はてなキーワード: 技術者とは
ここ20年くらいでアニメを作ることが社会的に認められてきたために、参入してくる制作者たちが基本的に「クリエイター」ではなくなってしまった結果です。どういうことかと言うと、キャラクターをきれいに作るだけなら、普通の人が技術を習得すれば、それなりにできるようになります。でも、そこに魂を入れられるかどうかが、クリエイターかそうでないかの違いなのです。クリエイターというのは、もともとそういう資質を持った人が、自己修練してクリエイティビティを高めてくことによってなるもので、大学や専門学校で養成できるような甘っちょろいものではありません。
わかりやすい例を挙げると、京都のお土産の中には、とても高度な技術で作られている民芸品がたくさんありますよね? でも、それらは「作品」ではなく「工芸品」と言われることが多い。技術だけで作ると、いくらきれいに作ってもそうなってしまうんです。一方、ゴッホの絵は一般的な意味できれいじゃないから「工芸品」にはならないけれど、数億円という評価額がついたりする。
それはなぜか? そこにアートとしての作品性があるからです。アートは工芸品のレベルを超えます。つまり今のアニメ業界の制作者たちは、工芸品を作っている技術者でしかないのに、アーティストだクリエイターだと嘘をついているんです。他のジャンルもそうですけどね。
だけど、僕は「魂が入っている」という言い方は個人的に嫌いです。なぜかと言うと、「魂」という言葉は誤解を生みやすいからです。「魂を入れれば作品になる」という説明がなされた瞬間に、「全身全霊をかけて一週間不眠不休で作ったから、魂が入った」とか言い出す輩が現れる。「作品」かどうかの判定基準は、そんなに生やさしいものではありません。
https://char-blog.hatenadiary.org/entry/20100811/1281549867
AIに限られた話ではない
ただの愚痴。
職業差別のようで申し訳ないのだが、自分は社会人になって、教員という職業を持つ人間に対してマイナスイメージを持つようになってしまった。
詳細は伏せるが自分がお世話になっているスポーツ系の社会人サークルに所属している知り合いの教員はどなたも癖が強く、周囲から妙に浮いてしまう特徴がある。思いつくままに列挙する。
→例えば試合の後疲れて少しみんながダラけているとき、2☓歳くらいの小学校教師が「お前ら、とっとと動けぇ!」と罵倒混じりで叫ぶ。
本人は「仕事のクセで〜」と言ってるのだが、異常な行為に周りが引いていることに気付いていない。
試合中も他人への非難や半ば指示に近い提案をされることが多く、自分もその人にはとても気を遣いながらプレーしている。
そもそも、仕事ですらない対人コミュニーケーションにおいて、人に何かを強制・命令するということに違和感が拭えない。
「あの人のプレーは雑だ」「あの人はうまいけど一緒にやりたくない」など、他人のプレーや言動を当たり前のように批評する。
後は「〇〇ちゃん、〇〇に言い寄られて嫌いになったらしいですよ」などと他人のネガキャンもしないで欲しい。
これに関しては、もうなんというか、「普通言わんだろ」としか言いようが無い。
それなりに勉強がてきなければ教員にはなれないと思う。社会的地位、イメージ、高い仕事だ。教員というだけで立派に見える。それはわかる。
だが、「私昔から勉強はできたんですよね」とか、「地元の中では一番の高校へ〜」とか言わんでくれ。シンプルに痛々しい。
褒めて欲しそうだから褒めてやってるが、一般的な社会人の運動系サークルで学歴自慢なんて普通はしないんだよボケが。
優秀か否かなんて、「どこを基準に置くか」でどうとでも変わるだろうが。
勝てるフィールドを基準に選んでイキるなんて謙虚さの対極だろう。
申し訳ないが、自分は教員をそんなに頭の良い人間と思っていない。
自分は学生時代、理学の専攻だったので「アカデミックな研究や技術の世界について行けなかった人が目指すもの」というのが実態としてあった。
ただ、理学の人間が教員免許を取るには卒業に必要な単位に加えて追加での単位取得や実習が必要。
実際、教員免許はあるが民間で技術者をやっている知人は頭の回転が早く、尊敬できる人が多い。
・上記の問題に本人達が一切気付かない、もしくは気付いていても全く気にしない。
サークルで問題を起こしたり、主催に注意を受けても翌週しれっとやってくるのが彼らで、あまり反省しないというか、異常にメンタルが強い。
あと一切練習に来ないのに試合だけ出たがる人、若者が多い中にオッサン(どっかの中学の教頭らしい)が話割って入ってきたり。
なんなら関わりたくねえんだ、俺は。
ただの愚痴。
職業差別のようで申し訳ないのだが、自分は社会人になって、教員という職業を持つ人間に対してマイナスイメージを持つようになってしまった。
詳細は伏せるが自分がお世話になっているスポーツ系の社会人サークルに所属している知り合いの教員はどなたも癖が強く、周囲から妙に浮いてしまう特徴がある。思いつくままに列挙する。
→例えば試合の後疲れて少しみんながダラけているとき、2☓歳くらいの小学校教師が「お前ら、とっとと動けぇ!」と罵倒混じりで叫ぶ。
本人は「仕事のクセで〜」と言ってるのだが、異常な行為に周りが引いていることに気付いていない。
試合中も他人への非難や半ば指示に近い提案をされることが多く、自分もその人にはとても気を遣いながらプレーしている。
そもそも、仕事ですらない対人コミュニーケーションにおいて、人に何かを強制・命令するということに違和感が拭えない。
「あの人のプレーは雑だ」「あの人はうまいけど一緒にやりたくない」など、他人のプレーや言動を当たり前のように批評する。
後は「〇〇ちゃん、〇〇に言い寄られて嫌いになったらしいですよ」などと他人のネガキャンもしないで欲しい。
これに関しては、もうなんというか、「普通言わんだろ」としか言いようが無い。
それなりに勉強がてきなければ教員にはなれないと思う。社会的地位、イメージ、高い仕事だ。教員というだけで立派に見える。それはわかる。
だが、「私昔から勉強はできたんですよね」とか、「地元の中では一番の高校へ〜」とか言わんでくれ。シンプルに痛々しい。
褒めて欲しそうだから褒めてやってるが、一般的な社会人の運動系サークルで学歴自慢なんて普通はしないんだよボケが。
優秀か否かなんて、「どこを基準に置くか」でどうとでも変わるだろうが。
勝てるフィールドを基準に選んでイキるなんて謙虚さの対極だろう。
申し訳ないが、自分は教員をそんなに頭の良い人間と思っていない。
自分は学生時代、理学の専攻だったので「アカデミックな研究や技術の世界について行けなかった人が目指すもの」というのが実態としてあった。
ただ、理学の人間が教員免許を取るには卒業に必要な単位に加えて追加での単位取得や実習が必要。
実際、教員免許はあるが民間で技術者をやっている知人は頭の回転が早く、尊敬できる人が多い。
・上記の問題に本人達が一切気付かない、もしくは気付いていても全く気にしない。
サークルで問題を起こしたり、主催に注意を受けても翌週しれっとやってくるのが彼らで、あまり反省しないというか、異常にメンタルが強い。
あと一切練習に来ないのに試合だけ出たがる人、若者が多い中にオッサン(どっかの中学の教頭らしい)が話割って入ってきたり。
なんなら関わりたくねえんだ、俺は。
同感だけど、ハロワの区分がそれしかないのでどうしょうもないわ。
「IT技術関連」とは・・・ 電子計算機製造技術者、半導体製品製造技術者、電気通信技術者、システムエンジニア、プログラマー
100人の凡才より1人の天才の方が生産性が高いから論、これよく言われるけど疑問なんだよなあ。
同じソフトを100個売るのと1000万個売るのでコストがほとんど変わらない。
サービスだともうちょっと事情が違うにしても、そこが圧倒的に違うような。
1人の天才の方が100人の凡人より生産性が高いのが当たり前の世界、ってのは、尖った機能を持ったソフトウエアライブラリや、単機能モジュールなんかは確かにそうだと思う。けど、一定以上の規模があると1人の天才じゃ物理的に対応ができなくなるよね。
例えば、超優秀なAIを開発したとして、それをサービス化するための作業はひとりじゃ無理。天才的能力は必要ないが、時間がかかる仕事は山のように発生する。
だから、ソフトウエアも労働集約型の性質を持っているんだよ。(もちろん例外はある)
そこで、ひとりの天才はソフトウエアアーキテクトは超高給を得られるのは当然としても、それ以外の凡人も他の産業よりも高給になっているのは何故か?
それは、限界費用がゼロに近いからだよ。それで収益力が高いからだよ。
超優秀な1人の生産性が凡人100人に勝るのは、エンジニアリングの世界ではわりと不変的な事で、ソフトウエアに限らないと思う。
その証拠に、数が出ないサービス、フルスクラッチのサービスの制作に従事する人々(増田が言う「SIerとかいうガラパゴスビジネスは労働集約型産業」のやつ)はお給料が安い訳よ。有象無象の中小企業よりはそりゃ出てるけど、大手製造業に比べると見劣りする。
そういったガラパゴスSIerので今何が起こっているかというと、収益力の高いビジネスの影響を受けた、ソフトウエア技術者の人件費高騰と人材不足。
自社はそんな収益力の高いビジネスをできているわけではないのにね。
で、SIerが一品モノの開発ビジネスから脱却して、オファリングだのルマーダだのユーバンスだのもがき苦しんでるってのが最近の話だよな。
従来はパッケージは最小限のモジュールしかなくて、、受注したら各社ごとにカスタマイズして売るって商売だった。そのカスタマイズこそが人月商売で安定した利益が望めるってんで、SE部隊と関連する下請け会社を食わせてたわけだ。各社導入時に必ず追加するような機能までコードを流用せず別開発したりして、それで商売していた。
一方で、人口減少の時代と需要爆発による人材不足に、更にカスタマイズ大杉問題によるシステムの肥大化、各種コスト上昇に加えて、株主に物言う株主、アクティビストが増えて、高収益を求められる時代に。そこで、
に行こうとしているわけだよ。
うまくいってないけどな!
うまくいってないけどな!!
うまくいってないけどな!!!
あと、パッケージ化のしようがなくてフルスクラッチで作り続けなければいけないシステムってのはどうしても存在するのも各社頭痛の種だよな。収益率低くてリスクが高いわりに儲からないし、優秀な若い人ほどやりたがらない。アクセンチュアとかが絶対手を出さない領域。
切りたいけど切れないやつ。
日本がラストチャンスとばかりに開始した「日の丸半導体」ラピダスに多大な公費が追加されていることが話題を集めている今日この頃。
心無い専門家たちからは必ず失敗するだの金ドブだの批判殺到中だが、本当に日本(経済産業省)主導の国家プロジェクトは今まで成功しなかったのだろうか?
この記事では主に経済産業省、旧・通商産業省が中心となって始めた国家プロジェクトを振り返る。
大規模集積回路(LSI)の研究、特に基礎研究に力を入れた国家プロジェクト。
当時、半導体弱小国であった日本で700億円以上の金を基礎研究に投資するのは挑戦的であったが、電子ビーム露光技術などの研究レベルのアイディアを実用・量産レベルに持ってくることに成功。
よく「日本は半導体生産はダメだが、生産機械はまだシェアがある」というが、この40年前の国家プロジェクトの技術的成功がかなり大きく、現在でも半導体製造機械はこのプロジェクトに関わった企業が上位にいる。
この成功をバネにして1980年台の日本は半導体生産の8割を占めることとなった。しかし鮮やかすぎる成功体験と日本政府の政治的脆弱性により、90年台に入ると見る影もなく没落したのはあまりにも有名。
通産省は前述の大規模集積回路(LSI)の成功体験を強く意識し、コンピューター技術の「進歩段階」は大規模集積回路が「第4世代」、そしてAI技術が来たる「第5世代」であると想定した。
「仕様書を読んでプログラムを作ってくれるすごい機械」を目指し、500億円規模の国家プロジェクトに踏み切った。
しかし当時の通産省は何もかも見通しが甘かった。大規模集積回路の次がAIというのも謎の括りで、ハードウェアとソフトウェアを混同していた。そもそもなにを研究するのか?という具体的な内容すらあやふやで、やがてはスパコンをよせ集めてもそんなものは出来ないという技術的課題に直面。
現在でいう自然言語処理などのソフトウェア開発を散発的に行い、難航。
それぞれが独自のプログラム言語を作ったりOSを作ったりしたが、特に統合されることも活用されることもなく、「ソフトウェアはむずかしい」ということだけが判明し、放棄された。
なお、唯一の結論「ソフトウェアはむずかしい」ということですら後に生かされることはなかったが、通産省は成功したと主張している。
「10年後にはソフトウェア技術者が60万人不足して、日本は技術的に取り残される–––」
この現代でもよく聞くようなフレーズに慌てた日本産業界は、ソフトウェア技術者の育成に熱い視線を向け始めた。
そこに通産省が入り込むと、さまざまな思惑が一致し、ついには国家プロジェクトとして250億円を投入するΣ計画が発足。日本はソフトウェア技術者の天国となる予定であった。
ソフトウェアという実態の見えないものに予算をかけることへの抵抗感からか、対象は主にハードウェア系企業に集中。
ソフトウェア技術者を増やすという本来の目的は曲解され、最終的には「安価な計算機を普及させる」というハードウェア重視の目標にすり替わっていた。
その結果としてΣステーションと呼ばれる計算機が誕生したが、特に安いわけでもなく、規格が致命的にガラパゴスだったので、ほとんど普及せずに失敗した。
失敗した後も地方を名目としてダラダラと予算が積み重ねられたが、何の成果もなかった。
日本のソフトウェア技術の息の根を止めたとして有名なプロジェクトである。
日本がIT技術に致命的に遅れていることにようやく気づいた通産省は、起死回生の一手としてIT技術に約500億円をかけることを決定。これを「リアルワールドコンピューティングプロジェクト」と名づけた。
しかしそもそもこのプロジェクトには、何の見通しも何の戦略もなかった。
約50個の研究が「リアルワールドコンピューティングプロジェクト」の内容であったが、その実態は検索ソフトから光ファイバーまでバラバラであり、散発的かつ無計画に予算をばら撒くという意味不明な行為は、もはや単一の計画である必要性がなかった。
この計画は最終的に10年にもわたって継続されたが、特に何の成果もなかった。そして膨大な予算とともに記憶の彼方へと消えた。
2000年に入ると、経済産業省は「かつて世界一だった日本の半導体産業を復活させる」という妄想に取り憑かれるようになる。
その数はまさに膨大である。
「みらい」プロジェクト(2001年)に465億円を注ぎ込むも見事に失敗すると、「はるか」プロジェクト(2001年)、「あすか」プロジェクト(2002年)、「DIIN」プロジェクト(2002年)、「あすか2」プロジェクト(2006年)、「つくば半導体コンソーシアム」プロジェクト(2006年)などが代表で、そのほとんどが失敗はまだしも、なんの検証もなく消えさった。
「アスパラ」(2002年)はかなり象徴的で、日本の先端半導体企業が集合して日の丸半導体企業を作ろうと国費315億円を費やしたが、2006年には泡の如く消えた。
これらの膨大な失敗は特に顧みられることもなく、なぜ失敗したのかいう考察もなく、ただ予算ともに忘れ去られた。
いったい何故だろうか?
摩訶不思議なことに、ソフトウェア技術者が致命的に不足していた日本においては、国産の検索エンジンが誕生しなかった。
中国やロシアが自前の検索エンジンを開発し始めると、日本でも国産検索エンジンを作るべきという安全保障上の発想が経済産業省に芽生える。約300億円をかけて国産検索エンジンを開発することにしたが、当時普及し始めたネット界隈はこれを激しく批判。
失敗続きの国家プロジェクトと比較されるが、経済産業省は「かつての国家プロジェクトとは違う!」と強い自信を見せた。
しかしなにも成さず、なんの検証もなく、予算とともに忘れ去られた。
ラピダスにおいては、経済産業省主導の国家プロジェクトは失敗するという根拠のない批判が多い。
しかしこうしてまとめてみるとどうだろうか?
膨大な数の実績が経済産業省には積み重なっている。
少しは信じてあげよう(完)
( ^ω^ )
「おい、おまえたちはパンはたべるのか。」
https://www.comoshop.jp/biz/about/
『「パネトーネ種」は、イタリア北部のコモ湖周辺に生息する自然酵母菌です。現地では、古くからパン作りの中で受け継がれている伝統的な酵母です。
コモはここで育った「パネトーネ種」を大切に日本に持ち帰り、イタリア人技術者による指導を受け、日本で初めてパネトーネ種の維持管理と伝統的な製法によるパン作りに成功しました。
この酵母が多くの酵母と違うのは、乳酸菌と酵母が共生している複合体であることです。コモのパンが持つなめらかな口どけや、豊かな風味、そしてロングライフという長期保存性は、この菌の性質によって可能になっています。パネトーネ種にこだわるからこそ、どんな方にも安心して楽しんでいただける、それがコモのロングライフパンです。』
IT業界は"民主化"という言葉を使うし、その定義は一般とはたしかに異なる。しかし、ここでの民主化とは、ツールへのアクセスが容易になることを指す。
たとえば、生成AIにおいては、以前はモデルが提供されていたものが、ChatGPTなどの対話型フロントエンドが利用可能になり、誰もがGPTモデルを使えるようになることを言う。
重要なのは、アクセス容易性を民主化と呼んでいるのあり、ツールから得られる利益の平等な分配を目指しているわけではない。
むしろ、アクセスの容易性は競争を刺激することが目的で利用されることが多い。利用には才能は必須である。
それを理解していれば、"才能の民主化"という謎のキーワードを使うわけがない。
勘違いを招く原因の一つは、オープンソースソフトウェアに見られるゆるふわ共産圏の考え方である。ただし、OSSの成功は、ソフトウェアがデジタルデータであり複製が容易であるという資源問題の解決によってもたらされている。
資源の平準化によって成立しただけであり、資産の平準化など目的とはしていないのである。ましてや、開発者の権利が消えてるわけではなく、むしろ厳重に尊重するのがオープンソースの考え方である。
既得権益扱いして権利や資産の解放の道具に使おうなどという頭の悪い奴がなぜ推進サイドという技術者よりの世界に沸いてるか本当に謎である。
OSSなどは雑草のように草むらから勝手に生えてくることなどないのである。開発者やメンテナの彼らの多大な努力の上にかろうじて存在しいてる砂上の城だ。
全体への貢献度と個人の努力を天秤にしてたまたま収まっている歪な関係でしかない。個人を蔑ろにしてよいどころか個人への貢献への還元はむしろ大きな課題なのである。
絵師の立場とOSSの開発者は似ている部分がある。彼らの貢献によって応用的効果を私達が受けている。ただし、開発者が自らその立場を選んでるいるのに対して、絵師は選択肢も与えられてないというのは、やはり不自然な流れなのは当然なのだ。
元の怪文章から感じる最大の違和感は、技術推進をしているサイドでありながら、IT技術が20年もかけた課題に対して一切の無頓着であり、IT技術者としてもお気持ち表明したくなるところにある。
また、さらに推進派の言う既存の法律で十分主張も馬鹿らしい。情報処理の基本リテラシーに、容易性の課題がある。 複製性や伝播性などのそれである。
複製容易で言えば、紙に描く絵を真似るための努力と、コピーペーストによって複製するそして公開されるというのは全く別なのである。
個別の複製そのものは既存の法律で容易に解決できるものである。しかし、デジタルによる複製容易を持つとそれまでは難しかった問題が解決することで様々な副次的な効果が重なり応用的な問題が発生するのが当たり前なのである。
AIは複製容易とは言い切れないが類似の何からの容易性を獲得しているのである。だからこそ、メリットも大きわけでしょう。定義さえ難しい新たな容易性の可能性による応用的な状況なんて普通慎重になるのが当たり前。
情報処理の単位一つでもあったら確実にやる超基本の基本で、この程度が抜け抜けで、"議論"など言ってるのが非常に怖い。
もし君らが、技術を推進しIT技術者を名乗るなら、やるべきことは話し合いではない。
なにが起きているのか何が既存とは異なるのか。それがどのような応用的作用を産んでいるのか、それが逆にどんな応用的問題を産んでいるのか。
注意深く観察することことそが、議論の最初である。ましてや、誰かの発言を叩き潰すただの嫌がらせや暴挙を議論議論と呼んでる場合じゃない。
あらゆる日本の通信事業者の技術者は個人情報にアクセスしてるけど?
情報ってどこかのサーバーとかデータセンターに物理的に存在してるんだから管理してる人間は必ずいるんだよね
どういう意味?
個人情報を韓国などの外国政府が盗み見ているし、政治的に利用される可能性があるので、まあ情弱だけだね、LINE使ってるのは。
80年代生まれのおっさんだけれど、恋人同士で送りあう定番なんてものはなかったと思う。
さらに上のバブル世代だとブランド装飾品なんかがいい感じのプレゼントだったんだろうか。
あるいは、ブランド装飾品はいつでもいい感じのプレゼントなんだけれど、自分も相手もそういうのに興味がなかっただけなのか。
同じく、安かろう悪かろうだったけれど、時々ハッピーセットのおまけがいい感じのだったりしたので、そういうときだけ買ってた。
ユニクロも一段落ちるレベルというイメージだったけれど、品ぞろえ豊富だからそれはよかった。
Appleはマニア向けブランドみたいな感じだったのがスティーブジョブズが帰ってきて、iMac出したあたりからおしゃれブランド認識され始めたという印象。
携帯音楽プレーヤーなんてiPodよりも安くて軽くて電池の持ちも音質もいいものなんてあの時代普通にあったけれど、すでにステータスだったから買われていたと思う。
OSもMacOSからDarwinに変わったところで潮目が変わり始めたというイメージ。単なるおしゃれブランドではなく、ハイセンスな人から技術者まで使える端末になった。
iPhoneを取り扱えるように携帯キャリア間でし烈な争いがあって、Softbankしか当初取り扱ってなかったというのもブランド戦略には寄与したと思う。
中身大して変わらないと思うんだけれど、Androidは格下みたいな感じだったよね。
キャラクタービジネスも別に昔からそう変わらないと思う。むしろ、お高く留まっているものから市中で手に入るものに変わってきていると思う。
キャラクターグッズはかつては専門店でしか見かけなかったのが、西松屋、しまむら、100均とかでも見るので、暴露率はすごく上がったなとは思ってる。
かつての若者はハイソなブランドで身を包むことでステータスを感じていたけれど、
今の若者はどこでも出会えるブランドで身を包んで安心感や快適さを得ているって感じなのかな。
経済がしぼんできたということかもしれないし、そこそこの生活でそこそこ楽しく生きられるようになったともいえるかもしれないし。