はてなキーワード: 教典とは
新興宗教だったりしたら、私が増田の知人友人なら全力で止めるけど、増田がどうしても宗教にすがりたいと言うのなら否定しないよ!
個人的なおススメは、なるべく穏当な、何千年も前からある宗教の方がいいかなと思う。入信する前に教祖についての本を読んだりして調べるのもいいよ!手塚治虫のブッダとか漫画で読破!のシリーズでも教典ものがあるからそれでもいいし。新興宗教だったとしても母体になってる宗教(池田大作教は大元は法華経あたりがベースだったっけ?)があることが殆どだからその大元の教典を読むと面白いと思うよ。神道系なら古事記でOKだし。
でも、宗教に進んでいくその前に、手の届く範囲にいる人(親や兄弟や学校や職場の知人、友人、私やその他色んな人)と、今より、もう少し良い関係を作るために、自分は何かできることがあるかなと考えてみるだけでも、全然変わるとは私は思うんだよね。
何かネットで炎上した案件があると、必ず出てくる「切断処理」信者。特徴的な発言は以下のとおり。
このような主旨の発言をしたやつらは、ぜったいに、かならず、一人の例外もなく知能が低く卑怯者です。
間違いはありません。
しかしこの言葉を好んで使う人たちから推察するに、切断処理とは、
ある属性・思想・趣味・主張――ここからは簡単に「グループ」と呼びます――に属する一部の人を、「この人は私のグループではない」「この人の行動はグループ全体の意向とは異なる」と表明し、あるいは攻撃することだと思われます。
さて、この時点で知能の低くない皆さんはお気づきかと思います。
一体、誰が、どの立場で「同じグループか否か」「このグループの意向は何か」を決めるのでしょう。
男、女といった属性はいうまでもなく、フェミニズムやヴィーガニズムなどの思想だってスタンスや解釈は多種多様です。
たとえ宗教であっても、教典を定めているにも関わらず、解釈や時代によって多くの派生が生まれますし、その派生のなかでもどれだけ敬虔かには個人差があるでしょう。
例えば企業の社長のような、メンバーのはっきりした集団の長でもない限り、あるグループを代表して意向を述べたり、あるグループのメンバーかどうかを他人が決めることは不可能です。
こんなこと、おそらく知能の高い皆さんには当たり前のことと思いますが、
切断処理を他人に迫る人たちというのは、こんな当たり前のことさえわかっていないのです。
かわいそうですね。
「何もグループを代表して言えというんじゃない、お前自身が何に賛同するか/何に反対するかを言え、俺が求めている切断処理とはそれだ」と。
でも彼らは気づかないのです。
その「個人個人の主義主張」は、彼らの目の届かない範囲で日々無数に当たり前に行われていることに、
そしてそれを「切断処理信者」の目の前でやれ、と強要する大義などどこにもないことに。
いえ、その切断処理信者が、たとえばものすごい影響力のあるジャーナリストだとか、何万人にも発信できるメディアをもっているとか、そういうことであれば、「個人の主義主張」を伝えることに、人によっては意味を見いだせるかもしれません。
しかし、「切断処理しろよ」と喚いているのはただのブックマーカーとかただの増田とかせいぜいただのブロガーです。
そんなただの人に、「私個人はこう考えている」となんの代表でもない個人が伝えること。
それの、どこが、「切断」なのでしょう?
ある個人が、個人の主張を言うことを強要した。残った事実はそれだけだというのに。
けれど彼らはわからないのです、そんな程度のことが考えられないのです。
彼らは、ひとつの「グループ」に見えるものでも、実際には色々な立場と考え方があるということに耐えられないのです。
そういう処理能力の弱さを、知能が低いと言わずしてなんと言いましょう。
そんな知能の低い彼らは、どうして他人に切断処理を迫るのでしょう?
前述のとおり、ひとつの「グループ」に見えるものでもそのなかには無数の考えと立場があります。当たり前ですね。
しかしそんな当たり前のことを、切断処理信者は理解できません。
それは知能が低いのが理由だとお伝えしましたが、もうひとつ理由があります。
彼らは、本当はその「グループ」に興味がないのです。
炎上する問題が出た背景も、その「グループ」にどんな考えの人たちがいるかも、全然興味がないのです。
彼らは、ただ炎上した案件に飛び付き、気持ちよく叩ける相手を叩きたいだけなのです。
しかし、その「グループ」をまるごと叩いてしまうと、他の人から自分が叩かれるのは目に見えています。
「いっしょくたに叩かれたくないのなら、問題を起こしたやつらを内部批判して別の名前をつけろ」と。
つまり、気持ちよく叩いても誰にも非難されない、そういうサンドバッグを作って自分に差し出せ、と言いたいのです。
だから同じ「グループ」に見える人たちに、「叩いていいグループ」の切断を迫るのです。
なお、実際にはそんなことは不可能です。
前述のように、なにかを代表して発言することは、現実の組織でない限りはほとんどすべての人にとって不可能だからです。
また、炎上案件というのは傍目には分かりやすく誰かが悪者でも、その「グループ」に近しい人にとっては非常に複雑で簡単には解決できない問題が絡んでいたりします。
あるグループについて深く知れば知るほど、簡単に誰かを「切断」すれば済む問題など存在しないことに気づきます。
大抵の問題は、まったく興味のない人間が勝手に断罪できるようなものではないのです。
これも、知能が高くできうる限り公正であろうとする善男善女のみなさんには当たり前のことなのですが、切断処理信者にはわからないのです。
悲しい生き物ですね。
しかし、切断処理信者はバカで卑怯なくせに声だけは大きいので、
時に哀れな人たちが騙されて、言われるがまま「切断処理をした」と言おうとします。
たとえば以下の増田です。
コミケで禁止されている「徹夜組」、つまり前日から会場に列を作り並ぶ行為は禁止されています。
深夜に大量の人がたむろすることで近隣住民の不安を煽り、また現金精算が基本の即売会に並んでいるとあって犯罪の温床にもなりやすいからです。
しかし毎年徹夜で並ぶ人たちはあとを絶たず、これには毎年ネット上でも批判の声が上がります。
まだ13日なのにコミケ徹夜組が大量発生か!? 徹夜組へのメッセージが(画像で)集まる - Togetter https://togetter.com/li/860094
では、これでオタク、コミケ参加者の「切断処理」は終了しているのでしょうか。
答えは「お前んなかではそうなんだろう、お前んなかではな」です。
いくら画像大喜利で徹夜組を批判してみたところで徹夜組はいなくなっていませんし、近隣住民の不安は消えません。
徹夜組対策のために実際に汗をかいているコミケ運営についたは畏敬の念に堪えませんが、
コミケ徹夜待機が「オタク」というグループが起こしている問題だということに一切変わりはありません。
仮に「切断処理をした!」と主張したところで、せいぜいがインターネット議論ごっこの武器程度にしかなりません。
そもそもがくだらないのです。
誤解しないでいただきたいのは、ルールについての草の根啓蒙を否定するわけではないということです。
明確で正統なルールがある場合においては、みんなで少しずつ意識を高めていけるのはいいことです。
しかしそれを「切断処理」と呼ぶの馬鹿げています。オタクが関係ないことになるわけでは、ありません。
このように、切断処理信者は頭が悪く卑怯でインターネット上の議論にしか興味のない、大変残念な人たちです。
では、同じ「はてなユーザー」というグループにそのような残念な人たちを抱えてる善男善女の読者の皆さんは、いったいどうしたらいいのでしょう?
答えは簡単です。
どうもしなくて、いいのです。
あなたは、あなたの主義主張を、あなたのしたい場所であなたのしたい相手にしていけばいい。
あなたが賛同したいと思った意見に賛同し、反対したいと思った意見に反対し、発言したくなければ発言しなければいい。
「切断処理信者のような残念な人たちを放っておいては、はてなユーザー全体がレベルが低いと思われ」ますか?
もし万一そんなやつがいたら、そいつもおろかな切断処理信者というだけです。
ただ、ルールや法に抵触していたら、善男善女の義務として粛々と通報しましょう。
そして憧れるのならば、一度は意味を調べた事はあるのだろうか?
例えば、コレなんかどうだ?
答えは、『事実誤認』と『論理の飛躍』とはてなーの大好きな『主語がデカイ』
多くの自称議論とやらはゴール(結論/結果)を求めようという態度にない、というかどう見ても雑談である
コミュ症を自称する人が苦手とするところの『中身の無い話』とやらである
よかったなぁ、中身の無い話が出来る皆様はコミュ症ではない可能性があるぞ
じゃあ続いてコレなんかどうだ?
私はAの絵は嫌いだ
私の嫌いなものは消えるべきだ
Aの絵は消えるべきだ
これを現実に照らし合わしてみよう
私が強権の発動が可能な独裁者サマならAの絵を文字通り消せば良い
そのような権限が無いのならばイヤなら見るなを実行し、見ないことで私の世界から消せばよい
論理、論理、論理、論パッパーは、一体何に対する憧れなのかは分からない
オウム真理教の「アビラケツノミコト」とは、一体何だったのでしょうか?
アビラケツノミコトとは「軍神を率いる光の命」という意味の単語だそうです。
アビラケツノミコトの初出は、「トワイライトゾーン」1985年10月号(KKワールドフォトプレス刊)でした。
考証の資料として、原文を見てみましょう。
仏教用語。サンスクリット語a vi ra hūṃ khaṃの音写。以上の5音綴は,それぞれ万有の構成要素である地,水,火,風,空を表わし,大日如来の内面の悟りを表明するとされる。一般には,すべてのことを達成するための一種の呪文として用いられる。
地水火風空(a vi ra hūṃ khaṃ)のうち「風」(hūṃ)が揃ってないので、まだ不完全(未完成)な状態、という意味もあったようです。
最終的な理想国を築くために
神をめざす超能力者
レポート/■■■■■
今月号の口絵14ページで、空中浮揚の連続写真を紹介した麻原彰晃氏。彼は師にもつかずに、独自の修行でこのレベルに到達した。だが、この超能力者の目的は、はるか先にある。
彼は、特定の宗派の僧でもなければ、団体のトップに座す人でもない。人間の師ももたない。彼の修行は独自で、しかも数千年も伝わる聖典の奥儀なのである。
麻原氏が修行を思いたったのは今からわずか8年前である。世の中すべてのものに強い矛盾を感じたのだ。何もかもウソだ。自分さえもウソツキだ。まわり中のこと一切が限りなくイヤになった。
どうしたら正しく生きられるか。彼は、その日からすべてを捨て、行に入った。
行は毎日2~5時間に及ぶ。仙道、大乗仏教、密教、チべット密教、ヨガ。ひとつに執着せず、数数の修行法をとり人れ、自分が納得する形で行なっていった。
修行を始めると、様々な神秘的なことが起こりだした。たとえば、トランス状態での異言。
その時のテ―プを聞かせていただいた。東洋系の言葉らしいが、私としては、TVなどでも聞いたことのない言葉だ。口調はかなり激しい。過激な説法、または、訴えのように聞こえる。
「アジアの、インド、中国、チベット、その辺の言葉だと思います。おそらく、自分の過去生と関係のある言葉でしょう」
麻原氏が、修行8年にして空を飛ぶということは、過去生でかなりハードな修行をしていたに違いない。彼は、テ―プに吹き込まれた自分の口から発した言葉を訳せる人を希望している。でも、もしかしたら、現在ではすでに死滅してしまった言語かもしれない。
修行3年にいたったころ、彼の魂は彼の肉体を抜け出し始めた。「体が回転するような感じになったんです。ウォンウォンというモーター音に似た音がして、それからシューという音がしたんです。その時、魂が抜け出してゆきました。
抜け出した先で、魂は宇宙の星星を見たり、『人』と会ったりするんです」
こんなこともあった。シャヴァアサナ(屍のポーズ)をとり、トランス状態に入っていた。
彼は、大ス夕ジアムのようなところにいた。観客スタンドは、裸の僧で埋まっている。中心で、やはり裸の僧の彼が説法をしている。
「霊界での説法なんですね。私はそこで説法をして帰りました」
聖典を読んで帰ることもあるという。魂が、修行において気になることを調べに行くのだ。
「自分が現実で読む本を先読みしているのです。だから、実際に読む本の内容は、すでに知っていることが多いのです」
魂が抜け出さずとも、本の内容を理解していることも度々ある。修行中「ああ、これはこういうことなんだ」と感じた通り、後に読む本に同じことが示されている。
もちろん、修行に危険が伴わないわけではない。普通だったら死んでいるというような目にあったことも1度や2度ではない。
「その時は、自分の守護神に頼むのです。そうすれば、必ず、元のところに帰ってこられる」
麻原氏には、たくさんの信仰している神、守護している神がいる。彼は、それらの神々から修行法を学んでいるようである。
「トランス状態のとき、神々が現われることがあります。神々はヒントを与えてくれることもあります。または私が質問し、神が答える。質疑応容形式のこともあります。その中で得たのは、『生きることを否定せよ』ということです」
麻原氏は、いつも出会う神とはニュアンスを異にする3人の女性に出会っている。彼には、霊界人とも宇宙人とも感じられた。
「まず1度めは、5年前。妻の出産の時のことです。朝、自宅で目覚めるとロングへアで緑色の服を着たグラマーで美しい女性が、私に向かってオイデオイデをしているんです。
全身はエーテル体とも思えるもので、炎の赤をしているのです。髪の色は、全身の色を薄くしたような感じで、ジャンパースカートのような形の服に茶色のべルトをしめていました。
会話はありません。『私があなたを守護しているのです』と私に見せているように思えました」
2回めは2年前です。自宅で、眠る直前のことです。髪は肩まで垂らし、オレンジ色の服をきた目鼻立ちの美しい女性でした。体色は人間と同じでした。この時も会話はありません。
3回目は今年の5月。ここ(麻原氏の道場)でです。髪の長さは肩ぐらい。やはりオレンジ色の服ですが、体の色は、何というか、この世にない色なんです」
3人の女性たちは、共通して美しく、グラマーであり、口をきかない。決まって、彼の左側に現われる。そして、彼女たちが去った後、場の空気が揺らぐという。
「最後はいつも、霧のようにかき消えてしまいます。ひとつ修行が進むと、異なった人が現われるんです」
麻原氏は、これまで世に出ようとは考えなかった。ところが、ある時、声を聞いたのである。
彼は今、シャンバラのような王国、神仙の民の国を築く準備を開始するため、多くの人に修行法を関放する必要を感じた。
今年の5月のことである。彼は神奈川県三浦海岸で頭陀の行を行なっていた。五体投地をしていたときのことである。突然、天から神が降りてきた。神は彼に向かってこういった。
アビラケツとは、彼の初めて聞く言葉であった。彼は、サンスクリットを教えている人を訪ねた。
すると、アビラケツとは、地水火空の意味で、アビラケツノミコトとは、「神軍を率いる光の命」、戦いの中心となる者と判明したのである。
彼は、天から降りてきた神によって、西暦2100年から2200年頃にシャンバラが登場することを知り、それまでアラビケツノミコトとして戦うように命じられたのである。
彼は考えた。チべットのような王国を造らなくてはならないことはわかっている。しかし、チベットは戦争を好まない国である。理想国を造るため、戦さを用いてよいのであろうか。
彼は、シヴァ神や、ヴィシュヌ神などの自分の信仰する神々や自分を守護してくれる神々に相談した。神々は「命を受けるべき」と返答した。
麻原氏は、神を感じるだけでなく姿を見るという。それによると、たとえばシヴァ神は、白銀のような色、ドライアイスのような色の神体を持っているという。
ところで、ここでいうシャンバラとは幻の国、聖人たちが住み、全宇宙の、そして過去から未来永劫に至るすべての英智が納められている国である。かつて、秦の始皇帝、アレクサンダー大王も求めてやまなかった土地なのだ。
シャンバラは、地下深くにあるといわれている。そして、地球上のある地点からは、シャンバラへの通路が開けているという。
その昔、チべットの首都ラサにあった古ポタラ宮の地下の一室はシャンバラへの入口であったと伝えられている。そこで、チべットはシャンバラの影響を受け、チべット密教を開花させたのだ。
聖者たちのひと握りの者たちはシャンバラを訪れることができる。そこで、ある者はシャンバラの住人となり、ある者たちは社会に戻り、許された者にだけシャンバラを伝えたのである。道教の祖・老子は、シャンバラの人になったといわれている。
麻原氏の話に戻ろう。
「2006年には、核戦争の第1段階は終わっているでしょう。核戦争なんて、ほんの数秒で終わってしまい主す。日本も死の灰の影響を受けているはずです。
核戦争は、浄化の手段ですね。だから、私は『ノアの箱舟』も信じられます。選りすぐったレべルの高い遺伝子だけを伝えるんです。
だけど、人が『自分の分け前をさいて人に与えよう』というように考えない限り、『浄化』はなくならないんですね。そういう気持ちになかなかなれないのが人間でしょう。
もし、それが真実でないとしたら、地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天という六道はなくなってしまうでしょう。
私の目指すのは『最終的な国』なんです。それは、仏教的・民主主義的な国で、完璧な超能力者たちの国なんです」
そのためには、修行と解脱しかないのである。修行の意味を麻原氏に語っでもらった。
「修行とは、ジュースの1滴を、テ―ブルクロスの上に落とさず、水の中に落とす、ということなんです。1滴のジュースとは、人間のことです。1滴のジュースは、テーブルクロスの上に落とせば、ただのシミです。でも、水の中に落とせば広がるでしょう。
水の中にただ1滴のジュースを入れたって、水は色を変えないでしょう。でも、水の中には確実に1滴のジュースが入ったんです。
魂の根元的な状態ですね。拡散した1滴は、水の中のことすべてを知り、経験できるんです。これが空であり、寂静です。高次元に昇華した状態ともいえます」
大きな水がめの中の世界を体験している麻原氏の身辺は、アラビケツノミコトを任じられて以来、急転しだした。
修行で岩手県におもむいたときのことである。彼は、天からオリハルコン、またはヒヒイロガネと呼ばれる神秘の石を与えられた。
ヒヒイロガネとは、超古代文献『竹内文献』などにも登場する石である。神社の玉砂利のように滑らかだが、それよりずっとツヤがあって黒い。ズッシリと重たく、力ネの名の通り、金属的な感じの石なのだ。
水を張ったバケツに石を入れ、念を入れる。その石で円陣を作り円陣の中で瞑想する。
ヒヒイロガネは、手に入れた人誰にでもパワーを発揮するものではないという。念を入れられる者の手にわたってはじめて、パワーを与えられ、驚異の力を噴き出すらしい。
念を入れたヒヒイロガネは、多くの人々を同時にトランス状態にすることもできるという。この石については、いずれまた機会があったら報告したいと思う。
麻原氏に行法の一部を実際に行なっていただいた。
麻原氏は、座して、様々な印を結ぶ。印は2、3秒で変化する。
「これはチャクラ開発のための印です」
次に、立ち上がり、上半身を少し前方に傾けた。腸というか、腹の中がゴロゴロと動き出した。これは浄化法・ナウリのひとつ。腹にあるマニプーラ・チャクラの覚醒に役立つ行だ。
次は仰向けに寝てから足を天に持ち上げるショルダースタンドの形。空中浮揚に欠かせないビシュダ・チャクラの覚醒が目的だ。
それからライオンのポーズ。これは、クンダリニーの覚醒に必要なポーズである。
麻原氏の修行には、かなり危険なものも多い。たとえば浄化法のひとつで、幅7センチ、長さ3メートル半の布を呑み込むというものなどだ。この時は、呼吸ができなくなるほどだという。
彼は、修行中、シャヴァアサナに入ったとき、チャクラの光を度度見るという。
ちょうどフラッシュがパッパッと飛ぶような感じで、下のチャクラから順に光を放ち、同時にやはりフラッシュのような音がするという。音と画像がシンクロするのだ。
経験によると、音と光は様々な神秘体験には、共通して現われるらしい。たとえば未来や過去へタイムトリップするときは、マーチのリズムのような音、霊体が離脱するときはブーンという振動のような音。
これは、各種の教典とも矛盾しないという。そこで、そのような音を作って流せば、修行者は案外簡単にタイムトリップや霊体離脱を経験できるのではないかと麻原氏は考えている。
それでは、私たちがすぐにでもできる修行法について尋ねてみた。
「それは、まず何よりも五戒ですね。1が殺生をしないこと。蚊が自分の血を吸っていたら吸わしておくことです。
2が盗みを働かないこと。
3が誠実にして、ウソをつかないこと。
4が邪淫をつつしむこと。
5が禁酒すること。
以上の五戒に徹することですね。悪の行為をやめ、将来にするだろう善行をどんどんすることです」
集中的に瞑想などをしようと思うなら、空気のきれいなところの方が効果的だ。プラーナ(気)の満ちあふれた海や山を選ぶとよい。ただし、風のないところで行なう。地・水・火・風・空のエネルギーは、想像以上に誘惑的なのだ。
次に、食物は、玄米菜食の方がよい。1日に1回、または2回。または少しずつ、数回に分けて食べる。ヨーガの激しい修行をする行者の場合、日に1800~2000カロリーが理想といわれている。一般の人なら1200~1500カロリーで足りるだろう。ただ、カロリーと栄養とは異なるから、栄養はしっかり摂らなくてはならない。
「(日に)3食は獣の食事、2食は人間の食事、1食は聖者の食事という釈迦の言葉があるんですね。
でも、日に1食では、一般的には栄養が足りなくなってしまう心配がありますから。日に1度という場合は、夕方に摂るのが理想ですね」
玄米菜食だけで、スワジスターナ・チャクラ(腰・仙骨)までは開発できる。しかし、それより上のチャクラは、修行でしか開発できない。
「スワジスターナ・チャクラは植物を司るんです。ここが開発されれば、低い次元の超能力は身につきますね」
麻原氏は、腹のマニプーラ・チャクラが開くまでは、外食は一切しなかった。もっとも、化学物質などの変なものを食べることを体が受け付けなかった。
でも、今は多少腐ったものを食べようが何を食べようが平気である。火のエレメントがすべてを燃やしてしまうのである。
チャクラが開くということは、規制がなくなるということも意味しているのだ。
尾骨のムラダーラ・チャクラが開くと規制され、腰のスワジスターナ・チャクラが開けば性欲の規制がなくなる。腹のマニプーラ・チャクラが開けば食欲の、胸のアナハタ・チャクラが開けば行為の規制がそれぞれなくなる。
規制がなくなるとは、「何をしてもいい」ではなく、規制をせずとも自動的にコントロールされるということである。
「食べ物に気をつけるのもいいが、もっと大切なのは精神です。食物の害より精神の害の方がずっと悪いです。肉を食べたからってすぐ内臓が悪くなることはない。でも気持ちに及ぶ害は、すぐに体を悪くします」
つまり、肉体への栄養よりも精神への栄養の方が大切なのだ。適当な食事よりは、瞑想1時間の方がずっと栄養になるらしい。
「物質で人間は救えないということをもっとよく考えるべきなんですね」
正しい食事をし、正しい修行から得られるもの、それが超能力である。最近は、魂の浄化・向上こそ第1義で、超能力は邪道という考えも広まりつつあるので、麻原氏における超能力の実義をしてもらった。
「魂の進化・向上という考え方がありますが、それは、人間の魂が阿修羅・神々に至ることなんですよ。つまり、超能力の獲得と魂の進化・向上ということとは、矛盾しないばかりか、正しい相関関係にあるんですよ」
それゆえ麻原氏は自分を神に変える修行をし、「完璧な超能力者の集団」と彼のいうところのシャンバラ王国を設立するべく、神軍を率いて戦うのだ。
麻原氏のまず当面の目標は、自由自在に空を飛べる空中浮揚。それと、大脱身を成功させたいという。
「これは、アジナ・チャクラから自分の魂を抜き出させ、目的としている相手の身体に人る超能力のことです。これが可能になると、三界(欲界・色界・無色界)を自由に行き来できるんですよ。ここまでくると、もう人間といっていいかどうかわかりませんけどね。また、核戦争の脅威から身を守るには、極熱にどれぐらい耐えられるか、放射能をいかに防ぐか、ということになると思うんですよ。今の修行方法でそれに耐えられる身体はできると思っています」
麻原氏は、空中浮揚の初歩までの修行か達成した。しかしながらこれは、全修行の段階の4分の1にすぎない。生きているうちに、全部達成できればいいという。
「私は、ハ夕ヨガでいうところの解脱はすでにしています。真我も見ています。これから求めるのは仏教でいう真解脱です。それがいくつもの決め方がある解脱のうちでも最高のものとされています。
修行を達成した人間は、次の生を好きなように形づくれるという。麻原氏の中には、地球、自分、宇宙、神々……超大な計画がもくろまれているのかもしれない。
先日、スマホゲームfate/grand order(fgo)で復刻版空の境界のイベントが開催された。その際、空の境界のキャラクター浅上藤乃がサーヴァントとして実装された。
私は友達から借りた月姫からタイプムーンにハマり、初めて劇場で見た空の境界が痛覚残留のエピソードだった。それもあって彼女の実装は嬉しく、ガチャも引いた(宝具レベルが3になった、ハッピー)。
しかし、ツイッターを見ていると不満の声も散見されているようだった。
どうやら、不満の元はfgoの主人公と、実装された浅上藤乃や、復刻の2人の式(説明したいがここでは割愛)が仲良くする事や、これに関する創作にナーバスになっている人がいるのだ。(今の所そのような創作はほぼ見ないが)
そもそもの話、この「fgo主人公が他の媒体で出たキャラと仲良くする事、またそういった創作」を好ましく思わない層がいる、というのは今に始まった事ではない。
他の例を挙げると、fate/EXTRAで登場したキャラクター達。ほんの数年前は赤セイバー、キャス狐と呼ばれ親しまれたキャラクター達だが、彼女等がfgo主人公と仲良くしている事や、それを描いた創作を毛嫌いする人も一部にいる。
要は「他媒体でカップリング対象になるキャラがいるのに、別キャラ(この場合fgo主人公)とくっつける事が許せない。」という事なのだ。所謂カップリング論争の一つである。
古くからある、FE、スレイヤーズ、その他ビアンカorフローラ、ティファorエリス、などという他のゲームや漫画のカプ論争ならいざ知らず。
今回のこの話の違和感、それは他媒体でカップリング対象がいるという、影響力の高い「教典」がある事だ。
これは、別のカップリングを目にしただけで、自分の愛する者を陵辱されているが如く感じる程のものなのだ。
(すごい。そこまでその作品に傾倒できるなんて、すごい。そういう人と比べると中学生の頃学校を休んで月箱を買いに行った私の作品への愛などは足元にも及ばないのかもしれない。)
彼等にとっては、fgoなぞ教典にとって邪魔なもの。教典を汚す大罪品、見える情報の汚物だろう。(その教典と同じ作家が設定やボイスを考えてたりするのだが)
懐が深いのと節操がないのは違う。
カップリング論争なんかで毎日フラストレーションを溜めているような人に、懐が深い人間になれとは言わないし思わない。今の時代便利なものでブロックやミュートなんて機能もある事だし。
ただ、きょうびそういった教典に縋り、熱い信仰を持っている人がいるジャンルというのも珍しい。そういう人達がいるならしばらくそのジャンルは安泰だろう。
東方やひぐらしが大流行した時代にタイムスリップして、型月が今一番のブランドだぜ、一月に何億も稼いでるんだぜ。と言っても誰も信じまい。
こんな毒にも薬にもならないカップリング論争で揉めているのを見ると、そンな風に改めて実感する自分が、昔の自分の片割れを見ているようで微笑ましく思うのだった。
自ジャンルに疑問を持ち始めたら一旦距離を置いた方がいいと思う。(結論)
これはただ私が思ってることを書いただけの乱文長文だ。
あとコンテンツ名が分かっても言わないでほしい。私はこのコンテンツが潰れてほしい訳じゃない。そっとしておいてくれ。
私はとある女性向けコンテンツのオタクをしている。そのコンテンツは流行り廃れの激しい女性向けコンテンツとしては(浮き沈みは確かにあったが)割と長いこと続いていて、私はそのコンテンツのファンをして4、5年になる。
まぁ4、5年といっても学生時代を含めてなので年数に見合った貢献(グッズを買うやらライブに行くやら)はド田舎という環境も相まってほとんど出来ていなかった。
無論自由にお金を使える今は「全てのグッズを箱回収!」とまではいかなくても、推しのキーホルダーやらぬいぐるみやらアニメ円盤やらライブ円盤やら(ライブは全て抽選で落ちた)を少しずつ集めては自分にできる範囲で公式へお金を払いながらも、そのコンテンツのオタクとして、ファンとして自分なりにエンジョイしていた。
……のだが、最近、いや多分最近じゃない、ずっと昔からあったのかもしれない。
このコンテンツのファンが気持ち悪いと感じるようになってしまった。
かくいう私もこのコンテンツのファンなので気持ち悪いオタクになっているのかもしれないがそれは今回棚にあげさせてほしい。
・このコンテンツに全てを注ぐ!
・ジャンル掛け持ちなんて信じられない!
という信者がまぁ多い。
別にコンテンツに全てを注ぐのは悪くない。寧ろそこまで出来る運命的なコンテンツに出会えているのは凄いことだし頑張れと思う。
でもそれを全てのファンに強要させようとするのはどうなんだろうか。このコンテンツに関わっている全ての人がみんなそうなのだろうか。答えは否だ。
「このコンテンツがメインジャンルじゃないけどキャラが好きだからキャラソンは買うしライブも観に行くよ!」
「アニメをみて好きになった。メイトに行ってグッズ買ってみようかな。でも原作ゲームはまだやる気しないかも……」
「ほかのソシャゲをメインでしてるからこのコンテンツのソシャゲには微課金程度しかできないがちゃんと好きだ」
コンテンツのなにかしらが好きだったらもうファンだろう。しかも上記の人たちはこのコンテンツがメインではないのに金を落としてくれてるのだ。もうファン以外の何者でもないだろう。
なのにこのコンテンツの信者たちはこの人たちをファンと認めないのだ。こうなるともう宗教だ。このコンテンツが唯一神なのかなんなのか知らないが、「御朱印集め」といって色んな神社にスタンプラリー感覚で行ってる人が多いこの国で、大多数の人が八百万の神をなんとなく信じているこの国で、なぜ他ジャンルと掛け持ちしてる人たちを認めることができないのだろう。別に神様何人いてもいいじゃん。
信者ファンがやたら多いせいで新規ファンが入りにくくなり、新規が入らないので既存ファンを大事にする方向で公式が動き、さらに信者ファンが増え、さらに新規ファンが入らない。
まさに負のスパイラルだ。
取り残された信者でもない普通に楽しんでいるファンはどうなる?純粋なファンは遅かれ早かれこのコンテンツが息苦しくなって他に住みやすいコンテンツに流れてしまう。
驚いた。
何かしらのコンテンツと掛け持ちしていることをみんなが理解した上で、
新しいソシャゲのイベントやカードイラストなどでわいわいと盛り上がっているのだ。
あと、ファンが信者なので、教典に書いてないことや、教典から逸れたことを公式や、まだ入りたての新規さんがするとすぐに炎上する。
炎上の速度は女性向けコンテンツでは一二を争うのではないだろうか。もう炎上しすぎて思い出せない。
ここで怖いのは教典を書いてるのは公式ではなくファン自身なのだ。ファンが教典という名の自分にとって理想の公式像を創り出す。
そうするとどうなるかわかりますね。
私の教典が一番だと争い合うのだ。悲しいことに。公式が教典を書けとも、信者になれとも言っていないのに。勝手に信者になって理想像を創り上げ、信者同士で自分の分厚い教典の角で殴り合いだ。たまに公式に向かって自分の教典を投げつける人もいる。こわい。
そうだ、思い出した。最近炎上と言うほどでもないが荒れていたのは、公式のRTキャンペーンで当たった人にグッズをプレゼント!というやつで、当たった人がみんな絵師さんやら、フォロワーが多い人やらで「抽選じゃねーだろ!」となっていた気がする。あまり詳しく書くのもアレなので言わないが。
とにかくここまで書いて私が言いたかったのはタイトル通り、自ジャンルのファンが気持ち悪い、だ。他にもコンテンツ運営している会社の株を買っている人や株価、社員の方などを研究しているファンもいるがまぁそこは今回は話さないでおこうと思う。
こんな盲目過激な信者ばかり抱えていて新規ファンへの入り口もほとんど閉ざされているこのコンテンツは、いくら原作者がずっと続けたいと言っても何か革新的なことが起こらない限りもうすぐ終わるんだろうな。と思っている。
ここまで文句ばかり書いてきたが、私はこのコンテンツが好きだ。オタクになるきっかけがこのコンテンツだっただけに他のコンテンツにはない感情がある。
これからCD発売や様々なことが待ち構えているこのコンテンツに私はいつまでついていくことが出来るのだろうか。もうだいぶ疲れている気がする。
でも私は結局最推しのグッズしか買わないしCDも1枚ずつしか買わないから、信者さんのようにCDを何枚も積んだり、グッズを箱買いしたり、そんな風に公式にお金をたくさん払っていないので、やっぱりお金を湯水の様に使ってくれる信者さんに対して優しい展開になっていくのは仕方ないのだろう。
どうしよう。
信者ほど盲目になれない自分をファンと名乗って良いのかも不安になってきた。
結局私は4、5年もコンテンツを応援し続けたなんだったのだろう。
最初に書いた通り一旦このコンテンツと距離を置くか、それかいっそ引退して他ジャンルに入ろうか。
最近そればかり考えている。
そんなことより早く教典作りに取り掛かるんだ
今回は裏サンデー
えー。
この漫画のアイデンティティって、犯罪性を持つ学生たちのドタバタコメディであって、ラブ要素はオマケだと思うんだけどなあ。
仮にやるにしても、もう少し設定や作風を活かしたストーリー展開にして捻ってほしい。
あー、小奇麗なだけのオシャレ漫画だ。
バトルが「なんかやってる」だけで魅かれない。
かといってストーリーや展開、設定に面白みがあるわけでもなく。
なまじ画力ある人は、パッと見は読める漫画を描けてしまうから、ある意味で難儀だよなあ。
おー、なんか子供みたいな大人の秋月だが、子供相手だとしっかり大人してるなあ。
いや、子供の面倒を見れることがイコール大人というわけではないし、むしろ子供みたいな大人だからこそ相性がよかったという可能性もあるが。
水鉄砲のおもちゃは……絵面のインパクトは中々だがネタすぎる……。
私としては、理解できないことを無理して理解しようとする必要はないと思っているけれどもね。
否定することはよくなくても、かといって自分に干渉するあらゆるものを受け入れるのはキャパシティ的に厳しいし。
ただ、主人公にとって自分の作品や、自分に関わる人の影響で、その意識を変えたってことなんだな。
今後、それを理解する(できるかも分からないが)ことで物語がどう展開するかは気になるところだ。
これまでストーリーを加味するに、最終的には結局誰もくっつかないというエンドだって十分にありえるし。
その段階ではないから仕方ないのだが、話がどう転ぶか、どういうテーマの漫画になるかすら3話になっても不明瞭だ。
テーマ性が不明瞭だと、評価する際の方向性を決められないから感想書きにくいんだよね。
だが、期待と不安を煽る要素を散りばめてくれるから読ませてくれる。
似てる似てない以前に、パラリンピック側の鶴丸紋は日蓮正宗の紋で、創価学会は破門されてからは使ってないとのこと。…ちょっとググればわかるのに。
かつて創価学会が刊行した「折伏教典」(昭和26年発刊)に次の記述がある。
1)地獄:不具者、病者、狂人、ルンペン、邪宗教の坊主及び信者。
2)餓鬼:下級労働者、衣類住居まではとても手が届かず、毎日毎日の生活が食を得る為に働いているような人々。アルコール患者。拝金主義者。性格異常者。
4)修羅:兵隊、警官、拳闘家、将棋、碁を職業とするような、人と争う人間。
6)天界:大金持、元の皇族、貴族、一国を動かしている大政治家、経済家、偉大な軍人等々。
8)縁覚:大作曲家、音楽家、芸能上で一芸の奥義に達した者、何かの研究を完成した学者等。
9)菩薩:二宮尊徳の如く広く社会を利益した者。偉大な発明発見 により広く社会を利益した者。仏法を広め、衆生に救を与えた人々。
すなわち、パラリンピックに日蓮正宗の紋を使うことで、地獄界(不具者と邪宗)の祭典であることを表現しようとしたのではないか。