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はてなキーワード: 散文詩とは

2024-05-15

anond:20240515143624

虹の橋を渡る

読み方:にじのはしをわたる

虹の橋を渡る」とは、ペットの死を意味する婉曲的な表現。愛犬や愛猫を亡くした飼い主により「今日ペット名前】が虹の橋渡りました」といった言い方で用いられることが多い。

虹の橋を渡る」という表現は、「虹の橋Rainbow Bridge)」と題する詩が念頭に置かれている。同詩はペットの死を題材とする散文詩であり、《飼い主に先立って死んだ愛犬や愛猫の魂は、虹の橋を渡って天国へ昇る》という趣旨の叙述がある。

なお、同詩では「ペットの魂は虹の橋を渡らずに飼い主を待っており、飼い主が亡くなった後、魂は再会を果たし、連れ立って虹の橋渡り天国へ向かう」と述べられている。ペットが先に単独で「虹の橋を渡る」となると、もともとの詩の内容とは食い違ってしまうが、そこには暗黙の了解がある。おそらくは、原作との齟齬よりも、「天国へ旅立つ」イメージ日本語表現としての自然さが優先されたものと推察される。

2020年9月24日更新

https://www.weblio.jp/content/%E8%99%B9%E3%81%AE%E6%A9%8B%E3%82%92%E6%B8%A1%E3%82%8B#:~:text=%E3%80%8C%E8%99%B9%E3%81%AE%E6%A9%8B%E3%82%92%E6%B8%A1%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE,%E3%81%AB%E7%BD%AE%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82

2024-05-12

詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

2021-03-23

anond:20200926205323

いまさら見かけた。わりと好き。小説ってよりは散文詩だけど。

2020-12-14

anond:20201214174644

その表現1992年頃、アメリカ愛犬家が作った一編の散文詩が元になっている。

その詩を要約するとこうだ。

「この世を去ったペットたちは、天国の手前の草原に行く。

そこで仲間と楽しく遊び回る。

しかし、たった一つ気がかりなのが、残してきた飼い主のこと。

一匹の目に、草原に向かってくる人影が映る。

その姿を認めるなり、そのペットは全力で駆けていき、その人に飛びついてキスをする。

飼い主はこうしてペットと再会し、一緒に虹の橋を渡って行く」

引用元Wiki

そう、ペットたちは虹の橋を「渡った」のではなく、そのたもとで「待って」いたのだ。

この詩は、2000年代に入ってから、おそらくインターネットの普及もあって日本でも知られるようになった。

そして、この頃から日本でも認知されるようになった「ペットロス」を癒す効果もあり、日本で定着するようになったと言う。

2020-10-12

教養要求されない趣味の素晴らしさ

自分能力要求されない趣味ほど素晴らしいものはない。

聖書を諳んじられて、音楽技術を把握していて、花言葉理解できる奴だけがかるという映画のワンシーンを称賛する人間の浅ましさよ。

そうだな。

樽のディオゲネス・ラエルティオスが語ったのと同じだ。

「チンチンをシコると気持ちいぞ!これ豆な」

だ。

だが、その素晴らしさを彼自身理解できていたのかは疑問だ。

冷笑的に世界揶揄するために語った言葉を、彼のシンパ面白がって広めただけに思える。

性器に摩擦を加えると流れる電気信号が神経を介して脳の報酬系と結びついているというのは非常にありがたいことなのだぞ?

とはいえ性欲にも問題があって、単純に弄りすぎると痛くなる。

擦る場所性器から肛門に変えればいいだとか、妄想による興奮のみを楽しむにしたって同じだ。

性欲の解消は肉体を消耗していく。

なにより問題があるのは、性欲の最も素朴な解消法である異性性交を行うと妊娠という非常に悩ましい出来事がつきまとうことだ。

また、それは今や社会と混ざり合って単なる性欲の解消がひと目につかない場所で行わない限りは法的な処罰対象となりうるようになっている。

一部ポルノ単純所持違反考慮すれば、トイレに籠もっての自己手淫以外に安全と言える方法はないのやもしれぬ。

同様に簡単に解消できる欲求として睡眠と食欲がある。

睡眠は地味に厄介で、たった1日の寝すぎが一週間続く生活リズム崩壊の始まりとなる。

食欲の解消は、そこまでスピーディーな影響を及ぼすことは少ない……いや歳を取るとわずかな暴飲暴食、いつもよりたった1000kcal多い食事いつまでも胃腸で処理しきれずに数日ほど不快感が続くことだってある。

肉体的欲求の解消は教養必要とする度合いが低いのだが、肉体を媒介にするが故にオーバーランによって不快リバウンドが発生するリスクが大きい。

なんだかんだいって教養を要するのだ。

では、真に教養の要らない趣味とはなんだろう?

最も広く用いられるのは大衆音楽の類だろう。

大衆音楽は非常に素晴らしい。

鼓膜への振動がいい感じであるというただそれだけで楽しめる。

クラシックのようにその技巧への理解必要としないし、高音質であることすら求めない

宗教的な背景への理解不要であり、現代社会的な価値観で紡がれる散文詩理解するのに必要なのは単にその時代を生きてきたことぐらいだ。

内容の極めて単純な動画漫画文学の類も非常に良い。

中でも文学はただ文字が読めればいい。

漢字が難しいのなら子供向けの本を読めばいい。

児童文学を読むのが恥ずかしいというならハリーポッターについて語れる老人の数を考えてみればいい。

ハーマイオニーを知らないジジイの多くは単にアルツハイマーが進行しすぎているだけだ。

動画自分に向いた作品を選ぶことが出来れば楽しむのは難しくない。

ただ、動画表現の幅が文学よりかなり広がるため、NOT FOR ME問題が起きやすい。

向いてない動画はさっさと消して次に行くのがコツだ。

これはザッピングと呼ばれる技術テレビ放送が始まった頃に産まれ生活の知恵だ。

漫画は、本当に難しい。

ただし消費のしやすさにおいて文学動画より上なので、一度文脈を覚えてしまえばかなり人生が楽になる。

が、文脈を覚えろという時点で、今回の話題にそぐわない。

同様のものビデオゲームがある。

これも文脈理解によって遊びの幅が広がる文化なのだが、それを掴みきれない人間は単に綺麗な絵が動くだけの画面を延々とポチポチして変わりゆく絵を見るぐらいしか出来ない。

絵をザッピングする(これは先程紹介した動画ザッピングを絵に対して行うということだ)のならば、ゲームよりSNSの方がいいだろう。

これには3つの処方がある。

イラストSNSピクシブ、skeb)と呼ばれるものを使う場合は好きな作品を探すのが容易だし、クオリティが高い作品出会いやすく、同一作者の別作品にもアクセスやすい。

スクレイピングSNSタンブラーInstagram等)を使う場合は、同一作者の作品を探すのは難しくなるし、作品の質もばらつきが出るが、ザッピングという行為を楽しむのには理想的だ。

個人的おすすめなのがミニブログSNS(ツイッターマストドン)で好きな絵柄の作者を大量にフォローしてしまうことだ。これを行うことで自分だけの最高のイラスト空間が完成する。

さて、様々な低次元趣味を紹介したが、どれも一定位以上の教養必要となることが分かっていただけだろうか?

特に最後イラストザッピングなどまさにそうで、単に綺麗な絵をペラペラ見たいという未就学児童レベルの娯楽ですら効率化を目指すにはある程度知恵を絞って情報収集する必要があるし、日々自分生活を向上させる意欲を要求される。

悲しいことだ。

もしも、明日の朝、君が猛烈な頭皮神経痛に襲われ、次に目覚めたベッドの上で知能指数が下限を超えて測定不能になっていたとしたとき、君は何を楽しみに生きればいいのだろう?

食事を楽しもうにも、食べ過ぎればお腹が痛くなるという当たり前のことを理解する知性さえ失っていれば、それは満たされぬ精神的苦痛と満たされたのちの肉体的な苦痛に挟み込まれ苦悶の儀となるだろう。

ならば、何がある?

祈ることだ。

ただ、心を無心にし、無心を目指すことだけを目的に祈る。

なにもしないことを目指す。

すべてを失った人間に出来ることはそれぐらいしかない。

この世界で最も低次元の娯楽とは祈ることなのだ。

それも、神へ祈るのではなく、いわゆる禅、瞑想のたぐいだ。

無心を目指すことだけが最後に人に残された娯楽だ。

禅を高尚だと崇めるものよ、瞑想こそが格調高い儀式だと宣う者共、恥を知れ。

それは、三大欲求にさえ見捨てられた物に残された最後の娯楽、この世界底辺だ。

そこから、そのふてぶてしい脚をどけよ。

口語散文詩

国語の授業で口語散文詩というものを知ったとき、「詩って名乗ればなんでも詩かよ?」と思って反感を抱いたんだけど、いまは詩って名乗ればなんでも詩なほうがいいなと思う

2020-04-12

anond:20200412090422

お前の記述からHDD可能性を見出す論拠がどこにも無いか

頑張ってポエム続けてくれ 話がつながってない散文詩みたいなやつをな

2019-11-19

字下げ増田エントリーは、一見散文詩のようになっているのがいいよね。

2019-09-22

anond:20190921194058

すこしマジレスすると、それやると結局、単に字数制限のない散文詩いいんじゃない? ってことになってしまって、字数制限のある「定型詩」にする意味が失せるんよ。

これを超訳すると「そういうのはTwitterでやれ」になるんだが。

ただ、口語俳句とかはあるよ。

じゃんけんに負けて蛍に生まれたの」

とかな。意味説明しろと言われても困るけど。「詩情」ってものが詩のキモなので、これは「情感」のことだから、人によって捉え方に差があったりするけどね。

ともあれ、書かれた文章言葉意味なんかよりも、「詩情」を感じられるようになる方が、詩は楽しめるよ。

2019-07-11

anond:20190709193632

挙げられている例文は文法的に正しくないものの,そこまで否定されるものではないと思う.

なぜなら,文法的正しさは言葉の適切さを評価するための限られた一側面でしかいから.

鉄道の車内アナウンス場合言葉の適切さを評価する観点には,例えば,文の短さ(簡潔さ),敬意の表現文法的正しさがある.

これら全てを完璧に満たす文を作るのは難しい.

結果,重視する条件によって最適な表現は異なる.

携帯電話ゲームをしながらの歩行」
「周りのお客様とのトラブル怪我をされる恐れがあり」
  • 「周りの客様とのトラブルや、怪我につながる恐れがあるため」:○短い/×敬意なし/○正しい文法
  • 「周りのお客様とのトラブル怪我をされる恐れがあり」:○短い/○敬意あり/×誤った文法
  • 「周りの客様とのトラブルにつながったり、怪我をされたりする恐れがあるため」:×長い/○敬意あり/○正しい文法

※敬意あり/なし

1文目「怪我につながる恐れ」は,普通体を使用している(敬語でない).

客観的事実として」怪我人が発生することを恐れている,つまり,例えば鉄道の遅延や乗務員対応コストなど,鉄道会社の不利益が生じて欲しくないという含意が相対的に強い.

これに対し,2文目「怪我をされる恐れ」は尊敬の「れる・られる」を使用している.

聞き手である乗客個人が」怪我をすることを恐れている,つまり乗客自身不利益が生じてほしくないという含意が相対的に強い.

また,この乗客への敬意を文法的に正しく表現しようとすると,例えば3文目のようになり,文が長くなってしまう.

要するに,文法的正しさ以外の観点考慮すれば,上述の候補文は,全て一長一短がある.

一方で,(例え文法的に正しくなくとも)全ての文で,その意味は推論可能であり,使用可能である

実際,車内アナウンスの内容は事前にある程度予想がつくだろうから,極論すれば「携帯ゲームトラブル怪我禁止」という単語が含まれていれば,おおよそ言いたいことはわかってしまう.

その上で,この鉄道会社は,おそらく文の簡潔性を重視している.

鉄道乗客は,必ずしも車内アナウンスに傾聴しているとは限らず,周囲の乗客との距離感,手元の端末,降車後の予定などに注意が向けられていることの方が多いだろう.

「丁寧な印象で,かつ,聞き取りのための認知負荷が小さいアナウンス」を追求した結果,文法的正しさが犠牲になり,このアナウンス文になったのではないか,と思う.

話し言葉にとって文法的正しさはごく限られた一側面だ

話し言葉とは音声で伝わる言葉書き言葉とは文字で伝わる言葉とする.

話し言葉書き言葉の差は,自由に聞き直せる/読み直せるかどうかと,記録として機能するかどうかだ.

話し言葉はその場で消えていく空気振動だ.だから,一つの発話を聞き終えた時,自由に聞き直せない.また,録音しなければ,記録としても機能しない.

書き言葉は文末まで読んだ時,文頭に戻って読み直すのは自由だ.また,論文や本など,記録として機能することが多い.

話し言葉は発話を聞き終えた瞬間に十分理解されることが望ましいので,簡潔性が重要だ.

一方,記録として機能する書き言葉は,その内容の正確性が重要だ.書き言葉は読み直せるので,多少簡潔でなくても問題は生じにくい.

まり話し言葉は,書き言葉に比べて,正確性よりも簡潔性が重視されやすい.

私たちが幼少期に自然に獲得するのは話し言葉だ.

私たちが後に学校教育書き言葉文法規範)を習うのは,自然に獲得される話し言葉と比べて,要求される条件(例えば,正確性)が異なるからだ.

ただし,教育規範を与えるからと言って,話し言葉が,あらゆる場面で書き言葉のようであればあるほど(文法的であればあるほど)正しい,ということは意味しない.

なぜなら,上述のように,話し言葉書き言葉では要求されるものが違うからだ.

もっと言えば,話し言葉/書き言葉の違いに限らず,言葉使用される一つ一つの状況次第で,要求される条件は全く異なるからだ.

敬意を表現する,親しみを表現する,簡潔に表現する,微妙ニュアンスをほのめかす,話者の印象を制御する,など,言語使用の際に要求される条件は無数にある.

文法的正しさを犠牲にした時に,替わりに有益なことが実現できる場合もある.

例えば,散文詩広告キャッチコピーに対し「非文法的だ」と非難する人は少ないだろう.要求されるものが,文法と異なることが自然理解できるからだ.

同様に,バスアナウンスは,文法的であるよりも簡潔であることが求められる状況だった(と判断された),というそれだけのことのはずだ.

文法的に正しく話す人の印象

正確な表現は長くなりやすく,状況によっては,聞き手に過度な認知負荷を要求する.

正確に,書き言葉のように話す人は,状況によっては,聞き手認知負荷の軽減よりも,自分自身が「正しい」ことを優先しているとも捉えられかねない.

このため,「他人より自分を優先しそうだ」「他人の間違いにもうるさそうだ」「間違いを指摘したら面倒そうだ」といった印象に繋がる可能性がある.

やはり,文法話し言葉にとって絶対的規範ではない.

身の回りの非文法的表現を,単なる文法能力の欠如による産物と決めつけるのではなく,

何らかの合理性に基づく可能性のある産物として受け止め,どういう目的であえて文法を破っているのか,という背景に対する興味と想像力必要だ.

2019-01-17

anond:20190117085125

やあ散文詩世界へようこそ

この世界はひけらかせばひけらかすほど白い目で見られるので君にぴったりだよ

2018-10-24

anond:20180925051542

すごぴ!よくこれだけのものを心から引っ剥がして成文しましたね。

ふだんから己と戦い続けている人だと思います

私は散文詩ですが、通じる体験したことがあります。忘れていたものを沢山思い出しました。ありがとうありがとう

2016-06-28

http://anond.hatelabo.jp/20160628033618

みんな知ってて騙されてるんだよ。知らなかったの。

あと文章長すぎて疲れちゃうもっと端的な散文詩を書いてほしいね

2015-02-10

http://anond.hatelabo.jp/20150210172125

文学極道http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi )という、文学かぶれのクソどもが集っている掲示板があるのですが、そこにこの文章投稿してみませんか。面白い反応が来るかもしれない。散文詩という扱いで通ると思う。許可さえもらえたら私が適当PN投稿してもいいです。

2014-05-21

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コンセプト

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コメントするとローカル領域に保存。アカウント不要(登録不要パスワード不要表記する)。

ホッテントリビューアー

ホッテントリを見るものなのでこれはただのニュースフィードリーダーはてブカテゴリートップに表示される記事しか見れない。でもタグ検索して独自のカテゴリーを用意してもいい。タグhatenaカテゴリーとか。「凍てつく波動カテゴリーとか。「うーむ」カテゴリーとか。非公式カテゴリー公式カテゴリーと混ぜて一覧化。(ふーむはタグではないので抽出しづらい。実現するなら別のアプリになる)

カテゴリーの紹介文も適当に付ける。ベクターではこういう点が大事

タグは表示から省く。その代わり発見したタグ自動的に集計。カテゴリー候補としてmyカテゴリー作成のそばに淡色で表示。クリックで見る、またクリックするとカテゴリー化。ダブルクリックでも右クリックからコンテキストメニューからカテゴリー化可能。機能としては「ピン留め」だけど、体裁はタブのほうが良さそう。

自分検索した言葉もタブ化するか?→必要ない。そこで見つけたタグのほうをタブ化したほうがはてなブックマークに馴染める。

ブコメは敷き詰める。あるブコメが終わった同じ行の、次の文字から次のブコメを続けて表示。全ブコメをまとめてインライン表示。ブコメの集まりがlistではなく一つの自由律散文詩に見えるように。タグは含めない。

両脇に発言者アイコン。誰がどの部分を書いたか意識すればわかるように、アイコンブコメの該当個所を同じ色の枠で飾ったり、関係線で結んだりしておく。ブコメに付けたローカルスターはてなユーザーと関連付ける。ブコメではなく人にスターを。集計を見たユーザーはてなユーザー個人を意識するように。

無言ブクマは「…」。無言の多さも見て取れるように。

日記を書いて、それにあう記事を探すという使い方も

1. 日記を書いたらストック

2. 日記に合うブコメ探しは普通に

3. 相応しい日記記事にストックを貼り付け

まりストック機能だけ。

このアプリ日記とした方がいい?wDiaryが参考になる。

コレクションコメントをするのが日記。それを日記のように見せるのならあり。

まずはWebから離れること

ベクターで受けているのは自前のPCにすべてを保存するアーキテクチャーだ。

次にビューアーであること。ダウンロードインストールまでした上に登録などベクターユーザの誰がするものか。よってアカウント不要の閲覧に機能を絞ることになる。

かゆいところに手が届く

ベクターでは良質ソフトウェアを評価するときによく「かゆいところに手が届く」という表現が使われる。ユーザのやりたい操作ができること(ユーザーの発想を広げないエクスペリエンス)と、技術的制約……ユーザから見て理由のよく見えない妙な制約が無いことの2点のこと。

見せ方

コメントをどう見せるかが鍵。世間の声?世論ユーザーを指定してミュートできるとコメントできない不自由さを解消できるかも。



情報を見せる順序

1. 人気コメント

2. 記事タイトル

3. 記事

4. コメント全てとツイート

気を引く順。情報量が少ないもの順にもなっている。

記事タイトルならどこのニュースサイトでもやっているので、人気コメントを先に。

人気コメントは表示するけど、はてなスターは表示しなくていい。星が見えないのではてな村の星祭り意味不明に見える。

スターは支持。演説の後援者のような立ち位置

ブックマークエントリータイトルではなく最人気コメント

最初に見せるのはブックマークエントリータイトル(記事タイトル)の一覧ではなく、それに付いたコメントのうち最上位の人気コメント発言者アイコン付きで。エントリータイトルはその下に小さく表示。

リツイートを除外したTwitterのようなUXになる。

メインコンテンツはてなユーザー

このアプリコメント機能は「はてなユーザーやそのブコメコメントする機能」。お気に入りはてなユーザーを強調表示したり、非表示ミュート)にしたり。

Web上の記事も読めるけど、中心になるコンテンツはてなユーザーブクマエントリーページを見ながらメタブを付けるのをローカルでやるようなものがこのアプリエクスポート機能によっていつかははてなブログへ移行。

強調表示は太字や色の変化や大承認の「キラ承認」のように。

非表示は二段階。網かけか淡色化で見えにくくするか、完全に非表示(collapse)にするか。検索など他のビューでも有効

はてなユーザーに付けたコメントはそのユーザーIDが表示される場面全てでIDに併記される。ラベルレッテル)貼り機能。ラベル背景色も変えたい。ラベル内でも強調語やユーザーIDを消す機能有効にしたい。

コメントには絵文字も使いたい。

お気に入りユーザー

特定はてなユーザーTwitterユーザーお気に入りに。ローカル保存。見つけたら強調表示。ユーザーの表示から容易に検索ビューへ進めること。

強調表示される語はユーザーIDに限らない。任意文字列。登録と削除のビュー有り。

ユーザーコレクション

ユーザーアイコンお気に入り登録してコレクション

コレクションビューで一覧化。その人の最近コメントが読める。

UI

UIWindowsデスクトップのもの。表を多用する。WindowsXP対応。はへらったーが参考になる。



記事の人気をグラフで表示

数字よりも塗りの面積で見せる。

上限ははてブユーザー感覚に合わせたいけどとりあえず1000usersで。それを超えることはあっていい。

機能

履歴

シングルウィンドウシングルドキュメントなぶん履歴を活用して利便性を補う。

検索

検索ローカル領域を。ユーザーが見てもいない情報検索対象外。お気に入りユーザーログは含めてもいいかも知れない。それでも一人分の全ブクマダウンロードしてから検索

気になる話題についてどんなコメントが寄せられているか調べるには?→ 検索必要。新着/人気の両方を切り替えられないと話題は見つけられない。

印刷

印刷機能重要PDF化もここからなので。.docxにできればなおいい。

暗号

コメントを保存する機能があるなら、暗号化すると受ける。履歴があるなら参照時にパスワードを設定するといい。あなたの心のセキュリティ

そしてネットへ…

「完全版」としてb.hatena.ne.jp宣伝する

「ご利用には利用登録が必要です」 「このソフトウェアと開発経緯について」ダイアログだけでいい。無意味に切り抜いた矩形でないダイアログで。スプラッシュスクリーン無意味に切り抜くとちょっとすごい感を演出できそう。影付けて立体的なペーパークラフト感を出して。

日記自分コメントを書く

日記の日付は設定にある「日付の変わる時刻」を反映したものに。デフォルト28:00(4:00AM)。12:00から36:59まで指定可能。「かゆい所に手が届く」機能

はてブを読んではてなブログを書くために使う利用法も。(ブクマではなく)ブコメに星を付けるとコレクション。日別の日記記事になる。記事内は付けた星の色ごとにまとめ。ブコメ引用して自分日記を書く。星の色はウィンドウロゴの4色と黒。黒は非表示ミュート)のスイッチ

Webに移行

はじめはローカルで始めたユーザーWebに移行できるように。移行したところでIDコール有効になる。

インポートエクスポート

自動エクスポート/インポートできればDropboxでも共有できる。インターネット越しにインポートしたい。

おまけ

システムリソースモニター

添付ツールとして、ステータスバーにCPU利用率とメモリー使用量・空きメモリーパーセンテージ)とメモリー最適化機能

アラーム

3クリックで相対時間や時刻をお手軽設定できるアラーム(指定時刻に指定メッセージを通知領域に表示するもの)などを付属。(アラームアプリ起動中のみ有効なので、アプリ終了時にまとめて発動。なおかつ再起動したときに引き継ぐ)普段から何かしらのアラームを使っている人なら、このアプリアラーム機能を使う意味は無い。

しおり機能

はてブエントリーページをローカル領域ブックマークするという機能インターネットショートカット(.url)にして保存。WindowsエクスプローラーIEと共有。

フィードバックツール

フィードバックツール重要ウィンドウサムネイルから選択(エラーダイアログも選択可能・エラーダイアログにもフィードバックツールを開くボタンを載せる)、メッセージを添えて「非公開で開発者だけに送信」というボタンで送信できるようにする。送信内容のプレビュー付き。UI上ではフィードバックではなく「要望クレーム)送信」というラベル

クリップ機能

保存して検索できて呼び出せればいい。

そのほか

  • 特に速くなくていい。記事表示時などのナビゲーション開始から終了までをトランジション効果で隠すだけで「キビキビとした動作で快適」と評価されるので。








CC0

2012-02-04

さようならツイッター

ああ、君らは一様に面白くない。本当に、つまらない。ロクに酒も飲めず、リアルで他人を魅了する技能も持たず、普段キーボードを前にして語る勢いも、他人の目を見ればたちどころに失われる。服装も髪型メイクもイケてなければ、クラブで踊り狂うこともない。そのくせ一丁前に音楽を語り、恋愛を語り、社会を語る。時に開き直り自虐に酔う。(ふぁぼでも欲しいのだろうか?)そして殴り合いの喧嘩もせず、無鉄砲セックスに学ぶこともない。いつも鼻声でひそひそ話し、机上の理論を重んじ、実(じつ)を批評せずクソ下らない批評二次批評し、バーチャル世界安息を求め、それを「生」だと勘違いする。ついでにRADWIMPSが好きだ。はっきり言おう。君らはキショい。

トゥギャッターなどを見ていると、ごく稀に例外はいるが、普通、そんな奴に面白いツイートができるわけがない。そしてマトモなツイートができない代わり、安易な散文詩モドキか下らないネタか「メタ批評」だか、何だか知らないが、分かりきった、まるで喜怒哀楽や生活や人生に関係のないテクストを書く。世界を揺り動かすことなんて簡単なのに、それすら考えず、やろうとしない。ただひたすら小さなコミュニティでくだらないリツイート連鎖同意を要求し、鬱をぶちまけ、インターネットで身に付けた(アホか)小さな小さな自信を拡大させて生きている。ねえ、ここには何もないよ。ツイッターなんて、唯のツールだ。

僕は金輪際オフに出ることはないし、<スカイプ>なるもので見知らぬ人と話すこともない。時間無駄だ。そしてこれは個人的な決別宣言であり、恐れ多くも「真理を突くようなもの」とは無縁のものだ。君らはこんなバカの言うことに何ら惑わされることなく、君らの創り上げた世界安心して楽しんでいればいい。本当に楽しんでくれ。おそらく、それが真実だ。

そして、さようならツイッター

2008-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20080310155436

あくまで内容ではなく表現の仕方についての指摘のはず。

残念ながら、誰一人として表現方法についての指摘はしていない。論理のおかしさについての指摘しかない。

詩的表現の斬新さ(よく知らんけど)を追求するのであれば、「出産は死を伴う事もある」のあいまいな表現よりは「女の子って子供を産むと死んじゃうんだぜ」のほうが異論の余地なく妥当に決まっているし。

とりあえず、散文詩なのか、真正たる事実の記述なのかを先にはっきり断っておくべきだったのでは?

本気で言ってるのだろうか

http://anond.hatelabo.jp/20080310143821

10万人の子供がいたら、今の日本のすばらしい医療でも、5人ぐらいは母を亡くしてるんだぜ → 少数例

女の子って子供を産むと死んじゃうんだぜ → 一般論

少数例から一般論を導き出す似非論理を否定するのは普通の指摘。揚げ足取りとは言わない。

もし散文詩のつもりで書いているんだったら、「無粋だな」とでも返しておけばいい。

個人的にはその詩のセンスはまったく理解できないが。

 
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