はてなキーワード: 戦場とは
「プリコネコラボはあくまでコラボで本編じゃね―だろ!本編でずっと空中戦なんてしてたらアイマスじゃねーんだよ!」
「ゼノグラシアはアイマスのキャラを使ってるだけでアイマスとしては亜流だろうが!つうか宇宙やロボを出したらマクロスと被ってどっちも損するんだよ!」
安全確保、ヨシ!
さて、話の続きをしようか。
そもそもアイマスらしさって何かというと、「そこまで現実離れしてない範囲でアイドルをプロデュースする」っていうことだと思うんだよ。
たとえばこれが「突然アイドル星人が侵略してきたので、1999年12月31日の最終決戦までに宇宙最強のアイドルを作って銀河ヒットチャートにランクインしなければいけない!」とかだとそれはもうアイマスにはならないわけよね。
諸星きらりぐらいデカイ女性は普通にいるし、双葉杏ぐらい小さい子もいる(ターナ―症候群認定でホルモン打たれるんじゃね―かな?とかは考えるなよ)、やたら成熟した子供だって、全く子供すぎる大人だって、二重人格も実在するし飛び級してるアイドルだっているはずだ。
アイマスらしさという枠の中でやれることをやり尽くしていった先に残っていたのが「学園」ぐらいだったんだと思うわけよ。
だからさ、なんで「学園アイドルマスター?」って質問は自分で何も考えてないだけの人間がする愚問で。
そもそもアイマスで残っているフィールドがそこぐらいですよって話でしかないと思うわけ。
もしも疑問に思うことがあるとすれば「9人いてロリ枠0巨人枠0爆乳枠0ネタキャラ0はなんか逆にバランス悪くないですか?アニメでこれやったら現実で言えばAKB48ばりの誤差しかないことになりますよマジで」だと思うわけよね。
ネットバトル用語の「ファンネルを飛ばす」は、犬笛を吹く、信者をけしかける、の意味で使われているけど
常に勝手に飛び回っている僚機または味方機、あるいは敵の敵は味方程度の他人を好き勝手飛ばせない
意図しなくても攻撃始めるし、やってほしいと思っても攻撃してくれるとは限らないし
撃ち方止めと言おうとも止まらないし、といって形勢が変われば一瞬で去ってしまう他人はファンネルとは言えない
・1対多の数的優位を戦場で構築できること
大物ネットバトラーの一言で有象無象の小物が群がるという構図で、影響力の大小比較で言えば本体-ファンネル的構図が無くもない
さまざまな教訓をゲーマーに示しているが、その教えは現代では通用しなくなってきている。
最も有名な高橋名人の言葉は「ゲームは1日1時間」だが、eスポーツとゲーム実況が全盛のいま、もはや時代遅れとなっている。
1日8時間の練習が当然のように求められるし、アマチュアの時から常軌を逸した長時間ゲームを自発的にやってきたからプロになれる。
ゲーム実況を生業にする配信者(ストリーマー・VTuber)も同じだ。
ゲーム実況の主戦場であるTwitchでは、2時間以上の長時間配信が必須と言っていい。
人気配信者を見てるとわかるが、夜7時からのイベントで5時間ゲームした後、二次会で翌朝の7時までゲームするような鉄人だらけだ。
プロゲーマーにしろ配信者にしろ、成功するには長時間のゲームプレイに耐えられる「ゲーム体力」が大事。
ゲームのプレーを生業にする職業は爆発的に増えたし、それを目指す若者も増えている。
ゲーマーの規範となるように言葉遣いはクリーンにせよと高橋名人は言った。
ゲーマーの間で自然に使われている「人権」や「戦犯」などのスラング、そういう強い言葉の使い方に気をつけろ、と。
その提言に対しネットでは「プロゲーマーは高橋名人を見習ってほしい」と称賛されていた。
結局ゲーム実況で求められるのはオーバーなリアクション、仲間内で通じるスラング、強いセンシティブな言葉だからだ。
視聴者が配信者に求めるのは感情の爆発、豊かな喜怒哀楽で、それらを表現するのに言葉は過激化する。
誇張した表現は刺激の強い調味料のようなもので、若い世代が多い配信の世界では調味料ドバドバの実況が好まれる。
「品行方正で言葉遣いが綺麗なゲーム配信」というのは、いわばヘルシーなジャンクフードのようなもの。
外野はそれが理想だとほめそやすが、現場の客はそれを口にしない。
俺はLoLが好きだ。
だが、その界隈に通じている人間は苦手だ。
ゲーム内外問わず暴言は当たり前のように飛び交うし、常に問題が起きている。
色々なゲームの界隈を見て回ったが、全体的なプレイヤーの素行はよくないように思える。
TwitchのソロQ配信を見ていると暴言や味方批判は息をするように飛び出し、コメントもそれに賛同するものが多い。
何十人、何百人、何千人と見ている場であろうとも「これが普通ですよ」といった感じだ。
もちろん暴言を吐かず楽しくゲームをしているプレイヤーも存在するが、非常に残念なことにそういったプレイヤーは少数派である。
対戦ゲームである以上、血の気の多いことは結構である。負けん気の強いプレイヤーが伸びやすいのは事実であろう。
しかし、それを一片も隠すことなくネット配信で全世界に発信しているというのが本当に恐ろしい。
多少はオブラートに包んだり我慢したりといった、配慮というものが一切感じられない。
野良のプレイヤーに向かって「はーこれだからこの日本サーバーのバカはよー」とか「チームゲーム知らねえのかよ」
といった同じゲームをプレイしている人間へのリスペクトの欠片もない発言が飛び出す。
この「日本サーバー」や「チームゲームを知らない」などは上位プレイヤー配信内での頻出単語の一部だ。
そのうちの「チームゲーム」について知らないことについて少し言いたい。
「当たり前だろ」と。
まず、LoLというゲームは5vs5のチームゲームとしてデザインされてはいるが、実際に高いレベルで5vs5のチームゲームとしてのLoLを何度も経験したプレイヤーはどれだけいるだろうか。
League of Legendsというゲームのコミュニティ大会というものは非常に少ない。
LoL自体の知名度や機材の確保、大会のノウハウを持つ者の少なさ、ガチガチの規約などなどで、開くのも一苦労だからだ。
大会が少ないということは、一般プレイヤーの目標はそういった大会での優勝ではなく、ソロQのランクマッチにほぼ集約される。
フレックスランクやClashというものもあるが、日本では活気があるとは言えない状況であろう。
つまり、LoLプレイヤーのほとんどはソロQが主戦場であり、ガチガチのチームゲームとは無縁のゲームプレイをしているのだ。
俺は日本のプロや元プロが「日本では多少通用するが世界では全く通用しない程度の知識やプレイング」を「そういった知識を得る機会がなかっただけの人を馬鹿にするため」に使っているというのが本当に見るに堪えない。
すまんな
ただ、現在の遊戯王は紙を買うほどの価値がほとんどないのは事実で、その隙間をいい感じに新規ゲームが掬い取ったのが今の形だと思う
市場としては今も遊戯王とかは活発だけど、では紙が売れているかというとそうでもない
ここ最近の過去テーマの復権や再録を見れば新規層が全然入ってこないことが容易に想像できる
カード屋みればわかるけど、10年くらい前の遊戯王のほうがもっと品揃え豊富だった
デジタルが元気ってのはそれ以外がよくないってことでもある
むしろデジタルの戦場は紙のTCGとは明確に違っていて、遊ぶきっかけも理由もプレイヤー層も違う
そして、デジタルがよくなればなるほど相対的に紙で遊ぶことの不自由さや面倒くささが勝つ
あんなに1ターンに何回もシャッフルしてるのを実際のテーブルトップでやるとか正気じゃない
よほど鍛錬を積んだ人しかやりたがらない
俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念マシマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人、三橋鷹女の句を紹介したい。
あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方に燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中と出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?
たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台は京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりきれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいだから、この樹に登ったら全身火に包まれてしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ。紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれて鬼女になる」というその妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然・風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化も定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。
これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。
ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。
和服の着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程の総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。
「死ぬにはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為も何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダーの内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識を自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念の世界だと思う。
どうだろう、こういった情念・個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。
そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句の王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性と情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌と俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、だから俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。
P.A.WORKSのお仕事シリーズというものをはじめて知ったのは「白い砂のアクアトープ」だった。
あれから三年目になるいま、お仕事シリーズをぶっ通しで観ている。ストーリーに引き込まれて時間を忘れる。好みの問題かもしれないが、わたしはこういうストーリーが大好きなのだろう。
「花咲くいろは」は最初はとびとびだったが途中から止まらなくなり最終話まで一気に観てしまった。喜翠荘再建のものがたりもアニメになればと思っている。
「SHIROBAKO」はおもしろすぎて残話数がへってゆくのがもったいなくなり20話あたりで一旦ストップしている。
「サクラクエスト」も山場を迎えそうなところでいったん中断し、全然関係ない本を読み始めた。
「サラエボ1992-1995 ぼくたちは戦場で育った」「NOMAD CENTURY」まあどちらも私のお仕事に関連する本ではある。
軽く消費できない本をよみながらP.A.WORKSの作品について考えている。ボスニア紛争や気候変動とくらべればP.A.WORKSの作品は軽く消費できるように見える。だがそれがいったいなんだと言うのか。引き込まれ、楽しみ、元気をもらう。そんなストーリーがひとつもない世界など想像したくもない。
あとなぜか主人公たちがとにかくみんなミニスカやショートパンツで脚を見せている。一部やりすぎを感じる。厨房の服装が民子みたいな格好でいいわけがないし緑川真希のホットパンツは股下がなさすぎる。スタッフが脚フェチというよりはP.A.WORKS全体が脚フェチなのだろうか。まあ私も脚フェチだからいいんだけども。駒田蒸留所へようこそはまだ観ていない。これもまたきれいな脚が観れるのだろうか。