はてなキーワード: 思想家とは
憲法の最高規範のやっかいさを端的に表現していて興味深い。ブクマの反応も含めて。
憲法が憲法自身を自ら最高!と自己規定する、というのは、そもそもマジックなんだよね。
これに答えられなければいくら教科書の言説を取り出しても意味がないよ。
法律というのは、根拠をすべて憲法に求めることができるんだけど
憲法だけは違う。なにせ最高規範なんだから、その上に憲法を基礎づけるものはない。
なんで最高なの?というと問いに、オレ(憲法自身)がサイコ―だっていってんだからサイコーなんだよ!というだけである。
しいていえば、今の憲法の思想が好きだ、重要だと思う、という社会のコンセンサス(通説という言い方をすることが多い)でしかない。
なので、社会のムードにとても左右されやすいのが憲法の脆弱性といえるんだよ。
だから、常に普遍的な原理だ!とかって言い続けてなければならなくて、わかってない奴や反論する奴がいたら、速攻でモグラたたきをしたがるわけ。
憲法の持つ本来的な脆弱性については、例えば、18世紀のアメリカの制憲の始祖たちも随分、起草前は随分悩んだらしく、
有名なフェデラリスト論文は、匿名で書かれ、憲法制定に至る思考実験を垣間見ることができる。
米国では、司法の世界をがっちりと国民参加も含めて重層的に構造化したから、その思考実験の結果が社会全体に引き継がれている。
陪審制をみたフランス人のトクヴィルが感動したのは有名な話だね。
連邦最高裁の重要判決ではほぼ必ず、制憲時の思いにさかのぼって答えを出す。
日本は、戦後、ある意味、そういう産みの苦しみを思想家たちが共有せず、戦禍というキーワードでなんとなく丸め込んでしまった(前文)。
そうすると、必然的に、戦争の記憶が薄れれば、憲法も意味がぼやけてくる。
立憲主義の意味だって、教科書開いて調べるようなもんじゃないんだよ。社会の仕組みとしてそれをいいと思うかどうかの話なんだから。
いいと思わない奴がいても全然構わないし。
たくさんの心と目を持つことだよ。生身の人にかぎらず、書籍を通しても多くの人に出会うこと。
ものすごく個人的な考え方を書くけど、人の心は一人分じゃない。今までに触れ合った他人の人格が無秩序に組み合わさって心は成り立っていて、何かに対面したとき、彼らが心の中で喜んだり苦痛に感じたりする。自分なんてものは死ぬまで赤ちゃんのまま成長しないので、幼い心ひとつで世界を見るのは辛い。苦痛が理不尽な苦痛にしか思えないから。だからまずは信じられる誰かを見つけたほうがいい。その人を先生として、先生の目から世界を見て、それから先生の心を構成している人格をたどる。大抵は思想家が中心にいるんじゃないかと思うけど。ともかく自分の中に住んでほしい魂を選ぶ。頭の悪い自分の代わりに物事を見てくれて、いつでも相談できる。先生たちが頭の中で勝手に議論してすらくれる。孤独でさえなければ、何事も怖くないよ。
それでこれ思い出したわ。
でも,あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタイン・フレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学にはいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学の著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.
このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ. フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.
https://blueeyedson.hatenablog.com/entry/20111201/1322730931
以下が背景ね。
ジャック・デリダによるサールへの最初の攻撃は1971年行われた。サールはタイプ原稿9枚の感想を書いた。その後サールは発話行為の自然な発展的研究主題として志向性の研究に専念し、1983年『志向性』を公刊する。この書評はその直後である。デリダは、アメリカ・ディコンストラクション派の無名の雑誌「ジラフ」に、サールの感想文を引用して解体したかのような長大な文章を掲載し、1993年サールに無視され続けたデリダは「討議倫理」に関するさらなる文章をつけて『有限責任会社』を1990年公刊する。日本ではこの版のみが知られ「サール=デリダ論争」というものがあったという神話が法政大学出版局によって広められた(邦訳2003年刊、『ジョン・サールとの会話』にて詳述)。同年サールはNew York Review of Booksに”The Storm Over the University
” 1990を掲載(未邦訳 http://www.ditext.com/searle/searle1.html )。ここで『社会的現実の構成』に一部含まれるポストモダニスト批判を展開した。1990年代、社会生物学論争と「マーガレット・ミードとサモア」による文化相対主義批判の勝利、さらに1994年アラン・ソーカルによる疑似論文投稿に始まるソーカル事件が起こり、以降フランス哲学者らの理論がアメリカでフレンチ・セオリーと別称されるようになる。
根本的なことだが、コンピューターは人間が作ったものであるのに対して、個人は人間が作ったものではない。
この点から、コンピューターをユーザーが掌握するのと、個人を本人が掌握するのは、だいぶ異なる。
コンピューターの使い方を拡張して人権をどうこういうのは不遜と思う。
「意のままに動かせるから好きにしてよい」という発想は、なるほどハッカー文化的だわ。
思想家ではないので政治や経済に専門家ほどの知識を持てておらず、おそらくはこれまで語れてきた思想の中にGNU宣言とフリーソフトウェア運動を包括する思想概念が存在するであろうけれどボクはその思想概念を知らない。
いるよなあこういうもって回った言い方するやつ。
大工じゃないので真っ直ぐ切断できませんが~~みたいなのをよそでも聞くわ。
「思想家ではない」ことと「知らない」ことにはあんまし関係ないんだよね。
「知らない」のは概念が存在しないか、または不勉強だからだ。それだけ。
いいじゃんか知らなくても。知ってる人いたら教えてねって書けばいいじゃんか。
もっと楽にやりなよ。
語れて
ここの送り、今の小学校ではこういう風に教えてるの?
GNU宣言とフリーソフトウェア運動を誤りのおそれなく端的に説明すると「自分自身が所有するコンピュータの制御権を自分自身が掌握する」である。
これを座右の銘と表現しても良いし、スローガンと表現しても良く、理念と表現しても良い。
基礎的でかつ根源的、基準であり最低限この「自分自身が所有するコンピュータの制御権を自分自身が掌握する」から外れたものは何処かに誤りがあると判断している。
ボクは思想家ではなく、GNU宣言とフリーソフトウェア運動という言葉を目にした有識者がお察しの通り情報技術者だ。
思想家ではないので政治や経済に専門家ほどの知識を持てておらず、おそらくはこれまで語れてきた思想の中にGNU宣言とフリーソフトウェア運動を包括する思想概念が存在するであろうけれどボクはその思想概念を知らない。
ボクは思想をよく知らないが、ボク自身がよく知るハッカー文化の文脈で理解しやすいGNU宣言とフリーソフトウェア運動をボクの価値観の基準にしているのだ。
そしてボクはこのGNU宣言とフリーソフトウェア運動をすべての人権にまで拡大して考えている。
つまり「自分自身の制御権を自分自身が掌握する」だ。
この考え方は究極的にアナキズムやリバタリアニズムへ繋がるのだろうけれど、そこまで過激な考えを持っているわけではない。
何故なのか?理由は至極単純なもので「あなたの制御権はあなたが掌握すべき」という価値観で、あなたの主義主張をボクが曲げるわけにはいかず落とし所としてあなたの主義主張を認めて折り合いを付けてるわけだ。
そういった意味では既存のリベラル政党にボクが求めている政党はない。
自由民主党だろうが立憲民主党だろうが国民民主党だろうが日本維新の会、共産党だろうが、ボクが求めるハッカー文化文脈上の「自分自身の制御権を自分自身が掌握する」を党是、理念、綱領にしている政党は存在しない。
はてなやTwitterには情報技術者が多いだろうから意外とボクの言っているハッカー文化文脈上の「自分自身の制御権を自分自身が掌握する」を理解できている人が多いのではないかと思うし、俺も私もそうだよ!と声を上げてくれたら嬉しく思う。
そして同時に賛同する前によく考えてみて欲しい。あなたが特定の政党や現在主流のリベラリズム、いわゆるインターネットのフェミニズムなどを支持しているのならばほぼ100%の率でボクのような考え方に気に食わない部分が数多く出てくると思うよ。
あなたは他者の気に食わない部分を容認しなければならなくなるのだから。
はっきり言ってしまうと、それはインターネットに無学な人々、とりわけ女性が増えたからだ。
女性は遺伝的に、同調圧力に弱い。物理的に強い対男性のみならず対女性においても、常に友好的で良好なコミュニティを築いていくことが、生命の安全と継承に資してきたからだ。理をぶつけることよりも和を最優先する性質がある。
だから本来は自由であるように思慮深くゆとりを持たせて設計されている社会システムの中にいても、些細な衝突も起こさないように独善的なローカルルール、マナー、しきたり、儀式、プロトコルみたいなものを次々に生んでしまう。
かつそれを増長させて歯止めが効かないレベルにまで先鋭化させてしまいやすい。社会システムとして必要な猥雑さまでも刈り取ろうとする勢いだ。それは理に基づく訴えに見えて、内実は和の思考による歪み、贔屓を強く受けている。
男性のように、対立という事象に正面から向き合って物事をすりあわせていくアプローチが女性は苦手で、そもそも対立的な局面から逃げようとする。
そのために過度に自分たちを縛るルールを作り、それを正当な規律と思い込み、広く他人にまで押し付けるようになっていく。
そうした同調圧力と空気による支配は、未開な時代ほど色濃く、通りやすく、古代中世の宗教などにもよく見られたし、島国としてある意味で精神的な発達が遅れた日本人は特にそうした「空気」に抗えない国民性を持つ。
このような状況を俯瞰的に認識できていればいいのだが、無学な人間であるほど、過去の宗教などが犯していったのと同類の過ちを、ネット上で再現してしまいがちだ。およそ「炎上」というものをドリブンしているのは、そうした過ちに対する意識が低い人間と言える。
ネットの無名の群衆は、近代の偉大な思想家たちの理性によって基盤が作られた自由主義社会の意義をたやすく踏みにじる。
古代人類のように人間の集団心理に訴えかけて、理性やルールではなく、人情と裁量によって現代社会の均衡を崩そうとしている。
しかも当人たちは自覚がないどころか、より正しい「理性」を代弁し、より社会を健全にしているという認識でいる。まさしく独裁国家のような思い上がりである。
一度そういうムーブメントが起きてしまうと、それは国家レベルで誤った政策を国民が後押ししてしまうことにすら繋がる。ここ十数年でもそれを感じさせる国際ニュースは枚挙にいとまがない。
ミニスカートを履いて肌を露出したから娘を殺してしまうイスラム原理主義の父のようなもので、己の主張が行き過ぎたパターナリズムを後押ししている可能性がないか、常に気をつけてほしいものである。
SFが現実になっていく場面を我々は何度も目にしてきたが、ディストピアまでもが現実化してほしいと心から願う人はそういないはずだ。
センセーショナルに流布される傷ついた誰かの心に寄り添う情の心ではなく、多様な境遇を想像しどのような人も生きやすい均衡的なシステムや振る舞いを考える理の頭だ。
事前シミュレーションで勝機なしと分かっていた太平洋戦争になぜ日本が突入していったのか、そういう部分を理解できる人になら私の危機感が伝わるはずと思い長々と書かせてもらった。