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2024-03-11

難関大学中退者には性犯罪者と同じ評価を下す

性犯罪者に対する社会の風当たりは厳しい。 最近四谷大塚講師Mが女子生徒をロリコン性犯罪者グループに売ったことで 中学受験業界全体が揺れている。 Mはおそらく大した罪には問われないだろう。 だからこそかも知れないが、「Mを死刑しろ」という声が絶えない。

なぜだろうか? それはきっと、以下2つの理由によるものだろう。

1.性犯罪社会にとって危険である

2.性犯罪者はどうせまた再犯する

1は自明だが、2の理由はなんだろうか?

そもそも犯罪者とは何だろうか? それは、犯罪を冒した人間のことである。 ではなぜ人は犯罪を冒すのだろうか? それは、犯罪を冒すことがその人にとって有益だと判断されたからだ。

ふつうの人は犯罪を冒さない。 なぜならば、犯罪を冒さなければ平穏生活が手に入るからだ。 言い換えると、ふつうの人の中では平穏生活が手に入ること > 犯罪を冒すこと という不等式が成り立っている。 しかし、犯罪者にとってはこの不等式が逆になっているのだ。 特に性犯罪のように意思を持って行わなければ成立しないもの場合はそうであるといえる。

この不等式は、ふつうの人にとっては絶対に逆にならないものだ。 でも犯罪者にとっては逆になっている。 これが何を意味するかというと、犯罪者は明らかにふつうでない感覚、あるいは人生観を持っている ということだ。

なぜだろうか? それはきっと、脳の気質レベルでなにかがふつうではないからだろう。 だから犯罪者のこの気質修正不能であり、 犯罪者はどうせまた再犯するということになる。 事実性犯罪者再犯率は極めて高い。

対象者のうち,調査対象となった性犯罪事件裁判確定から5年が経過した時点において服役中等の者を除いた1,484人について,罪名は問わずいずれかの再犯を行った者の比率である再犯率は20.7%であった。性犯罪再犯率は13.9%であり,全再犯を行った者のうちの約7割を占めていた。

昨今、東大京大といった難関大学中退する人間が目立つようになった。 SNSの影響うんぬんの前に、はっきりいって、頭が悪いんだろうと思っている。 ガイジと言っていい。

大学を22歳で卒業し、大学院を24歳で卒業するストレートに失敗する要因としては、 浪人留年中退の3つがあるが、 このうち就職における影響は、大きい順から 中退留年浪人となる。

中退は、そもそも高卒と同じ扱いになっているからというのもあるが、 特に難関大学においては別の理由もある。

難関大学卒業して、例えば京大卒になることと、 中退して高卒になることには大きな開きがある。 人生は全く違ったものになるだろう。 しかし、彼らはそれを放棄して中退という道を選んだことになる。 つまり彼らは、難関大学卒業して輝かしい学歴を手に入れることより、 中退して勉学の苦しみから解放されることを優先したのだ。 これは明らかにふつう感覚ではない。 これらの高みにたどり着くために、多くの人は子供の頃から塾に通い、 時には泣きながら勉強して、 それでもなお届かずに諦めたのだ。

日本大学卒業することはそう難しいことではない。 だから、あと少しだけ努力すればその高みに届いたはずなのに、 それすら辛いという理由放棄して中退してしまったということになる。

これは、平穏生活を手に入れることを難関大学卒の学歴を手に入れることに対応させて、 犯罪を冒すことを中退して楽になることに対応させれば、 性犯罪者論理と全く同じことに気づくだろう。

難関大学中退する人間は、大抵の場合仕事が出来ない。

これは以下のような理由による。

まず、仕事をするためにはそのプロダクトなりビジネスを ある程度はジブンゴト化する必要がある。 難関大学中退者というのは、自分人生という最重要プロダクトすら まともにジブンゴト化出来ずに放棄した人間であり、 このような人間が しょせんは他人定義したプロダクトなどをジブンゴト化することが出来るはずがあるだろうか(いやない)。

次に、なぜ彼らが大学中退することを選んだかというと、 これは大抵の場合勉強が嫌だったからだ。 彼らは多く場合アスペルガー気質があり、 好きなことはとにかく熱中するが、嫌いなことは絶対にやらないという 傾向がある。 このような傾向は、仕事をする上では致命的となる。

一方でふつう人間というのは そのような近視的なもの見方はせず、 より高い視点物事を見ることが出来る。 つまり自分人生にとって卒業ないし学歴がどういう価値があるかという包括的視点ものごとを見ることが出来るから、 興味のない科目や授業があったとしても、ある程度は受け入れることに成功し、 単位を落とすまでには至らない。

最後に、彼らは努力出来ない。 これは、嫌いなことに対して努力することが出来ないということでもあるが、 彼らは内心、中退したことを悔いている。 この後悔は、履歴書門前払いされるごとに深くなっていき、 次第に、こんなはずじゃなかったという思いに支配されることになる。 世の中のほとんどの大人は、もっと勉強して少しでも上位の大学に行けばよかったと後悔しているのである。 であれば、大卒になる権利すら自分放棄してしまった人間の後悔というのはこの比ではなく、 場合によっては自分を認めない社会に対する恨みすら抱くようになる。

このような人間は、中退せずに難関大学卒業した人生と、今の人生比較してしまい、 今の人生をこれ以上改善しようとは思わない。 なぜならば、その努力は、前者の場合に比べて報われる可能性が低いと考えるからである池江璃花子白血病から立ち直り、世界水泳に出場するまでに復活をしたが、 大抵の人間白血病になったら、仮にそれが治ったとしても、またトップレベル選手を目指そうとはならない。 なぜならば、白血病治療において抗がん剤放射線治療をした影響によって 自分身体は確実に弱化しており、努力しても虚しいだけだと考えるからである。 こうした状況において最大の努力をしてトップレベルまでカムバック出来るのは、 池江璃花子池江璃花子からに他ならない。 ふつう人間は、今日ほんの少し疲れているだけでも、今日はお休み明日から本気出すと言って それを繰り返すものである

では、低学歴はどうだろうか。 低学歴も、高学歴になることを諦めているのだから、 同様の論理適用出来るのではないかと思うかも知れない。

その考えは、大体は合っているが、性犯罪者というほどにはならない。

東進林修は、最後の授業においてこのようなことを言うらしい。

「これから一ヶ月間、必死勉強しろ必死勉強すれば、結果がどうであれ、人生の糧になる。 必死勉強しなければ、結果がどうであれば、 自分は一ヶ月間すら必死努力出来ない人間なのだと 生涯苛まれることになる。」

この論理学歴の高低に適用すると、 仮に必死勉強した結果が低学歴なのだとしたら、それは別に構わない。 しかし、必死勉強せずに低学歴なのだとしたら、その人は確実にだめだということになる。 ただ残酷なことに、最大に努力した結果低学歴なのだとしたら、 それはやっぱりだめということになるから結論として低学歴はやっぱりだめということになる。

実際、使えるか使えないかは概ね出身大学偏差値と相関がある。 特に論理思考力など仕事をする上で重要能力は、 低学歴の人には備わっていないことが多い。 生まれつき知能指数が低い場合受精しかやり直すしかないが、 そうでない場合でも、思考力というのは思考しなければ養われることはない。 難関大学問題思考力を要求するため、受験生の中には その訓練のために難問を何時間も考え続けたという経験をしたものが少なくない。 中学受験出身者の論理思考力が高いのは、膨大な量の論理パズルを幼少期に訓練しているからだ。 だから低学歴基本的には使えない。

しかし、その使えない度は、難関中退者よりはマシだとは言える。 大学受験は時の運もあるし、環境によって十分な準備を出来なかった人もいるだろう。 それに、大卒高卒の差に比べれば、大学偏差値の高低はそこまで大きな問題ではないから、 誰しもが最大限の努力をするという前提には無理がある。 実際、マーチ関関同立レベルで十分に高学歴という価値観を持っている人の方が大多数であることは間違いない。

から偏差値が低い大学出身人間でも、 大学に入ってから努力をして、そこから伸びてくるというケースはある。 しかしそれは決して一般的ではない。

2024-02-14

もちろんです!モラー直線(またはモラー散乱)は、電子物質中を移動する際に受ける散乱の現象を表すものです。以下にモラー直線について簡単解説します。

ラー直線とは:

ラー直線は、電子物質中で散乱する際の角度分布を表すものです。

電子物質中を通過する際、原子核電子との相互作用により、散乱が起こります。モラー直線は、この散乱角度の分布記述します。

ラー直線の特徴:

ラー直線は、小角度(通常は数度以下)での散乱に適用されます

電子物質中を直線的に移動する場合、モラー直線はその散乱角度を予測します。

ラー直線の計算方法:

ラー直線は、電子エネルギー物質原子番号物質密度などに依存します。

一般的には、モラー散乱理論を用いて、電子の散乱角度の確率分布計算します。

応用:

ラー直線は、放射線治療や粒子加速器設計など、物質中での電子挙動理解するために重要です。

ラー直線は、電子エネルギー損失や散乱角度の予測に役立つ理論であり、物質中での電子挙動を詳しく調査する際に活用されています12

2024-01-10

生きててくれてありがとうと言えなかった

子供の頃、母ががんになった

 

酷い泣き虫でとても一人にはしておけない娘を前に、母は何がなんでも生き残らねばと決意した、と聞いた

無事手術は成功したが、その後も長く放射線治療検査を受けていた

他にも腫瘍ができ、これが悪性だったら余命はもう数えるほどだと宣告されたこともある

 

それでも母は苦しい治療を受け続けていた

主治医に完全寛解と経過観察の終了を告げられた時、私はもういい大人になっていた

つい数年前のことだ

 

今日で長い病院通いもおしまいになったよ、と聞いた時、私は最初に「生きていてくれてありがとう」と言おうとした

母がそばで生きて育ててくれたから、泣き虫弱虫な私は一応の大人になれたのだ、それは当然じゃない、母の決意に支えられた私の幸運だったのだ

 

でも、まるでそれは「あなた人生は私のためにあった」と言っているみたいで

母の生は母だけのもののはずで、生きようとしたのもそれは彼女個人の決意とその結果であって、そこに他者である私が感謝を表明するのは筋違いでは、と思ってしまったのだ

ただでさえ、まだ女性自由にはライフプランを選べなかった時代の人に、「母として生きてくれてありがとう」というのは失礼なのではないか、と

 

そして「生きててくれてありがとう」ということで、私はこの先の彼女人生自由もやんわりと縛ってしまうのではないか、と

 

結局私は、「私は、お母さんがこれまで生きていてくれて本当に助けられた」という、謎に突き放したような感想を表明したのみだった、母はリアクションに困った顔をしていた

なにか贈り物なんかもしなかった

 

某SNSで似た言葉を見かけ、自分のそのことを思い出して、もっとちゃんとお祝いすれば良かったと後悔しているような、でもやっぱり私にとってはあれで正しかったと思うような、割り切れない気持ちでいる

正解はなんだったんだろうか

だって母にはこれからも元気に長生きしてほしいが、それを彼女が望んでいるかはわからないし

人をおもうというのは難しいことだ

 

2023-06-20

選択肢が1つ消えた。

一昨年悪性腫瘍が見つかって、人生初めての手術を受けた。

手術は寝たまま運ばれて手術室へ行くと思ったら、普通に歩いて手術室に行った。

手術室は設備も新しく、手術台は温かくてふわふわしていた。

手術は3時間と聞いていたけど、6時間半掛かった。

胸を縦に切って腫瘍を取ると聞いていたけど、L字の様に縦にも横にもメスが入っていた。

から聞いたら、思って以上に大きくて浸食悪性腫瘍が見つかって、人生初めての手術を受けた。

手術は寝たまま運ばれて手術室へ行くと思ったら、普通に歩いて手術室に行った。

手術室は設備も新しく、手術台は温かくてふわふわしていた。

手術は3時間と聞いていたけど、6時間半掛かった。

胸を縦に切って腫瘍を取ると聞いていたけど、L字の様に縦にも横にもメスが入っていた。

から聞いたら、思って以上に大きくて、心膜横隔膜の一部も切除したらしい。

術後は独特の痛みで夜も寝れない日が続いた。

咳やクシャミをすると傷口が開いて中身が出るのではと思った。

費用は限度額適用認定証を取得していたので満額の185万より少なく、2週間分の個室と食事、病衣台で40万弱だった。

公的保険もありがたかったし、自分で掛けていた保険給付金も一時金、手術、入院給付金で支払った以上に入って来た。

住宅ローンも払って半年ほどで支払い免除になった。

今年経過観察の検査で再発。

自分は再手術だろうと思ったら、癒着や再発の場所が大動脈等の近くで手術が出来ないと言われた。

抗がん剤か、放射線治療と手術という選択肢が1つ消えた。

これからどっちを選択するかそれぞれの治療についてネットや本で調べてみる。

子どものまだ幼稚園子どもが好きな妻は最低2人は欲しかったと結婚前に話してた。

こんな状態で妻は2人目は諦めたみたいだ。

選択肢が1つ消えただけで、絶望するにはまだ早いけど、悪い事ばかり考えてしまう日もある。

現実世界で妻にも親にも言えないから、ここを使わせて欲しい。

書いて少しスッキリした。

2023-03-13

母さんがガンで死んだ(追記

から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟からなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。

ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。

医者から一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。

「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」

とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。

「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。

翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子

溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。

その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療検討しようということに。

母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。

程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。

実家家族帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。

副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。

「癌の専門医先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。

その道の専門医先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。

それでも、「やっぱり経験値が高い専門医先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。

細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」

とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。

あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。

ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。

改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。

これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してから状態改善しなかった。

母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。

この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。

妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャタイミングだった。

死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー東京結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。

12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。

ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。

足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。

そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。

母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。

急遽、仕事休み実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。

少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。

妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。

「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。

その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。

泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。

訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。

そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。

最後看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。

看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取り役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。

一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。

翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。

覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。

おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分祖父自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。

納棺ときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子ども写真を納めた。

短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで

葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。

夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。

翌日も葬儀火葬バタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。

母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。

それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。

その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。

母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。

当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。

そういえば、ウィッグ友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。

ウィッグ販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。

思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。

癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。

母さん、ありがとう。母さんの子どもで良かったよ。

追記

たくさんの方に、暖かな言葉いただき、恐縮しておりますありがとうございました。

私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。

野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。

母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転ドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています

経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族介護+訪問看護体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかたこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。

なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード年金手帳マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係ほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います

長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。

2023-02-28

anond:20230228174840

あんの子やで・・・

閉塞性無精子症 

精巣(睾丸)の中で精子は作られますが、途中の通り道が何らかの原因で閉塞を来していることから無精子症となったものを、閉塞性無精子症と呼びます。
広義には射精できないことによる無精液症も含めることがあります

非閉塞性無精子症
 

先天性(染色体異常、遺伝子異常、原因不明など)あるいは後天的抗癌剤治療放射線治療、ムンプス精巣炎など)原因により、精巣(睾丸)で精子を作る能力が低下してしまったために無精子症になったものを、非閉塞性無精子症と呼びます。広義には時々ごく少数精子が精液中にあらわれる症例を含めることがあります

2022-12-07

anond:20221207162404

がんにかかって100万円もらえてもしょうがない。それなら保険に入らず100万円を貯金した方が良い。

合理的に考えるとそうなんだけど、実際に体験すると「病気にかかって大変な上に貯金が減る」という体験結構メンタルに来る。「貯めといて良かった」と思える人はすごく心が強いと思う。

身内が保険受給してて思ったけど、実質的にかかる費用補填というよりは、あれは、すごく辛い時にもらえるあぶく銭だね。

退院したら良い寿司でも食べようとか、入院中使うから高いノイズキャンセリングイヤホン買おうとか、そういう気分転換するにはよさそうだった。

病気にともなって発生するちょっとした出費、ちょっとした贅沢、たとえば放射線治療の時に使うウイッグをおしゃれで可愛いのにしたいとか、そういうところで貯金を取り崩すのではなく、あぶく銭が使える良さってある。

2022-10-16

anond:20221014090723

スピとはちょっと違うけど、私の母の話をしたい。

私の母は発見時にStage4の癌で、医者は今のままだと半年治療を行えば予後がよくなる(直らないけど寿命は延びるよ、いつまでかは知らんけど)と言った。

セカンドオピニオンにもかかったが、言われたことは同じ。良ければ2年ぐらいは生きられるけど直ることはまずないと言われた。

最初医者の言う通り、母は放射線治療抗がん剤治療を始めた。

抗がん剤治療を始めてすぐ、母は何を食べても苦く感じるようになったようだ。砂を食べているようだとも言った。何度も吐き気に襲われてしょっちゅうトイレで吐いていた。

ふっくらとした体型だった母がみるみる痩せていった。

しばらく堪えて頑張っていた母だが、あまりに辛いので止めたいと言った。そして代わりに縋ったのが、いわゆる近藤某かの言うような放置治療だったり、マッサージとか食事療法とかそういったものだった。

当然、そんなもの効果があると私を含め家族は信じていたわけではないけど、ニセじゃない方医療は母に辛い治療を強いるけど助からないと言う。ニセ医療は辛い治療も強いないし助かる可能性があると言う。

もっと生きたい、病気を治したいと思っている母が、希望を持って生きるにはどちらが良いか。母の選択を間違っているとは言えなかった。

母も多分わかって騙されていた気がするし、それでよかったんだと思う。

まだ助かる見込みがある人がニセ医療に騙されたり、全然治療効果がない高額な治療をさせたり、そういうことをしている連中は許せないけれど、ただ批判されてるのを見るのも今となっては複雑な思いがする。

2022-05-06

anond:20220506123841

微量なら、放射線治療にも使われる。

大規模な外科手術をせずともガンをやっつけてくれる。


小学校で読んだ「怪盗紳士ルパン」にも書いてあったから間違いない。

2022-04-28

犬の体調が悪い2

今日はずっと泣いている。

病院検査したところ髄膜腫とのこと。

脳の動脈というか太い血管にもくっついていて、外科手術ではリスクがありかなり難易度は高いとのこと。取りきれなければ数ヶ月で再発。

放射線治療を勧められたが

当てられる位置なのか

受け入れてもらえるのか

犬は耐えられるのか

色々ハードルがある。

それでもやってほしい。1日でも一緒にいさせて欲しい。願わくば完治して欲しい。私の寿命半分あげるからもっと一緒に生きて欲しい。

明日また病院紹介状もらいに行く。

お願いします。置いていかないで。

2022-03-04

ねこがガンになった

ねこかわいいねこ

世界一美人ねこ

生後5ヶ月で私が拾ったねこ

実家の子になったねこ

猫嫌いの母と弟を猫バカにしたねこ

実家とは疎遠になろうとしていた私を繋ぎ止め、家族のかすがいになってくれたねこ

頭良くて人の顔うかがいながらイタズラするねこ

18歳(人間なら88歳)なのにとても元気で、よく遊んで欲しがっていたねこ

病気という病気をしなかった。

甘えん坊なので皆が忙しくてかまってもらえない時にストレスでちょいハゲができるくらいだった。

毎日よく食べ、よく水を飲み、よく運動し、よく甘え、よく毛繕いし、よくンコもする健康優良猫だった。

もう、歳だからそろそろ覚悟をしなきゃと思ってはいた。

いや、正直10歳過ぎた頃から覚悟をしなきゃと思ってはいた。

でも、とても健康で元気だから覚悟なんてしていなかった。できてなかった。

ねこが8歳のころに私は生まれ故郷を離れ、帰郷するのは年に2回となった。

それでもねこは私のことをちゃんと覚えていてドアを開ければ鳴きながら走って出迎えてくれていた。

とても賢い。

親と電話すればその背後で鳴いてアピールをしていた。

とても可愛い

離郷して9年目、新型コロナウィルス世界蔓延し、突如パンデミックの災禍に巻き込まれた。実家に帰れなくなった。

その頃からねこは少し夜泣きをしたり、たまに乱暴になる事があった。

親は「痴呆では?」と心配していたが、名前を呼べば反応するしご飯もわかるし過剰に要求しないし、私は違うと思ったし主治医問題ないと言っていた。

今思えば身体異和感不安だったのだろうか。

一年半後コロナが少しおさまりかけ、実家に帰ったがやはりちゃんと私の事を覚えてくれていた。18歳だけど毛艶も良く、夜は昔からの習慣で布団に入ってきたので一緒に寝た。

元気な姿はそれが最後だった。

数ヶ月後、母からLINE

ねこの口腔内に腫瘍ができた。手術でとって病理検査してもらう」

即調べた。

手元の小さな箱で調べた。

猫 口の中 腫瘍

「猫の口腔内腫瘍は8割が悪性といわれています

「癌になったら余命は1〜3ヶ月ほど」

信じないでおいた。信じたらしまいだ。

残り2割の可能性がある。

結果は8割の方だった。

残酷

診断が出たのは昨年、2021年11月中頃。

それから3ヶ月半。

ネットで調べた寿命は乗り越えた。

主治医も言う「強い子だね。奇跡的だよ」

知り合いの獣医も言う「19歳で全身麻酔の手術なんて、それだけでも凄いよ」

手術も抗がん剤放射線治療も無しでの事だ。

何故なら手術で腫瘍を採るには目をとり顔を半分削ぎ落とすから。それでも完治は保証できない。

抗がん剤腫瘍の由来が不明のため効果的に投与できる薬を特定できず、放射線治療負担が大きい。

結果的に見守るしか無くなってしまった。

それからねこ可愛いお顔は左半分が少しづつ膨れ上がり、鼻は曲がり、左目はほぼ見えなくなった。

口の中も再び肉腫が大きくなり、鼻を圧迫して髭も抜けて無くなってしまったのでご飯が食べづらい。

口の下の腫れが気になるのか顔洗いながら爪を立ててしまうので毎日顔と両手が血まみれになる。血の海に浸したみたいに赤黒い。

あんなに沢山食べたご飯は1日にウェットタイプパウチ半袋。

ウンチも週一。

お水もうまく飲めないのか傷にしみるのか苦戦して量が減る。

癌診断の後、私は一週間の自主隔離PCRを駆使して月一で帰郷した。帰ったらリモートワークしながら一週間滞在してはねこと密に過ごした。

帰ると嬉しいのかご飯の量が増えたりしてくれた。

毎晩一緒に寝て、泣きながら沢山話しかけた。

沢山撫でた。

昼間も寝床近くで仕事してると寝床から「にゃーん」と呼ぶ。

元気な時はそんな事一切なかったのに、体力ないからか、寂しいからか、辛いのか、痛いのか。

どうしたの?と撫でてあげると安心してまた寝た。

それが2週間前。

昨日からまた食事量が減ったとの報告。

匂いを感じないからか、食べづらいからか、実家近辺にて買えるウェットフードで食べてくれるものが尽きた。

ネットでなんでもいいからウェットの食べやすそうなものを手配した。

体重は全盛期の2/3の2.6kg。

もう、近いかもしれない。

毎晩泣いてきたけど、いまだに涙が止まらない。夜になると考えてしまう。

何かできたことは無かったのか、事前にわからなかったのか、いや分かるわけない、人間でも予防は無理だ、でもあの子は左目に昔からアレルギーがあったからアレが遠因じゃないのか、その時の獣医アレルギーと言っていたから分かるわけない、内臓のガンの方がマシだったのか?、いやそれはお前のエゴしかない。

そもそも彼女は私に拾われてしあわせだったのだろうか?

よい猫生だっただろうか。

昔はねこ虹の橋を渡ったら遺灰を小さくて可愛い骨壷にいれて手元に置いておこうと思っていた。

今はそれすら良いのか分からない。

そんなものを今から手配するのもましてや探すのなんて体が動かない。

あなたが今、ただただ苦しんでいない事を。

痛くないことを。穏やかでいられる事を。

世界中の猫とこれを読んでくれた貴方貴方の猫が少しでも永く一緒に幸せでいられる事を。

祈るしかない。

2022-01-11

今朝、祖母が死んだ

医師によって白い布を取り去られたその顔は、ありきたりだけどまるで眠っているようだった。

閉じきれずほんの少しだけ見える瞳は黒く、力なく開いた下顎から察せる口内はほとんどの歯が抜け落ちてくぼんでいる。

祖母は一昨年、口底癌で放射線治療を受けていた。

80を超えて、ステージⅣの口底癌を患ったものの、なんと再発の恐れはないとまで言えるほどに癌と戦った。認知症の症状こそ出始めていたが、元より辛抱強い人だった。それでも当時「いやだなぁ」とぽつりと呟いた声を私は覚えている。

癌も辛いし、放射線治療も辛いよね。それでも受けてくれてありがとう

2分前に自分が何を言ったか覚えていてくれてなくても、私が孫だってあんまりわかってなくても、骨と皮しかないようなその手で握ってくれた手は暖かかったよ。

あの時よりももっとやせ細ってる気がする。

コロナ禍の所為で面会もできないし、一度だけしてもらったオンライン面会ではこちらの声に全く無反応で、タブレットを持ってくれていた看護師さんに促されて奇跡的に「んー」と返事をするだけ。

さな私を叱るときに三階の窓から雨の中ランドセルを投げ捨てたあの力強い生命力はどこにも感じなかった。でもなんていうか、今でもあれはやりすぎだったと思うよ。

それでも何の苦悩も見えないその安らかな表情は、悲しみと同時に安堵も招き、ただはらはらと頬を熱く濡らした。

横たわる身体にかかった布の柄が細かいせいで、若干錯視じみている。ぼーっと見てれば不意に布が上下したようにも見えた。

まるで眠っているのではないかとまた錯覚を覚える。

薄く開いた瞼から除く目を見るのが怖くて、頭上寄りにパイプ椅子を置いて座り直し、角度的に物理で見えなくさせた。

顔をしげしげと見下ろすと、眉毛が一本だけ白く伸びている。どうせなら整えてあげられればよかったのに。

こんな時に限って出てくるのは涙で、あとはそのためのハンカチだけ。

ガーゼ生地に涙と同じだけの鼻水を吸わせつつ、そっと髪の毛に触れた。

柔らかい

80後半、パーマヘアカラーもしてないその髪は猫っ毛のように柔らかくて、結構黒髪も残っている。すごいねぇなんて撫で付けると頭皮からひんやりとしていて、冬の外から帰ってきたみたいだなぁとぼんやり思った。

おばあちゃん、死んじゃったんだね。

旅支度だと手伝った際に触れた肌は皮がたるんで柔らかいのに、芯まで冷えていて涙が止まらなくなった。

あと死装束って言いたいのに何度も死覇装って言ってごめんね。貴女勝手死神にさせてしまたことを恥じています。こんな孫ですが、まだ可愛がってもらえますか?

喧嘩もしたし嫌いなとこもあるけど、大好きだよおばあちゃん

また明日、会おうね。

2021-10-05

父親が癌になった

今日、母から連絡があった。

父親が癌になったこと。

ステージ3なので手術は行わず放射線治療薬物療法を行うこと。

早ければ明日にも入院開始になること。

親も決して若くはないので、むしろ自然なことだと思うけれど、いざ自分の親のこととなると受け止めるのに時間がかかりそう。

自分故郷を離れて大学に通い、就職して、結婚して、子供も生まれ転職して地元から離れた他地方に根を張って生活している。

父の癌宣告を聞き、近くに居てあげれない悔しさと、今の生活を切り上げて父を看取るために地元に帰るほどの優しさがない自分にも気付かされた。

誰も見ていないこちらで文章にして、自分気持ちを整理したい。

から連絡があったのは、5時半を少し過ぎた時間。いつも電話してこない時間帯の電話だったので嫌な予感はしていた。

母:今、大丈夫

私:仕事の合間だけど、どうしたの?何かあった?

母:仕事終わってからでいいよ、ちょっと話したいことがあって

私:どうしたの?何かあったなら聞かせて?

母:いいよ、また後で大丈夫

上記のような問答が続き、ついに父の癌のこと(進行がんがみつかり、ベッドが空き次第入院治療になること)を話してくれた。

頭の中に色々なことが浮かんだ。

本当に?診断は間違ってないの?ステージは?父の仕事大丈夫?母に心労はない?いつまで生きられるの?

ぐるぐる色々なことを考えながら冷静を装った。

根掘り葉掘り聞くのも憚られたし、あまり深刻な質問はしないよう心がけていた。冷静に話を聞く自分に対して、冷たいなとも思った。

その一方で、冷静ぶることで自分を保っているような、不思議気持ちになった。

母曰く、病気については父からでなく母から私に伝えてほしいらしく、もうすぐ父が病院から帰ってくるらしい。

ひとまず、母に心配しすぎて体調崩さないでね、と伝えた。

電話を切って思ったことは、父の心配、そして母の心配

その後自席に戻ったが、さきほどの冷静さはいつの間にか消え、色々なことをぐるぐる考えていた。

それでも冷静ぶる自分もいた。

やはり仕事が手につかず、帰路へ。

帰り道、父に電話

思ったよりも深刻な様子はなく、病気を受け入れている様子。

自分も大病を患ったことがある(何なら今も。付き合っていく系の持病)から病気と向き合うのがスタートだよね、と話。

普段寡黙な父が少し饒舌だったかもしれない。

それに頼んでもいないのに母に電話を代わった。

しかしたら、息子にこの話をするのが辛いのかもしれない。

地元に残った兄にも電話した。

もともと仲が良くないこともあり、そっけない態度。

おまえは帰ってこれないんだから心配だけしてもしょうがないとのこと。

くそのとおりで、入院の世話とかができないけど、なんとか母を手伝ってほしいこと、その他にできることがあったら何でも言ってほしいことを伝え、兄も体に気をつけて、と話しした。

家に帰って色々調べたが、わからないことだらけ。

もともと医療業界に近い仕事過去していたが、自分の親のこととなるとさっぱり。

せめて、入院中にたくさんテレビ電話をして孫の顔を見せてあげたいと思う。

本が好きな人だから、病室に本を送ってあげたい。

自分が読んで面白かった本を贈りたい。

同じ本を読んで、感想を言いあいたい。

一歳を過ぎた次男の顔をテレビ電話しかたことのない父に次男を抱っこしてほしい。

恥ずかしくて一緒に飲んでいない酒も飲みたい。

父の作った野菜を孫に食べさせてあげたい。

父の癌種は5年生存率3割以下だそう。

父がいなくなる日はきっとそう遠くない。

いまだ、信じたくない。

こうなって思い出すのは小さい時の優しかった父ばかり。

大人になってからも、思い出になるようなことをしてあげればよかった。

他人事のようなことが自分ごとになり、気持ちの整理がついていない。

親孝行したいときには親はなしと言うが、まだ生きてくれているうちに色々なことをしよう。

2021-09-14

末期癌の父に会えない

父が末期癌になりました。

直腸癌で昨年手術し、その後転移してしまい様々な状況から手術で取り除けない為、この先は延命治療となります

入院予定ですが、今は面会禁止となっていて入院したら母も会えません。もちろん東京の私はずっと会っていません。

私が最後に会ったのは2019年正月で、父は正月誕生日なので一緒にお祝いしました。

その時には癌とはわかっていたものの、手術をすれば問題ないという話で、まだまだ元気だったと思います

その後、夏に帰る、秋に帰る、冬に帰る、と言い続けるも帰らず…職場でも父を心配してくれていましたが、仕事を優先してました。放射線治療がうまくいったという話だったので安心していたのもあって、あっという間に2020年。ようやく「春に帰ろう!」となったところでコロナ禍となりました。

この時仕事放り出して帰らなかったのは、「たいしたことじゃない」ということにしておきたかった、というのもあると思います。悪い方に捉えるのがずっと怖かったので、そんなに今までと変わらなくても大丈夫だもんね?という気持ちでした。

東京から遠いところです。仕事が激務なこともあり、元々年一くらいの帰省でした。

もちろんコロナ禍でここから一度も田舎へは帰れなくなり。

病人に会うなんて言語道断東京から帰ってきたら誰に何を言われるか、もしその所為でお父さんに何かあったら、、、などなど母からマシンガン反対に遭い、手を尽くして帰ったところで母の心労が増えそうだったので見守っていました。

こんなにコロナ長く続くと思っていなかったし。

今年に入って、癌が悪化しました。切除手術してオストメイトになることが決定。

ここでも切れば大丈夫という話で、オストメイト便利グッズいかな?と探してみたり、入院用にちょっといいパジャマ送ってみたり、ゴルフ始めるからリハビリ頑張って一緒に回ろう!と約束したり、どうにか前向きにしていこうと家族みんな思ってました。恐らく父も。あんなに人工肛門嫌がっていたのに、「かえって食欲増して太ってしまうかもな!」「大きめのパジャマで良かったわ〜」とか軽口叩いていました。

でも転移してしまいました。

父は最初から延命をあまり望んでいません。

かに死にたいと言います

私と母がお願いだから少しでも長生きしてよ、というから付き合ってくれているところがあると思います。兄はもう頑張らせたくないとも言います

2度目の抗がん剤副作用がつらいと言います膵臓癌って痛いんですって。オストメイトも不便なはずなのに弱音吐きません。何年か闘病続けてきて、これ以上痛い思いはして欲しくない。でも会えるようになるまで頑張って欲しいとも思います

どうやっても私は会えないらしいんです。兄も東京にいて、第二子まれたばかりだけど、どうやっても会えないと。

PCR検査をしても、自主隔離をしても。少し前なら自主隔離したら会えたかもしれませんが、何かあった時に私達のせいになるからと母は反対していましたし、今もそうです。

入院したら母さえ会えないんですが、父は一人で闘病し続けるんでしょうか?考えたくないですが、ずっとこのままなら、最期家族で看取れないんじゃないでしょうか。

父はまだ70歳にもなってません。近所でもっと高齢のご老人を見るたびに「どうしてお父さんはあんな風におじいちゃんになれないんだろう」と考えたりします。少し前まであんなに仕事バリバリしてたのに。

はたまた、車を見ては小さな頃二人だけの車旅に連れて行ってくれたことを思い出したり、カラオケの帰り道運転しながらずーっと嬉しそうに歌の話をしているのを思い出したり、突然、あんなに小さい頃抱きつき虫だったのに大人になったら距離ができてしまったな、次は抱きしめたいなと思ったり。

その度にポロポロ涙が出るわけです。予告なく。

多分仕事をしていなかったら止めどなく考え続け泣き続けてると思う。好きな仕事が目の前にあることに心から感謝しています

正直、コロナで会えないまま身近な人を亡くすような状況は他人事だと思っていました。

こんな形で自分の身に訪れると思っていなくて、「いつか会える」と普通に考えていました。

いやまあそもそも、まだどのくらい余命があるのかわからないのに、意外といけちゃうかもしれないのに、今から父の最後を一人にしてしまうことを考えるのは不毛かもしれないのですが、

もういよいよ眠れないのでこうして文にしてみています

特に言いたいことはないんですよ。

から今のうちに親を大事しろとか、そういうことじゃないんですよ。私は病気した時の経験自分幸せが両親の幸せでもあると心から信じているので、結婚して東京幸せ暮らしている今を大切にすることが答えになっているし、コロナはひどい!でもないんですよ。そんな感情のないもの責めてどうするんだって。なんで癌になるの、などもう無意味の極み。

ただ長生きして欲しい一心しかないんですけど、それが難しいということが自分で受け入れられてないのかなと、書いてみて思いました。

ただ、一つだけここまで読んでくれた都会の方にお願いすることがあるとしたら、コロナ実家に帰れない田舎出身人間に「なんで帰らないの?」とか聞かないであげてください。

大抵は聞かれた本人が一番帰りたいはずなので。

あなた言い訳をする度傷付きます言い訳をさせないであげてください。

そして、こういうエピソードを何かを批判する材料にも使わないでください。

コロナのせいで…!」というところに当てはめて振り回されることは更に虚しさを呼ぶな、という気持ちでおります。私は何も憎んでいません。父がふざけたおじさんである限り、ふざけたおじさんの生む出来事はなるべくおかしくあって欲しいと思っています

今は心から、父に会える方法や状況が生まれることを願っています。娘からは以上です。

2021-02-26

30歳、三度目のがん

乳がんに またなった。

敢えて再発と書かないのは、別の種類だから

2年前は、腫瘍転移したリンパ節のみで胸には無かったけれど持病により放射線治療ができないので全摘という話で最初は進んでいた。

だけれど もう片側のおっぱいもがんになる可能性が頭を過ぎり、また再建手術の内容を聞くうちに拒否感を覚え 再発まで少しでも元々の胸のままでいようと摘出はやめた。

そして今回、悪い予感が当たり もう片側のおっぱいにも腫瘍を認め最初は再発だと思ったけれど生検の結果 別のタイプだという。

辛かった抗がん剤や地味に辛いホルモン治療無駄だったのかもしれないという気持ちがあったので正直ホッとしたところがある。

でも今回はもう逃げられない、恐らく全摘出。

どうせ手術をするなら豊胸手術をする手間が省けたって思えるような美乳にしてもらおうって思ってるけど、どれだけのことが出来るんだろう。

保険適用じゃなくてもいいからカッコイおっぱいにしてほしい。

とりあえず抗がん剤がまた始まって 今日で2回目だけど、副作用がほぼゼロで実感はない。効いていない気がして腫瘍状態確認できずにいる。

今回は男の子とヤリまくるエネルギーがなくて、でも今度こそ自分が生まれ持った女の部分が望んでいないのに作り変えられてしまうというか感覚麻痺とかして性感帯をひとつ失うかもしれないと思うと動きたいけど、もう完全にがんを舐めているところがありヤル気が出ない。

とにかくこれだけ、無理矢理おっぱいを残してよかったと心から思う。

担当のお医者さんをとても信頼しているけれど、その人の言いなりになる必要はないから話を聞いて自分で考えた上で今回も最善ルートを選べるといいな

とりいそぎメモ

タイトルの三度目というのは、乳がんの前にも もういっこやってるからです。

2021-02-08

自分で高出力レーザー買って自家脱毛やってみた

ヒゲが(体毛全体も)濃くて毎朝のヒゲそりにかかる時間無駄すぎる。ヒゲソリで肌が荒れるし、かつ夕方になると青ヒゲヅラになり自分の顔がとても不快

若いころは週一のペースで毛抜きで抜いてたが、埋没毛になり皮膚下で数センチの長さに伸びてトグロを巻いて膿んだり、ナイフで皮膚切って血を出しながら取り出したりとさんざんな目にあってきた。(数年続けてたが、不毛だし顔が埋没毛の処理で傷だらけになるので20代半ばでやめた)

医療脱毛皮膚科に通う時間など無いので、自家脱毛やりたい。

自家フラッシュ脱毛機や自家レーザー脱毛器はとても低出力でまともな効果が望めない。

 

レーザー脱毛原理は、肌に吸収されず黒色(毛のメラニン色素)に吸収されるレーザー光をあてて発熱で毛乳頭組織破壊すればいいということで、基本なんでも自分でやってみる性質なので、レーザーモジュール買って組み立ててやってみた。

 

自前のウェブサイト持ってるが、違法な部分はないけど色々言われそうなので匿名増田でやる。

 

 

レーザー機器について

 

レーザー脱毛では波長755nm、800nm、1064nmのレーザーが使われており、波長が短いほど発熱効果が高いが浸透性が低く、波長が長いほど皮膚の深くまで届く。安価で入手しやすい波長808nm、出力500mWの近赤外線ダイオードレーザーモジュールをaliexpressから個人輸入した。送料込18USドル。型番 JLM8050ZD-J2Y5 18F30

 

レーザー機器には消費生活製品安全法による規制がかけられており、日本国内販売業者が一定以上出力のレーザー機器一般消費者向けに販売するのは禁止されているが、入手や所持することに規制は無い。つまり海外から自己使用のため購入するのは完全に合法。売ったり譲ったら違法

 

皮膚科サイト医療脱毛用は30msecパルス照射で最大60ジュールと紹介されている。えーとえーと、出力2000W!?そんなんあり得る!?何か間違ってる?? 今回入手したのは0.5Wなので120秒間一カ所に照射して同等の効果になるが、やっぱりおかしい。→後で(たぶん)解決

 

医療脱毛用は肌のヤケドを防ぐため冷却ガスを出しながらレーザー照射する機能があるが、そこまで強力でないのでまあいい。冷却が必要なら照射する前に肌を水で濡らしといて気化熱使えばいいや。

 

医療行為

 

・焼くほどの高出力レーザーを皮膚組織に当てるのは傷害かつ医療行為となり、他人に業として行うのなら医業となり医師免許がなければ医師違反犯罪となるが、自分自分脱毛するのは業として行っていないので医師法には抵触しない、と思う(ピアスの穴を自分で開けるのと同じ?)。またこれを医師でない人間他人に施せば傷害罪となるが、自分自分に何をしようが当然に傷害罪にはあたらない。

 

 

aliexpressで発注して2週間で届いた。

モジュールなので照射部分と回路部分が分かれており、スイッチは無く12V入力汎用性のないコネクタ

照射部と回路部は両面テープで貼り付けて合体させ、12V入力ケーブルを途中で切断して電源ボタンとしてタクトスイッチを割り込ませ本体に接着、ケーブルの先に2.1mmDCジャックを付けた。あとは普通の12V 1A以上のACアダプタをつなぐだけ。

 

いきなり肌に当てるのは怖いので、黒い紙に試験照射

近赤外線の波長だが可視光領域の光もあるようで赤い点になる。どこを照らしてるかわかりやすい。

煙が出ると思ったが、何も反応しない。触るとほんのり暖かいくらい。おかしい、不良品か?

照射口を紙から離していくとレーザースポットだんだん収束し、4cmほど離したところで直径1mm弱の点になり瞬時に紙にパッと閃光が走り白い煙が出た。

 

なるほど、レーザー照射からKm先まで平行光が続くものだと先入観があったが、これ4cm先でピントが合うようになってるのね。

50cmも離すと室内でどこを照らしてるのかわからいくら拡散してしまい、これは遠距離照射する悪戯には使えないようになってるのか。なるほどね。

逆に言えば定位放射線治療みたいに、精密に皮膚から距離照射位置を保てば毛乳頭のみ焼くような芸当もできるわけだな。無理だけど。

次に白い紙に当てるとまったく焦げない。明るい色なら加熱されないわけだな。

 

ある程度わかったので、まず手の甲の毛を一部剃って、当ててみる。

からにゆっくり連続的に動かすが効いてる感じがしない。

一点に止めてみると、1秒たたないうちにチクッと来て慌てて電源ボタンから手を離す。焦げる匂い

これが毛、毛乳頭が焼けた感触だな。

手の甲2c㎡ほど処理。翌日、痛みが続いたり赤く腫れたり膿んだりは無い。

逆に毛が抜けてくることもない。時間が短すぎた?もうちょっと待つか。

 

皮膚科サイトでは医療脱毛レーザー照射口が12mm×12mmのサイズとあり、なるほど広範囲を一気に処理できるようになってんのね。2000Wが一点に集中するわけじゃなくて、広範囲照射するための高出力なわけね。

144m㎡で2000W、1m㎡あたり約14W、これなら納得できる。これを0.03秒照射してるから、0.5Wを0.84秒照射すれば単位面積あたり同じだけ加熱してるわけだ。そのくらいでチクッとしてたから、体感的に納得。

プロ用は高いだけあり時間節約できると。

これは時間はかかるが家でヒマなときに鏡みながら毛一本一本焼いていくのは苦じゃない。

 

 

次に本番、顔のヒゲ

上唇は特に痛いと聞いてたが、そんなに。

特に邪魔な頬と首(喉仏付近)のヒゲを集中的に処理。チクチク、ジュッジュッ、毛が焦げる匂い

 

翌日、おお!!

いつもは剃って一晩たって手で触ったらザラザラするのに、伸びてないぞ!頬がすべすべしてる!すごいすごい!感激だ!

高校生の頃から20余年間、毎朝毎朝、累計するとどれだけの時間を消耗させられてきたか。にっくきヒゲが消せそうなのでとても感激して駄文を書き連ねてきた。

 

これから1週間程度様子を見て、また良くも悪くも変化があったら追記する。

最後お約束、これは俺個人体験談で、真似して皮膚に障害を負っても責任もてないので真似しないでね

 

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2/14中間報告

 

今のところ害は出てない。・・・が、実は効果もはっきりしてない。

最初に「翌日ほほがツルツルのままで感激」と書いたが、どうも思い込みバイアスだったのか、翌々日にはいつも通り毛が生えてきた。

これが処理した毛根から生えてきたのか、処理時は休眠してた別の毛根から生えてきたのか不明だが、どうも前者な気がする。

 

たぶん、自分でやるが故にチクッとした瞬間に次の毛に移ってたので、熱の加え方が足りなかったんだろう。

「上唇もそんなに痛くない」と書いたが、熱の加え方が足りないから当然痛くなかったんだろう。

最初はどんな害があるかわからないので怖かったのもある。

今は慣れてきたのもあり、チクッとしてからさらに1秒、計2秒間くらい当ててる。けっこう痛いし、しばらくヒリヒリしてる。

これがプロ用のハイパワーレーザーだと0.03秒で熱を加え終わるので、否が応でも死滅させるが

0.5Wの(プロ用に比べると)ローパワーで自分でやるが故の辛さ。

 

あと、皮膚科だと毛を剃った状態で面積ごとに処理するが、このレーザーは直径1mmの点処理なので1本1本の毛を狙う形になり、

処理すべき毛がわかるよう夜に1mmほど毛が伸びた状態で処理してるが、この毛をどんどん焦がしていくので、すごく臭い。自室やリビングでは無理で、換気扇のある洗面所でないとできない。

あと洗面所の鏡の前に立って前かがみで顔を近づけて処理するので、腰に来る。なのでスマホに付けるチューブカメラレーザーに付けてスマホ見ながら処理できるようにする。

 

aliexpressではより強力な1Wの805nmレーザーも売ってるが一気に高価になる(100ドル近くする)ので、

今の0.5Wレーザーのヘッド部だけ5個注文(15ドル)して、LED用の定電流回路に直列で繋げて、5個を一点に集中照射するようパテで固定して2.5Wレーザーを作る予定。

ただ5個も同じレーザーを買うと、商売目的と誤解されて税関で止められないか、通関したとしても警察通報が行って消費生活製品安全違反容疑で家宅捜索されないか不安

(まあされても自己使用してる状態なので不起訴になるだろうけど)

2021-01-19

ア●ラックCMが苦手だ

数年前に癌になった

ステージ3で手術→抗がん剤放射線治療と標準治療を全て体験した

今は再発しないよう定期的に病院に行く日々

癌になってから見かけるとチャンネルを変えてしまCMがある

ア●ラックCM

ア●ラック所謂保険会社。癌や白血病などに罹った芸能人をメインにしたCMが多い

今は白血病体験した笠井アナウンサーが出ているが、実際に病気に罹った人の言葉は重みがあり自身も頑張ろうと思うのだが、問題なのはCMメインタレント病気には罹っていないのに、何故か出ている芸能人

CM内にインタビューしているシーンがあるが、言葉も心があまりこもっていないし、大変ですねーとか言う言葉が軽くて見るのも辛くなる

病気に罹っていない芸能人もっともらしい事を話されても心に響かない

CMメインタレントが某アイドルの方なのでうっかり言い難いけど、もう少し癌や病気に罹った人の気持ちを分かってくれるタレントCMをしてほしいと思う

2020-11-29

理想の死に方はハードルが高い

世の中にはポックリ信仰だのコロリ観音などというものもあり、「ぽっくり死ぬ」のが一つの理想とされている。

まあ確かに死ぬと判っていて長く苦しむのは、特異な死生観を持っている人以外は嫌だろう。

また、認知症などで長く家族負担をかけて、とてつもない醜態さらし続けて「いつ死ぬんだろう」と半ば願われながら死ぬのも、物寂しい話である

ピンピンコロリは、やはり一つの理想である

とはいえ、1人暮らしの人などがいきなり自宅で死ぬと、発見されるまでに時間がかかってしまい、遺体や自宅が無残な状況になりかねないリスクがある。

では仕事中に死ぬのが良いかというと、これも微妙だ。

友達少ないから、全社会議とかで大勢にお別れしてもらえるのはまあちょっと興味あるけど、正直、社長とか上司とかが何言い始めるか分からない危険性があるし、

遺族が過労死労災を疑ったりして、後味が悪い結果にもなりかねない。

かといって通勤中とかに死ぬ電車が止まってしまい、何千何万の通勤客の呪詛を受けながら死ぬ、という割とキツいシチュエーションになってしまう。


なので、ポックリ死ぬなら、旅先が良い。

旅先の人にはちょっと迷惑をかけてしまうが、恨みつらみは残らないし、何か楽しく人生を生きて死んだ感が漂うから、遺される人も若干気が楽だ。

とはいえ、ポックリ死ぬのは、何の準備もしてないので、本人は良くても周囲に面倒をかける。

心の準備もできない。お別れも言えない。喧嘩中だったりしたら後味も悪い。連絡すべき関係先を洗い出すのも一苦労だし、遺品の整理も面倒だし、部屋が汚かったり、恥ずかしい所有物とかが発見される危険性もある。

という事で、お別れを言う時間くらい欲しい。

しかし、お別れを言うには「大病を患っている」という前提が必須である

事故死ぬ場合は、即死を免れても意識不明のまま死ぬ可能性が高いので良くない。ふためと見られない顔になってる可能性もあるし、恨みつらみや相手方保険屋との交渉とかがあって面倒極まりない。

やはり病死である。それも死ぬと判ってから1週間程度の猶予は欲しい。

部屋の整理は諦めるとしても、せめて3日はないと、遠方にいる家族が死に目に会えない危険性があるし、お別れがあわただしくなってしまう。

しか半年以上入院というのも厳しい。最後の方はかなり苦しみそうだし、そんだけ入院すると費用馬鹿にならない。家族金銭負担がかかっているのを気にしながら死ぬというのも、きつい。

という事で、1か月前くらいに余命が判って、家族や親戚・友人に連絡して、身辺整理を済ませて、1週間前くらいに入院して一通りお別れを済ませて、最終的になんか良いセリフを言って眠って3分くらいで、ピー、ご臨終です、というのが理想である


しかし、どういう死因ならそんな事が可能なのか。

コロナは割と近いが、あれは陽性反応が出たら1日かそこらで問答無用入院である身辺整理もできないし、入院する段階ではまだ死ぬと決まってないから、関係者に通知もしにくい。

それに、コロナ死ぬ場合、途中からなんかゴツい機器で呼吸を助けてもらう形になるので、お別れを言えない。感染するといけないから遺族も立ち会えないし、遺体の顔すら見えないという。

じゃあガンならどうかというと、ガンで死ぬのは相当キツい。最後モルヒネ使って痛みを取り除くとしても、そこに到達するまでに、手術や放射線治療などがあり、相当苦しむ。

それに、専門家じゃないから良くわからないけど、末期がんで余命1ヵ月になるまで気づかないというのも、さすがにレアじゃないだろうか。半年前には気づいてしまう気がする。そうすると、死ぬまで長い。

1か月前に死ぬとわかって、あまりしまず、身辺整理をする余裕があり、お別れも言える。

そんなの、何か凄い感じの宇宙船事故で冷たい方程式的な何かが無ければ、ありえないのではなかろうか。(私は宇宙飛行士じゃないし、前述の理由事故死はちょっと問題あるので、どのみち却下である

理想の死に方はハードルが高い。

2020-11-23

anond:20201123195137

体調が十日間しんどい理由に心当たりは?

アレルギー食品を食べた?建物塗料は?工業地帯の水飲んだ覚えは?放射線治療を受けた?高高度の登山をした?

濃厚接触した!?それだ!!!

2020-10-07

【2020.10.09追記】親の乳がんを早期発見できなかった

母親乳がんであることがわかったのが2020年3月

世間的には新型コロナウィルスがそれなりに騒がれてきたころだった。

そのあとはもう抗がん剤治療がすぐはじまり8月頃に手術をしてひと段落かと思った。

全然そんなことはなかった。

腫瘍マーカーの数値はだんだん悪化していて、本人もそうだし俺もめちゃくちゃ落ち込んだ。

落ち込むというより、混乱と不安と恐怖と悔しさだな。

これは早期発見すれば乳がんは治る!って広告を見て、早期発見できなかった人の話も書くかと思って書いた話。

 

 

から今すぐに顔を見て安心したり心配したりしたかった。

でもできない。

まず俺(28)は同居してないし、400kmくらい離れたところで働きながら一人暮らしをしている。

親は二人で田舎に住んでいる。しかも近隣の県では新型コロナウィルス感染した一家自殺に追い込まれたりしている。

病院側も神経をとがらせていて、GWに息子さんが帰省するなら、息子さんとの接触を控えてくださいとまで言っていた。

そんな場所に帰れるわけがなかった。

そんな場所から、親も帰って来いなんて言えるわけがなかった。

今年の三月に会って以来、現時点では一度も顔を合わせていない。

 

 

実はすでに、乳房良性腫瘍があると10年前の時点で判明していた。

それ以来、良性腫瘍存在は毎年のことであって、今年の1月の健診でも問題がなかったとして放置していた。

それが3月になり、乳房が少し痛むというので病院に行き、針で生体組織採取する、いわゆる”生検”を行った。

タイトル通り乳がんであり、タイトル通り早期発見には程遠いステージⅢだった。

ステージⅢの中にもaとかbとかあるが、もう覚えていない。

とにかく乳がんはすでに組織内に留まっておらず、その先のリンパ節まで転移していて、すでに体の血管にがん細胞が散ってしまっていた。

しか乳がんには種類があって、その中でも治療できる方法が少ないトリプルネガティブという種類だったらしい。

簡潔に言うと、増殖が速くて、効く薬もなかなかなくて、すぐ再発してすぐ悪化する性質を持つ。

しかもすでに乳がんは進行している。

最悪だった。

確実に親の死を意識した。いまもしている。

というか統計データ上では1~2年以内の再発発生率が高い(転移も含め)のと、ステージⅢのトリプルネガティブ乳がん患者の5年生存率は40%切るんだよな。

しか転移したらステージⅢどころかⅣに移行するし、そうなるともう完治は激難しくて、基本的にがんの進行を遅らせながら、痛みを少なくしてQOLを維持することに方針シフトするんだよね。

もう無理じゃん・・・

 

 

親が死ぬこと自体不思議じゃないし、順番で行けばそうなる。

でも心のどこかで、(俺が死ぬまで親は生きているんじゃないか・・・)みたいな、祈りに近いような考えはあった。

でもやっぱり義務教育を修了しているので、そんなことはないってわかる。

じゃあいま、何が一番苦しいかって言ったら、母親気持ちを考えることだよね。

言ってたんだよ、退職したらお父さんの車を車内泊できるように改造して、いろんなところ行こうねって。

俺のところにも旅行に来て・・・弟のところにも行って・・・いろんなところに行こうねって。

できなくなっちゃったんだよ・・・

やべ少し涙出てきた。

 

 

抗がん剤は肉体の免疫を落とすので、人込みとかはそもそも避けなきゃいけない。

それだけならちょっと気を付けて旅行かにはいける。

問題は新型コロナウィルスだよ・・・全部これ。

これがなかったら俺は今すぐ母ちゃんのところ行って安心させたいし安心したい。

親もいろいろなところに行って、不安はありながらも気晴らしにはなったと思う。

でもぜ~んぶできなくなっちゃった

親が死ぬこと自体は、まぁ悲しいといえば悲しいけど、それは前から想定していた悲しみだからもう受け入れてる。

受け入れられないのは、やりたいことすらできないまま、とどまり続けているうちに何もできなくなってしまうこと。

その状況に母ちゃんが置かれていること。

その気持ち想像しただけでめちゃめちゃ悲しくなるし、やりきれない気持ちでいっぱいになる。

不安でいっぱいの母ちゃんを思うだけで俺の気持ちも心細くなる。

すごい明るい人だったのに超暗くなっちゃったらしい。

親父も頑張っているし、母ちゃんも親父と結婚してよかったとまで言ってたけど、俺は母ちゃんに死んでほしくないよ・・・

彼女もまだ紹介してないし(まだいないから)、孫の顔も見せてないんだよ

4~5年以内にはこっちで家建てて親を呼ぶつもりだったんだよ

80くらいになったら(そろそろかな・・・?)なんて嫌な想像もしつつ親の死を受け入れると思ってたんだよ

なんでそんなに早いうちからなんだよ

なんでだよ・・・なんで・・・

 

 

本当になんでしか口にできない。

支離滅裂だけど誰かに聞いてもらわないと狂うわ。

 

 

 

 

【2020.10.09追記

予想以上に叱咤激励いただいて、本当にありがたいと思う。

既に家族を亡くされた方や、現在進行形で闘病中の家族がいる方、さまざまな方からコメントは非常に悲しかったが、また慰めにもなった。

悲しいというよりは、悲しみが伝わってきたというほうが正しいのかもしれない。

やっぱり誰の死でも、予想以上に速い別離は非常に悲しいものだと改めて思った。

 

 

昨日、思いきって母に病状のことを聞くことにした。

トリプルネガティブ乳がんと聞いてから、あまりにも怖くて病状のことを聞くのを避けていた節があったのは事実だ。

でも多くのコメントに(このままではいけない)と背中を押され、聞くことにした。

実は10/1からCT検査MRI、追加で多くの検査を行っていたらしかった。

骨や肺、肝臓への転移確認していたらしい。

追加の検査を受けることになった際には、さすがに転移覚悟していたらしく、気分の落ちようがすごかったと話していた。

結果は転移なしだった。

冗談抜きで、痛みや悲しみ以外の感情で泣くということを経験した。

まりの安堵感で、感情が抑えられなかったのだと思う。

でも冷静に考えれば安堵もできないんだよな、状況は好転したわけじゃなくて並行移動したままなんだから

これから放射線治療が始まる。

  

 

今日仕事中にTNBC(トリプルネガティブ乳がん)について調べていた(許して)。

依然として今後も楽観できるような情報はなく、やはりというか、暗い思いになった。

それでも、コメントしていただいた方のおかげで、後悔しない選択をしていきたいと、そう思えるようにはなった。 

まずは手紙を書きたいと思う。

この間手紙に関する映画を見たばかりだし、思いを伝えることは大事だなって思ったから。

あとは今以上に家族で連絡を取る、みんなで情報を共有する。

コメントでもいただいたが、やはり父親もつらいようで酒の量が増えたらしい。

少し調べてはいるが、アルコールのがんへの影響は「確実」としている結果と、「影響あるかはわからんね」としている結果がある。

健康にもあまり良くないし、毎日飲むのは良くないんじゃないかな?とは思う。

父親ケアも行っていきたい。

 

 

参考になるかはわからないが、以下に勉強になった本を記録しておく。

同じような状況の人が少しでも気が楽になるように(気を楽にすることくらいしか他人にはできない)。

アマゾンリンクしか貼っていないが、特に私自身に何か還元されるものでもないし、リンクトは別に調べて買っていただいても結構です。

がんに関する情報は虚実さまざまあり、当事者にとっては非常に選択に迷うと思われる。

私自身、調べるとなると最初はどれが本当かわからなかった。

確固としたエビデンスをもとに書かれた本を購入するのが一番確実と感じた。

そのため、以下には基本的学会名前で出している本や、がんセンターの院長が著者の本を挙げた。

この中の一つでも、わずかな情報でもあなたの救いになったら、私も救われる。

 

 

<非当事者として読む本>

・親ががんになったら読む本 主婦の友社 \1540

http://www.amazon.co.jp/dp/4074380153/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_G0dGFbYY3ME2H

・身近な人ががんになったときに役立つ知識 ダイヤモンド社 \1650

http://www.amazon.co.jp/dp/4478069212/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_S2dGFb0P29WM5

 

 

<がんの知識を増やす本>

国立がん研究センター乳がんの本 小学館 \1980

http://www.amazon.co.jp/dp/4778037936/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_.3dGFbGX8B6NX

患者さんのための乳がん診療ガイドライン 2019年版 金原出版 \2540

http://www.amazon.co.jp/dp/4307203992/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_94dGFbJZ9EDN9

2019-12-29

35歳、授乳期にステージ0の乳がんになった

ありがとうインターネット

年代がん患者さんの情報発信きっかけで、幸いなことにステージ0の超早期乳がん発見したのがこの夏。

早期のがん患者治療を終えそのままひっそりと日常に戻って行く人が多いのか、あまりインターネット体験談も見当たらず…

この度約6ヶ月の治療を終えたので、簡単ではあります自分体験談インターネット漂流させてください。


発見きっか


子の授乳中、胸に触ったら左胸にしこりが触れた

昨年、子を出産しました。

出産直後は乳の生産が安定せず、両胸しこりだらけ(これはあるある)。

そして徐々に安定供給が始まり1年が経ち…そろそろ乳が枯れてくる時期にやってきても1箇所だけ残り続けるしこり

丸というよりは、いびつな楕円形…?

触れて見た感じでは2センチくらい。

「ここだけ母乳が溜まりやすいのかな?なんか気になるな」と思いつつ、体調面での自覚症状は何もなし。

あと最大の難関は、自分病院に行きたくても0歳児を預かってくれる先もなく…しこりに気づいてから半年はゆるやかに過ぎて行きました。

身近にいるがん患者記事を読む機会があった

これまで、TVピンクリボン特集を見ても、芸能人乳がんになったニュースを見ても、全部人ごとだと思ってました。

両親も健在。

身内にも乳がんはいない。

でも、そんな私でもなっちゃうんですね…がんに。

しこりに気づいて半年が経ち、子が1歳になったので保育園に預けて復職

その頃、同じ職業の30代子持ち女性乳がん闘病記を読む機会がありました。

なんとなく「授乳中だから関係ないだろう」で済ませていたしこりがまた気になり始めます

安心するために、乳腺科に検査に行っておくか」という軽い気持ち

早めに会社を早退し病院を予約、保育園にお迎えに行くまでの1時間検査に行きました。

過去会社健康診断乳がん検診も受けたことがあり、エコー検査マンモグラフィも受けたことがあったので、検査自体特に不安はありませんでした。

(検索すると、よく「マンモは泣くくらい痛い」とか出てくるが、個人差あるのでビビってないでとりあえず検査には行って欲しい)

発見した乳がんの種類

結果、町医者での検査では「良性腫瘍です」。

ホッとしたものの、「念のために精密検査受けますか?」と言われ、「まぁ安心するために受けとくか」くらいの気持ち

病院を紹介してもらい後日精密検査をしたら一転。

悪性腫瘍だということがわかりました。

最終的な病理結果は以下。

あれよあれよという間に精密検査の日程が組まれ、手術日が決まり、手術決行。

ジェットコースターのような数カ月でした。

気持ちの変化


思えば、はじめに町医者に行って検査結果を待っている間が一番気持ち谷底でした。

考えうる最悪のシナリオを一日中考えていた気がします。

今、標準治療がすべて終わって当時の自分の心境に一問一答で答えて行くと

子供が成人するまで生きていられるのかな…」

ステージ1でも、5年生存100%2019年においては、早期の乳がんは治せる病です。信頼できる最新の統計データを見て一旦落ち着こう。

乳がん母乳を子に飲ませてしまたかもしれない…」

医学的に、子に対して影響はないとエビデンスが出ているそうです。

仕事も、休職退職かな…」

→実際には、手術入院の5日間を除いては、通院しながら継続して働くことができました。焦って会社辞めないで!人事とか社労士さんに相談して!!

「髪が全部抜けちゃったり、一日中吐き続けるのかな…」

テレビドラマ悲劇的な演出に毒されています…これは抗がん剤副作用乳がん放射線治療では髪は抜けません。

「左胸だけ凹んじゃうのか。二度と温泉に行けないのかな…」

→左胸に手術の傷はありますが、驚くことにサイズにほぼ左右差がありません。目立ちにくく仕上げてくれたそうです。先生ありがとう医学ってすごい!

「これから医療費はいくらかかるんだろう…数千万とか用意できないよ…」

トータルでかかった治療費は、半年間でだいたい40万円くらいでした(加入している健保で上限を超えた分はこのあと戻ってくるので、この半額以下になります)


今回の学び


一番の恐怖は無知

身近に患者がいない人にとっては、先入観で「がん=治せない病気」だと思っている人も多いと思います。(私もそうでした)

正しい医学情報に触れましょう。しかも最新の。2000年代2010年代でも標準治療の内容は変化しています

私の場合は、夫が徹底的にここ最近データを調べ上げてエビデンス武装してくれたため心強かったです。

早期であれば、仕事と通院を両立しながらがんは治療できる

仕事をしていたから、がんのことを考えすぎずに生活できたと思います

周囲に告知するかどうかは慎重に

身近な例としての啓発も含めて、割と気軽に周囲の友人にカミングアウトしていたのですが、

友人がドン引きしてしまい変な空気になってしまたことが何回かありました。

相手も、わたしとどう接していいかからなかったんだと思います

そもそも相手自分乳がんであることを伝えて、どうしたいのか?」を考えた方が良いなと感じました…。

身体違和感があるなら、検査へ行こう

子育て世代のみんなー!皮膚科小児科耳鼻科…子の通院行脚お疲れ様です!

自分の通院ってついつい後回しになるよね。わかる!

でもね…違和感があったら、検査に行ってみてください。

あとこれを読んでるパパさん、ママ検査に行くために会社遅刻/早退して子供を見ていてくれると嬉しいです。





この後10年間の経過観察が控えていますが、

ひとまず一区切りということで。

◾︎2019/12/30追記

驚くほど多くの人に読んでもらえて嬉しい!あたたか言葉ありがとうございます。一点だけ補足。

町医者はどうして見逃したのか?】

曖昧記述があってはいけない」と具体的な医学情報を端折った関係で、言葉足らずになってしまいました。

近所の乳腺科では「穿刺吸引細胞診」という検査を受けました。これは即日検査できる反面、取れる細胞も少ないので確定判断が難しいそうです。(ちなみに転院時、検体を大病院にも持ち込みましたがそちらでも「良性」との判断でした)

病院では、局所麻酔をして更に多くの細胞採取する「針生検」という検査を事前予約して行いました。

ステージ0で見つけるのも難しい段階のがんだったと思いますし、むしろ町医者先生が適切に大病院へとご紹介してくれて大変感謝しております先生ありがとう!!

2019-10-29

医療費を減らすためにベッド数削減するってバカじゃないのか?

外国に比べて人口比でベッド数が多いから、減らすってアホじゃないのか?


日本は、限界まで生存期間を延ばそうとして、既に四肢が拘縮している高度の認知症で発語も追視もできない高齢者に平気で胃ろうを作るのが現状だよ。

医療側は生存期間をできる限り延ばそうとする。なぜなら、それを患者側、特に患者家族側が望むからだ。

生存期間をできる限り延長しようとすれば、そういう患者が増える。そういう患者が多くなれば、在宅介護は無理だから長期入院になる。

日本外国に比べて在宅での介護力が低いからこうなるんだよ!それも当たり前だ。上記のような患者を在宅介護なんかできるわけがないんだから

要するに、できる限り生存期間を延ばそうとする治療行為を止めさせることが最も必要なのに、ベッド数を削減なんて全く方向違いの政策だろう。


胃ろう増設を75歳以上の患者ではで禁止せよ。

寝たきりの状態になったら、原則的にすべての内服薬を中止するように勧告せよ。

透析治療は1年までを期限として、1年以上継続する場合は保健診療ではできないようにせよ。

保険診療から認知症の薬を削れ。

75歳以上の抗がん剤治療及びがんに対する手術/放射線治療保険診療から削除せよ。

これだけで、医療費なんて簡単に減らせるんだ。


根本的な原因に目を向けずにベッド数を削減なんてことを断行したら、生存期間を延長させることを要求する患者家族側と医療側の溝が深くなって、もっと医療不信が強くなるだけだろうが!馬鹿じゃないのか!


安倍首相 病院再編と過剰なベッド数の削減など指示」

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191028/k10012153731000.html

参考:「4割が赤字病院経営実態対策

https://jp.ub-speeda.com/analysis/archive/07/

2019-07-14

大嫌いな父親が亡くなった

父親が亡くなってから、早いもので二ヶ月が経った。肺癌が主な原因だった。

私は父親が嫌いだった。昔ながらの亭主関白な夫と言えばわかりやすいだろうか。母を召使いのように扱い、母がいなければ娘の私を扱き使う父親だった。

例えば夕飯時、口を開けば「早く箸を持ってこい」「飲み物を持ってこい」と偉そうに命令した。反発すれば怒鳴り散らし、机を叩くなどして威嚇する。その影響で私は人が(特に男性が)怒っていたり怒鳴っていたりすると、身が竦むほど恐ろしさを感じるようになったぐらいだ。

父親典型的クレーマーでもあった。理髪店自分の気に入らないヘアカットにされた時は、相手が泣くまで怒鳴りつけたそうだ。同じことを他の店でもしている。本人が武勇伝のように語っていた。相手に落ち度があるのはさておき、そこまで怒る必要断じてないし、店員にどんなトラウマを植え付けたのか考えるだけで忍びない。

そんな父親ではあったが、小さい頃は私を目に入れても痛くない程に可愛がっていたようだ。記憶は薄れているが、確かに可愛く思っていたのは事実だろう。しかし私はその愛情に、思春期らしい気持ちの悪さを感じていたことを覚えている。今思えば、それは都合の良い人形を可愛がるようなものだったからではないだろうか。

小学生ぐらいの記憶を引っ張り出してくると、休みの日に父親が家にいたことは稀だった。一人もしくは母とパチンコへ行くことが多かったからだ。いたとしても日がな一日ゴロゴロと寝転がっているだけで、家族で出かけるようなことはなかった。泊まり旅行など、温泉に一度行ったきりだ。

今や定番であり行ったことがないというだけで子供に惨めな思いをさせるというディズニーランドなど、その頃の私には想像もつかない世界だった。ある程度成長するとディズニーランドに言ったことがないのは少数派だとわかり、私は友人と話を合わせたくて「行ったことがある」と何年間も嘘をつき続けた。

子供を可愛がる」というのは、子供の遊びに付き合い、行きたいところへ連れていき、一緒に経験を積み重ねることではないだろうか。父親からはそういった愛情をもらうことはなかった。

私には兄がいる。私とは違い、高校大学も両親の期待以上のところへ進んだ、彼らにとって自慢の息子だ。父が兄に対して怒ったのは、小さい頃以外だと私が知る限り大学留年危機に瀕した時だけだ。また、兄を小間使いのように扱ったこともない。

そもそも兄は私の四つ上で、中学の時は部活や塾で朝早く夜遅く高校の時は遊び回ってほとんど家におらず、私が中学生の時にはもう家を出ていたため記憶が薄い。仲は悪くないが、まるで他人のように感じる。

そんな兄と私はよく比べられた。よくある話だ。優秀で友人も多くクラスの人気者な兄とは違い、私は特に秀でておらず人見知りも激しく友人は少ない。父にとって私は「理想の娘」ではなかっただろう。よく冗談で「お前は橋の下で拾った」と言われたものだ。私は、先に生まれただけで両親の良いところを全部持っていった兄が憎らしく恨めしく、そして何より羨ましかった。この頃の私は成績にしろ資格を取るにしろ両親が喜ぶだろうと思って行動していた。その成果である様々な賞状がうちには飾ってあり、父はよく自慢していたようだった。

私にとって父は畏怖の対象でもあり、自分を認めて欲しい存在でもあったのだ。

社会人になってからの数年間も、私は実家にいた。勤め先が実家のすぐ近くであったこともあるが、精神的に自立していなかったからだ。

その頃父との関係冷戦状態で、口を開けば互いに怒鳴り合うこととなった。私は他人からは怒ることなどない穏やかな人間に見られていたが、それは人見知りを拗らせた内弁慶からであり、家ではとても口が悪く我儘だった。

父は二言目には喧嘩腰に「なにぃ!?」と眉を吊り上げた。それに恐れをなして怯む自分を気付かれたくなくて、いつも怒鳴り返していた。

家を出てからほとんど実家に帰っていない。父と口を利きたくなかったし、母とも何を話せばいいのかわからなくなっていた。

その内に私が結婚し、父が定年前に退職して数年後、肺癌が発覚した。他の病気まで併発していた。当たり前だった。あまりにも酷い生活だったのだから

今まで何年…いや何十年と、私は両親に煙草を止めるよう苦言を呈してきた。それに加えて父は甘いジュースが好きで、見るからに不健康な体型だったが運動はしなかった。そして、職場でほぼ強制的に受けさせられる健康診断も逃げ続けた。恐らく何か見つかるのが怖かったのだろう。

退職から発熱したり咳が続くことが多くなり、具合の悪さにとうとう病院へ行った時にはもう手遅れだ。他の病気のせいで放射線治療はできず、低血圧のため手術もできないと言われた。

それでも父はめげずに抗がん剤治療を始めた。この辺りのことを考えると気が滅入るので省くが、とにかく辛く過酷な日々であっただろう。

担当医に「今夜が山でしょう」と言われた日から二日ほど過ぎた。付き添い人である母と兄はゲッソリとしていた。父は夜中の決まった時間にパッと目を覚まし、叫び暴れるのだと言う。「痛い」「苦しい」「殺してくれ」と。

モルヒネの量を増やしたため、父は最早会話ができなかった。たまに独り言を呟いたり、かと思えば急に会話に入ってきたりしていた。

私が最後に父を見たのは亡くなる三日前だ。まるで死を待つように、ただベッドに座ってぼうっとした目で息をしている父の姿に、私は何故か涙が込み上げて部屋から逃げ出した。それ以上見ていることができなかった。

寝れなくて辛いから付き添いを代わってくれと兄に頼まれたが、今の姿ですら見ていられないのに暴れ出す姿を見たら更に正気でいられるはずもなく、断るしかなかった。兄はこのことを恐らく恨んでいるだろう。

父はその後、壮絶な苦しみからようやく解放された。

から電話を受けて夜中に病院へ向かった。道中、ずっと涙が止まらなかった。

父のことが大嫌いだった。父そっくりなせいで私は不細工だし、すぐ怒鳴りつけるし、母や私を扱き使うし、我儘で自分勝手で金遣いも荒く、不貞を働いたこともある最低な人だ。何度となく「死ねばいいのに」と思った。

それなのに何故、涙が出るのだろう。何故、苦しんで死んだのだと思うと辛いのだろう。何故、遺品である携帯タブレットから父の痕跡を辿っては苦しくなるのだろう。

今もまだ、父を思い出すと胸が詰まったような気持ちに苛まれる。

葬式が済めばすっかり日常に戻れるぐらい父に対して思い入れがないというのに、ふとした時に見てもいない死に際を思って胸が詰まるのだ。

きっと父は長生きしても人に迷惑をかける老人になったであろうから、早くに亡くなって良かったのだと思っている。

生きていたら、やはり何度となく「死んでくれないかな」と思っただろう。

今日、もう稼働しなくなった家族全員のグループLINEがふと目に入った。入院中の父が母へ毎日のように「あれ買ってこい」「早く来い」とそこに送っていた。そのやり取りを見て、どうしようもなく誰かに吐き出したくなった。

この複雑で纏まらない気持ちを、ここに書き捨てていく。

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