はてなキーワード: 所与とは
ボキャブラリーの多さは言葉の知識の多さの尺度にしかならないよ。
例えば極めて多くのことを感覚でのみ理解・記憶している人がいたとして、その人の言語的な知識が少なかったとしたら100種類の綺麗を1つの表し方しかできないが、一方でこのひとは100通りちゃんと区別して認識できている。
そして、知性ということばは
1 物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。「知性にあふれる話」「知性豊かな人物」
2 比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力。
のように定義されているので、”物事を知り、考え、判断”した内容を表現できなかったとしても、それは知性が(少)ないことにはならない。
なんかおもったよりもいっぱい読んでもらえてありがとうございます。
こんなに星貰ったの初めてなのでお前ら愛してる。というのを話の枕にしつつ、コメント読んでもなんだか方向性が錯綜しまくっているので(それはもちろんむしゃくしゃしてわかりにくい文章を書いたこちらに責任がある)、話を整理する意味で、もう一度同じことを書き直すよ。
1)子育てにかかるお金を見積もり、『だから』子供を産めないのだ、という言論に違和感をおぼえる。
2)見積もった金額は『常識』を強調している。『常識的に』これくらい金額がかかる。『世間並みは』としてこういう教育やライフスタイルが必要だ、という発想。そしてそれは不可避であると主張する。
2b)また日本の現在を憂うという態度で「この国ではいまそうなんだから理解しろ」「それぞれの家庭において合理的判断をすれば子供は無理だとわかる」などという形で2の追認、補強が行われる。
3)しかし、世間にはその金額を下回る教育投資環境に家庭は存在する。2の主張は、そういった環境の家への無意識な抑圧として機能していないだろうか? また結果として2の主張する金額を満たせない全ての家庭に対する攻撃として機能していないだろうか?
4)2の主張をする人は、自らの判断を守るために(というか判断が正しかったという自意識を守るため)、その判断に従わない人たち(すなわち、2の判断よりも低所得であるにも関わらず子供を生むという判断をしたひとたち)を「子供に対する虐待である」と叩くような主張を行うことがある。
4b)テレビにおける「子沢山家族」系のコンテンツに対する嘲笑混じりのスタイルも精神的には4の系譜だと思える。
5)2の主張における『常識』『世間並みは』という感覚は、いまの日本の文化を前提にしている(たとえば、大学まで行かせるのは常識だろ、など)。しかし、その『いまの日本の文化』そのものは、全く所与ではない。意識的にせよ無意識的にせよ、日本人がそういう判断をしていまのような文化を作っただけであって、他の文化であってはいけない理由は特にない。たとえば大学を高度化しつつ卒業を難しくする、大学を諦めて就労訓練を志せるような機関を設ける、といった文化や制度づくりは可能だし、そういう国もある。いずれにせよ、いまこの瞬間の日本の文化や価値観というのは、精々が前後10年程度のもので永続していたわけではないという点について留意するべきだ。
6)5における日本の文化というのはなにも上から与えられたものではなく、常識ですらなく風潮で、その風潮を作った責任は、議論に参加している人々すべて(=この場合世間に参加、つまり国民すべて)にある。
7)6を前置すれば、いまの日本の文化を無批判に全肯定した上で『常識』『世間並みは』と言い放つことによって3のようなプレッシャーを外部に振りまくのは、非情に無責任かつ無思慮な態度ではないか? そういう文化を作った上で、文化からそれる人間を叩くのは魔女狩り的態度なのでは?
8)もちろん個人あるいは各家庭が自分の事情(例えば経済的なこと)を考慮して子供を作る作らないというのは全く自由である。その自由は最大限保護されるべきだ。
9)しかし、その自由、つまり「各々の判断で子供を作るか作らないか自由に決める」ということと、「今の日本の状況で子供を作らないのは合理的なのだ、俺達は間違っていないと周囲に喧伝して回る事によって、その方向に文化を醸成する」というのは、全く違うことだ【この部分が記事の中心論旨】。
9b)自分の判断(この場合、経済的な事情で子供を産まないなんて当たり前だ、という態度)を自己弁護するために、このような主張(2b)を無意識にするのだと思うが、結局下流叩きエンタテイメント(4b)と合流している状況に見て取れる。
9c)こうして説明しても「だからといって俺たち個人にはなにも出来ない。だから子供を産まない。それは間違ってない!」というコメントがあふれると思うけれど、「そういう判断をする」というのと「その判断をコメント(周知)すること」は違う、というのがこの記事の内容だ。つまり、件のブログ記事というのは、「こんだけお金がかかるので私は産まない!(という自己弁護)」あるいは「こんだけお金がかかるのに私は産む!(という自虐風自慢)」のどちらかなのではないのか? というか、そうとしかあれないのではないか?
10)もちろん少子化の背景として、先進国の宿痾的な問題や、経済的な問題は事実としてあるだろうけれど、それ以上にみんなが「子供を作って育てるハードルをどんどん上げる監視社会」をつくってるのじゃないのか? 「完璧な母親でないと失格である」というような幻想に苛まれてノイローゼになる女性と一緒で、自分たちで自分たち自身の社会を追い詰めてるんじゃないのか?
11)――という状況を圧縮して「違和感がある」と前回の記事を書きました。対比すれば今回のは整理されてるけれどおおよそ同じ論旨なのがわかると思います。昼ごはんは牛丼でした。
100%悪くないとは言わないが、この件に関してZ君はA君を酷い振り方をした、以上のものではないと僕は考える。
ただ、こっぴどく振られたあとフォローする人がいなかったことが問題ではないだろうか。
記事はA君はZ君と顔を合わせられなくなったという書き方をしており、
アウティングによって他の人にゲイであることがバレたことよりも、
Z君が友人のいるLINEグループでアウティングしたことにショックを受けている。
かと言ってZ君を責める気に僕はなれない。
好きでない相手から好意を抱かれることを不快に感じることは少なからずあり、
友人にその恋愛話をネタとして話すことで自己防衛するというのはよく聞く話である。
そのような話を他の人に黙っているかどうかは本人の判断に委ねられるものだ。
気持ちを伝えるのは自由だが、その後のことも考えなければいけない。
A君はZ君という人物のことを見誤っていた。
LINEグループで軽率にアウティングしてしまうような人物であることを友達付き合いの中で見極めなければならなかった。
A君がZ君という黙ってられないマンのことを好きになってしまった以上、仕方のないことであるように感じる。
ヘテロセクシャルの恋愛においては、こっぴどく振られた多くの場合において、同性の友人が慰めてくれる。
しかし、本件の場合、本来慰めてくれる立場にある友人がZ君同様、一歩引いてしまったように見受けられる。
友人には柔軟な対応をお願いしたいところではあるが、慣れていない以上仕方ないこととも言える。
そんなとき、本来頼りになるべき存在である大学のハラスメント対応室が、あまりに酷い対応をしている。
個人的に本件で責められるべきはここに尽きると考えている。
マイノリティに適切な対応がとれなくて何がハラスメント対応室か。
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「大学の対応をみていると、まるでAくんが『同性愛者であることを気に病んで』自殺したかのようです。
しかし、Aくんは、自分が同性愛者だということは受け入れていました。
同性愛を秘密にしていたのは、同性愛者への差別・偏見がある社会を冷静に見つめていたからです」
「Aくんは、『男が男を好きになるのがおかしいんだからしかたない』といわんばかりの対応に、苦しめられていたのです」
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今回の問題で、はてブにおいてZ君の対応がきつく叩かれている。しかし、ネット総動員で彼を叩くのは本当に正しいのだろうか。
少なくとも僕は彼を責める気にはなれない。
横だが。
たぶん「言論の自由」の法的位置づけを誤解している。
同じ「自由」という言葉で括られるので誤解されがちだが、「言論の自由」というのは「生命・財産の自由」みたいな「所与・無条件の権利」と法的位置づけが違う。
日本の法体系で「言論の自由」が保証されているのは「公権力の規制からの」言論の自由のみ。
乱暴に言えば「私人の言論では脅迫や名誉毀損といった犯罪行為でなければ、統制も弾圧も好きにやれ」というのが法的スタンス。
確かに一般的/実態的には(それこそ報道機関が「社会の公器」を自認wするように)影響力の大きな企業団体は公的性格をおびてる訳だが、
法的位置づけでは企業はあくまで私。「言論の自由に手出しするな」と定められた公権力じゃ無い。
現行法体系の「言論の自由」が、法的位置づけ上の「公私」のみを前提として定められているがゆえに実態と乖離していて上手く機能していないんじゃないか、
という問題意識なら真っ当だと思うが。
なるほど、大体納得したぜ。
で、増田はなんで「性差」と「ジェンダーバイアス」を区別したいの?差別問題を考えるときでも、「性差」を基準に差別するのも「ジェンダーバイアス」を基準に差別するのもどっちにしろ駄目なんだから、「性差」と「ジェンダーバイアス」を区別する実益は薄いよ。
社会や集団への性別の影響(あなたの言う通り本来性差とジェンダーバイアス含めてだね)とか、性別による行動の傾向を取りあげて、それに対する適切な対策みたいなのを考える……
というのを、自分でもやるし他の人がやってるのも見る。
「男性が嫌う女の子の仕草は?」とか「女にはマカロン食わせとけ」式のクソみたいな話から、
「このジャンルは女性人気が高いが、その理由は女性は○○したがるからではないか。××要素をつければ更に人気が出るだろう」みたいなのも。
でも大体どんなのにも「男性/女性が○○したがるというのはジェンダーバイアスにすぎない」っていうツッコミがきて、
それは大抵「ジェンダーバイアスはただの偏見だから○○したがるなんて傾向はない。この分析は無意味」だとか、それか
「○○したがるという傾向はジェンダーバイアスだからその存在をなくすべき、そんなものに基づいて対策を考えるのはよくない」などと続く。
んで、ネットではそっから性差別云々に議論が脱線していくし、俺もそっちに意識が向いちゃう。
このパターンを見すぎたので、何とかここから抜けて、本筋の社会や集団の効率的な扱い方についての話を回す方法が欲しいなと思ったの。
つまり、「ジェンダーバイアスだからそんな影響は存在しない」「ジェンダーバイアスの影響を所与として考えるのはよくない」で話が止められるのを回避したいわけだが、
俺が考えた解決策が「じゃあバイアスじゃなくてちゃんと性差と言えるものに基づけばいいのだな」だったから、性差とジェンダーバイアスを区別したかった。
そっから更に思考を回したら、「社会や集団を論じる対象にする時は何に基づけば差別でなく、何に基づけば差別なのか」辺りでグルグルすることになって、
「差別問題について考える時つっかかる」という、元々欲していた「集団の扱い方をスムーズに論じる方法が欲しい」からずれた書き方をしてしまった。
だから、あなたの「社会や集団には元々の性差とジェンダーバイアスが混ざって影響を与えてる」というのはかなりハッとしました。
集団の行動を論じるにおいて、バイアスを除去した部分だけについて清く正しく語るのはほぼ不可能というわけだ。
踏まえて私の今の感想を書くと、
ジェンダーバイアスがよいものだとは思わないのだけど、それが集団の振舞いに影響を与えてるのであれば、
集団について即物的に論じるときにバイアスの要素を入れるなというのは話が進まなくなる、という感じ。
犯罪はよくないのだけれども、それが存在すべきでない要素だからって、
犯罪の存在を前提とした社会論を止めるのはよろしくないよね、というのに似てる。
もちろんこれは即物的な話に限るので、もうちょっと階層のあがった話をする場なら、
ジェンダーバイアスをなくすには、犯罪を減らすには、という議論をすべきだと思う。
あともしかしたら、ジェンダーバイアスについてのツッコミを入れる人たちは、
Yahoo!ニュース - 産経・FNN世論調査 解散、7割が「適切でない」 内閣支持率下落 (産経新聞)
首相が衆院の解散を決断したことについては「適切だと思わない」が72・2%に達し、「適切だと思う」の22・8%を大幅に上回った。首相が解散の理由に関し、消費税の10%への引き上げ先送りを挙げ、「重い決断をする以上に速やかに国民に信を問うべき」としたことについては、「納得できない」が71・7%を占めた。(中略) 首相が消費税の引き上げを先送りする考えを表明したことに対しては「評価する」が60・6%で、「評価しない」の34・7%を大きく上回った。
(強調引用者)
強い参議院だとか選挙サイクルの短さがもたらしうる選挙制度を問題視されていますが、
今般の衆院解散総選挙でも分かるように、おかしな歪みを政治に引き起こしてる要因として政官関係も大事でしょう。
そりゃあなた、議会選挙いうたら政党同士が政権を目指して競争し、
それを本人としての有権者が、代理人である代議士だとか政権政党を選択するのが本筋じゃありませんか。
ところがどっこい、いま繰り広げられているのはそんな政党同士の争い事じゃないでしょうに。
何が悲しくて、首相官邸VS財務省という構図を選挙でやり合わなきゃならんのですか。
もし現在の議席状況において、消費増税の先送りという議題で与野党で分かれていたとしても解散する必要はないですよ。
それが解散に至ってしまうのは、財務省が自民党はおろか首相の周辺にまで切り崩しにかかっているからですよ。
財政をめぐる政官関係を議会選挙に持ち込まざるを得ない状況というのは、
議会制民主主義の理念に照らしてみてどうなのかということなのですよ。
民意という正統性を動員すべく解散権という政治資源を使わざるを得なかったわけですが、
そこまで首相を追い込む政官関係ってどうなんだ? ってことを問いたいわけですよ。
ちなみにこれ、別に安倍首相固有の問題ではなく、財務省と政策選好を異にする政党すべてにとって重要な問題ですよ。
この政官関係を所与にして、解散した首相けしからんいうのはお門違いというものでしょう。
例えば、政治の肝いりで市民に損失くらわすような政策が、官僚によって抑制ないし修正されるのは望ましいこっです。
もちろんその逆もまた然りです。
でも、そういう決定過程に議会選挙を巻き込むのはどうなのかと。