はてなキーワード: 微積とは
専門学生のタカシは普通に学生生活を送っていたが、ある日突然、自分が体感していた時間はほんの一部であったことを知り、自分以外の時間が動き出す体感に襲われる。後に彼は、自分の数学能力が高いことがその原因であることを知る。彼以外の人々は、あらゆる思考が現実化する世界線で生きており、タカシが意識を取り戻すまでの間に様々な研究開発を行っていたことを知る。
ある日、タカシがカビの生えたみかんを食べたことがきっかけで、自分時間が止まっている時の周囲の様子が見れるようになった。数学の授業に参加している時、教師が「大丈夫です、あいつの時間は止まっていて気がついていません。」と叫んだが、タカシはその声を聞くことができた。異常世界の住人は、使える時間が長い分、IQが低いということを知る。そのため、タカシが微積分の公式通りに問題をスラスラと解くと、「え、なんでだ、あいつが一瞬で答えを書いている」などと言っているようだった。
タカシは、カビの能力は自分の思考を現実化するという周囲の能力を自分の能力としても使えることに気づく。学校の5階の椅子で窓を見ながら座っていると、「この気持ち悪い世界の住人は、俺が今眠っている間に、1億年の労働を強いられる。しかも、俺に手出しをすることも不可能。1億年後にはすばらしい技術発展を遂げた世界がある」と思考を練った。目を覚ますと、外には巨大なカメラがタカシを見ていた。友人に聞くと、「それより、何か飲みたくない?」と言われ、自販機でミネラルウォーターを買う。
タカシは驚きと不安を抱きながら、特別講義の怪しいプレゼンを見ていた。プレゼンの中では、主人公の少年が実は女性であること、そしてその女性が謎の暗号で会話する集団に通常言語で話しかけても通じなかったことに、彼は混乱していた。更に驚いたことに、その女性の脳が野生の猿と宇宙人とリンクされているという内容までプレゼンには含まれていた。
タカシは、この世界が異常であることを確信し、トイレに逃げ込むようにしてその場を去った。しかし、教師に呼び止められ、「帰りたいんだよな?」と尋ねられた。タカシは教師が何を言っているのか理解できず、「帰りたいに決まってるだろボケ」と答えた。
その後、タカシはこの異常な世界から抜け出すために実家へ帰ったが、そこでは正常な生活が営まれていた。彼は地図アプリを開き、外にあった巨大カメラがなくなっていることに気づいた。彼はこの異常な現象に疑問を持ち、この世界がどういうものなのかを解明するために行動を開始するのだった。
タカシが精神科でその話をしたら入院となったが、医師に驚愕の事実を告げられる。「実は、君の脳自体が異常世界を作り出したようなのだ。君のクローンをこの異常世界に残すから、本体はもっと正常な世界に送ろう。」
タカシは、医師から告げられた事実に戸惑いながらも、自分自身が異常世界を作り出したことを受け入れた。クローンが残されることには複雑な思いもあったが、彼はもう二度と異常世界に戻ることはないだろうと安心した。
精神病院に入院してからしばらくして、タカシはテレビで放送されているアニメに出くわした。そのアニメは、思ったことがそのとおりになる異常世界と、自由に思考できる現実世界とを対比して描いたものだった。タカシは、自分が経験した異常世界のことを思い出しながら、アニメに心を奪われた。
ところで、異常世界のカメラの映像によると、彼は相変わらず5階に座っていた。そして頭に奇妙な装置を着用しており、脳を強制的に正常世界につなぎ止めているようだった。理論的には、異常世界のタカシが死んでも、タカシは正常世界の中で生き続けることになっているが、これはこれで面白いので放置しておこう。
知的作業の本質を論じることは困難。数学の最も重要な特徴は、自然科学、もっと一般的に言えば、純粋に記述的なレベルよりも高いレベルで経験を解釈するあらゆる科学との、極めて特異な関係にあるとノイマンは考えていた。
ほとんどの人が、数学は経験科学ではない、あるいは少なくとも経験科学の技法とはいくつかの決定的な点で異なる方法で実践されていると言う。しかしその発展は自然科学と密接に結びついている。
まず幾何学。力学や熱力学のような、間違いなく経験的な他の学問は、通常、多かれ少なかれ仮定的な扱いで提示され、ユークリッドの手順とほとんど区別がつかない。ニュートンのプリンキピアは、その最も重要な部分の本質と同様に、文学的な形式においてもユークリッドと非常によく似ている。仮定的な提示の背後には、仮定を裏付ける物理的な洞察と、定理を裏付ける実験的な検証が存在する。
ユークリッド以来、幾何学の脱皮は徐々に進んだが、現代においても完全なものにはなっていない。ユークリッドのすべての定理のうち、5番目の定理が疑問視された最大の理由は、そこに介在する無限平面全体という概念の非経験的性格にあった。数学的論理的な分析にもかかわらず、経験的でなければならないかもしれないという考えが、ガウスの心の中に確かに存在していたのである。
ボリャイ、ロバチェフスキー、リーマン、クラインが、より抽象的に当初の論争の形式的解決と考えるものを得た後も、物理学が最終決定権を握っていた。一般相対性理論が発見されると、幾何学との関係について、全く新しい設定と純粋に数学的な強調事項の全く新しい配分で、見解を修正することを余儀なくされた。最後に、ヒルベルトは、公理幾何学と一般相対性理論の両方に重要な貢献をしている。
第二に、微積分学から生まれたすべての解析学がある。微積分の起源は、明らかに経験的なものである。ケプラーの最初の積分の試みは、曲面を持つ物体の体積測定として定式化された。これは非軸性で経験的な幾何学であった。ニュートンは、微積分を基本的に力学のために発明した。微積分の最初の定式化は、数学的に厳密でさえなかった。ニュートンから150年以上もの間、不正確で半物理的な定式化しかできなかった。この時代の主要な数学的精神は、オイラーのように明らかに厳密でないものもあったが、ガウスやヤコービのように大筋では厳密なものもあった。そして、コーシーによって厳密さの支配が基本的に再確立された後でも、リーマンによって半物理的な方法への非常に独特な回帰が起こった。リーマンの科学的な性格そのものが、数学の二重性を最もよく表している例である。ワイエルシュトラス以来、解析学は完全に抽象化、厳密化され、非経験的になったように思われる。しかし、この2世代に起こった数学と論理学の「基礎」をめぐる論争が、この点に関する多くの幻想を払拭した。
ここで、第三の例。数学と自然科学との関係ではなく、哲学や認識論との関係である。数学の「絶対的」厳密性という概念そのものが不変のものではないことを示している。厳密性という概念の可変性は、数学的抽象性以外の何かが数学の構成に入り込んでいなければならないことを示す。「基礎」をめぐる論争を分析する中で、二つのことは明らかである。第一に、非数学的なものが、経験科学あるいは哲学、あるいはその両方と何らかの関係をもって、本質的に入り込んでいること、そしてその非経験的な性格は、認識論が経験から独立して存在しうると仮定した場合にのみ維持されうるものであること。(この仮定は必要なだけで、十分ではない)。第二に、数学の経験的起源は幾何学と微積分のような事例によって強く支持されるということ。
数学的厳密さの概念の変遷を分析するにあたっては、「基礎」論争に主眼を置くが、それ以外の側面は、数学的な "スタイル "の変化についてであり、かなりの変動があったことはよく知られている。多くの場合、その差はあまりにも大きく、異なる方法で「事例を提示」する著者が、スタイル、好み、教育の違いだけで分けられたのか、何が数学的厳密さを構成するかについて、本当に同じ考えを持っていたのか、疑問に思えてくる。
極端な場合には、その違いは本質的なものであり、新しい深い理論の助けによってのみ改善されるのであり、その理論の開発には百年以上かかることもある。厳密さを欠く方法で研究を行った数学者の中には(あるいはそれを批判した同時代の数学者の中には)、その厳密さの欠落を十分認識していた者もいたのである。あるいは、数学的な手続きはどうあるべきかというその人自身の願望が、彼らの行動よりも後世の見解に合致していたのだ。たとえばオイラーなどは、完全に誠実に行動し、自分自身の基準にかなり満足していたようである。
1+1=2なのはなぜかという問いと、一個のあるものにもう一個あるものが手に入ってそれを合わせたら2個になるのはなぜかという問いは似て非なるだと思う。
前者はペアノの公理なり群論なりからなかば定義にみたいにそうだからそうなんだと説明できる。
だが後者はそういう目で見たり手に取ってみれる直観的現象としてなぜそうなるのかという話だ。しかもどんなに巨大な個数あっても同様なことが成り立つわけだ。
しかもこれ、微積分とかの何らかの計算がなぜ成り立つのかというのと問うのはまだ掘り下げてその仕組みを理解することが意義深いものでありうる感じるの違って、やはり問うまでもでもなく当たり前のことでしかないのではないかとも感じてしまう。
しかしそうやって連立方程式がなぜ代入法で解けるのかについて理解することについては素通りして当たり前に成り立つに決まってるとして活用してたのが、実は自明でもなんでもなく理解すべきロジックがきちんとあってそれに対して当たり前と言う言葉に目を曇らせていた事実もあったから、今回その可能性があるのではないかといわゆるジレンマに陥っている。
1+1=2のような足し算しょせんそういう直観的現象に対して辻褄があるように取り決められた演算にすぎない。あくまで直観的現象が先にあってその現象が予想できるように自然数の公理なりが定義されているわけだ。
あるいは5個あったところに1個追加された全体は3人で余りなく分けられるのはなぜかというのも似たような問いだ。6÷2=3だからだというのはその説明になっていない。
実際にそうなることの計算による推論の仕方を言ってるのではなく、なぜそうなるかと聞いてるわけだ。
人間の個数に関する認識が数学の構造にうまい具合に従っているから、認識と数学の集合が同型(雰囲気で言ってる)だから、みたいなことだろうか?数学基礎論を齧ってみたがいまいちこの問いと結びついているようであまり有用な感じもしない。なんかスマートな説明ないか。
数学の分科のうち数論幾何は研究にあたって必要な知識が最も多いと言われていますが、必要な知識量がこれに匹敵してするものはありますか?ある場合はその中でももっとも数論幾何の場合とは研究に要する前提知識において重複が少ない分科をあげてください。
↓
数論幾何に匹敵すると言われている学問としては、代数学や解析学があります。また、数論幾何とは別の枠組みで研究されている分科としては、トポロジーや微積分学などがあります。数論幾何とは研究に要する前提知識において重複が少ないと言われている分科としては代数学やトポロジーが挙げられます。
…
いや数論幾何にはトポロジーどころかホモロジーとか普通に必要じゃん何言ってんのこのクソアホAiは。
俺は数論幾何とは結構研究対象が食い違ってる中でそれを研究してたら天才と言われる数論幾何とタメを張れる数学の学問領域はあるかって聞いてるんだよ
解析学も、代数学も、トポロジーも、数論幾何という高みから見たらそれを理解するための踏み台たたき台でしかねえ。下位互換の学問を勉強等の最終目標にしたって仕方ねえんだよ。大は小を兼ねるってやつだ。
同じような知識を必要とする学問だと多少異なってても現に天才と言われてるやつに実績で敵う可能性は低いからな。毛色の異なる分野で対抗する方が賢明だし、それを探すには前提知識の重複具合を基準に考えるのが手っ取り早い。
いやだからさたとえば1=xって等式があるやん。これのxに対する解は明らかに1のみやん?
で、これの両辺を積分するとx=(x^2)/2+Cになるじゃん。これのxに対する解はその個数の時点で明らかに積分前と異なるじゃん?
等式で結ばれてれば両辺積分微分しても同値じゃない例になってるよなこれは。むしろ感覚的には等号で結ばれたものは両辺足しても引いても同じなんだから当然微積分しても同値だって感覚に陥ってそこで思考停止しがちだと思うけど(俺もつい先日までそうだった)。
で、変数分離形dy/dx=f(x)*g(y)は積分しても同値だからこそ、積分することによってf(x)を求めようとするんだよな。
この場合のf(x)やらg(y)やらは先の場合でいうxに対応してると思うんだ。
xに関する多項式の等式は積分すると同値性が崩れるから解も変わる。しかし変数分離形の等式はそもそも積分せずに解けないというのもあるが、積分しても解であるf(x)は変化しない、もっといえば積分前も積分後も等式を満たすf(x)は変化しないわけで、これは積分前後で同値性が崩れないからだよな。(逆に積分して同値性が崩れるならもうこのような等式を解く手法が無くなるともいえるが。)
追記:恒等式か方程式かの違いは考えなきゃいけなかったな。でも変数分離形って関数の方程式じゃないのか…?え、恒等式なの?あーもう頭ぐるぐるぱあだよ。
まあ純粋な数学的証明に挑むんでもないかぎりこのあたりの理解の欠如が誤った計算を助長するということもないから深入りするだけ馬鹿なんだろうけど。
私は理系の大学4年生、あとは卒論の発表を残すのみとなった。院進しないで就職してしまうからあと2ヶ月弱で16年間の学生生活が終わってしまう。
中高時代は割と勉強が得意だった。というより、中高レベルのテストで点数を取るのが得意だったと表現する方が正しいかもしれない。授業は数学以外ほとんど寝ていたし、週6で部活をして家に帰ったらすぐ寝てしまうみたいな生活だった。でもテスト前に1週間くらい勉強すれば点数は取れたし、その勉強だけで模試とかでも普通にトップレベルの成績が取れていた。高2くらいからは、受験を意識した勉強を学校の前とか部活の後にするようになって、2年生が終わる頃は周りに抜かれなければ第一志望受かるって確信できた。
で、受かった。根っからの体育会系人間だから大学でもちゃんとした部活に入った。それが楽しすぎて、本当に全く勉強しなくなった。1年生の時は、対面授業で必修も多いから一応出席ある授業には出ていたんだけど、授業中はずっと練習のビデオを見たり試合を見たりしていた。理系だからレポートよりテストの科目が多くて、高校時代のノリで大学最初のテストを受けた。惨敗した。線型も微積も物理もちんぷんかんぷんだった。高校までの蓄積でなんとか単位は取れたんだけど、1年前期にして点数が低すぎて人気学科への進学不可が確定した。後期も同じような感じで乗り切り、何に憧れてこの大学入ったんだと思うようになった。
2年になるとコロナでオンライン授業が始まった。他にすることもないから授業はちゃんと受けるようになって、テスト前も勉強するようにした(ちなみにテストもzoom繋いだオンライン形式で、不正行為を防ぐために色々な方法が取られていた)。そしたら割といい成績がとれて、まあ勉強すれば点数取れるよなって気持ちになった。だけど夏休みはもちろん一切勉強しなかった。後期からは授業は相変わらずオンラインだったけど、部活も再開して毎日忙しくなった。この頃にはオンライン授業にも慣れてきて、とりあえずpcは開くけどzoomは聞き流して他の作業をするようになっていた。学科の試験はレポート形式が多かったから、とりあえず授業の資料だけちゃんとダウンロードしておいて、提出ギリギリで書き上げるみたいな感じだった。
3年も実験が始まっただけであとは2年の後期と変わらなかった。去年1年間でデータも蓄積されていたから、楽そうな授業を選んで受講して卒業単位数を確保することに勤しんだ。院進するか就職するか悩んでいて、別にメーカーに入りたいわけでもないし勉強もしたくないしとりあえず就活を始めた。夏のインターンは自分の実力試しに外銀受けたけど、グループ面接で他の学生に圧倒されて、自分やばいんじゃねと焦った。もちろん全落ちで、日系の数社インターン参加して夏は終わった。焦ったからといって模擬面接とかESの添削とかは一切しなくて、就活対策なるものは結局最後まで一度もすることはなかった。秋冬は日系の入りたい会社を何社か受けて第一志望群からインターンを評価されて内定もらえて、4年は部活に集中したかったから、4年に学年が変わる前に終活した。そして院進はしないことにした。
4年はマジで部活以外の時間が暇すぎて大変だった。授業もないし就活もないし院試もないし研究室もそこまで忙しくないから、部活とトレーニングだけやる毎日。入社前に差をつけるために勉強するかとも思ったけど、どうせ自分が入る会社に優秀な奴はいないだろうし、何より面倒くさかったから特に何もしなかった。あと、部活に一点集中しすぎてしまって他の世界を見れていなかったんだろう。とにかく部活で結果を出すことにこだわった。だけど結局部活では結果を出せなかった。
部活も終えて卒論もひと段落して思うことは、もっと真面目に勉強しておくべきだったなということだ。中高大の10年間、常に部活を言い訳にして勉強から逃げてきた。大学に入ってからはテスト前すら勉強しなくなってしまい、どんどん頭は衰えた。貴重な18-22歳という時間で脳に刺激をほとんど与えず、何も思考することのできないバカを生成してしまった。やってしまった。今から勉強しようと思っても、体が勉強をしないことに慣れてしまったから机に向き合うことができない。社会人になってからも仕事が忙しいからって言って何も勉強しないんだろうね。仕事もハードな知的労働に比べて忙しくもないくせに。そうやって無価値な人間が出来上がるんだ。
これから先の人生、大学の4年間で開いてしまった差は広がる一方なんだろう。高校や大学の同期がどんどん世界に羽ばたき活躍しているのを見て悲しくなるのがもう目に見えている。
数3、線形代数、微積分を頼る人もいない中で勉強して、大学入っても国立理系とは思えない、服とか髪型ばっかり整えて頭空っぽの馬鹿たちと、朝から晩までオシロスコープで電圧波形観察して、モーターのプログラミング制御して、レポート押し付けられて泣きそうになりながら仕上げて、ラボでも教授からも同期からも先輩からも無視されて、それを乗り切って俺は情報工学を修了したんだ。
大学一年では線形代数や微積分に取り組み、サークル合宿(笑)やら合コン(笑)なんかに脇目もふらずCプログラミングの単位を取り、朝から晩までの実験に耐え、学部と院の研究に耐えた人間だけだ。馬鹿どもが俺と同じ空気を吸うな。
数3、線形代数、微積分を頼る人もいない中で勉強して、大学入っても国立理系とは思えない、服とか髪型ばっかり整えて頭空っぽの馬鹿たちと、朝から晩までオシロスコープで電圧波形観察して、モーターのプログラミング制御して、レポート押し付けられて泣きそうになりながら仕上げて、ラボでも教授からも同期からも先輩からも無視されて、それを乗り切って俺は情報工学を修了したんだ。march法学部で遊んで学士とった癖に嫁もいる奴が俺に偉そうにしやがって。くたばれ。トイレで泣いてる。
私大法学部卒のクソバカ上司の下で働いてられねえから今の会社も退職しようかな。いっつも似たような状況に追い込まれて結局俺が会社辞めることになる。青チャートも実験演習も卒業研究もしてない奴がエンジニア名乗りやがって。てめえにそんな資格ねえ。科学に携わることができるのも、科学に口や手を出せるのも、科学の恩恵を受けられるのも本来科学に造詣のある人間だけだっての。文系には本来スマホやインターネットを使う権利も現代医療を受ける権利もない。科学の恩恵を受けられるのは、馬鹿どもがグラウンドで球遊びしてる間に青チャートを直向きに解き、大学一年では線形代数や微積分に取り組み、サークル合宿(笑)やら合コン(笑)なんかに脇目もふらずCプログラミングの単位を取り、朝から晩までの実験に耐え、学部と院の研究に耐えた人間だけだ。馬鹿どもが俺と同じ空気を吸うな。
バスの中で吊り革に捕まって揺られてたら対向車線のバス停で待っていたjkが目に留まった
白いワイシャツの生地が下から突き出る胸によって引っ張られている様子が
ただいま巷で話題の某fc2 ppvの動画の出演者についつい重なって見えてしまった
首を左右に小刻みに揺らしながら上目遣いで見つめ返してきた
意外と好感触の彼女の反応にドギマギしつつも思わずちんこが勃った
現実世界の生身の女の何気ない挙動が、これほどまで強烈に自分のちんこを勃起に導いたことがしばらく信じられなかった
それほどの瞬発力だった
このときの勃起の度合いを時間微分したらきっと凄いことになったんだろうなあって考えながらずっと余韻に浸り続けた
ときどき、「体育教師は運動得意だから体育苦手な奴の気持ちがわからない」というのを見かける。
中学の時の走り幅跳びの授業で、自分の実力別に練習のやり方を変えていたんだが、実力が低かった俺のメニューは・・・
「空中に放り出される感覚を養う」
とにかく飛んだだけ。何もわからん。
https://togetter.com/li/1231847
ここに書かれているようなフォームのチェックだとかは一切なかった。
サッカーもちょちょいと蹴る練習パーっとやって試合。柔道は最初からしっかりやってくれたかな。でも柔道はやったことないやつばっかだから当たり前か。
「体育教師は運動得意だから体育苦手な奴の気持ちがわからない」というのは、まったく間違っているというものでもないと思う。
https://twitter.com/koichi_kawakami/status/1511583109116198917
ある研究者の人が、指数関数や微積を義務教育に含めろとおっしゃる。
一般の人間は働き始めたら、「微分?そんなのやったねぇ。」で終わりだ。
「x^nを微分するとnx^(n-1)になる」を覚えている奴が優秀レベルになる。
働き始めたら学校で覚えていたこととは別のことを覚えなくちゃいけない。
何かを忘れて覚えていかないといけないんだ。
微積とお客さんのことを覚えること、大多数の人間にとってどっちが大切だ?
「微積は我々の生活に密着していて~」とかそういう言葉遊びしているんじゃないぞ。
考えてみろ。微積とお客さんのことを覚えること、大多数の人間にとってどっちが大切だ?
言い方悪いけど、ぶっちゃけブラック企業の研修のほうがよっぽど役に立つ。
諸先生方の反応したら、ものの見事に「無駄!!」と断じていたけど。
でも、あそこでぶち込まれるマナーやら仕事術のほうが大多数の人間にとっては大切なんだ。
あんなとこで微積や指数関数が~なんて言ってたら「なに甘ったれてんだゴラ!」ってぶっ飛ばされるだろう。
学問を4年、6年、長くて10年ぐらいかじってきた人間が一般企業で使おうとしても使えない。
それに、今の中学のカリキュラムに微積ぶち込んだら超詰め込み教育になる。
多分だけどこの手の先生は「もっと学問を大切にしろ!」だからさ、ほかの教科も増やせとかいうんじゃないか?
超詰め込みが超超超詰め込みになる。
ぽやーっと理解した中学生が高校行って、中学で増えた分高校では難しいことやって…
今より「あ、俺勉強向いてねぇ」って学問あきらめるやつ増えるんじゃないか?
まさかまさかまさか先生方「微積・指数関数も理解できないのか!」とか言わないだろうな。
一般人には厳しい。
(追記2)
https://twitter.com/koichi_kawakami/status/1511583109116198917
いやーかなりの詰め込み教育になりそうだけどなー。
結局「x^nを微分するとnx^(n-1)になる」みたいなとりあえず使える公式だけ覚えてる人間がたくさん出来上がりそう。
あと、詰め込み教育な分逆に大人になったらぱーっと全部忘れちゃいそうってのも多そうだな。
学者先生は基礎としてこういう知識があるからいいだろうけど、一般の方はねぇ。
使う使わないの話っていうか、人間どうしても仕事とかで別に覚えなくちゃいけないことは出てくるし、人間の記憶力も限界あるし…
数式とか使わない概念的な話を授業でするにしても、余計にややこしくなって何も理解できてませんでしたとなりそう。
指数関数もy=a^xだけだろって思うかもしれないけど、こういう考えはまずいしな。
なんか「理解できる人はますます理解が進み、理解ができないものはますます理解ができなくなる」みたいな「富める者はますます富み…」と近い話になりそう。
https://twitter.com/hironobusuzuki/status/1511581711423143938
使える人は、「使うこと」と「使わないこと」ができて、
使えない人は、「使わないこと」しかできなかった。
わかるかなぁ。わかんねぇだろうなぁ。
松鶴家千とせ師匠のセリフ使っていい気になっているところ悪いが、
まさか、まさか先生「使うこと」と「使わないこと」の比率が50:50とは言わないよな。半分ぐらいの確率で微積を使うのだーとか思ってないよな。
5:95、多くて10:90だよな。
よほどよほどよほど限られた人じゃないと、高校や大学で学んだ数学を使った仕事に就職できる人はいない。著名な建築士だってビルを建てるときの積分とかの計算は機械にやらせて、理屈わかってないんだって。
ここらへんの話抜きにして使える使えないの話するの、ずるいよなぁ。