はてなキーワード: 悪徳とは
弁護士がネットで率先してアホの不安を煽ってるのを見ると、これで相談してくるアホを増やして依頼料毟り取ろうと悪徳マーケティングでもしてるのかと思うわ。
その通りちゃうの?
弁護士「シンママや離婚相談中のクライアントから『共同親権になったら離婚してもDV夫が一生妻子につきまとって嫌がらせできるようになるって聞きました😱』って嘆きの声が何件も来てる。泣きながら電話かけてきた女性もいる……」
みたいなのが俺の趣味しか語ってないアカウントにまで流れてきて鬱陶しいんだけど。
「裁判所がDV加害者と判断した父親はこれまでと変わらず子供には関われません」
「もし共同親権だから子供に会わせろとDV夫が訴えてきたら裁判所の門をくぐる前に追い返してやりますよ。それが私の仕事ですから」
弁護士がネットで率先してアホの不安を煽ってるのを見ると、これで相談してくるアホを増やして依頼料毟り取ろうと悪徳マーケティングでもしてるのかと思うわ。
なんなら児童本人が録音してチクってもいい
駄目教師はどんどんやめていただく
文部科学省も駄目教師の教育現場からの排除に力を貸すこともやぶさかでない
ぺんぺん草も生えないくらい駄目教師が出払ったところから教育再生が実現する
吾吾児童側に立脚する教育学者乃至為政者はそのように考えてゐる
分からないならこれだけ覚えとけ
タイトルは過言。
推しに見返りを求めたらダメ とはどういう意味ですか…?(後略)
https://b.hatena.ne.jp/entry/4751779272985276544/
これの件見てて思ったの。費用対効果ではないコスパ、時間対効果ではないタイパのニュアンスが意外と伝わってないなって。
よく言われる「タイパが悪い」の悪いって本当に悪レベルの悪さを指す場合が多いの。
この人は単純に
「自分が費やした費用や時間に対する効果が不十分なのは悪徳だから糾弾して正すべきだ」という正義に基づいていただけだよ。
慣用句としての「~が悪い」が通用してないと言えばそれまでだけど、憎しみを覚えるレベルの悪なんだよね。
まあ実際そこまで振り切ってる人は少ないと思うけど、多くは不正義的なニュアンスを感じてるよ。
安楽死ができる宗教施設を作ろうとすると、どうしても警察と金の問題が付きまとう。
姥捨て山な精神科病院を作ろうとすると、キチガイや老いぼれしか絞り取れず需要や長期利益が先細りしてしまう。
精神科病院の傍ら内部は、死を崇拝する宗教を作ってしまえばいい。つまり精神科医院長が教祖になる事だ。
精神科病院の入院期間は世界で日本がダントツで長い。これは日本人は他人の顔を窺い保身的な国民性であるから気違いに余所余所しく事勿れと利己を貫くのである。
それを逆手にとって、患者や崇拝者を水面下で精神をマインドコントロールさせ、自分の意志で安楽死を選んでるように既成事実を作ってしまえばいい。国民は見て見ぬふりをするし、たとえ世界から糾弾されても巧妙に隠蔽をする。
まず合法的な姥捨て山な精神科病院を作るには、滝山病院などの合法的に強制収容してる精神科病院の手法を模倣する事(勿論、精神科医同等の知識を習得してる事が前提で)。例えば有名どころではNHKの滝山病院のドキュメンタリーなどを参考にして、どこが違法にならない抜け穴かを隅々まで分析する。
その次に宗教の部分は、死神を崇拝する宗教を作ること。死に対して希望を縋らせる思考になるように体系立てていく。共同幻想論やナチスの思想や狂気的な群衆心理、何が人を没頭させるのか?とか人の弱みから依存させていくプロセスを、困窮者を取材したルポや旧統一教会などの悪徳な新興宗教の手口からも参考にする。オウム真理教のように死の巻き添えを良しとする思考を植え付ける事ができたら十二分である。
そして一見は精神科病院や宗教施設でもない、外来や入所型の「精神ケア施設」という建前で運用していく。
安楽死させる方法は、ジャック・ケヴォーキアンの手法や、安楽死マシン「サルコ」を参考にしたり幾らか確立している方法がある。
言わばハードウェアが精神科病院で、ソフトウェアが宗教である。
これからの日本のテロは常に水面下で、似非精神科医が覇権を握って独占するのである。現代のホロコーストを早く作れるかが勝負である。
安楽死ができる宗教施設を作ろうとすると、どうしても警察と金の問題が付きまとう。
姥捨て山な精神科病院を作ろうとすると、キチガイや老いぼれしか絞り取れず需要や長期利益が先細りしてしまう。
精神科病院の傍ら内部は、死を崇拝する宗教を作ってしまえばいい。つまり精神科医が教祖になる事だ。
精神科病院の入院期間は世界で日本がダントツで長い。これは日本人は他人の顔を窺い保身的な国民性であるから気違いに余所余所しく事勿れと利己を貫くのである。
それを逆手にとって、患者や崇拝者を水面下で精神をマインドコントロールさせ、自分の意志で安楽死を選んでるように既成事実を作ってしまえばいい。国民は見て見ぬふりをするし、たとえ世界から糾弾されても巧妙に隠蔽をする。
まず合法的な姥捨て山な精神科病院を作るには、滝山病院などの合法的に強制収容してる精神科病院の手法を模倣する事(勿論、精神科医同等の知識を習得してる事が前提で)。例えば有名どころではNHKの滝山病院のドキュメンタリーなどを参考にして、どこが違法にならない抜け穴かを隅々まで分析する。
その次に宗教の部分は、死神を崇拝する宗教を作ること。死に対して希望を縋らせる思考になるように体系立てていく。共同幻想論やナチスの思想や狂気的な群衆心理、何が人を没頭させるのか?とか人の弱みから依存させていくプロセスを、困窮者を取材したルポや旧統一教会などの悪徳な新興宗教の手口からも参考にする。オウム真理教のように死の巻き添えを良しとする思考を植え付ける事ができたら十二分である。
そして一見は精神科病院や宗教施設でもない、外来や入所型の「精神ケア施設」という建前で運用していく。
安楽死させる方法は、ジャック・ケヴォーキアンの手法や、安楽死マシン「サルコ」を参考にしたり幾らか確立している方法がある。
言わばハードウェアが精神科病院で、ソフトウェアが宗教である。
これからの日本のテロは常に水面下で、似非精神科医が覇権を握って独占するのである。現代のホロコーストを早く作れるかが勝負である。
俺自身は反出生主義がそこまでヤバい思想だと思ってない。苦しみを絶対悪としてそれを避けようとするなら、最初っから生まれなきゃいいじゃんって理屈になるのは筋が通ってる。俺自身も、最大の苦痛である死がいずれ必ず訪れると知った七歳のときの絶望感を覚えている。あの時はどうして俺は生まれてしまったんだと叫びたかった。
なぜ生きている/生きてしまっている/生かされてるのかって驚きこそが、哲学の始まりだ。
それに野良犬なんかの管理で「不幸な犬を増やさないために」って去勢するのと理屈とどう違う? あるい出生前診断や重い障害を持つ人々を重荷とみなす世間のまなざしなど、生命が完全に平等で尊いという考えに疑いをさしはさむ発想は結構身近だ。実は言語化されてないだけで、今まで多かれ少なかれ反出生主義的な発想はあったはずだし、自分は出生主義者だと思ってても、反出生主義的な考えをまったくしたことがないってことはないだろう。ちょっとくらい「なんで生まれたんだろ」「生まれさえしなければ」と考えたことくらいあるんじゃない?
ときどき反出生主義主義者がやべーやつ扱いされるのは、興味ない人を無理やり説得しようとするやつがいるからなんじゃないかって推測してる。
で、当の俺自身は生まれる事の善悪を判断する能力を、そもそも人間は持っていないと思っているんだけど、反出生主義者に聞いてみたいことは結構ある。だからまとめてみた。
そもそも人をけなすということは難しい行為である。まず相手を知らなければならない。ここではその相手のことを敵と表現しよう。
敵の情報を知らずしてけなせば、的はずれな批判だったときに敵はノーダメージとなる。敵がダメージを得るかわりに自分が仕掛けた技によって自分が自爆する。それはもう惨めなものだ。
そしてまた「なぜ自分はこいつをけなそうと思っているか」という感情についても注意を払うべきかもしれない。
明らかに相手が自分よりも格下であり、あえて自分の中で言うまでもなくそうなのであれば、あえてけなす必要はない。けなすことで変に敵対されて足を引っ張られては困るからだ。それでも相手をけなしたいと考えるとき、多くは自らに強いストレスがかかっている状態である。けなしたいと考えることの根底はストレスである。
敵をけなすことで得られる利得は自らのストレスをやわらげること、それから敵が苦悶の顔をしているのを見て世界の正当さを確認することであると思う。
つまりけなすことで「敵に打撃を与え破滅させることで、自分の利益を拡大すること」を狙っていると言い換えられるかもしれない。
そのためにわざわざこちらが強制的に「お前は愚かだ」と伝える必要はない。「自分はもしかすると愚かかもしれない」と気付かせることが重要なのだ。その大きな恥こそが強い打撃であり、相手の自己破壊につながる。
しかしこれはけなしではない。そうした覚醒の機会を提供することは別に悪徳ではないからだ。
したがって、何も言わずけなさないこと、そして相手を知っておくこと、もし敵を知ろうと思わなければ敵とはまるごとそういうものなのだと納得することが肝要になる。それによって相手は愚かであることに永久に気付かない愚かであり続ける人間でいられる。それこそが強い処罰なのだ。
何も言わず相手をよく知るだけで「お前はそういう人間でありたいと考えているのか」というシンプルな問いを突きつけることになる。
この問いによって人間は容赦のない攻撃にさらされる。自らが持つ刃を全身で自分に向けることになる。
けなさずして相手は自然と萎縮し、あたかもけなされたかのような振る舞いをする。そしてそうした状況を是とする。これがけなすことの極意であると思う。
Xで二階の裏金疑惑をせこせこと拡散してるけど、正直ネトウヨの私からしても大歓迎。
何せ、私らからしたってあの手の金と利権と派閥にしか興味ない悪徳老害議員なんて自民党から追い出したいし、
時期としても解散総選挙は当分ないと言う今に、大々的に疑惑が広がっても、
リベラルさんは、自民議員を1人ずつつ、各個撃破していけば自民党の勢いを削れると思っているみたいだけど、
元首相は勿論、現役閣僚や派閥のトップ、現役首相ですら、いくらでも替えの効く消耗品で議員ではあっても人間とは思ってないので、
10人や20人の首を個別に討ち取られたり、追求の過程で死んでしまっても何も痛むものがない。
解散総選挙の時にまとめて拡散されて人の目に触れる方が厄介なんだけど、
せっかちなリベラルくんは少しでも怪しいと思ったらすぐに飛びついての各個撃破を狙うので、
自民党本全体として見ればダメージは軽微な上、選挙の頃には傷も癒えている。
ネトウヨ視点から見ても、自民党は勝ち過ぎて傲慢になってるし、自浄作用もないけど、
それに対して、リベラル君が個別に議員に圧力をかけるものだから、
それができない、私達から見ても厄介な老害議員の勢力は削がれるので、
最終的に、大して何もしていない私達にとって都合のいいように状況ができあがっていく。
リベラルくん各位に置かれましては、私達のために、
水戸黄門ってね😆、長年にわたって愛され続けてる時代劇の金字塔だよね🏯。シリーズが多すぎて、どれが一番いいかって聞かれると、ちょっと困っちゃうんだけど😅、個人的には、第3部が特に心に残ってるんだよね😌。
第3部は、1970年代の真ん中くらいに放送されてたんだけど😉、この頃の水戸黄門は、ストーリーが特に充実していて、キャラクターたちの人間味がぐっと引き立っていたんだよ😊。悪代官や悪徳商人が権力やお金で人々を苦しめている様子と、それに立ち向かう黄門様と助さん・格さんの活躍が、毎回ドキドキさせてくれたんだ😃。
さらにね、この頃の黄門様役を演じていたのが、あの東野英治郎さんだから😲。東野さんの黄門様は、威厳があって、でもどこか人間味も感じさせる、そんなバランスが絶妙だったんだよね👏。そして、助さんには、中村敦夫さん、格さんには、西村晃さんが演じていて、このトリオの化学反応が最高だったんだ😍。
でもね、水戸黄門の魅力って、やっぱり「印籠を見せるシーン」に集約されてると思うんだよね🔍。「これが目に入らぬか!」っていうセリフとともに、印籠が出てくると、悪者たちが急にびびって😨、その変わりようが面白くてさ😂。その正義の勝利が、見ていてすっごく爽快なんだよね🌟。
他のシリーズもそれぞれに良さがあって、どれも捨てがたいんだけど😜、歴史の深さを感じさせる第3部は、やっぱり特別な位置を占めてるように思うんだよね🎖️。水戸黄門のシリーズを通じて、日本の美しい風景や、人情の温かさ、正義の勝利っていう普遍的なテーマが描かれていて、今見ても新鮮で、何回見ても楽しめる作品だと思うよ😄。
元増田と同世代で、同じくサブカルチャーを通してネトウヨを脱した。
あの時代はネットのそこかしこで半島を揶揄する“悪質かつ愉快”なコンテンツが溢れていた。それらに日常的にアクセスする無知な消防厨房が嫌韓思想に染まるのは自然な成り行きといえるだろう。
ファビョーンと暴れるニダーのイメージは、悪徳反日国家韓国・北朝鮮へのヘイト感情に違和感なく移行した。
今の若い子は00年代のネットの空気に憧れていると聞くが、あの時代は数多のネット発カルチャーの黎明期であると同時に信じがたいデマとヘイトに溢れた暗黒期でもある。Xで「〇〇人は劣等民族」などとほざいている悲しきおっさん達はひどいインターネットの負の遺産なのだ。
私も元増田と同じように、成長に伴って最低限のリテラシーを獲得し、信じていた愚劣な半島像がほぼデマか誇張だと理解した。
しかし後遺症は残った。江南スタイルの流行は内心怖いなと思っていたし、凶悪犯罪者が逮捕されれば「コイツもしかして」と一瞬悪い想像がはたらいた。
後遺症改善のきっかけは韓国の縦読みマンガだった。2012年ごろ、まだLINEマンガもピッコマもcomicoもない時代。
ガラケーでケータイまんが王国に親しんでいた私は、買いたてのスマホでも漫画が読みたくてApp Storeで LINEマンガの前身のさらに前身であるアプリをインストールした。韓国産でも読めれば何でもいいだろうと。
アプリのUIはとても簡素だった。広告は小さいバナーだけで鬱陶しいポップアップもない。
NAVER WEBTOONの人気作が訳され、作品ごとに割り当てられた曜日に更新される。コメント欄はなく、星で5段階評価をつける以外に作品にリアクションするすべはない。課金要素は皆無。チケット制ですらなく1話から無料で遡って読み放題だった。どのように収益化していたのか未だにわからない。
はっきり言って読み始めて間もなくはほとんどの漫画がつまらなかった。あの頃の韓国漫画は今ほどシュッとしておらず、大半が芋っぽかった。
絵柄がダサイ、つまらないと思いながらも通学時間の暇潰しに毎日毎日読んだ。慣れてくるとじょじょに面白く感じるようになった。
すると不思議なことに、次第に韓国社会に息づく個人の生活を感じるようになったのだ。特にエッセイ漫画の影響が大きかったように思う。日々の些細なことに一喜一憂するその様子は、言語やいくらかの文化の違いを除けば日本人と何も変わらない。
日本と同じで、韓国にも国民の総意なぞ存在しないという至極当たり前のことに気づいた瞬間、自分の中で未知の生き物だった韓国人が完全に同じ人間になった。
また、日本漫画への親しみの強さを感じたのも理由のひとつだ。話の中に差し挟まれるコナンやスラムダンクのパロディの向こうには、日本の全てを憎んでいて日の丸を燃やして喜ぶモンスターのような韓国人はいなかった。
彼もただの人間だった。
福利厚生代行の大手サイトに掲載されると思って喜んでたら、100万円のコンサル契約を結んで支払ってしまいました。
どうやったら契約解除&返金できるかを、皆様からのお知恵がほしいです...。
◆登場人物
◆経緯
・IL社から「あなたのSNSを見た。素晴らしいサービスだから、福利厚生代行サービス大手の"〇〇クラブ"に掲載させてもらえないか」と連絡があった。
↓
・IL社「〇〇クラブへの掲載に5万円かかります。あとランディングページ(LP)をお持ちじゃないのですね。2年間のSEO対策含めLP制作を100万円で弊社で対応します。」
・わたし「ちょうどLP制作したいと思ってた!〇〇クラブに掲載してもらえるなら回収できそうだし、契約します!」
↓
・わたし「やったー!私のサービスが認められて大手の〇〇クラブに掲載されることになったよ!100万円の投資になったけど。」
・友人「X(旧Twitter)で"〇〇クラブ SEO"で検索すると、"〇〇クラブに掲載してもらったけど、2年間で1件も問合せがなかった"、”めっちゃしょぼいLP制作でコンサルも不十分だった"という投稿が大量に見つかったよ」
・わたし「あわわわ」
・友人「さらにIL社のHPを見てみるとスカスカの内容だよ。テンプレ素材画像だらけ。会社概要に設立年の記載も無い。LP制作・SEO対策の会社として杜撰じゃない?」
・Aさん(気絶) ←イマココ
◆留意事項
1.契約書に記載のある解約期間(契約日からX日以内)を既に過ぎている。
2.IL社の代表者の名前でネット検索しても、ほぼ何もヒットしない。そんなことある?
3.X(旧Twitter)で評判が悪いのは「Sングローブ社/Nア社」だが、今回のIL社の名前は1件たりともキーワードヒットしない。そんなことある?(登記簿は入手して商号変更していないことを確認済み)
4.IL社は「うちを通さないと〇〇クラブに掲載できない」という口ぶりで口頭説明をしてきた。実際は〇〇クラブに直接申し込めば5万円で掲載してもらえることが後で判明。
◆今後の動き
・弁護士相談だと100万円返金との費用対効果が悪いので、商工会議所や中小機構に無料相談しようと思ってます。
後は留意事項4を盾に「誤認を招く提案だったから契約解除したい。SNSで公表しますよ」と交渉を進めるしかないですかね...。
善にはいろいろ種類がある。
Aさんが救われているのに、Bさんが救われてないことがある。これが許せないだろ? ズルいじゃんだって。
そう言う考え方は、実際ある。
現代リベラルへのかなり有効な、反論できない批判、弱点でもある。"かわいそうランキング"とかスラング的に言われているのがそれだ。助ける側が助ける相手を好きに選んでいるんだよね。お前の言う通りなんだ。よくないことが起きてしまっているんだよ。「平等」は無視されている。しばしば議論の俎上にもあがっている。
でも、じゃあ平等ってを目指したいと思ったお前は、何をするか?
目の前の相手を助けず見捨てる、「非道」という悪徳を成してしまうんだな。
善にはいろいろあって、悪にもいろいろある。しかも同時に同じ行為に発生し得るということだ。
しかもだ。『罪と罰』が言うように、善と悪が相互に打ち消しあって、大義の前に小悪が許されるとは、俺は思わない。けどそれにしたって、おそらくお前の行為では達成できないであろう「平等」という善に対して、確実に達成されている「非道」の悪徳は、ちょっと大きすぎるんではないかね。リスクリターンがあわないよ。
「優しさ」という善徳を達成するべきだ。
その上で、「平等」かどうかという観点は、お前の手の届く範囲について考えるべきだと思う。お前自身が、障がい者もKKOも分け隔てなく助けるならば、それでいいじゃん。それで平等だ。たまたまお前の前に現れなかった奴は平等に救われたりしないわけだが、それは運だったという観点で、あるいみ平等と言えるじゃん。
目の前の人だけを助けるんだよ。
お前んちに来たら、老犬にも子犬にも餌をやれ。
おもしろい。自分は寄付をする人間で、存分に選り好みして寄付しているのでその観点から書こうと思う。また自分は犬には寄付しない。ほとんどは被災者である。
自分は寄付には差別的要素があると思う。そして、そもそも寄付は究極の善でもないと考えている。
それから自分がやっている寄付は全く善と考えていない。もっと利己的なもので自己満足感を満たすためにやっており、投資や物品購入に近い考え方をしている。
どちらかといえば自分がやっているのは贖宥状購入のような悪徳に基づく行為である。
ただしここで「差別的要素があるならすなわち善ではない」と考えると危険であると思う。それは完璧主義的な意見だろうと思う。
これは自分は、世間の欺瞞に対する挑発だとも考えている。普段は比較的「悪」なくせに、そういうときだけ調子のよいことを言う人間がいる。あたかも「自分は善側の人間ですよ」と振る舞っていること・自分が選んだものを助けたことに満足していてその他には一切憐憫の情を向けない「ほかを悪と断罪するための正義」を感じているのもあるのではないか。「やらない善よりやる偽善!」と言って、やらない者を「悪」側に落とす文句もある。
もし多くの人間に対する不信感がある場合、選ばれなかった方に目を向けたくなる。彼彼女らが助からないのなら、それは善といえるのかという話のようにも見える。
自分には、増田は「嫌われている方を助けたい」という考え方があるようにも見えている。ちょうど増田が考えていることはロールズの「無知のヴェール」の話にも通じるのではないか。これは個々の立場を忘れるヴェールを被ってから正義を考えようという概念である。この概念はそこそこ有名だが、それほど一般的ではない。ほとんどの人々は伝統的な倫理観にしたがって寄付などを行っているはずだ(※ べつに揶揄しているわけではない)
ただし差別うんぬんよりも、もし「すべてを救えないのなら救うべきでない」とすればこの世のほとんどは何も救えないことになる。われわれは有限の資源の中で生きているので、絶えず不足にさらされている。不足している中では選別が必要となる。
このあたりはトリアージ等の動画を見ると非常によくわかる。属性のせいで助けてもらえないというのは悲しいものである。何もないまま助からなかったよりも、助けられそうな資源が目の前にあるのに助けてもらえなかったという絶望はたしかなものだ。それが現実である。現実は理不尽であり不公平である。しかしポメラニアンを助けている人も、何も黒い大型犬に思いを全く馳せていないわけではないかもしれない。助けたいが、資源が足りていないために助けられないのだ。
どのように「公平に選別するか」も重要な問題である。こうした点がトロッコ問題などで考慮されていた。選別しなければならないのだ。ポメラニアンと黒い大型犬はその「愛らしさ」に焦点をおいているので、その独善的な部分に嫌悪感を感じるのではないか。善という正義の皮をかぶって差別を正当化しているように見えるのかもしれない。通常、笑って朗らかな態度で選別してはいない。血涙を流しながら、選べないという自分の無力さ無能さ愚鈍さとどこかで折り合いをつけて、否応なく選別している。
そして誰も救わない場合、「どうにも俺と同意見の人間が増えたとして世界が良くなるとは思えない」と言っているとおりのようになるだろう。もしそれが現実となったとき、考え方はどうであれ実際に起こるのは「誰も寄付しない世の中」である。つまりどれだけ困窮しようが誰も何も手を差し伸べはしない。それはポメラニアンや黒い大型犬のみならずすべての生き物が平等に絶望しなければいけない事態であると思う。
人々から金銭を徴収して再分配することはODAなどで一応おこなわれている。
一方で寄付は、自発的に自分の所有財産から抜いておこなっているものだ。これは財産権という強固な概念で守られている。
われわれは「自分の持っているものを自分の使いたいように使っていい権利」を持っている。これらをとりあげて自由に使用することは、自由権や民主主義を否定するものである。
またこれは単純に「世界中で増税する」ということに他ならない。国はそれほど信頼できるだろうか。国同士は同意できるだろうか。現在の世の中ではかなり厳しいものとなる。
また、マクロな問題を持ち出して、ミクロの問題のやらないことの根拠に含めてしまうのはズルであろう。個人的な寄付をすることと、国家群が寄付を集めて再分配することとは次元が違う問題である。
結局増田が言っているのは理想論なのではないか。「あるべき理想の姿」があまりに現実と違いすぎる。今この瞬間にはどうしようもないことを前提としすぎている。遠い将来にそれが普通になることはあるかもしれない。しかし周りから見ればそれは「ただやっていない」「ただ誰も助けていない」のである。
そして実際にその浮いた100円は何に使っているかといえば、個人的な実益に対してなのではないか。これはどう言い繕っても「誰かを助けるよりかは、自らの幸福を高めたい」という行動である。この言はずいぶん切れ味の鋭いものだが、それが事実である。われわれは見ず知らずの黒い大型犬の命よりも、見ず知らずのポメラニアンの命よりも、コンビニのお菓子の方を選ぶことがある。そちらの方が自分にとって幸福だからだ。
増田はもしかすると「誰からも助けてもらえなかった」と感じているかもしれない。だから自分も手を差し伸べはしないのだと。しかし本当は助けられたかったのではないだろうか。助けてもらえない者たちから見れば、この世は邪悪な方が都合がいい。この世が邪悪だから助けてもらえないのだと考えられる。それほど邪悪でないのに助けてもらえないなんて諦めがつかない。
寄付だろうがなんだろうが人の行動は利己的なものであり、己のためにするものだと思う。どちらかといえば、寄付することによって自分が救われているのだ。
べつにこれは自分個人の意見だが、「全員を助けられないのなら寄付しない」と考えるのならば、あまりにもったいないと思う。
誰かを救いたいのなら救えばいいのではないか。