はてなキーワード: 恣意性とは
フェミニズムを巡る疑念、糾弾、齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義」であるのが普遍的な人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人の権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。
この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体がナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的な人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないからである。
つまり普遍的な人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である。
これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性は男性で自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的に排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。
ナチズム下においては、人権の定義が大きく制約されることになった。通常の殺人の範囲に含めないことでユダヤ人の大量虐殺は可能になったのである。
従って、アフターナチスの世界で求められるべき「人間」とは定義が恣意的な意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚の人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である。死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラルが中絶の問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである。
人間の定義には政権やイデオロギーの恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリに絶対的なものでなければならい。
現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性そのものの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊をナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである。栄養従属体であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。
1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。
「女の体は女の物」
「私の体の決定権は私にある」
と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在、徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性のリソースに負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則・雇用の自由に逆らって男性の機会リソースに負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性の権利を侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性の税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性の身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差、幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである。
つまり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである。
それが市民社会なのであって、中絶問題はつまりは女性が、他者の利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである。
女性の身体の自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤なレベルの権利ではあるが、それが胎児の生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。
「胎児だから人間ではないので胎児の人権それ自体が存在しない」
という主張は、既に見たようにアプリオリなものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体、批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリな定義と科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手をキチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。
女性の身体の不都合と胎児の生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人を人間の定義から外した恣意性に戻ってはならないからである。
フェミニズム主流派が言うように、フェミニズムがヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性が人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会のプレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者の生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムはイコールの関係においてナチズムに他ならないのである。
一方的に投げかけられるこの「責任」というものは、往々にして論理整合性に乏しいからだ。
自分の行いを棚に上げ、
それらしい論調で物を言えない弱い物側を叩くことが嫌いだ。
そして私は、この叩く側の立場にいる。
どう考えても関わる全ての人が悪くても、
本当の意味での「責任」は無視され、損害のなすり付け合いになるこの瞬間が、
この構造に心底疲れを感じる。
そして金銭の発生という面で違うこともわかる。
決して分かり合えない瞬間が来ることもわかる。
それでも、各陣営が己の非を認め合い、
等しく責任を分散するような世界であって欲しいと思ってしまう。
弱者をいじめて全てが成り立つなら、一生そうしてればいいんじゃない?
自分が虐げられる側に立たないという自信があれば、一生好きにしてろよ。ほんと。
せき にん 【責任】
①自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。「━を果たす」「保護者としての━」
②自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。「━をとって辞職する」「だれの━でもない」「━の所在」「━転嫁」
③〘法〙法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。
スーパー大辞林3.0 編者:松村 明 三省堂編修所
どこまでの自由を求めるの?
俺もどちらかというと、擁護派なんだけど、程度問題だと思ってる。宇崎ちゃんとか戸定梨香とか燃やしたやつらはクソだと思うけど、コミケのエロショッパーを帰りにそのまま使うのもクソだと思ってる(萌え絵ショッパーくらいなら個人の自由)
エロでもグロでも好きに表現すれば良いと思う一方で適切なゾーニングは必要だと思ってる。
で、本題なんだけど、例えば、R18のセックスシーンがそのまま看板になってたりするとするじゃん。表現の自由は絶対だ、みたいな人はそれも許容する?それとも、さすがにそれは、ってなる?
さすがにそれはってなるなら、線引きをどこに置くかの問題になるのかな。法律で決める?行政がルールを定める?そのルールの妥当性や、運用の恣意性の問題が出てくるけど、それは許容かな?
警察が捜査した事件というのは全て送検される。「調べたがこりゃ事件性が無いな」と判断して捜査を打ち切った場合も送検される。
だから起訴の根拠になる証拠を集めて事件を検察に送る場合と不起訴前提捜査打ち切りで送検する場合がある。
警察権というのは検察の起訴権があっての事なのでそうなっている。警察は検察から独立して捜査する権限はないのでどんな事件でも最後は送検しなきゃらないんだな。
でもマスコミはその辺の事を説明しないで「書類送検」報道をする。事件性があってニュースバリューがある事件の場合はそれで耳目を惹く事ができる。
例えば贈賄事件などで送検されたとなれば警察の捜査は終わってこれから裁判だという情報ではあるが、タレントが嵯峨野の竹林の踏切からはみ出して写真を撮った、なんてケースでは意味が無い。どうせ起訴されないからだ。
後者のようなケースで書類送検報道をするというのは質が悪いので止めるべきなのだが、ニューバリューが創出出来るって事で無批判にされている。
と種類がある。4.は犯罪事実なし、時効成立、被疑者死亡、親告罪事件で告訴取り下げられた、など起訴できない場合の意見だが、警察には起訴権が無く命令出来ないので「貴官然るべく」との意見になっている。
書類送検報道では報道側の恣意性を縮減する為にこの意見書の内容を報じろとの意見があるのだが、一般化していない。一般化していないので警察もマスコミに書類送検した、との事実以外を伝えていないようだ。
この文章は「香山リカ氏ら書類送付 愛知知事リコール妨害容疑」https://nordot.app/808381768641003520?c=39546741839462401
の報道があったので書いてるのだが、同記事中では「書類送付していた」と、いう変な用語を使っている。
「起訴を求める意見は付けなかったとみられる」という事は1.の意見書ではないって事だろうが、警察にはっきりとは処分意見書の種類を聞いていないようだ。書類送付という用語は書類送検が即ち有罪を示す語感で使われているので苦肉の策だろうか?
でも元はと言えば耳目を集めやすいからと無批判に書類送検を使っていたのが問題なので、ちゃんと視聴者に説明を図るべきだろう。
処分意見書の種類を報じろとの意見は一見最もだが、今度はそこで有罪無罪を印象付けるという問題もある。
不起訴は嫌疑なしや時効成立、親告罪で告訴取り下げなどが該る。
起訴猶予は被疑事実明白だが、境遇、罪状の軽さ、謝罪と示談済みなどの場合…と法律書には書かれているが、実際は罪が重くなくて被疑者に争う姿勢がある、公判維持困難そう、なんか大変そう、警察の捜査が緩いけど検察で被疑者召喚してやるのも…などの場合、起訴便宜制度を利用して何でもこれにしてしまう。
それでは事件が不起訴になった場合、不起訴相当か起訴猶予だったのか後から判るのか?というとこれは地方検察庁によるようだ。
書類送検の場合、不起訴ですよと教えてくれないので、頃合いを見て電話して確認する。
不起訴で終わっていた場合は不起訴処分告知書を請求して貰うことができる。(但し検察は色々理由を付けて嫌がるのごり押しで請求する)
その不起訴処分告知書には不起訴か起訴猶予かが書いてある場合と「起訴をしない処分とした」としか書いてない場合がある。
だから被疑事実があったと認められたかどうかは事件を扱った検察の所在地による。
告訴や告発があった場合、警察は捜査しなきゃならない。だから書類送検は必ずされる。
メディアが分化されて素人でも影響力があるYoutubeチャンネルなどを持てる昨今では告訴、告発とそれををしました/書類送検報道を一人で兼任することも出来る。N国がやっている事なんかは近いだろう。
なので「書類送検報道は罪状の有無に関して意味が無い」という事はもっと周知されるべきだし、悪用されうる可能性があるだろう。
そもそも規制派の言うところの『普通』って全然普通に見えないんだよな。
とても彼女達の規制論が「この社会で多くの人が大体のところで共有しているだろう感覚」とは思えない。
だって改めて世の中を見渡してみた時、彼女達の言うところの性的表現に対してけしからんけしからんと青筋立てて規制を訴えている人達がどれだけいるよ?
世の中の大多数はそもそも批判も擁護もしないスルー安定の『どーでも良い派』だと思うんだけど、そういう人達を勝手に自分達側に勘定していない?
彼女達の見ている対立構図はおそらく『好き勝手エロ表現をして社会に迷惑をかける異常者』VS『それ以外の普通の人々』みたいになっているんだろうけど、その構図自体が極めて恣意性の高い歪んだ視点だということにどうやったら気付くことができるのやら。
一級市民扱いされるようになれば「上がり」と思ってる人も、そうでない人もいるわけだ。
前者には他のセクシュアリティなんぞ知ったことかって感じのもいるし
(特に若い世代のゲイは先人の権利闘争とか知らんから運動をバカにしがち)、
何がフェアかは視点によって違うわけだが、割と広く受け入れられている基準は
そのセクシュアリティが不可避に、または高い確率で他者を傷つけたり、
ズーフィリアは、「聖なるズー」みたいな本が受け入れられるようになったことを考えても
「なんでタブー視してるんだっけ?」という問い直しの機運は生まれつつあると思う。
ペドフィリアは、少なくとも現代の西欧社会は、絶対悪ということにした。
どこからがペドフィリアなのかは文化や時代によって伸縮するが、少なくとも
タブーにした年齢以下の子どもの性的自己決定権は合意があっても制限しますよ、
ということになっている。
性病や出産や性的搾取といった重大な帰結につながる余地がある性行為について
まだリスクを適切にとらえたり、嫌なときにノーと言う判断能力・責任能力を
充分に備えていないから、というのが理由だ。おれはこれは適切な線引きだと思う。
セックスを抜きにしても、法律上はどこの国でも未成年は制限行為能力者という
扱いになるからな。
性愛とは別のタブーを乗り越えない限り、線引きの内側に入れられることは
ないだろう。
世間の無理解のせいでひどいめに遭う」という筋に落とし込むために
ペドフィリアを絶対悪にする、というまさかまさかの落としどころを選んだ。
「正しい性」と「間違った性」の線引きを批判してる話のはずなのに、
著者自身も「間違った性」という線引きをそのまま使ってしまったわけで
大失敗というほかない。
優生思想とは平たく言えば「人類を品種改良して、より優れた存在にしようず」というものだ。
そして問題だらけ。
人間には多種多様な評価軸があり、客観的に優等/劣等性を判定するのは不可能だ。
評価軸を絞れば客観性はある程度確保できるが、今度は評価軸の選定が恣意的になる。
数学の能力が高い人が優等であろうか。それとも身体能力が高い人?遺伝的な疾病リスクが低い人はどうだろう?アーリア人こそ優等だと抜かしたチョビ髭もいたな。
何を以て“優れている”と言えるのか、優生思想における核となる部分は、完全に主観に依存しているのだ。
言ってしまえば「○○は優れている」という“お気持ち”に立脚した思想なんだね優生学は。
元増田君が判断した“上位互換”と“下位互換”だって、結局は君がそう決めただけなんだ。
「××は優等/劣等である。僕がそう判断した。そして優等は保護される/劣等は駆除されるべきである」という思想があれば、それが批判的にみられるのは当然と言える。
まあ「思想だけ」なら、今ほど批判されることもなかっただろうけど、悲しいかな優生思想は(悲惨な)実践を伴ってしまった。
言わずと知れたホロコーストを筆頭に、優生思想の現実での実践は悲惨極まりない結果を招いた。
実践方法が悪かっただけで思想は悪くないと言いたくても、“お気持ち”ベースの欠陥思想(なお、この“欠陥”というジャッジも私の主観に依る)じゃあそうもいかない。
全部。
褒めるとこがない。
私の考えでは、秀でた能力をいくつも持つ人だけ存在していればいいという考えなので、ナチスドイツの「優生思想」とは少し違っている。
ナチの人種に基づく優等判断は間違っているが、自分の“秀でた能力”に基づく優等判断は正しい、というお気持ち表明。
“秀でた能力”を判断するのは誰?元増田君?それが人種に基づいた判断に比べて適切である理由は何?というかアーリア人は“秀でた能力”を持ってるから云々はナチも言っとったぞ。
→一理あるが、たとえば生まれたときから常に介助が必要な重度な障害者などはどう説明を付けようか。
生きていても価値を生産しないし、他人の手を一生借りる必要がある点で社会に与える利益はマイナスである。
強いてギリギリプラスになる要素はと言うならメディアのお涙頂戴ものに使われるのが関の山。
もし私がこの立場に立ったら殺してくれとさえ思っていると思う。
ナチのチョビ髭はアーリア人以外全部マイナスとか言ってたけど、それとどう違うんだい?
自分の判断は正しい、というところから一歩引いてみたらどうか。
初マスダ…ども…
バトル用の6V厳選個体がポケモンコンテストでも優れているか?
品種改良された家畜や農作物は食味という点では優等かもしれないが、野生下での生存力は劣等である。
「勝手に決めるな!!」
以上。
【前提】これは刀ステのほぼ全演目を時にライビュ時に配信時に現場で見た上で基本的に末満さんとはセンスが合わないと思っているオタクによる悪口である
【おことわり】
・嫌なら観るなについて→刀剣乱舞のファンとして「今度こそは」の期待とか一度追いかけ始めたものから退却できないサンクコスト効果とかで引くに引けないんですよ
(1)長い。中だるみする。ちょくちょく挟まれる殺陣のせいで話が分からなくなる。
しょっぱなからアレですがこれは仕方ないと思う。上演時間ありきで脚本作るから。
殺陣については私のアクション適正が低い。アクションを見慣れてない人間って殺陣が始まると
・「とおけんだんしが敵とたたかってるー!がんばえー!」くらいにIQが下がる
・戦闘の背景にある対立構造、誰と誰が何故(何を賭けて)戦っているのか等の情報を認識できなくなる
刀剣乱舞を題材にしている上殺陣を特に売りにしてるステで殺陣を減らすわけにも行かないのも分かるのでこれも仕方ないとは思う。アクション適正上げてから来いってね。
(2)台詞が頭に入って来ない
末満さんの詩情が体質に合わない(完)
これに尽きてしまうとは思うんだけどもう少し悪口を。末満さんって滅茶苦茶台詞量多くないですか?一つ一つの台詞も長いし。青空のような人ってなんやねんいいこと言ったような雰囲気で無理矢理まとめんなて。
筆者は小説でも長い台詞や長いモノローグを嫌うのでマジで合わない。長台詞はここぞの一回くらいしか許されないと思ってる。心情の説明を台詞やモノローグに頼るのならもうそれは物語の形を取る必要はなくて増田で長文語りしとけよって思う。舞台で物語をやるのなら、物語の展開からキャラクターの心情を追えるように手を変え品を変え尽力するのが職人の仕事だと思ってる。
(3)複数ラインの物語を同時並行する割にそれらが交錯しない。一つの物語でやる必要あった?一時間の舞台二個やればよくない?って思う。
①秀頼と一期の「自分は誰であるのか」という物語…秀頼「自分は秀吉の作った天下の上のお飾りに過ぎないのではないか。自分が本当に秀吉の子であるかも定かではない。自分は本当に天下に立っていていいのか」→太閤から秀吉との繋がりを保証された上で「これはわしの戦だ!」・一期「弟がいてようやく成立する兄としての自己像以外に依って立つところがない」→「歴史を守るのが私の使命だ」(一期の物語誤読してるかも。すまぬ)
②弥七や真田信繁の「歴史に抗いたい」物語…しにたくヌェ〜〜ってやつ。序盤家康が「お前の知るわしがわしの全てではない」(物語は語り手の視点や恣意に影響され、ある事柄を完璧に語り尽くすことは不可能)からの諸説の可能性の提示からの決められた物語に納得いかね〜〜俺は後世のお前らの語る歴史のための駒じゃね〜〜俺の闘志を無かったことにすんじゃね〜〜ってやつ
関連性のない複数のストーリーラインが(殺陣や長台詞をガンガン交えて)同時進行するからま〜〜〜〜じで集中力途切れるし作品全体も散漫な印象になる
あと細々したところで家康の戦への欲求とかね。正直家康のあのキャラ付けは加州の見せ場作りと三英傑の物語やりましたってアリバイ作りのためとしか思えない。ちなみに戦への飢えについての話は義伝でもうやってんですよ……再利用かよ……
諸説に逃げて生き延びればそれで良いってなんか随分控え目だけどそれこそミュのみほとせの信康みたいにコソッと逃げればよくない?弥七が言ってた通り諸説の余裕があるならその余裕に自力で滑り込むことは可能では?史実を守る本能に導かれた刀剣男士にナイナイされちゃうの?そっかあ……
「生き残りたいポン!」「諸説に逃げるポン!」「俺らを助けるオリジナル刀剣男士作るポン!」「だから逸話集めのために刀剣男士斬るポン!」「だから派手にドンパチ起こして刀剣男士誘い込むポン!」って論理の飛躍を感じる。
(5)物語の恣意性、物語無き物の物語、無かったことにされた物語についての話はもうやってるんだよなあ……
ミュのむすはじとあおさくでやってるんだよなあ……
今作で特に別解を出したわけでもなく、ただ無かったことにされた物/者たちの憤りにスポットライト当てたところで終わってるし
三日月と山姥切国広と結の目となんやかやを巡る時空SFっぽいやつ
ようわからん(完)
基本、作中の本筋に関わらず、また作中で解決されない謎って作品鑑賞のノイズになると思うんですよ。ステはこの謎と三日月の行く末を全作品を通してのサブストーリーにしていますが。
ちゃんと考察しつつ追ってればワクワクするんだろうけど。いや連載モノなら○○編をやりながら全体としてはワンピース探したり黒ずくめの組織追ったりするのが普通なので別に刀ステが下手打ってるとは言い切れませんが。
ただね〜〜〜〜やけに難解だし時系列スターウォーズ形式だし末満さんは意味深キーワード大好きだしですっきりしなすぎて私にとってはノイズなんすよ。公式で解説本出してくれ。図解してくれ。
そもそも作中での情報開示渋ってファンの考察に委ねるのやめてくれ。本能寺再演で左右逆とかキャス変にも意図があるとかそういうのほんといいんで……そういう場外戦が許されるのはエヴァだけなんですよ……
まあ昨今はインターネットやSNSのお陰で場外戦が盛り上がりやすくなっているから、そういう作り方もアリ寄りのアリなんでしょうが……
ツイッターで考察読んでもいまいちわからんってか読む気も失せるのよ……結の目ってなんなんだよ……
「史実に存在してはいけないもの」を登場させたから物語内で回収しないといけないのは分かる。でも集団自決からの無駄死にって雑じゃね?てか登場させる意味あった?物語ある刀剣を遡行軍が回収したポン!って次作への伏線のためか?
これはどちらかというと過去作、悲伝や慈伝への悪口ですね。維伝以降大分気にならなくなった。登場されるためだけの登場シーンが多いし「このシーンは大般若じゃなくて小夜の方が当人の性格や来歴踏まえて相応しいだろ」(キャラは適当です)みたいなシーンが頻出してた。
今回はまあ……主人公の一期とそれを支え受け止める弟二振り、一期とシンクロしてアイデンティティに悩む秀頼、一期と秀頼に秀吉のことを話してなんかいい感じにする太閤、江戸の終わりに物語を持つ者として江戸を始めた家康に対峙する加州、今回の主人公ではないけどシリーズの主人公である山姥切国広という具合でそれぞれに役割があったかな。宗三は必然性に劣るけど、一振くらい作品中の葛藤から距離を置いて渦中のキャラを諌めたり助けたり話を進めたりするゲリラサポーターキャラがいるのは悪いことじゃない。
(9)加州顔濃ッ
ごめんて
ごめんけどキュートでけだるく飄々とした加州というキャラクターからキュートが抜け落ちてただのハンサムになってんだよな〜〜〜〜いや演技は良かったよ全然加州だった
ただ加州っぽい媚びがなかった。まあ主の前じゃないから当たり前だけど
ただただHandsomeになっていた
「愛されっこないよね」とか言われても「せやな……お前は多分愛する側やな……」って言いたくなるくらいハンサムだった
【よかったところ】
ステアラをよく活用してた。クライマックスの360度の戦闘を次々見せる場面はとても華麗だった。
弥七が健気でかっこよかった
https://anond.hatelabo.jp/20201210074954
一体みんな何と戦っているんだ。見えない敵と戦うのはやめるんだ。
まず順序立てて一つ一つ紐解いていこうか。
naga_yamas まぁこんなウダウダ書かなくても公立中出身者ならあの動物園に通わなくていいってので十分良さはわかるよ。
2020/12/08
いやそんなものは存在しないのだが、あえてリベラル的な傾向の持ち主かどうかで考えてもそれには当てはまらない。
別に俺がむりやり強弁しているわけじゃない。本人が自分で言っている。
と書いた元増田が想定しているような、差別を過剰にバッシングするような発言は見当たらない。差別を批判するようなコメントも見た範囲ではない。
というわけなので、事実として元元増田のトップブコメはリベラル的な傾向のある人の発言ではない。
元増田はこのブコメが「はてなリベラル」によるものだと決めつけているが、7文字中三文字、つまり42%しかあっていない。
あっているのは「はてな」ユーザによる発言だということだけである。
元増田によると例のブコメにスターをつけた人たちは「はてなリベラル」で「普段は差別主義者を罵倒している」ということのようだ。
これは本当だろうか。流石に全員確かめるのは難しいが5人ほどランダムにサンプリングして見てみよう。あ、ブコメに星を付けるのは思想信条の自由の範囲内だと思うので特に思うところはないです。
恣意性を排除するため下から順番に10人づつ5人選んだ。全ては無理なので上から100件ほど最新のコメントを読んでいる。
(一応言っておくと公開情報ではあるが、晒す意図はないのでコメントくれたら削除します)
https://b.hatena.ne.jp/leexiang/
初めのスターの人。ほとんどのブクマにコメントなし。ブックマークの傾向を見てもどういう人なのかよくわからない。趣味人かな。
特に差別主義者を罵倒するコメントはなかった。ハンチョウは罵倒されてた。趣味が合いそう。
https://b.hatena.ne.jp/chi-Haya/
雰囲気リベラルよりっぽいコメントもあるけど、特に差別にたいするバッシングコメとかはなかった。
https://b.hatena.ne.jp/ledlizerd/
エンジニアの人っぽい。今回の件について「殆どが当事者が言ってるパターンじゃないのか、それはだめなのか?」 というのは自分も無い視点だった。バッシングコメはない。
https://b.hatena.ne.jp/sm3823/
アツギの例の件に対して批判的なコメントがあったけどバッシングってほどではない。当事者の穏当な意見という感じ。バッシングコメはない。
https://b.hatena.ne.jp/septoot/
二階には突っ込んでほしいがホリエモンが好きそうでナイキのCMには批判的な感じ。まあリベラルとは言えないかな。当然バッシングコメはない。
5人見たがリベラル系の人で差別主義者(?)を罵倒していた人は見当たらなかった。5人だとサンプリング数は少ないが、無作為に5人取って全く存在しないのに、残り全員リベラル寄りで差別主義者を罵倒しているなんてことはありえないだろう。
元増田が前提としていた事実は存在しないということがわかった。
5人で力尽きた。暇だったら他の人も見てみてくれ。結構漫画好きの人多いなあと思った(小並感)
元増田によるとはてなブックマークははてなリベラルの牙城なので差別的なコメントがトップに来たら「はてなリベラル」がインチキであるということになるらしい。
前々からはてなリベラルが軽々しく口にする「差別反対」には違和感があったんだけど
この連中が「差別反対」って書いたり口にしたりする時、負荷を全く感じてないでしょう。楽しげですらある。
それはインチキなんですよ。
元増田がそういう課題を感じているというのはいいことだと思う。
想像力なく安易に差別反対といっている人がいるんじゃないかという懸念というのは理解できる。実は自分も自覚なく差別をしてしまう(またはしてしまっている)側にまわる可能性があるという想像力がなく、苛烈なバッシングを「差別をした人」に対してしている人は存在する。そういう人は相手が「差別をした人」であることを免罪符にして過剰なバッシングをしているが、それではただの憂さ晴らしの私刑である。
相手が「悪くて」自分が「正しい」と信じているときほど人は残酷なことをやってのけるものだ。そして実際に自分が差別なんかしないと考えている人が実際には差別をしていたりする。
でもね、この話そもそも前提がおかしいのではないかと感じている。
元増田は多分普段から、特定の誰かのブコメ、もしくは複数の差別反対を旗印に誰かをバッシングするブコメに対して、「こいつらは単に誰かを叩いて憂さ晴らししたいだけなんじゃないか」というような違和感を感じていたのではないか。想像するそいつらの顔は笑っていただろう。実際文章から喜々として叩くようすが伝わってきただろう。だがしかしである、そいつらは「はてなリベラル」でも「はてなサヨク」でもない。単に「特定の誰か」なんだ。
そいつらがたとえ何らかのグループを名乗っていたとしても、だ。(多分名乗ってないだろうが)
「彼らはあちらがわ」「我々はこちら側」と考えるのは簡単で、楽だ。
なぜなら、自分の意見とちがうやつら、なんとなく嫌いなやつら、偉そうな奴ら、そんな奴らと話したりなんとかうまく折り合いをつけたりするのはとっても面倒くさい。実際ストレスだ、そんなことはなるべくやりたくない。
でも心の中で線を引いてしまえば、「アイツらはあちら側だからだめなんだ」と考えればそれで済む。うまくやることなんか考えなくていい、ただ敵対すればいい。あれこれ考える必要もなくなるし、不快な思いをする必要もなくなる。
でもそれはあんまりよくない。なんで良くないのか、俺の考えでは主に2つ理由がある。
なので人間が人間に線を引こうとすると、やろうと思えばどこにでも線を引けるということになってしまう。
人間は弱いので、そのときの自分の都合のいいところに線をひく。
そうすると、どういう人間が出来上がるかというと、外野から見ると昨日と今日で言っていることが違うダブスタ野郎になることになる。
まさに元増田のきらいな、「自分の暴言は差別ではないけど、政治家の差別発言はぶっ叩く」というような人たちもこれと同じである。
この場合、自分のことを「差別をしない人たち」とラベリングして政治家とか叩く相手を「差別主義者」とラベリングしているのである。端的に言ってクソである。
ふたつめは、単にそれが「事実ではない」ということだ。
あちら側とかそちら側とかそれを分ける線というのは存在しない。フィクションだ。
あるとすれば、自分と「その他」を分ける線があるだけだ。
「ネットウヨク」も「パヨク」も「トランプ支持者」も存在しない。
はてなをやっているリベラル系の思想を持ったひとなら存在する。
はてなをやってる差別主義者をボロクソに叩くくせに自分の子供は私立中学に通わせて公立の学校を「動物園」呼ばわりするする人なら存在するかもしれない。
実在モデルを使った広告は、露出が多くてセクシーな表現にしてもOKなのに、2次元の萌え絵だとNGになる。
女性のうち少数派ではあるけれど、今回のアツギ企画に出てきたイラストを好きだという人も存在する。
これが多数派のやっていることならば、身体の露出やセクシー表現も「女性の主体性」と許容されるのに、少数派が同じことをやったら「性的消費」「男に媚びている」と叩かれる……。
一口に写真と言っても、女性向けの下着広告と、男性向けのグラビアは、ぱっと見てわかるくらいに表現技法が違う。
ただそれも結局、「女性のうちの多数派が受け入れているセクシー表現はOK。それ以外はNG」という恣意性を含む。つまり女性の多数派が受容している性表現はセクシー、それ以外は倫理的に許されないエロ表現と叩かれるのだ。
結果的に、少数派はいつものごとく、自分の好みに適合した表現をつぶされる。その上、「性的消費」「名誉男性」という汚名まで付けられるんだよ。
まずオフェンス面としては「言葉による定義」や「その定義に当てはまるものの社会的な有害性のエビデンス付き証明」ぐらいは必要ですし、
ディフェンス面としては「同じ定義に当てはまるものが社会に大量にあったりはしないかのチェック」ですとか、「エビデンスに恣意性がないかのチェック」ぐらいはしておかないと討ち死にリスクが高まるでしょう。
現代日本人の過半数が大卒なはずなのに、こういう理解をちゃんとできてる人が少なすぎる。
まぁこういう傾向って規制派・フェミニストというよりは、右左にかかわらず「先鋭化しちゃってる層」の共通の特徴だと思うわ。
右側で言うなら街宣右翼。
自分の考えが「完全な正解」だと思い込んでるから他人の話に耳を傾けず、仮に本を読んだとしても自分の都合のいいように解釈する。
批判されても自分は完全に正しいと思い込んでいるから相手の話を聞く前から間違っていると決めつける。だからそもそも真面目に話を聞こうとしない。
やれと言われた勉強以外一切やらずに無知無教養なまま大学を卒業した。
で、最近あまりに無知無教養だと人間との会話が成立しないことに気付き、本とか読みだした。
それで思ったんだが、人文系の学者が書く本、めちゃくちゃ親切じゃん。サイエンスライターはともかく理系の学者が書く本は死ぬほど不親切なのに。
でも、親切で分かりやすいものは、分かりやすいように情報が切り取られ体系立てられた恣意的なものだ。
そりゃあまあするする頭に入ってくるが、それお前どうなのみたいな主張が多すぎる。
そもそも、結論があり論理があるというか、真実の究明よりも持論の証明を目的に喋ってると言うか、へー、それが学問なんだ、みたいな。
正しいものが正しいんじゃなくて、偉い先生が言うそれっぽいことが支持されてる状態に死ぬほど驚いた。
いや法学とか工学とか実学系はあれだが、理学部と文学部ぐらいは真理の究明を目指してくれたっていいのに。
っていうか、工学部が兵器作るのは一発アウトなのに、文学部が左翼とズブズブなのは良いんだ。
人文系のアカデミックな世界、全スルーで生きてきたので、適当に足を突っ込んでみてあまりのあれさにおののいている。
そんなもんなの?
日本の大学、特に文系の学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系の学者達は自分たちの存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系の研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系の先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。
だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端の研究は専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン。一般・特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系の研究も基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。
本題に入ろう。最近、1つの書評論文が東大の言語学研究室発行の紀要に出た。
田中太一「日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型論原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313
https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2
著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学科 准教授の中野研一郎先生。
普通、書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後にちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評も酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンのフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。
一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である「博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大な論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分のオリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間の知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。
そして博士論文の原稿は、3~5人の審査委員が審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学の教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文を大学に提出していいかを審査する二次審査、最後に論文が完成し、大学に提出された後、博士の学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。
ミサト:おめでとう!
アスカ:おめでとう!
レイ:おめでとう。
研究者人生のフィナーレではないが、1つのピークである。こうやって研究者の能力にお墨付きを与えるのが大学の存在意義の大きな一部分だ。
要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ。日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本の大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校の先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学の准教授になったようだ。周知の通り、大学の終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。
博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学の博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学の博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学に就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生の師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型論原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本を代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生は2014年度に京大を定年退官して、2015年度からは中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文の審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査の主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。
さて、超大物お墨付きの博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからないからパス。3節「日本語に存在しないとされるもの」から見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分からの引用がある。
「日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリが妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである「日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。
(『認知言語類型論原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)
昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579
主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型論原理』は、ミニマリストの断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞/他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。
これは熊倉千之氏の「音象徴」理論に基づいているそうで、熊倉氏は、
膠着語にかんして、「イメージとイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。
とのこと。
近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性の原理を否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣の名前は、音と意味の関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴は基本的にオノマトペ(擬音語・擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかもあくまで傾向性。言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、
「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。
知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、
「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)
と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴は
「日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)
この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである。同音異義語の存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)
確かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、
「日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味・機能も通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本語 やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)
と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信と関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。
そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生や熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、
1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学、サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年に帰国後、東京家政学院大学教授、1999年金城学院大学教授。2007年退職。
という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学。言語について言語学界とは関係なく自由に思索・著述をしている人のようだ。そういう独自の言語論を唱える文学や思想の研究者はよくいるけど、普通の言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型論原理』もその類の本だったなら、東大で言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大の言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ。
他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。
ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的に文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ、英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!
ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後の激辛書評論文を大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型論原理』は、博士論文の審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た