はてなキーワード: 排外的とは
その次が女性差別
チビデブハゲなんかは馬鹿にされても排除はされないしただの貧乏人も同じ、そもそも日本人の大半はワーキングプア状態なのだからその層に対して差別的な言動をすれば自分に跳ね返ってくるというだけなのだが
同じ貧困でも生活保護受給者やホームレスは露骨に差別されてるな、ただこれらの差別に対して敏感である人は人種国籍への差別にも同等に反発していて、逆にこの層を差別する人は排外的な思想を持っている場合の方が多いな
身近にいるかどうかではなく単に想像力が欠如してるかどうかって問題でしかないな、生活保護や精神病の話題でよく出る「自分もそうなるかもしれない」という表現ではないが
『#草津温泉には行かない』、こういうハッシュタグをリベラルと呼ばれる人々が使っている現実をみて、この国のリベラルと呼ばれる人々は、もうどうしようもないレベルにまで落ちてるんだと実感した。
この話題は現時点で詳しい情報があまり出回っておらず、またあまりにもセンシティブな内容なので深く触れるつもりはないが、少なくとも住民投票が行われた事自体問題であるのは確かだと思う。
しかし、『#草津温泉には行かない』をリベラルと呼ばれる人々が何も疑念を抱かずに、条件反射で使用するのはあまりにも幼稚すぎる。
普段はネトウヨを馬鹿にし、ヘイトスピーチに対してNOを突きつけているはずの人々が、こんなヘイトスピーチまがいのハッシュタグをトレンド入りさせて、まるで自分たちが正義だと言わんばかりの態度を取っていては、多くの人々に信頼を得ようなんて到底無理な話だ。
問題提議をしたいのであれば、もっと別のきちんとした表現にすればいいのに、『#草津温泉には行かない』では、はっきり言ってネトウヨがよく主張するような排外的な主張と何も変わらないではないか。
何よりも残念なのが、主張の暴走に対してブレーキをかけてくれるリベラルの人々の意見を無視するリベラルと呼ばれる人たちが多数派となってしまった現実だ。
知性を信じているはずの人々が、条件反射の世界に飲み込まれてはいけない、それなのに、なぜ誰も疑念を抱かないのか、少なくともリベラルだと自負しているのであれば、もっと冷静に判断しなければならないはずだ。
今のリベラルと呼ばれる人々は、あまりにも傲慢になっていて、あまりにも世間とは考えが乖離しているという事実に気が付かなさすぎる。
彼らが正義を傲慢に振りかざし続ける限りは、今後もネトウヨは増え続けるだろうし、分断が起こり続けるだろう。
そしてそれが、本来であるならば、リベラルな考えを持っている人たちの意見が、過剰な分断のせいで発信できないという状況に陥らせるだろう。
ツイッターを見ていたらTLに『中年童貞』という漫画の数ページが流れてきた。
買って読んだわけじゃないから詳しい内容はわからないけど、テンプレ的な「ネトウヨ」像をテーマにしたエピソードがあるらしい。
なるほど世界的に見れば孤立した中年はナショナリズムに走りやすいという傾向はある。
だが単純にそれが日本に当てはまるわけでもなく、これを見て自分は違和感しかない。その違和感について書いていきたい。
この話をするうえで、「中年」と「ネトウヨ」の概念が重要だが、ルポ漫画という割にはその点が雑なように見える。
1つ1つ追っていきたい。
「中年」についての明確な定義はないが、ウィキペディアによれば、NHK放送文化研究所のアンケートでは40歳から、内閣府が中高年層を対象にした調査では40歳以上を対象していたことから、世間一般では40歳からという認識があると考えられる。
一方でこの漫画では、「30歳を超えて性交未経験の『中年童貞』」と言っているように、30歳以上が中年の定義のようだ。世間一般のイメージからすると若干若い。
たった10歳差で誤差みたいなもの、と思うかもしれないが、この後の話をするうえでこの10歳差は大きい。
ネトウヨの定義も明確でなく、「ネット上で活動する保守思想・右翼思想の者」くらいの定義から、人格否定めいた要素までくわえられた定義もあるが、多くの人がイメージするうえで下の2つの要素があるのではないだろうか。
しかし、実際に話を聞いていると、こと2つを兼ね備えた人というのは意外に少ない。
わかりやすい例が、「習近平国賓問題」で、排外主義ネトウヨは「国賓なんてありえない!粗末に扱え!」と主張する。一方で安倍支持ネトウヨは「10年国賓扱いしてこなかった元首や要人は国賓扱いするのが慣例だ」と擁護する。
コロナ対策にしても前者は「さっさと中国人を入国拒否すればよかったんだ」と批判し、後者は「根拠のない入国拒否はできない」と主張する。
(どちらが正しいかとかはここで話す話題じゃないのでスルーします。)
このように前者は安倍総理を盲目的に支持しているわけではなくむしろ批判的であり、後者はルールを曲げてまでの排外主義をしようとしない安倍総理を擁護すれば必然的に強硬な排外的な主張は取れない。
なぜこのような違いが生まれるかといえば、「年齢」だ。
ネトウヨの存在と切っても切り離せない2ちゃんねるの全盛期がいつであるかというのは、それだけでいくらでも語れる話題だろうが、ここはひとまず「ドラマ版電車男」が放映された2005年としよう。(実際はもうちょっと後だと思うが。)
この2005年時点で30歳だった人が現在の45歳、20歳だった人が現在の35歳だ。つまり前者は完全に中年の域に入った世代で、後者は一般的な中年のイメージからすると若干若い(若干だけどね!)。
前者がどういう世代かといえば、いわゆる就職氷河期世代で、就職もうまくいかない、経済的に安定しないから結婚も難しい。
そういう時に出会った(出会ってしまった)のが2ちゃんねるとネトウヨ思想というわけだ。
そういう状況に置かれると、自己の存在価値を高めるためにナショナリズムに走りやすいというのは日本だけでなく世界共通の傾向だ。
ただし自民党を支持しているかといわれると必ずしもそうではない。
自分たちが就職できなかったのは90年代の自民党政権が見捨てられたからだ、と認識しているからだ。
GOTOによってコロナが広まることを心配してるのかと思いきや、「就職氷河期世代を見捨てたのに、なんで観光は救うのか」だそうだ。
こういうタイプは排外主義ネトウヨに染まりやすい。結果として桜井誠や一周して山本太郎、もしくは共産党あたりを支持する。
実際にこの2人もこの世代を取り込む戦略をとってるように見えるし、この前の都知事選でも他の世代よりこの2者への投票率が高いのがこの世代の特徴だ。
良くも悪くも社会に対する不満が思想を先鋭化させているだけで、右に転ぶか左に転ぶかは結果論でしかない。
後者はどういう世代だったかといえば、学生時代に2ちゃん、ネトウヨ思想に出会った人間ということになる。
そこまで追い詰められた状態でもないから、そこまで思想と自己の尊厳が直結していない。
就職も第一次安倍政権の2006年ごろは景気も安定しており、前者に比べれば基本的に余裕があった。
これがずっと楽勝なら勘違いしてしまうかもしれないが、リーマンショック・民主党政権時代は厳しかった。
「あの優秀な○○先輩が内定1つもないの?!」という時代もあった。
しかし、第2次安倍政権で就職状況も改善した。○○先輩も「手遅れ」になる前にちゃんとした会社に就職できた。
だからこの世代は安倍総理に対して好感を持っている人が多くて、不当に安倍総理が叩かれていると感じたらむしろ過剰な擁護になりやすい傾向がある。
よって、排外主義ネトウヨになりやすいのか、安倍総理支持ネトウヨになりやすいのかは世代、就職のタイミングによる違いが大きい。
流れてきた画像を見る限り、モデルになってる「中年」はかなり先鋭化したネトウヨに見える。排外主義的ネトウヨだろう。
ただネトウヨだからこうなった、というよりはたまたまそっち側に転んだだけで、逆方向に発露していれば強烈な反政府活動をしている人もいる。
そしてそこまで就職に苦労していない下の年代のネトウヨもいる。
絵師の絵柄も2010年には完璧に追いつかれて、みんな好きなように描いている。
ここで、「萌え絵が盗まれた。文化の盗用だ」という意見が主流にならなかったことは幸運だった。
ポリコレの一環として文化の盗用論を出されると、その文化が衰退する。
萌え絵がもし「日本人以外描くな。萌え絵を生産・消費してよいのは日本人だけだ」と言われたら、中華系の絵師さんとも、韓国系の絵師さんとも、台湾系の絵師さんとも、米国の絵師さんとも交流できないし、コミケに来る同好の士や外国人の友人絵師さんも「こいつらは差別してる」と追い出さねばならなかった。
文化交流の際、文化の盗用というのはただの差別や排外主義のツールでしかない。
マイノリティの権利を守るためとは一切機能せず、排外的に文化を腐らせる効果しか今のところない。
博物館の中でしか存在を許されなかったり、マイノリティだけが使うことを許されるような文化は、一気に衰退する。
和服も「海外に販路を作り多くの外国人に着て生き残り戦略を立てていた」が、文化の盗用論でその生存が阻害されている。
萌え絵も「描いていいのは日本人だけ」となったら、途端に進歩は止まると思っている。
それほどに中国、韓国、台湾、米国の絵師のレベルは高く、相手の開発した技術や絵柄に刺激を受け合って、ここ数年での進歩はすさまじいものがある。
日本人だけの物として「萌え絵イラスト」をやっていたら、ネット絵師や作家の技術は恐らく途中で止まっていたと思っている。
だからもう使うべきではない。
あれはリベラルが、文化をコレクションして博物館に入れるだけで、実際には博物館でしか生きられない文化にしてしまう極めて危険な概念だ。
結局のところ、マジョリティの文化に戦いを挑まなければ、世界と接続できず、博物館のなかで保護されるだけの存在として朽ちていくのだ。
それは保護しているように見えて、実際には安楽死させているようなものだ。
文化の盗用とは、白人文化以外の文化を全て博物館の展示にしてしまう。
だから、オタク文化は文化の盗用論で擁護されても蹴っ飛ばさないとまずい。
排外主義が蔓延する現在、“純“日本人に対して「おまえらが移民や難民になったらどうするんだ?」と問いかける以外の目的で2020年に「日本沈没」を語り直す意味ってある?
これなんのために作ったの?
助けを求めて日本にやってきた人たちに入管でやってるようなことを日本人もされるんだよ、こういう状況になったら
何ロシアですんなり受け入れられて普通に豊かな暮らしを享受してるねん
主人公姉弟はいわゆるハーフだけど、これ絶対ストーリー変えて主人公も”純”日本人にした方がよかったよ。ネトウヨという設定だったらもっとよかったと言いたいとこだけど、一般的な日本人は大体ほんのり差別的で排外的だから別にどっちでもいいかもね
主人公姉弟がハーフであることに作劇上の必然性はあったのかな?
私もハーフなのでフィクションの中にハーフのキャラが出てくるとすごく嬉しいんだよね、ハーフであることに必然性がないともっと嬉しい、でもこれに関してはなんか警戒しちゃった
ラップバトルの中で吐露される姉弟の気持ちがいかにも”純”日本人が考えましたって感じで
あと最終話に出てきた在りし日の「日本」の風景アーカイブ、製作陣の「日本」に対するイメージが貧しすぎて絶望しちゃった
取ってつけたような金閣寺、取ってつけたような厳島神社、取ってつけたようなメイド
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bengo4.com/internet/n_9085/
公道マリオカートが危険で社会的な評価を落とすことに繋がりかねないから、禁止したいってのは合ってると思います。
でも一方で上の記事では
とかあまーいこと言ってるみたいだけど、任天堂はマリオカートで商売するつもりありますよ。
https://www.usj.co.jp/company/news/2017/0608.html
まぁ単なるライドアクションなので公道でのカートとは違った体験ではありますけどね。
任天堂自身がこうやって外国人の観光客から安全に楽しく遊んでもらって正しくお金を取ろうと頑張ってるわけですよ。
素晴らしいじゃないですか。グローバルじゃないですか。
でも、いうなればあの人達はそれを掠め取ろうとしてるわけです。
こうやって偉い人たち、頭のいい人たちがが外国人にあまい面して、結果的に地元の人の不満がマグマのように溜まって排外的な人が増えるってのはもう何度も経験してるでしょ。
いい加減学んでほしいんだよね。
相手を対等な人間だときちんと認識して、ちゃんと調和するように努力していこうよ。
みたいな態度が透けて見えてうんざりするんだよね。
心の底でそう思ってるでしょ。
少なくとも今の天皇も皇太子もトランプやルペンのように「イスラム教徒皆殺し」みたいなこと絶対言わないだろ、つか言えない。
戦後70年かけてやっとこさ築いてきた平和主義者って国際的イメージは簡単に壊せんだろ。昭和天皇もそういう中庸的キャラを一生懸命演じてきた。
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少なくとも戦後の日本では「陛下は排外主義をお望みではないぞ」「陛下は平和憲法遵守のご意向であるぞ」と言える。
当然、排外的な好戦的な天皇だったら俺も反天皇主義者になってるってw
昭和天皇は「憲法を守るということについては、戦前も戦後も同じであります」(河出文庫『昭和天皇かく語りき』379p)て言うてたんやで。当人の主観では、戦前も立憲君主のつもりだった。大正時代にも当時のリベラル派による「護憲運動」てのがあって、帝国憲法を定めた天皇が議会政治の守護者と見なされてた。
天皇はタカ派だけでなく、リベラル派にも最大級の利用価値があるんだよ。
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戦前のイタリアは王政だけど国王と別にファシスト党があって、最後は国王(と教皇)がムッソリーニを解任できる解決策になった。ま、その国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世もその後は国民投票で廃位されたんだけどw
ムラ社会に対する批判が成り立つのはその社会がマイノリティに対して排外的、たとえば在日外国人や移民、難民などを排除しようとするときのみである。
一方、オタクの社会は今日いかにオタクが増えたように見えるからといって変わらずマイノリティの社会には変わりない。
実際にオタクは「オタク」と(今もなお蔑称を用いて)括られる存在である。
翻って、真木よう子は曲がりなりにも華々しい芸能界の住人である。むしろ彼女こそがマジョリティ側の人間であり、マイノリティ側への脅威になりうる存在なのだ。
先ほどの在日外国人や移民、難民などと類推して当てはめられる存在ではなく、むしろ「未開地」を開拓しに来た先進国の住人に近しい。
よってこの論理は的を外している。
・普段表現の自由を主張するオタクが表現の自由を抑圧するのは矛盾している
オタクが戦っているのは法的な表現の抑圧である。もし彼らがその戦いに負けたら彼らは表現の手段を失う。
一方、真木よう子は法的には依然として表現の自由が与えられている。彼女の芸能界におけるポジションがいかなるものかはよくわからないが、コミケに出せないからと言っても彼女にはまだ写真集を出すチャンスはあるだろう。
もちろんだからと言って真木よう子がコミケに参加すべきでなかった、という話にはならないが、この批判が当たっていないことは疑いえない。
例の「私、日本人でよかった」ポスターの件。増田のネタ投稿http://anond.hatelabo.jp/20170505015130読んで、遅まきながらその気持ち悪さに説明がついた。ここに用いられている日本語が、決定的に気持ち悪かったのだ。翻訳してみようと思えばすぐその違和感の正体に気づくと思う。このコピー、たとえば英語にするとして、あなたならどんな英語に訳すだろうか?
もしこのコピーの趣旨が「I love Japan.私は日本が好き」なら、当然まったく炎上しなかったと思う。そんなのその人の勝手だからだ。それはアイデンティティにかすりもしない発言だし。
だから、これはこのコピーの含意全てを説明しきっていないと思う。
だが、もう少しこのコピーに寄せて
「I appreciate that I was born in Japan.私は日本に生まれ『て』よかった」あるいはもう少しアイデンティティの問題に寄せて
「I appreciate that I was born as Japanese.私は日本人として生まれ『て』よかった」という言い方であっても、まだこのコピーを十分説明しきれているようには思えない。
なぜなら、このような屈折した自己愛表明行為ですら(それはそれで怪しいものだが)、まだ元コピーに感じられるほどの気持ち悪さには及ばないのだから。
最初の「私、日本人『で』よかった」というコピーが含意するのは、結局のところ「ほかでもない日本人『で』」という排外的ニュアンスだ。ポスターへの反応に
自分の遺産を誇りに思うことは何も問題ではないけど「他でもないこの国籍に生まれたのはとてもよかった」と言うのはちょっと差別的かもしれない。
というものがあったが、まさにそれだ。そのことに気づくのに、ずいぶんかかってしまった。この「で」には、他の可能性と比較して(~デアッテ、ソノ他デハナクテ)というニュアンスが含まれうる。そして、マイルドにあるいはあからさまに排外主義的主張を行うことが流行っている現代社会を背景においてみれば、このコピーの作者はその含意を十分に分かった上で、まさに確信犯的にこの「で」を選んだということは確実に言いうるだろう。自国のことを誇るのは普通じゃないか、という言い訳を一方におきながら、実にこっそりしかも堂々と(!)拝外主義的主張を大っぴらに口に出せるというのが、まさしくこのコピーが選ばれた理由だろう。そして、そのように「暗い意図を大義名分に隠してはしゃいでいる」雰囲気、それこそが「気持ち悪さ」の正体なのだと思う。
いや違う、考えすぎだ、という人は、日本人「で」なく不利益を被っている/被った様々な人たちを目の前にして、このセリフを口にする自分自身の姿を想像してみるとよい。
・戦争で祖国を追われて亡命してきた人に向かって、あなたはほほえみながらこのセリフを口にできるか?
・両親が外国人であるなどして、自分のルーツと現に暮らす国の間でアイデンティティを引き裂かれ悩んでいる子どもに向かって、同じことが言えるか?
・海外に出て、今なお残る人種差別、民族対立、移民問題などに直面したとき、現地の人に向かって、このセリフを口にすることができるか?
それがどれほどグロテスクな絵面になるか、少しは想像していただけるだろうか? アイラブジャパンにはない、このセリフに潜む他者切り捨ての姿勢。それでもあなたはこのコピーが無実だと唱え続けられるだろうか?
私は愛国が悪いと言っているわけではない。愛を表明するのは自由だし勝手だ(そして、愛というのは、それがなかったとしても強制したり責めたりするべきものでないことも、もちろんのことだ)。むしろ、世界の人と語り合う上で、自分のルーツを愛し誇りを抱くことは、相互理解の上で重要なことであり多くの場合必要なことだろうとすら思う。だから、世界に出て、お前はどういう人間なんだと聞かれたときに、あいあむじゃぱにーずあいらぶまいかんとりー、と言えるのはとてもいいことだ。ざっつおけぃあいしー。だが「日本人『で』よかった」←このコピーはダメだ。そこには他者への理解や尊重という視点が決定的に欠けている。内輪で閉じた集団の自慰的満足のニオイしかそこには感じられない。陽の下で成熟した人間同士がオープンに交わすコミュニケーションの「愛」ではない。強いて言えばそれは暗い部屋の中で、想像上のイコンに対し己の歪んだ欲望を一方的になすりつける孤独な行為のような思想だ。それをおおっぴらにやろうとしている。やめてくれ。
かようなものをポスターにして国際観光都市に貼り付けるなど、暗い欲望を公衆の中で密やかに開陳する露出行為のように彼らの快感を非常によく満たすことなのかもしれないが、普通に考えて国際的には恥なので、関係者はそこのところを考えて適切に判断されるのが望ましい、と私は考える。それとも、こういうHENTAI行為こそ彼らの考える「クールジャパン」なのか。ちょっとあまりにCool過ぎやしないか。
なお、いろいろと私にもの申したい人もいるかもしれないが、とりあえず、露出行為ならばこうして公にその行動や意図をさらされるとその快感の半ばは台無しになるものなので、こうした文章を書き公にした時点ですでに私の意図の半ばは達成されているということだけは申し添えておく。