はてなキーワード: 成仏とは
ここに書いて成仏させたい
俺が降りようとしてるでしょうが!!前見ろ!!
こちらは降りるしか選択肢がないので乗り込んでくる奴と必ずぶつかりそうになるのが嫌
かといって降りずにそいつが乗るのを待つ?それも癪
ドアの前の奴が俺に気づいてなさそうな時は、大げさに揺れたりして存在感をアピールしたりするが、それでも気付かない奴もいるから本当にクソ
お前チャリ降りろ
集団の間をガキどもが急に走って行き来したりする
予測不能のクソ、親同士で談笑してないで手でもハーネスでも繋いどけ
道関連ばっかりになってしもうた
その宗教の中でも格の高い役職に属していた母方の祖母は、俺の母にも幼少期から教えを説いたが、曰くその頃は特に信仰が厚い訳では無かったらしい。
寧ろ貧乏な家なのに樒や仏壇なんて買うのは、と口には出さないまでも思っていた時期が大半で、高校を卒業後はすぐ働き、各所に旅行に行くのが趣味だったそう。
そんな中、同じ会社に属していた父と結婚をし、一人目を授かったが、妊娠が半年を迎えようとしていた頃に胎動が消失してしまい、この世に生を受ける事は無かった。
二、三年後に時を経て二人目を授かり、無事出産に成功した、それが俺。
俺は産まれながらにして酷い皮膚炎だった。
当時専業主婦だった母は色んな病院に通っていたが治る事は無く、万策尽きたかと思った所に、ふと実家の宗教を思い出した。
小さな仏壇を購入し、毎日100回、みたいなノルマを設定して祈っていたそう。
すると俺の皮膚炎は、奇跡の様に治って行った。
俺が物心付く頃には、周囲の人間は子供も大人も母と信仰を同じくする人達ばかりだった。
誤解されがちなのだが、こういう集まりは普段からずっと信仰の話をしている訳ではない。
寧ろ世間話がメインで、そういう話が出てくるのはお悩み相談みたいな雰囲気になった時のオチとして「祈りつつ頑張りましょう」の一言程度。
感受性が嫌に高い子供だったから、蝉の死体を見て自分も死ぬの怖いな、と泣きながら集まった日の集まり、ふと気になって「死んだらどうなるの?」と、老婆に聞いた。
曰く、「死んだら死後の世界で成仏して、また魂がもっと幸せになって、現世に戻ってくるんだよ」と答えてもらった。
その時はなんだか、死んでも良いんだ、という気持ちになった。
小学校に進学した後、10人で町内鬼ごっこをしようという話になった。
俺が鬼になり、運動神経は良かったので、5分もしない内に捕まえたのだが、捕まえた相手が鬼ちゃうし!と言って俺の顔面を殴って、逃げ去って行った。
自身の事を全肯定してくれるコミュニティに身を置いていた俺が味わった、初めての理不尽のあの感覚は、今でも忘れられない。
幼いながら、今すぐ消えたいと思った。
不思議と涙も出ずに家に帰り、ぐちゃぐちゃの気持ちのまま台所下にある包丁を取り出して、怖がりながら自分の腹に刺した。
刺し所も強さも死ぬには足りる訳もなく、垂れる血をしばらく眺めていた。なんだかすごい事をしてしまったな、という気持ちになった。
何故包丁を取ったのかという経緯を話せと言われて、鬼ごっこで鬼を変わってくれなかったから、と答えた。
生まれて初めて、物凄い剣幕で怒られ、頬を殴られたのを覚えている。
誰も自分の事を分かってくれないんだという絶望感でいっぱいで、何も言い返せなかった。
ここで違うと言えなかった事が、俺の人生の分水嶺だった様に思う。
今となっては知る由もないが、あの時母親の目には、俺は殺人鬼予備軍にでも映っていたのだろうか。
中学生になる頃には、父親のパソコンでネットを見るのが趣味になっていた。
当時のインターネットの、分からない言葉で喋る、色んな価値観の人の話を見るのが好奇心旺盛な俺にはぴったりだった。
そんな折に自分の宗教を調べると、カルトという言葉が目に付くようになった。
その頃はその宗教内の地域代表みたいな扱いを受け、遠征なんかもしていたが、宗教の家系だといじめられていたのも相まって、そんな扱いや環境に疑心が芽生え始めるのに、そう時間は掛からなかった。
高校生の頃には、反抗期も相まって集まりには行かなくなっていった。
その頃には自分には妹が居て、妹が俺の代わりに宗教面の家の顔になっていた。
部屋に入って来る母親から「産まれなきゃ良かった」と呟く声がよく聞こえてきた。
じゃあ俺じゃなくて、俺の兄貴が産まれてれば良かったのか?と、内省的な俺の中でずっとリフレインしていた。
どんどん不眠気味になり、朝無理矢理身体を起こして図書館かゲーセンに行って寝る生活をしていた。高校にはあまり行かなかった。
学校に行ってない事がバレて、話し合いをするという事になった。
全てが面倒臭くなって、死のうと思った。
海が好きだったので、海で死のうと思い歩いて行ったが、途中で海を見に来たのであろう人に止められ、ズブ濡れのまま家に帰った。
色んなものがフラッシュバックして辛くなって、人生で初めての野宿を決意し、浜辺にあるベンチで寝た。
これがホームレスか、とか、クソ寒いし起きたら死んでてくれねえかなとか思っていたのをよく覚えている。
途中で色んな人と同居したりはしていたが、本当の意味での一人暮らしは初めてだ。
最初はこんな俺でも、一人で暮らせるのだ、やっとあの呪縛から解き放たれたのだと感じた。
けれど実際は日に日に昔抱いていた希死念慮が強まっていく。
言った所で何が変わる訳では無いし、これから先もやっていくなら付き合っていかなきゃいけない感情なのだけれど、俺はその割り切りや、言語化や、付き合い方みたいな物を、少し特殊な生い立ちや環境を言い訳に見ない様にして来たのだと思う。
漫然とした生き辛さみたいなものは、こんな文章を書いた程度でどうにかなるものじゃないと思ってはいるが、いつかなんとかなるといいなあ。
最近は少し気が落ちていた事もあって、内省的な性格が災いして凄く辛くなっていた…ので、今一度振り返る意味を込めてこんな文章を書いてしまった。
それをふと他人に見てほしくなって、色んな反応を貰えて嬉しい、改めてありがとう。
せっかくなので、貰った言及に少し返答をしてみたいと思う。
>家庭環境の割りにはまともそうに見える
昔から凄く(今も)自分がどこかマイナスであるという自覚が凄くて、普通とか、まともとか、そういう人になりたい気持ちが強いので、その言葉が凄く嬉しい。
今もその訓練中だし、それが少し報われた気もする。ありがとう。
>宗教が嫌なら宗教にハマってなさそうなお父さんに助けを求めれば良さそうだけど、お父さんじゃ埋められない何かがあるんだろうか。 お父さんがお父さんとして機能していないから、...
父親は宗教に無関心だったし、キレると手が付けられない人だったし、人として尊敬はしているけど、俺が人間としてそこまで得意ではないタイプの人なので、避けて来たのがある。
加えて父親も幼少期に凄く苦労していた事もあって、子に対してもパートナーに対しても、自分の金でなんでもやっていいよ的な放任主義だった為、助けを求めるという事へのアンサーは、「考えた事もなかった。」
>・宗教3世であることは要素として関係ないこと。ただの親と子の関係の話(=幼少期のストレスとかの話)
これに関しては、もう時効だから言うが幼少期にあった、町内にある自分達とは異教の人達の家を無理矢理引っ越させるよう仕向けるとか、選挙カーをチェイスしてずっと横で爆音の曲を流して音を相殺するとか、イベントの為に男の俺が一ヶ月間ヒールで生活した話とか、色々あって、幼少期の可処分時間がほぼそういうイベント尽くしだったというのもあるんだが、今回は省略させて貰った。
>・冒頭のほとんどを占めるエピソードは伝聞であり、親の態度を考えるに、かなり美化または歪曲している可能性が高いこと(みるみるなおったくだりなど)。
実際俺もその可能性は考えたが、周囲の誰に聞いても(父親に聞いても)その通りだったので、多少の脚色はあるかもしれないが、概ね事実に即していると思う。
タイミングが良かっただけで神の恵みとありがたがれるのだから、良いなあと思う。
>・要するに育った環境ではなく、親の性格の話をしているように思われること
これは本当にそうだな、と感じた。
ずっと親の事を直視するのが怖かったから、宗教というフィルター越しで見ざるを得なかったのだと思う。
多分、それを自覚した今も、俺はフィルター越しにしか見れないと思う。
ありがとう、向き合えてるかは分からないけど、今日も仕事から帰って来て、自分でボロネーゼを作って、いつもより粉チーズを多めに振って、それを食べながらこの返信をしてるよ。
それだけの事が、今はただ嬉しい。
>あー、またひとのせいにしてるー
これは本当にその通りだ、我ながら本当に幼稚だなと思っている。
幼い自分にとって一番の味方だった人が産まれながら他者受容100%のコミュニティに入れてきて、現実がそうじゃないと知って全部ちゃぶ台をひっくり返されたあの瞬間にとても耐えられなかったから、全部宗教のせいにした。
これから先も、今の漠然とした俺の生き辛さ含めて、一生宗教のせいにし続けると思う、親のせいにするよりはよっぽど救われていると思うから。
自分のこういう宿痾みたいなものを、押し付けるよすがとして宗教を選択している時点で、俺も信奉者と大して変わらないのかもな
人間は役割を与えられたいものなのかも.というか自分のことを明示的に求めてくれる人が1人でもいれば,それは救いになる.
私は理解ある彼氏に救われた話を全部バカにしていた.ケッそんなぽっと出の彼氏の出現だけで救われる人はいいですね,それだけで救われるなんてそんな大したことなかったんじゃない?と意地悪なことも思っていた.
私は,頭は悪すぎず,それなりの学歴があり,両親も健在でそれなりの収入があり,お金をかけて育てられ,それなりの能力があり,世間からすればきっと恵まれている方だ.それにも関わらず,ずっと満たされなかった.17歳から慢性的に病み続けた.椎名林檎の曲が心の慰めで,精神科で椎名林檎のCDを配布するべき!と主張していた.絶対行ったほうがいいことは自覚していたが,世間体というか,自分を"精神科に通う人"と認めるのは大きなハードルだったため,結局精神科に初めて行ったのは21歳の時だった.どんなに色々なことを始めても,自分の思うまま活動しても,海外に行っても完全には満たされなかった.自分は丘サーファーなんじゃないか.それどころか,とりかえしがつかないくらい生活で実害がでたためでとうとう精神科に行った.
今までの話をしたら双極性障害と診断された.一年以上服薬したが,全く効果を感じなかった.いや,そもそも精神科医を信じていなかったのかもしれない.「つらくなったらすぐきてください」と日頃口をすっぱくして言われていたので,いざ死にそうになったときいったら,休診日だった.絶望した.またその次の日いって受診したら,ただ薬の量を2倍に増やされただけだった.絶望した.すぐきてくださいと言うくせに何もできないじゃん.そうやって世の中回ってるんだ.精神科ってどうせ,患者側が言うことコントロールすればどうとでも薬も病名も調節できちゃうじゃん.お薬サーバーじゃん.
そもそも自分に躁なんてなかった.ただ定期的にうつ状態になること,あと金遣い荒い時とアイデアが出まくる時がある,ということをもって双極性障害とつけられた.ただこの躁要素みたいな部分は,ただの個人的な気質であり,躁じゃない.わたしは破産するほどお金を使わないし,周りの人の声が入らなくなることもないし破滅的行動もとらない.
一番嫌われる自己診断(笑)によって名前をつけるならば,恐らく発達障害とその二次障害としての鬱だと思うが,今更躁鬱じゃなくてこれなんです!と主張するのも憚られたし,その病院では発達障害を扱っていなかったし,自分は薬の効果よりも副作用に意識がいってしまい,もうこれ以上薬を飲みたくなかった.結果的に自己判断で通院をやめ断薬して一年弱たった(一般的には明らかにこれはしない方がいいだろう).どうせ状態が変わらないなら,通わない方が,自分の力で生きている感じがして満足できた.しかしもちろん気分が落ちない訳もなく,元々自分を追い詰めやすい生き方もあり,苦しみは続いた.今だって続いている.ずっと精神的に健康な人はピンとこないかもしれないが,一度落ちた人間は,落ちるという選択肢が常につきまとう.それを選ばない,そちらに行かないというコストを常に払い続ける必要がある.(精神科を批判してしまったが,多くの人にとって精神科は効果があるだろうし,長く精神的不調が続いたら,どちらにせよ一度精神科に行くことは,生活を変えるきっかけになるので行くことを推奨する)
ずっと救われたいと思っていた.救われたいという感覚は現実逃避と精神の拠り所を求める気持ちの現れかもしれない.カウンセリングとかは別として,他人に自ら助けは求めないし,求められてもどうしようもないと思うから求める気もない.そもそも他人によって自分が本質的に救済されるってあり得ないと思っていた.確かに人が話を聞いてくれれば,一時的に楽にはなるけど,結局自分で問題を解決しなければいつまでも事態は好転しない.
助けてくれるなら神でもいいと思い,信仰という形で精神の安寧を得られる人を羨ましくも思ったが,自分は神からの救済を信じることはできなかった.
そんな中彼氏に出会った.5年ぶりに会った知り合いだった.別に,彼氏ができても,うつ状態になることはあるし,1人でずっと泣いてる時もある.寛解した,とまでは思わない.自分の精神に気を遣って生きてるから動けないってほどにはならないけど.ただ,ある時,私がいれば幸せと言われて,雷に打たれたような衝撃をうけた.わたしはずっと肯定されたかったのかも.自分をこの世に繋ぎ止めてくれる人が欲しかったのかも.いつも弱い弱いと思って辛くなって,勝手に孤独を感じて,助けを求めるのも苦手で,でもずっと認められたかった.自分が認めている人に.理解ある彼氏によって全てが解決される訳ではないけれど,私のなんとなく感じていた「救われたい意識」が成仏した気がした.
俺は日々内なるはてな民に取るだけ育休wとか苛まれて辛いので褒めて怨念を成仏させてくれ