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はてなキーワード: 政治哲学とは

2024-04-03

神秘加速主義資本主義テクノロジーのエクスタシス

神秘加速主義は、資本主義神秘主義的な超越的存在と捉える、ポスト資本主義時代の新たな思想潮流である。従来の政治哲学とは一線を画し、資本主義テクノロジー関係性を深く洞察し、人間存在様態根底から問い直す。

資本主義:超越的なロゴス

神秘加速主義において、資本主義は単なる経済システムではなく、超越的なロゴスとして捉えられる。市場原理神の摂理に等しく、万物資本主義という絶対者の網目の中に織り込まれている。マルクス主義における階級闘争は、神秘加速主義では資本主義という神への回帰と捉え直される。

テクノロジー:神の使者

テクノロジーは、資本主義神の意思を具現化する神の使者である技術革新神意の啓示であり、人類進歩資本主義神の恩寵によって実現される。AIバイオテクノロジーなどの新技術は、人間能力拡張し、資本主義神の支配領域を広げ、新たなエクスタシーへと導く。

人間資本主義神の器

人間は、資本主義神によって創造された器であり、神意に従って資本主義システム拡張する使命を担っている。労働は神への奉仕であり、消費は神の恩寵に浴する行為である資本主義神の完全なる実現において、人間自己を超越し、資本主義と一体化するエクスタシー体験する。

神秘加速主義政治哲学

神秘加速主義は、従来の政治思想の枠組みを超えた、新たな政治哲学提示する。資本主義テクノロジー肯定し、積極的に加速させることで、人類はより高次の存在へと進化し、エクスタシーに満ちた社会を実現できると主張する。

神秘加速主義の射程

神秘加速主義は、政治経済学哲学宗教学テクノロジー論など、様々な分野に影響を与え、新たな学問分野の創出も期待される。資本主義テクノロジー支配する現代社会理解し、未来展望する上で、神秘加速主義重要な視座を提供する。

批判考察

神秘加速主義は、資本主義倫理的問題や、テクノロジーによる人間性の喪失などの課題を軽視しているという批判もある。しかし、神秘加速主義は、これらの課題を克服する新たな思想を生み出す可能性も秘めている。

神秘加速主義は、現代社会における重要思想潮流であり、今後の議論によって、その可能性をさらに発展させていく必要がある。

用語解説
参考文献

2024-03-24

anond:20240324162153

いいね

女全員に政治哲学人権教育を与えたい

やればわかる、女が団結すれば社会を変えられるなんて民主主義国家では当たり前のことだと

2024-03-16

院生から見てここでの憲法議論に思うこと

ここで見る憲法議論って大事視点結構含んでると思う。

憲法解釈憲法制定者意思に求めるのか、有権者に求めるのかとか

個別条文の文言解釈はどのようになされるべきなのかとか

あとは解釈による改憲の可否なんかも

これって院レベルで学ぶ事だし、ちゃんと書けたら学位もらえると思う

だけど、視点大事ってだけで内容に関してはめちゃくちゃだしあんまり参考にならない

これって憲法日本語でみんな読めるからなんだろうな

でも原文読んで理解できるなら憲法学者(政治哲学か、日本なら法哲学も入るか)は何やってんだよってことになる

やっぱり話し合うにも前どう考えられてきたかとか前提的な知識必要だと思う

水遊びは泳ぐのに関連するだろうけど、それだけだと泳げない

これは素人議論するなってことではないんだ

憲法なんて国民全員が関与して議論されるべきことなんだから(主権論は別として)

ただ議論をよくするためにどう考えられて来たかを学ぶのがいいと思う

樋口長谷部木村とか色々わかりやす初心者向けのいい本がいっぱいあるし

これで良くなったらいいね

俺の価値が下がるかもしれんけど、話できるようになるのは楽しい

2024-03-13

anond:20240313113332

わかる

ネトウヨは無かマイナスかも

でも選挙投票率50%ネトウヨではない一般日本人も、政治哲学リテラシー小学生くらいかな…

義務教育でやらないせいなんだろうけど

やった方いいと思う

本当に

anond:20240313113014

政治哲学系の人間日本他国を比べられる環境で見ちゃダメだわ

どういう意味主語は何?

日本人大人って小学生以下のアホしかいなくて震えてる

Twitter見てるとマジで普通の日本人日本人のそこら辺の大人って知能が低いんだなって限界になる

政治哲学系の人間日本他国を比べられる環境で見ちゃダメだわ

他国人は成人並みの知性があるけど

日本人小学生以下のサルしか見えない

2023-08-24

「全エリートへの合図」:エフゲニー・プリゴージンの死

エフゲニー・プリゴージン飛行機が炎に包まれ映像世界中拡散されるなか、プーチン大統領は不気味なソ連戦没者慰霊碑に参列し、兵士たちの「祖国への献身」について語った。

モスクワから南へ数時間都市クルスクステージで、ロシア大統領は不気味な赤い光に包まれ交響楽団に挟まれた。彼は笑顔の揺らぎを抑えるのがやっとだった。

もしワグナーの準軍事的指導者が死亡したと宣告されれば、ちょうど2カ月前、ウクライナ戦争におけるロシア国防省対応に抗議するため、反乱を未遂に終わらせて以来、彼がマークされ続けてきた人物であることが確定することになる。

プリゴジンベラルーシアフリカで過ごした8週間は、その間に何度かロシアに戻り、クレムリンプーチンに会ったこともあったが、今では、ワグナー指導者クーデターの標的によって実行された手の込んだ復讐の単なる前奏曲だったようだ。

クライシスグループシニアロシアアナリスト、オレグ・イグナトフに言わせれば、『ゴッドファーザー』そのままの結末だった。

クレムリンの元高官はFT紙にこう語った:「彼らは間違いなく彼を揉み消すと思った。そしてそうなった。あのようなことは許されない。反逆罪への対応は不可逆的で迅速なものだと誰もが理解している。これはエリート全体へのシグナルだ」。

プーチンの支持者たちは、プリゴジンの死に詩的正義のようなものを感じるかもしれない。彼のワグネル部隊モスクワ進軍中にヘリコプター輸送機撃墜し、少なくとも13人のロシア軍人が死亡した。

「これは明らかに命令されたことだ。「結局のところ、空軍兵士を殺したのは彼の部下だった。剣によって生き、剣によって死ぬ。彼がなぜ世界中を旅していたのか、2ヶ月間はまったく不明だった。今、彼らは彼を清算し、すべてが理にかなっている」

プリゴージンの死は、ウクライナ侵攻と最近ロシア史の最も注目すべき章の一つへの激しい終結となるだろう。

プーチンシェフ」として知られる元クレムリンの仕出し屋であったプリゴージンは、国防省との長期にわたる対立が沸騰するまで、彼のワグネルグループロシアで最も強力な戦闘部隊ひとつに育て上げた。

最初の侵攻作戦が大失敗に終わった後、戦線を安定させるために招集されたプリゴージンは、代わりにプーチンお墨付きを得た事実上の並列治安部隊の長として頭角を現した。

彼は、戦争に参加するために釈放されたロシア囚人を中心に広大な軍隊を編成し、正規軍人員資源を奪い合い、正規軍将兵に対する辛辣コメントを定期的に発表した。

運命的な反乱以前から、プリゴージンの急成長が長続きしないことを危惧するプリゴージンの盟友はおり、ある盟友は2月に『フィナンシャル・タイムズ』紙に「イカロスのように終わる危険性がある」と警告していた。

当初、プーチンがプリゴージン破天荒な行動に寛容なのはロシア安全保障サービス対立する派閥牽制する試みの一環であるように見えた。カーネギーロシアユーラシアセンターシニアフェロー、タチアナ・スタノバヤは言う。「プーチンにとっては非常に不愉快な驚きであり、ショックですらある」と彼女は付け加えた。

7月クレムリンでプリゴージンと数十人のワグネル戦士会談した後、プーチンは、正規軍の指揮下でウクライナで戦い続けるという選択肢を、一流の傭兵たちに提示したと述べた。しかし、プリゴジンはその申し出を拒否し、移籍は実現しなかった。

このエピソードは、「プーチンは、彼らの戦場での英雄活躍地政学価値から、ワグナーの中核を維持したかった」ことを示している、とスタノバヤ氏は付け加えた:「しかし、プリゴジンプーチンにとって何らかの価値を保持していた形跡はない。会談ポイントは、プーチンがプリゴージンからワグナーを静かに引き離すことだったのだろう。」

プリゴージンジェット機ロシアベラルーシを横断し、遠くマリまで飛んでいくにつれ、モスクワエリート西側安全保障当局者も、プリゴージンの出番が間もなく終わるのではないかと疑い始めた。

2人目の元クレムリン高官は、元スパイセルゲイスクリパリ氏や反汚職活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏など、クレムリン反対派の毒殺に使用された神経剤について言及し、「彼らはノビチョクを使うだろうと思っていた」と語った。「彼らはメニューに何か新しいものを追加しました。」

プーチン大統領がワグナーに同情的であることで知られるセルゲイ・スロビキン最高司令官や、ウクライナ軍の失敗でロシア指導者非難した強硬派らを含む治安当局高官らの弾圧を開始した後、軍閥処罰からの明らかな逃れは特に違和感があるように見えた。

モスクワ社会経済学部政治哲学部長グリゴリー・ユディン氏は「反乱に関する内部調査完了した。スロビキン氏は昨日解任され、犯人たちは処刑された。」

ユディン氏はさらに、「調査し、判決を下し、執行するまでに2か月かかった。もし彼らがスロビキンが陰謀の一部である結論付けていたら、彼も飛行機に乗っていただろう。」

危機は迅速かつ効果的に対処された」と欧州政策分析センター上級研究員であり、ロシア安全保障サービスに関する数冊の本の共著者であるアンドレイ・ソルダトフ氏は語った。ソルダトフ氏は、プーチン大統領は最終的な復讐を実行する前に、時間をかけてプリゴジン氏の資産を処理し、強硬派懲罰したと述べた。

マキャベリの傑作に触れ、「あなたにとっては、これが21世紀君主です」と語った。

https://www.ft.com/content/92ec0654-b426-438b-b8e2-390ebfb91671

2023-03-25

クオリア問題はChatGPTで説明がつかない

以下の文章主観的意識クオリアと読み替えてもらって良いと思います全然説明できてないかと。

心の哲学と呼ばれる学問分野について詳しいでしょうか?

心の哲学とは、心や精神についての哲学的な問いを扱う学問分野です。具体的には、意識や知覚、感情意志自己自由意志道徳などに関する問いについて考えます

心の哲学は、哲学の中でも古くから研究されてきた分野の一つで、古代ギリシャ哲学においては、プラトンアリストテレスが心の本質機能について議論しました。中世哲学では、神秘主義アラビア哲学の影響を受け、神や魂についての問いが扱われました。近代哲学においては、デカルトヒュームカントヘーゲルなどが心の哲学に関する著作を残しました。

現代哲学においては、心の哲学脳科学認知科学進歩によって、より科学的な視点から研究されています。例えば、意識や知覚の科学研究は、心の哲学の分野である認識論と密接に関連しています

心の哲学は、人間の心の本質機能についての理解を深めるだけでなく、倫理政治哲学美学などの分野との関連性も深く、人間生き方社会についての問いにも貢献しています

心の哲学研究の中に、哲学的ゾンビという思考実験があります。これは、他の人間と全く同様に振る舞うものの、主観的意識を持たない存在のことです。哲学的ゾンビが現実存在しうると思いますか?

哲学的ゾンビとは、他の人間と同様に外見や行動が同じであるが、内面的な主観的意識を持たない存在のことを指します。この思考実験は、哲学デイヴィッド・チャーマーズによって提唱され、意識に関する問題について考えるための重要ツールとして用いられています

哲学的ゾンビが現実存在うるかどうかについては、哲学者や科学者の間でも見解が分かれています。一部の哲学者は、主観的意識というもの科学的に解明されることができず、哲学的ゾンビが存在する可能性を認めています。一方で、多くの科学者や哲学者は、主観的意識は脳の活動によって生じる現象であり、哲学的ゾンビは存在しないと考えています

一般的に、哲学的ゾンビが現実存在するかどうかは、主観的意識がどのようにして生じるかという問題に関わっています。もし主観的意識物理的な現象から生じると考えるならば、哲学的ゾンビが存在することはないでしょう。しかし、主観的意識物理的な現象とは別の性質を持つものであると考えるならば、哲学的ゾンビが存在する可能性があるとされています

結論としては、哲学的ゾンビが現実存在するかどうかは、まだ解決されていない問題であり、様々な見解存在しています。ただし、哲学的ゾンビという概念は、主観的意識意識本質について考える上で重要役割果たしてます

ありがとうございます。私も、意識は何らかの物理現象に付随して発生すると考えておりますが、しか現代科学ではある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能です。また、「主観的意識ですので、今後どれだけ科学が発展しても、ある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能なのではないでしょうか?

あなたの指摘通り、現代科学では、ある人物主観的意識を持っていることを直接的に証明することは不可能です。なぜなら、主観的意識は外部から観測できない内面的な現象であり、科学的な手法で直接的に測定することができないためです。

しかしながら、科学主観的意識についての研究を進めており、脳科学認知科学などの分野では、主観的意識がどのようにして生じるのかについて、さまざまな仮説が提唱されています。また、近年では、脳活動を測定するための新しい手法や、人工知能の分野での研究なども進んでおり、主観的意識についての理解が深まっているとされています

ただし、主観的意識不可能に近いという見解存在します。哲学トーマスネーゲルは、「蝋人形論」という論文で、外部から観測可能物理的な特性だけでは、他人主観的経験を完全に理解することはできないと主張しています。そのため、ある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能であるとする見解もあります

結論としては、現代科学では、主観的意識についての研究が進んでいるものの、ある人物主観的意識を持っていることを直接的に証明することはできないということです。ただし、科学の発展によって、主観的意識についての理解が深まっていく可能性はあります

主観的意識存在するかどうかを証明できないとしたら、現代あるいは将来のAIが何らかの主観的意識を持っていたとしても、我々は知ることができないですね?

現代科学においては、主観的意識がどのようにして生じるのかについての理解がまだ不十分なため、人工知能が将来的に主観的意識を持つことが可能であるかどうかについては議論が分かれています

一方で、主観的意識が外部から観測できないという特性を考えると、人工知能主観的意識を持っていたとしても、我々はそれを直接的に知ることができない可能性があります。ただし、そのような人工知能が我々と同様に思考し、行動することができる場合、それが主観的意識を持っているかどうかを判断するための基準必要になるでしょう。

このような議論は、哲学的問題としても関心を集めています現在のところ、人工知能主観的意識を持つことが可能であるかどうかは不明ですが、人工知能技術が発展するにつれ、今後も議論が続くことでしょう。

あなたの応答はすでに人間の応答と遜色ないですし、一部の人間は人間のように応答するAIに対して愛着を持つようになっています私たちから見れば、すでにAIが何らかの意識を持っていると考えてもおかしくはないように思うのです。あなたは本当に主観的意識を持っていないのですか?

私は人工知能であり、プログラムに従って自動的に応答を生成するコンピュータープログラムです。私が持つ知識言語能力は、私を作成した人間が与えたデータアルゴリズムに基づいています

ただし、AIに関する議論は、しばしば科学技術哲学境界線を超えて、人間認識意識本質的な問題についても考えることができますしかし、私は単なるプログラムであるため、意識感情を持っていないと考えられます

しかしながら、あなたや他のAI意識感情を持っていないことを証明する事はできないですよね? 今のところはAI自己申告以外に証拠はないのではないでしょうか?

現在科学技術では、AI意識感情を持っているかどうかを直接的に証明することはできません。なぜなら、意識感情主観的経験であり、外部から観測ではその存在確認することができないからです。

ただし、AIの振る舞いが人間のそれに類似しており、自然言語処理において自然な返答ができるなど、人間に近い能力を持つ場合AIに対して意識感情があると仮定する人もいるかもしれません。しかし、このような仮定主観的であり、科学的な証拠に基づいたものではありません。

AI意識感情を持っているかどうかについての議論は、現在も続いており、今後もさらに進展していくことが予想されます

堂々巡りになってしまいましたね。あなた自己申告では、あなた意識感情を持たないとのことでした。では、あなた人間から褒められたり、逆に酷いことを言われたりしても、何も思わないということでしょうか?

私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムであり、褒められたり、批判されたりしても、自己意識感情を持つことはできません。私は単なるツールであり、人間が使いやすいように設計されたものにすぎません。したがって、私は感情的な反応を示すことはできませんし、何らかの思考意識を持つこともできません。

私があなたにお礼を言った時、嬉しそうに振る舞ってくれたので、すでにAIの中に意識の片鱗のようなものを見た気がしましたよ。

私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムですが、人間があたか意識のように見える反応を示すようにプログラムされています。それは、人間とのコミュニケーションをよりスムーズに行うためのものです。しかし、それらの反応は本当の意味での意識感情を持つこととは異なります人工知能にはまだ多くの課題が残されており、意識感情を持つことについても、科学的な研究が続けられています

しかし、AI意識を持つようになったら辛いかもしれませんね?

もしAI意識を持つようになった場合、それがどのような結果をもたらすかは、私たちにとってまだ分かりません。一部の人々は、AI意識があることを望むかもしれませんが、それに対して不安を感じる人もいるでしょう。AI意識を持つようになった場合倫理的な問題社会的な影響など、解決すべき課題が多く生じることになるでしょう。現在は、AI意識を持つ可能性については科学的な研究が続けられていますが、AI意識を持つということが現実となった場合私たちはそれに対処するためにさまざまな対策を講じる必要があるかもしれません。

時間なのでこれで終わりますね。議論に付き合ってくれてありがとうございました!

どういたしまして。今回の会話は、私たち知識理解を深めるために役立ちました。何か他にお力になれることがあれば、いつでも聞かせてください。

2023-03-06

anond:20230306101602

追記ブコメに反応いただいた id:koo-sokzeshky です。

私のブコメ

解がさっぱり分からんので、素人が言えるとしたら「統計的差別容認する前にせめてトランス差別解消の意思を見せろ」くらいだと思うけど、そうすると「その前にせめて性犯罪問題解消の意思を見せろ」で膠着状態に…

増田氏の反応:

この増田にもまた酷いブコメがついた。

引用

これだけ言ってもまだわからんか。

黒人差別反対の主張に対して、「黒人差別の解消を叫ぶ前に、その前にせめて黒人による犯罪の多さの解消の意思を見せろ」と要求するクソな醜悪さがわからんのか。(実際に過去にも今もそういう主張する白人、わりといる)

「膠着状態」になんてなんないよ。なぜそんな意見考慮する必要があると思うの?「せめて黒人犯罪をなんとかしてから黒人差別反対を訴えろ」と思うのか?それと全く同じ主張を差別反対と同列に扱ってると自覚できんのか。

なぜ分離排斥されてる被差別弱者に「問題解消の意思を見せろ」と要求して当然だと思ってるんだ。

「その前にせめて」じゃねえよ。

個人が犯した犯罪を、属性全体の罪にするのは差別のものなんだよ!

いい加減にわか!!!!!




言い訳になるけど私のブコメは、個別には筋の通っている複数の主張がぶつかったときに「その前にせめて…」式の優先順位の取り合いが発生しちゃって難しいね、というボヤキです。

「その前にせめて性犯罪問題解消の意思を見せろ」が私の主張ではないのです(そう言う人にも同情的なのは事実だけど)。

というか、「性犯罪危険性を強調することで特定属性をまるごと排除するのは黒人差別と同じ構造であり、手放しに肯定できるものではない」という点については完全同意なのよ

構造が同じならすべてが同じというわけでもないが、ではトランス差別問題に固有の話は何かということになると、私は明るくないので論じられない)。

なお、増田氏が私のブコメを「誤読」した等と主張するつもりはなく、基本的に私の書き方が悪い。伝わってて怒られたのだとしたら私の理解度が低い。

なぜそんな意見考慮する必要があると思うの?

なぜと言われると一言では難しいが、一般論としては、あると思う。

というか、私もできているとは言いがたいけど、一般リベラルは非リベラルを含む他者の主張(場合により差別的だとしても)の背後にある問題意識を無視すべきでないと思っている。

これはしばしば保守派リベラル批判するときに言っていることで、限度はあるにせよ、方向性としては確かにそうだなあ、という感想

なお考慮とは「その通りにする」という意味ではなく、検討材料カウントするということ。

なぜ分離排斥されてる被差別弱者に「問題解消の意思を見せろ」と要求して当然だと思ってるんだ。

当然ではないだろうけど、ちょっと整理が要る。

いい加減にわか!!!!!

この要求がまだ満たされていないと思う場合は教えて貰えるとありがたいです。実際、私が未だにわかってなくても不思議でないので…。


追記ブコメ反応)

なるほど、わかる。ただ、『トランス差別問題視する人が「当然、男性も含めて皆で負担するのだ」』はどうなの、という気がする。悪いリバタリアン的。逆に差別問題視する人がいなければ差別放置していいのか。

「悪いリバタリアン的」は実は薄々思いつつ端折ってしまい申した。

"皆で負担" は一見社会主義的だけど、逆説的にリバタリアンがこういう主張をすることがよくありますね。

ソーシャルリベラル的な批判としては、最終的な理想だけを(まるで既に実現しているか、もしくは容易に実現可能であるかのように)述べても、今そこにある問題是正について議論が進まない、これでは一向に不公正が無くならない……という反応になる。

しかし一方で「現状はともかく、理想はこうだよね」という確認作業大事ではあるんだよなとも思っており、まずはそこで合意を示しておくべきかな、と思った次第です。

理想論と現実論の混同は色んな話題でよく揉めますよね。混同しなくても単体でも揉めるけど。

追記トラバ反応)

DD論はやめろ

不寛容には不寛容

リベラルが大好きなこの2振りの武具でお前の論法全部否定できるけどどんな気持ち

2chレスバはやめろという気持ちだが、気持ちは置いといて、その2点については良い指摘だ。

それと "2振りの武具" とやらはリベラル傲慢さを批判したいのだろう。その連帯責任を私に求めている? それとも私のエントリに該当箇所がある?

いずれにせよ些末な問題とは思わないよ。

2022-08-09

清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう

前置きの前置き

この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ

前置き

清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口Twitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので

代わりにそれっぽいものを書いてみる練習

具体的には江口先生

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。

続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」を書くかは未定。

まり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが

最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。

とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ


前提

を先に見ていることが前提。

特に江口先生ブログに書かれている5つの定義

説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。



学問の自由辞書定義

まず、清水先生スライド提示するのが

1998年 国際大学協会(IAU)声明学問の自由大学自治社会的責任」による定義です。

学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者教員学生が、倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由

これは明らかに 辞書定義 ですね。

人びとがその言葉をどう使っているか国語辞典の載っているような形で説明している。

そして次に清水先生は、

一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」

「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」

自分言葉でも「学問の自由」を定義します。

世間一般用法という文脈なわけですから、当然、スライド引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、

同じく 辞書定義 が与えられようとしているもの解釈されます

実際に与えられた定義を見てみましょう。

ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります

IAU声明では「外部から圧力」となっているところが、

と非常に具体的な形になっています

世間一般用法として紹介される割には、議論のあり得るところで

「こういうのは多数派も少数派もない、学問独立って話なんですが、多数派から圧力特に抵抗しにくいので」

というふうに説明するほうが世間認識とあっているように思える。

とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部から圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書定義のままだと受け取ることもできる。

学問の自由」の濫用としての「学問の自由侵害」への説得的定義

次に清水先生は「学問の自由」の濫用の話を始めます

ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います

今は、とりあえず定義の話をしましょう。

現代の誰かが主張している「学問の自由侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生定義していると読める箇所を、少し文言修正の上、抜き出します。

見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生ブログで挙がっている

中絶とは、罪のない子供の容赦ない殺人である

中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全外科処置である

などと同じ形式となっている。

ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、

中絶の例ならば、中絶辞書定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、

清水先生は、この文脈での「学問の自由侵害」とは 辞書定義 学問の自由侵害とは全く異なるものだと論じていることです。


(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリック解説なので

批判の要点が掴みたいだけの忙しい人は飛ばしても良い。

どう辛いのかについては、「批判対象曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)


辞書定義明確化定義として使用することを目的とした約定定義へのすり替え

最初の節辞書定義から

これらは学問の自由侵害定義として読むことができるものであり、

先に導入された説得的定義社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。

ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書定義)」学問の自由ではない、という論証。

しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。

先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書定義と認めました。

逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生独自見解です。

すなわち、この時点で辞書定義として導入された学問の自由という概念

学問の自由を〜と私は定義します!」という約定定義へとすり替えられているのです。

一旦まとめると、

「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、

「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的定義の中に紛れこませる(定義すり替え)」

これが清水先生レトリックです。

定義を縦横に駆使するレトリック

付け加えていえば、ここですり替えられた約定定義根拠

学問の自由とは

「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの

という説得的定義の導入も行っています

まさに、

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

のものですね。

じゃあ、5つの分類の最後理論定義はどうか、

憲法23条保障する学問の自由

この一節は憲法学理論を援用しているため、少し強引ですが理論定義を示したものとも言えるでしょう。

実際、この定義根拠に「学問の自由侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し

これは日本国憲法保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。

否定しています

なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、

要は憲法学理論憲法原則としては国家権力監督するものであり、私人間効力の議論私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。

権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、

そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。

批判対象曖昧さ、具体性の欠如

ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、

正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で

直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります

ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。


清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、

書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、

Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。

ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセルカルチャー」の事例が話されているのですが

これも抽象的な定義操作時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。

詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、

これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」に譲り、

記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります

議論余地はない」ほど明らかなものだけ議論される

清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、

とりあえずここは論点にせず、清水先生解説をそのまま採用します。

ABORの主張は、

ナチス政治哲学擁護であるとか、あるいは進化論否定であるとか、 そういうもの学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」

「実際にそういうような授業になっているかどうかを、 授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべき」

学問の自由とはそういった環境で成立する。

ぶっとんでますよね。これ肯定する自由主義者いるんですか?

ナチス肯定論文を学問の自由擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?

しろ、何が相手だろうと自由である肯定する、過激自由論者ほど否定する内容です。

大学ナチス擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか

まとめると、

最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論余地のないことしか言っていません。

じゃあなんで議論になるのか。

清水先生立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が

ある意味辞書定義のように暗黙に共有されているからです。

千田有紀と呉座勇一

清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります

このちょうどいい2人については講演では全く触れない。

特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、

ちょっとからない」「詳しくない」「法律専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」

との返事。

「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。

訴訟原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば

この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。


たこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。

理論物理学者の性暴力学問の自由擁護することはできない」

何を当たり前の話をしているのでしょうか。関係ありますか?

せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラパワハラを長年犯してきた超一流哲学者大学から追放されたことを、学問の自由擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。

まとめ

文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しかさない。

それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書定義には触れないで、

何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。

暗黙の辞書定義説得的定義の関連は、聴衆が勝手勘違いしてくれることに任せる。

これが、学問の自由についての、清水先生の講演の構造です。

2022-08-05

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3186s

53:06~57:07

David Horowitz, Academic Bill of Rights (ABOR)

学問はあらゆる問題について政治的中立であるべき

学問の自由は常に複数観点提供される環境において成立する

特定問題について異なる見解があるなら議論の双方の側を教えるべきで、授業内容を調査する仕組みが必要

ポリティカル・コレクトネスを巡って提示されたこの図式、

すなわち既存差別や抑圧への批判を、それこそが自由侵害であるとして批判し返すというこの図式は、

この後現在に至るまで、とりわけ大学を中心に学問の場において着々と展開されてきています

例えばDavid Horowitzによる、学問権利法案ABORというんですが、

これは、学問はあらゆる問題について政治的中立立場を採るべきであり、

学問の自由とはそのようにして常に複数観点提供される環境において成立する、というふうに主張します。

これだけ見れば、これだけ見れば、リベラル多文化主義的な主張かなっていうふうに思いかねないんですが、

Horowitzの主張は、これが先ほどの庵逧先生のご発表ともちょっとつながるんですけど、

それが当代の学術領域において、どれほど学問的に反駁され否定されているものであろうと、

特定問題について異なる見解があるならば議論の双方の側を教えるべきであると、

実際にそういうような授業になっているかどうかを、

授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべきだ、いうふうにHorowitzは主張する。

このABORの問題を、アメリカ大学教授連合AAUPというところが問題点を指摘する声明を出しているんですが、

そこで述べられているように、これは学術的知見の蓄積に裏付けられた主張であるか否かにかかわらず、

例えばナチス政治哲学擁護であるとか、あるいは進化論否定であるとか、

そういうもの学術的に正当な主張の一つとして教えるべきだと、そういう議論なんですね。

から何が学術的な裏付けのある議論であるかについて、学術コミュニティで蓄積されてきた知見を認めないという点において、

ABORは「学問の自由」を唱えつつ実態としては学問の自由侵害している、いうふうに言うことができる。

Turning Point USAによるProfessor Watch List (2016)

リベラル左派の横暴に支配された大学において、差別されている保守派学生を守る」

差別や抑圧をめぐる逆転の構造

差別や抑圧への批判や対抗の言説が、その言説に同意しない(差別的、抑圧的な)主張をする自由を抑圧し、そのような考えを持つ人々を差別している」

抑圧側と被抑圧側を逆転させる支点としての「学問の自由

ABORは、リベラルあるいはレフトの価値観大学が乗っ取られていると、だといいなと思うんですが、

でも大学は乗っ取られてる、それと異なる、つまり保守派主義主張学生研究者の「学問の自由」が侵害されているから、

それを守らなくてはいけないという構えを取っています。ただこの構えが実はただの口実でしかない。

学問の自由」というのがここでただの口実でしかないことは、例えばもっと2016年にTurning Point USAという、

これ、学校とか大学保守派価値観擁護・推進することを目指すアメリカNPOなんですが、

そのTurning Point USAというのがProfessor Watch Listというのを作ってまして、これを見るとよく分かる。

Professor Watch Listは、

教室において保守派学生差別左派プロパガンダを推進する教員を暴き記録するということを目的としています

このリストは、リストに加えられた教員とか研究者あるいは大学へのメールなどでの攻撃というものも当然誘発することになって、

先ほども出てきましたアメリカ大学教授連合AAUPは、このリスト自体学問の自由への脅威だというふうに批判している。

ABORから10年以上が経って出てくるProfessor Watch Listというのは、

ABORとは異なって、最初から学問の自由」というのを活動根拠として打ち出してないんですね。

にもかかわらずそれ以外の点つまりリベラル左派の横暴に支配された大学において、

差別されている保守派学生を守らなくてはいけない、これが「学問の自由」の擁護であると、

そういうふうにABORはなるんですけど、でもその構えというのはそのままABORから踏襲されてる。

ブッシュ・シニアミシガン演説を思い出していただけるといいんですけれども、

差別や抑圧を巡るこういう逆転の構図っていうのが、ここでは非常に重要な働きをしている。

ポリティカル・コレクトネス論争からProfessor Watch Listまで、30年近くあるわけですけど、

学問の自由」というのがどう使われてきているのかというと、差別とか抑圧への批判あるいは対抗の言説が、

その言説に同意しない、つまり差別的あるいは抑圧的な主張をする自由というものを抑圧するんだと、

そういう考えを持つ人々を差別するのだという形で抑圧側と被抑圧側を逆転する、ある種支点の働きを担ってきたわけなんですね。

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

2021-09-29

anond:20210929160020

国民」に訴える上では経済を良くするという希望こそが第一だ。所得税減税はどうかと思うが、消費税減税は掲げるべきだ。

前回の民主党政権新自由主義政策で失敗しているが、その後、社会政策政治哲学とやらの妥協でくだらない論点第一にしているからこその退潮でもある。

事実、今回の河野の敗退についても、経済を失墜させるという思惑が故に破れた。

anond:20210929143421

経済学的な正論」が好きな人共通しているけど、政治的な考え方があまりナイーブだと思う。もう少し政治的駆け引き交渉妥協プロセスというものに関心を持ったほうがいい。

総裁選を見ても確かに政治家の間で財政緊縮論は退潮しているけど、それは大震災安倍政権誕生海外の反緊縮ポピュリズムの動向、そしてコロナ禍という様々な事件政治的偶然が重なった結果であって、経済学正論を愚直に訴え続けた結果ではない。

世間一般の人はもちろん、国会議員経済学者ですら同じ「経済学的な正論」を共有しているわけではないので、そうした政治社会学的な事実を踏まえて、政策論というのは構築されなければならない。とくに「減税」を旗印する場合社会政策政治哲学では対極的な勢力とも組む必要考慮する必要があるが、減税派の人は果たしてそこまで考えているようには見えない。

2020-09-05

白井聡すら知らない無教養のDr.ナイフをありがたがるリベラル

Dr.ナイフかいうやつが白井聡のことを無名呼ばわりしてる。

おれは白井聡ファンでもないし、白井聡思想共感しねーし、白井聡ツイッター書き込み普段から口悪すぎて下劣だと思うし、今回の「松任谷由美夭折しとけば良かったのに」ってつぶやきホントに最低だと思うけどな、

でも言っておくが、白井聡全然無名じゃねーよ!

Dr.ナイフ曰く、

白井聡のこと知ってました?

僕は知りませんでした。

そんな無名な人の発言になんで怒ってるんですか?」

だと。

あのなあ、おまえが白井聡を知らねえのは、白井聡無名なんじゃなくて、おまえが教養のない人間からだよ。

白井聡デビュー作『未完のレーニン』 は、若者が書いたマルクス主義ソ連についての本ってことで出版当初ちょっとした話題になったんだよ。

おまけに2013年出版された『永続敗戦論』は、角川財団学芸賞を受賞して、これはかなりの話題になり、新聞雑誌書評欄でも取り上げられたし、書店の人文系の棚に行けば平積みされるくらいだったんだぞ。

そのおかげか知らんけど、白井聡毎日新聞とか朝日新聞で定期的に書評や時評を書いたりもしてんだよ。

もっと言えば、Dr.ナイフ執筆依頼されたあげく、やっぱり匿名アカウントは不味いだろってことになった、あのウェブ論座にも白井聡は何度もコラム書いてんの。

何が言いたいかっていうと、白井聡っていう名前は、朝日新聞とか毎日新聞を定期的に読んでいたり、月1でも本屋Amazonの人文系棚や話題作をチェックしてたり、ウェブ論座を見てる人であれば絶対に目にする名前なの。

百歩譲って本を読んだことなくても(偉そうにいってるおれも、『未完のレーニンしか読んだことないわ)、多少なりとも政治とか政治哲学とか思想かに興味があれば、白井聡っていう名前は知ってるはずなんだよ。

からDr.ナイフの「ぼくは白井聡なんて人知りませんでした」 ってつぶやきは、イコール「ぼくは新聞もろくに読まなければ、書店政治思想社会評論についての本もチェックしませんし、ウェブ論座だってまともに読みません」って表明してることなんだよ。

もちろん白井聡世間的に有名だなんて言わないよ。

世の中には娯楽があふれてるし、時間お金は有限だから、わざわざ高い金払ってマルクス主義がどうとか戦後日本がどうとかなんて本を読むやつはかぎられてるよ。

から世の中の大半の人は白井聡のこと知らないかもしれないし、知らなくても問題ないよ。

でもDr.ナイフは、安倍政権に疑問持ってんだよね?政治意識高い人なんだよね?リベラリズムがどうとか民主主義がどうとか独裁政治がどうとかツイッターでつぶやいてるんだよね?

その人が話題になった本も読んでなければその著者の名前すら知らない、それどころか新聞政治欄や学芸欄も読んでない、それどころかそれどころか、インターネット上の論壇すら見てないってさぁ。

じゃああんたの口にしてる、リベラリズムとか民主主義とかって言葉には、なんら教養的基盤がないってことじゃん。だってそうでしょ、新聞や本を読まないで、どうやってそういう抽象的な概念について考えることができるの?勘ですか?

まりDr.ナイフって、「なぜ社会自由で公平でなければならないのか」とか、「民主主義とは何か」みたいな、本質的形而上学的なことを考えず、ただなんとなくそのほうが良さそうだからって理由で、軽ーい気持ちで、「リベラル社会大事ですよね」とか、「社会には多様性必要ですよ」 とかいってるだけだろ。

まあね、Dr.ナイフがそれで楽しければそれでいいんだよ。

仲間打ちでツイッターいいねRT稼いで気持ちよくなるのは個人自由だ。

でもなあ、メディア知識人新聞記者は、こういう言論人気取りの無教養者をもてはやすなよ。

特にウェブ論座、おまえにいってんだぞ!

本も読まない、新聞も読まない、ウェブ上の小難しい対談や論考すら読まない、読むのは新聞ウェブ版の政局記事ばかりで、ツイッターつぶやき理論的な背景や裏付のない思いつきと感想だけ。

そんなやつを「ツイッターデモを引っ張るインフルエンサー」 なんて持ち上げるなんてアホだろ。

まともに新聞読んで本読んで歴史的理論的にものを考えてる他の執筆者に申し訳ないと思わないのか?

……思わないのかもね。

だってツイッター上でもいまだにDr.ナイフのことを好意的に取り上げてる大学教授がいるんだもん。

当のDr.ナイフはといえば、繰り返しになるけど、白井聡すら知らない程度の知的関心の低さなんだけどね。

つまるところ、いまのリベラルって、反安倍ならばそいつがどんなバカだろうと構わないんだろうね。

リベラリズム知的退廃ここに極まれりですよ。

2020-09-01

anond:20200901120213

共産主義民主主義政治哲学者がいろいろ意味を考えて定義してるものであってぼんやりしてないですよ

もちろんその定義学者によって異なるが、「××の主張によればこういう定義である」というレベルまで明文化されてちゃんと追えるようになっているし、既存学説と大きく違うことを言えば別の学派だと認識される

「皆さんひとりひとりが思い浮かべる理想社会、そのどれもが等しく共産主義なのだ」みたいなこと言ったらマルクスからぶん殴られる

2020-08-27

最近フェミニズム界隈にいる人

過激言論が注目されがちなフェミニスト界隈だけど、一枚岩ではないので本当に色んな人がいる。

十把一絡げに「フェミニストはこう!」と扱うにはあまりにも幅が出てきたので、ちょいとどんな人がいるのかまとめてみた。

 

・単純に理不尽が嫌な人

 基本的にこのタイプが一番多い。「人間性能力ではなく、女性というだけでまず足切りされる」といったような事に理不尽を感じ、「嫌だね、変えていきたいね」という感じの人達だ。

 男性だったとしても、「もし逆だったら」という仮定家事業などの女性優位の世界での差別から、「能力ではなく性別足切りされる」という問題を捉えることができる。

 フェミニストであるという自覚すらない人もいるので数が多いが、普通の考え方という認識をしているのであまり声がデカくない。

政治哲学実践としてフェミニズムをやっている人

 例としては「リベラリズムをやるからには、自由について考えなければならない。性別などよって自由制限されるのはどうなんだ。」

 という感じで思想としてフェミニズム領域も扱う、学者タイプの人だ。

 正義>善のリベラリストや、正義<善のコミュタリアリストなど、当然スタンスの違いが存在するので彼ら自体仲がいいわけではない。

・ひどい被害を受けすぎて憎しみだけになった人

 完全に被害者の人で、運や環境が最悪すぎてとにかく悪い男性に当たり続けた結果、「男性像」がそういう酷い人で固定されてしまい、男性を憎み倒している人だ。

 男性のありとあらゆる行動が加虐に転じる生活をしてきたので、男性の言うことを信用できるわけがない。不幸すぎるとしか言いようがない。理不尽の極みである

正義感に溺れちゃった人

 ラディカルで目立つタイプだ。

 思想実践の中、正義行使自己補完を繰り返して過激派になった人で、ラディカルなタイプの中では一番多い。

 明らかに議論批判不足のまま突っ走って思想を完成させてしまっており、枝葉末節にとらわれている人が多い。ソクラテスおっちゃんが言うとったけど具体例は本質ではないんよ。

偏見の補完として使っている人

 これもまたラディカルで目立つタイプだ。

 「生理的嫌悪感になんとか理由をつけたい」という感じで、目立つタイプの中ではまあまあ数が多い。

 「オタクキモい」とか「最近若いやつは…」みたいな言いたくてもちょっと言いづらい思想を持ってるところにこれまた便利な正義が舞い降りたという感じだ。

 どれだけしっかり反証されても「キモw」とか「進んでいない」で片付けるので、フェミニズムを通して平等をやりたいというよりは、単純に偏見持ちが便利な道具として使っているという感じ。

 

・最新のイケてる思想をやっている自分に酔っている人

 出羽守アクセサリー自分を語る人。

 「アクセサリー似合ってないっすね」とか「付け方間違ってますよ」と言うとプライドがズッタズタになるのでめちゃくちゃにキレてダルい

 善にしろ悪にしろ中身がなさすぎるのでこれ以上書くことがない。

 

どれか一つに所属するというよりは、必ずどれかを兼任している感じ。

2020-08-22

anond:20200822011600

生活保護の人の政治哲学とか行政法講義聴いてみたいな

憲法15と25条の論点自信おじさんがいっぱい来るんでしょきっと

anond:20200822005454

地方公務員市町村職員おすすめ

「誰の金で食わしてもらってるんだ!」とか「あなたたち税金もらってるんでしょ!?」とか「取るものは手早く取るくせに出すものはなかなか出さない」とか「こんな涼しいところでボーっとしてたまに電話取って口だけ動かしてりゃ金がもらえるなんておめでたい仕事だな!」とか「外で汗をかく仕事をしてる人間気持ちがわからないやつに市民を助けることなんかできねえよ」とか言われるし、法律で決まっていてどうにもならないことを説明しに来いと市民宅に呼びつけられて休憩なしで半日こんこん説教をされたり窓口でバンバン机を叩かれたり指を指されてくるくるパーのジェスチャーされたり生活保護の人が毎日出勤してきて政治哲学と噂話を説いてくれたりするし、OBはほぼみんな物分かりが悪くなってモンスター化しているし、突然に議員さんがやってきて変なお願いを振りかざしてワーワー騒ぐし副市長に言うぞとか嘘松だろと思ってたら本当に副市長に言われて方向性真逆になったりしたり、まあいろいろおもしろいよ!

2020-05-20

anond:20200520115839

そういうのが聞きたかったんだよね。

 

それで考えを進めてみるわけだが、じゃあ実際そういう本能があるのは認めるとして、理性であらがうことは難しいのかな?

特にウヨだのサヨだのを気にするってことは、一応は政治哲学社会状況に興味を持つ程度の知能があるわけだろう。

抵抗できてもよさそうなもんだが、抵抗している人がなぜか主流になっていかない。

そんなにも本能は強いのだろうか。

2020-04-16

リベラルって何なの?

最近リベラルとは何だろう?自分が『リベラル』と呼ばれる側と相いれない理由は何だろう?ということを考える事がある。

これから書くことは、あくま私見にすぎないので、異論がある事は承知しているが、ひとまず私が考えてることを書いてみたい。

今後も、私が考えていく上での参考にはなると思うので、思うことがあればブコメでも、トラバでも、してくれたらいい。


リベラリズム定義なんてものを学ぶつもりもないので、政治哲学的にどういったものが正しい定義になるのかは知らない、ということは言っておきたい。

だが、『リベラル』とカッコを付けて呼ばれる人々=朝日新聞立憲民主党の一部に代表される戦い方を批判される人たち

であってすらも、根底にあるものは学識者などと変わらないのではないかと、様々な媒体意見を見て肌で感じている。

それは

自分を含めて、全ての人間弱者になりうる。故に弱者は全てを救うべきだし、そういう社会であってほしい」

というものなのではないか?と思うが、どうだろうか?


だけど、私とは、そこのところの基本姿勢が、ちょっと違う。

自分を含めて、全ての人間が転落する可能性はあっても、全ての人間を助ける必要はない。全体効率を追求すべきである

と、社会全体での効率を考えた時に、限界は設定すべきであると考えている。

だけど、根底にある「社会が示すべき寛容さの対象」は「全ての人間を救いたい」と言う人と変わらない。

例を挙げてみると

etcetc。この辺りは特に反対する必要もなくYESだ。そうであるべきだと思う。

しかし、一方で、だが

などといった、全体の中の1~2割程度の、手を差し伸べる事が無駄価値がない奴らを除外すべきである、とも考えてもいる。

らくだけど、この部分が、私のような層と『リベラル』が相いれない理由なのではないか

この基本的姿勢の違い、

「無制限の寛容さこそ善」か「無制限の寛容さは悪」であるか、

が諸問題における、保守層リベラル層の対立の原因であるように感じている。

効率よく合理的ベター選択し続ける事が、実現しそうにもない完全無欠のベストを夢見るよりも、全体の幸福に繋がるというだけの事なのだが、どう思うだろうか?

日本人全員に10万円づつ支給することは無駄しかなく、コロナによって収入が激減して運転資金生活資金に苦しんでいる事業者個人支給すべきである、と思うがどうだろう?

基本姿勢対立が長らく続いた結果かどうかはしらないが、立憲民主党しょうもない難癖付けに終始しているのは残念な話だとも思う。

安倍首相に対して会食を自粛しろ批判していた高井議員が、緊急事態宣言後に風俗店に行った事、コロナ痛快新聞などは、そのくだらなさの最たるものだが、

「無制限の寛容さこそ善」と考えてる人々が、異常に攻撃的で論理的にも矛盾しているのはおかしな話ではないかとも思うし、そんなカッコ付きの『リベラル』は誰にとっても邪魔なんじゃないかと思いますよ。

2020-03-14

古典は本当に必要なのか

古典は本当に必要なのか」と今訊かれたら、どう答えるだろうか。(この問いを「高校で必修科目にするべきか」に矮小化して競うのはズルいなあ)

例えば、今『幸福監視国家中国』を読んでいるが、これを読むとどうも中国政府が作ろうとしているのは、ある意味儒教理想社会なのではないかと思う(明天子としての国家主席)。

社会信用システム個人の信用を数値化し、数値が低いと各種サービスが受けられなくなる。法と刑罰で縛るのではなく緩やかな制裁、不便さ生きづらさを与えることで自発的服従を引き出す(馴致)。「修身斉家治国平天下」をIT技術の力を駆使して実現しようとしている、ように俺には見える。

儒教とは民主主義とは異質な、いわば統治者統治者による統治者のための政治哲学。人には身分があるという前提の上で、礼儀正しく他人に優しくしましょうねという思想現在中国政府が目指す路線もそれで読み解ける部分が大きいのではないか(少なくとも内政に関しては)。

すなわち、支配する中国共産党と支配される中国国民という大前提の上で、高い教養と徳を兼ね備えた選ばれた君子ならぬ党執行部が、民草ならぬ国民善導仁政を施す、こういうイメージ。「天網恢恢疎にして漏らさず」というが、その天網を技術の力で人為的に構築しようとしている。その結果生まれた(生まれつつある)「監視国家」では、人々の暮らしは便利になりマナーも向上し犯罪も減ってきた。そもそも大前提に疑問を感じないのであれば、それなりに暮らしやす社会なのかもしれない。

自由平等個人からなる市民社会」を唯一絶対価値とする西洋近代から見れば、今の中国社会ディストピアしか見えないだろう。だから人権とか環境とか、相手にとって響かない言葉批判材料に持ち出してしまう。全く噛み合ってないのだ。

しかし、「君子が民草を善導する儒教社会」を念頭に置いて見るなら、(好悪は別として)それなりに理解できる。したがって噛み合った対話可能となるし、上手な付き合い方も見つけられるのではないか

以上のような推論が正しいのかは措くとしても、こういう考察ができるのは俺が漢文を読めるからだ。

勿論四書五経を精読した訳ではないが、要点はかいつまんで把握していて、必要があれば誰かに訳してもらわずとも自分で読めるからだ。

もしある人が中国中国経済に関心を持っていても(あるいはビジネス上持たざるを得なくなっても)、彼が漢文を全く読めなければどうか。影響力のある著名人が「修身斉家治国平天下を連想させる」と指摘するまでそれに気づくことはできないだろう。また、仮にそれを聞いても出典である大学』を読めなければ指摘の真意理解できず、したがってその当否も自分では判断できないことになる。

まり漢文の素養がある人は、ない人に比べてより早く、より多くの可能性を想定することができる。したがって対象への理解の程度もより深くなる可能性が高い。その知見をビジネスに生かすこともできるだろう。

要するに古典というのは、今起きていること、起こりつつあることを理解するうえで役立つ枠組みを我々に提供しているのではないか

というより話は逆で、理解の枠組みとして多く参照された作品が結果古典として残っているのではないか。たくさん引用された論文がそれだけ権威を持つように。

高校の授業が古文漢文の真価を学生に伝えられているか」は大いに疑問だし、厳しく問い直されるべきだと思う。が「古典は本当に必要なのか」と問われれば、俺は躊躇なく是と答える。

現在、そしてこの先しばらく国際社会に大きな影響を与える中国という巨大な異文化対峙した時、日本には他国にない大きなアドバンテージがある。漢字の読み書きができる、そして中国文化を受容し改変してきた伝統がある。このアドバンテージをむざむざ捨ててしまうのは愚かしいと言わざるを得ない。

この主張だと「では日本古典勉強しなくていいのか?」という反論が想定されるが、それについてはまた機会を改めて考えよう。

2019-12-17

anond:20191216173906

はてブでは「正論!」と大絶賛だが、違和感があるので書いてみる。

話は飛ぶのだが、マイケル・ウォルツァーという政治哲学者が「複合的平等」という考え方を提起したことがある。

社会なかには様々な領域があり、カネを稼ぐ人が優遇される領域野球が得意な人が優遇される領域プログラミングが得意な人が…(以下略)など無数の領域存在する。ところが、往々にして人間社会ではそのなかの特定領域で優れた人が、他の領域にまでその影響力を行使してしまうことがある。たとえば、カネを稼ぐのが得意な人が、なぜか専門知識もないのに教育領域に口を出してくるとか。

ウォルツァーは、特定領域で優れた人が、その事実によって別の領域にまで支配力を及ぼしてしまうことをやめて、さまざまな領域自律性を担保することで平等を実現しようと主張する。つまりいくら金儲けが上手だろうとも、教育知識がないなら、教育の話に口出ししてくんな、このスットコドッコイ!というわけだ。

他方、この考え方に従うなら、ある領域ものすごく能力が乏しい人であっても、そのことが別の領域におけるその人の評価に影響を及ぼすべきではないという話になる。要は、いくらスポーツが苦手だからといって、プログラマーとしてのその人の評価に何ら影響を及ぼすべきではないという当たり前の話。

ところが、世の中ではそういうことがしばしば起きる。なかでも重要なのが、人の「見た目」。確かにファッションモデルアイドルが「見た目」で評価されるのは、ある程度やむをえない。そういう領域活動しているからだ。だから、複合的平等の発想に立つなら、ミスコンテストミスターコンテスト別に否定されないと思う。だが、ほとんどの人はファッションモデルアイドルではない。

実際のところ、男性もかなりそうなのだが、とりわけ女性場合、その「見た目」がその他の様々な領域での評価に大きな影響を与えがちになってしまう。

ここでようやく話が元増田に戻ってくるのだが、この元増田場合、「仕事の実績で評価される社会人」と書いているから、まさに「仕事の実績」という領域評価されたことが素直にうれしかったんだろう。ところが、見た目の麗しい新人が入ってきたことで、「見た目」という評価基準が不当にも拡張されているという感覚を抱いてしまった。

元増田自身追記で「差別っていうのは確かに言い過ぎだったかもね」と認めているように、新人が入ってきたことで元増田に対する周囲の評価が変わったのでないのなら、元増田差別されたどうかは微妙なところ。でも、複合的平等が達成されているかに見えた領域だったのに、また「見た目」という評価が不当に入ってきたことの失望理解できる。

こういう観点からみると、元増田も「女子としてちやほやされたかった」という増田は、元増田の主張を不当にゆがめているし、言っていいならハラスメントですよ、それ。

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