はてなキーワード: 愛着障害とは
「ごめんなさい
二度目である。
フェードアウトすればよいだけだ。
共依存ばかりしてきた私と回避型愛着障害の彼女、間違えて出会ってしまって間違えてしまった。
そしてその恋愛から15年くらい経ったけれど毎回共依存をしてきた
私はマチズムの発露である偽メンヘラホイホイ男共とはレベルの違う本物のメンヘラ好きである。
具体的に言えば愛着障害のある子に手を出してきた。
基本的に愛着障害以外は専門外なのでよく知らないが、他もちょっとずつは齧ったことがあるので少し知っている。
毎度無作為に選んでいるつもりだしどこで手を出すかも異っているが見事に全員障害持ちである。
子供の頃の家庭環境に問題のなかった人とデートすらしたことがあまりない。
15年も前の話だ。
少し前までその子がメンヘラだったから私が共依存になったと思っていた。
救えなかった罪悪感はあるにはあったが、やはりそれでもある意味合いにおいて彼女を恨んではいた。
それでも10年単位で長文の激しい連絡を取り合ったりはしてきた。
その子は明らかな恐れ・回避型。そして解離性障害も併発していた。
その子のことを私はきちんと好きでいたつもりだった。
だから、それをきっかけとして臨床心理学を学んだ。その時は必死だった。
なぜかは正直いまでもよく分かっていないが、今考えてみると私が共依存者であることを意識的にまたは無意識的に嗅ぎとり彼女は逃げることにしたのかも知れない。
そして今、私はプロではないが二度のデートで相対する女性の過去を勝手に赤裸々に話させることができる。
墓場まで持っていかねばならない話のリストが大変な量になっている。
というよりは気が付いたら語り始めている。聞きたくもないのに。
だから私はやはり共依存という関係へ依存しているのだろう。相手は誰でもいい。
なんならそうさせてもいい。
意識してはいなかったが、私がそうさせた子もいるのかも知れない。
私は私のこの恋愛の代替物としての共依存をきっとやめることはできない。
そして過去私が救ってきたと考えてきた女性達はきっと私が傷付けてきたのだろう。
素人にできることは傾聴することじゃない。下手に臨床心理学の手法を学ぶことではない。
下手に病理を学ぶことではない。
ただ静かにそこにいること、それができないなら去ること、それだけだ。
いや違う。私はおそらく無意識に精神分析の帰結を悪用しているのだ。
手を出さないことも多かったし、手を出すにしても回数は少なく
しかし違っていた。私は近くで破滅が見たかったそれだけなのだろう。
次こそはきちんとした恋愛がしたいと叫びながら二度目から五度目くらいのデートで彼女達の愛着障害を聞くのだろう。
そして聞き出したにも関らず、一見して奔放に見えるその恋愛遍歴にまた勝手に傷付いてまた匿名ダイアリにお気持ち長文を投下するのだろう。
勲章のように。
そしてその周りで世話を焼いて苦労しているふりをしながら自分としても傷付いていると勘違いしながら、
そしてそれをきっと私は求めているのだろう。
それが恋愛感情があまり強くない私が得た恋愛感情の代替物なのだろう。
過去の投下へのコメントさん達に元気付けられて頑張ってみたんだ今回は。
https://anond.hatelabo.jp/20210420223753
パターン化した行動を誘発させないためにスペックシートだけを見て選んだ。
雑に扱ってくれる男と愛のない関係を結ぶことを求める典型的なタイプだ。
今回の子は本当に趣味が合った。色々なペースも本当にあっていた。
気が付いていなかったと思っていたが、違和感はあったのだろう。この人以外は継続させる気がまったく起きなかったのだから。
だから双方ともに踏み込まないように踏み込まないように、踏み込んでしまったあとにもどうにか継続できるように、丁寧に慎重の物事を進めた。
今考えてみても先方は相当いろいろ察しながら我慢していた。それが今では明らかに分かる。
ヤリかけたが回避した。それも含めてきちんと進めた。でも無理だった。
出会う場所が違っていたら、出会うタイミングが違っていたら友人くらいにはなれていただろう。
「ヒロイズムですか?」
たしかにそうかも知れない、とその時は思った。
ただ、それより更に厄介かも知れない。
私は岩井俊二が好きだ。ただリップヴァンウィンクルの花嫁が好きだが連続して見られない。
なぜか分からなかったが、今回少し分かった気がする。
いつか涙を流すことができるのか。
そういえば私は女性と別れたときも、親族の葬式も泣いたことがなかったな。
そして先程、過去の女性から幸せになれそうですとのメールが来ていた。
文面を見たところある程度克服したのだろう。
それに対して上記の内容を送った。
「俺は君が思うような人間ではないよ」という書き出しからはじまる優しい文面の内容だ。
自分でもなぜ送ったのかは分からないけれど、不安型の子にドンピシャで利く内容だった。
今回の二回目のデートの子に送ったラインも回避型の子に絶対に送ってはならない内容だった。
そしてさらに追加で違う回避型の子にちょっかいを出すラインを送った。
これらのあとに後悔したし、どうかしていたと思ったが、やはりクズだなと感じる。
もうさすがに被害者ぶるのはやめようと思う。
でも、私は悪くない。
なぜか。
私がやっていることは健常の人にやっても全く問題はない。
無視しない。
返信をする。
しかし後で見かえすとかなり利く内容になっている。
わざとではないが、おそらくもう無意識にこうしているのだろう。
どうやら私こそが恋愛においてのみ強い愛着障害を持っているらしい。
ただ、ひとつだけ救いがある。
今回は二度目で終われた。
きちんと私の傾聴の姿勢が切れて、言ってはならないことが言えた。
それはきっと救いなのだ。
理由は私がADHDと自閉症スペクトラムと軽度知的障害併発のキメラだから。あと二次障害の躁うつ病。
父親がアルコール依存症とそれに伴うDV・母親がそいつの言いなりという貧困&虐待家庭で育ったので、私の治療はおろか定型発達の兄弟も一緒に精神病発症した。
いわゆる「理解のある彼くん」に恵まれて若いうちに結婚できたけど、私は絶対に子供は産まない。
子供の意思を問わず「理解のある息子くん・娘ちゃん」に仕立て上げてしまう自覚がバリバリにあるので本当に産みたくない。
自ら望んで私の治療支援を行ってくれている夫とはわけが違う。子供には逃げ場がない。
夫には夫の逃げ場を用意してもらい、夫とは普段はほぼ別々の行動をしている。私は家事はケースワーカーさん・ヘルパーさんに手伝ってもらい、なんとか日中の仕事を続けている(障害者雇用ではあるが)。
あと、特に何も問題がないときも夫婦カウンセリングを月1で行っている。支援者である夫自身のケアについてまだまだ足りていない部分が多く、もどかしく感じている。
こんな状況なのに子供なんて作れない。
日本人は経済という悪魔の祭壇に、捧げてはいけないものまで捧げてしまったんだと思う
持続可能でさえない、異常な価値観を親が子供に強いて、社会がそれを許容するような社会は、早晩立ち行かなくなって壊れる
少なくとも、そう思う
発達障害や愛着障害やパーソナリティ障害で、ジャックハンマーみたいに薬をモリモリ飲んで
冷静に考えたって、そんな人生や願望かなえるには犯罪でもやらないと無理っていうようなネットの病んだ価値観に狂ってその矛盾と苦しみを背負ってカーツ大佐みたいに悩んだ挙句、統合失調症みたいになったネット民や増田は
ある種で言えば、父祖の代の被害者と言えるのかもしれないし
まあ、彼ら彼女らはプライドだけは王侯貴族のように高いから、救いの手を差し伸べられることすら見下されてると怒り狂ってさらに精神を病むわけだが…
【ネタバレあり!】
結論としては、少なくとも僕の心は救えなかった。
上映後、一瞬だけ前向きな気持ちに、爽やかな気分になったが、考えれば考えるほどそれが間違いに思えてきた。
僕だって最初は旧劇の「気持ち悪い」から成長したなと思ったよ。
だけど違うんだ。
この映画を観て前向きに、背中を押された気持ちになれるのは、もともと自分を肯定できている人間だけなんじゃないか。
そう思わざるを得なくなってきた。
僕にはレイもアスカも、ましてやマリさえいない。これまでもいないし、これからもできる見込みはない。
ヒロインがいないだけじゃない、ミサトや加持のようなまともな大人さえいない。
リアルの世界では、自己保身ばかり責任逃ればかり板についた大人しかいない。
すぐに自分に限界を設けるくせに、そのくせ自分よりできる人を妬む。
「碇君がもうエヴァに乗らなくていいようにする」と言って、初号機のなかに14年もの間、残り続けたレイのように、美しい自己犠牲の精神を持っている人間が令和の時代にどれほどいるのだろうか?
また、ゲンドウを追おうとするシンジを危険人物として処分しようとしたサクラとミドリから、その身を挺して庇ったミサトのような人間はリアルに存在するのか?
さらにはシンジ自身も、幼少期に母と死別、父に捨てられ、14歳で世界の命運を懸ける戦いに駆り出され、14年間も宇宙空間で眠り続け、その間にトウジやケンスケ、委員長は成長して大人になってましたって、不遇としか言いようがないよね。
現実なら愛着障害やPTSDを、何十年も患っていてもおかしくないほどのショックを受けている。
そのシンジが映画のクライマックスで、ゲンドウを救って、カヲルを救って、アスカを救って、レイを救うんだぜ。
劇中でゲンドウはシンジに対して自身が怯えていることを自覚しただけで終始、シンジへの愛情を示すことはなかった。
逆にシンジがゲンドウを理解して、ゲンドウがやっとユイを求め続ける呪縛から解放される始末だ。
シンジのように不遇でも最終的に救済されたり、世界を引き受けるほどの度量を身につけるなんて、不自由で空虚で孤独な現実世界を生きる僕には想像できない。
庵野監督が言いたいのは「現実と向き合え、和解しろ、大人になれ」ということ。
それは今まで彼の作品を応援してきた、非モテ・コミュ障のオタクのこれまでの人生を全否定するようなものではないか。
アニメ監督として評価され、売れっ子漫画家と結婚、カラー設立と、どんどん庵野監督のリアルが充実していくごとに、弱者のオタクからどんどん乖離していって、非モテ・コミュ障の心理なんて想像できなくなったのではないか。
パートナーや子供のいる、かつてオタクだった人達は、この映画から受け取ったメッセージを追い風にして、これからの日常を生きていけるのかもしれない。
また、夢や希望に燃える少年少女達にエールを送れる映画かもしれない。
でもみんながその段階に至っているわけじゃない。
他者の評価に依存して挫折して現実逃避している人間の、生きているというよりまだ死んでいないだけの人間の、報われない戦いはまだ続いているんだ。