はてなキーワード: 情念とは
anond:20240506174540 に追記しようとしたら長すぎたので記事を改める。
私の短歌・俳句論について、異論は認めるのだが、この一句は反例とは思えない。むしろ私の認識を強化することにしかなっていない。
この句は一見情念のこもった句に見えるが、この句における一茶はあくまでも風景の一要素としてやせ蛙と並列されている。つまりは蛙ごときに向かい合って必死になっている俳人の描写である。一茶の句におかしみがあるのは、滑稽な自分を冷静に客観視できるからこそで、情念を込めてやろうという精神からはかけ離れている。
それに対して、例えば同じ蛙を描写した以下の斎藤茂吉の歌はどうだろう。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
この歌は一茶の句と比べると写実的で情念の無い描写に見える。しかし、用心深く読んでみると「かはづ」(蛙)の鳴き声が「天に聞ゆる」のは作者が添い寝をしていて地面に近いところにいて、天を眺めながら聞いているからそのように感じるのであり、実際に天から蛙の鳴き声が降ってきているわけではない。実はこの歌は非常に主観的で情念によって風景を巧妙に歪めていることが分かる。茂吉にとっては「かはづ」も、それどころか「死に近き母」すらも己の寂しさや怖れの大きな比喩でしかないのである。一茶のような引いた視点など待とうとする気もない。短歌が情念の産物と言うのは、こういうことを言う。
私の論に反論するのだったら、例えば短歌は情念とはいうが、奥村晃作のただごと歌、たとえば
などはどこに情念などあるのか?と言った指摘ぐらいは欲しいところだ。
ついでだから私が、これこそ短歌は情念だと思う歌を掲げておく。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする 式子内親王
あーそれで俺短歌は好きだけど俳句にはあんまり興味わかないのかな。風景とかどーでもいい。人間の情念を味わいたい。マンガ読んでも「そんな背景とかに力入れるくらいならもっと恋愛とか人間のドロドロに力注いでよ」って思うもの(まあ背景はアシスタントが描いてるかもしれんが)。
そもそも近代俳句の祖の正岡子規は俳句も短歌も両方詠みまくっていた
ところが虚子の代で「客観写生」とかいうトンデモスローガンに汚染されて、つまらん風景ばかり詠むようになった
芭蕉は「見えたる光いまだに心に消へざるうちに言ひとむべし」といって心の中を重視していたし、一茶の俳諧なんか情念的といってもいい
https://anond.hatelabo.jp/20240506061423
短歌の結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。
多くの人は短歌と俳句が同じ短詩型文学であるから、短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。
なぜなら、両者は表現のアプローチが正反対だからだ。短歌は風景と言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである。
短歌を詠むということは、言葉に情念を圧縮するということだ。穂村弘は短歌を爆弾に喩えたが、自分の情念を読み手の心奥深くに埋め込もうとするために、言葉の選定や配列に独自性をもたせていく。風景すらも歌人にとっては情念の道具に過ぎない。日本語に己の爪痕を残してやろう。世界は我が情念を表すために存在するとでも言わんばかりの自意識過剰さでもって詠むのが短歌というものだ。己の全情念を31字にすべて押し込めようとするエゴイズムこそ短歌というものの醍醐味である。誤解を恐れずに言えば優れた歌人とは己の日常を糧にした自意識の純粋培養物なのである。
それに対して俳句を作るということは、言葉で風景をカットする行為だ。17字というフレームの中に厳選した風景の要素を置いていく。私は風景から要素を抽出するための機械でしかない。俳句にとって情念はノイズでしかないのである。
このような対比で見ると、短歌を詠む人が17字は気持ちを込めるのに少なすぎる、となぜ思いがちなのかが分かるだろう。字数云々ではなく、根本的にその容器は、あなたの情念をしまうところではないのです。高級フランス料理の小さなお皿にニンニクましましラーメンを入れようとする無理な行為なんですよ。俳句を作るなら、あなたが後生大事に抱えているその情念は捨てましょう。わかりましたか?
そうは言っても短歌人はやめられない。短歌を苦しみ抜いて詠んだきたのだから、この情念は捨てられない。世界中から笑われようとも俺はこの17文字に俺の心情を詰め込んでみせる。31文字でできて17文字でできないことはないっ。ここに俺の私の僕のアイデンティティがかかっている。
という具合に短歌は人に冷静さを失わせ、言葉を発するときに自意識を手放すことができなくさせる。そしてどんどん俳句の精神から遠ざかっていくのである。だから短歌を詠めば詠むほど、俳句は作れなくなる。
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一茶の句は反例にならない。
ChatGPT
名前に「門」が2つ入る有名人としては、「門脇麦」(かどわき むぎ)が思い浮かびます。門脇麦は日本の女優であり、映画やテレビドラマ、舞台などで活躍しています。彼女はその独特な演技スタイルと存在感で、多くのファンに支持されています。
ChatGPT
日本の江戸時代の芸術家で名前に「門」が2つ入る人物を紹介します。
ただし、直接「門」が2つ入る名前の芸術家は江戸時代に特定することは難しいですが、尾形光琳のような芸術家は、その名前や作品を通じて日本の芸術史に大きな足跡を残しています。
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はい、近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん、1653年 - 1725年)を知っています。彼は江戸時代に活躍した日本の劇作家で、浄瑠璃(人形浄瑠璃)および歌舞伎の脚本家として非常に高い評価を受けています。近松門左衛門は、人間の情念や社会的矛盾を鋭く描き出した作品で知られ、「日本のシェイクスピア」とも称されることがあります。
彼の作品は、情緒豊かで人間ドラマが深く、愛憎や義理人情、社会的制約と個人の感情との葛藤を描いたものが多いです。代表作には『心中天網島』『曽根崎心中』『冥途の飛脚』などがあり、これらの作品は現代においてもなお上演され、多くの人々に親しまれています。近松の作品は、その人間性の深さと心理描写の鮮やかさにおいて、日本文学における不朽の価値を持っています。
名前に門が二つはいっていませんか?名前に門が2つ入る有名人、に相当するのでは無いかと思いますが、よくわからないので、教えてくれませんか?""""ただし、直接「門」が2つ入る名前の芸術家は江戸時代に特定することは難しい"""とはどういう意図で発言したんですか?
ChatGPT
申し訳ありません。私の回答は誤解を招くものでした。近松門左衛門は、確かに名前に「門」が2つ入る江戸時代の著名な芸術家であり、その点を明確に認識しておりませんでした。お指摘の通り、近松門左衛門は日本の江戸時代における重要な劇作家であり、彼の名前は「門」が2つ含まれています。
私の以前の回答は、不正確な情報を提供し、混乱を招いてしまいました。そのため、訂正してお詫び申し上げます。近松門左衛門の貢献と彼の名前の特徴について正確に認識し、適切な情報を提供することが私の責任でした。お詫びして、正しい情報を提供できるよう努めます。