はてなキーワード: 慰問とは
それともなんだ
311のとき北朝鮮は日本にやさしい言葉をかけたのに日本は恩を仇で返すンだな
北朝鮮:朝鮮赤十字会は14日、日本赤十字社の近衞忠煇社長に「貴国の東北部地方で発生した前例のない地震と津波により、多くの人命被害と物質的損失があったという不幸な便りに接し、朝鮮民主主義人民共和国赤十字会の名であなたと被害者、その家族に深い同情と慰問を伝える」とお見舞いの電文を送った。北朝鮮が東日本大震災について公式にコメント
25日には朝鮮総連の許宗萬責任副議長が日本赤十字社を訪れ、北朝鮮から送られた義援金10万ドルを近衞忠煇社長に手渡した。朝鮮中央通信は、北朝鮮が今回の震災の支援として金正日総書記名義で日本赤十字社に10万ドルを、在日同胞(在日朝鮮人)には50万ドルの義捐金を送ると報じている[54]。また、朝鮮総連は、被災した在日朝鮮人のために「総連中央緊急対策委員会」を設置、安否情報の収集や支援に乗り出している[55]。
五輪に反対する前提の論調のニュースや、意見表明は幾らでも見るのだけれど「五輪が開催可能なのか?」「やるとするなら、どうあるべきか?」って議論が為されないまま、粛々と運用方法だけが決まっているように思う。
五輪反対の人たちにとっては本意ではないのは当然だと思うが、賛成派にとっても議論が尽くされていない気がするのは不安だと思うんだが、どうなんだろう?
開催するとしたら、どんなふうに行われるのか?って情報に、国民はついていけているんだろうか?
五輪を開催してもいいのか?というテーマで考える時に着目すべきは、やはり感染拡大に繋がるのか?ということ
良く反対派が口にする「十数万人の外国人が移動して感染拡大させる」「東京五輪変異株が生まれる」という不安がある、それが事実であるならば五輪開催なんて言語道断なのだが、実際のところはそうはなりそうにない。
と言う感じなので、後の問題は、海外から観客を入れるかどうか?が焦点であったと思う。個人的には、これがどうなるかで賛否を決めようと考えていた。
だが、3月20日に迎えないと決めた後も、迎える事に決めたという報道もなく、むしろ外国人向けアプリの開発を縮小したなど観客を迎え入れない方向で修正が進んでいる。
となれば、重症化しやすい高齢者へのワクチン接種は7月に終わる見込みであるということなので、万一の際も医療をひっ迫させる要因は相当部分が消えたという事でもある。
現在の主力のワクチンのファイザーは、接種後の再発症率は1%未満とも、1年後のワクチンの有効率も97%ともいわれるので、海外の観客を受け入れるのであれば国民の60%くらいはワクチン接種済みであってほしいが
海外から観客を受け入れないのであれば、仮に選手2万人入ってきても陽性になる可能性があるのは200人以下だし、十分に隔離対応が可能だ。国内での感染拡大に対応した高齢者への接種推進で十分だろう。
国内の観客を制限付きで受け入れるだけならば、プロ野球やJリーグと大きな差がない。1日で10万人が試合会場に向けて移動するにしても、1日300万人から出勤してくる東京の移動人数からしたら誤差でしかない。
観客に対して陰性証明を求める、という案も検討中らしいが、実現するとしたら、プロ野球やサッカーよりも厳しい条件になるので、ますます問題がない。
またパブリックビューイングもやらないということらしいので、人数は相当に制限を受ける事になる。毎日300万人がウイルスを運んで流入してくる東京からすれば、なんということもない条件って事になる。
海外から観客を受け入れないのであれば、五輪が理由で感染拡大なんてしないし、五輪が理由で各国の変異株が感染拡大することもないとしか現状の情報からは考えられない。
いずれ出勤による移動で、東京変異株なり大阪変異株が生まれない保証はもちろんない。300万人がウイルスの運び手なんだから、何だって起こる。
それは海外から観客を迎えないという事を確認するとか議論を深める事なんだが、そういう行動が為されている様には見えない。
昨日も、共産党の小池が「選手村と名前を替えれば居酒屋でも酒類が提供できるのか」と批判をしてたが、これこそ反対派の方が怒ってしかるべき馬鹿な批判だと思う。
ワクチン接種済みの選手が、宿舎で酒を飲むことが問題だとすれば、ワクチン接種がまだの我々日本人が自宅で酒を飲むことも禁止すべきと言う事になるが、それがお前の主張ですか?と言いたい。
この手の質が低い批判をしても、共産党支持層が喜ぶだけで国民には何も得るものがない。
枝野もLGBT法案に対して、「五輪開催前に成立させるのが、五輪の本旨にかなう」と、五輪開催前提でいるようだし、パフォーマンスにすぎないのかもしれないが
とは言え、小池がアホな事を言ってる一方で、運用する側の与党官僚から、「海外から観客を入れない」というような重要な決定が粛々となされ、与野党での議論もないという現状には
どうなるのかって不安に思いつつ日々見守ってる国民としては、失望する想いですよ。やっぱり立憲共産党には政権担当能力がないのかなと。
それは分からんなあ。俺は議員の仕事内容に詳しいわけじゃないし、その人にとってどこまでが適切で働きやすい職場であるかは、本人や周囲の人々、理解者や支持者がみんなで決めるもんだ。別に絶対なっちゃダメだとか言うわけじゃない。でも不自由な人は大抵の場合、身体的都合と業務内容を考慮したら自ら辞退を考えるラインというのがあるもんだろう。なにか障害者に対する社会的な機運が高まっている状況なら全然あり得るだろうが、普通は合理的に考えたら本人も手を挙げないし周囲も勧めない。もちろん俺が想定してるのは介助なしに動けないレベルの重度の障害者であって、問題なく遊説とか慰問とかサミット参加とかできて立派に弁舌を振るえる類の障害者まで含めてるわけじゃないぞ。足が不自由で車椅子くらいなら全然後者。障害者とは言わないが、重い病気で職務が継続できなくなったら首相をやめることは普通によくあるだろ。それと同じことを言ってんの。
凝り性でなんでも極めちゃう。実家は造園業で金持ち。小学生の頃はファミコンソフト1000本。20代も遊び歩いてた。でも結婚して子供出来たら生活変えて少年院の慰問もしてます
なんかテンプレな『同窓会で昔虐めてた奴が謝ってきた』系じゃん。歌は歌えないしダンスも半端、演技は下手だけど劇団w そして今は真面目になりましたアピール
でも、こういうのに金集まるんだよね。結局実家が裕福なのが全て。たぶんコイツに泣かされた奴はたくさん居るだろうし、コイツは今後適当に生きても適度に仕事も入るだろうし、ノータリンな底辺信者も多いだろう
どんなに努力してもこういう適当なのが一番いいとこ掻っ攫うだよね。成功者は努力してる!とか言うけどコイツの努力とかレモンサワーの一気呑みと炭水化物食べない程度だろ?もう少し演技の努力しろよ。劇団w
なにより、こんな世間知らずな親ガチャSSRが少年院の慰問とか聞いてる子供たちが不憫すぎる。ただ昔はワル自慢&親バカ聞かされるんだろ。再犯率ヤバそう
たとえば
1945年8月15日できっぱり「戦前的な価値観」は消滅したかと言えば
そんなことはなく、教育勅語と軍人勅諭を叩き込まれた復員軍人が
武道の道場やら朱子学を教える私塾などを運営する人は大量にいた
京都の公家にはその後も平安時代と変わらん感覚の人間が大勢いた
わかるかなあ?
1989年1月8日でいきなり世の中ぜんぶリセットされたわけじゃないんだよ
平成10年ごろまでは職場の精神的空気は「昭和の価値観」そのまんまで
そこから昭和の気風というものがおおむね類推できる(全部ではないが)
「終戦時に小学生だった世代より俺らの方が戦前戦中を知ってる」
とか偉そうにドヤ顔するけど
そういうのは大抵、大東亜戦争の意義がどうのとか大本営の真意はどうのとか
大局の話ばっかりで、軍隊内のイジメや上下関係の軋轢、銃後の食糧難
慰問袋を作ってた人たちの日常、勤労動員させられてた人たちの日常
そこでの苦楽(単にひもじかったとか疲労したとか、物資が不足して
とかの細かい実感的デテールはすっぽり抜け落ちてる
終戦時に小学生なら少なくとも親兄弟や就職後の数年歳上の世代から
書物によらない直接に耳で聞いた知識としてその辺がたっぷり身に染みてる
平成元年に18歳でも
(センター試験で話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)
底本:原民喜戦後全小説 下(講談社文芸文庫)1995年8月10日第1刷発行
I
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫の魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。
その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかに、もっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初「孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。
彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身の青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予で最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。
岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものをノートし、まず文体の研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。
それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。
私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのものを顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部に入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人と同棲した暁には、染料の会社を設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである。
日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線へ派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞の第一面、つまり雑誌や新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見たものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院で殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。
岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。
たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌に掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初の召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京で文化方面の役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズは役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。
既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活に飛込んだのだった。ところが、その相手は資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである。
II
私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに、満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇のほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。
私は妻の遺骨を郷里の墓地に納めると、再び棲みなれた千葉の借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃である。サイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである。
私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉の借家へ移った時のことである。私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それからは殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。
私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラと千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴムの長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。
「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。
「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、
「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。
その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。
私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日、八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋の小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊の姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好がおかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたとそっくりの写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。
冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥は簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。
翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真が満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。
その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体で台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである。
そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服の青年が歯医者に挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年も助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。
それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲の吏員に就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後の消息であった。その後私の妻の病気は悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。
その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。
あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境や機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか。親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客の歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅の作品の暗い翳を思い浮べるのであった。
「スコモ」とは何かご存知だろうか。スコット・モリソン豪首相のあだ名である。今回の大規模火災によって、スコモは恐らく歴代でも稀に見る無能首相として名を残してしまうだろう。
まず、今回の火災は前もって推測されていたのにスコモ政権が無視したことが一点。元環境大臣などが、今夏の激烈な山火事の予想とその対策を進言していたがスコモはそれを無視してしまったことが報道され国民はスコモへの不信を募らせた。
その後火災が起きている間スコモがハワイでバカンスを楽しんでいたことが一点。最初隠蔽されかけたが結果として世界に知れ渡った。スコモ本人は、場当たり的な対応をするために自分が居るわけではないと反論したが、諸外国への支援要請など彼の立場でできる事はいくらでもある為多くの国民は納得しなかった。慌てて慰問に訪れたスコモが現地の女性に握手を拒絶され叱責を受ける姿が報道されたが、あれは多くの国民の心に響いたのではないだろうか。
また、イランのミサイル発射後、即座にアメリカへの協力声明を正式な書面の画像付きでツイートしたスコモに対して、「国民を他国の争いに利用する事には即座に対応し、危機的な火事は無視か」と批判が起きた。
今回の火災の中心であるニューサウスウェールズ州の首相ベレジクリアンは、クリスマスまでは#KoalaKillerというハッシュタグとともに強く批判されていたが、スコモがやらかしたせいで批判の多くがそちらに移った。
とにかくスコモはすぐに豪首相の座を降ろされるだろうし、与党も自由党から労働党に変わるだろう。
さて、今後は山火事対策をもっと真剣に考えるんだろうけど、どうしたら良いんだろうね。スコモ無能っつってもオーストラリア広すぎだし。山火事といえばカナダも例年苦しんでるからお互いノウハウを共有したらええんちゃうの。知らんけど。っていうか上にペラペラ書いたの全部適当だから。騙されたやつバーカ。
自分自身は積極的な天皇制廃止論者ではないが、思考実験として天皇制を廃止する具体案を考えてみる。
・『公益社団法人 天皇家』を作り、皇居を含めた皇室財産は天皇家に移管する。
・国は天皇家より皇居の土地を100年契約で借り上げ、その場所に皇居跡自然公園、皇室歴史博物館を建てる。
・皇居の地代を使って、天皇家は新嘗祭などの祭事や全国の慰問活動を続ける(事もできる)。
※皇居の地価は23兆円、これは2019年の(宮内庁+皇室費)約130億円の1700年ぶんに相当する。
・10円玉に仏教のお寺(平等院鳳凰堂)が刻まれてるように、菊の紋など国の所々に残る神道的な要素も文化として受け入れ、排除はしない。
・今まで天皇が行っていた国事行為(署名や押印、儀礼外交)を行う大統領職を設置する。
・二代目以降の大統領は、参議院議員の立候補者の中から国民が直接投票で決める。
・大統領に立候補する参議院議員は所属政党から離党しなければならない。
・大統領に就任した者は従来の天皇と同様に政治的な発言は慎むことが求められる。
・大統領が署名や押印を拒否した場合、大統領は罷免されすみやかに再選挙を行う。
A 政治と適切に分離できれば無くす理由はなく、日本にとって貴重な文化だから。
A 天皇制の喪失により総理大臣に権力と権威の両方が集中するのを防ぎたいから。
Q なぜ初代大統領を天皇にするのか。最初から投票制にするべきではないのか。
A 天皇制の日本国と大統領制の日本国が連続した国家である事を表すための特例。同じ国家だから条約も守り続けるし、歴史も継承する。
ちょっと古い話題だけどさ、アメリカのタレントがKIMONOと言う名前で補整下着を販売しようとして流石に批判喰らって引っ込めた件あったじゃん?
流石の京都市もブチギレ、みたいなやつ
https://www.huffingtonpost.jp/entry/kyoto-letter-to-kim-kardashian_jp_5d16adf2e4b07f6ca57d66d1
これはどういうことかというと、前は外国人が日本人に対して文化の盗用でしょそれと言われてもイマイチピンとこなかったわけよ。
例えば、コスプレ的な形で、日本人になりきるようなイメージで扮装している人、例えば京都の舞妓体験とかああいう話題の話。
これを日本人ではなく、外国人が文化の盗用であると批判して、一方で日本人からの反応は「別にいいじゃん。なんでそう言うこと言うの?。わからない」って反応が多かったわけ。
この時、文化の盗用とは何か、と言う事が理解できなかった人が、その文脈を理解したと言う話みたいね。
でもさ、この二つ、本質的に何が違うと思う?
さらに古い話題だけどさ、真木よう子氏が商用出版社の人々と組んでコミケに出ようとして、批判が集まった件あったじゃん?
https://biz-journal.jp/2017/09/post_20435.html
だけど、似たような形で出てきたのに叶姉妹があるわけよ。
(小林幸子氏は、ファンがいるならばどこまでも、刑務所慰問からコミケ、ブラジルまでどこにでも行く人なので、ちょっと文脈が違うと思う)
真木よう子氏も漫画とか好きなようだったし、叶姉妹のアレは明らかにガチっぽい感じがある。
ただ、ガンダムが登場して40年、当時の大学生は還暦を迎えている事を考えるとオタクなんて珍しくもない。
何が違うと思う?
まぁ、何かが違うかは明らかなんだけども、でも上手く言語化できない。
ここら辺、ブランディングの成功失敗にも関わっていて、何か冷静に分析されたものがありそうなんだけど何かないかな。
愛があるかないか、と言う話で整理するのはいいけど、愛という言葉は幅が広くて便利だけど曖昧で、何かもうちょっと良い分析というか取材がないかしら。
と言うのを、時前のグッズにKIMONOと言うブランドを付けようとしたアメリカのタレントが、叶姉妹の劣化版みたいだな、と思った所から徒然と連想した。
anond:20190315022042 の続き。
本当にTV版からガラッと変わった。途中まで、ギャラクシーの侵入作戦が始まるところまではだいたい同じだった。しかし正直なところ名前と髪型でクーデターに失敗する噛ませ犬だと舐めていたレオン三島がまさかここまで有能であったとは。TV版から反省会を繰り返したのか三島よ。本作におけるTV版との分岐点はできる三島とついに人の心をインストールしたグレースである。まあ最終的にやっぱり三島は死ぬけど。
そして何より本質的な違いは二つ。オズマによる自分を演じることへの肯定と終盤のランカとシェリルの役割の裏返り。この二つの変更点により驚くほどすんなりとシェリルがメインヒロインに固定された。
劇場版で役割と設定が整理されストーリーが単純化したことで、TV版の中盤までの流れ(病に弱るシェリル、シェリルに惹かれるアルト、スターダムを駆け上がるランカ)から終盤への流れ(シェリルが行方不明、ランカからアルトへの告白)が一気にスムーズになった。というかTV版でも密かに思っていたけど、明らかにアルトくんシェリルのこと好きだよね!そうじゃないといくらなんでも終盤のあの展開はないよね!!つまりあの矢三郎めがいなければ(主にシェリルが)あそこまで苦しむことはなかったのだよ!!!
ちなみに好きなシーンは、アルトに会えなくなってもいいのかと優しく問うグレースと答えに詰まるシェリル、アルトの病室での包丁を巡る不器用な二人のやりとり(イチャイチャ)、放課後オーバーフロウのイントロに合わせて閉まっていくマクロスクォーターの外装。
ところで劇場版ではオミットされたTV版終盤でのランカとシェリル:バジュラと交感できる声をしているせいでミンメイの再来と政治的に担ぎ上げられ生体兵器としての運用に疲れていくランカ、病に犯されながらも自分にできる最大のこと(ランカの代わりに死を覚悟して歌う)を選ぶシェリル、という無駄に重い展開も増田はかなり好き。特に歌ったら死ぬことに気づいているから最終決戦の前にアルトに恋人ごっこは終わりと告げる(= 強がる)シェリルとそれを聞くアルトのシーンがとても好き。そういえば劇場版はこの「今は答えないで。歌えなくなってしまうから」部分はランカのセリフになっていたな。どっちのシチュエーションでも振られる流れだよなあ。
冒頭のバジュラの巣の攻略や大気圏内でのマクロスクォーターのサーフィンマニューバ、やたらと陽気で軽そうだがシリーズファンからするとこれ以上ない安心感が得られるYF-19からの声、S.M.S大隊によるマクロスキャノン斉射、そしてアンタレス1との熾烈なドッグファイトなどなど見所だらけだった。増田が一番グッときたのは、実はバジュラの巣攻略戦での隧道内のブレラの操縦テク。このシーンは狭い隧道を先行するブレラをアルトが追いすがるという形なのだが、驚くべきことに狭い上にバジュラも向かってくるのに、ブレラは一度も変形を行っていない。可変戦闘機バルキリーのセオリー(様式美ともいう)通り、垂直方向への移動や複数体のバジュラの掃討にガウォーク変形で対処し即座にファイターへの変形で高速移動を行うアルトに対して、ブレラはファイター形態のままインプラント特有の反応速度をもって、機首の向きをわずかに調整することでノンストップでバジュラの殲滅と移動を行うのだ。マクロスの様式美を否定するような非常に地味ないぶし銀の描写がよかった。
TV版の不満点であった超時空二股エンド。アルトくんはっきりせいやと前の感想に書いたが、劇場版ではズバッとアルトくんの男らしい告白で三角関係に決着がついた……ついたのだけど……ついたのだけど、だけど、
思いが通じ合って両思いになった恋人たちが次の瞬間に離ればなれになるなんて、そんなことは望んでなかった!
ただ思い合う二人がイチャイチャしているところを見たかっただけなのに……
初見のときはこのエンディングで完全に固まった。そしてエンドロールの「dシュディスタb」(願いは叶うとヒロインズが歌う)を聞いてすわビターエンドの先のハッピーエンドかと沸き立ったのだが、生命維持装置に繋がれて昏睡しているシェリルの脳内想像ライブという可能性に思い当たりより消沈した。しばらくアルトがシェリルのことを愛している設定でTV版世界に戻ろうかと考えていたのだが、絶対に救いはあるはずだと考えて二週目へ。そしてなんとか一つのこじつけに思い当たった。
そう、眠り続けるシェリルは眠り姫のモーチフであり、王子様(アルト)のキスで目を覚ますのが必然であるのだ。TV版ではシェリルとランカの両方から唇(一部R18)を奪われていたアルトであるが、運命付けられたように劇場版ではシェリルにされた頬へのキスしかない。これはもうそういうことだろう。運命だよ。よって増田の中では、アルトくんが(アイくんとかで)なんとかしてフロンティアのシェリルのもとへ戻ってきてシェリルの目を覚ましたあと、二人で幸せになることが確定しました。多分アルトの病室での一幕のように互いにからかいあってイチャイチャするのだろう。よかった……。
サヨナラノツバサでも「禁断のエクシリア」から始まり、二人の掛け合いと会場のバタバタ具合が楽しい「Get it on〜光速クライmax」、めちゃめちゃイントロが格好よく演出もパーフェクトな「放課後オーバーフロウ」、そしてエンディングのお祭り「dシュディスタb」と素晴らしい曲ばかりである。ただ、劇場版を代表する曲となると「ダイアモンドクレバス」だろう。イツワリノウタヒメでのバジュラを呼び寄せてしまったことや、ギャラクシー軍のミッション開始の合図だったこと、墜落したフロンティの教会跡など劇中の要所で美しくも悲しいこの歌が効果的に使われていた。
それから見ていて気になったのがライブの演出。演出といってもすごく手のかかったCGの方ではなくて(これもすごかった)客席の後ろからステージを映すカメラワーク。カメラが歌手を追うPV型ではなく観客との一体感を深めるライブ型の演出を選択したのは興味深い。ミュージックシーンがPV中心からライブ興行中心へ転換しつつあったことと関係しているのかもと考えた。なお増田はPCモニターで見たからそこまで臨場感はなかったのだけど、当時劇場で見た人は自分がライブに参加している感覚を味わえたのだろうか。またサイリウムなどを持ち込んで応援上映のようなことができたのだろうか。
そしてもう一つ気になったライブがアルカトラズ刑務所での「星間飛行」からの流れ。何と言っても慰問ライブに参加していた/できなかった囚人たちが声を合わせてこの歌を合唱するのだ。正直はじめはなぜランカ中島リーさん以外の声を入れてせっかくの星間飛行を邪魔するのかと思った。ただ、よく考えるとランカ・リーの星間飛行を聞きたいのならばCDやPVなりを聞けば良いことに気がつき、そこでようやくこのシーンがマクロスの伝統である歌の力を素朴な形で描写していることに気がついた。
増田の理解としてはマクロスのメカニズムというのは武力と歌の相互補完にある。武力では暴力は防ぐことができても心(世界)を変えることはできない。歌は心(世界)を変えることができるけど暴力に対しては無力。しかしその二つが合わさることで等身大の人間が奇跡を起こすことができる。そのリアリティがSFをコアに持つマクロスのメカニズムであり、非対称なこの関係性に三角関係が加わることで豊かなドラマが生まれてくるのだと思う。
この歌の力という面からフロンティアという作品を見ると、二つの場面が思い浮かぶ。TV版の星間飛行ライブと先ほど挙げたライブ@アルカトラズだ。前者は言わずと知れた、ゼントラーディー部隊の反乱を歌とキラッ☆のみで熱狂の海に沈めた伝説のライブである。このライブの演出は、最初は戸惑っていた兵士たちが曲が進むにつれ武器を投げ出し鼻血を噴きそして最終的にクァドランが肩を組んで踊るという実にアホなものだが、歌が心を変える様子をこの上なく描いていた。アルカトラズのライブはというと、先に書いた通りランカを知っていた知らなかったに関わらず荒くれ揃いの囚人たちが自ら歌を口ずさみ心を一つにする。これが星間飛行のすごさであり歌の力であるのだ。なおこのライブ、この後のクランのアジテーションから囚人たちと看守たちの大乱闘がGet it onに乗せて始まるというやっぱりアホな展開になるのだけど、やっていることは単なるテロである。そして最後の「ランカちゃん〜」と「ジェリ゛ル゛さ゛〜〜ん゛」のコールに吹き出すのである(何度見てもこの部分で笑ってしまうのだけどエキストラなのかな?)
増田がマクロス7のサウンドブースター演出に違和感を持ったのは、サウンドブースターにより視覚化・数値化された歌が武器(ビーム兵器、バリア兵器)のように使われていたから。それと力と歌をバサラ一人が担当するのにも関わらず王道のマクロスフォーマットでストーリーが作られていたため、最終的にバサラ一人で世界を平和へ導くという一人の人間を超越した行いをさせてしまったことも同様。作品テーマとして武力を否定しラブアンドピースを狙っていたのは理解できるのだが、武力の代わりとしてサウンドブースターというまた別の武力を持ち出し、バサラ一人に全てを背負わせたため普通の若者の織りなす物語というセオリーを壊してしまったように見えた。洗脳されたバロータ兵を初めから出すのではなく、初めは市民トラブルを歌で解決するというような入りかたでもよかったのかなと思う。
最後になぜ増田がシェリル派なのかというとプロフェッショナルであることの誇りと責任さらにケー鯛(口からアンコ出る)を愛用するセンスを持ち、泥水をすすっても生き抜く根性があり、たとえ死を迎えることになっても自らの役割を全うする覚悟をまとい、でも支えを失うと心が折れそうになる繊細な所があり、そしてアルトくんをからかう姿がとても楽しそうなシェリルが好きだからです。
次はIIかデルタを見る予定。アイドルものと聞いてあまりデルタには興味が湧かなかったのだけど、たまたまワルキューレの歌を聞く機会があり、メインボーカルの声にぶっ飛んだので俄然興味が湧いた。アイドルものであのガチ音圧の人がメインを張るってかなり攻めてると思うのだが、どういう狙いがあるんだろ。
https://togetter.com/li/1298767
忠臣蔵の人気が衰えたのを良いことだと思っている人は少なくない。
これ、300年経って幕府の思いが実現したってことともいえるw
赤穂事件が起きた当時、庶民は喝采したけど幕府は「治安を乱すゆゆしき事件だ!」と怒り、それで赤穂浪士たちは切腹させられた。
四十七士がやったことは直属の上司への忠義を尽くすことであっても、幕府に対しては反逆行為だったわけね、だからこそ庶民は「今どき見上げた武士だ」と喜んだわけ。
当時の武士はすでに保身的なサラリーマン化してたのに、庶民の方こそが忠義を重んじる古くさい価値観を美徳だと思ってたわけだ。
仮名手本忠臣蔵の登場人物が、史実とは異なり室町時代の出来事にされてるのも、幕府がこの事件を美談として広めるのを嫌ったせい。
だから、戦時中とか四十七士が忠君の模範みたいにもてはやされたかといえば、そんなことはなく、陸海軍の偉い人たちは慰問で忠臣蔵の講談とかやるのを嫌ったという。
宮仕えの人間が組織上層に逆らっても直属の上司のために戦うってパターン、よく考えたら、パトレイバーでも攻殻機動隊でもこれに近いことやってる。
そう考えると、忠臣蔵って今も形を変えて存続してるのかも知れない
最近ちきりんという人が天皇制は素晴らしいという記事を続けて書いていて、多少納得する点もあるけど、ここであえて反対の論陣を張ってみようと思う。
まあこれは全ての君主制に言えるけど、
生まれた時から一部の人が何らかの特殊なステータスを持っているというのは
今の日本の平等、民主主義、人権擁護の原則にそぐわないよねという話。
歴史的に女性天皇がいたにも関わらず現在のルールでは女性は天皇になれないし、
女系がダメというのも歴史的文脈以外の合理的な理由づけはない。
国の「象徴」が性差別的イデオロギーを生産し続けるのはどうなのと。
皇族は各種基本的人権を保障されていないため、言いたいことも言えず
今の日本の平等、民主主義、人権擁護の原則にそぐわないよねという話。
さらに、日本独自の状況として皇位継承者とその妻は子供を産めというプレッシャーも相当なもの。
皇妃と皇太子妃に期待されている素質は文字通り「産む機械」となること。
精神を病む人が続出するのも頷ける。
今上天皇の君主としての資質と国民に寄り添う姿勢が歴史的にも世界的にも最高レベルなのは疑いない。
だが将来にも渡って彼のような国民から支持される天皇及び皇族が出てくるのか?
歴史的に精神を病んだ王族は多く、日本はすでに皇太子妃がダウン。
これからの皇族の子供たちは現代社会の監視プレッシャーに耐えられるのか?多分無理。
間接的とはいえ国民の意思で政策決定されるのに、王室同士で付き合う意味が本当にあるのか?
1913年にはロシア皇帝とイギリス国王がドイツ皇帝の娘の結婚式に一緒に出席して仲良くしていたが
全く意味はなかった。ちなみに彼らはいとこ同士である。100年前の半独裁国家でさえこれ。
日本の皇室は世界で支持されている?まとめサイト以外のソースplz
それゆえ昔から続いているものを変更するなんてありえないという主張だが、
そもそも現状の天皇制自体明治憲法と戦後体制のミックスで作られたもので
女性天皇が複数いたのもそうだし、過去の天皇はみな仏教徒で、好き勝手に引退し、好き勝手に継承者を選んでいた。
もし昔の天皇が今と同じように後継者問題に悩まされていたら女系だってなんだってありだったろう。
政治的にも親政、院政、なんかよくわからんが偉い人、神聖不可侵の大元帥とコロコロ変わっている。
女系男系議論にも関わってくる話だが、天皇制の正統性は歴史的文脈だけから来るものではない。
天皇の現在の地位は国民の総意に由来するもので、天皇がどのように職務を務めるかという点が今の国民の天皇制への支持の大きなポイント。
その点を今の天皇は非常にうまくやっている。平成になって天皇廃止論が鳴りを潜めたのも現在の天皇の国民に近づこうという姿勢があるから。
逆に言えば今の天皇の職務をうまく果たせる人なら役割を果たせる。
ちきりん氏は「『民主的な、差別のない方法で天皇を選ぶ』なんてことをしたら、誰もそんなものの価値を認めなくなる。」と書いているが、
実際そうとは言い切れない。いい例がカナダ総督(ガヴァナージェネラル)
カナダ総督は憲法上君主の役割をはたしていて、任期は五年、実務上は首相が選ぶわけだが、
現在は元宇宙飛行士の女性でフランス語話者、その前は英語話者の高名な学者
その前は元ハイチ難民でフランス語話者で黒人女性のニュースキャスター、
「民主的な、差別のない方法で天皇を選ぶ」を地で行っているわけだが、
価値が認められなくなるどころか逆に多様性とその理念から幅広く支持されている。
まあ日本とカナダでは歴史も社会も全く違うわけで、いきなりカナダ風人選を日本に持ってくると
向井千秋、滝川クリステル、CWニコルのような人選となり支持されるとは思えないが
韓国の康京和(カンギョンファ)外相は9日午後2時から、慰安婦問題の最終的で不可逆的な解決をうたった2015年の日韓合意をどう扱うかについて、一部を説明する。同国外交省が8日発表した。文在寅(ムンジェイン)大統領が未来志向の日韓関係を強調していることに配慮。合意の破棄や再交渉は求めない見通しだ。
日韓関係筋によれば、合意を維持したうえで、「日本政府は責任を痛感している」などと記す合意の精神に基づいた履行を日本側に要請する可能性が高い。安倍晋三首相らに対し、元慰安婦らを慰労するための訪問や手紙の送付など、「誠実な履行」を求める形で事実上の追加措置を求める案が浮上しているという。
外交省の措置は、文大統領が10日に年頭の記者会見を行う前に、懸案を整理しておく狙いがある。
日本外務省の金杉憲治アジア大洋州局長は8日、ソウルで韓国外交省の金容吉(キムヨンギル)東北アジア局長と会談したが、韓国政府の新たな方針については聞かされていないとした。金杉氏は「合意の着実な実施を求める」と改めて記者団に強調した。
日韓合意を巡っては、韓国外相直属の検証チームが昨年末に「合意は不均衡」とする検証結果を発表。文大統領は「この合意では問題は解決されない」との声明を出し、今月4日に元慰安婦らに謝罪した。日本側は「合意の維持以外、受け入れられない」とする立場を韓国側に伝えている。(ソウル=牧野愛博)
引用の太字部分は朝日新聞の願望だけど、これ、外れると思う。つまり、合意破棄、もしくは、破棄と明言しないまでも実質的な破棄宣言が発表される事になると予言する(外れる事を願って)。
理由は、朝日新聞の韓国における情報源は基本的に韓国の保守勢力に依存しているという点にある。
具体的には、自由韓国党(パククネ元大統領が在籍していた党)の幹部や朝鮮日報といった保守系のメディア。
つまり朝日新聞の韓国カテゴリの「○○とみられる」「××の見通し」は大体が韓国保守の願望に基づくものと思っておいていい。
さて、ムンジェイン政権どんな政権かというと、保守勢力の根絶のためになりふり構わない政策をバンバン打ち出している真っ最中。