はてなキーワード: 意識とは
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基本以心伝心で意思疎通しなきゃいけないから、きちんと上下関係を意識させておかないと集団が崩壊するんだよ
大元のマシュマロは心情が全く理解できないから叩かれてるわけではないと思うけどな。
エロ同人を買うのに作者のおっさんを見たくないから同人即売会に行かない男性だってそこまで珍しくないわけで。
だから、詳細に心情を説明されても「じゃあマシュマロの肩持つわ」とは別にならない。
件のマシュマロは「配慮」という建て付けでこだわりを作者に押し付けて作者の自由や権利を侵害することがあたかも読者の権利であると錯誤してる点が突っ込まれてるのかと。
運営が男性の参加を禁じているわけでもないのなら作家の行動は妥当で、そこに無自覚に参加して傷ついたのなら、次回からは「女性オンリーのイベントに参加しよう」とか「オンラインでだけ楽しもう」とか相手の権利に抵触せずに自分の希望を実現するプランを検討するのが人権意識を持った人間の発想でしょ。
俺「違う!俺はお前の恋人じゃない!」
A子(強情だなぁ……じゃあ、もっと気持ちよくさせてあげるね♪)
そう言うとA子は俺の脳を捕食し始めた。
俺「やめろぉ!」
俺は意識を失った。
A子はしばらく俺の脳を味わっていたが、やがて飽きてしまったのか俺の体から触手を抜き去った。
A子「美味しかったよ」
A子「えっ? 何これ?」
触手はA子の体に絡みつくと、そのままA子を捕食し始めた。
A子「ぎゃああ!痛い!」
俺「ふう……危なかったな」
俺「これで一件落着だな」
A子が完全に消化されたことを見届けた後、俺はA子の使っていた部屋を後にした。
命を張ってる意識がない人はどうにもならない
それとも女は人権配慮される側であって人権配慮する側ではないと思ってるとか?
恋愛弱者やチー牛が増えていく日本で、女性を大事にしようって意見はもう身の丈に合わない贅沢品なんだと自覚してほしいね。痴漢対策について俺は困ってねぇからって意見が出てくるのもその前兆と言える。
だって女性は別に恋愛弱者やチー牛に対して人間としての尊重なんて持ち合わせてないからね。キモいので近づかないでください、自由席でも隣に座らないでください、夜道を歩く時は男性から別の道を歩いてください、エレベーターには同乗しないでくださいってね。
自分を大切に扱ってくれない女性たちのために何かの配慮をしなきゃってなるわけないよね。常識で考えればわかると思うんだけど。それとも女性たちにとってはやってもらって当たり前だから気づかないのかな。
大切な女性がいるならまだしも、そうではない、女性との接点がない男が、ただ女性を慮ってくださいって社会的コストを支払い続けてくれるはずがないでしょう。
恋愛弱者とかチー牛の男を尊重してください、みたいな話がしたいんじゃないよ。この先、彼らを大切にしようなんて風潮は出てこないし、議論もされないと思うね。
それは女性への配慮と逆相関だって話。今後、恋愛弱者やチー牛がどんどん増えていくにつれて、女性へ配慮しなきゃいけないよねって男なんとなく背負っていた社会的な責任感はどんどん薄れていくだろう。
それに文句を言うなってこと。
好き嫌いや愛憎は、個人の価値観を反映する。価値観は快・不快と損得(利益と損失)を二軸とするマトリクス図で表せる。マトリクス図には「快く、利益を得る」「不快で、損失を受ける」「快いが、損失を受ける」「不快だが、利益を得る」という四つの区分ができる。このうち「快く、利益になる」が好き、「不快で、損失を受ける」が嫌いに分類される。ちなみに快・不快は生まれつきの性格によって決まり、損得は目的意識によって決まる。すなわち価値観は先天的な性格と後天的な人生の目的の二つが揃って初めて確かなものとなる。
快・不快と損得の正負が一致せず、好き嫌いに分類することのできない矛盾した感情がある。「快いが、損失を受ける」「不快だが、利益を得る」の2つである。この2つの感情は、個人の内面では明確に区別されない、ほぼ同一のものである。この感情を元にした行動が対象の利益になる場合、その感情は愛と呼ばれ、行動が対象に損害を与える場合は憎しみと呼ばれる。
すなわち愛憎は自己と他者(あるいは行動主体と対象)の快・不快や損得が対立する場合のみ生じる。対象の快や利益が自らの不快や損失となる場合、あるいはその逆の場合に、どちらを選んでどちらを犠牲にするかを選択した場合にのみ、愛や憎しみは生じる。
また、一人の人間の内面にも対立する快・不快や損得が存在するため、しばしば自己への愛と自己への憎しみが同時発生する。いわゆるトレードオフである。この対立は、意識して調整する必要がある。
例えば食事について、食べ過ぎて太ることに悩む人がいるとする。食べることが快いのは先天的なことなので簡単には変化しない。太ることにより利益を得ていればそれは「食べることが好き」であり、問題は生じない。しかし太ることにより損失を受けると感じる場合は、自己への愛と自己への憎しみが同時に生じる状態となる。この時、調整の方針は3つある。一つは、愛憎を逆さまにすること、すなわち食べないという不快を選び、太るという損失を受けない状態にすることである。二つ目は、快を得たまま利益を得られる方法を考えることである。三つ目は、食べることの快さそのものを否定するものであるが、これは生まれつきの性格を否定するため実現は難しい。そして現実には、一つ目の方針として食事制限や拒食、二つ目の方針として有酸素運動または過食嘔吐を選ぶ人がいる。そして愛と憎しみを調整せず、好きなだけ食べて自分の体型を嫌悪する人もいる。
愛憎の調整は難しいが、放置はやがて破滅を招く。どの方針を取ってもうまく調整できない場合は、損得の軸を見直す必要がある。すなわち人生の目的を見直し、場合によっては変更する必要が出てくる。しかし人生の目的を変え、損得の軸を変更することは、既存の価値観全体が変わることであり、好き嫌いの変化が生じることもある。一人の人間にとって多大なストレスであるため、このような転換はそれを上回るストレスに遭遇しない限りは滅多に行われない。
最近は依存先を増やすといって、損得の軸を増やして複数の価値観を行き来する方法が紹介されている。価値観の切り替えには、アスリートが用いるルーティンの手法が参考になる。
社会の中で生きてて治安維持コストを負担してないということはありえない。
各自自衛しましょうではなく負担をなるべく均しましょう、「直接関係ないリスクのためにあなたも少しだけ損をしましょう」というのが国民国家のシステムそのものだ。
既に当然に支払っているものは意識の外にあって見えてないだけ。
痴漢対策は「追加負担だからいやだ」とでも言うのかもしれないが、それならどこからが起点なのか。社会はずっと続くことを前提にしてできている。
ただただ幼稚。
他人のために何かをする気が最初からないから、非モテやチー牛になるし、その怠惰と無能を批判されてるんだよ。
他人のために他人に不快感を与えないよう最低限の自己ケアをする意識があれば、非モテやチー牛なんて呼ばれない。
物事の順序が逆だよ。
これを「そう感じる私の感性や意識に欠陥があります」という意味で使っている人を見たことがない。「そう感じさせるお前の存在が害悪です」という意味でみんな使っているでしょ。究極の他責の言葉なんだよ、これ。だからこれを多発している奴はヤバい。
ほとんど女性主人公でたまーーーーーーーーーに男性主人公の時がある位、あれが許容されてる理由がよく分からない
女性主人公である必要は無い訳で、要するに女性をアイキャッチャーとして前面に出した方が儲かるからっていう性的な搾取でしょ?
広告で若い女性ばかり起用するのと同じ問題があると思うんだけど、ガイドラインとか無いのだろうか?
例えば1つの広告、1つのドラマでたまたまモデルや主人公が女性なのは仕方が無い、母数が少なければバランスを保つのは難しい
でもこれだけ多くの朝ドラが造られてここまで主人公が女性に偏るのは作為以外にあり得ないでしょ、ランダムに選んでるならもっと偏らなくなる筈だし、ジェンダーバランスが偏るのを避けるのも簡単な筈
例えば朝ドラ以外のドラマが男性主人公ばかりで、朝ドラが女性主人公に偏ることで全体のバランスを取っているとかならまだ分かる、でも他のドラマも普通に女性主人公も居るし、そういう訳でも無いんだよね?
フェミニズム的にアウトだと思うんだけど、何で誰も声を上げないんだろう?怖い
追記:
そっちもかなりフェミニズム的に問題だよね、ジェンダーバランスを改善すべき
というか丁度「光る君へ」もやっているし、おそらく大河制作側内部でもそういう意識は有るんだとは思う(遅すぎるけど・・・・)
これから大河も女性主人公を増やしていくんだと思うし、そうすべき
で、その上で「大河が男性主人公が多いんだから、朝ドラは女性主人公が多くてもいい」とはやっぱりならないよなぁ、と思う( 「例えば朝ドラ以外のドラマが男性主人公ばかりで、朝ドラが女性主人公に偏ることで全体のバランスを取っているとかならまだ分かる」とか書いといてなんだけど・・・・)
それだと「朝ドラは女性主人公が多いんだから、大河が男性主人公が多くてもいい」とせっかく進み始めた大河の改善を止める正当化に利用されてしまう
大河のジェンダーバランスを改善すべきだからこそ、朝ドラのジェンダーバランスも偏りを失くしていかないといけない、とフェミニストの私は思う
(フェミニスト的には大河の方が制作費や出演者のギャランティが高そうなのも気になる、もしその通りなら、結局男性の多い大河の方が優遇されて、朝ドラと比較しても男性が優遇されているのと変わらない事になってしまう)
体育館で子供に延々と叱りつけている光景をよく見かけるが、見るたびに気分が悪くなる。
やれ、腰の回転だの、手首の角度だの、膝の伸展だの、ラケットの回し方だの逐一報告してくるが、そんなに言われたって、できません。毎回、違うことを言われて、直せるわけないだろ。そもそもその角度で打つと、不自然な回旋になるから手首を怪我するぞ。
上手い選手が全身の関節の角度を一つずつ調整して、今の形になっていると思っているのかな。正しい意識を覚えれば、自然にそうなるだけで、自然にそうなるように仕向けるの指導だろ。連続した動作とかどうするんだ。全部角度を意識して調整し続けるのか? そんなことしてたら敵はコートの向こうにいるのに、自分との戦いで終わるやん。
むしろ正しい練習を設計すれば、言葉もそこまで必要ない。正しいか正しくないかを子供でもわかるレベルに分解してないから、不自然な言葉で補っているだけだろう。
中国武術の直弟子なら仕方ないと思うが、なぜその辺のお母さんが形にこだわっているのか、正直不思議ではあるが、未来の競技者を減らすようなことはやめて欲しい。