り上がりはほんの3日間ほどで終わりを迎えた。トラバやブコメの反応は3日後にはピタリと止まり、増田やブクマカは既に別の話題で盛り上がっていた。三日天下という言葉はその時の私の心情を表現するために作られたのだとさえ感じた。また、その増田は年末の増田文学に掲載されたが、それによってトラバやブクマが増えることは全く無かった。
増田でトップレベルのブクマ数を稼いだとて、しょせんはこのようなものだ。増田文学などバズった増田を投稿した人のほとんども、おそらくは私と同じような気持ちを味わってきたことだろう。それに対して「増田のやべーやつ」は違う。ブクマを全然稼げなくとも、常に増田界隈で話題の中心であり続けているからだ。横綱級のやべーやつでなく番付が低くても、「むきゅーはややー」のゲーム日記や「すいすいすいようび~」の回文増田のような何年も継続している「増田のやべーやつ」は高い知名度を持っている。ブクマされた増田でしか増田を見ない人に対してはピンとこないだろうが。
私は増田に投稿するだけでなくファーストブクマカとして増田発掘もやっていたので、「増田のやべーやつ」に遭遇するのは日常茶飯事だった。だから、4か月毎にある番付の内容に共感していたし楽しみにもしていた。そして、増田投稿でブクマ数を稼いだりファーストブクマカとしてスターを稼いだりするのに憧れるように、「増田のやべーやつ」として番付に掲載されることにも憧れがあった。その気持ちが、ポリンキー増田の原動力である。
「増田のやべーやつ」に掲載されるキャラクターを意図的に作っただけで、私がまともであるなどと主張するつもりはない。「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」の言葉をそのまま解釈すれば、やはり私は「増田のやべーやつ」なのだろう。番付に掲載されるという目標が無ければポリンキー増田は1か月も続かなかっただろうが、そもそもそんな目標を立てて半年近くも活動を継続している時点で私は自身を「やべーやつ」だと解釈している。目標を達成した今となってはポリンキー増田としての活動は時間の無駄にすぎないので、引退を宣言したのだ。
しかし、私が引退してもポリンキー増田は完全には無くならないと思う。体感だが、ここ1か月ほどのポリンキー増田のうちで私が投稿したのは7割ほどである。それは、質問やアンケートに類する増田に「△△△<教えてあげないよ! ジャン♪」とトラバしようと思ったが、すでに同じことが書き込まれているというケースがままあることを意味している。しかしながら、自分の投稿でないポリンキー増田の正確な数は、検索性が無いのでわからない。「チョコエッグ」・「クンニ」・「パリコレ」などのキーワード検索ができる「増田のやべーやつ」とは違うのだ。番付掲載を狙っている人はキーワード検索も意識してキャラクター付けするといいだろう。
最後に、私自身のプロフィールを気にする人に向けたメッセージで締め括ろうと思う。そもそも、なぜポリンキー増田を気にする人が多いのだろうか。ポリンキー増田と同じく特定の話題に機械的な反応をする増田に「チョコエッグ🍫🥚」・「礼には及ばんでござる」がいるけれども、それらの増田に対してプロフィールを気にする言及はほとんど無いように思う。おそらくだが、人は肯定されることよりも否定されることの方が感情を揺さぶられてしまうのだろう。その結果として、否定意見を言われると「お前はいったい何なんだ?」などと同じく否定意見を言い返してしまって、相手の人格などに言及してしまうのだろう。インコやオウムに「バカ」と言われるも同然なことに、否定する価値は皆無であるにもかかわらずだ。
ポリンキー増田の年代を推測した人はおおむね当たっている。ポリンキーのテレビCMが放映されていた当時に私は子供だったからだ。しかしながら、職業・居住地・趣味嗜好などそれ以外のプロファイリングについて的を得たものはなかった。そもそも、「△△△<教えてあげないよ! ジャン♪」という投稿を繰り返しているという事実だけで、一体どう人物像を分析できるのだろうか。具体的な私のプロフィールについて語ったとて何も面白いことはないので、教えてあげるつもりは……教えてあげないよ! ジャン♪
ちなみに、この増田にブコメやトラバで何らかの質問や疑問が書かれたとしても、追記して教えてあげるつもりも……教えてあげないよ! ジャン♪
国語の試験で点が取れないやつの特徴に「文章中に書いていないことを勝手に作り出す」があるそうだが、その典型だな。
Vtuberの可能性を閉じてしまった企業でもあると思う。バーチャルであるが故の人を超える可能性は、中の人ありきのペルソナタレントにしてしまった時点で消えてしまった。面白い人に時間を使うだけのサービスになった。
それに対して君が「かみ砕いた」ものが以下のとおり
「VTuberという語の可能性が閉じてしまった」というのは、詳しく言うとこうだ。
「今のVTuberのあり方に引っ張られて方向が定まってしまった。VTuberって言われたら、誰もが2Dのアバターをまず思い浮かべるだろ?もちろんそれ以外も思い浮かべるが、2Dのアバターを思い浮かべる確率は格段に高くなる。それはつまり、人の発想の幅がある程度狭まって方向がついてしまったということだ」
比較して見てもらえれば一目瞭然だが君はもともとのブコメの解釈を大きく間違えている。
元のブコメが「Vtuberの可能性を閉じてしまった」と表現しているのは「アバターと演じる人間が不可分の関係になってしまった結果Vtuberは属人的な魅力がメインのコンテンツになってしまった」
ということであってもっと単純に言うならそもそもブコメ書いてある通り
「バーチャルであるが故の人を超える可能性が消えた」ということだ
ここまではっきりと書いてあるものに解釈の余地などあるだろうか?
少なくとも君が言うような「Vtuberと聞いたら2Dアバターを思い浮かべるようになった」ということではないことは明らかだ。
そもそも元のブコメには2Dどころかアバターについての話は一切触れていない。
ましてや「2Dのアバターを思い浮かべる確率が高くなり、人の発想の幅がある程度狭まって方向がついてしまった」などという主張は元のブコメのどこからも読み取れない。
君は文章に書いていない内容を勝手に自分の頭で作り出している。この解釈の仕方は国語の試験なら0点だ。
当然の話だが君の頭の中で勝手に作られた解釈に基づいて反論されてた所でこちらには議論のしようもない。
くどいようだがもう一度言おう
元のブコメで主張されている「Vtuberの可能性」とは「人を超える可能性」のことであり
「Vtuberと聞いたときに思い浮かべるイメージが固定されてしまった」という話は元のブコメではしていない。
なんなら他のブコメもしていないし、反論している増田もしていないし、もちろん俺もしていない。
君だ。唐突に表れて2Dアバターの話をしてるのは君だけだ。誰だ君はちくわ大明神か。
これは以前に書いた内容の繰り返しになるが、そもそも書いてある文章の内容についてどうこう言うまでもなく「~しまった」とか「○○なだけ」と3度もネガティブな表現を使っている時点で
「否定してない」と評するのは無理があるだろう。文章の書き方でどう受け取られるのか、どう受け取るのか考えるのは文章表現の基本のキだ。
少なくとも俺は「閉じてしまった」「消えてしまった」「面白い人に時間を使うだけ」という表現を繰り返しているこの文がにじさんじに否定的でないとは受け取れない。
君の反論の多くがそもそも前提となる文章読解の時点で大きく食い違ってるし、そもそも俺の文章ですら正しく読めていない。
そんなことは一言も言っていない。もう一度言うが書いていないことを勝手に自分の頭で作るな。
前提の文章も正しく読めていないうえ、俺の文章ですら理解の怪しい所がある以上
議論がかみ合わないのも当然のことで、これ以上個別に反論したところで意味がないだろう。
君自身も全行に懇切丁寧に回答する必要はないといっているわけだし。
ただそれでも指摘したい点がまだある。
以下の俺の文章についてだ
多少なら調べればわかるレベルの話をそれもせずに書き込んでいるという話と
インターネットの匿名の人間が実際に何をしてるのかわからんというのを同列に扱って
ブーメラン乙とか言ってるのもさすがに恥ずかしすぎるぞ
「AとBを同列に語るな」という文章に対して「A」だけ切り取って反論しているのは呆れてしまう。
君は当初元ブコメも一部切り取って「否定していない」と主張していたが
君自身が文章の切り取りを批判しておいて度々このような行為を繰り返しているのは、誠実さの欠如なのか単に読解能力に原因があるのかはもう俺には分からない。
こんなところから話を始めないといけないのは脱力してしまうが、ここまで話がかみ合わないないようでは反論も何もないので仕方ない。
さすがにここまでレベルが低いとため息が出る。
どの職場も同じだと思いますが、仕事はグループ長を含め5人のグループ単位で行っています。グループと言えど各人の仕事は独立しており、相互に影響を及ぼすものではありません。
その中に一人、私より年齢も階級も遥かに上のとんでもなく仕事ができない人間がいます(以下A氏とします)。私は社会人2年目なので、こんなに仕事ができない人が何故生き残ってるのか疑問が湧くほどに、仕事ができません。その愚痴を書き始めると、はてなダイアリー史上最長の文章になるので語るのは控えます。
今回は、社会人2年目の「若者」と言う視点から見た仕事ができない人間への思いや、対処法を始まりとし、「若者」の仕事観について考えたいと思います。
A氏は私の直属の先輩に当たります(30歳上なので上司とも捉えられる)。しかしとにかく仕事ができないので、絶対に終わらなければいけない仕事を完了させることができません。そうなると誰かがやることになるのですが、比較的余力のある私がA氏の仕事を行うことになります。本来の業務に加え突然現れたA氏の仕事を行うので、夜は遅くまで働くことになり、A氏の仕事だけで建物から締め出される時間まで働くことも多々あります。しかし、A氏からお願いしますとも申し訳ないとの言葉は一言もなく、A氏はしっかりと定時になると帰っていきます。また、A氏から私の作成したものに対して苦言を頂くこともあります。
こういったことに対して周りからは「よく怒らないね」とか「あんなこと言われたら怒ってもいいよ」と言われます。
しかし、私がA氏に対して抱く感情は「諦め」です。彼が仕事ができないのは遡れば大量採用時代の弊害ですし、これまでの仕事教育の失敗です。
これまでの文章表現も気をつけてきましたが彼は「仕事をやらない」のではなく「能力的に仕事ができない」んだと思っています。(能力的にできても、仕事をやらない人も、「やれない」という意味で仕事ができないのだと思います)そんな人間に怒りの感情を持つのが誤りです。誤解を恐れない表現をしますが、人は飛べないですし、犬は喋れません。それと同じで彼は仕事ができません。
○対処法
私は諦めの心が強いので動じませんが、腹が立つ人もいると思います。そんな彼に対して、最も平常心を保って残業する対処法は「ボランティアだと思う」です。ボランティアと言う言葉の意味が全てを説明してくれていますが、こういう人を相手にするときはボランティア活動として社会貢献をしていると考えて働くのをおすすめします。ボランティア活動は社会貢献プラス周りからの評価を高めることもできます。ぜひ心持ちとして活用してください。技術的に言えば、二択でしか答えられない質問をしてヒアリングすることです。「好きな色は?」と聞くと、気がついたら宇宙の真理を話し始める可能性があるので「赤か青、どちらが好きですか?」と聞くように心がけましょう。そうすることで心穏やかに且効率的に働けます。
○若者
ここで拡大し主語を「若者」と変えますが、若者は諦めるのが早いと思います。この「諦め」とは努力をやめるという意味ではなく「期待しない」という意味です。これは社会組織から一定距離を置く傾向が強いことに繋がるように思います(いわゆる若者は飲み会を嫌うです)。若者は組織からの見返りを特段求めていませんし、自らのやるべきことを行っているだけです。なぜ期待しないような感性が育ったのかは難しいですが、子供のときから社会との接点が少なくなったことで大人からの期待への答えを得た経験がないこと、などが考えられます。
話が乱雑になってきましたが、無能な上司と諦めの若者は日本社会を確実に衰退させていきます。確実にです。諦めの若者が無能な上司を見て思う気持ちはより強い諦めです。「何だこれ」と思います。私は思っています。
私は日本を憂いています。若者が生き生きと生きていける世の中はどこにあるのでしょうか?努力を正当に認められ、「頑張ろう」と思える世の中は来るのでしょうか?努力は認められると思う世界は来るのでしょうか?
子供時代の教育も重要ですが、社会構造の改革も必要です。変えるのは「上司」です。腹くくってください。頼みます。腹立ってきたのでやめます。
この暗号解読してくれよ 1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2005/06/06(月) 17:43:57 ID:PORZK8Ek0 月は月 花は満月 雪は三日月 酒は夜 大学の講義で出された問題なんだけど 解けたら無条件で単位くれるってんで必死こいて考えてんだよね ググってもヒントすらみつかんねーし おまいらマジで頼む 7 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2005/06/06(月) 17:46:47 ID:PORZK8Ek0 解くに当たって確定してる事 ・答えは日本語 ・文字数は不明 ・回答がひらがなのみ、カタカナのみ、漢字のみなどのになるかどうかは不明 回答は教授に直接聞くしかねーんだよね 15 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2005/06/06(月) 17:48:59 ID:PORZK8Ek0 >>4 文章表現 良く脱線して話始める教授なんだけど、面白い話があるっつって問題出された 来週答え出すってさ 今週中に答えが解ったら単位くれるんだと ヒントは全然もらえねーし、マジ意味わからん
問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい 川北 天華
川北天華。当時は進学をめざす高校生。進学は最終目標ではなく過程のひとつだろう。
単語と語法は平易。しかしそれらはすべてべつの何かを表象する。示唆により言外を表象するテクニックは掛詞とよばれるが、この歌は全句が掛詞で構成されさらに全体として言外のなにかを表象する。このため通常の和歌の範疇を超え、たぶんに神話的な雰囲気を持つにいたる。
配置
物理か地学の問題文をなす歌を助詞などを除去し単語をならべその内容を検討。
内容は上記のとおりテスト、光景に二分され、交互にならんだふたつの要素がリズムを形成している。
テスト、光景、ふたつの要素は卑近。受験をひかえた高校生という状況をあてはめると、この世代特有の神話的要素がうかぶ。
テスト、光景という対極を交互につなぐ構成は内外両極を往還するリズムを生んでいる。対句法ではくくりきれない振り子のようなリズムである。その振り子は往還をくりかえしながら全体をある方向へとすすめてゆく。机上の1枚の切片にしるされた問12という即物的な文言は夜空を数式で描けと命じそのときは下界を無視せよと結ぶ。一枚の切片がもとめる問いは振り子のようなリズムのなかで一瞬にして無限の宇宙へと拡大し発散する。読者はこの内外両面、両極往還のリズム、そして机上のちっぽけな紙片から数式をとおして一気に宇宙にひろがる強力なベクトルによってここちよく翻弄され、さまざまな記憶作用を楽しむことになる。じっさいのところこのリズムとベクトルは、おとなとこども、他発と自発、受動と能動、服従と自立ーつまり境界面を生きる高校生の生活のリズムとベクトルそのもので、それらが作者、あるい読者のこころのゆらぎそのものを表徴する。
問十二
夜空
青
街
明り
良い
各々の単語および叙述は高校生にとって卑近ではあるが軽くはない。試験問題、ふと見上げる夜空、その奥にひろがる宇宙。それらは作者の人生の主要な一部、あるいはすべてかもしれない。ひとつひとつの単語が表層の意味から遊離して現状と行く手の不安、悩み、探求、願望、希望、決意といった、思春期から青年期にかけての心象を表象する。この歌は、読者ひとりひとりに当時の記憶を想起させる力を持つ。
展開は三部で序破急をとる。
テストの問題文からはじまる文章表現はそもそも斬新なのだが、それを体言止めとして何かを宣言している。この宣言は直裁に読者にとどき、読者はこの歌とともに問いに挑むことになる。
十二は天文や暦法と関連がある。詠人だけにわかる何かの符丁かもしれない。だがそんな読み解き以前に十二月は受験シーズンであり、夜空がもっとも冴えわたる季節でもある。受験生たち、あるいはかつての、そしてこれから受験生となる読者たちは、冴え渡る夜空にひろがる大宇宙を仰ぎ何を思うだろう。
この衝撃はじゅうぶんに非凡な序を一気に振り切り読者を天空に打ち上げる。
微分される夜空の青とは何か。
それは学問的対象として規定される夜空であり、それゆえ純粋に観察と探求の対象であり、その分野への進学を目指す詠み人にとって、それは宇宙であり未来であり、そして自分でもあるだろう。それだけではない。その解をもとめる読者じしんの姿でもある。
街のあかりとは成功し定着したものたちの放つ光、そうしたしがらみとははなれた位置にいる受験生にとって、街のあかりは外部か雑音にあたるかもしれないし、いつか自分が再参入する場所かもしれない。
この歌はテストの問題文そのものであり、解答は記されない。作者はこの問いに答えることも思考の過程を示すこともせず、それらすべてを読者に投企している。そのため読者は作者の投げかけた問いの答えを探すことになる。読者は自問し夢み思惟し想像し記憶を想起する。歌を鑑賞することで作者の心象に分け入る作業がいつのまにか自問となり、ときには自分の過去、あるいは未来、そして今この瞬間を投影する。
上記のような構成は、ありていに言えば時分の歌、青春期限定の叙情歌といっていい。さしあたり言語機能の極限をさぐる現代短歌のなかではこうしたテーマははやらない。ではそれだけを根拠にこの歌の価値を限定できるのか。
そうかもしれないが、それで終わりにしてほしくない。なぜなら、こうした心のゆらめきを大切に記憶し想起し記述する行為は自己と世界のはざまから生まれる認識の、つまり哲学と科学の原初のすがたであり、その姿勢が現代短歌の流行からはずれていようといまいといっこうにかまわないから。
結句を復唱したい。
俗世、しがらみ、現実などを表象する「街の明かり」を無視してもよいと歌い上げる。かそけき深き空の青さが真実ならばその対極にある現実など捨象してかまわないとも歌い上げる。
時分の歌かもしれないが、そこに込められたまっすぐに真実を見ようとする迷わない力をわたしたちは大切に保持してゆきたい。なぜならそれはたぶん、うしなってはいけないものだから。
https://utap.hateblo.jp/entry/2021/09/27/015924
こちらを読んで思ったこと、自分のアカウントで書くと誰の話をしているかフォロワーにバレてしまいそうなのでここに書く。
同じカップリングの書き手の中に、エロい小説を書くのがべらぼうに上手い人がいる。
とても具体的で感覚に訴えかける表現をするので、こんなことを考えるのは失礼だけれど、性経験がしっかりあるんだろうなと思わされる。
その人は女性なのでもちろん男性同士の行為を知っているわけではなかろうが、読み手もほとんどが女性だしそこはたいした問題ではない。
想像力や文章表現の巧みさをどれだけ磨いても、調べたり話を聞いたりして知識を得ても、彼女の小説のいい意味での生々しさには敵わないだろう。
「自分と彼氏の実体験をもとにして書きました☆」は同人において嫌われるものの筆頭だが、もちろんその人はそういうことを明言してはいない。ただ、文章にどうしようもなく実地に基づく知識が滲み出ているのだ。
キャラクターの解釈もしっかりしているので、知っていることをただ並べ立てただけではなく、キャラの性格や「こういう時はこうするだろうな」という細部の表現も読んでいて違和感がない。
彼女の作品を読んだ後だと、他の同カップリングの書き手の小説はどんなにロマンチックだったり文章が綺麗でも、喪女の妄想だな…という印象が拭えない。
私はもう、このカップリングでエロ小説を書こうという気は完全になくなってしまった。
経験がなければ良い作品が作れないということは決してないが、経験を血肉化してそれを充分に表現するだけの力を持っている人の描写力は、とてつもなく強い。
増田見てても、ブクマカ見てても、ヤフコメ民を見てても学校の勉強で一番大事なのは国語、現代国語だというのがよくわかる。
当時は筆者のお気持ち問題とか本人じゃないとわからんやろと思っていたが、子供の中学受験の解答集を見ていると「ここにこう書いてあって、ここにこう書いてあって、ここにこう書いてあるからこうなる」ということが論理的に説明されている。また、選択問題などでは「提示されている文章内容からそこまで読み取ることができない=そこまで書いてない」という理由で×になるような問題も用意されていたりする。
つまり、現代国語をきちんと正しく学んでいれば「書かれてある文章を整理して読み解く能力」そしてその先の「書かれていない文章を勝手に読み解かない能力」をきちんと獲得できるはずなのだが、増田もブクマカもヤフコメ民も多くの人間にそれが足りていないように見える。
これはちょっと前に流行った「誰でもよかった」の解釈といった「言外に提示されている文脈」といったハイコンテクストな問題以前の、「書かれていることをそのまま受け取る」能力の欠如の話だ。
うちの息子も解答が正解にならない理由を「そんなこと書いてないよね」と説明するが「だってそうじゃん」と「独自の解釈=先入観」を理由に拒むことがある。ここで「書いてあるものは書いてある」と「自分の主張」を切り分けられる能力を獲得してほしいと俺は考えている。
自分の主張は当然大切だがそれは「書いてあるもの」を捻じ曲げていいということにはならない。
現代国語が苦手と主張する人の中には「文章表現に正解はないから学校で学ぶ現代国語など意味がない」などと豪語する人間がいるが、それでも「書いてあるものは書いてある」し「書いてないものは書いてない」のだ。
もちろん問題の中には「出題者の思想が反映されすぎている」問題もあることにはあるので、そういうのはしょうもないなとは思うが本当にごくわずかだ。ほとんどの問題が書いてあることを書いてある通りに理解しなさいということを問うている。