はてなキーワード: 徳川慶喜とは
http://anond.hatelabo.jp/20151214092241
大政奉還し駿府に事実上の軟禁状態になった徳川慶喜が、天皇制打倒のために密かに興したのが駿府王国。
事実上のゲリラ組織で、多趣味だった慶喜が西洋から取り入れたフットボールを組織の情報共有の隠れ蓑に使った。
慶喜の遺志を継ぐ直系の子がいなかったので、組織内での公選王制がとられ、戦後に至る。
戦後のどさくさで警察や行政に食い込んだ組織は、教育委員会を乗っ取り県民にサッカーを強要、サッカーを通じた県民の組織化を図る。
「サッカー少年団」という組織がそれで、彼らが大人になるにつれ次第にサッカーの優劣が身分の優劣につながり、「サッカーやらずんば人にあらず」というサッカー王政が形作られていった。
日本政府はもちろんすべて否定していて事実を隠蔽しているけど、県内ではサッカー王国は実態を伴う組織で、サッカー手帳という事実上のパスポートもある。
Jリーグ元年は県民にとっては事実上の独立元年で、県内では平成でなくJリーグ歴を使っている。
ただ、反体制派(民主派と天皇制支持派の寄り合い)のテロが激化して、その結果はいまのエスパルスとジュビロの体たらくにつながっている。
http://anond.hatelabo.jp/20071201140522
を読んで。
面接すればある程度は分かる。と言う人もいるかもしれないけれども、
実はその人が人格者かどうかについては、何か大きな出来事がその人の身に起こらないとよく分からない部分がある。
老子は、「忠臣というのが注目されるのはその主君が暗愚であるときで、仁や義というものが注目されるのは世の中が乱れているときだ」というような意味のこと(調べていないので文章は正確ではない)を言っていたと思う。
大石内蔵助が「忠臣」として名を残しているのは、主君である浅野内匠頭があのような形で切腹したのを仇討ちしたからであり、近藤勇や土方歳三が「義士」として名を残しているのは、徳川慶喜があのような形で大政奉還を行い、新政府軍の恨みが会津藩と新選組に向けられることになっても、最後まで「義」を通して戦ったからだ。ということが言える。
歴史に名を残した人が全て人格者だったということではないし、名も無き市井の一人物として過ごした人が、優れた人格者だったということもある。
しかしそこまで大きな出来事ではなくても、その人の言動を見ることによってどれくらいの人格の持ち主かということはおのずから量ることができると思う。
ここから先は私見になるけれども、
1.自分がお金を払う立場になった場合に、店員のことを見下すような言動をとる
2.公共の場・公共の物をわざと散らかしたり、無駄遣いするような行動を取る
3.約束を特に納得できるような理由もなくドタキャンをすることを特に悪いことであるようには思っていない
のどれか一つに当てはまるような場合は、その人には人格に大きな問題を抱えていることが多い。
書いていて少し頭の中身が整理されてきた。
テーブルマナーで、ゲストが手を洗うためのボールの水をうっかり飲んでしまった場合には、自分もそのボールの水を飲むべきだ。というものがあったように記憶している。
「人格者」というものは、周囲の人間またはその人の人生を後から眺めた人間が、深く感銘したり快い気分になるような言動をとるような人物ではないか。と思う。
でも、一見「人格者」のように見えているけれども家族の誰かや特定の人物を苛め通していたという場合もあるから、簡単には判断がつかない。
ニコニコ動画に対して「きもい」と仰る方々の数が増えています。以前は西洋と日本の顔の差に関する単純な文化的な差異が原因かと思ってましたが、理由はもっと深いところにあるようです。
ニコニコ動画で「嫌だ」とか「きもい」と言われて来た内容は当初、以下の文脈で説明されていました。
この問題は参加者の多くの女性達から指摘され、「日本的なリカチャン顔」風に初音ミクを押し出すことによって殆ど解決しました。
でもニコニコ動画が「きもい」と言う批判の内容はそれだけでは無く、初音ミクを好むDTM業界でも出ています。
そこでどうもおたくと初音ミクの文化差異論だけでは浅い理解と考えられる為、真面目に検討することにしました。
ニコニコ動画「きもい」論は最初、IT系の人々からのものが多かったのですが、最近は一般の人々(参加者の夫や妻まで)から「ニコ動はきもい」と言う言い方をされていると言う話を良く聞くからです。
「おたくなんてきもい・・・まるで牡丹灯篭の怖い話のように彼氏彼女をさらって行く・・・」 これ、まことしやかですよね。うーん困ったもんです。全く。
さて哲学者のミッシェル・フーコーは「物と言葉」の中で建物や言葉の持つ「表象=イメージ」の研究を行ない、「表象=イメージ」は時代によって移り変わると言いました。
例えばパリのエッフェル塔は登場した時、「グロテスクな鉄の塊」「スキャンダル」=きもい!!と騒がれました。画家マネも「草の上の昼食」に始まる一連の絵も「スキャンダラス」=きもいと言われました。鉄道はフランスで・・・・「怖い鉄の塊」=きもいと表現されました。
判り易く言えば時代が大きく変わる時には、社会の規範や人々の美意識が大きく変わると申せましょう。
だから古い一般常識や美意識に囚われている人々から見ればニコニコ動画に「何か異様な・・・」と言う印象を持つ人々の方が普通だとも考えられます。
でも今ではエッフェル塔も東京タワーもマネの絵も鉄道も市民に親しみをこめられて眺められています。時代による規範の変化、美意識の変化とはそんなものです。面白いですね。
江戸末期にフランスの軍服を着た最後の将軍、徳川慶喜さんなどはさぞや「きもい」と一部から批判されたことでしょう。でも明治になれば当たり前の感覚になった訳です。
ニコニコ動画=「きもい論」は何か廃刀例が出た時の明治初期の武士の怒りに似ているような気がします。まあYouTubeの新しい著作権の考え方もJASRACを含む音楽レーベルの「怒り!!」と「きもい、非常識だ!!」と言った批判で迎えられた訳ですが。
ニコニコ動画が「きもい」とかセカンドライフが「きもい」とは「ニコニコ動画やセカンドライフは社会を変える何か」と言う時代のシグナルでもあります。
やっぱりニコニコ動画は既存のネット参加者の美意識や社会規範の感覚に手を触れ、怒らせる怖いものなんですね。昔のインターネット批判と同じですよ、これは。
それにしても10月初のサンノゼのVIRTUAL WORLD 2007の会議は面白かったです。グーグルとセカンドライフにIBMやソニーまで含んだアバターなどの標準化、オープンソース化の協議会設立が決まったし、動きは早いです。