はてなキーワード: 思考とは
結論:専門高校(工業高校とか商業高校とか,そういう高校)は悪くないぞ。
高校1,2年にとって共通テストや大学入試なんて,ずっと先の未来の話だ。
そこを目標に頑張り続ける,というのは計画性や高いモチベがないと正直厳しい。
ましてそこを目標にしないとなると,何をモチベに学んでいけばいいのかわからなくなる。
数か月後の試験に向けて全力,というのを繰り返していけば,自然とスキルアップができるのは魅力的。
そして,良くも悪くも,学校全体で「資格を取れ」という圧をかけてくる。
この圧がつらい人もいるだろうが,この圧があるからこそ,勉強できるという高校生は多いはず。
あと資格取得という結果は予想以上に自信になる。
「いや,普通科にも模試という短期目標あるだろ」という意見もあるだろう。
だが,模試は範囲が膨大だ。さらには偏差値が相対評価である限り,勉強すれば=成績が上がる,という公式を描きにくい。
勉強してもなかなか成績が上がらない,というのは高校生の気持ちを折るには十分だし,昨今は読解力や思考力を問う問題も多く,学力向上までの道のりはますます険しいものになっている。
一方で,専門高校の資格試験は「ここからここまで勉強しとけば,なんとかなる」というのが明確だ。
道筋が明確だからこそ,勉強しやすく,そして結果につながりやすい。
「こんなこと勉強して,何になるんだ」という疑問も常に頭をよぎる。
(もちろん中学の学びは人生で大いに役に立つものなのだが,それがわかるのは中学生にとってだいぶ後の話)
その点,専門高校の学びは実践的なものが多くなる。そして,実践を通じて理解も深まっていく。
例えば家政系の専門高校では調理実習が多く組まれているが,「大さじ2分の1」とか「1%の食塩水」などを通じて,割合の概念を理解することが容易になる。(割合の概念をわかっていない中高生は思った以上に多い)。
また,工業高校における実習では,ふざけた真似をすると即大ケガにつながることを身をもって実感できる。
専門高校のカリキュラムを「社会では役に立たない」とか「古い」という人も多いし,それは否定できない部分もある。
でも,身体を使って実際にやってみることで,学びが深まるという点こそ重要なんだよ。
「愛国心は卑怯者の最後の砦である」この言葉は、愛国心を否定していない。
まともな論理力があればわかるはずなのだが、日本のインテリぶった左翼は本当のところ思考力皆無な詰め込みバカに過ぎないので、そんなこともわからない。
「愛国心にすがる卑怯者」を否定した言葉から、「愛国心は卑怯者のすがるものだから無価値」という行間を勝手に読み取ってしまう。
これと同様に、「フェミニズム」も卑怯者(♀)の最後の砦になっている現状はいうまでもない。
国に誇りを持つことも性に誇りを持つことも悪いことではないが、それは同時に無価値なものの排他主義を招きかねない危険をはらんでいる、というだけの何も難しいところのない理屈がわからないのが、右も左も含めた大多数の日本人なのである。
どうしてこんなに馬鹿なんでしょうねえ、おっかさん。
https://anond.hatelabo.jp/20240502205151
お前ふざけんなよ。 これ反語的に使ってるだろ。
そういうことやっても意味ないよーとか思ってんだろクソが。
こういう増田かく暇があったらそれをやれよ。
お前のような思考が減点法のやつはそりゃ何もしないのが一番賢いわな。
まだネットで暴れてるフェミのほうが可愛げがあるわ。ほぼ0点なだけで3点くらいはとってるから。
mukudori69 正直言って「インターネットの諍いに夢中でフェミがフェミがと喚いてる暇な人なんて、そのうち淘汰される」と思ってるかも。自分は自分なりに勉強したり考えたりする。訴訟沙汰は個別に応援してる。薄情ですまぬ。
たとえばこいつとかさ、自分では勉強してるつもりらしいけど頭が悪すぎるからいつも3点くらいのコメントしかかかないじゃん。
それでもこいつは100点満点で3点取ってんだよ。
それでも試験を受けすらせずに、「いやー試験受けたら90点は取れると思うんだけどなー」みたいなことをいってる
お前のダサさと比べたら、まだ馬鹿のほうがいいよ。
特にネットで発信とかしてないし現実でもなにもしてないけど私はまともなフェミニストなんだよーって
思ってたりいったりするやつほんとに多いけどさあ。
卑怯だろ。
まぁお前はこれやってるだけマシかもしれんけど。
フェミニストと名乗らなくてもいい。
でも(お前が)まともなフェミニスト(だと思う)がやることはやれよ。
どんなに内心でまともでも何もしてないやつは存在しないのと一緒だろ。
そうやって遠巻きに見て(・∀・)ニヤニヤしてるだけだから
フェミニストの皮を被ったやべーやつらに好きなようにサれてんじゃねえか。
なにがサイレントマジョリティーだ。ジョジョでも読んでろ。
これ以上、悪いインターネッツのなかでフェミニズムが汚名を着ていくのは忍びないんじゃ〜
堂々と前向きにおもろいフェミニズムを知ってほしいんじゃ〜〜
どうせ学校でいじめがあったときも「悪い人がいるねえ」「まともな人間は自分しかいないのかね」とか思ってたんだろ。
何でも消費するだけ。
なんでも良いからなんかやれよ。なに採点者のつもりになってんだよ。採点される側なんだよお前も俺も。
まじでふざっけんなよお前。
ゴールデンウィークで実家に帰ると、誰からもらったか知らないが、12ヶ月分のカレンダーが文字として編まれた布地が居間に掛かっていた。
しかし、カレンダーが編まれた布地なんて最大で一年しか使えないんだから、もったいない労力のかけ方じゃねえのかと思ったりする。
掛け軸しかり、もっと長年大事にされるものにこそ、布を編むなり書を書くなりの労力をかければいいのにと思ったのだ。
おそらく既製品であり、手編みでは無いんだろうが、カレンダーなんて紙でよく、毎月ペリペリとはがせばいいだろうと思ったのだ。
それでもだ。未来にはどうなるのだろう。
書籍だけでなく、あらゆる紙製品がそうなっていく。何ならホログラムになったりもするだろう。
そして、それはカレンダーにおいてもそうだろう。
そうなったとき、紙のカレンダーは、私が居間で感じたあの感覚を以て捉えられるのかもしれない。
そう考えると、布地のカレンダーも紙のカレンダーも、未来人にはまさに五十歩百歩なんだろう。
だから、私の、紙と布のその区別こそ、思考する労力をかけるような永続性を持たない。
それなら、私たちは紙のカレンダーも、布地のカレンダーのようにその労力を尊び、大事にしてもいいんだろう。
ましてや、布地のカレンダー。その丁寧な目の運び。細やかな仕事の出来。機械折りとしても、しっかりとした作り。
そういう目で見ていると、愛おしさが生まれてくる。
お祭りの最後に燃やされるのを知ってなお一生懸命、色紙やクーピーで色付けたのだった。
そんな懐かしいことまで思い出せたのだった。すぐ失われるとしても費やしたあの労力は、本当に美しいものだった。
そう考えると、目の前にある布地にも慈しみが生まれ、引きちぎるように引き寄せてはゴミ袋に詰め、その役割を強制終了させる。
また、どこのご家庭にもある紙のカレンダーは、実家にも当然あった。
5月を示すそれらのカレンダーは目につく限り全てはがし、ビリビリに破ってからゴミ袋に詰める。
ゴミ袋でも、カレンダーとカレンダーの夢の共演が繰り広げられている。
しかし、そんなのに浸っていてはいけない。こんな破滅的な感情は正しくない。
なぜなら、ホログラムは滅びることはない。
永遠に生き続けるのだから、文章を編み小説を書くような労力をかける意味がある。
と思って目を開けると、カレンダーは元の位置にあり、龍は斜め上を見上げていた。
その先には、ソースのようなしみが何個か付着していた。
妻が在宅勤務で子どもを見ると決めるときに、締め切り間近で仕事がキツイなら「子ども見ながらだと残業しないと終わらないかもしれない」とでも言ってたら違ってたんじゃない?
「それなら俺が休む」という話になったかもしれないし。完璧に出来てる自負があるならね
「(子どもを二の次にして)まだ仕事やってるのか」というのは至極真っ当な意見だと思うんだけど。
確かに頑張ったのに責められたら辛いとは思う。それは夫に非がある。
ただ、こういう思考の妻ならこういう話は初めてじゃなく、自分のペースで動いてることが多々あるんだろうと思う。
これを妻と夫を逆転させて、「頑張ったのにぴえん」とか言ってるお気持ち誘導の文章を消したら、果たして擁護派は同じ意見でいられるだろうか?
論理的となる条件は具体的になんなのでしょうか。
青山先生は一つのエピソードを描く時に、トリックありきで構想を練っている、ということが分かった。トリックのネタを担当編集とブレストし、面白そうなものを見つけて、それをモチーフに話を組み立てている。
そこが起点なので、いつまで経っても一年が立たず一年の間に異常な数の殺人が起きるとかの世界観のちぐはぐさとか、登場人物の行動や思考がとってつけたような予定調和に感じる、ということが起こっているんだなあと感じた。
でも別にコナンはトリックが秀逸で、人物や特に絵が魅力的なので、それでも別に問題ないのであろう。自分が気になっているだけで。
自分がミステリーを読まないので分からないけど、ミステリーとはそういうものかもしれない。
ちなみに取ってつけたように補足すると、青山先生が命を削ってどのように作品を生み出しているかが分かり面白かった。青山先生お疲れさまです。60歳でも18時間作業されていて、すごい人だ。
だけど、思い出せないんだ。今の今までフェミニズムは常にネットを賑わしているが、
俺はあの頃、どんな風に考えてただろう……?
(うわっ ケツ、プリップリだぁ!)
などと内心思ってしまったとしたら。
フェミニズムの無い時代の俺なら、どう行動し、何をツイートするだろう。
ジャンプ+のケントゥリア、期待して読んでいたものの4話まで来てかなり酷いなと感じた。
作者の力量にすら疑問符が付く内容だった。
働き口を探す気になり近くの村を紹介してもらう。
ところが村のリーダーから「お前には信用が無い」「足手まといは村全体の負担になる」と言われて
テスト内容は「崩落した穴の土石を一人で運び出してみろ」というもの。
夜中には仕事を完了して見守っていた村人達も感嘆、労働者として認められる。
…これもうすべてがおかしいでしょ?
どこの世界でも第一次産業では子供に手伝わせるし何ならその為に子供を作る。
「とりあえず小石運びとか雑用からやらせてみて勤まらなければ帰す」でいいわけで
わざわざテストなんか課す理由はどこにもない。テストだってコストがかかる。
現代で試用期間だの面接だのがあるのは労働者の権利が守られてるからであって
奴隷上等のこの世界なら一日働かせて「「この役立たず!給金なんかねーぞ帰れ!」でいいから
・ダメな奴にやらせられる仕事がないどころか触らせたことで台無しになる可能性がある
みたいなことはあるんだけど、作者はその現代日本の感覚のまま話を考えている。
自分の作った世界の諸条件に合わせて人物の行動を考えるということが出来てない。
ユリアン少年は村のそばで半年間生活していて、同居して面倒見てくれてたのは先述の兵士。
今回の話もその兵士が村に働き口の世話を依頼している。
兵士と村人との関係も詳細は不明だが、こういう話をするぐらいの関係ではある。
その兵士が身元を保証する少年を労働に使ってやってくれって言ってるのにこの対応、
「村人が兵士に相当険悪な反発心を抱いている」みたいな設定があるならいいけどたぶんないでしょ?
「有難いお申し出ですけどこの子はちょっとまだ小さいようで…」と兵士に談判するか、
兵士の顔を立てるために誰でも出来る雑用を与えるかとなるはず。
人間関係や社会的な行動についての想像力が相当低い(たぶん実体験が乏しい)。
暇すぎるだろ。
なんでよそ者の子供一人のテストに村人があんなに集まってるの?今日はまつりか?
一個目の時も背景にどう見ても数十人単位でいる。
半分まで行った時にもまだ同じ密度でいる。
ユリアンが石を運び終わった夜中にも同じ感じで村人が沢山いる。
新入り労働者のクオリティに「村の足を引っ張るんじゃないか?」ときついテストしてくるほど生産性に厳しい村の人間が
何十人も朝から晩までくだらない石運びテストを興味深く見守っている。
そんなに暇なのもおかしいし、そんなものに関心が続くのもおかしい。
これ本当に何も考えずに絵を描いてないだろうか。
主人公ユリアンにとってこの石運びが死んだ仲間やディアナ母への決意表明だったとしても
そんなことは他人には関係ないし伝わってもいないのだから、外から見ればただの石運びなので
ただただ退屈な石運びを見つめ続けられるわけもないし心を打たれるわけもない。
村人の視野とか村人の都合とか村人の思考とかを想像する能力が無く
ユリアン君が頑張ると村人がずっと一緒に見つめ続けて感動するという有り得ない展開になってる。
これは精神的発達段階としてはかなり未成熟段階の認知だと思う。
絵が素晴らしく巧みなのでギャップがあるが、描かれてるものだけ見ると相当稚拙なんではないだろうか。
全然裏切らずに命を捧げてくる奴隷仲間の時からなんか変な感じが漂っていた
(が、善良ベースな世界を描いているのかなと保留されていた)部分が
もちろん、裏切り者が出てくれば成熟した精神世界だとか言ってるのではない。
そうではなくて各キャラに独立した都合や思考が想定されているか、その上でユリアンに命を託してくれているのか、
と言う話をしている。
つまりただただた絵と内容が合ってない。
上手い絵で粗い内容を読まされると人間心理としては段々不快感やイライラがたまってくるので
このままなら『ケントゥリア』はそのうちアンチ的な感想が増えて叩かれるようになると予想する。
今はまだ『ケントゥリア』が期待され持ち上げられている段階なので
怪獣8号も2話3話で「これは期待外れかも」「普通の漫画になってしまった」と書いたら
作者は絵に対して真面目で打ち込むタイプに見える。
描かなくていい村人を描いちゃうぐらいには絵に賭けてる。
もしかすると実は内容が薄い自覚があって絵だけでもと思ってるのかもしれない、
けれども作家としての成長を考えるなら&『ケントゥリア』の成功を考えるなら
というアプローチが良い気がする。
粗い内容は粗い絵の方がいい。
小学校に入ったら子供のためにアップライトを買おうとかいう行動パターンを取るのは成金層が中心なのでは?という話をしている。
「単価x万円以下の寿司屋は寿司屋じゃないよね」みたいな思考に過ぎないんじゃないか?という話。
https://question.realestate.yahoo.co.jp/knowledge/chiebukuro/detail/13135001543/
https://www.rs-music.com/child-pianolesson/densipianokarahonmononopiano/
日本の結婚の制度だと女からも金を搾取できるし実際に女の方が金持ちで男が与えられる側の例は大量にあります
男女の賃金格差といった基本的な男女間の差別構造が存在しますので、大抵の場合は差別により上事例がレアケースとなるだけです
知能が低いと構造に目を向ける事ができないため、お前みたいな浅い思考で陰謀論にすぐハマってお前みたいなことを言い出しますね
周知の事実だろうが少子化問題に関しては別に日本固有の問題ではなくて、あらゆる先進国で発生している事象だ。
ここに関して、国が悪いだの、なんだのいう考えなしはここでは無視する。
まず医療技術の発達が、子どもが生き残る確率を上げたのは言うまでもない。
そしてリベラルな思想の醸成により、口減らしみたい行為は表立ってはできなくなった。
どのような才能や出自を持ってこの世に生まれ落ちたとしても、あまねく子どもたちは育てられるようになった。
これが一つ、今では誰もが知っているだろう現代の大きな問題の要因だ。
ハンセン病を始めとする病気由来のものもそうだし、生来的な障碍者差別もそう。
周囲や、若い人の反応は気にならなかったようで、それよりもむしろ親や親戚などの身内が、
地域社会から自分の存在を隠そうとしていたということに傷ついた、と語っていたのを思い出す。
よく現代病などとして、最近は花粉症が増えた、とか発達障害が増えた、などと言われて久しい。
これはもちろん、科学や医療が発達して色々なことが分かるようになった、ということもあるし
昔からそういう素質を持った人はゴロゴロしていたよ、という話もあるだろうが、
一番の理由は、子ガチャが出来なくなった、許されなくなったからだと思う。
で、今になってグレーゾーンだとか、ひまわり学級だとかが見直されつつあるわけだ。
もちろん、社会全体として生物学的な多様性を保つことは、種全体としてもリスクヘッジになっているだろうし
倫理的な側面からも、人間社会が豊かになったことの証左であると言える。
だが、個人としての本人の意思はいかほど尊重されているのだろうか。
自分もとある身体的ハンディと、重度のADHDを抱えていたものの、そこそこの努力と
周囲の助けもあり、大学も卒業し、サラリーマンを経て、親の敷いたレール、つまり家業を継いだ(祖業は廃業したが)
クソボンボン野郎、という声が聞こえないでもないが、幸福度で考えても全く釣り合わない、と思う。
ノブレス・オブリージュなど聞こえはいいが、結局は社会の奴隷かつ、労働者の奴隷でもあるのだ。
はたまた巷にいくらでも溢れている成功者の自伝本のように、努力が足りない、
などという世迷い言をいいたいわけではない。
この努力、というものを、子どもに押し付けたいか?ということだ。
これからますます、勤勉で、清潔感があって、思いやりがあって、物事の分別がつく、聖人君子が求められる。
厳しくなりすぎたからこそ…自ら世捨て人となる人が増えているのではないか。
トラックに轢かれて別の人生を、自ら子ガチャをやり直すような妄想が、蔓延しているのではないか。
で、この少子化問題に関わる議論として、責任負いたくない問題がある
さらには、経営者、責任者、政治家の責任重すぎやしないか問題。
今では部長が悪い、課長が悪い、OJTが悪い、親が悪い、環境が悪い、国が悪い等と
終わりのない他責思考と、昇進拒否や退職代行のような責任回避思考が蔓延している。
そんな責任を負うのなら、JTCで怒られない程度にお茶を濁すが如く耐える方がいいと。
ただ、それすらも今は…
だって社会と法律が、どうあっても子供を殺すな、きちんと責任をもって教育しろ、と言っているのだから。
だが、お前ひとりで育て上げろとも言っていない。
そもそも人ひとりで育て上げられるはずもない。犬猫を育てるのとはワケが違い過ぎる。
人間は社会性の動物であり、文字通り、社会の中で、人々と交流することで全てを身につける。
そうした側面を無視して、新自由主義的な、自らの力で全て何とかしないといけないような考え方に囚われちゃいないか。
ただ、オギャーと産まれてくるのは、ただの動物だ。チンパンジーだ。
産まれてずっと親と暮らすわけでもない。社会性をどこかで身につけなくてはならない。
そしてそれは、才能にもよる。マセガキもいれば、少々社会性の獲得が遅い人間もいる。
何より実際のローグライトゲームのようにリセットなど出来ないのだ。
何も持たず生まれて、何も持たずに土に還るのだ。そうした自然な循環をしようじゃないか。
だからこそ、基本的には子どものしたいようにさせるのが一番だ。
時には殴ってでも止めないといけないこともある。
刺し違えてでも、社会に迷惑をかけないように体を張って止める。
それはお前の役目だ。それは覚悟しておけ。その責任を社会にだけ負わせるな。
今は教師も、近所のカミナリ親父も、その役目を負ってはくれない。
そういう意味で、精神的な子育てのハードルは上がっているのは間違いない。
ただ、それが出来ないと思うのならよく考えて親になってほしい。
躾をされないで育ち、大人になってから鬱になるか、反社として生きるかの二択を迫るのか。
大人になってから躾を身につけさせるのは非常に難しいし、個人主義の現代にそのようなお人よしはいない。
社会に出てから虐められてみろ。怒られてみろ。言いたいこと分かるよな。
いじめられるわけでも、怒られるわけでもない。
子供のうちはいくらでも挑戦させろ、失敗させろ、身内で迷惑を掛けさせろ。
一つだけ伝えておきたいのは、別に世界も社会もあなたの敵ではないということ。
そして、今は未曽有の危機、第二次世界大戦前後以来の混迷期だということ。
もっと言えば、明治維新と第二次世界大戦を同時に経験しているくらいの、
大きな変化の渦中にいるということを、頭の中に入れておいて欲しい。
産業革命以来の、"働き方改革"(強制)と、年間数十万人の人口減の同時発生。
そんな場面で、日本人同士でいがみ合って、責任を押し付け合ってどうする。
別に指をくわえてみてたって構わない。
けど、お願いだから、これに対処しようとしている人たちの足を引っ張ることだけはしないでくれ。
別に賛同してくれなくたって、協力してくれなくたって、疎外したりはしないから。
あまねくご先祖様、これだけの天下泰平を築いたものの、戦後最大の危機が訪れております。