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はてなキーワード: 抗不安剤とは

2024-04-23

適応障害って、診断はついたけど

事前にネット検索して、普段のようすを少しだけ大袈裟に、ただそれっぽく言っただけ。

俺はまだ病気じゃない。

眠れなかったのは薬を飲んだら、眠れるようになった。抗不安剤を飲んだら、楽になった。そりゃそういう薬なんだから、そりゃそうだろう。酒を飲んだら酔っ払うのと一緒だ。

オレは悪くない。病気じゃない。ちょっと張り切りすぎただけだ。あと2〜3日で前みたいに戻れる。

ちょっと踏ん張りが足りなかっただけだ。足元が少しぬかるんでいただけだ。

2024-03-28

anond:20240327193036

増田カウンセラーに期待しているものが違うかもしれない。

カウンセラー基本的に傾聴してくれる人で答えは出してくれない。例えば相談者が違和を感じているが、原因がわからないような事柄について、カウンセラーはうまく発言思考を促すことはするが、気づき解決相談自身が行う必要がある。

なので、初回ないし数回のカウンセリングで「あなた問題はこれこれなので、こうすると治りますよ」みたいなアドバイスを期待しているんだったら、また裏切られた気持ちになるかもしれない。

もしそういう端的なアドバイスを数回のセッションでしてくるカウンセラーがいたら、自分は警戒する。

自分カウンセリングを1週ごとに1年以上受けているけれど、最初は期待外れな印象を抱いた。こいつ子供時代まで遡って色々聞いてくる割に何もアドバイスしてくれないじゃんって思った。

でも、自分過去気持ち主題に1時間近く他人と会話する機会なんてなかなか無いよなあと思って続けている。単純に多少話すと楽になるというのもある。

効果のほどはというと、自分思考の癖がわかってきたり、自分がこうだと思い込んでいたことが他人に話すことで「いや、そうとも限らなくね?」みたいに思い直すこともあった。そういう気づきに伴う思考修正に痛みというか心理的負荷が伴うこともあって、それは医者の処方で対処した。

また、自分場合は幸いなことにこれが問題の原因なのでは?というトピックに辿り着くことができたので、1年以上かかったけど成果はあったと思っている。

ただ費用結構高い。1セッションで7000円。

1ヶ月4回通うとして、3万弱。これを1年以上。

でもこれでも相場からすると安い方だと思う。

まとめると、自分が抱えている心理的問題についてカウンセリングでの対処を考えているなら、年単位の長期的なアプローチ可処分時間の減少、ある程度の出費を覚悟した方が良い。

もし即効性のある救済を求めるなら、他の人が挙げているようなリスクをとりつつ処方薬に頼るのがいいと思う。

抗不安剤一時的にはなんでも解決してくれるので、うまく使えば便利だけど、医師がいないとうまく使うのは難しい。

蛇足だけど、キャリアとか特定領域で悩みがあるならコーチングの方が有用かもしれない。この人たちは目標設定とそれを達成するためのステップ分解、習慣化について具体的なアドバイスをくれる。

2023-05-27

anond:20230526043327

HSPでも「蛙化」でもない、対人恐怖だろう

行くべきは婚活ではなく、メンタルクリニック

抗不安剤を処方してもらって、鈍感力を身につけよう。

それから、自ら悲劇のヒロインになっていないか

自分被害妄想してしまっている可能性に気づこう。

例え好みでない部分があっても、相手に最低限の礼儀を払おう。言葉コミュニケーションしよう。

それが無理そうなのであれば、婚活は休止しよう。

たとえ結婚しても、生活絶対無理

2023-03-26

去年、会社で働いていて適応障害発症退職した

実際に診断書は出ていないけど問診の結果、適応障害っぽいねという評価医者からもらって、抗不安剤半年間くらい服用していた。

以前勤めていた会社では、私へのパワハラしか思えないことが常態化していた(主観)。言われていることは正論だったので言い返せず、周りも特に干渉してこなかった。毎日自分を責め続けた結果、自分の責務内は言われたことをやるが、それ以上のことを拒否るようになり、最終的に戦力外通告みたいな感じで実質解雇のような形で半ば強制的に辞めることになった。

働いていた時は、ここで耐えないと他の会社でも同じことが起きると思っていたので踏ん張っていた。

離職票を見ると、私の自己都合で退職扱いとなっていてさらに腹が立った。しかし、自分は前から個人事業主として収入があったので、失業保険適用であることはほぼ確定していたため、異議申し立てはしなかった。

今は別の会社で病まずに普通に働けている。

なお、その会社は、広報活動で「俺らイケイケっす〜〜〜」みたいなことをドヤっていて本当に腹が立つ。事業が潰れて全員不幸になってほしい。(ガソリンは撒きません。)

2023-03-13

助けてくれ

実家に住んでるんだがトラブルがあって家族に手を加えるか自殺するかで2日悩んでいる。

できれば自殺したい。

しばらく実家に戻らずに外泊したいけど、仲が良い相手がいなくて外泊先もない。

一人でビジホに泊まるのは危険だろう。

遠方の友達にも相談はしてるが、希死念慮はおさまらない。

仕事は繁忙期で忙しいか措置入院はしたくない。

心療内科は通院してるけど予約は土曜日からまだ先だし、忙しいからできるだけ平日に行きたくない。死にたくなったのは10年ぶりです。弱い抗不安剤しか処方されていないくらいには症状がありませんでした。

どうしたらいい?たすけてくれ。

2022-10-19

うつ病しんどい

脳のバグっていうのは自覚してるんだけど、常に気分が沈んでいる状態

医者休職の話したら、「え?」って反応されて、この程度だったら投薬しながら働くもんなの?と思った。

そしたらなんか逃げ道なくなった感じで毎日抗不安剤飲みながら、超非効率状態、低空モチベーション仕事しながら生きてる。

産業医も同じような意見だった気がする。もう忘れた。

誰か休めって言ってよ。

2022-07-05

抗不安剤子どもに戻った

いつも小さいことでうじうじ悩んで、常に不安に心を支配されて、脳に恐怖と不安の膜を張って生きていた。

でもなんだ。

薬飲んだら晴れたぞ。

小さい頃に戻ったみたいだ。ただ外を走って疲れたら家に帰って麦茶を飲んでた頃の俺に戻ったぞ。

もちろん依存症や耐性の問題があることも知ってる。薬に頼るってどうなのよ?って思うのも判る。でもよ、でも、いま新しい選択肢を手に入れたのよ。

一人で不安と戦わなくてよくなったんだ。

2022-05-04

転職に行き詰まった。誰かアドバイス下さい。

発達障がい(アスペ)持ちの40代後半です。


法学部卒で就活をなめていて全滅し、小さな編プロに入ったものの、ボスアスペで誰とも仕事が続かない方だったので、私もミッション途中で解雇

業務委託契約雇用保険も未加入だったので、日雇いで食いつなぎ、京都リサーチパークの小さなコンサルアルバイト入社

Web制作商売になり始めた頃でしたので、織物産業系の会社ホームページを売り歩いて実績を積んで正社員になったものの、社長会社解散

その後ポリテクセンターを利用して雇用保険で食いつなぎながら、就活してリクルート制作会社に入り上京

でも遠距離恋愛メンタル悪化して、早々に退職して数年実家引きこもり


このままではヤバいと思い、農業実習生に行ってみたけど、休憩時間に水も飲めず挫折

その後はボランティア活動に参加するようになったら、ITスキルを買われて、研究員として再生可能エネルギー実証実験に参加。

GISを使った資源調査学会発表や共同特許取得の経験を積んだものの、上司研究データ抽出方法でもめて離職。


しばらく考えて、あえて障がい者枠で福祉施設支援員になるも、ずさんな経営に憤りを感じて、離職。

文科省モデル事業とある学校支援員をしながら、通信制専修学校社会福祉士勉強をして、合格

福祉の道を歩もうと思い、福祉施設を立ち上げたいという営利企業に雇われ、作業所設立

でも作ってから運営方針でまた役員ともめてパワハラを受けて、離職。


それならいっそ営利企業ではなく社会福祉法人で働いてみようと、家から近い法人就職

相談員資格を取得したものの、保守的法人運営方針と、社会福祉士倫理綱領との乖離会社に行くのが辛くなってしまいました。

だって入社式でマスクの色まで指定して、少しでも違った人はその場で交換させるなんて、多様性が重んじられる福祉業界であり得なくない?

毎日仕事のことを考えると歯を食いしばりすぎて、歯神経が痛みを発するようになっています

抗不安剤を勧められるけど、ベンゾ系の薬は卒業したので今さら飲めず。。。


転職しようにも、地元田舎なんでほぼ最低賃金に近い仕事しかなくて、福祉でやっていこうと思っていたけど、まともな法人はもう通える範囲求人がないのが現状です。


お付き合いのある自治体で雇ってくれる話もあるけど、会計年度任用職員なので、これまた最低賃金レベル


ITに疎い業界だと重宝がられるけど、今さらIT業界に戻ろうとしても、ブランクもあり、厳しいかな。

IT系の資格は取得してないけど、以下のようなしょぼいスペック

サーバーたてたりはLinuxとかでFTPサーバーWebサーバーをたてて遊んでいたレベル。古い時代でごめんなさい。

データベースはアクセスが触れるぐらい。

Webhtmlは読める。デザインもできる。WordPressは分かる。ディレクション経験は大昔ならあり。

プログラミング言語は未経験

さな自治体DXの要件定義ぐらいならできる。


経理:売上1億円レベルの小さな企業給与計算法人決算経験あり。

助成金申請報告書作成:1,000万ぐらいの案件までなら経験あり。採択実績も複数あり。

法務名義変更登記とか不動産登記はできる(無資格図面イラレで書ける)。

コンサル福祉事業所設立運営コンサルは単年度で受注実績あり。

その他:農水省補助事業研究員プロマネ経験あり。

保有資格は:社会福祉士運転免許(中型・大特)ぐらい。

放送大学で細々と心理系の単位を取得中。

もも福祉系を諦めて、他の士業の資格を取得するのも検討中


シネという選択肢はなしで、どの分野に進んだら生き残れるんでしょうか?

正直生きるのしんどい。はてな以外に居場所がない。

2022-01-17

死にてえなぁ

仕事テキストコミュニケーションがあったんだ。相手が長文のコメントをくれたんだけど、僕にはどうも飛躍しているようにしか見えなくて、30分くらいかけて筋の通ったと思った読み方をみつけて、自分解釈確認するために、相手への返信に「〜ということですよね?」という質問を2つ返すと、2つとも相手の主張と異なる旨の返事が返ってきた。

今までもこの人の主張を読み取ることに苦戦したけどやっぱり今回もダメだった。

なぜか、この人の発言のものハイコンテキストという感じがする。会話ができる気がしない。抗不安剤を飲んでいるけど死にたいとまた思った。退職するか〜という気持ちになったが、そもそもコミュニケーションは難しいので退職に値しないという気もしてきた。それはそうとして死ねば全て解決するから死にたいんだよな。

2022-01-16

人生って辛くない?

ここ2年くらいは本業副収入を入れて年収はは1000万くらいあって、欲しいものは大体買っている。生物として不自由なく生きている自覚はあるのだが、社会生活がつらすぎる。癇癪を起こす妻をもらってしまった。ここ数年はセックスする気が一切起きない新婚の時は子作りをしていたが、結局妊娠しなかった。今思えばしなくて本当によかった。

ソフトウェアエンジニアなので毎日勉強している。嫌いではないが先が見えないし、本当に自分がやりたいことなのか不明だな、と思っている。仕事では、同僚が「難しい人」なので、胃を痛めながら抗不安剤毎日服用して労働をしている。体調は微妙だ。今は寛解したが潰瘍性大腸炎を患っている。髪の毛が薄くなってきた。妻とは別れようと思っていて離婚手続きちょっと前進した。離婚受理された場合再婚相手を探すのも本当にめんどくさすぎると思っている。今は完全に内向的人格になってしまったので、外交的人間へのスイッチ必要だろう。ソフトウェア勉強に没頭するためのコスト社会の一員として成りすまし)が大きくて溜息が出る。死んだほうがマシだと思うんですけど、これって希死念慮

ちなみに、子供に同じような苦しみを与えたくないので子供は作りたくないと思っているんだけど、これって半出生主義だろうか。

人間社会つらすぎんだよな。

2022-01-14

自分の事が嫌いすぎる

抗不安剤を飲んでないと耐えられない

2021-12-02

アトモキセチンを飲んでいるんだけど入眠がしやす

抗不安剤も一緒に飲んでいるせいか

アトモキセチンは一般的に寝つきが悪くなるらしいけど自分にその傾向はなくて、むしろ一瞬で寝れるようになった。もしかして自分ADHDではないのか?とちょっと思っている。(WAISの結果、傾向はあるがスクリーニングテストでnot ADHD判定になった。)

2021-09-08

anond:20210908133732

なんか怖いのが大丈夫じゃな無い原因なら

君に抗不安剤を飲ませてあげよう

2021-08-24

コロナになったけど社会復帰が怖くてたまらない

まず、私はコロナになるに際して所謂軽率な行動をとっていない

ライブに行く、イベントことに行く、マスクをつけずに買い物へ行く。などだ。

加えて、発症日であろう前後数日は家に篭りきりゲームをしていたから本当にどこからもらってきた菌なのかがわからないのである

陽性が判明してから毎日、死について考えている。

元々小さな会社ワンマン社長だ。吹けば飛ぶような小さな会社だし治ったとして突如首宣告をされても「私が悪いからな、仕方ない」で受け止めるつもりだ。 もちろん失業保険諸々はもらうが。

問題は同居していた家族だ。

父親も、母親も、妹も私が陽性になってしまったがために自由仕事剥奪され家に監禁生活余儀なくされている。

私は彼らがきちんと社会復帰させてもらえるのか、が毎日不安で飲みきれない量の抗不安剤を飲み込みながら意識を失うように泣いて、寝ている。

他人人生を巻き込んでしまった。他人迷惑をかけてしまった。罪悪感で押しつぶされそうになり毎朝自殺を考えてロープに首をかける。

そして毎日献身的に世話をしてくれる親の顔を思い出して、止まる。

二度と元の生活には戻れないんじゃないか。この先僅かに外出しようものなら村八分にされるんじゃないか。 また私は無職になるのか、私どころか家族まで・・・

そんな不安が止まらない。涙が出る。

そうして今日も私はソラナックスを一シート飲み、気を失うことにした

2021-04-30

精神病遺伝する。あなたは自閉スペクトラムだ」と言われて、ものすごく絶望とともに楽になった

精神科に行って「強自閉スペクトラム(知能・言語は通常なのでアスペルガー)と、強ADHD」と診断された。

dsm5, Hallowell-Ratey test, weis、stai, lsasj, tegii, aq, caars などテスト済で、かつカウンセリングを通して診断された。現在は音の過敏対策用の抗不安剤と、ADHD用の精神安定剤と、睡眠薬をもらってる。

まぁ精神病なのはからわかってたんだけど、「自分は、大嫌いだった糞親に似ている」と若干気づいてた部分に対して「自閉スペクトラムはほぼ遺伝です。後天的な要素はほぼなくて、生まれつきのもので一生治りません」って言われたのが一番グサってきた。

絶望しかねーだろ。当たり前だけど俺は子供作らない事にした。この負の連鎖はここで断ち切らなきゃって。それとともに、「むちゃくちゃ対人関係とか努力したのに、あれ全部無駄だったんすね・・・苦しんでるの自分だけだったんすね。。。。」ってなった。

するとね。すげー楽になった。「あ、俺は一生治らないんだ。じゃあもう目を合わせられない癖も直さなくていいし、会話が苦手なのも頑張らなくていいし、カラオケとか仲間内の行動苦手なのも合わせなくていいや」ってなった。「駄目って言われたら精神病って言えばいいじゃん」みたいな。

仕事はいまのとこ順調だけど、このリミッター外したこと退職するようになったら精神病免許みたいのもらえる。それもらってなんか手当とかもらえる。

ははは、なんかすげー楽になった。最初から精神科いきゃよかったわ。死ねクソ親。

2021-03-20

ただそこで止まるだけ、その先が無くなる。それだけ。

最近、もう死んでしまいたいなと思うことがよくある。

辛くて死にたい、というよりは

何もしたく無い、という感覚が近いだろう。

誰にも何も影響を与えたく無い。


40歳 妻あり 6歳の娘と4歳の息子がいる

ここで命を経つことは無責任に他ならない。

それは十分に理解しているつもりだ。


なぜこう言う感情が出てきたか自分なりに整理すると、きっかけはどうでもいい夫婦喧嘩だ。


結婚して8年近くになるが、喧嘩全然してこなかった。

最近になって、教育観の違いからぶつかることが増えた。

友人から聞いた「良い学童」に行くために、200万かけて400mの引っ越しをした。


とにかく論理的な会話にならず、隣の学区に行くと良いというバイアス汚染されていた。

実際他の保護者に聞くと、その学童も言うほど良く無い、放置されている。とい話を聞いた。


それでも、引っ越さずに行った学童が悪かったら、私は会社を辞めます!と脅迫まがいの交渉に根負けして、引越を受け入れた。


まりストレスに、見られていないであろうTwitterに3件ほど愚痴を呟いた。


結婚祝いのディナーグレード落として7,000円なのに20,000並のコスパフレンチにしてやる!しかシェフイケメンからな!


他はやっておくからいいよって、言われたけどやはり間に合っていないので、あと4時間後に引越業者くるけど、いまお皿を梱包しながら箱詰めしている。眠い


400mの引越200万とかまじつらい、、、


たぶん、その程度の愚痴だったと思う。

なぜかアカウントがバレて大激怒

その後もコミュニケーションがうまくいかないと。

歩み寄り方がわからない。


話は変わるが、昨年独立して、心理学ベースにした、コミュニケーション支援サービスを立ち上げようとしている。

後ろ盾もないスタートアップなので、ずっと勉強企画、開発、経理など、やることが無限にある。

それを言い訳に、平日の大半、家のことを妻に任せきりにしてしまっていた。

そのストレス限界を越えたのだろう。

そこは本当に申し訳ない。


最近のぶつかりは、翌朝6時に出る仕事がある時に0時過ぎに帰宅して、まだ起きていたのでホワイトデープレゼントを渡した。

紙袋が1枚多く、これは誰に渡した?と。

仕事を手伝ってくれてるSさんに渡したよ。

そうですか、私は不機嫌です。

と。

そのご6時に起きるから勘弁してくれと言ったら、あしらわれたと感じる更に怒り、結局2時くらいまで話が続いた。

その後寝付けるわけもなく5時ぐらいまでは時計確認できた。

私もイライラして、枕カバービリビリになっていた。


そして最近

妻は遅刻グセがひどいのだが、その点を指摘すると怒りをあらわにする。

我が家夫婦揃って朝が弱く、寝坊して早く早くと言って言うことが多い。

すると妻は、起きない親が悪いんだから、朝からグチグチ言わないでよっ!と言われてしまう。

早く!じゃなくて、具体的なアクションで言って!

いや、言っているのだが…


その日も朝起きてこなかったので、8:30に起こしに行った。9時には出なければいけないのだが

妻は、もう少し布団に入ってたいってー。と。

息子のせいにしている。

その時点で私はあまり良い気持ちではない。

なんせ、朝保育園に送るのは私で、保育士に対して迷惑をかけるのは私だし、刺されるのも私だ。


その日もなかなか動けない子供達に対し、はやくしよー、○○の会があるから早く行くんだよね?ほら手が止まってるよ?口が空いたら次入れようねー。お腹いっぱいねら先着替えよー。あんまりこんなことばっか言ってるとまだ 朝からグチグチうるさい って言われちゃうよ…

と言ったら


は?いま言ってないけど、なんでそこで出てくるの?

と、また地雷を踏んでしまった。


今日は前の家の荷物を引き上げて車で運んできたので

家の前で電話したら

あ?なに?っと、不快感をあらわにした音が電話から流れてきた。

ああ、この人にとって私は不快の源泉にまでなってしまったのか。


子供教育にたいする考え方も合わないし

子供にとって私が役に立つの工作を一緒にやる部分のみらしい。


スタートアップ応援もしていてくれたが、全く活かせてませんね。だったり、コーチングとかでは相手の話を一旦受け止めるのは基本かと。

など、暗に向いてないよと。


子供のためにと思った行動も、妻からすると子供のためにならないようだし。

仕事自分で活かせない事で世の中の人の役に立つなんておこがましい。

一緒にやってる39歳既婚女性存在も気に食わない。


何もかもがうまく行かない。

立ち上げまではあと半年ほどか。

うまく行く保証は当然ない。

週2帰って夜面倒見る、では満足いただけない。

となると、立ち上げまでキャッシュが持たない。


からしたら、年収維持できるなら独立してもいいよ。とのことだったが、やはり厳しい。

昨初年度は年商3,000ほどになったが、今年度は大きく下回りそうだ。


とにかく色々自信を無くしてしまったし、やる気が出ない。


子供可愛いし好きだけど、自分の考えを入れるのが良くないことであれば、接するのが難しいし、100%の愛が向かなくなってきている。


それも死にたい の1つだろう。

逆に、死なないための防波堤としての効果が薄れているのだ。

いま一応残している防波堤としては

ハードディスクに入っているエロ動画

自家発電用のローション

あと、暗号資産が3,000万ほど、誰かにさない限り無に帰す事となる。

これらを整理してしまったり、引き継ぎ方を残すなりが整ったら、ふとした瞬間にイツでもイケるのだろう。


そんなこんなで、長文を書いてしまったが。

実行するしないはさておき 死にたい とはなんだろう。

命とはなんだろう。と色々感じてしまう。


巷にある転生もののように、新たな人生を送れるなら、すぐにでもいきたいものだが、実際はただの終了、停止だろうな。



そこで何も無くなるだけ。

残された人には絶望と後悔を与えるだろうが、いずれ忘れられるように人間の脳はできている。

6歳の娘は頭がいいので、色々理解してしまいそうだなぁ。


書いてみると、ほんとどうでもいいし、こんな事で死ぬなよアホかってレベルだ。

でも人生の目的が複数同時に消失するとそんなもんなんだなーって。

実際命を絶った人というのも、、周りからしたら、そんな理由で…

と思われるのだろう。



Twitterはバレたので何も呟けなくなったので、こちらに書かせていただいた。

愚痴る場がない、というのもストレスだったようだ。

一旦ココロは落ち着いたようだ。抗不安剤のおかげでもあるのだが、気持ち吐露する場所が失われたのも効いていたのかもしれない。

2020-12-30

依存症になって自助会で救われたい

今のところなんの依存症でもない

だが、毎日飲酒して不安や苛立ちを無くしたいと思っている

この欲望に従えばアル中待ったなしだ

でも踏み止まっている

依存症の怖さはよくわかっているからだ

しかし、依存症を克服した人間が羨ましくてならない

彼らのストーリーはいつも同じだ。心の穴を嗜好品によって埋めようとして依存症に陥り、自助会によって救われた、と。

自助会によって、悩みがなくなるわけでない。ただ、悩みに囚われず生きられるようになると言う。

その境地に達した元依存症患者は、自分よりずっと先のステージにいるように思える。

辛い経験どん底経験しさえすれば、同じ境遇患者と接し、心を解放しさえすれば、嗜好品に頼らずとも生きられるようになるのだろうか。

自助会は「治療」の方法だ。繰り返され改良を重ね、今まで続いてきた精神療法だ。

現在、なんの依存症でもないが、自助会のような何かに救われたい。酒に依存する前に、救われることはできないのだろうか。

自助会で救われた人が羨ましい。

宗教にでもハマればいいのだろうか。

精神科で抗不安剤を貰えば救われるのだろうか。しか主治医は多分出してくれないんだよな。

薬をたくさんくれる病院に移るべきなのか。

2020-10-12

アルコール依存症について

酒の味とか腹膨らむ感じがあんまりきじゃないから酒を常飲するひとのことがあまり理解できなかった。

けど、気持ちしんどいなら、そりゃ毎日のように飲みますわな、という理解に至った。

最近、もう死にたいな〜と思ったときに、あれほんとに死ぬ必要あるのか? と考えた。明日生活に困るほどの貧困とかではないわけで。

そこで、考えることを放棄すればいい、というところに至った。いわゆる死んだように生きるってやつ。

でも思ったとおりに行かない。寝てるだけというわけにもいかいから、どうあがいてもなにか刺激が入ってきてそれに対して思考しだすともうだめ。

思考ぼんやりさせる薬とかないのかなーとか調べたり、お経聞いたり禅?マインドフルネス?をちょっとやってみたりしたわけだけど、よく考えたら多くの成人済みの人間が手を出しやすいし効果もそれなりにある頭をぼんやりさせる手段として、飲酒があることに気づいた(今までも全く飲まなかったわけでもないので、酔っ払ったときふわふわと楽観的になる気持ちよさは知ってた)

それなりのやつを飲むだけでかなり頭がぼんやりするうえに、成人してれば入手はクソ簡単アンコール入ってればいいだけなら安価(ザルのひとは知らない)

入手しやすい酒の味が苦手じゃなきゃ、絶対毎日のように飲んでたわ。

うつ病的な精神疾患の診断ついてるひとは、アルコール依存症にも注意してねってのも、意味わかんなかったけど納得。

まり酒は人にとって一種抗不安剤とか安定剤にもなるわけなのだな、と。

面接の前に少量酒飲むといい感じになるとも聞くし。

酒も薬も飲み過ぎは体に悪いとこも似てる。

でも自分は同じ量を腹に入れるなら断然コーヒー/お茶お菓子だな。酒はアレルギー的な反応も出やすなっちゃったし。

だるい

2020-06-04

メニエール難聴女の備忘録

自己紹介

26歳(女)

メニエール病歴:10年目

発作回数:5回

難聴度:低(低音25dB、中音15dB)

耳鳴り度:中(高音が常時)


現状

5回目の発作(2020年5月後半〜)が過去最高に酷くて、まだ治ってない。

でも大分よくなってる、ゆっくりだけど。

そんでもって、治ると信じてる!!!

これ読んだ人、治るようにと、祈っててくれよな!!!



抗不安薬メイラックス)がガッツリ効いてる間に、近い将来の自分のために書いておくよ!


将来の自分への質問コーナー(人生編)

人生辛くて死にたいんだけど??

2020年5月31日(日)が人生で一番辛い日だったから、それと比べたらなんでもないはずなんだけど?どう?

その日はね、絶対この難聴耳鳴りが治らないと信じて、自殺しようとしていた日だよ!

え、覚えてない?まあ覚えてないならいいよ!


でもね、




てなわけで、




人生の目的がわからないんだけど??

自殺しようと考えていた26歳のお前が、出来なくて後悔してたことは、

でした!


今もこのままかな?

からそれが出来るまでは死なないようにしよう?ね?

26歳のお前は、これがやりたすぎて、死ぬのをやめたんだよ!

から、それに向かって努力しような??他のことなんかどうでもいいから、ね??


私不幸すぎるんだけど、人生不公平すぎん?

めっちゃわかるー!!

私もそう思ってた、12時間前ぐらいまで!

16歳でメニエール難聴耳鳴り持ちとかマジでありえないよね!不公平すぎるよね!

献血も行きまくりフードバンクボランティアしまくり、ゴミ拾いとかまでしちゃう環境保持野郎なのにね?

友達にも今時お手紙書いて郵便で送ってあげちゃうぐらいのナイスガールなのにね?

日常的に落ちたスズメ助けたりとか、落ちてるものはなんでも警察に届けちゃうガールなのにね?

お仕事もぶっ倒れるまで頑張っちゃうザ・社畜ガールなのにね?

わかるよー、めっちゃわかる!


でも考えてみよ、




結構ラッキーじゃない?

てか生きてるだけで丸儲けだからね?

糖尿病もないし、手足あるし、両目見えるし、ね??

虫歯お腹痛い?そんなもん無視無視!!!


疲れたしんどい

休め!!!めっちゃ休め!!!逃げて休め!!!

いか自分の心・身体は、自分しかケアできない!!

世界中の誰よりも自分を最優先しろ!!これは命令!!!

お前がぶっ倒れて死んでも、多分親以外誰も気にしてくれない!友達上司も誰も!

逃げろ、休め、めっちゃ休め、んでもって家族友達電話しろ!!


将来不安なんだけど??

不安になってもいいことないから、考えない!

26歳のとき、耳が治らないよ〜〜っていう不安で、耳鳴り悪化したの忘れたのかい??

もし自分コントロール出来ることがあるのなら、それだけを考えてやること!

不安になっても状況は悪化しかしない!!これ経験済みな!!


耳がまたダメになるのが不安なら、大丈夫自分最優先の生活ちゃんと送れていれば、ならないから!

もう26歳で最後にしような!


将来の自分への質問コーナー(耳編)

どういう生活送ればいい?



また発作起きたんだけど??

とりあえず、




以上!!!

この人生最大のチャレンジを乗り越えた私は最強!!なはず!!!


そして抗不安薬すげえな

2020-04-14

発達障害女性ルポに支えてくれる恋人が登場してくるやつ

よくTwitterで見かける、発達障害、または精神病を患った女性が、生きづらさやそれをどう乗り越えているかを、コミックエッセイ風に綴っているやつ

に、ほぼ必ず、理解がありその女性を支えてくれる男性が登場するやつ

を、揶揄するツイート

というのを非常によく見かける。揶揄する人の言いたいことはとてもよくわかる。

とっても生きづらいけど、良いパートナーのおかげで生きていけている、というのは、パートナーに恵まれない障害病気を抱える人々を改めて絶望の淵に突き落とすようなものだ。

非常に一般的な考え方として、例外は必ずあるにしろ基本的に、女性のほうが男性に比べ、恋愛的なパートナーを得る機会が多いのはおそらく確かだろう。その理由はいくつか挙げられるが、ここでは割愛する。

ゆえに、パートナーに恵まれ日常を送ることができている障碍者/精神疾患持ち女性という存在を見せつけられると、同じような状況にある男性なかに、『では誰にもかんがみられることなく、パートナーに恵まれない自分たちは、どう生きていけばいいのか』と暗澹たる気持ちが生まれしまうのは仕方がないのではないだろうか。

私の話をしよう。

私は女性である。そして発達障害者であり、精神疾患を持っている。

具体的に言うと、ASD優位のADHD、かつ、うつ病解離性同一性障害の診断が下りている。

希死念慮が強く、1度自殺に失敗し、閉鎖病棟入院していた。

理系大学院卒業後、財閥企業に勤めていたが、病状の悪化に伴い退職した。

そして離婚歴がある。

私の持つ障害と疾患は、両親から虐待に由来する可能性が高く、主治医の所見もそのようになっている。私の両親は裕福で社会的地位のある人たちではあったが、あまり子供を育てることは得意ではなかったらしい。成人し、うつ発症し、自殺未遂後、弁護士を通して虐待事実を認める旨、慰謝料を支払う旨、それができないのであれば縁を切る(ことは非常に難しいのだが)協議書を送り、その段階に至り、はじめて自分たちがしてきたことが客観的虐待に当たると気づいた、なかなか能天気な人たちでもある。

この虐待由来というところがネックなのか、私の抱える障害精神疾患は非常に根深いところにあり、もう10年近く投薬を続けているが、治るというよりもただ生きているだけだ。

さて、表題の話をしよう。私の人生において、障害精神疾患を支えてくれるパートナーはいたかという話である

結論から言うと、いなかった。これからも現れない気がしている。

そもそも、私は強い気分障害を持っているが、精神が不調の際は自ら抗不安剤(軽いものならソラナックスリボトール、ひどければヒルナミン)を飲んで、迷惑をかける前に自分コントロールしていた。これはたぶん、両親による『人に気を遣わせるな』という強い教育が行き届いた結果だと思う。もちろんこの人という言葉には、家族も含まれている。

解離性同一性人格障害というのは、簡単に言うと多重人格のことで、現在この病名が診断されている患者はかなり少ない。最近は発作もあまり怒らないが、解離時、私にはなんの記憶もない。どこで何をしていたのか、ポケットに入ったレシートや、体についた汚れや傷、SUICA履歴など、いろいろなものからなんとなく推理するしかない。でもそれがとても怖いともあまり思わない。発作が起こるタイミングシチュエーションは決まっている。そうならないよう、そういった状況に自らを送り込まないよう注意すれば、ある程度制御できる。

私は精神療養手帳も持っているし、飲んでいる薬の数も種類も途方もない数だが、それでいて、一人できちんと精神科に行き、診察を受け、薬を飲んで生活している。もちろん生活も一人だ。親元なんて考えられないし、世間体のためだけにした結婚は、結局相手が何を考えているのかわからないまま、かつ、相手も私がどういった人間なのかわからないまま終わった。

主治医はあまりこの状況をよしとはしていない。つまり、頼れるだれかが近くにいたほうがいいのではないかという話をされることもある。しかし私は、短い結婚生活のことを思い出す。いつも誰かがそばにいるのに、その人がひとつ自分のことをわかっていないという状態は、単純に一人でいるより何倍もつらい。元夫との生活の中で、私は何度も『大丈夫』と言った。ぐうぐう寝息を立てる元夫のとなりで、絶望が押し寄せてきて一晩中声を殺して泣いた。これではいけないと、元夫に私は何度か自分の話をしようとした。それはかなり勇気のいる行為だった。他人精神いびつになるに至る理由を、好んで聞きたがる人はいないし、そのあと慰めるのだって面倒だろう。もし、面倒がられたら、聞いてくれなかったら、と思うと、だれにも言えなくなってしまうのだ。

結果から言うと、元夫は私の話を聞いてはくれた。その間ずっとドラゴンボールかなにかのソーシャルゲームスマホで遊んでいた。

最初から期待していない分、絶望も少なかったが、たとえ結婚していても、他人他人であり、興味のない話を無理やり聞かせることはできず、自分のことは自分でけりをつけなければいけないのだとわかった。私は、元夫がしてくれる自分の話を聞くのが好きだった。それは元夫に興味があったということだろう。そしてその逆はなかったということだ。

ちなみに離婚の直接の理由となったのは、元夫の暴力的行為により、私が結婚前に拾いともに暮らしていたネコが、ストレス性の病気になってしまたことだ。ネコ家具破壊される音を聞き、泣き叫ぶ私の声を聴き、壊れた箪笥を見、過度のストレス過呼吸を起こし、自らのしっぽをかじり始めた。ネコの異状に気づき獣医でそれがストレスのもので、環境を変えるか、抗不安剤を投与するかしかないと聞くその瞬間まで、私は無気力のあまり離婚することすら考えていなかった。動物病院を出た私は、その日のうちに離婚届を手に入れ、元夫に書くように強制した。

元夫は渋っていたが、一連の暴力行為を私がICレコーダーに録音していることを知ると、あきらめたようにぐちゃぐちゃと署名をした。

私は現在独り身であるが、もちろんネコとともにいる。

おそらくこれを読んで私に好意的気持ちを抱く人は少ないと思う。それは私が完全に自己完結しているからだと自分でも思う。私は折り紙付き障碍者で、精神疾患を抱えているが、誰にも頼りたくないと思っているし、私が求めているものは、他人に求めるにはあまりにも重たいものだという自覚がある。

私はネコ暮らしている。ネコは私がいなくてもおそらく生きていけるだろうが、私はこのネコがいないと生きていけない。ネコは私の話を聞いて頭をなでてくれるわけでも、そっと抱きしめてくれるわけでもないし、「つらかったね」とかそういうことを言ってくれたりもしない。ただ生きていて、日向ぼっこをして、昼寝をして、ノートPCに向かう私の邪魔チョコチョコとしてくるだけだ。

でもそんな存在を私は心から愛し、どの人間よりも深い信頼を抱いている。

誰にも愛されない、だれも愛すことができないと思い、絶望している、私と似たような境遇の人がいるとしたら、まずネコを拾うことを強くお勧めする。

2019-10-01

セルトラリン副作用

セルトラリンって薬を処方された。

職場が変わり、OJTを厳しくしたような、でも中途なら当たり前だよね、って感じだったけど、着いていくことができず不安まみれの日々を過ごすことになった。

そこから不眠が始まり不安不安を呼び、頑張ったが非効率過ぎて燃え尽きてしまった。

薬も睡眠導入剤抗不安剤ときて、ついに先日抗うつ剤の処方となった。

ま、こいつの副作用が凄いんですよ。

頭痛

飲んで2日間はおもーい頭痛に悩んだ。比較短期間で治った。

吐き気

止めるまでずっと続いた。1週間で1キロは痩せた。飯が全部まずい。腹も減らない。

○性欲減退、中折れ

1週間で1回も出せなかった。本当ひどい。意欲ゼロ。無理やり続けても無理。

頭痛はともかく吐き気と性欲減退がキツすぎる。

一体何を楽しみで生きているのか分からなくなった。

まさか抗うつ剤飲んだらもっと酷くなるとは思わなかったよね。

2019-04-25

長い話

今、残業中なんですけどもうデスクで涙をこらえるのに必死で何もできないので気をそらすためにも自分の話を書きますね それぐらいは許される職場なんです。いいでしょう。私がすべて悪いだけの、きっといい職場なんです。

私は小学校中学校、合計で五年間ぐらい不登校保健室登校)でした。原因はなんだろうな。今考えてもわからないんですけど、とにかく行けなかったんですよ。なんでだろうね。

面倒くさかったんです。たぶん。鬱かなってちょっとだけ思ったりもしたけど、でも、私は当時からオタクで、ネット動画とかを見て笑ってたからただの甘えだったのかもしれない。徹頭徹尾、甘えているだけの人間なのです。小学校の三年か四年から二年ぐらい通えなくて、六年生で復帰したけど、中学校一年でまた行けなくなりました。勉強ができないわけでも無かった。昔から地頭は良い方で、ただ集中力は無かった。何事も長く続けられなかった。極度の面倒くさがりで、家事も何も一切できなかった。

両親は、学校に行きたがらない私を叱ることもなく、いろいろ考えてくれました。なんたらスクールみたいな不登校児の集まるところに連れて行ってくれたり、カウンセラーが居る部屋に週数回だけ通うように調整してくれたり。

結果としては、私は自分の中でなんで教室に行けないかからないまま中学の三年間を過ごして、そのまま都立チャレンジスクールっていう学校に進学しました。都立高校で、定時制

そこには私みたいに理由もなく学校に行けなかった人って全然いなくて、病気だとか、働かなくちゃいけないから夜間で通うとか、親が離婚してから生活が変わって学校に行けなくなったとか、たくさん理由があったんです。私はなんで自分がここに居るんだろうってちょっと思ったりもしたけど、未だに仲よく遊ぶ友達ができたのもここでした。

学校は楽しかった。

でも高校はやっぱり三年しかなくて、私は大学に行くことにしました。良いなと思った大学を目指して、母がこのころ癌になったのに無理して私に英語家庭教師までつけてもらったけど、受かりませんでした。その年だけ倍率が平素の三倍ぐらい高かったんです。なんでだろう。

結局私は担任先生の勧めで、少し遠いけど私なら絶対入れる私立大学文学部に入ることになりました。試験はびっくりするほど簡単で、これなら中学時代の私でも入れるな、と思いました。教科は現代文だけでした。

でもこの大学で、私は今でもたくさん遊びに行く友人ができたし、その一人は先日入籍しました。おめでとう。

大学は面倒くさいこともたくさんあったし、さぼったりもたくさんしたけれど、たぶん楽しかったんだと思いますバイトを始めたのも大学に入ってからです。最初は友人の勧めで飲食で働いていたんですが、給料未払いで数か月で辞めました。

次に私が応募したのは、カードゲームショップでした。ちょうど流行ってたんです。シャドバなんて出る前で、ハースストーン一部の人しかやってないし、MTGオンライン全然無かったころの話です。私はろくすっぽカードゲームなんて知らないままそこに面接に行って受かりました。

仕事はたぶん楽しかったです。結局二年半ぐらいやったのかな。みんなオタクだったし、嫌な客もいたしわかんないこともいっぱいだったけど、それでもバイトって責任もなくて気楽だったし、本当に楽しかったと思う。

その時直属の上司だった男の人とは今でもなんだかんだ年に数回会って、二人で飲んだり二回ぐらい日帰り旅行したり誕生日ディズニーしたり一緒にコンサートいったりします。私たち関係は何なのか、こうやって書きだしても未だによくわかりません。良い友人なのかな。友達以上恋人未満の関係結構好きです。気楽だし。いい関係ですよね。

そして私はバイトと遊びと勉学と文化コンテンツで日々を過ごしました。三人しかいないゼミでひいこら卒論を書き、その間に就活しました。

弊社は、確か私の学校に来ていたうちの一つだったと思います

私の父は大きな会社でそれなりに能力もあって、管理職ではないけれど責任感のあるポストについています。そんな彼と日々話をしたりしているうちに、私もこの業界にしたいな、と漠然と思っていたので、そこを受けてみることにしました。一応ほかにも数社受けました。

受かったのは二社。もう一つは金融系の会社で、少し怖くて辞退しました。その時私は卒論が楽しくて、就職の方がたぶん大事なのにそんなこと全然考えてなかったんだと思います

そうして弊社に決めました。もうゼミ以外には大学に来る予定なんてなくて、バイトばっかりしていて、オタク趣味お金を使いたかった。早く就活を終わらせたかった。

もともと視線恐怖症なのもあって、沢山の人がいる中で自分アピールしたりすることが怖かったのかもしれない。

私は卒論を頑張って(学部で優秀賞をもらいました)、大学を無事卒業して、弊社へ入りました。

入ってから、ああ、結構体育会系というか、業種のくせに古臭い企業だな、と思った事は事実でした。けど、父が言うにはこの業種の中小はみんなこんなものだという話だったので、特に気にしませんでした。自分マメさが求められる事務職は向いていないと思っていたからです。

それでも今の部に配属されて、訳の分からない言葉はいっぱいだし、教えてくれる先輩の一人は私に教える片手間ずっとグラブルをやっていた。もしかしたらグラブルをやっている片手間私に色々教えてくれたのかもしれない。

今のオフィスは、弊社の大口顧客(元請け)がほぼほぼ占めているビルです。

私は二年間、同じプロジェクトで、ワーカーホリック上司の下で仕事しました。

上司イエスマンから無茶な仕事をいっぱいもらってきちゃうし、自分ワーホリからほかの人も同じぐらい働けるとか思っていたし、謎に有り余る体力で飲み会かにも大体参加していましたが、怒らないし、わからないというとある程度は聞いてくれたりするし、たぶんとってもいい人でした。私が生意気言っても怒りませんでした。ただ彼自身は毎月残業60時間かいってるワーホリでした。いまでもそうです。

それでもそのプロジェクトは楽しかったです。つらいこともたくさんあったけど、愛着もありました。

なんだか身体おかしいな、と思ったのは去年のどこかぐらいからだと思います。去年は忙しい月が数回あって、残業が40時間を超えるぐらいの月が飛び飛びに数回ありました。

から起きるのが早くて、朝五時とかに起きちゃっていたんですが、三時ぐらいとかに起きちゃうようになりました。

私はスマホ依存症に近いものがあって、何かあるとすぐスマホを見ちゃうんですが、それのせいもあったのかもしれません。睡眠の質がきっとどんどん悪くなっていきました。

プロジェクトは今年の春が大詰めで、みんなピリピリしてたし、急な雑務も増えました。

ある日、一度、風呂場で痙攣のような現象を起こしました。

視界が一瞬真っ白になって、風呂場の椅子に座りこんだと気が付いたときには、身体のいろんなところが強くしびれていました。特に強かったのは手で、勝手に力強く握りしめられていて動かせませんでした。

母を呼びました。母は全裸で浅い呼吸をしながら手を強く握りしめている私のことをひどく心配してくれました。父も風呂場の外にはいてくれて、状態を調べたり、スポーツドリンクをくれたりしました。

その日は固まった手で何とか飲み物を飲んで、少ししたら回復しました。

でも、結局数日たってからも体調がすぐれず、午前半休を取って病院に行きました。

のしびれの正体も知りたかたからです。結果は「抑うつ状態から過呼吸引き起こしたのでは」ということでした。

医者さんには産業医面談を受けるように言われました。私は素直にワーホリ上司へそのことを話して、午後に出社しました。

休憩スペースで面談しました。診断の詳細、そして産業医面談というものを受けるかどうか。

受けるなら俺から上に言うよ。そういわれて、少し困りました。プロジェクトが本当に大詰めだったからです。私はその時まだ二年目のぺーぺーでしたが、そんな私でももしいなくなってしまったら困るかもしれないと思ったからです。結局上司はそのあと産業医面談の話はせずに、春から仕事の話をされて終わりました。

その週の金曜日、私はどうしても体調がすぐれず、うまく動けなくて、会社休みました。

もう一度産業医面談の話をしました。

私自身が、どうしてこんなにストレスを感じているかがわからなかったからです。それが仕事のせいなのか、無意識プライベートでため込んでいたのか(その時ちょうどフォロワーちょっとトラブルがありました)、単純に満員電車ストレスなのか、わからなかったからです。

翌週、私のところにやってきたのは課長でした。

別に産業医面談拒否するわけではないし、受けたいなら調整するんだけど」彼の言葉はこう続きました。「俺たちの権力より上だから部署移動とかを指示されたら逆らえないしなあ……」

課長は私が部署を移動することになってしまった場合人間リソースの低下を懸念していたのです。

「とりあえず、今月は今のプロジェクトを頑張って、春以降もう一度相談します」私は言いました。

しかしたら、本当に私が居なくなったことでこのプロジェクトクリティカルな何かが発生してしまうかもしれない。それが嫌だったのです。課長が明言してしまうことで、それが私のせいにされてしまうのも嫌だったのです。

薬を飲んでいれば出社はできました。なぜか倒れたときから咳が止まらないけれど、風邪が長引いているのだろうと思いました。

私は抗不安剤睡眠導入剤を内科でもらっていたので、薬がなくなった時についでに咳止めの薬をもらいました。

そうしたら、電車で倒れてしまいました。

咳止めとして飲んだ抗生剤と私の相性が悪かったのかもしれません。私は朝の満員電車の中でお姉さんに助けてもらい、途中の駅で降りて、でも歩けなくて、駅員さんに車いすに乗せられて詰め所みたいなところの長いすに横たえられ、母親が来るのを泣きながら待っていました。

母は病気です。私が高校の時からずっと治療しています。手術もしました。私なんかよりもずっと大変なのに、毎日ご飯を作ってくれて、こうして迎えに来てくれるのです。私は親不孝者でしたが、母が迎えに来てくれたので、駅から外に出ました。その日は散歩をして、会社休みました。

体調の悪化が治りません。毎日薬を飲まないとうまく動けません。

それでも日は回るので、春から新しいプロジェクトに参画することになりました。すでにある程度進んでいるプロジェクトは初めてでした。

私はわからないなりに、以前の経験知識を使って頑張ろうと思いました。そのプロジェクト上長は先日面談をした課長でした。

参画してから一週間ほどした日、私は唐突課長仕事の依頼を受けました。

曰く、新しく仕事必要ものを一から作るのだと。

この業種において、一から自分で作ることは大して難しくはありません。今のプロジェクトの様子確認も兼ねて、大丈夫です、やります、と言いました。

どうやら課長のその認識根本的に間違っていたらしいと知ったのは、その週末のことでした。

どうやらそれは、私が触ったことのないソフトを触って、すでに動いているシステムに「絶対ミスをすることなく」仕様追加をするというものでした。

私は困惑しました。だって自分が触ったことのないものを「ミスなく」と言われても困ります練習ができません。経験もありません。

しかも、それは私一人でやるという話でした。ベテラン技術者が後ろについてくれると言いましたが、彼は他の仕事で忙しく、週に一回、数時間様子を見てくれるだけでした。

彼がとっても忙しいのは知っていました。だから仕方ないとは思いました。上長に聞いていた話と全然違っても、もう請けちゃったと言われたら若手にはどうすることもできませんでした。

元請けからはことあるごとに「絶対ミスは許されない」と言われました。私は状況の調査から始めました。

手順書や設計書は用意されていました。ただ、前任の会社中途半端撤退していたため、それが正しいかどうかの調査から始めなければなりませんでした。

けれど、私が触ったことのないソフトウェアの設計違いを、どうやって見つければいいのだろう。それはとっても疲れることでした。

上長はいつもなぜか忙しそうで、私が疲れたとか、産業医面談の話についてを問いかけることは憚られる雰囲気でした。半分炎上していたのかもしれません。プロジェクト経験が私含め半分以上を占めていた上に、その中で唯一構築経験があった私が一人での仕事に回されてしまいました。

ベテランはしきりに「ポテンシャルを見込んで」と言いました。

ポテンシャルって便利な言葉ですよね。とりあえずそう言っておけば良い感をひしひしと感じます絶対失敗できない仕事を依頼されたなら、失敗しない人を連れてくればよかったのです。

私はそれでも何とか資料を調べて不明点を上げ連ねて、ベテラン上長との進捗報告に参加しました。訳が分からないことだらけでした。たくさんのことを言われましたが、すでに集中力平時の半分ほどしかなくなっていた私にとって、それは呪文のようでした。半分ぐらいわかりませんでした。わかったふりをしました。

産業医面談に行けなかったので、有名な精神科のある病院の予約を取りました。その時にはもう、睡眠導入剤がないと眠れない生活になっていました。

新しい病院で、紹介状は無いんですとだけ伝えて診察を受けました。睡眠導入剤のほかに睡眠安定剤をもらいました。でも、睡眠安定剤を飲んだら昼間もものすごく眠くなってしまったので、二回しか飲めませんでした。結局抗不安剤睡眠導入剤だけを今でも飲んでいます。飲まないと眠れないし、仕事に行けないからです。

このころからホーム電車に不必要に近づいてしまうようになりました。(私が使っている路線都内なのにホームドアがないのです)無意識でした。私は死にたいのかな、と思うようになりました。

転職をすればいい、とか、周りの友人は言っていましたが、どう客観的に見たって私のメンタルが弱いだけの甘えなので、私が悪いのです。昔から私が社会や親に甘えているだけなのです。その自覚があったし、転職はとっても怖いもののように思えて仕方がありませんでした。だって自分には実力がないのです。転職活動で落とされることも怖かったです。評価されないことは、訳の分からない仕事を一人でやらされることと同じぐらい怖いことでした。

今日も偉い人たちを交えての打ち合わせがありました。私はやっぱり、「絶対ミスできない」ということを念押しで言われました。それならなぜ、ソフトウェアに触ったことがないたかが三年目の私がその仕事をしなければならないのかがわかりません。他の人にも仕事内容の相談ができません。調べても全然出てきません。他のメンバーはいろいろみんなで相談しながら前に進んでいるのに、私は自分が一つわからないことがあるだけでそこに立ち止まってしまます解決策がわかりません。どうすればいいかわかりません。集中力がなくて、どうすればいいかもよくわからなくなってしまいました。

少し、辛いな、と思いました。

別に残業が数百時間だとか、あまりにも激務だとか、そういうことはありません。家族はとっても優しいです。私はきちんと笑えています。両親はたくさんのことに関して理解もあります。母は自分身体も悪くて病院に通っているのに、私が精神科に行くとき一緒についてきてくれました。

部長課長主任ワーホリですが、きちんとしてはいると思います中小ですが、それなりに長く続いている、頑張っている会社です。

から、私があまりにも社会に甘えているだけなのです。私が弱くて、今まで甘やかされてきたから、ちょっと普通なぐらいのところに来ただけで耐えられなくなっているのです。

それは悪いことだと思っていますだって私が弱いのが悪いんです。甘えなのです。でも、強くなる方法がわかりません。

どうしてこうなったんでしょう。生まれときから弱かったのでしょうか。私はどうすればいいのでしょうか。何が悪かったのでしょうか。仕事ができないことが悪いのでしょうか。

薬を飲んでいるとお酒が飲めません。友人との飲み会も、友人が気を遣って飲み放題プランを外してくれます。気を遣って一緒にソフドリを飲んでくれようともします。

優しさが申し訳ないです。私が弱いだけなのに。私が弱くて薬を飲んでいるだけなのに。

仕事が嫌いなわけじゃありません。色々考えて、正解を導き出せたときや、トラブル解決できた時はとっても楽しいです。

ただ、たぶん、もう一人だけいたら、こんな気分になっていなかったのかな、とは思います自分にとって、「絶対ミスできない」一人きりの仕事が、案外つらいのでしょう。ゆとりなのです。弱いのです。世間様に甘えているから仕方がないのです。責任を一人で負いたくないのです。「わからない」と隣に相談する環境が欲しいのです。

会社の最寄りの駅にはホームドアがありません。今は想像するだけだと思ってはいますが、段々と黄色い線の向こうを歩いていってしまって、いつか飛び込んでしまったら、と思うととても怖いです。それも、私が弱いからなのでしょう。

お母さんのごはんもっと食べたいです。

お父さんともっとお酒を飲みたいです。

生きたいです。オタク楽しいし、ちゃん毎日笑っているし、友人もいい人がいっぱいいます。でも、いつまで生きればいいのか、よくわかりません。勝手に涙が出たり、ベッドから動けなくなってしまます

私よりもっとつらい人はそれこそ数えきれないほどいるはずなのに、どうして自分はこんなにも弱いのか。どうしたら強くなれるのか。

なんで生きてるのか、わからないのです。

それを吐き出したかっただけなのです。

2018-08-20

anond:20180820152618

実際に何もしてない奴は「無害」でしかない

マジで、そういう奴を被害妄想から非難する奴こそ抗不安剤?とか飲むべきだわ

2018-06-13

カフェイン30gと睡眠薬100錠を入れて死にかけたお話

1年以上経って落ち着いてきたので、いまなら書けるとおもう。

あれは忘れもしない去年の4月30日だった。

当時26歳の私は、大学課題卒論、日々の日雇い仕事性別違和精神疾患父親との不和、などさまざまな問題を抱えながら日々をやり過ごしてきた。

4月29日の夜、いつものように睡眠薬抗うつ剤抗不安剤女性ホルモン剤を入れて布団に入った。

眠れない。

仕方がないからしばらくネットサーフィン資格試験勉強などで時間を潰し、眠くなるのを待つことにした。

朝の6時になっても眠れない。

これはもう仕方がない、ひとまず眠れるまでは寂しいし誰かと通話しよう、そう思った私はSkypeで連絡を取れそうな人物と話をした。

大して内容のない話だったとおもう。本当にとりとめのないことを2時間半くらい話した。

そうしたら通話相手が、いまの私の現状に同情したのかなんなのかはわからないが、泣き出した。

泣いている人物と会話を話をするのはあまり得意ではないのでここらへんで通話はやめよう、そう思い、一応なだめて落ち着かせてから通話を切った。

通話後、自分なかには将来への不安感、絶望感、焦燥感、そういったものでいっぱいになってしまった。

そういえば、カフェインを大量に服用すれば死ねるということを聞いたことがあったのでインターネットで調べた。

私の体重カフェイン摂取致死量は15g。ならその2倍服用すればほぼ確実に死ねるだろう。

このあたりで私の頭の中は死ぬことでいっぱいになってしまった。

そして手元にあったカフェイン剤をきっちり30g分用意して、そしてそのまま眠って死ねたらいいなと思ってルネスタやらロヒプノールやらマイスリーやら合わせて100錠くらい準備した。

そして、一気に、手元にあった炭酸飲料で飲み干した。

カフェインの錠剤が大きかったため、何度かに分けて飲んだ。胃酸だろうか、せりあがってくる液体も無視してすべて飲み干した。

飲んでから20分くらいは特になにもちょっと変な感じかな、その程度の身体違和感しかなかった。

30分もすると強烈な吐き気がきて、ああこれはもう我慢出来ない、そう思いお手洗いで吐いた。ロヒプノールの色素のせいか青色の吐瀉物が出た。

何度かえづいていると、1階にいる母に大丈夫?と声をかけられた。大丈夫ではなかったので素直に大丈夫じゃないと言った。

なんせ強力な吐き気それからめまい身体が動かない、もう自殺したいだなんて思わないか身体を楽にしてくれ、そう思った。

母に水を飲まされ、何度も吐いた。母が救急車を呼んだらしく、部屋に救急男性が2人入ってきて、担架で救急車に乗せられた。

このあたり、正直なところあまり記憶がないため、細かいことを思い出せない。ただ、意識チェックなどを受けたことは覚えている。

それと、ごめんなさいごめんなさいと何度も謝っていた。

病院へ着くと、まず胃洗浄を行った。鼻にチューブを通され、洗浄水を入れたり、胃の中の悪い水分を抜いたり。

その後に、活性炭を投与された。胃洗浄は苦しいという話を聞いていたが、正直尿道カテーテルを通されるほうがしんどかった。

胃洗浄が終わると、病院着へ着替えさせられ、CTスキャンの部屋へ移動させられた。そこで強烈な吐き気

CTスキャンが黒い吐瀉物でまみれてしまった。ごめんなさいごめんなさい、ひたすらに謝る私。

その後で、病棟に入り、尿道カテーテルを通され、全身管だらけになっておむつもつけられて待機。

はずかしいはなしだが、何度も看護師さんにおむつを交換されてしまった。

それと尿道の管の違和感が苦しかったのでお医者さんに抜いてもらった。

深夜になると、とても苦しくて寂しくて、泣いてしまった。

一緒に病棟状態を見守ってくれた母がやさしく手を握ってくれたのを覚えている。

それから、こんな風になってしまってごめんなさい、と何度も謝った。

そして、明日には退院できるようにならなければ(その明後日に欠席不可の科目があったので)という気持ちが徐々に湧いてきた。

ODから1日経ちお昼になった。確かハヤシライスが振る舞われたと記憶している。

正直、食欲なんてまったくなかった。それでも、ご飯が食べられないと退院できないと聞いて、必死に食べた。

付け合せのレタストマト、デザートのバナナツナサラダ、そしてハヤシライス。軽いものから重いものへ順々に食べ、1時間近くかけてなんとか完食した。

その後はリハビリがてら、ちょっと歩いたりした。それは特に苦痛ではなかったのだが、最後に大きな問題が立ちはだかった。

自力排尿できなかったのである

いくら尿意を感じて力を入れても、1滴も尿がでない。尿が出ないと今日中に退院できないと聞いた私は数時間かけて排尿の練習をした。

そして、看護師さんに見守られながら、おしっこができたときは、すごく感動というか、開放感というか、達成感に近いものを感じたとおもう。

夕方になり、お医者さんに退院しても大丈夫との許可を受ける。

優しく接してくれた看護師医者さんの方々に深々とお礼を言って病院を去った。

そして実家に帰り、お風呂に入り、早めに寝て、次の日は大学だったのでまた普段日常に戻ったのでした。

今回の件で、絶対ODでの自殺企図はしないぞ、と固く心に決めたのでした。

・いまの現状

あれから精神は少しずつ落ち着き(結局大学卒業できなかったけれど)、念願の恋人との同棲も叶い、基本的には主婦としてやっています

たまに日雇い仕事を入れたり、電気系の国家資格勉強をしたりと、日々それなりに落ち着いた生活をおくれています

実家から離れることで、父親との不和も解消したし、精神が弱っているとき彼氏さんに支えてもらっています

たまに、彼氏さんと喧嘩したりすれ違ったりしているし、やっぱり将来への不安はあるけれど、いまは、しあわせです。

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