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映画「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」について、楽しめたのでその感想を書く
映画「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」をすでに見て、そして楽しめた人
本当ははてなブログに書きたいが、他の様々なエントリやSNSを見ている限り、これはパブリックエネミーとなってしまったのでここに書く。トラバやらはてブの反応は一切見ない。異論があることは認めるがそれをいちいち納得も承服も反論もしない。
先に世に出ているエントリを見る限り、このコンテンツもこのコンテンツの制作者も邪悪なものとして一方的に殴られている光景がほとんどであり、それに対して肯定的な感想を書こうものなら、人格まで否定される攻撃を受けかねないと本気で心配しているため、なんとしてもidを伏せる必要があった。
肯定的に思えた人が同じ感想をwebに求めた際、ポジティブな気持ちである人がちゃんといることが伝わるといいなと思っている。
ドラゴンクエスト5を真面目に映像化しようとした場合、これは最低でも3部作延べ6時間は必要だよなぁ……というのが見る前に思った感想であった。それをどうやって単発の映画にするのだろう、単発にしてしまった場合、どうしても雑なダイジェスト版になってしまうのではないか、という不安でいっぱいであった。
そして視聴した。単なるDQ5の再構成として見るのなら最悪であると思うが、すでにDQ5のストーリーを熟知した観客を前提として単発の映画の中で収めるの中であれば、非常に効果的な再構成であったと思う。子供時代はほとんどすっ飛ばしたこと、ヘンリーに対するマリアやら祖国のゴタゴタをカットしたこと、結婚イベントと天空の剣とブオーンを一カ所にまとめたこと、主人公の出自判明から帰郷をカットし出産までをさくっと終わらせたこと、子供を双子から息子のみに絞ったこと、話の目標を大神殿へ集中させたこと、マスタードラゴンと妖精の国をラストにさっくりまとめたこと、このあたりの再構成を大胆に必要最低限のチョイスで、最大限映える形で行っていたと感じている。
ストーリー上のご都合とも思える、あるいは崩れた主人公の動きは、最後の暴力的で破壊的なオチによって強引に解決される。しかし、そもそもここまでのストーリーのカットが行われている以上、どうあがいても強引にならざるを得ないのだ。下手に取り繕えば取り繕うほど、ぐだぐだとだれてしまうものになるのは過去の様々な映像化が証明している。それならば一思いに根本から覆す舞台(VR的な世界の設定)を準備する方が潔く綺麗にまとまる。その判断に感動をした。
このあたりである。
DQ5でやる必要があったのかと問われると分からない。ただ、DQ5はこれを実現するのに、非常に適した内容であるとも感じた。それは
このあたりの要素である。
特に、しばしばネタにされる「主人公が実は勇者ではなかった/人の親なのでした」という話について、この構成を最大限に生かしていると感心したのである。
というのは、特に日本における大体の話において、主人公というのは年の若い方の存在であり、親子であれば子の方が選ばれがちだからである。見栄えとしても、話の中心が勇者である子供の方に移ってしまうことを避けられないしかし勇者の存在は必要であるところを、DQ5のメタ構成とすることによって自然に解決している。
身も蓋もない世界に対する説明が十分な覚悟や予兆が提供されることなく急に差し込まれてくる、という所はどうしても否定できないが、そのあたりを(どうにか)受け入れてみると、とても綺麗で丁寧に作られているものだと思う。私はこの大胆なアレンジと、コンテンツの映画化ではなく、コンテンツを題材とした映画化をとても楽しむことができた。
もし、似た思いの人がこの世界のどこかにいて、その人にとって本エントリが楽しく読まれるもであれば、非常に幸いに思う。
楽しめなかった人については、何故それが楽しめないのかは十分に分かるし、そういう人に対して書ける言葉がどこにも存在しないことも自覚しているつもりなので、不快に思った人に対しては、特に何も主張するつもりはない。だからこそ、私はこれを増田に書いたのである。
まあ読み進めれば慣れてくるんだけど、ひさびさにSAOの最近のやつを手に取ったら冒頭からこんな感じ。
まるでおとぎ話に出てくるような美しくも微笑ましい光景からは、(略)最大級の戦闘力を持つ《整合騎士》へと成長するであろうことがなかなか想像できない。
いやいや、美しく微笑ましいって誰の感想だよ、神視点にしても「おとぎ話に出てくるような」なんてたとえ使うか?神ともあろう者が。なかなか想像できない、ってなんだ「なかなか」って。お前にも想像つかないんか。
シリーズ最初っからずっとこうで、まあ入っちゃえばお話とか設定とかは面白いんだけど。アリシゼーション編良かったです。
こういうラノベ文体ってやっぱり想定読者に合わせてるのかな。あるいはおれが知らないだけで、ラノベ特有でもなく一般の文芸でもこういう感じの作品ってあるもんなの?おれはあんま読書しないから、読書家がどう思うかちょっと気になる。
ラノベでも「狼と香辛料」とか、違和感ないやつも結構あった気がするけどどうだっけ。
なろう系とかだとより自由な感じだったりするのかな。
それは「女性化フェチ」漫画。昔から「チンコのついた美少女」好きなノンケは一定数いるから。
ノンケが不快感なく興奮できるように作られたキャラの言動でLGBTの世界を覘いたと思ったことがすごい。
他の人も散々言ってるが、おそらくその漫画の作者も想定読者も全員(男の娘に興味があるだけの)ノンケだぞ。
”「男なのにチンコ入れられて気持ちよくなっちゃう―」っていう性の歪みに向けられている”のはノンケのフェチ趣味を満足させるため。
ノンケ読者にチンコのついた可愛い女の子を洗脳する快感を与えたり、自分が女の子にされる妄想を満足させるための創作。
なので、いくつか「ゲイにも色々な人がいる」って反論あるけど完全な見当違い。
そもそも「男の娘」は自意識が男で性対象が男のゲイ(G)じゃなくて女になりたいトランス(T)か、
女扱いされる自分に興奮するフェチの一種(つまりノンケ)かだ。
その漫画に出てくる「男の娘」は言動から見て、典型的な女性化フェチ男じゃないか。
ガチのトランス(心が女)なら、男として男と愛しあいたいゲイとは完全に人種が違う。実際交流はほとんど無い。
男の自意識のまま「女の子にされる私」に萌えるってのは「自己女性化症(オートガイネフィリア)」って種類。
そういう人向けの漫画でゲイを知ろうというのは、女の描いたボーイズラブで男の気持ちを知ろうとか、
今、日経新聞では林真理子の小説「愉楽にて」を絶賛連載中である。
ほどほどにエロパートがある、朝のサラリーマン(中高年)の癒しのページである。
主人公の久坂はなんかの会社の大株主かつ取締役で五十代のくせに1日2回違う女と
セックスをするという、想定読者が歯ぎしりをして羨むような境遇である。
失楽園の時もそうだったが日経はこういう小説をよく載せるものだ。
これによって購読者が増えることはないだろうが……
今日の話では飛行機のCAが「今度食事でも……」とフライト中に名刺を渡してくる。
外国のエアラインだが、座席は当然ファーストクラスだ。CAって逆ナンするのか。
最初は気持ち悪いなと思って読み出したが今では毎日心待ちにしている。
http://anond.hatelabo.jp/20170525145352
どちらかというと大学側に同情している情報系の院生なので,以下の内容はそのようなバイアスがかかっていると思われます.
個人的な感覚では「インターネット上に公開したものは分析・批評の対象となる可能性がある」と思っているので,この点について著者を責めるのは難しいと感じます.
オタク的に言えば、「任意の作品は,2次創作の対象となる可能性がある」程度の感覚です.ここで大声を上げすぎるとブーメランにならないのかとヒヤヒヤします.
公開した論文は必ず批評・文献の対象となる可能性があり,それに際してわざわざ許諾を取る必要はなく,必要があってはならないと言う文化が存在するのもその一助となっているのではないでしょうか.
一方で,論文の趣旨に対し,「対象の作品の作者は誰か」「対象の作品の種別がBLか・そうでないか」は重要な情報ではないため,わざわざ記述する必要もなく,当てつけのように受け取れるとは思います.著者はそこまで考えてないと思いますが.
論文の再現性を考えると,pixivのランキングは過去のものも参照できるので,「201x年y月aa日〜bb日のウィークリーランキング上位10小説を対象とした」程度でよかったのではないでしょうか.
また,「自分の公開した論文が想定読者以外の人間に突然有害と言われ不愉快だ」という点においては,研究を行う側としては気をつけていかなければならないと思いました.「猥褻表現のフィルタリング」くらいが妥当でしょう.
もしくは「pixivって男子に人気で見ても男同士の小説がかなり混ざるので,(実用の為に)分類したい」くらいですかね.個人的にはこの問題があるのでノクターンノベルズの方が好きです.
一般の方を名指しをするなら許可を取ろうね,くらいの話で収まってほしいと思います.何か法的に明らかに危険だ,とは感じないので……
学生の処分みたいな話になったらさすがに大学の上の方々の頭の中身を疑います.
「うちの客が不愉快になったんだけど」以上の対応は取って欲しくないです.pixivは内部で多少機械学習を行っているようなので,あまり極端な対応は取らないと思いますが.
もしくはこれを機に,匿名処理を施したデータセットの販売なんかを行っても良いんじゃないかと思います.
インターネットには気をつけよう.
このような研究は,当然pixivが内部でやっていると思われるので恐ろしいテーマ選択をしたな,と思いました.研究途中にpixivが何かを出してきたらどうするんだろう.
健常者も障害持ちも知能の分布は大差ないわけだし、起業とかスキルアップとか考えられる仕事に就ける程度の能力レベルを有する人材なんてそんなに多くはないでしょ。
借金玉のブログとかもそうだけど、自身も想定読者も比較的高い学力を持ってることが前提だから、ブコメで話が噛み合ってなくて紛糾してるのを見てるとうんざりする。
ADHDの人はパフォーマンスの期待値で考えると相当レベルを落とした職場で仕事をしない限り、尋常じゃないストレスに晒されることになる。
低いパフォーマンスの期待値を瞬間最大風速で粉飾して、無理に能力以上の職場に適応しようとすることの良し悪しは個人の価値観によるから俺がどうこう言う話でもないけど。
裁量労働が認められているような専門技能が要求される職種だと、発達障害の傾向をうまくカモフラージュしてパフォーマンスを発揮してる人も散見される。
仕事内容自体が過程よりも結果が重視されるがゆえ、職場の全体的な雰囲気として他人の仕事のやり方に寛容であるという土壌が、そういう人材を醸成してるともいえる。
もっともそういう職種に就いている人は、障害の有無にかかわらず十分条件としてほぼ漏れなく比較的高い知能運用能力を有しており(結果的にほぼ受験難関校出身である)、全労働人口の数パーセントにも至っていないのが現実であろう。
超過勤務の是非にかんするエントリでブコメが地獄のごとく紛糾しているが、知能がよくも悪くもないごくありふれた発達障害の労働者が、マジョリティの労働者として職場に適応することの困難さや絶望を想定したコメントがちらほらあり、ネタ元のどちらかと言えばハイアチーバー・マイノリティ労働者の考え方と噛み合っていない点に苦しさを覚える。
ネタ元のブログ主側も、自身の経歴・立ち位置をいまいち明確化していないため、想定読者をどの辺りに置いているのか不明確な点がそもそも問題であるとも言えるが。
【インタビュー】字幕翻訳者・戸田奈津子さん「エッ?と思う字幕は、どこかおかしいの」
https://www.buzzfeed.com/eimiyamamitsu/interview-with-natsuko-toda?utm_term=.bhpJ8y62dK#.pf3GDwzR2e
を読んだ。全体的には一方的な自己弁護を垂れ流すだけの提灯記事だが、インタビューという性質上これは仕方のないことなのだろう。この記事の良い点は、戸田奈津子という人の見当違いな自己顕示欲を浮き彫りにしているところだ。
「叩く扉もなかった」字幕翻訳という仕事に、その道の第一人者に直接食らいつくようにして取り組んでいった前半生は感動的でさえあるし尊敬もしよう。しかし一人前として仕事を任され、一定の地歩を固めつつあった頃には、質的な研鑽よりも量的なアピールに重きを置く仕事ぶりだったことがよく分かる。
それは時代というか当時の映画産業の要請でもあって、戸田個人に責任を帰すことも出来ないだろうが、何度も立ち止まるチャンスが有ったにも関わらず、過剰な自信に満ちた「職人魂」みたいなもので自分を虚飾したい一心で、本質的には作品に奉仕するべき字幕翻訳者のあり方を歪めた自己像を描出し、直そうともしなかった。それがこのインタビュー記事で表現されている「字幕翻訳の女王」の実態だ。彼女はことあるごとに「文字数は自由だし調べ物にもゆっくり時間をかけられる文芸翻訳とはわけが違うのよ」式の言い訳(師匠の発言の一部を都合よく切り取ったものだ)をして、質を犠牲にしてることを棚に上げて早業自慢を繰り返すが、この記事もまさにその例を一歩も出ていない。ほとんど馬鹿の一つ覚えだ。
せっかく日本一名の売れた字幕翻訳者になったんだから、個人の早業を自慢するよりも、字幕の質的向上のために制作・配給側が用意する時間や予算の拡充をアピールするのが筋なんじゃないのか? と私などは思うのだが、そんなことは自己否定になりかねないのでできない。映画や観客より自分が大事だからだ。徹底して裏方仕事に向いてない性格なのに(だからこそ喰らいついていけたとも言えるが)、なぜか字幕翻訳者になっちゃった人で、その上根っからのダンピング体質なんである。広く「第一人者」と呼ばれるものの最悪の事例として歴史に記録されるに値する人物だろう。
戸田字幕の具体的な問題点については、今ではある種のネットミームと化していて、山のように検証を綴ったページがヒットするので、ここでいちいちあげつらうことはしないが、この記事を読んでそれらガッカリ字幕の根本的な原因を確信できた気がする。戸田奈津子自身の映画作品に対する理解力が低いのだ……というのはあまりにも失礼なので、観客(想定読者)の理解力を低く見積もりすぎ、と留保つきで言うべきなのかもしれないが、とにかく画面に映っているものや脚本に対する読解力が低い翻訳をしてしまっている。軍事用語や「指輪物語」の専門用語に通じてないせいで勝手流に造語しちゃうみたいなことは、専門の監修者をつければ(それさえ不服のようですが)済むことだが、理解が浅いまま手癖で字幕をつける悪癖についてはせめて直そうとする姿を見せてほしいと思う。
どんな作品であれ受け手によって読み出せる情報量は変わるものだが、戸田字幕はその理解力の設定が最小限になってるみたいな字幕なのだ。そんなとこを端折ってしまったら、まるで子供の頃に見た「大人の映画」のように途中で筋が追えなくなるだろうな、と思うことさえある。一通りセリフが聞き取れるとか、背景知識も揃っているような人間が見ると「エッ?」となるような訳を乱発してしまっているのである。これは映画字幕という表現媒体そのものの制約なのだろうか? 単に投下すべきコスト(時間と人員)をケチってるだけじゃないのか? なにしろ理解力が乏しいゆえにかえって回りくどい表現をして、大切な字数を浪費している例さえあるのだ。単にこなした本数が多いから下振れが記録されているだけと擁護することも出来るが、それを言うとかえって早業自慢の露悪性が強調されるというものである。
そして戸田字幕に感じる理解力の低さ、雑さの遠因が、このインタビューでは明らかにされている。ただの映画ファンとして、「作品のファン」としての経験を積まずに映画を見まくった原体験が、映画を十分理解せずに、ざっくりと筋がわかれば(たまにそれにも失敗する)いい、という仕事を次々とこなすことを良しとする「映画字幕の女王」を産んだのだ。それは映画というものの立ち位置が変わってしまった現在には全くそぐわない態度であると私は思う。
多くの人が週末には何かしらの映画を見て、学生なんかは金の続く限り映画館に入り浸って、それ自体が楽しみで、何度かに一回面白いものがあったら儲けもの、といった時代はとっくに過ぎ去った。多少荒っぽい仕事があっても、「まぁそんなこともある」と納得してすぐにまた映画館に足を運んでくれる観客は絶滅危惧種と言っていい状況で、「とりあえず筋の追えるものを今週中に」みたいな品質でつけられた字幕を使う理由はほとんどないと言って良いんじゃあるまいか。なにもタコツボ化したマニアだけが字幕翻訳者の理解不足を責めているのではない。字幕でスクリプトの情報量を100%伝えろという不可能を要求しているのでもない(そんなことを言ったら、原語が完全に理解できても伝わらない部分は常にある)。娯楽が多様化する中で、金と時間を使うに値する丁寧な仕事で競争できているかが問題なのだ。
そもそも多くの映画は長い時間をかけて作られるものだ。製作に着手してから数年かかることはザラだし、驚くべき短期間で撮影が終わったというような作品でも、原作を読み込んで脚本化するのに何十年もかけていることだってある。そしてそれを待つファンも何十年越しで待っていることだってある。それだけの労力と期待を集めて公開される作品の最後の工程に、パッと見の印象を伝えるので精一杯みたいな字幕がついていて良いのだろうか? 日本人の英語力の向上には役立つかもしれないが、自分で聞き取れるようになったからといって問題が無くなるわけではない。「自分は内容がわかっても、あまりにも作品に無理解な字幕がつけられていることに耐えられない」という作品のファンの心理を考慮せずに仕事を続けることは、今や娯楽の王座から落ちて、比較的嗜好性の強いものになった洋画のファンには悪印象しか与えない。それに洋画ファンだけの問題でもない。どんなジャンルの仕事であっても、雑な仕事というのはそれに初めて触れる者に「なんとなく面白くないな」という印象を与えてしまうものである。それを防ぐために必要なのは、十分な準備期間と作業時間を用意することによって得られる翻訳者の深い作品理解だ。翻訳者に十分な時間とリソースが与えられ、一つの作品に使える労力を拡大することのほうが誰にとっても良いことなのではないか? すべての原因を「文字数の制約」や「納期の短さ」に帰することが出来るという甘ったれた足かせを自慢できればそれでいいのか?
戸田字幕の映画理解力の低さが、意図的に設定されているものではないと疑う理由がもう一つある。戸田は字幕翻訳が単独作業である理由として、「セリフの言い回しやリズムを統一するのに余計な時間がかか」るということを挙げている。そんなことを言っていたら、作中でセリフの言い回しやリズムを敢えて変えることで、登場人物の心理的変化や場面転換を表現する映画は原理的に字幕に乗らないことになる。これほど馬鹿な話はない。「こいつは最終的に悪ものになるやつだから、最初は丁寧にしゃべってても荒い口調で統一しとくのが親切」みたいな字幕が付けられた映画を、誰が見たいだろうか? 一つ一つの映画作品の性質をよく理解しないまま、ちぎっては投げみたいな仕事を続けてきたせいで、どんな映画も同じような構図に当てはまるよう訳すのが当たり前になってしまっているからこそ、セリフの統一感があることが「透明な字幕」の必要条件だという勘違いを起こしてしまうのだろう。映画が転調したときには字幕も転調するのが「透明な字幕」で、そのためには複数の視点が必要になることだってある。脚本や演出の意図を読み違ったまま、理解をし損なうことは避けられないからだ。いつまでも「一人の字幕翻訳者が短い期間で理解できた範囲」としての映画字幕が作られ続ける状況を肯定することは、この人の取るべき道ではない。それは決して映画のためにはならない。
「ロード・オブ・ザ・リング」の第二作以降は、原作の翻訳者がスクリプトの全訳を事前に行った上で、それを参照して戸田が字幕を作成し、改めてチェックを受けるという体制が敷かれたようだ(インタビューではその経緯をまるっきり無視していて、結果的に監修者の仕事を貶める傍若無人ぶりが表れている)が、これに似たことが常識的に行われるように働きかけしているんですよ、といった風のアピールをするほうが、「第一人者」としての尊敬を集めるのではなかろうかと私は思う。
現在の洋画の年間公開本数は80年代末以来の第二のピークを迎えている一方、戸田の仕事は当時の1/5近くまで減っている。文芸関係に限って言えば50歳ごろに確立した仕事のペースを守っている80歳なんていくらでもいるので、年齢のせいばかりでもないだろう。その事自体、戸田が翻訳者の待遇改善に取り組んだことの証左だと弁護することも出来るかもしれないし、実際にセリフを聞き取りながら見て「ここをこうやってまとめるのか、上手いなぁ」と思える翻訳者が増えてはいるので、まぁ戸田奈津子の問題ある訳というのも、そろそろ過去の話だよね……と最近は思っていたのだが、私はこのインタビューを読んで気が変わってしまった。やはり早いとこ全面的に後進に道を譲って、ご自身は字幕翻訳の質的向上のために翻訳者の待遇を改善する言論を起こされるなどしたらいかがだろうか。それが名の売れたものの使命と思ってはもらえまいか。いい年してよいしょインタビューに答えて、自分の大ポカで迷惑をかけた監修者の名誉を傷つけるような非道い言い訳を垂れ流している場合ではない。
今さら早業自慢を封じられるのは、自己認識からすれば転向に映るかもしれない。ひょっとしたら一気に老け込んじゃうかもしれない。しかし、昔よりずっと観客同士の横のつながりが強くかつ広範囲で、作品についての情報も手に入れやすい今だからこそ、字幕翻訳に要求される水準が上がっていることを認識し、それに適切に対応するように送り手たちに働きかけをする姿は、映画ファンの心に強い印象を残すはずだ。個人的な快刀乱麻の仕事ぶりを自慢するのはもうやめて、業界全体で作品の質に貢献する、充実した作業環境を残せるよう声を上げる好機なのではないか。それでこそ「字幕翻訳の女王」としての尊敬を集められるのではないか。今のままではせいぜい良くて「時代の徒花」といったところである。
エンジニアから見たSIerがクソな理由 - 負け犬プログラマーの歩み
↑の記事を読んでいて、SIerってそんなにヤバいのかなぁと思い、衝動的に書き連ねている。
SIerと出版社中心で就活していて、それぞれ1社ずつから内定をもらい、出版社のほうを選んだ。
SIerはSE職で内定をもらっていて、出版社では入社以来編集者をしている。
SIerの方(仮にA社とする)は社員数4ケタの元請けSIerで、毎年新卒が100人ほど入るらしい。
一方、弊社はA社の数十分の1の社員しかいない専門出版社で、新卒が入らない年すらある。
はてなにいるとSIerの話がよく出るので、就職した後もA社を気にかけることがあるのだが、果たして自分がA社に入っていたら、どんな人生が待っていただろうか。
◎給料
大手SIerの給与ランキング。平均年収は800万円前後か : IT速報
ここのランキングに載ってるのが正しければ、あまり変わらなさそう。
ちなみに出版社と言えば三大(小集講)の給料がバカ高いことで有名だが、弊社含むそれ以外の中小出版社は大したことないことが多い。
出版社は、一般に刊行周期が短いほど激務になる傾向がある。週刊誌編集部はそれこそ過労死レベルの激務と聞くが、弊社のような書籍メインのところはそこまででもない。
所定労働時間はA社は7時間半、弊社は7時間なので、時給換算だと弊社のが若干有利かもしれない(出版社は実働7時間のところが多い)。
あと、A社だと夏休みを有休で取ることになってるらしいから、有休消化率は高くなったかも。
弊社は有休とは別に夏休み(=ひと夏で消える有休)があるので、本来の有休までなかなか消化し切れない。
◎仕事内容
期間はA社のほうが長そう。さすがに2年目の今頃には現場にいるだろうが。
A社だと多少コーディングに携わって、その後は進捗管理とクライアント折衝が中心だろうか。
いきなりということは無いだろうが、やがて何十人以上のプロジェクト管理やることになりそう。多数の協力会社(はてな用語では下請け)の人と共に……。
出版社で現場に入って最初にやったのは、校正・校閲(本の誤字脱字・内容チェック)。
そこから先輩の指導で本を1冊担当し、編集プロダクション(編プロ)の人と共に本を完成させた。今は、何冊かを同時並行で制作しているところ。
編プロはうちの業界の場合ライター兼編集者が集まった会社で、編プロに書いてもらった原稿を自分ら出版社の人間がチェックする。
まとめると、↓に書いてあるのと近いが、編プロが筆者を兼ねている場合がままある。
http://anond.hatelabo.jp/20150212124233
SIerと違うっぽいのは、SIerは人月で仕事を投げているのに対し、出版社は1ページいくらで編プロに原稿料を払っていること。
なので、出版社の編集者が、編プロから出てきた原稿に何度ボツを出しても、出版社が払う原稿料は変わらない。
優秀な編プロならボツも少なく、彼らにとっても割がいい仕事となる。
一方、そうでない編プロだと「今回のボツで、先方の時給が最賃以下になったな」と同情することもしばしば。
でもボツ原稿を出版するわけにはいかないので、頑張ってもらうしかない。それを応援するのも仕事のひとつ。
あまりにひどい原稿が出てきて、かつ時間がない場合は、自分らで原稿に手を加えざるを得ない。たまに「自分は赤ペン先生かな?」と思う時がある。
裏を返すと、技術力(文章力や専門知識など)は日常的に磨かれるので、フリーのライター&編集者として独立する元同業者は割と珍しくない。
◎やりがい
動くカネの量や成果物を使う人の多さは、A社のほうが大きいと思う。実際「大規模プロジェクトを動かすプロマネ志望!」と言いまくって内定をもらった。
自分のプログラミング能力は皆無に等しいが、技術力を活かすより多くの人に影響を及ぼせる仕事がしたい気持ちの方が強かったので、A社でもそれなりに楽しめるのかもしれない。
弊社は専門出版社なので、想定読者数がそもそも少なく、動くカネも少ない。ただ、読者にとっては確実にニーズがあって、人様の役に立っているという実感は味わいやすい。
専門の人らのブログとかで、自分らが携わった本を褒めてくれていると素直に嬉しい。
◎会社の将来性
A社はじめSIerは受注産業なので、仕事していれば食いっぱぐれることはないが、逆に言うと仕事し続けないと儲けられない。
一方、弊社はじめ出版社はメーカーの側面があり、成果物の著作権は自社にあるので、当たれば労なく稼ぐことができる。
(逆に言うと、どんなに頑張って商品を作っても、売れなければ儲からないということだが)
それなりに続いている専門出版社の場合、その道の人が必ず買ってくれる本というのがあって、そういうのが利益を下支えしている。
◎自分の将来性
A社のほうが業界的に転職が多そうだが、プログラミング能力がないまま転職できるのかという不安がありそう。
弊社はフリーになる道もあり得るが、原稿料商売では弊社にいるより稼げないのは目に見えている。
起業して編プロの社長になれば儲かるかもしれないが、社員をこき使うことによる良心の呵責で死にそう。
元請けSIerも出版社もプロマネがメインという点では共通しているし、磨けば他社でも通用する汎用的なスキルだと思うが……業界知識の壁があるか。
出版社に入って「自分らが権利を持ってるって強いなぁ」と実感しているので、将来独立するならば、自前のコンテンツでご飯が食べたいと思う次第。
http://ameblo.jp/akky-0829/entry-12188216276.html
かの有名な源氏物語では、頭中将(光源氏の親友、プレイボーイ)が、「女は中の品(中流)が良い。身分が高すぎると高慢だし身分が低いといやしいから」と語っています。
何故いきなり源氏物語の話?と最初は不思議に思ったが、過去記事を読んで合点がいった。
「下には下がいる。(ダメンズがモテる理由)」と題された記事にはこんな記述がある。
階層1 既得権益人(上級公務員、難関国家資格者、大企業勤務者、成功した起業家など)
と、社会をざっくり4層に分類すると、女は階層3と4に9割近く属していると思います。
つまり、階層3と4の層は、商業高校のように男女比が、男2女8くらいだと思います。
(中略)
階層1の男が「自分は意外とモテない」と思うのはしかたないと思います。魅力が無いとかじゃなくて、単に、女が居ないのが原因だと思います。
2つの記事は対になっている。後者の記事では、男性に対して「下の階層の女と結婚しろ」と説く。前者の記事では、女性に対して「上の階層の男(光源氏)と結婚しろ」と説く。そして筆者に言わせれば女の9割は階層3と階層4に属しているのだから、ここで想定している読者も階層3と階層4に属する女性ということになる。
このことを念頭に置いて改めて例の炎上した記事を読むと、少し印象が変わる。第4階層の人とは口聞いちゃダメとか、犯罪者予備軍扱いしている点は差別的と言えるかもしれないが、この記事の想定読者も第4階層である。つまり、光源氏と結婚したかったら同じ階層の人とは手を切りなさい、と説いているのだ。これ自体は差別とは言えないと思う。これが差別なら、親が子供に「友達を選びなさい」とか言うのも差別になるだろう。
それから、筆者が「生存者バイアス」に捕らわれて努力不足の底辺を蔑視している、というトイアンナの指摘も当たらないと思う。例の記事にはこんな記述もある。
たとえば、一流企業の人が二流企業へ転職することはできます。でも二流企業の人が一流企業へ転職するのは難しいです。
ですから底辺階層の人は、ほとんど一生底辺階層です。たとえば売春婦が、丸の内の会社に転職できますでしょうか?努力によっては不可能ではありませんが難しいです。
努力ではどうにもならないから結婚するのだ。結婚しかないのだ。
この様な主張は女性誌などでもありふれているし、正直そこまで炎上するほどのものでもないんじゃないの、と思う。
なお、筆者はtwitterで「私は長年読んでくれている読者のことを思っていつものとおりブログを書いただけ」と主張している。長年の読者に向けて、長年の読者にしか分からないようなニュアンスで書かれた記事を晒しあげて、罵詈雑言を撒き散らしているはてな民の方がよほど醜悪に見えるのは私だけだろうか。
最近読書が楽しくて、月8冊くらいのペースで読んでいる。小説を中心に、前から気になっていたものやひとから勧められたものなど読んでいる。とても楽しい。
で、せっかくなので感想をきちんとアウトプットしてみたいし、読書感想ブログなどにも憧れるが、踏み切れないでいる。なぜならその感想というのが、どうにもウエメセで口汚い感じだからである。現時点では、いまは黄昏なりしmixiの友人限定公開の日記で毎月の読書感想をまとめているが(ほぼ備忘録である)……。
同時期に発売された漫画版とセットでの物語と言う位置づけらしく、前日譚と後日譚。でも漫画版を読んでなくても話としては独立している。
端的に言って挿絵は非常に嫌いな部類なので,漫画の方を読むことはないだろう。
「小説の合間に,本文に連続して漫画を挿入したらどうなるだろう」という興味は昔からあって,その答えを今回見ることができて勉強になった。
答えは「寒々しくてとてもじゃないが見ていられない」だ。◇◇◇(筆者名)の文章は相変わらず整っていてとても心地よいなあと思いました。読んでいて気持ちがよかったというのが全てで,正直物語やキャラクターはあまり記憶に残らなかった。こういう読書体験は個人的にはとてもすきだ。キャラクター性やドラマ性は,純粋に小説を楽しむにおいてはノイズだと思う。
おもしろかったー,のか?いや,でも面白かった気がする。◇◇◇の能力が超かっこよかったのに一瞬で殺されて悲しい。一巻同様,物語の展開が異常に速く,全体的にライブ感で生きてる感じの小説。すげえよ,まだ2巻なのに主人公属する日本支部が壊滅しちゃったよ。3巻以降はロードムービーと化すのか?……というか,出るのか?3巻。
いろいろと思うところはあったけど(ハーレム描写が不要すぎる,とか),みっつめの機関の名が明かされるくだりがもう熱すぎてすべて吹き飛んだ。3巻出るなら読みたいなあ。展開がぶっ飛ばし気味の話は,正直嫌いじゃない。
なんか妙にお利口でつまんねえ小説だな,と思って読み終えたら,あとがきを読むに既刊に出てくるサブキャラのスピンオフ作品だったらしい。あー,どうりで。内容自体はスピンオフ元知らなくてもわかる話でした。でもスピンオフ作品って,いろんなところへの配慮が透けて見えるから変にお利口に感じるんだよな。まあ,気付かず買ったわたしが悪かったんだが。
登場人物の、修士卒の身で科学館勤務で研究しつつ海外の研究室からもお呼びがかかってる,とかいう意味不明チート設定でむしゃくしゃして内容が頭に入らなかった。せめて博士課程卒にしてくれ。しかも,なんかどうにも受けの思考回路がキャリア形成<恋情で,てめえこらぶん殴るぞ,という感じだった。あれで「理系キャラ」だなんて反吐が出る。
うう,眩しい,話がなんだか眩しい……。
◇◇◇が『作家の魂』を描こうとして書いたというこの作品。面白かったんだけど,割と書かれていることがマッチョな感じで,ちょっと「ううっ」となりました。
個人的には,「お金目当てで書かれた小説」にも,「誤字脱字だらけの稚拙な小説」にも「つまらない小説」にも,等しく作家の魂はこもってるんじゃないかと思うよ。別に速く書けなくても,大量に書けなくても,多産じゃなくてもいいんじゃないかと思うよ。私はね。まあでもこの小説の語り手は中学生で,想定読者も中高生だから,その辺を対象にしているならこれくらいマッチョな方がいいのかもしれん。少年よ大志を抱け。
さすがにこれでブログを書くわけには……
でも、まったく文句のない自分にとってのとても面白い本なんて、20冊読んで1冊あればいいほう。嘘をついて褒めるのもなんか違う気がするし。だいたい面白いか面白くないかわかんないからこそ読むわけだよ。でも感想をアウトプットする以上、ブツブツ文句言うだけなら書かない方がましだよな。他人に不快感を与えるだけだし。読書感想をアウトプットするひとたちって、ホントみんなどうやってんの。
(追記)
もっとボロクソに言われるかと思ってたんだけど、いろいろと具体的な助言もらえて助かるっす。ありがとうございます。
という感じでしょうか。
ポジティブな感想じゃない感想も、求めているひとがいるというのは意外でした。口汚いのはよくないけど、ネガコメにも一応の存在意義はあるのだなあ。
これでいこう。ただやみくもに読むのもどうかなと思っていたので、そういう気持ちで読みたいものです。
ネガティブな感想が多いのは、たぶん根が暗くて愚痴っぽい性格なのでそれが文章に出てるんだろうな。
でも口でする会話と違って文章は下書きを溜めたり添削したりできるので、もうちょっとちゃんと頭を働かして、少しでもよいものが書けるようにがんばるよ。
(追記2)
作品名当てられてて驚きました。なんかすみません。筺底のエルピス待望の第4巻「廃棄未来」は今週末発売です。とお詫びの宣伝。ミケーラかわいいよミケーラ。
これは、らくからちゃさんが書いた http://anond.hatelabo.jp/20160519220812 への返信です。(いままで「らくかちゃ」さんだと思っていましたが、「らくからちゃ」さんですね。お名前を間違ってしまってすみませんでした。このエントリの時点で気がついたので、過去のものはログの保管の観点から修正してません。そちらについてはご寛恕を請う次第)
http://anond.hatelabo.jp/20160519220812 にて、らくからちゃさんは
と、いう話を書こうと思ったのですが、もしかして消されちゃいました?(更新ボタン押したら原文が見えなくなっちゃったのですが)
と反応されていますが、この話は、 http://anond.hatelabo.jp/20160518115232 で私と、もともとは、http://anond.hatelabo.jp/20160517150742 で私では無い方が指摘した点に対する返信ですね。(らくからちゃさんは勘違いで消えてしまったと思ったようだけど、消してません。ずっとそのままの状態で在ります)
http://anond.hatelabo.jp/20160518011455 で、らくからちゃさんは、
それぞれの生産形態・管理方法に合わせた計算方法を選択すべきである。では、総合原価計算と個別原価計算をどのように選択するべきであるのか
という点を踏まえつつ、
こういった生産体系にて『ある生産要素の投入と生成物との関連性』が明確である場合、個別原価計算法は原価管理の観点からも有益な情報を得ることが出来る。
一方、個別原価計算が不向きなのは『ある生産要素の投入と成果物との関連性』が不明確である場合、例えば中間品にストックポイントが置かれる場合だ。
(略)
という説明をしてますが、らくからちゃさんのおっしゃる『ある生産要素の投入と生成物との関連性』というのは、具体的に何を意味していますか? 現時点でググったけれど、ちょっとわかりません。(ウェブ魚拓を取ろうとしましたが、robots.txtがあるという理由で取得できませんでした。それゆえ結果が固定できませんが、その点が問題にはならないと思います)
自分は『ある生産要素の投入と生成物との関連性』とは「『製品との関連における分類』を意味する」と読んで、「直接費/間接費の違いに応じて、個別/総合原価計算を分けるのか?、そんなことないでしょ・・・」、と理解した結果、
受注生産品でも間接費の配賦はあるよね
と、前提知識の確認をしました。で、この点については私とらくからちゃさんの間で誤解が生じていないようです。
その説明の後で、 http://anond.hatelabo.jp/20160519220812 で、らくからちゃさんは、
ここで『総合』『個別』というのは、明示的な基準があるというよりも、あくまで程度の問題と考えることが出来ます。工程の単位を限りなく小さくすれば個別原価計算に近づきますし、逆に指図の単位を限りなく大きくすれば総合原価計算に近づきます。
と説明していますが、個別/総合原価計算は、工程の単位の程度問題(?)ではなくて、製品を生産するときに、
とするべきものあるはずですよね? つまり、製造の単位が1か、それ以外か。(私としては、工程の製造単位が1に近づいたとしても、2単位であれば、それは総合原価計算だよね、という点を確認したい。それゆえ、工程に応じて前の工程では総合原価計算で計算していたが、次工程では個別原価計算で計算する、といったようなことがあると思いますが、その区別は、各工程において製造する仕掛品(第一工程の仕掛品であれば、第二工程に振り替えられたときにはそれが前工程費となりますが)を「一単位としてみるか/(そうではなく)2以上の単位とみて、製造しているか」で分けるということです)
個別/総合原価計算の説明はそういった「製品の製造単位が1か、そうでないか」という点から説明でするべきではないのかな。
この点については、http://anond.hatelabo.jp/20160517150742 で、(←は自分ではない方が書いた増田です)
実は、個別原価計算は、通常、個別に把握しやすい『個別的製品』の原価管理に使うんです。よく出てくる例えは受注生産の建物や船舶ね。
一方で総合原価計算は、単一製品を『大量』に『反復継続して製造』する場合に有効な原価管理で、例えはまぁカレーでオッケイ。もっとイメージしやすくいうと製鉄工場とか石油プラントね。
と説明していますが、これもおそらく私と同じ理解だと思います。
私と http://anond.hatelabo.jp/20160517150742 (←は自分ではない方が書いた増田です) の指摘をまとめると、
とでもなるかと思います。
これは、私が http://anond.hatelabo.jp/20160519113148 で指摘した部分です。これはらくからちゃさんが誤解されたようなので、ここで再び説明させてください。
http://anond.hatelabo.jp/20160519113148 で私が指摘したかったのは、 http://www.yutorism.jp/entry/costing の、 http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/l/lacucaracha/20160515/20160515165334.png という画像が間違いであるという点です。
現時点では、↑の画像は、
┌─────────────┐ 費目別計算 │材料費 労務費 経費 │ └─┬────┬────┬─┘ 賦課(直課)│ │ │ │ ┌─┼────↓─┐ 部門別計算 │ │ │ 補助部門費│ │ │ ↓ ↓ │ │ │ 製造部門費 │ │ └───┬────┘ ↓ ↓ 配賦 製品別計算 ┌──────────────┐ │ 総合原価計算/個別原価計算│ │ 標準原価計算/実際原価計算│ │ 全部原価計算/直接原価計算│ └──────────────┘
という関係図になっていますが、製品別原価計算の分類は、本来は、以下のように、
┌─────────────┐ 費目別計算 │材料費 労務費 経費 │ └─┬────┬────┬─┘ 賦課(直課)│ │ │ │ ┌─┼────↓─┐ 部門別計算 │ │ │ 補助部門費│ │ │ ↓ ↓ │ │ │ 製造部門費 │ │ └───┬────┘ ↓ ↓ 配賦 製品別計算 ┌──────────────┐ │ 単純総合原価計算 │ │ 等級別総合原価計算 │ │ 組別総合原価計算 │ │ 個別原価計算 │ └──────────────┘
製品別計算の区分においては、生産形態の種類別によって分けるべきではないか?という点の指摘でした。
実際に原価計算基準上でもそのように分類しています。(原価計算基準の区分は 『原価の製品別計算、原価単位、計算の形態【原価計算基準19、20】|会計知識、簿記3級・2級・1級を短期間でマスター【朝4時起き活動のススメ】』 http://ameblo.jp/studyja/entry-11483327103.html などで確認してください)
┌───────────────┐ │ 総合原価計算/個別原価計算 │ ┌─┤ 標準原価計算/実際原価計算 ├──────┐ │ │ 全部原価計算/直接原価計算 │ │ │ └───────────────┘ │ │ │ │ ┌─────────────┐│ │ 費目別計算 │材料費 労務費 経費 ││ │ └─┬────┬────┬─┘│ │ 賦課(直課)│ │ │ │ │ │ ┌─┼────↓─┐│ │ 部門別計算 │ │ │ 補助部門費││ │ │ │ ↓ ↓ ││ │ │ │ 製造部門費 ││ │ │ └───┬────┘│ │ ↓ ↓ 配賦 │ │ 製品別計算 ┌──────────────┐│ │ │ 単純総合原価計算 ││ │ │ 等級別総合原価計算 ││ │ │ 組別総合原価計算 ││ │ │ 個別原価計算 ││ │ └──────────────┘│ └────────────────────────┘
がより適切でしょう。(外枠に各種原価計算を移動させました)
これは例えていうならば、人間を何かに着目して分類したとします。仮に以下のように、
┌─────────人間────────┐ │ │ │ 国籍 日本/アメリカ/他もろもろ│ │ │ │ │ │ 肌の色 白/黄褐色/ 他もろもろ│ │ │ │ │ │ 話す言葉 日本語/英語/ 他もろもろ│ └───────────────────┘
国籍、肌の色、話す言葉で分類したとして、話す言葉の分類の中が、以下のような分けかただと変でしょ?という指摘です。(話す言葉の右側の枠が、話す言葉の分類だとします)
┌─────────人間──────────┐ │ │ │ 国籍 日本/アメリカ/ 他もろもろ│ │ │ │ │ │ 肌の色 白/黄褐色/ 他もろもろ│ │ │ │ │ │ 話す言葉 ┌─────────────┐│ │ │性別 男/女/他 ││ │ │身長 170cm以上/未満││ │ │視力 1.0以上/未満 ││ │ └─────────────┘│ └─────────────────────┘
話す言葉の区分の中で、性別の区分や身長の区分があると、話す言葉として「性別」という言語や、「身長」といった言語があることになりますが、そんなことはないですよね。
らくからちゃさんが http://anond.hatelabo.jp/20160519220812 で使用した言葉を使って、最も正確に表現するとすれば、
┌───────────────────┐ │ 総合原価計算制度/個別原価計算制度 │※←の枠の中は、必ずそれぞれどちらか一方を選択する ┌─┤ 標準原価計算制度/実際原価計算制度 ├──┐ │ │ 全部原価計算制度/直接原価計算制度 │ │ │ └───────────────────┘ │ │ │ │ ┌─────────────┐│ │ 費目別計算 │材料費 労務費 経費 ││ │ └─┬────┬────┬─┘│ │ 賦課(直課)│ │ │ │ │ │ ┌─┼────↓─┐│ │ 部門別計算 │ │ │ 補助部門費││ │ │ │ ↓ ↓ ││ │ │ │ 製造部門費 ││ │ │ └───┬────┘│ │ ↓ ↓ 配賦 │ │ 製品別計算 ┌──────────────┐│ │ │ 単純総合原価計算 ││ │ │ 等級別総合原価計算 ││ │ │ 組別総合原価計算 ││※←製品別計算の枠の中は、 │ │ 個別原価計算 ││ ↑の総合/個別と整合するものとする │ └──────────────┘│(あるいは、↑の総合/個別を消して、こちらでそれらを選択するだけの方がわかりやすいか) └────────────────────────┘
というように、一番上の枠の中の各原価計算の末尾に「制度」と付け加えて、適切な補足を加えるのが最も良いでしょうね。
(ちなみに、今回の例だと問題にならないかもしれませんが、この図だけを見ると、材料費、労務費、経費の矢印がそれぞれ、製品別計算、製造部門費、補助部門費にそれぞれ移動しているだけのように思われるような気もします。 今回のカレーとシチューなどの例であれば、工程別ではなく、組別であっても良い気もします。)
さらに指摘しますが、http://www.yutorism.jp/entry/costing の最後の方にある勘定連絡図は、工程や部門別の勘定が全く存在しないですね。その勘定連絡図の下で、青の太字で「『部門』の名前を明記しておくこ」ととあるので、勘定連絡図の中にそれらが無いのは、デカいミスに思えます。
http://www.yutorism.jp/entry/costing を眺めていて思ったのですが、いらすとやさんの画像は最初で使用する程度に留めて、それ以降は勘定連絡図や、標準原価計算の例ならばシュラッター図や差異分析のためのボックスを直接書いたほうが、遥かにわかりやすくなると思います。
らくからちゃさんは、 http://anond.hatelabo.jp/20160518011455 で、
想定読者は
一通り工業簿記について学習し、問題は解けるようになったが体系的な理解ができていない者
という想定を置いたのだということでしたよね? だとすれば、わざわざ曖昧なイメージ図を最初から最後まで使用する必要性は、皆無でしょう。イメージ図がむしろ理解の妨げになっている点もあると思いますよ。そのレベルの読者を想定したとき、想定読者の理解の最低レベルは、「簿記二級の範囲の工業簿記の計算面」を理解したレベルですよね。ならば、一通り理解できているはずなので、イメージ図はさほど要らないと思います。
例えば個別原価計算や総合原価計算の説明として、蛇口とバケツで説明していますが、上の想定読者はイメージ図から何かが新たに「わかる」ようになるのでしょうか? ここでは、主に仕掛品勘定を中心にすえて、
などといった点を踏まえて説明しなおすべきではないでしょうか。
これは、私が http://anond.hatelabo.jp/20160519113148 で指摘した部分です。この点については特に返信したいことはありません。(「原価計算基準は、今もファイリングしてデスクの上においております。」ということなので、読んでないのかなあ、と思ったくらいです)
先日書いた下記の記事に対して、増田にて大変丁寧な補足と指摘を頂いた。以前はブログに思ったことを書いても、なんの反応もなく随分と寂しい想いもしたが、個人的に最大の関心事である『原価』について、ここまで多くの人が関心を持っている状況に感無量である。
御礼も兼ねて、記載された内容について、本稿に関係する箇所につきコメントさせて頂きたい。
まず本記事は、
と私が勝手に理解している点を対象とし、詳細な計算プロセスは除外した。本稿は、今後投稿予定の記事の前提となるものとして記載したが、想定読者は
を対象としたものであって、『工業簿記初学者』を対象とした、『ゼロから学ぶ』ではない。やや不十分に思われる箇所や、過剰に思われる箇所も多いかと思うが、記載の狙いとしてはそういった点にある。
私の書き方が不味く、上手く伝わらなかったのかもしれないが、私の意見としては『この例において、カレーの原価は工程別総合原価計算にて算出されるべき』である。記載の趣旨としては、
たまに、『総合原価計算はどんぶり勘定、個別原価計算こそ正しい原価計算』なんて言っているコンサルが居ます。確かに、製品ごとに費用を集計する個別原価計算のほうが、より正確性が高い気もします。しかしそれは、最終的な完成品に対し、投入した原価が紐付けることが『妥当』であると言える環境での話になります。
であり、それぞれの生産形態・管理方法に合わせた計算方法を選択すべきである。では、総合原価計算と個別原価計算をどのように選択するべきであるのか?は、指図書単位で集計することが妥当か工程単位で集計することが妥当か、ちょっと別の例を挙げる。カレーでは無いが、カレーっぽい液モノ系のお客様でこういった事例があった。
こういった生産体系にて『ある生産要素の投入と生成物との関連性』が明確である場合、個別原価計算法は原価管理の観点からも有益な情報を得ることが出来る。
一方、個別原価計算が不向きなのは『ある生産要素の投入と成果物との関連性』が不明確である場合、例えば中間品にストックポイントが置かれる場合だ。今回のカレーの例のように、共通の中間生成物(カット済み野菜って言えばいいのかな)が存在する場合、中間生成物への生産要素を投入する段階では、最終製品が不明確である場合も多い。その場合、投入時点ではどの指図に対して実績を計上すればよいかわからなくなる。
もっとも、製品だけではなく(工業簿記の教科書には何故か最終製品の指図書のみ記載されている例が多いような気がするが)中間生成物に対しても指図書は発行される。その場合、投入時点での費用計上対象は当該指図でよいが、今度は製品に中間生成物を投入する際、どの指図書での生成物であるのかを一々記録していく必要がある。その為には、在庫は指図書に紐づく形で管理しなければならないようになる。トレーサビリティの観点から厳密なロット管理を行っている場合、インプットとアウトプットの関係が明確になり、実現不可能ではない。ただ、細かく計算を行ったところで、最終的な管理の単位が工程に置かれる場合、苦労したところ特に意味は無い。
これが、
例えば、いっぱいのカレーを作るのに、『今回はnグラムの人参を使いました』ということをいちいち記録するでしょうか?記録を取ったとして、それは正確と言えるのでしょうか?
の意図だ。記録を残すことは重要であるが、それは指図に紐づく形で残す必要はない。工程での消費数量として正しく捉えられていればそれでよい。無理な数値を計算して『個別原価計算をしたら、このカレーとあのカレーの原価の違いが、指図書別に正しく計算できます!!!』なんて言っても、信ぴょう性は無いし、そもそもその情報は必要なのだろうか?結局は、どういった単位で管理を行いたいかによる。勿論、原価標準を策定するにおいては、原単位は最重要事項であることは言うまでもない。
こうやって書いてみると、概ね元増田氏と同意見に達したように思わるるので、全ては誤読を招きやすい文章を書いた私の落ち度である。
原価計算基準は『ガイドブック』(という言い方も変だな。ガイドラインだな)であり、『ルールブック』ではない。改めて思えば、記事の性質から入ってもその点は記載すべき内容であった。生産手法は、各企業の鋭意に常に新しいものが生まれるため、例えば『セル生産方式下での原価計算』なんて考えてみるとワクワクするね。
『一般的かどうか』については、普段担当する企業をベースに考えて書いたが、原価計算の計算手法については、各大学がかなりしっかりとしたアンケートを行っているので、その結果も参照した上で記載している。面倒臭がって省略したが、そのあたりの調査結果もおいおい記載していきたい。
評価者である。パートの人件費はライン長にとっては管理可能だが、ラインの償却費は管理不可能。しかし、工場長にとっては管理可能。本来原価情報は、工場内で広く活用されるべきものであるが、費用の分類によっては評価する者によって異なる可能性がある、ということが書きたかっただけである。操業度は生産量と常に一致するものではないが、『操業度』と書いてピンとこない人向けの説明であるので、生産量と置き換えて理解を促す目的で記載した。
正直、こんな会計のテクニカルタームの違いについて特にあれこれ言うつもりはなかったのだが、ステップとして
という文章の組み立てにするため、このタイミングで入れた。『今期分に調整』という視点は、財務会計寄り過ぎて良くないような気もするし、既に前段で取り上げているため、やや冗長だったかもしれない。
という3製品を製造する工場を想定していた。が、いらすとやに辛口と甘口が無かったため、2品目も寂しかろうと、とりあえずみつけたカレーパンにしてみたんだが、指摘の通り『パンはどこから出てきたんだろう?』という感想は生まれるだろうから、辛口・甘口に戻そうかな・・・。
説明のため必須と判断したので記載した。本稿は、最小量で説明することが目的ではない。一般的な会計システムとの連動・整合の観点から書いておいた。
総合原価計算の小分類一々かくの面倒だなあと想い、どこかのサイトからコピーしたときに混入したものだが、検索してみると『連番品原価計算』という用語を使っている人は存在するらしい。改めて『基準』の当該箇所を眺めて見ると、『連産品原価計算』(ガソリンとかの計算するあれ)は書いていないし、何者なのか俺も分からん。(最初は、『バッチ原価かなんかのことを言うのかしら』と思っていたが)
色々と好き勝手書いてみた。別に回答を記載する義務はないと思うので、アンサーになっていない箇所もあるかもしれない。なんにせよ、原価計算というテーマが話題になって大変満足。その話がたくさんかけてすごく嬉しい。記事本文はおいおい修正していく。また今後も、ごちゃごちゃ書いていくので、その節はよろしく。
http://anond.hatelabo.jp/20151118225408
まず、本当にどうしようもない(不可抗力ではなくしょうもないという意味)理由として、その作者さんと編集者さんのアクセスできるラインに制約があります。文庫しかアクセス出来なければ文庫で出しますし、文芸書的な編集部ならその判型で出すというのはあります。作家や編集者は、どんな装幀の本でも自由に出せるかと言えばそんな事もなく、編集部の主戦場にしてる判型や書店の本棚というものがあるのです。営業が影響力を発揮できる範囲は書店全域ではありません。まあ、これは後付けのところのしょうもない理由ですね。
より本質的な理由としては、「想定読者数(≒初版部数)」の問題があります。もし、新書、四六判、文庫など自由な判型が選びうる編集部で企画が進んだ場合、問題になるのは、この本を何人くらいの読者が求めてくれるか? という点です。本を作る編集やデザインの作業というのは、どんな装幀でも実はさして大きくコストが変わるわけではありません(紙代や印刷費は変わります。部数が増えれば安くなるので、文庫本で部数が多いものは負担少ないです)。つまり、書籍の値段の本質は「(作者が著述に要したコスト+編集やデザインにかかったコスト+必要な利益)を初期読者がシェアして負担する。」ということなのです。
たとえば「5000人しかかってくれそうにない」「だったら3000円にしないとまずいな」「じゃあ判型は文芸で表紙もハードカバーにするか」というような展開で判型は決まります。この段階で幾つか疑問が発生すると思います。
Q.3000円の文庫本じゃだめなの?
A.読者の皆さんは3000円の文庫は買ってくれないです。読書体験は文庫でも四六判でも(内容という意味で)大差はありませんが、物質商品としては購入してもらえなくなります。出版人として自分が関わった3000円の本がソーシャルゲームのガチャ6回に劣るとは思っていませんが、やはり売れない物は売れません。
Q.値段を下げて、つまり判型を最初から文庫にして薄利多売を狙う企業努力はしないの?
A.もちろんそういう戦略判断をする場合もあります。ベストセラー著者が最初から文庫に殴り込みなどと言うのはそう言ったパターンです。しかし大多数の著者において「値段を下げる」というのは部数増加には結びつきません。たとえば作家Aさんの本が欲しい人というのは値段に関係なく買ってくれる傾向があり、逆にこのAさんに興味がない人や知らない人は、値段を下げても買ってくれません。
以上のような条件から、出版ビジネスの値付けは「初期読者(=おおよそ初版部数に相関)で製作費用と最低限の売り上げを確保する」という方向性になっています。増刷や文庫化というのは収益のボーナスステージであって、その段階になると利益がどんどん出て黒字になるわけです。しかし、おそらく読者の皆さんが思っているほど、このステージに行ける本は多くはありません。多くの本は、最初の売り上げ確保のステージに失敗して赤字になるか、もしくはなんとかトントン程度の収益になります。文芸畑ではより顕著ですが、ライトノベルなどの文庫でも、一部の売れっ子作家さんの書籍とそうでない多数の作家さんの書籍の二極化が深刻です。
こういう状況に問題を感じないのか? といえば個人的には感じています。本をもっと安くすべきだという問題意識ではありません(日本の本は世界的に見ても安価だと思います)。どちらかというと、初期読者の人に十分報いていないと思うからです。ある作家を(ひいては編集部や出版社を)支えているのは初期読者(=初版で買ってくれるような読者)です。彼らの数が予想部数を通して本の値段や判型を決める基礎材料になっているのです。しかし、実際には彼らは文庫化ではなくその前の段階の大きな判型で購入するなど、経済的な負担を大きく受け持つ構造になっています。映像作品などには「初回限定特典」のような概念がありますが、出版では一般的ではありません。その点は不公平で歪だと考えています。元増田氏の言及したコメントは、この不公平感にたいして「初期読者はいち早く読める」という点を解説したかったのだと思いますが、それに対してどこまで価値を感じるかという点は読者次第だとも思っています。このへんは個人的な感想なので、出版業界の中にもいろんな意見があると考えて下さい。
読書にたいしてお金を使う習慣のある方、書店を日常行動の経路に含んでいる方、読書家という人種はある意味非常に高尚で「紙の書籍を手にとる楽しみ」「装幀を愛でる楽しみ」という点に価値を感じて下さっています。それはすごく嬉しいしありがたいことです。そういう文化があるおかげで命脈を保てる出版社が存在することも事実です。しかし一方でそれに甘えてこなかったか? といわれればたぶんそういう部分もあると思います。こういった読者の方は、読者であると同時にパトロン的な性格さえ持っているのです。
今後十年から二十年かけて、その文化も徐々に変わっていくと思います。どうなるかはまだ判らないのですが、そういうアーリー読者&パトロン的な文化を完全否定する方向ではなくて、リスペクトやコミュニティに対する利益還元出来る方向の出版方式や企画などが(もちろん試行錯誤の残骸の中からの芽生えとして)産まれてくることを願っています。