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2023-01-12

徳川家康だけどなんか質問ある?

66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたけど質問ある?

滋養強壮に良い食べ物とか知ってるよ

松潤みたいないい男でモテたの? 瀬名有村架純みたいなカワイちゃん

顔は北大路欣也なの?松潤なの?それとも西田敏行

顔はノッブほど精悍じゃないけど家臣や女中たちからは好かれてたよ

瀬名姫はツンツンしてたけどワイに会うときは晴れ着を用意するとかかわいげがあったな

今でいうツンデレじゃな

千代貴様も転生したのか・・・

近頃ときたら気軽に女にされたり、転生させられたりするから困る

人間五十年、化天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり

まさに幻のようなもんよな

ノッブ殿も転生されたのか!ご壮健そうで何よりでござる。

こちらの世界も悪くのうござるな

次期iPhoneのあらゆる機能を知ってそう

ジョブスどのは親友でござるからiPhone50くらいまでは知っておる。

懇意にしている南光坊天海が実は光秀だっていうあれは本当か?

オレ信長の親戚なんやけど、明智光秀そそのかしたのアンタ?

本能寺の変の裏事情を知ってるだけ教えてほしいっす。

天海明智光秀だったの?

実は天海どの=光秀どの=太原雪斎どのなので御座るよ。

三国同盟関東勢上洛から引き留めた功績があるからのう。

まりかの人こそ儂を天下人にしてくれた人物じゃ。

そそのかしてはおらぬが、雪斎殿が導いてくれたのじゃよ。

100歳まで生きたというのはそういうことじゃな。

駿府城公園に入ってきた謎のぶよぶよした生き物の記録があるらしいけどそれがなんだったのか知りたいです。

肉人か?

あれは今でいう宇宙人じゃ。

たまたま駿府城教養のある細川どのが来訪してての、「あれは中国の封じゃ」とゆったもんだから気味が悪いから追い払わせたぞ。

幽才どのがおらぬかったら静岡おでんにして食ってたかもしれんのう。

関ケ原で死んだってホント?(隆慶一郎脳)

実は影武者

世良田二郎三郎元信さんについて、どう思いますか?

それは創作じゃな。わしは影武者はもちろんおったが、あまり必要ではなかった。

三方ヶ原以降は安全ないくさしかせんかった。

陣形地形を徹底的に研究たからのう。鷹狩りのおかげじゃ。

わしが鯛の天ぷらで病に臥せった3か月のテキパキとした引継ぎを見ても、影武者にできるレベルの実務ではないことはわかるじゃろ?

関ヶ原の合戦射精しながらうんこ漏らしたって本当?

武田信玄とやりあったときうんこもらしたはすだけど、そのときの馬の様子を聞きたい

うんち漏らし達の聖地である増田投稿したわけど、大先輩としてどんな気持ち

実際の所、うんこ漏らしたの?漏らしてないの?

・・・あれは八丁味噌なんだからねっ!

せ、戦国武将ならだれでも味噌玉を腰に巻いてたんだからねっ!(震え声)

馬はぶひひーんってゆってたゾ

てかお前らうんち好きすぎ

武田信玄のところは戦の遺族補償みたいなのがあったけどその後どうなったか知らない?

わしの論功行賞は極めて公明正大じゃったぞ。

まあ三河武士が「知行などいりませんから徳川家のために!」という武士の鑑じゃったからのう。

豊臣ヒッデが気前よく大名知行を与えまくって(例:加賀百万石)自爆たからのう。

大名はせいぜい50万石以下におさえて、天領(直轄地)は500万石になった。

これが江戸幕府が260年つづいた理由じゃ。

実際の家康に尋ねるなら、三河駿府暮らしでどっちが好きかは聞いてみたい。

もちろん温暖な駿府暮らしやすかったぞ。

三河京都に近いが、駿府のほうが江戸京都どっちにも移動しやすかったからの。

駿府でも三河の麦飯と八丁味噌をわざわざ取り寄せて食しておったぞ。

白米好きな侍女たちは半ばあきれておったがの。

最近キドキする事はありましたか?(動悸息切れ以外で)

66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたときは、

「なんじゃ、ワシもまだまだ現役じゃん!」って自信がついたぞ!

結局のところ久能山東照宮日光東照宮のどっちに埋まってるの?

静岡おでんを食いたくなったら久能山のほうに行くときもあるが、基本はそのときの気分次第じゃな。

この国の中心である江戸東京)を見守るのに忙しいからのう!

その後気になる政治家はいた?海外でもいいよ

うむ。民政家でゆうと二宮尊徳、藩政でゆうと上杉鷹山。幕政だと吉宗じゃな。

やつらは立派に儂の考えを理解して実行していたぞ。こっちに来たときは大いにほめてつかわした。

海外だとガンジーどのかのう。

手紙とかでおじさん構文とか使うの?

わしはそれほど筆まめではなかったのじゃ。

ノッブ殿や信玄どのは教養があったか文章がうまかったようじゃの。

どちらかというと部下に任せることが多かった。

軍略的に必要ときは一日で100通書くこともあったぞ。

とくにラブレター系は苦手じゃった。

じゃから側室口説くとき経験豊富人妻をメインに攻めたぞ。

とりあえず鯛の天ぷらでもどうぞ

天ぷらの食べ過ぎに気をつけてね

鯛の天ぷらよりたい焼きのほうが美味しいよね(´・ω・`)

結局天ぷらは何食うたん?

そなたらの気遣い痛み入る。

大坂の陣のあとの鷹狩で、シェフに「うまい天ぷらの具はあるか」って聞いたら鯛がうまいってことで、しばらくハマってしまったのじゃ。

油がよくなかったのかもしれんな。

スーパー鯛焼きが余ったら翌日に天ぷらにするとうまいよね。

関ケ原1ヶ月後に薩摩へ攻め込もうとした加藤清正黒田如水ストップをかけたの、なんでなん?

良い質問じゃな。関ケ原が終わってもまだまだ不安定だったのじゃ。

上杉伊達従属してなかったからのう。

あのときにキッヨとクロを島津征伐に送ってたら、寝返ったかもしれんからの。

井伊直政がうまくとりなしてくれて事なきを得たぞ。

寵愛していたナッオが関ケ原鉄砲傷で亡くなったのは悲しかったのう。

衆道は以降きっぱりやめたぞ。

薬を自作してたそうだけど、精力剤のレシピ教えて

八味地黄丸じゃな。けっこう今の時代でも売ってるようじゃぞ。

66歳でもバリバリ現役じゃ!

大政奉還どう思う?

時代の流れじゃの。詳しくは晴天をつくの大河ドラマ北大路さんの演技で察してくれ。

家康よ 『人は城 人は石垣 人は堀』 武田の家訓いかに解すや!?

まさに三河武士のことじゃの。

儂は基本的に軍略も政治信玄公と同じことをやったが、ワシは20長生きしたから、

武田家の御親類衆VS勝頼どの側近、の対立構図にならなかった。

わしが早世してたら同じことになってたかもしれんのう。信康もおらんかったしな。

2022-12-18

anond:20221218181106

家康正室(継室)として徳川家に嫁いだ。この時、家康45歳、朝日姫44歳だった。

年齢的には一つ下でも、15才で元服して、平均寿命が50才、事実朝日姫は47才で亡くなってるとか。

完全にジジババ婚なんだけど、男はそれでも興奮しちゃうんだろうな

2022-11-26

時代は変わるよね

今の日本では国民主権が当たり前だけど、

100年ほど前に「国民主権」などと言おうものなら「天皇陛下主権簒奪しようとする国賊め!」と憲兵にしょっ引かれるだろうし、

その100年ほど前に「天皇主権」などと言おうものなら「徳川家転覆を狙う国賊め!」と御用されるだろうからね。

当時の人から見れば現代の我々はバリバリ極左だよね。

anond:20221023004148

2022-10-21

anond:20221021163854

島津名産桜島ミカン

徳川家への臣従を示す貢ぎ物に送られた。

桜島ミカン英語で「SATSUMA」と呼ばれているらしい

2022-09-23

武田信玄とか徳川家康に勝ったことあるから名将ってことになってるけど

実態はただの田舎戦国大名からな。

真田幸村とかも一緒。

家康に冷や汗をかかせたか日本一大将ってことになっただけ。

 

戦国の後が徳川の世だったから、とにかく徳川家を苦戦させた存在は異常に高く持ち上げられた。

 

逆に北条家なんかが武力ではひとつ格下みたいなイメージにされてるのは徳川を打ち負かしたことがないから。

2022-08-30

anond:20220830105342

ここに詳細あったわ

参考になる

下山殿を側室に迎えてからしばらくしてのこと、元忠が屋敷に女を囲っていると徳川家臣の間で話題になります。それがどうも、家康が狙っていた馬場の娘らしい・・・。もしそうなら、元忠は家康命令無視しているではないか・・・家康は他の家臣にこっそりと調査させると、やはり噂通り馬場信房の娘を屋敷に住まわせているどころか、既に××まで進んでいることが判明。元忠が信房の娘を見つけても彼女は一歩も引かず毅然としてふるまいました。死線を潜り抜けてきた元忠、やっていることは人さらいなのでさも信濃の人々にとっては恐ろしく見えたことでしょうが、流石そこは馬場美濃守が娘、気丈な彼女に元忠は惚れ込み己が妻にしてしまうのでした。なお連れて帰ってからの2人の動向はしばらく不明。そこは妄想がはかどらないかちゃんと記録に残しておけよ元忠。

元忠にお目当ての娘を奪われた家康。ですが怒り出すようなことはせずむしろワハハと笑いながら「流石、彦右衛門めちゃっかりしておるわ。婚姻を祝う準備しておくから正室を一緒に見せに来いと伝えておけ」と正式に元忠の妻である公表するのでした。

その後、元忠と彼女の間には3男1女に恵まれます関ヶ原を前にして夫・元忠が伏見城留守居していた時、彼女は夫が籠っている伏見城図面を見て

「松の丸が守りに非常に弱い構造となっている。落ちるとするならばまず松の丸が原因になるでしょう」

と元忠から留守を任された家臣たちに言っています事実伏見城の戦いでは松の丸が最初に落とされ、そこから雪崩式伏見城落城してしまいました。流石は築城名人馬場美濃守の娘、血は争えぬと人々は大いに驚嘆したとのことです。

http://niwareki.doorblog.jp/archives/27032859.html

2022-08-07

ITの内製化への考察ポエム

昨日のITの内製化というスレを見ての感想

しっぽ切りという魔法の杖

外注流行った理由の一つとして、

企業システム担当者SEでもプログラマでもない人)が、何かあったら外注のせいにして責任を逃れられる」

って書かれてて、なるほどなあと思った。

家康負の遺産

で、これを考察すると、これって江戸時代武士支配をしていたメンタルのものなんだよな。

例えば徳川家の旗を間違えて燃やしちゃったり、雑巾にしちゃったりする。

そしたら領地減らされるとか、最悪は改易(飛ばされる)とか、遠島流刑

こういう「1%ミスを許さない」っていう精神って、徳川家康が設計したものなんだよね。

家康将軍引退してからも実権を握ってたのが13年くらいあって、

息子の秀忠が馬鹿真面目だったってこともあって、「ならぬものはならぬ」みたいな上意下達文化を作ったんだと思う。

大奥とかの文化も非常にクローズドでがんじがらめで、今の日本に近い文化だよね。

それが260年以上続いた。

ベンチャーマインド戦国時代

江戸以前の戦国時代はその逆で、「勇敢な行動の末のミスであれば武士としてあっぱである

みたいな文化だったんだよね。もちろん「勝手な行動は死罪」というのは軍においてはそうであったけど、

基本的スピードと結果が全ての世界だったから、許されることも多かった。

何より信長秀吉が好んだのは「臨機応変さ」「勇敢さ」であって、企業でいうベンチャーマインドに通じると思う。

秀吉朝鮮出兵などで自爆してしまったけど、信長がもし織田政権を長期化させていたら、

日本は非常に面白い国になっていたんじゃないかな、とも思う。

楽市楽座とか、重商主義なところも、石高社会の当時の日本としては画期的だったからね。

日本人を支配する「村八分」への恐怖

まあ、家康は偉大ではあるけれども、日本人を停滞させた側面はあっただろうね。

もちろん江戸の安定政権プラスも大きかったけど、

パーセントかは信長秀吉ベンチャーマインドが許容される国であっても良かったと思う。

とくに商業という意味においてね。

日本人の責任を取りたくない、悪い意味での臆病さが、外注という甘えを生みだして、

そこに反社的な人たちを付け込ませてしまったのではないかな。

で、その臆病さの源泉は何かっていうと、終身雇用にあるんだよね。

アメリカみたいにスキルアップして飽和したら、数年おきにステップアップ転職する、っていう文化がないからね。

一生面倒を見てもらうわけで、ちょっとミスしたら一生居心地が悪くなってしまう。

そんな気持ちが見て取れるよね。

村八分されたくないから、村の外から工事人工を雇うってことなんだろうね。

人間はたった数百年じゃマインドを変えられないってことだね。

多重下請け構造とは江戸時代である

で、話は戻るけど、多重下請けスキームにおけるエンドユーザー企業にいる、

エンジニアでもない「システム担当者」って結局なんなの?とも思う。

イメージ的には、江戸時代の城の中の座敷で座ってる人って感じ。

めっちゃ座り方が型にはまってる感じの。

殿中まかりこしま早漏」とか言ってそうな人(知らんけど)。

何ができるかっつーと何もできないけど、殿中まかりこしま早漏の言い方はうまい(笑)

そういうイメージ人材だと思う。

で、その下に鼻息の荒いヒゲ面の山賊っぽい人とか悪人がつく。

頭領「この工事には1000人必要ですな」

座敷おっさん「うむ!節々のこといっさい任せたぞ!」みたいな。

頭領は、人権とかどうでもいい荒くれものでないと務まらない。

暴力と恐怖心で躊躇なく人を殺し、操れる人材が求められる。

あとは500人で済む工事を1000人で見積もらせる、金への執着、欲望の深さも大事素養である

アメリカの強さは信長の強さ

ちなみに信長二条城の改修を驚くべき短期間と完成度で仕上げたそうだが、

その時には自分も粗末な服を着て、身分の低い人工たちと身分の差なく語り合い、

トップダウンで進めたという記録が、フロイスによって残されている。

よく考えれば城が立派に早く完成すればいいわけで、

工事計画文書、第100版を作りまかりこしもうした」って毎日やるのが目的じゃないものな。

まかりこしもうしたやってる間に城郭を強化したり街道を整備してる。

これは現代でも同じ。最終目的がわかってるのがアメリカの強さ(=信長の強さ)なんだろうな。

から日本Excelポチポチやってる間に、AWSAzureを作ってしまった。

変革の追い風はある

とはいえ公正取引委員会とかIPAデジタル庁が、問題認識して動いているから、風向きは変わっていくかと。

公取委IT業界多重下請けにメス 不当行為調査摘発

https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/mag/nc/18/020800017/072600752/

2022-07-24

想像を絶する家康の苦労

来年大河ドラマになるけど。

家康の苦労はたくさんあるが、最大のもの奥さん長男を斬った話だろう。

築山殿が晴れ着を着て待っていた話などは心苦しいエピソードである

タイミングこそ全て。「阿茶局」との出会い必然だった⁈

天正7(1579)年。失意の中で自分を責め続けた男(38歳)が一人。というのも、これまでの、そしてこれから人生の中で、一番辛い出来事が、彼の身に起こったからだ。それは、子と妻を一気に亡くすという悲劇想像以上の痛手。トラウマさえ残るほどの苦行。これだけでも辛いのに、皮肉にも、その原因を作ったのは自分。自らが「彼らの死」を命じなければならなかった。誰を恨んでいいのか。人生矛盾に答えなどないと気付く。

その男性とは、のちに天下人となる徳川家康

当時、織田信長同盟関係にあった家康は、窮地に立たされていた。原因は、長男・信康(のぶやす)の妻、徳姫の手紙である。徳姫は信長の娘で、家康正室・築山殿と嫁姑関係がこじれている真っ最中の状況。そのせいもあり、徳姫は父・信長に対して、夫である信康の愚痴や、夫と姑が武田方に内通していると、手紙で訴える。これを受けて信長は即刻、罪状認否を行い、信康の切腹を言い渡す。

徳川家康

織田信長の決定に、徳川家中での反発は大きかった。しかし、当時の家康はまだまだ力不足選択肢などなかったのである。一時の感情で動いて信長敵対するなど、家の存続を考えればできぬこと。已む無く、長男・信康と正室の築山殿を見捨てる決断を下す。

天正7(1579)年8月に築山殿殺害9月幽閉されていた信康は切腹

残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている。「今日岡崎から夫に会える」と築山殿は極上の晴れ着を身に着けていたのだとか。少しでも綺麗な姿で家康会いたかったのだろう。報告を受けた家康は、一説には、なんとか築山殿を逃がせなかったのかと、介錯人を責めたとも。地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。

そして、同年。

天正7(1579)年のこと。『神尾氏旧記』と『当院古記』の資料によれば、「阿茶局(あちゃのつぼね)」が徳川家康側室として召し出されたのが、この年だとか。人生最悪の時期に、家康阿茶局出会ったのである。どのような経緯で、家康の目に留まったのかは不明。ただ、彼女が心の琴線に触れたのは確かだろう。ある意味家康阿茶局との出会いで、人生を救われたともいえるのだ。

https://intojapanwaraku.com/culture/98681/

2022-07-07

anond:20220707152409

あっごめんなさい、徳川家のお殿様でしたかwwwww

それじゃあ江戸時代知識しかなくてもググれなくて当然ですよね、大変ですねwwwww

知識乞食するならはてな人検索のほうがいいですよ、がんばってくださいねさようなら

2022-06-22

anond:20220622145532

出生

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安祖父春日大社奉仕する猿楽(現能)金春流猿楽師で、父の信安の時代大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。

ただし一説では、武田勝頼からまれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家時代

遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行連署傳馬掟書』慶長6年1月個人蔵)[2]。伊奈忠次彦坂元正連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正106月本能寺の変信長が死去して甲斐家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行代官頭)に任じられ、家康関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月大和代官10月に石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。

慶長6年(1601年)春に徳川奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである

慶長8年(1603年)2月12日家康将軍に任命されると、長安特別従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。

慶長10年(1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社の本社普請

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国の金銀山統轄や、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切を任されていたのである現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[5]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安嫡男藤十郎(37歳)、次男外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

人物逸話

ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクション対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分遺体黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。

一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

2022-06-18

徳川秀忠愛妻家恐妻家だったのか?

好むと好まざるとにかかわらず、

側室を多数おいて子供の数を増やすことが義務

とも考えられていた貴族社会にあって

徳川秀忠側室を置かなかったのはなぜなのだろうか。

豊臣家の諸侯ひとつとしての徳川家であった時代はともかく

関ケ原以後天下としての徳川家において嫡流を残すために側室を置かなかったのは何故なのか。

定説では秀忠は非常な恐妻家で隠れて囲っていた側室が子を生んだ際には

正室に見つからないようにして家臣の子供として養育させたくらいである、とされている。

まあ、そのとおりなのかもしれないがあるいは父・家康に警戒心を抱かせないための処世術だったのかもしれない。

秀忠の男子の子供はふたりいたが国王の子供の数としては圧倒的に少なすぎる。

当然、側室を置くべきであるし秀忠もそのように考えていただろう。

しかし、そこに家康という存在があると話は変わるのではないか

秀忠の血筋にもしものことがあった場合には自分の子供が国王即位する、という環境家康にとって心地よいものであったのではないだろうか?

また秀忠が多数の子供をつくり、その子どもたちが勢力を増していき、いずれ家康の子どもたちと争うことになるということは考えられることであり

家康にとっては不快心配タネになることだったのではないだろうか?

そういった対家康という側面から秀忠の選択を考えることも出来ると思うし、そういう説もおそらくはあるのだろう。

筆者は歴史に詳しくないのでそのへんはよく知らないのだが上記のことをウンコしてるときに思いついたので書いてみた。

2022-06-08

このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物評価され、忠吉も関ヶ原本戦島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している(「仁孝恭謙」と、儒教倫理上での最高の評価をしている)。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。

それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている[17](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。

為政者としての評価

公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある[注釈 6]。娘の和子を後水尾天皇に嫁がせ皇室牽制、また紫衣事件では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年(1616年7月小倉藩主の細川忠興は息子・忠利に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様政務に余念がない)と書き送っている[19]。

秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的政務を見ている。作家海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。

江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れで磔に処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである

大名たちの家族関係には些細なことにも気を配り、それを解決する時には茶目っ気もあった。小倉藩細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」(『享保名物帳』の同名の刀とは別物)を愛刀としていたが、嫡子忠利が所望しても与えないので、親子関係がぎくしゃくしていた[25]。どういうわけか、この事情は秀忠の耳にも及んでいた[25]。そこで、ある年、細川父子を伴として浅草川に水浴に出かけ、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った[25]。忠興も、水浴びとなれば、大三原を腰から外さざるを得ない[25]。秀忠は、忠興より先に水浴びを済ませ、川辺に置かれていた大三原を手に取ると、一人川に入らず側に控えていた忠利に気を利かせて、「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。(将軍仲介しているのだから、)越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と堂々と宣言して、大三原を忠利に与えてしまった[25](『細川忠興公年譜』[26])。このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという[25]。秀忠の大物ぶりに感化されたのか、忠利は後に大三原を気前よく弟の立孝に譲っている[25]

2022-05-11

anond:20220511163827

本能寺の変の前にはもう北条織田同盟を結んでたんよ。

で、その同盟ってのはそれこそ織田家と徳川家みたいな事実上の臣従であって、

もう北条は国力的に織田に逆らえない状態になっとったんよ。

当時の織田武田とも上杉とも戦っとったから、

北条織田に従うことで武田上杉に対抗しようと思ったわけやね。

2022-04-21

anond:20220421110822

たまごふわふわ」は静岡県袋井市ご当地グルメ

袋井東海道五十三次のど真ん中の宿場町だった。

この「たまごふわふわ」も、実は袋井宿で朝食のお膳に出された料理なんです。

さらにいえば、将軍徳川家の祝宴料理として登場したこともあり、当時は名のある武士豪商が食したセレブ料理だったとか。

こう見えて、由緒正しい高級卵料理

江戸時代の文献『東海道中膝栗毛』や豪商旅行記に記録が残っていたため、

それを参考にして袋井市観光協会再現したんだと。

2022-03-17

シグルイ読んでる途中なんだけど藤木って

上の言うことに弱い傀儡なのに(それ自体は仕方ないことだと思うが)

徳川家のお膝元で加減せずに元服前の武士の指飛ばしたりめちゃくちゃするのなんなの?

ここがいまいち納得いかない

2022-01-17

anond:20220117173408

徳川家じゃないんだから漫画で顔が出てきたとき能力思い出せばええだけやん。

暗記しとる必要ないで

2021-12-05

水戸光圀さえいなければ明治維新は無かったよな

水戸光圀が「国学」だの「水戸学」だの言って天皇神聖視しなければ幕末の戦いは幕府が勝っとったやろ。

徳川家のくせになんで幕府に仇なしとんやあのジジイ

2021-10-15

[]乙骨太郎乙

1842年生まれ父親幕臣儒学者

太郎乙も漢語英語蘭語を使えたので、幕府洋学校教授外国奉行などを歴任した。

維新後には徳川家について静岡移住した。

1869年明治2年)、イギリスヴィクトリア女王次男であるエディンバラ公アルフレッド来日が決まったとき

各藩から英語が出来る人物が呼ばれて接待係に任じられたが、静岡から太郎乙が選ばれた。

その折、薩摩藩軍楽隊指導するために来日していた軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンから

「歓迎の式典では国歌を流さなければならないが日本国歌は何か」との問い合わせがあった。

接待係たちは国歌などというものを聞いたことがなかったので、どうすべきか政府上層部に問い合わせたところ、

「その程度のことでいちいち問い合わせてくるな、そういう問題を何とかするためにおまえらを呼んだんだろ」

と怒られてしまったので、接待係たちは困り果ててしまった。

そのとき太郎乙が「もう古歌のなかから適当に選定すればいいんじゃね」と、

徳川将軍家が毎年の正月に行っていた「おさざれ石儀式」で歌う、

君が代千代八千代さざれ石の巌となりて苔のむすまで」

という古歌を推薦した。

これが採用されて、そこにフェントンが作曲したメロディが付けられた。

まり骨太郎乙は国歌君が代」の生みの親と言っても過言ではないのである

ただし諸説あり。

1922年大正11年)、太郎乙は80歳で亡くなった。

晩年は旧幕臣の仲間と集まって漢詩を作るなど悠々自適生活だったという。

2021-08-16

anond:20210816100107

漢王朝とか徳川家って血筋とだえてたんやっけ?

外戚とか御三家があったからだいじょうぶか

2021-06-30

anond:20210630094352

時代劇大好き老人「別に嫌にならないぞ」

 

昔っから勧善懲悪テンプレでしょ

なろう云々関係ない

 

まぁ

遊び人かと思ったらお殿さまでした」

「ただの老人かと思ったら徳川家の人でした」

とかって展開自体が"なろう"感があるって言われると否定できない

2021-05-11

将軍武士、侍とは

将軍武士、侍とは、民主主義になる前の江戸時代における政治家のようなもの

将軍徳川家の今で言う首相であり、侍は徳川家官僚である

武士は侍になれる家柄のこと

江戸時代民主主義がなかったので徳川将軍大奥で子孫を増やして将軍を継がせて、侍も選挙で選ぶことができないので武士の家柄の人が侍になるという仕組みだった

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