はてなキーワード: 恣意的とは
自分は戦闘機共同開発も武器輸出も大いに結構と思ってるので不買運動もなんら評価しないのだが、
「三菱はBtoBメインだから効かない」とか「三菱不買を貫徹したら生活成り立たない」とかの批判は、変なんだよね。
不買運動って直接経営傾けさせるだけが成功じゃないから。騒ぎ立てて企業イメージ悪くすれば勝ちという勝敗ラインの引き方もある。というかそっちのほうが普通だろう。
ひとたび不買を言ったなら、発電所の機械部品に至るまで避けないといけないなんてルールもないし。
西村博之が「座り込み、夜は帰ってるw」と言って一旦はバズったけど結局当人が無知だったというオチ、あれと同じ構図。
(※西村の念頭にあったのは「実力による占拠」だろう。座り込みはデモの一種であり実力行使とは別。24時間体制を取る必要性がそもそもない)
正面から反論せずに勝手によくわからないルールを掲げて足もとを掬おうとするから「冷笑」とか言われて活動家を調子づかせるだけになる。
っていうか「知らないだろうけど産業機械や計測機器とかで三菱製品いっぱいあるんだぞ〜」って知識自慢したいだけのいつもの無能しぐさだろこれ
https://b.hatena.ne.jp/entry/4750988180036977536/comment/ROYGB
このコメントに限らず、一連の記事のブクマコメにはこういう「別の場所で撮影会ができるんだからここで規制しても表現の自由の侵害じゃない」というのは多々見られる。
こういうコメントを見て思い出したのは、2012年に起きたニコンサロンでの慰安婦写真展中止事件だ。
この事件で主催者はニコンサロンから写真展の中止を求められたのだが、上のような理屈で言えばニコンサロン以外でも写真展は出来るわけで、これは「表現の自由」の問題ではない。
加えて言えば、ニコンサロンは純然たる私企業による施設なので、公的施設に求められるような公平性は求められず、恣意的な規制も問題視できる背景は乏しいだろう。
だがこの事件は、当時「表現の自由」に関する問題として受け止められた。
https://www.amazon.co.jp//dp/4275020766
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-06-23/2012062315_03_1.html
さて、他の場所でもできるから表現の自由の問題ではないとしていた人たちは、この問題について過去「表現の自由」の問題としていた人たちは間違っていると説くのだろうか?
「公共の福祉」というのは一般的な道徳ではなく、具体的な権利の衝突を調停するための理屈なので、まず憲法の教科書でも読んできてください。
rna 違いは拒否に正当な理由があるか否かってことだと思うけど、実際のところ撮る側は水着が目当てで場所はどこでもよくて公営プール使いたいのは運営側の営業上の理由なんじゃないかな…
何故その会場を選ぶのかは主催者の理由でしかない、というのはニコンサロンの件でも全く同じなので。
grdgs ギャラリーは表現の場であって、公共プールは表現の場でない。まったく違う場のに同一視して同じだとクレームつけるのはゼロイチ馬鹿。大企業が半公共であるのを否定するならクレカ会社に文句つけるなよ
yamada_k 検閲をしてはいけないのだから、他があるからといって検閲していいことにはならない。/ ニコンサロンは表現の場として貸し出しているが、公営プールは表現の場として貸し出しているわけではなく、同列ではない。
「別の場所で開催できるからここで開催できなくても表現の自由とは関係ない」という理屈についての話をしているのであって、そこが「表現の場」であるかどうかなんて全く関係ないんだけど。国語の成績何点だった?
sadamasato 公共の場での撮影におけるルールの話と、一方的な展覧会の中止や展示品の撤去の区別がつかないのでしょうか?違う話を混ぜ合わせて「ダブスタだ〜」とか言われても、それとこれは違うとしか言いようがありません。
上で言った話に加え、「一方的な展覧会の中止」というのはまさに当初水着撮影会でやられたことなんだけど。馬鹿の考え休むに似たりというが、脳みそ使わないコメントする前に事実関係くらい調べたら?
worris 慰安婦と未成年の際どい水着姿の区別が付かない人たちを相手にするのなら、そりゃ細か過ぎるルールを決めて予め規制しないと無理だな。
理性ではこの2つの例が峻別できないということに気づいていながら認めたくないので全然的はずれなことを言って腐さざるを得ない人、かわいそう
文明化の過程を研究したノルベルト・エリアスによると礼儀作法というものは階層の差異化のために気まぐれに恣意的に作られるものだと
しかし完全にランダムな行為というものは長続きせず忘れ去られてしまうため後付けで適当な理屈が与えられる
そしてマナーが定着し階層を超えて普及してしまうと差異化という目的が果たせなくなるためまた新しいマナーが必要とされるというサイクル
アカデミー賞で白人俳優がアジア人俳優に失礼な態度とった話題あるやん
あーそうなんやーとか、
そんな感想で閉じたんだけどさ
「ああいう見えないみたいな扱いよくある!」
「私もされた!」
「これは大問題!」
みたいに
なんか話の結びとして変なこと言いだしてる奴が多いのよな
みたいな
いやそれはちげーんじゃねーの?っていうね
そもそも俺らは在外日本人アカウントがうっすら嫌いなんだよな基本的に
アイデンティティや国籍を移民先の国に移したのにそっちの言葉を頑張らず
その後何年たっても日本語メインで発信してる奴はその時点でろくでもねーわけだが、
そういうのの中でも目立つ奴等がだいたい日本や日本人への態度悪いじゃん
「しつけーしうるせーよ」とか
「日本を見限ったようなこと言いつつ何故延々日本語書いとんねん」とか
なのにこんなときだけ
「この国で私達は差別されているの!」「日本からも声を上げて!」
って、お前どういうつもりなの?っていう
お前は困った時に助けてもらえるほど誰かに好かれてるつもりだったの?みたいな
「いや日本より遥かに進んだハッピーな国におすまいの筈でしょ?」
くらいのことしか思えないよね
それは嫌な国ですねえってだけの話だからいちいち心配はしないやん(日本に来て日本人差別してたら殺すけどさ)
もしくは移住した日本人たちの努力不足闘争不足ってことでしょ?
なんでそんな話までイシューとして日本に投げて寄越されなきゃあかんの?
それぐらいどう考えてもお前等の問題、お前等が頑張ってねで終わりっしょ
お前がアメリカ人(orアメリカ居住者)としてアメリカを良く(貢献)するんだよ!
って話じゃん
「私の住んでる国と比べて日本は差別的だ後進だ」ってマウントされて、
「私の住んでる国でアジア人差別があるぞ日本は身の程を知れジャップ努力が足りない」ってマウントされて、
要するに在外日本人アカウントの話って全部が不快だし全部がてめえ勝手だから
もうおめーらの話なんか聞きたくねーよって感じなんだよな
こういうことがあった時だけ「いじめられたの!これは私たちみんなの問題だよね!?」って泣きついてくるのなんなん?
おめーらはおめーらの選んだ国でおめーらの人生頑張れよっていう
おめーらの選んだ国に問題あるなら改善するのがおめーらのその国への貢献だよっていう
そういう素朴な感想を抑えがたいんだよね
その国の良いとこは我がことみたいに使って日本にマウント掛けてくるくせに
その国の悪いとこは自分で改善の労を取らずに日本に助け求めるってなに?
「佐賀がバカにされてるよ!これはみんなの問題!」って地元に泣きつく感じ
その東京もんは佐賀もバカにしてるかもしれないが、まず舐められてるのはおめーだろ
てめーで戦えよっつーか
見下しながら甘えんなっつーか
表現規制に関する議論で「自殺すれば殺されずに済む」理論を唱える連中が多くてマジで辟易する。
「過激な」水着やポーズもNG 県営公園での水着撮影会新ルール公表:朝日新聞デジタル のブクマ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASS356S3FS35UTNB00G.html
規制の不在や曖昧さをタテに「自由に」やった結果がコレ。オレは「規制派」だが、これは最悪に近い落としどころと思う。行政の介入の口実を与えただけだ。こういう事態を避けるために自主的な規制は行うべきなのよ。
典型的な、「自由」より「行政に介入されないこと」の方が重要だと言っている例。
群馬の森の朝鮮人追悼碑も、自主的に撤去していれば、行政の介入(代執行)は無かっただろうね。
単なる偏見。
この件で得られたのは公共施設でバカがチキンレースやると行政が無駄なルールを作らなければいけなくなる、という当たり前かつ不毛な教訓。なぜ過激なのがダメなのか説明しろやって人らが他者の自由を奪ってる。
そうだね、各地の公共施設で行われ、自治体の冠付けが行われてきた反戦、平和、歴史認識問題に関する催し物について、行政がルールを作って排除するようにしてきましたけど、素晴らしいことなんでしょうね。
表自界隈が毎度の如く暴走した結果、アホな規制を呼び込んでしまった例がまたひとつ。暴走族が二輪通行規制を呼び込むのと同じ。
黙ってたら、単に排除されて終わりでしたね。
日本共産党が破防法(規則)に基づき監視されているのは、日本共産党が悪いってことですね。
そうだね、ちゃんと社会の暗黙のルールに逆らわずに生きてくださいね。
左翼が騒ぐから、警察が細かいルール決めざるを得なかったんですね。
自由を「俺らのやり放題」と曲解すると首を絞めるという話。社会性に欠ける表自戦士は他者の存在という観念がないので公共を私物視する。逆に他者の政治主張を排除したがるのも公共空間を私物と勘違いしているから。
そりゃ、最初から水着撮影会なんかやらなければ規制もされないですけど、それって意味あるんですか?
あと、公共において、一方の自由を「私物視」として、別の一方の「政治主張」をたれ流すことはそうではないとするのは、非常に恣意的ですね。
社会的調整の領域でコンセンサスを取る努力をしないで「禁止されてること以外は全て自由だ」というスタンスで好き勝手やってると、結局その中間領域もどんどん統制側がコントロールするようになるのよね
正義や道徳を笠に着て、政治的圧力をかけてくる民主集中制の連中は交渉不可能でしょ? こっちが譲歩したら許すの? そんなわけないでしょ?
「コンセンサスを取る」って、人民裁判でコンセンサスを取るのは屈従しかないですからね。まだ、行政のルールのほうがなんぼかマシでしょ。役人は憲法擁護義務があるし、変なことをすれば裁判で負けるからね。
良識に照らせば判断できるものをバカの振りしてナイナイしてきた馬鹿どもがこういうルールを呼び込む。馬鹿は表現の敵でしかない。
なるほど、良識に照らせば、慰安婦などの歴史認識問題についての展覧会については判断できるでしょうね。(なんせ、各地で排除されてきてますからね)
政治家の裏金のニュースが世間をにぎわせている。このニュースに怒れる国民は多いが、しかし政治のこの状況を作り出しているのはほかならぬ国民なのではないかと感じる。それは、一つには、彼ら政治家は結局のところ選挙によって選ばれているという話であるが、それに加えてもう一つ強く感じることがあって、それは政治家の恣意的なルール違反に怒っている国民たち自身が、恣意的なルール違反をしているということだ。
いきなり話が変わるが、世間に目を向けてみれば自動車で速度違反をしている人はいくらでもいる。彼らは「みんなやっている」「ちょっとくらい大丈夫」「本当に安全な速度は自分こそが分かっている」などと抗弁し、果てには摘発する警察を非難したりすらもする。法律で明確に決まっていることに対し、何やら法律を超えた“世間”の常識があると主張するのである。
またもや大きく話が変わるが、精神障害の一つに発達障害という障害がある。もはや広く知られている障害かもしれないが、この障害を持つ人々は社会的に不適合を起こすことが多い。そして、この障害のうち特定の種類を抱える人々は、そうでない人々に対して「ルールを遵守する」「正義感が強い」傾向が強いという研究結果が得られている。そしてその結果、社会との不和が生じているともされる。つまり、ルールをしっかりと守ろうとすることは、この世の中では正常ではないとされ、社会から排除される原因になるということなのだ。
これらの話と政治家の金の問題は通底していると思う。事の重大さが異なる、と言う人がいるかもしれない。あるいは、表面的には全く別の事象だと捉えられるかもしれない。しかし、ここで言いたいのは「ちょっとしたルール違反を許せ」という世間一般の風潮の延長線上に、この政治家の問題が起こっているのではないかということだ。「ちょっとくらい良いだろう」「みんなやっている」「これが“世の中”の慣例だ」「細かいことをあげつらうな」「潔癖では世の中は成り立たない」……
そうなんだ。じゃあエロ絵はその時点で違法というわけなんですね
でも、現状の運用だとモザイクの有無が警察や裁判の判例から基準になっているわけですよね?
即売会や各サービスもこれを必須にすることで問題にならないようにしてるわけだし
エロを一切描けなくなるのは困るので、これを一応の基準としてみなして慎重に活動するのはどうあっても重要というところは変わらないね
刑法175条は、「わいせつ」な表現は罰する、としか規定していません。
モザイクが有れば合法などということは全く関係ないです。モザイクが有ろうが無かろうが「わいせつ」ならOUTです。
モザイクが有ろうが無かろうが警察が「わいせつ」だと決め付ければ、そのままOUTになるのが現状です
モザイクをガッツりかけていても「わいせつ」だと判断された例もあるし、逆に無修正でも(芸術だから)「わいせつ」でないと判断されて無罪になった例もる。
法律で「わいせつ」とは何かが全く示されておらず、警察の恣意的に運用されてるけれど、
「わいせつとは、徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」
とある。
一方、着衣の上からの無断撮影が「羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」行為で迷惑行為防止条例違反で逮捕されたりしてるから。
「エロ」「恋愛」とその間にまるで二項対立があるかのように区別してるやつがむしろ愚かなだけだろ。
恋愛してるやつやドルオタで自分はエロには興味ないと抜かすやつや自分の感情を美化したいだけ。
法律で「これをしたらわいせつだ」以外の客観的なエロと恋愛の区別などないんだから。
美化するために、つまり負の一面として否定するためにエロって概念をこしらえたようにしか見えない。
(そもそもこのような否定が美化につながると思う思考も謎だが。そのあたりに本質的に善悪などないでしょ。水着姿ならよくてヌーディストビーチなら恥ずかしいエロだとかまさに恣意的な線引きでしかない)
そもそもなぜ上のような奴がエロをはしたないとか思ったりしてるのかねと。
エロがはしたないならプラトニックだろうがなんだろうが恋愛全般はしたないとしなきゃ整合性とれてないでしょうよ。
まず恋愛感情の延長線上に情欲があるものだし、いやそれすら語弊があって、恋愛感情と情欲は一体となった不可分なものなんじゃないのか。
なぜそれで肉体関係だけがはしたないと思えるのかそいつの論理構造が理解できない。
欲に負けてるって意味ではしたないなら、恋愛もアイドルとかをかっこいいと思うことだってはしたねーよ。
ちなみにそこらへんの無自覚ガバ論理は、性的消費を叩くフェミがアイドルは嗜んでるって現象にもつながりがあると思うよ。
食欲睡眠欲等も含めた欲すべてを低俗と断じるのは非現実的な極論だとしても、性欲と恋愛感情を切り離して性欲だけを悪いものとするのはあまりにも恣意的じゃないのか?
男女の友情は成立しないというけど兄弟間なら異性だとしても性欲抜きにした家族愛は普通にありえるものとして想定されるよな。
思うに、恋愛情欲と、家族愛友情とで二分できて、友情に対して家族愛は、方向性は同じだがより程度の高い傾向があるものだと思うんだ。
だから異性間でも家族としてなら友情以上の愛というか絆が成立しうると思うんだが…親ってのが特殊なんだよな。
子供にとっての親と、配偶者にとってのそいつ、同じ対象でしかもその関係性を結ぶ愛はどちらも「家族愛」なんぞと言われてるけど、配偶者にとってのそいつは、恋愛ないし情欲で結びついた仲なのに純然たる家族愛なのかって思う。
dorawiiより