はてなキーワード: 微分幾何学とは
心残りがある。
ホッジ作用素とか、アインシュタイン方程式、群環体、微分幾何、集合と位相くらいは理解した(つまり、e-MANや物理のかぎしっぽくらいのサイトを眺めるレベル)
でも、
って感じの、学部中級レベルしか物理や数学は理解できていない。
東大まで行って、これかよっていう。
ってか、工学系でも、これらの知識使ってるところは使ってる研究室あって、普通に研究してるわけで。
自分がいた研究室は、そんなに高度な数学も物理も使わなかった。せいぜい、微分幾何学とかチョロっとだけルベーグもあったかなーくらい。ほとんど何もまともな頭を使う議論はなかった。ルベーグってのも、別にルベーグじゃなくて、ノルムがどうこうでちょろっと。
物性系なら、超電導とか相転移とか。あるいは、核物理とかなら、普通に素粒子とかで数学バリバリできたんかなあ。
もう就職しちゃったけど、博士やれるなら、純粋数学か、素粒子物理やりたいなあ。。。
人文系の文献の取り扱いとか業績についてちょっとだけ - dlitの殴り書き
確かに異分野の事情をお互いにわかっていたほうがみんな幸せになりますよね。パーマネントや学振の採用とか。
素粒子分野は大きく分けて
に分かれています。これらの間には超えられない壁がありまして全てをまとめるのはちょっと難しいのですがなんとか書いてみます。
間違いを見つけたら教えてください。
素粒子の論文は全て英語で書かれます。国内雑誌としてはPTEP(旧PTP)がありますがこちらも英文です。当然どれも査読があります。
業績リストの論文(査読なし)には国際会議や研究会の proceeding を載せたりします。
素粒子分野には論文投稿前に arXiv に載せる慣習があります。
これは投稿前に業界の人たちに意見をもらい論文を修正するためです。accept 後に査読済みの論文に差し替えます。
arXiv に載っているのは基本的に 投稿前/査読中/査読済み の論文及び国際会議の proceeding です。
特に素晴らしい研究は Physical Review Letters (Phys. Rev. Lett) に投稿されます。IF8.839 です。
Nature や Science に投稿することはまずありません。
おそらくは [ 業界の人数 ] x [ 1年間に発表する論文数 ] に依存するはずです。まあ人数の少ない分野は引用数も少なくなるでしょうね。
同じ素粒子業界でもその専門ごとにかなり違うはずですが、とりあえず Inspires によると以下のように分類されています。
# of citations | |
---|---|
Renowned papers | 500+ |
Famous papers | 250-499 |
Very well-known papers | 100-249 |
Well-known papers | 50-99 |
Known papers | 10-49 |
Less known papers | 1-9 |
Unknown papers | 0 |
自分で確認したい人は Inspires で fin a s Masukawa などと打ってみてください。
素粒子実験、特に高エネルギー方面ではなかなか論文が出せないことがあります。
理由は簡単で実験計画から結果が出るまで多数の歳月がかかるからです。
例えばLHCは計画からヒッグス発見まで20年弱かかりました。論文の著者数は5000人を超えました。
このような事情なので「博士課程単位取得満期退学後に研究を続けて論文を出すと同時に博士を得る」というような方がたまにいらっしゃいます。
博士号をもっていない素粒子実験の人に出会っても決してバカにしてはいけません。
まず 場の量子論/超対称性理論/群論・リー代数 あたりは三分野共通で勉強すると思います。
加えてそれぞれの分野の専門的教科書、例えば弦理論なら String Theory (Polchinski) 格子なら Lattice Gauge Theories (Rothe) など。
分野によっては位相幾何学、微分幾何学を勉強しなければなりません。共形場理論もですね。
この辺りでようやく基礎ができてきましてこのあと30年分くらいの論文を読みます。
研究に入るまでの勉強に時間がかかるので修論はレビューになることが多いです。
当然学振は出せない・・はずだったのですが最近どうも事情が変わってきたようです。
学生の方が学振(DC1)に固執して勉強も途中に研究を始めてしまう、勉強途中のM1に研究できることなんてたかが知れているので
必然的にあまり重要ではない研究に貴重な時間を費やしてしまう、というような話をぼちぼち聞くようになりました。
学振についての考え方は人によるとは思うのですが、ちょっと危うい傾向だなと私は思うことがあります。
そこでちょっとお願いなのですが
「学振は研究者の登竜門!取れなかったらやめよう!」などとblogに書いて煽るのをやめていただけないでしょうか?
いや書いてもいいのですが主語を書いてください。「情報系では」「生物では」とかね。
「博士号は足の裏のご飯粒」と言われて久しいですが、弦理論では博士号を取るのはまだまだ難しいと思います。
まあとったところで「足の裏のご飯粒」なんですけれどもね・・・
放置していてすみません。まさか今頃上がるとは思っていませんでした。
new3 言いたいことはわかるけど、普通は「ヒッグス発見」を博論のテーマにせずもうちょっと控え目な研究に留めるものでは?日本でもJ-PARCからSuper-Kにニュートリノ撃てるんだし10年に1本はさすがに少ないと思う。
どうもありがとうございます。文章を少し修正いたしました。他にも間違ったところがありましたら教えてください。
niaoz 懐かしい。補足するとストリングやるなら一般相対論がベースの重力理論も必要/場の理論は確かに簡単じゃないけど楽しい。量子力学と特殊相対論(電磁気学含む)を修めたらやってみるとよいです。
monopole 素粒子理論分野では修士で論文書きにくいけどDC1の枠はあるので、採用者は実績によらずほぼランダムだったり有名研究室に偏ったりする。まあ論文なしでも通る可能性あるから学振は気合い入れて書け
kowa 素粒子系は知性の墓場だと感じてる。優秀な人材があまりに何もできなくて、消えている。魅力はわかるが、1/5000のcontributionだかでいいのだろうか
そのslideshareの人はただのgiftedなのでもう少し他のを参考にした方がいいと思う。
機械学習に興味を持ってビショップ本に行くのもあまりお勧めできない。
過剰にベイジアンだし実際問題あそこまで徹底的にベイズにする必要は無いことも多いから。
よく知らんけどMRIとかの方面もだいぶ魑魅魍魎なので(DTIとか微分幾何学的な話がモリモリ出てくる)、
近づくなら覚悟と見通しを持ってやった方がいいんじゃないかなあという気はする。
オライリーの本は読んだことないけど悪くなさそう。「わかパタ」とか「続パタ」とかは定番でよい。
ビッグデータがどうとか世間では言ってるけど、データのビッグさはあんま気にしなくていいと思う。
ビッグデータを処理するためのインフラ技術というものはあるけど、数理的な手法としては別に大して変わらない。
(オンライン学習とか分散学習とかの手法はあるけど、わざわざそっち方面に行く意味も無いと思う。
超大規模遺伝子データベースからパターン検出したい、とかだとその辺が必要かもしれないけど…)
数学については、線形代数は本当に全ての基礎なのでやはり分かっておくとよい。
「キーポイント線形代数」とか「なっとくする行列・ベクトル」とか、他にも色々わかりやすいいい本がある。
(まあ固有値と固有ベクトルが計算できて計量線形空間のイメージがわかって行列式とかトレースとかにまつわる計算が手に馴染むくらい。ジョルダン標準形とかは別にいらん)
プログラミングはそのくらいやってるならそれでいいんじゃないか、という気はする。行列演算が入る適当なアルゴリズム(カルマンフィルタとか)が書けるくらいか。かく言う俺もあまり人の事は言えないけど。
処理をなるべく簡潔かつ構造的に関数に分割したり、抽象化して(同じ処理をする)異なるアルゴリズムに対するインターフェースを共通化したりとかのプログラミング技術的なところも意識できるとなおよい。
ggplot2は独自の世界観ですげえ構造化してあるんだけどやりすぎてて逆に使いづらい…と俺は思う…。
遺伝子のネットワークとかなんかそれ系の話をし出すと離散数学的なアルゴリズムが必要になってきて一気に辛くなるが、必要性を感じるまでは無視かなあ。
プログラミングの学習は向き不向きが本当に強烈で、個々人の脳の傾向によってどうしたらいいかが結構異なる気がしてる。
向いてるなら割とホイホイ書けるようになっちゃうし、向いてないなら(俺もだけど)試行錯誤が必要になる。
まあせいぜい頑張りましょう。
これを書いた元増田です。これだけ丁寧に書いてもわからん人たちにはいいかげん怒りが抑えきれなくなってきました。
特に、この人はどうしても許せない。他の人にも言いたいことはあるが、まずこの人だけやっつけておく。
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20080813/1218593841
曲学阿世の徒はどっちなんだか。
まあその気になれば勤務先のジムのバイト君が理学博士(数学)なんで聞いてカンニングすることもできるけど。まあすぐに馬脚は現れるだろうしやらない。
その程度の認識なのか、この人は。カンニングしたところで理解できるのは辞書的な定義だけで、背後にある発想というものは頭をひねって苦しまなければ理解できるはずがないものだ。それを「ぐぐれカス」の一言ですますあなた方の態度を批判しているのだが、何でそんなことがわからないのだろうか。それこそ「わからないふり」をしているとしか思えない。
しかし「学問やってる人間をなめないでほしい」と書いていて、「人文系でない人間にとっては「ホモ・サケル」という用語を今回初めて見たとしても何の不思議もないわけで、」という泣き言を言うんじゃない。私も「ホモ・サケル」なんて知らんけど、知らんから言及しない。自分が知らないことに言及して、恥をかいたら逆ギレ?それで「学問やってる」て学問を愚弄するのも甚だしい。
泣き言?恥?あなた、私の文章を最初から意図的に誤読してるでしょ。
私はあのid:hokusyu氏の文章がわからないことを恥だなんて思っちゃいないし、同氏の議論の妥当性に言及した覚えもない。そんなことは最初から私の射程には入っていない。そうではなくて、それほど難しいことを理解することを強要して、理解できない人間を「あたまがわるい」と罵倒する知的不誠実さをこそ批判している。ましてあなた方は「理解できないというのは、理解を拒んでいるからだ」とまで極言した。だったら、id:hokusyu氏の意見が難解であるなんて後付けで言うんじゃないよ。だったら、あなたはどの口で「知らんけど、知らんから言及しない」なんて平然と言えたものか。二枚舌を使うな。恥を知れ。
そもそも「増田」で人を批判する根性なしに尊敬されても己の恥辱でしかない。今回の言及が自分のブログでなされていたら、もう少し私の反応は違っていたが。
はてな紅衛兵に炎上させられるリスクを敢えて冒せと言うのか?こういう状況だから、fuku33氏やHALTAN氏が受けたリンチを思えば自ブログで書けばどういうことになるかは火を見るよりも明らかではないか。私はこの話題に関しては増田でしか言及しないし、私が書く記事は全てその旨表示する。逃げも隠れもしない。文句があるなら正々堂々とかかってこいというのだ。
何度でも言う。この増田の人間は学問をとことん舐めくさっている、と。結局こいつにとっては学問とは自分の虚栄心を満たす以外の何者でもないのだ。
それはお前らのことだ。
お前らがfuku33氏やHALTAN氏を批判したのが、それほど高度で難解なことであるならば、それを「あたまがわるい」なんて言うべきじゃないし、ましてそれを「理解できない」と言ったことを「理解を拒んでいる」だの「反知性主義」だのと下種の勘繰りで侮辱したりするんじゃない。例えば私は、あなたが一般相対論や微分幾何学を理解できないからって「あたまがわるい」なんて言ったりするつもりはない。それを敢えて他人をサンドバッグにしてまでご自身のご高説を開陳なさるということは、要するにあんた方は人文系知識を「自分の虚栄心を満たす以外の何者でもない」ものとして扱っているということだ。
文句があるなら言ってみやがれ、エセ学者。
それにしてもこの人、自分もid:hokusyu氏の言ってることを理解してないくせにHALTAN氏が「考えてない」とか言ってたんだね。どんだけ党派的なんだろ。
hokusyu あたまがいたい いやまさに知的誠実さの問題だよ。あんたとHALTANの。/理解できないのが「あたまがわるい」んじゃなくて、理解してないのに「無意味」「飛躍」というのが「あたまがわるい」の! ←俺この説明何度すればいいの
私はid:HALTAN氏の主張に全面賛成しているわけではないし、私は「無意味」「飛躍」という言葉をあなたの文章に対して使ったことはない。あなたの文章が原理的に「理解可能」なものであるかどうかについて私は否定はしていない。ただし、肯定もしないことを言っておく。あなたは、専門家が一般の場に向けてものを書く際に必要なだけの説明をしていない(そう考えた理由は元記事で述べた)し、それで理解できないことを責めるのであれば、その論法は「俺様の天声を理解できない愚者どもは地獄に堕ちろ」というカルトの論法と同じである。少なくとも、現在のあなたの態度は控えめに言って傲慢だ。
http://anond.hatelabo.jp/20070224194128
逆にさ、人に教えてもらって成功したり能力を発揮できて本当に楽しいかって考えたことがある?
もちろんあります。いや、違うかもしれません。本当の意味で考えたことはなかったのかもしれません。
当時の私が陥っていた思考の罠は、
「人に教えてもらうことは、所詮はお情けに頼ること。自分では何もできないということを認めること。これは屈辱だ」
というものでした。ここで思考停止してしまっていました。
ある意味では正しいのかもしれません。でも、当時わかっていなかったことがあります。「自分ではなにもできない」というのが紛れもない事実だったことです。これを認める勇気がなかったことが全ての敗因です。
私見ですが、研究者として必要な能力は二つあります。「何を(what)するか」と、「どうやって(how)するか」の双方です。
このうち、whatは人から教えてもらうことが困難です。知識をいくら集めても、質の良い研究テーマは出てきません。何が重要か、何が面白いか、そのあたりの判断ができることが必要です。当時の私には、このあたりの能力はあったと思うのです。そういう意味で、私は自分が才能に欠けていたとは必ずしもありません。
一方で、howの方は人から教えてもらうことができるのです。そして、「やりたいこと(what)」の中からできそうな部分を切り出してくるような能力、これも広い意味のhowに入るのです。これこそ、私が見落としていたことです。知識は本や論文から手に入れることができます。しかし、知識を集めてhowにすることも難しいのです。それができるようになるためには、経験が必要です。そして、経験がなにもない段階から経験がある段階にステップアップするためには、先達の指導を受けることがどうしても必要です。
私には、whatとhowの区別がありませんでした。確かに、whatについて教えを乞うことは恥かもしれません。無目的に時を過ごすことの無意味さを自覚できていないからです。しかし、howについては教えを乞わないことが恥だと思います。歴史上多くの先達が一生をかけて成し遂げてきたことを自分だけの力で何とかしようというのは、無謀以外の何ものでもありません。
物理学の歴史上屈指の天才の一人として、アインシュタインがいます。彼の最大の業績としては、まず間違いなく特殊相対性理論が挙げられるでしょう。これは、時間とか空間といった日常的な概念に変更を迫るものとして、一般人の関心をも大きく惹きつけました。
ですが、アインシュタインの業績だと一般に思われていることを100とすれば、そのうちアインシュタイン独自のアイディアは実のところ2か3ぐらいしかないのではないでしょうか。光速度が一定であること、時間や空間が伸び縮みする可能性があること、これらは全て、ローレンツとかポアンカレとか、これも歴史に名が残るような当時の一流の人たちによって既に得られていた成果なのです。現代でも「アインシュタイン、特殊相対論を横取りする」などという本が出版されているぐらい、このあたりは微妙な話に属するのです。しかし、それでもアインシュタインは段違いに偉大だと私は思うのです。アインシュタインの理論は単純な原理からこれらの新しい結果を自然に導き出せる驚くべき明晰さに価値があるのであって、これにくらべれば、ローレンツやポアンカレのアイディアは斬新ではあっても、既存の理論の綻びを無理に覆い隠すようなその場しのぎのものにしか見えなくなってしまいます。しかしそれにしても超一流であるアインシュタインにして、せいぜい100のうちの2か3のアイディアしか出せないことは注意する必要があります。それが成熟した学問分野での研究者の世界というものです。
さて、アインシュタインは特殊相対性理論を発展させて、一般相対性理論を提唱しました。これこそは全く新しい分野の構築であり、100のうちの100のアイディアがアインシュタインのものであるといってもいいように見えます。しかし、この理論の肝である「曲がった時空」を扱うためのアイディアは数学のうちの「微分幾何学」と呼ばれる分野から丸々拝借してきたものであり、数学者の立場からみれば、長年にわたって構築されてきた理論にアインシュタインは物理的解釈を当てはめただけ、と言えなくもありません。そして、「微分幾何学」を物理学に適用するというアイディア自体もアインシュタイン独自のものではなく、その指導教官のミンコフスキーの助言に端を発するものなのでした。もしアインシュタインがミンコフスキーと知り合っていなければ、この理論の発見者はアインシュタインではなかったかもしれません。アインシュタインですらhowを指導教官から教えてもらっているのに、どうして稀代の天才でない人間にそんなことができるでしょうか?
華々しく成功して賞賛されたのはいいけど、後々まで、教えてもらった人に、
「あの時は世話してやった」と言われ続けるのは、あなたにとって屈辱じゃないの?
「こいつは使える、優秀だ」と、周りの人に評価されてうれしいの?
評価されて嬉しくないはずがありません。評価されなければ、自分の挙げた成果も日の目を見ず、どこかに埋没してしまいます。それが研究者の世界です。それでは実績を残したことにはなりませんし、研究を続けることもできなくなるし、社会に何の貢献もできていないことになってしまいます。目的ではなく手段として、評価されることは必要です。それを嫌って前衛芸術家を気取っている人は、一生を前衛のままで終わらざるを得ないでしょう。
それに、「あの時は世話してやった」と恩に着せるような言い方をされるのが嫌だといったところで、指導を受けずに何の成果も残せないこととどちらを選ぶかといわれれば、答えはいうまでもありません。それにそもそも、弟子が華々しい実績を上げれば、黙っていてもその人の師は優れた教育者として歴史に名を残すことになるはずで、最初から自慢をする必要などありません。
この元記事を書かれたあなたへ。おそらくあなたは現役の学生なのでしょう。血気盛んに、何かを成し遂げてやろうと思っていて、私を二流に甘んじた人間とお思いなのだと思います。その意気は買うべきものがあるし、私が二流なのも事実でしょう。しかし、「何かを成し遂げる」ということは、あなたの思っている通りのことではないのも事実なのです。それを知って欲しいのです。上にアインシュタインの話を長々と書いたのも、アインシュタインであっても実際に成し遂げたことはおそらくあなたの想像より遙かに地味なことであろうという事実を知って欲しかったからです。所詮人間の能力には限りがあり、天才と凡人には言うほどの違いはありません。ただし、次に引用するニュートンの言葉が全てを物語っていると思うのです。これを肝に銘じ、有意義な学生生活を送って頂きたいものです。
「私が遠くを見通し得たとするならば、それは巨人の両肩の上に立っていたからだ」