はてなキーワード: 接吻とは
ああー。返信含め全文読んでなんとなくわかったような気がするけど、自分の中の「面白い」の定義が狭くて、相手もその定義で使ってると考えていて、だから必要以上にバイアスがかかっちゃうってこと?なの?
例えば増田自身がストーリーに興味があるタイプで、これ面白いよってすすめられたら(大体ひとが面白いと思うストーリーがわかるから)台無しだって思うってこと?
でも、実際は面白いって言葉はもっと広い意味で使われてて、逆に増田のようなバイアスがかかるものじゃないと思うけどなあ。
例えばジャニ好きのひとが言う面白い映画って、推しメンがたくさん映ってたとかそういう意味だったりするし、ミリオタとか鉄道オタとかもそうだし、特にオタクじゃない普通の人でも結局は個人の好みなので同じ。
普通は自分の好きなものを「面白い」と表現するだけで、別にストーリーがとか描写がとか言わないから、逆に増田的にはノーカンなんじゃないかなあって気がするけど。他人が面白いと思うものが増田の面白いものなわけじゃないんだし。
ホラー映画ファンなら、ロメロゾンビの絶望感とか悪魔のいけにえの狂気とか、人体破壊とか不快感とか暴力描写とか、一般的にはネガティヴでしかないものを「面白い」と言うし。具体的な箇所を言うとネタバレになるから、ただ面白いよって勧める場合もある。
で、つまらない作品もオススメしろって話になってくると、それはオススメの大前提が崩れるので意味がない気がする。それはもう目隠しして探せば?って感じでは。
オススメって、結局勧めてくれた人との交流が前提とか目的にあるわけで、だから「面白いよ(自分が好きだと思ったものを友人と共有したい)」という文句になる。だけど、増田の文章を読んでると作品と自分との関係を一番に考えてるから、オススメ文化そのものが向いてないってこともあると思うんだけど。
それでも交流もしたいんなら、面白さとかじゃなくて今月読んだ作品を友達に聞くとか。
「「何か面白いやつ教えて」と聞いてくるやつには自分が面白いと思うものを教えてやればいい」って書いてるように、逆に面白いか不明なものをオススメされたいなら、自分からそうやって工夫して聞くしかない。果たしてそれに意味があるのかわからないけど。。
またあえて「面白くない作品」を聞いた方が、面白いか面白くないかの期待と不安のドキドキ感は逆に高まる気がする。あんまそういうことしてると友達減りそうだけど。
あとは、当たり外れも欲しいけどなるべく質を高めて外れの確率を小さくしたいなら、機械的に名作を選べばいい気がする。
名作とされる作品って時代遅れだったり難しかったり逆に簡単だったり皆が見て面白いわけじゃないし、名作である理由も技巧とか思想とか時代性とか歴史とか、ちゃんと勉強しないとわからない面倒くさい部分も多いから、当たり外れはよくある。でも読んでる人口とか話題に上る確率は高いから、他人と共有もしやすいと思う。
でも名作だと「以前にどこかで話題になっていたことがすでにバイアス」とまで考えるなら、やっぱりランダムに探すしかない。
そうなってくると「自分が名前を知っている作品は全て内容に対して余計なバイアスがかかっている」から未知の作品しか読まない、とかいうことになりそうだけど。
あと、結局作品との関わりを何が何でも大事にするなら、友人とかとそのジャンルについて話すのはやめた方がいいよ。うっかりネタバレとか変な対抗意識が生まれたりとかは絶対あるし。
「葉桜の季節に君を想うということ」歌野晶午
「最後まで行く」
「羅生門」
「L.A. コンフィデンシャル」
「アフタースクール」
「情婦」
「八つ墓村」
「トールマン」
「告白」
「手紙は憶えている」
「双生児」
行きたくないなら行かない方がいいよね。
それか従兄弟に殴られること覚悟で従兄弟の嫁さんの前でされた事言ってしまえ。
どちらにしろ家族には「今後は従兄弟との付き合いはNG」ということを教えておけばええんや。
やったらもうしょうもないヤツに予定煩わされんで済むし、もう男が本格的に無理になったんやったらいっそのこと女に行ってしもうたらええんや。
そんなヤケクソに使われるLtotheGtotheBtotheTな人には悪いけれども、でも案外そっちの方が気持ちの落ち着き方が変わるのかもねかもね沖のカモメ。
まぁもしかしたらどっかで頭ぶつけて「コイツと24時間接吻してても飽きんな」というヤツに出会えるかも知れないけれど、どちらにしろ頭の中に従兄弟が入ってたら出てくるものも出てこない気がするから完全に脳味噌から削除することがオススメです。ロボトミー?!なんて恐ろしいことを…
彼はおっぱい星人だ。
そして、私はおっぱいが大きい。
彼は私にとって初めての恋人であった。数回の食事を経て告白、快諾。数回のデートを重ねて接吻、成功。そして私はおっぱいを初めて男性に見せることとなる。
私はおっぱい星人に出会い、おっぱい星人というものを理解するまでの間、明るい気持ちでぶるんというおっぱいと接していたかというと全く違う。薄暗い感情を持って関係を保っていたのだ。おっぱいが大きいことでの負担というものはインターネット上に溢れている。何となく頷けるものが多いし、私自身が経験したことがあるものもある。そして、その重みをずしりと背負っていた。
田舎の中学校から都市部の高校へ進学した私は、「進んでいる」同い年と15-18歳を過ごした。まず、彼女たちには年上の恋人がいた。中学校で気になる男の子と廊下で話していたら、他の子からかわれたことが恥ずかしく、その男の子と話せなくなった私とは違う生き物に思えた。そして彼女たちはおっぱいを盛っていた。驚きの発想だ。やっぱり違う生き物なんだとしか思えなかった。
私は進んでいる女の子の1人と友達になった。彼女もおっぱいが大きかったため、様々な悩みを共有することができた。ただ、彼女は禁忌することなく、それに誇りを持って接していた。違う生き物である、同じおっぱいを持つ彼女はとても輝いているようだった。
時は過ぎる。私は彼に出会った。彼は私に「身長の高い女の子が好きなんだ」と言った。彼の身長も高かく、私も彼に「私も背の高い男の人が好きです」と言った。好意と好意がぶつかりあう始まりだったと思う。その後の展開はお決まりのようで、彼は私を褒めちぎり、まんざらでもない私は小さく頬を緩めたりしながら、恋人になった。
また少し時は過ぎる。いざという時が来た。彼は10分ほどブラジャーと格闘した後、おっぱいと顔を合わせた。私の顔を見て可愛いとだけ言って私を抱きしめた。おっぱいに特別の反応はなく、おっぱいをよく思っていなかった私が安心したのはよく覚えている。
何度めか、その前に3段ホックのブラジャーに負けた彼はありきたりにおっぱいを揉みながら、「おっぱい大きいよね」と初めて感想を述べた後、「何カップなの?」と聞いてきた。あまりの衝撃にうろたえながら、正直にサイズを言った。彼が「そうなんだ」と興味なさげに言うのがなんだか理不尽でならなかった。彼は大きさにこだわりもないと信じ安心していた私と大きさに興味を持っていた彼。盲信を裏切られたような気持ちの私とすでに興味無さげな彼。私たちはこの会話を持ってどこへ向かうのだろうと思った。彼はまだおっぱいを揉んでいた。
彼の家にお邪魔する日があった。彼は読書家であり、私も本を読むので、そこもお互い気に入ってた。文庫本が並べられた本棚にはおっぱいの大きい女の子の写真集が隠されていた。彼は慌てることなく私の手からその女の子を抜き取ったあと、「ごめん」と言った。私は何に対して謝られたのか、分からないままに「ごめん」と何かに対して謝った。
彼はまたおっぱいを揉んでいる。今しかないと私は「大きいおっぱいが好きなんですか?」と聞いた。彼は慌てて手を離し、小さな声で「うん」とだけ発した。よくある喧嘩だ。おっぱいが大きいから私が好きなのか、背が高いところが気に入ってたんじゃないのか、色々責め立てるように言ったと思う。覚えてるのは、背の高い彼のしょぼくれた姿と「でも最高なんだよ…」と答えた声だけだ。恋人である彼の情けない賛辞は私の肩の重さを支えた。
初めて彼におっぱいを揉んでもらいたくなった。
私は新しいおっぱい星人と出会い、おっぱい星人である彼もまた新しいおっぱいと出会うのだろう。
またその日まで。
『累』という青年漫画がある。
大女優の娘でありながら、非常に醜い容姿の「かさね」という少女が主人公である。
かさねは、ある日《接吻した相手と、一時的に顔を取り替えられる口紅》を手に入れ――
彼女は己を「女の身体にバケモノの顔がついたよう」と表現する(実際絵的にもそういう描かれ方をする)。
髪は己の顔を隠すように長く、いつもビクビクと人目を気にしている。
道で誰かにぶつかって、会釈をする程度のことさえ「滑稽」に思えてできない。
《口紅》の力で美少女と顔を取り替えたとき、美しさを得て彼女は呟く。
劣等感のない…うたがいのない“自信”…!
それ一つ持っている事が
こんなにも快感だなんて…!
彼女にとって、世界とは、容姿によって著しく姿を変えるものである。
醜い顔のかさねが見る世界と、美しい顔の人間が見る世界は別だ、と
そしてかさねが「美しい顔で見る明るい世界」に焦がれることによって話は続いてゆく。
「俺は見た目のせいで、人間としてさえ扱ってもらえなかったんだ!」という叫びである。
おもにミソジニーの人とかが言う。
正直に言うと、この作品の主人公かさねに対しても、そういう増田たちに対しても、私は同じ気持ちを持っていた。
って感じだ。
だからといって、己の人生の不幸すべてが容姿に由来すると考えるのは不毛に思えた。
作中、かさねは非常に美しい容姿を持つ「無二の友人」を得る。
かさねも彼女が「不幸のただ中にいる」ことは薄々気がついている。
男のひとが……
私の顔を見て「美しい」とか「きれいだ」
とか言って
近づいてきたけど
皆 私をまともに
人間として扱っては
くれなかった……
あるひとは私を
“見かけだおしの欠陥品”と罵り
またあるひとは
どんなに避けても言い寄ってきて
あとをつけられたり…
襲われかけたこともある
使い方次第だわ
私なら……
○○の美しさを
もっと上手く
使いこなせる…!
私は、これを読んだときに驚いた。
前述の通り、彼女はかさねにとって無二の友人だ。
ほかの人ならともかく、友人の不幸に持つ感想それかよ!
かさねの美しさに関する執着はもはや修羅のごとしなので、まったく自然ななりゆきともいえるし
さほど重要なモノローグでもなさそうなのだが、この言葉は強く印象に残った。
それは、かさねや「容姿コンプレックスの増田」に対して私が持っている思いと、全く同じものだと気がついたからだ。
しかも彼女たちは、実際に顔を取り替えてさえ、互いの苦しみを理解できないのだ。
かさねは美しさによる苦しみなど理解できない。
「友人」である彼女も、かさねがビクビクと人目を避ける理由を理解できないし、
己がその顔になっても「他人に嘲笑われた」などの苦しみを感じない。
互いの中には己の苦しみだけがある。
人の苦しみに寄り添うのはどうしてこんなに難しいんだろう。
自分の性的嗜好のルーツについて覚えている限りで書き出していこうと思う。
それは小学校5年生のころ、1つ上の近所の友達の家に遊びに行ったときのことだった。
確か冬の頃だったと思う。
友達の家でテレビゲーム(Nintendo64)をしていた、友達の親は仕事で不在のため自分達2人だけが家の中にいた。
その友達がゲームをしている間、(1人用のゲームだったので)自分は隣で時たま言葉をはさみながら友達のプレイを眺めていた。
お互いに言葉数が少なくなってきたときに、ゲーム中の友達が急に隣にいる自分の方へちょっかいを出してきた。
ちょっかいを出されたことが嫌だったので、自分も左手で同じようにやり返した。
その繰り返しでお互いの股間の弄り合いをしているうちになんか変なテンションになったせいか、
当然自分は最初は嫌がったが、その時家に自分たち2人以外誰もいなかったため
まぁいいかな…という気持ちになり渋々それに従った。
2人してズボンを脱ぐと、お互いに下半身パンツ姿になった(その時2人とも白ブリーフを穿いていた)。
それからまた同じことを再開した。
今度は「先にパンツを脱がされたほうが負け」というルールを付けて再びお互いの股間を弄り合った。
白ブリーフ越しに触れる友達の性器は硬くなっていて、自分のものも硬く充血しているのを自覚していたため
お互いに興奮し合っているのがわかった。
お互いにパンツを脱がせようとするも埒が明かず、ついに友達がこう言った。
「じゃあ、パンツも脱ごう」
それからほぼ同時に自分も友達もパンツを脱ぎ捨てた(今思えば、その言葉を待っていたのかもしれない)。
そして外気に晒される性器が2つ、自分は小5にしてすでに陰毛が生えていたが
1つ上の友達は身体の成長が遅いせいかまだ陰毛は生えていなかった。
そのときすでに2人とも勃起していたが、性器の大きさは自分のほうが少し大きかった。
友達のものは第二次性徴を迎えてからは勃起をすると包皮が完全に剥けて、
陰嚢の睾丸の大きさは不揃いで右側が大きく左側が小さかった。
それからまた2人とも床に横たわり、お互いのまだ皮も剥けていない幼い陰茎を手で直接弄りあった。
包皮を剥こうとする度に、互いに激痛による呻きが漏れ出た。
その時ははっきりと性的なことをしているという自覚はなかったが、
「人に話してはいけないし、知られてはいけないことをしている」ということは自覚し、
背徳感そして秘密の共有をしているという事実に陶酔しながら行為を続けていた。
今思えばそれが「目覚め」だったのかもしれない。
しばらく時間が経過して、お互いに疲れを覚えたところでパンツを履き直してズボンも履き終えた。
この時はお互いにまだ射精を覚えていなかったため、勃起した状態のままパンツとズボンを着直したのだと思う。
このことは2人だけの「秘密の遊び」として、どちらかの家に自分と友達以外誰もいないときに
誰にも知られることもなく密かに続けられた。
お互いに第二次性徴を迎えていなかった、あるいは自覚していなかった頃のある日に
この「秘密の遊び」をした際に初めて友達の性器を口に含んで上下に動かしたとき、
友達が我慢できずに自分の口の中に尿を漏らしたことを覚えている。
確か、「ごめん…」と呟いたのと同時に口に含んだ友達のものから温かい液体が迸ってきたのだった。
何の予告もなくいきなりそのような行動を取られたことに恐怖を覚えたのかもしれない。
この「秘密の遊び」は小学校から中学・高校まで不定期に続けられた。
その回数は100を超えていたと思う。
友達の性器にいつ頃から陰毛が生え始めたのかを自分は目で見て覚えているし、
友達が下着をいつ頃からブリーフからトランクスに変えたのかも覚えている。
第二次性徴をお互いに迎えてからはお互いの性器を弄り合って、どちらが早く
相手を射精させられるか、あるいはどちらがより絶頂へと至らしめられるかへと
遊びの趣旨が移っていった。
お互いにより長く秘密の共有を味わいたいと思ったためかすぐに遊びが終わることはなく、
友達はあまり自分からそういうことをすることはなかったが、自分は友達の充血した性器を
口に含むことだけでなく、上半身を脱がせて乳首を舐めながら友達のものを扱いたり、
それだけに飽き足らずに肛門までも舐めながらものを扱いてやることもあった。
友達の陰嚢や肛門のどの位置に黒子があるかまで目で見て覚えている。
また、自分と違って発毛の薄い彼は陰嚢まで毛が生えておらず
「秘密の遊び」の上での自分と友達はあくまでオーラルな関係だけであり、
さらにその先の…アナルセックスをしたり接吻をしたりということは全くしなかった。
「そこまではしてはいけないという」一線が、お互いに不文律として存在していたのだと思う。
ただ、自分は時折友達の無防備な肛門に指を無理矢理入れて苦痛にもがくところを楽しむことがあったが。
高校卒業からしばらく音信不通となり、自分が大学生のときに友達がちょうど大学を卒業した頃に
地元で久しぶりに再会した時に自分の家に友達を招いて積もる話をしばらくした後に、
あの時のことを思い出して数年ぶりに「秘密の遊び」に及んだ。
それから会う機会は格段に減ったものの、部屋に2人だけのときにはお互いに秘密の時間を共有し、
お互いに快楽の高みへと導いていった。
そして現在、友達にもう会う意思はないという連絡を受けて音信不通となってしまったが、
今でもその頃のことを思い出しながら自慰に耽ることがある。
ちなみに、自分は異性に対してもきちんと性欲を覚えられるので
公開初日の今日、確か府内の上映館はここ一館な筈なのに予想よりも観客は少なかった。
主な感想としては、セリフとモノローグが多すぎる気がするということが一つだ。
大抵のとき、誰かが喋っている。
最後は、水色っぽい死んだ筈のやつが主人公に撃たれて、環境映像みたいなものが賛美歌と一緒に流されて終わるという原作を中途半端にしたみたいなものだが、水色っぽいやつが出てくるシーンがウザくて仕方がない。
くるっくる動いたり、ピアノ弾いてたり、プールに飛び込んだり、主人公と接吻したり、胸を揉んだり。
水色っぽいやつの神秘性みたいなものを出したかったはずなのだろうけど、単にイタい人間にしかみえない。
そして、えらい老人たちの会議がエヴァンゲリオンのゼーレみたいだった。SFアニメ映画なら珍しくない。
あと、原作でも思ったことだがやっぱりネーヨと思うことがある。
水色っぽいやつが、
とか言っていることだ。
言葉で殺せるなら、自分の前の席に座っていたカップルなんてとっくのとうに死んでいる。
男はイケメンだった。顔も肌も髪も綺麗で、目は大きくて、鼻が通っていて、顔が小さかった。
女の顔も良かった。
美醜というのは遺伝する。恋愛結婚が重んじられるようになったので、顔がいい人間がこれから増えていくのだろう。
「経験や読んできた書物、様々な要素」は環境つまり社会によって与えられる。
現時点で一般的な経験・読書その他を経ていれば、愛し合う二人はセックスするのが当然ということになる。
戦時中に一般的な経験・読書その他を経ていれば、愛し合う二人が接吻をするなんてけしからん。
戦国時代の大名に一般的な経験・読書その他を経ていれば、愛如きのために政略結婚を断るなんてけしからん。あと房中術は覚えとけ。
まぁ、自分が非常識な人間だと理解した上で、非常識なパートナーを求めるのはどうぞご自由にという話だが、他人に非常識を押し付けるのはやめような。
男性がエロ本を立ち読みしている光景を気持ち悪いと感じる女性が存在するということに疑問を持った。それは別に「性的なるもの」全般を否定しているわけでは無いだろうが。
それならば、女性がエロ本を立ち読みしていても彼女は同様の気持ち悪さを抱いた筈だ。いや、抱かなければならない。もし、その件が男性に限るものであれば、それは明らかに性差別だ。
コンビニ等で売られているエロ本は、女性の裸体が主として写されたもので、基本的には、男性向けに作られている。彼女が抱いた気持ち悪さを解消するには、女性向けに作られたエロ本が同時に並んでいれば良いのでは、と思った。
思えば、女性の「性的なるもの」を独りで満たす為のものは少ないような気がする。男性中心に作られた社会が生んだ女性差別の結果であろうか。知るかボケ。
そうじゃない。公衆の面前での「性的なるもの」の扱い方が余りにも雑だ、ということを主張していたのだろう。日中、まだ明るい時間帯だというのに、ビンビンに勃起した男性を、ビショビショな女性を、強制的に見せられているようなもんだ、というようなものか。
それなら、私もイヤだ。そんなの、イヤだ。恥っずかしい。稀に、イっちゃってる人間を街中で見掛けることもあるが、いや、無いか。でもね、兎に角ね、人間には理性というものがあるじゃん。だから、コンビニでエロ本を読む程度のことは、許してやってぇな。私は読んだことすら無いが。
個人的には、そういったことさえ無ければ、節度を守る人間が作る社会であれば、ロリコンだろうが何だろうが、否定的な感情を持つ必要は無いと思うし、未成年がズッコンバッコンやってる描写だろうが、なんだってアリだと思うし、規制する必要も無いと思う。
そもそも、ロリコンは節度を守っているのか。と訊かれれば、しっかりと人間として当たり前の生活をしているのならば、節度を守っている。と思っている。そんなもんだろ。「性的なるもの」の好みなんて千差万別だし、それをいちいち否定してたら切りがないし、それこそ、差別でしょ。
それにしても、夜というものは、全ての「性的なるもの」を包み込んで匿っているかのようだ。夜ならば、路上接吻も恥じらわずに行えるだろうし、野外での性行為だって及びうる。どんなことでも出来そうだ。
そんなことに思いを巡らせる私の夜に唯一足りないものは、それらの行為をする相手である。今からシコシコしますね!
政宗が接吻したのは息子の方だろ
…というのは置いておいて
仙台市は良いんだろうな。
乗っかり商法今だに出し続けてるし。
けど、BASARAファンとしては嫌だ。