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はてなキーワード: 得意科目とは

2016-10-07

http://anond.hatelabo.jp/20161007194930

前頭悪すぎだろ

「全ての総合評価で採点します」という定規が欧米

日本は「得意科目と不得意科目で採点します」が日本

 

なので総合点で多少の優劣はあっても得意科目があるやつは

全部同じグルーピングされる、化学得意なやつは化学得意な奴同士で総合点でグルーピングが発生しない

 

しか欧米では常に総合点の定規でグルーピングされるため

最下層のグループは何をやられても本当に駄目なやつしかまらない

からどんなグループから馬鹿にされる見下されるナードなわけ

日本にそんなえたひにんみたいなグループ分け発生しないだろ、

それは総合評価の定規で評価していないのと、特化型信仰があるから

2015-08-03

暗算が苦手

理系なのになんで?」と度々聞かれる。

暗算の速さに理系とか関係あるのかわからないがよく聞かれる。

さっきも聞かれた。

買い物をしたときにお釣りが小さくならないように出すことは出来るし、一応ギリギリ日常生活に支障はない…と思う。

小学生の頃から常々苦手だと思っていた。

いつか克服できるだろうと思っていたが、克服できないまま大人になり、どうしていいかわからないまま歳を取ってしまった。

計算が出来ないわけじゃない。

高校時代数学物理得意科目だったし理工系大学にも進んだ。

でも暗算が出来ない。

難しい暗算ができないというわけじゃない。3桁の足し算だ。

さっきランダムな3桁の足し算を表示するだけのプログラム3分くらいで作って練習してみたが非常に情けない結果がでた。

計算にかかった秒数は、式が表示されてから脳内計算が終わったところで画面をクリックするまでの秒数なので暗算が出来るまでの時間と考えていい。

全てがこんなに遅いわけではないが大体似たようなものだった。

  933 + 982 = ? … 22.907 秒
  636 + 483 = ? … 24.716 秒
  457 + 698 = ? … 31.802 秒(しかも間違えた)

二桁にレベルを下げてみて二桁すら遅いことが分かった。

  78 + 43 = ? … 10.794 秒
  74 + 56 = ? … 11.899 秒
  96 + 99 = ? … 15.221 秒

さすがに間違えることはなかったがやはり時間がかかる。

引き算も同じような結果だった。

二桁の掛け算に至っては、途中の答えを忘れてしまい先に進まない。

同じ理由で三つの足し算なども先に進まない。

もはや脳の病気かとも思えてきた。

誰か、コツやいい練習方法があったら教えてください。

疑わしい病気を知っていたら教えてください。

よろしくお願いします。

2015-07-19

http://anond.hatelabo.jp/20150719032945

もともと得意な受けたい科目以外ほぼ全滅なら得意科目高得点とっても偏差値下がるし

2015-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20150617123229

蘊蓄は知識の自慢話じゃね?

自慢話は男の得意科目などとよく言われる。

この主語の中に増田は入ってるだろ。

薀蓄男の悩み

自慢話は男の得意科目などとよく言われる。

でも俺に限って言えば、一番得意なのは薀蓄である

その意味で冒頭の一文は主語デカいと思う。

そんな俺にとって一番辛い現実は、彼女候補の女性が恐ろしく限定的になってしまうことだ。


そもそも、なぜ俺の得意技が薀蓄になってしまたか

事実として、俺は興味や関心が非常に狭いというか、偏りまくっているというバックグラウンドがある。

なんとも物騒な例えで恐縮だが、暗殺事件だったら犯人が使った銃の形式構造歴史弾薬の種類や威力とか、そういうことばかり細かく覚え込んでしま人間である

銃に限らず一事が万事そんな感じで、他に音楽だったら珍しい楽器が使われていたら喜ぶとか、明らかに世の大多数とは喜ぶポイントがズレている。

物心ついた時からそんなノリで生きてきたのだから、「薀蓄が人生」みたいなオッサンが出来上がるのは、殆ど必然だっただろう。

おまけに自然言語よりもプログラミング言語のほうが得意だったり、なんでもパターンしか覚えられない、それ以上の融通が効かないなど、物事認知においても色々おかしい。

あと目を合わせるのも苦手だしな。


はいえ、女の知り合いが一人もいないのは寂し過ぎるので「あれ美味しいよね」「わかるわかる」「ま、何とかするけどねw」に終始する会話はこなせるようになったし、「増田さんには悩みとか話しやすい」と評価をもらえる程度に聞き上手は意識するようになったし、バカ話でウケを取ることもそれなりにサマにはなった気がする。

おかげさまで、女の知り合いや友達は何人かできた。全く自慢にならないのを承知で言えば、中には二人で遊びに出かけたり、メールLINEも盛り上がる仲に持っていけた相手もいる。


しかし、今のところそれ止まり女友達と女の知り合いしかいない。

なかなか彼女ができないのは、最初に書いた薀蓄の問題である

俺のイカれた生い立ちからすると、どうしたって会話の中に薀蓄が紛れ込んでしまう。

というか会話に薀蓄を含めるなと言われるなら「出家して世俗を捨てろ」と言われるほうがマシ、それくらい俺には苦しくて無理だ。


でも当然というか、薀蓄が出てきた途端、相手の反応は決まって「へーそうなんだー」である

そこで我に返ってすごすご話題を変える。その繰り返し。

そして薀蓄が出てくるたびに、お互いのしっくりこない感も繰り返され、結果友達枠が妥当という結論になってしまう。

勿論、それだって友達がいるのは一人より寂しくないというだけで大いに意味がある。

でも、そうやって誰かと親しくなるたび、絶対彼女になり得ないこともハッキリ示されるのだ。

こんなに虚しいことはない。

悲しくてやりきれないと言ってもいい。


恐らく、そんな俺を彼氏枠に入れてくれるのは、男の薀蓄を「やっぱり増田さんて博識~、話してて楽しい!」と目を輝かせる女性だろう。

これが最低条件というか、多分そうじゃないとお互い辛い。

なので、俺がするべきはそういう女性との出会いの機会を増やすことだと認識しているのだが、こういう女は本当に希少というか、滅多にいない。

自分体感では、学年に一人もいないくらいの確率じゃないだろうか。

そんな女性とどこで出会えるのか、皆目見当もつかない。

「いや、あんたが見えてないだけで結構いるよ」というなら、見つける方法を教えて欲しい。

2014-12-12

http://anond.hatelabo.jp/20141212212201

低能クン!

成績良かったんだね!

得意科目国語

前聞いたら教えてくれなかったのにー!

2014-09-13

http://anond.hatelabo.jp/20140913003832

お前の意見あくまでもお前の立場視点から出た一方的ものしかないから自分に対しては甘く見て、相手に対しては厳しく見る。

からそんなことで優越感を覚えるのは間違いだよ。

まあ、お前の言葉を借りるなら。向こうもこんな風に思ってるよ。



俺の高校野球部別に強くない。しかし数ある部活の中でも本気で活動していたほうだと思う。

俺はこの夏で野球部引退し、大学受験のために塾に通い始める。

入塾にあたって面談の為に塾を訪れることとなった。

簡単なあいさつがあって、そこから塾長と俺による面談が続く。

得意科目や苦手科目、普段の勉強についてや部活ことなど、なんてことな普通面談だ。

塾長の声は穏やかで、淡々としていた。

それに対して俺は「はい!」「はい!」と元気よく返事していたが、具体的な事は何も答えられなかった。

「行きたい大学は?」「……特には決まってないです。」

「じゃあなりたい職業は?」「うーん、無いですねえ」

もちろん、高校の3年間を部活に捧げることはすばらしいことだ。

何かに懸命に取り組むのは良いことだし、青春に飢えた大人たちも多くその行いを賞賛する。

しかし、だからといってそこから引退してしまったら何も残らない、というのは間違いである。

夢も目標もそこから前に進むための道標となるものは何も無いが、少なくともオレには、三年間を部活に捧げた実績、そしてそれをやり抜いた成功体験がある。

体育会系で育った人は「彼らには日々のキツい練習で鍛えた精神力がある」なんて事を口にするけど、

後に残るものはそれだけだ。そして、それだけで十分なのである

オレは体育会系だった。活動の中で将来やりたいことも見つからなかったし、今何をすべきかもわかっていない。

文化部の連中のことはよくわからないが、少なくともオレには進路や将来のことを知ったかぶりしているだけのようにしか見えなかった。

部活から得られるものは様々だと思うが、一つのことに熱中しすぎること、それだけで得られるものもあるのだ。

どれだけ野球を頑張っていたとしても、大学受験では大した利点にはならない。

彼らを賞賛する人は多いが、その後は誰も彼らを救ってはくれない。なんだかかわいそうだ……という、意見もあるだろう。

しかしオレには物事をやり抜くだけの精神力があるから、何でもやり通す事が出来る。

目標さえ決めれば、そこへ到達するだけの精神力は既にある。

目標を達成する事と目標を決める事、どちらが楽だろうか。

文化系の連中はいつも目標や進路を明確に定めて努力している風の顔をして、しばしば体育会系の俺らの努力を見下すが、はたして奴らに奴ら自身の定めた目標への道筋を完走するだけの精神力が本当にあるのだろうか。

俺にはある。

そして後は、志望校という目標を、数ある大学の中から選ぶだけである

それがどんな険しい道であれ、完走する自信は既にある。

どんなに暑い日も、どんなに寒い日も、グラウンドでしごかれ汗を流していたあの日々に比べれば、正直どのような困難も恐れるには足らない。



ってな。

精神力を育てるという部活なるもの

わたしの高校野球部別に強くない。しかし数ある部活の中でも本気で活動していたほうだと思う。


その日わたしはいものように塾で自習していた。

塾長はここ最近続く新しい塾生との面談のことで忙しそうだ。

しばらくすると、一組の親子が来て面談が始まった。その声を聞いてすぐに、自分同級生だとわかった。

彼はこの夏で野球部引退し、大学受験のために通い始めるそうだ。

簡単なあいさつがあって、そこから塾長とその生徒による面談が続く。

得意科目や苦手科目、普段の勉強についてや部活ことなど、なんてことな普通面談だ。

塾長の声はいつもどおり穏やかで、淡々としていた。

それに対して生徒は「はい!」「はい!」と元気よく返事するが、具体的なことは何一つはっきりしない。

「行きたい大学は?」「……特には決まってないです。」

「じゃあなりたい職業は?」「うーん、無いですねえ」

高校の3年間を部活に捧げることはすばらしいことだ。

何かに懸命に取り組むのは良いことだし、青春に飢えた大人たちもさぞ彼を賞賛することだろう。

だがそこから引退してしまった今の彼には何があるのだろうか。

夢も目標もそこから前に進むための道標となるものは何も無い。

体育会系で育った人は「彼らには日々のキツい練習で鍛えた精神力がある」などと言うかもしれないが、

たとえそうだとしても、果たして後に残るものはそれだけなのだろうか。

わたしは文化部だった。活動の中で将来やりたいことも見つけたし、今何をすべきかもわかっていた。

から運動部のことはよくわからないが、少なくともわたしには部活引退した彼らが抜け殻に見えてならなかった。

部活から得られるものは様々だと思うが、一つのことに熱中しすぎることは案外危ういことなのかもしれない。

どれだけ野球を頑張っていたとしても、大学受験では大した利点にはならない。

彼らを賞賛する人は多いが、その後は誰も彼らを救ってはくれない。なんだかかわいそうだ。

2014-06-28

1. 株式会社ベクターについて

ベクター: http://www.vector.co.jp/

言わずと知れた老舗ソフトウェアダウンロードサイト。毎日更新されるコンテンツは「新着ソフトレビュー」くらいなのに毎月7800万PVの高○○を誇る。(巷で人気のはてなは全サービスで2億PV/月らしい!ワーオ!)ベクターの広告掲載料はPVあたり0.05円だとか。今は…、…といった企業の広告が掲載されている。

世間に高い印度象を与えた遠隔操作ウイルスバスター事件に対するHIT-BITの印象はどうだったろうか。スーパーハッカー自己満足のために起こした事件とか?

スーパーハカーといえばやはり遠隔操作遠隔操作でCDトレイがガコンガコンだろうか。そう考えるとEjectコマンドユーザー会なんか完全にブラックハット集団だろ……何人いるのか知らないけど

この騒動の中で耳慣れないソフトウェアが複数登場した。例えばこういうものだ。



我々が普段ホッテントリで目にするアプリとは何か違う。例えばサーバ→鯖→マカレルのような発想と同じ匂いを感じずにはいられない。それに「パケット警察」よりも"SoftEther社のパケット監視ツール"と言われたほうがピンと来る。

ベクターにはこういったゆるキャラ的名称を持つアプリケーションが数多く登録されているのである

私は空気読みができる人間だ。つまり何が言いたいかを改めて申し上げると、エバーノート活用法と聞けば、自分の時間を犠牲にしてでもライフハックMethod収集に勤しむ意識高い系ライフハッカーや、Markdown対応と言われればナンでもカンでも有り難がる技術系アーリーアダプターの方々や、はてブなどのソーシャルメディアに居を構える人たちと、ベクターユーザはどこか違うということを思わせる印象操作である

増田一族の皆さんは日本で一番使われているWebブラウザをご存知だろうか? ……その通り、IE9である。ところがだ・私は10年以上、隔週一度の頻度ではてなブックマークを利用してきたが、いまだにIE9のハック記事がホッテントリ入りしたのを知らない。ちなみにOperaもない。

やはりはてブなどのソー(略)たちとは何かが違うのである

さて、ベクタソフトウエアライブラリを持ち上げる話に戻ろう。

ベクターで人気のアプリケーションで「めもりーくりーなー」をご存知だろうか。不要になったメモリ領域を回収するシステムメンテナンスツールなのだが、実態は大量にメモリ確保をするものだ。Windowsメモリが不足すると使用頻度の低いメモリ領域をシステムディスク上のスワップ領域(仮想メモリ)に追いやり、物理メモリを確保する。それが空きメモリ復活のからくりである

遠い昔、メモリ最適化ツールとして「ただ数を足したり引いたりするだけのプログラム」が持て囃されたことがあったが、めもりーくりーなーのコア部分はメモリ確保のAPIコールをするだけで済んでしまうので、足したり引いたりほども難しくはないのである

そんなツールが人気のベクタソフトウェアライブラリというと誤謬(ごびゅう)があるかもだが、そんなベクターが月あたり7800万PVである。ワオ。「そんな」とか言えない。そんなベクターからは毎日収録ソフトアップデート通知が来るが、再インストールとほぼ同じ手間をそうそう小まめに行う人間がいかほどいるだろうか。注目ソフトウェアを取り上げる「ベクターソフトウェアニュース」ははてブと違って1日1回の更新だし、メールマガジンベックルだって手作業での編集だ。それでもはてな2億PVに対してベクター7800万PVなのである。それを620万のUUが支えているので、1人あたり12PV余り稼いでいる計算になる。今のはてなは2億PVに対し4000万UU(U'ェ'U)→1人あたり5PV。情報の更新量で言えば個人ブログスターダム層とあまり変わらないのではないだろうか。MLBに例えるならブログ界の野茂英雄とも言える旧イケハヤ書店さんが今年3月に100万PV/50万UU達成を記念して焚き付けを行なっていたが、同程度の情報更新量とするとイケハヤ100万パワーとベクター7800万パワーの差は一体何なのか。火事場のクソ力vs平時のキン肉マン並みの差である。(ちなみに超人界の神々が1億パワーであることもご考慮いただきたい)これは何か常連にしか見えない㊙コンテンツがあるとしか思えない数値である

(そういえばはてなダイアリーからニコニコのブロマガにもらわれて行ったベックルハリー先生は、映像でもお見かけする機会が増えて、以前より増してご活躍のようですね。ニコニコ静画のコンテスト新作の絵師さんを決めたそうで気になります)

注: 「めもりーくりーなー」はCodeZine「マンガで分かるプログラミング用語辞典」マンガでわかるJavaScript / Javaプログラミング、最近ではnoteでも連載中のクロノスクラウン 柳井 政和さんの著作です。実際にはメモリー最適化のためのニーズに合わせたUIを備えているため、前述した原理だけのアプリケーションではありません。



ベクターはおかげさまで25周年!今年が平成26年、つまり平成も25周年を過ぎたところ。ベクターは日本の年号が「平成」に変わったのと同時期に創業した会社なのであります。平成の始まりは1988年2月。その頃あなたは何をしていましたか? まだ生まれていませんか?それとも友達が続々とファミコンを手に入れていく中、1人だけMSXを買ってもらってデータレコーダーで5分かけてロードした後、ただひたすらゴジラと戦う3DダンジョンRPGや、アスキー徳間書店の雑誌に載っているプログラムリストを打ち込んで、F5を押しては"Syntax error"を出すという流れ作業の話をして「ふーん」と言われるだけの交友関係に何かコレジャナイ感を感じていた頃でしょうか?もしかしたらアイドルから一転してラ・ムーを結成した菊池桃子さんとHelloみかんに衝撃を受け、自称親衛隊を辞めようかどうしようか、辞めるとしたら世間的に許されるのかどうかと迷っていた頃……という方もいらっしゃるのではないでしょうか? そのころベクターはもう走り出していたんですね!!!!!!!!!!!!!<3

199x年から始まったソフトウェアライブラリサイトVector」の累計ダウンロード数は、1999年に1億DLを達成した後、毎年1億(ときたま2億)ずつ堅調に増加して今年19億DL達成

本業がオンラインゲーム事業になってしまったベクターだが(「創星紀アステルゲート」大好評サービス中)、ソフトウェアライブラリは依然として健在だ。7800万PVを支える620万UUに7800万のベクター体験を提供している。(わーお)

ベクター体験と言えば、最近では「XPフォーエバー」が人気だった。XPが意味するユーザー・エクスペリエンス(UX)が後発OS(というかiOS)に受け継がれた現在においても、WindowsXPは走り続けているらしい。そして走り続けなければならない。定年退職と同じだ。ゴールが年々遠のいていくんだ。プログラマー定年説だって昔は30歳だった。それがいつの間にか35歳定年説になっている。40歳になる日もそう遠くはないだろう。30歳が若くない?そんな言い分が通用するのはアイドルスポーツ選手プログラマーくらいのものではないのか。政治家なら40歳で若手。そもそも一日中イスに座りっぱなしで政治家ほども動かず、身のこなしと言えば手を動かすくらい、チェリーの黒軸キーより重いものは打つことがない仕事がなぜ「体力勝負」と言われるのか。「プログラマーやってたんで体力には自身があります!(*°∀°)=3」とか引越し業の面接で言えんの?1日じゅう立ち仕事で刃物を扱ってる床屋の主人を差し置いて体力自慢できんの?

私は空気読みができる人間だ。落ちのない小話がそう何度も通用するとは思わない。本題に戻ろう。

さて、増田一族の皆さんはベクターのご当地ゆるキャラをご存知だろうか。その名も「べく太」である。心優しき少年ではあるが学校での成績がずば抜けて悪く、テストでは全問不正解の上、自分の名前を「べく犬」と書いてマイナス点をもらう奇才ぶり。友達はそこそこいるが、成績の悪さや自身のずっこけエピソードにより、知らない人にも名前を知られている有名人気質。得意科目は射撃とあやとり。手に座布団を持ったスタンディングポジションから就寝までの速さを競う競技昼寝の速さにおいて世界クラスの実力を持つ。いつも((ミ゚o゚ミ))の影にいるため主人公とは思われない彼だが、劇場版長編のび太の結婚前夜」ではアレをナニされても決してああはしないという彼の秘められた人間性が描かれている。

そんなのび太が最も輝いていたのがシステムメンテナンスツールの紹介記事であった。

他とは比べ物にならないほど豊富にあるハードウェアの性能を引き出すため、Windowsの世界ではさまざまなチューンナップ技術が磨かれてきた。メモリ最適化レジストリクリーニングディスクキャッシュの最大化、RAMディスク利活用ビジュアルテーマ/アニメーション無効化、IEの常駐、スタートアッププログラムの削減、サービスプログラム無効化、EXEの圧縮、RARの活用、標準ツールよりも高度なサードパーティディスクデフラグメモリデフラグ……、やることはいっぱいだ!でもこんなに手間をかけられるWindowsかわいいなあ!そうやってPCチューンの腕を日々/.J で研鑚しあうマイルドハッカー達は磨き抜いたファイルコピースピード一喜一憂したものである

特にベクターには日本人により日本語で説明された扱いやすいメンテツールが数多く登録されていた。使い方を誤れば手塩にかけて育ててきたWindowsに打撃を与えかねない分野であるため、「日本人にとっての分かりやすさ」は重要視される要素だ。そんな分かりやすいツールをさらに親しみやすく紹介する子供だましが紹介記事におけるべく太の役目である

今ではべく太も良く読まれた記事のランキングしかお目にかかれなくなってしまった。今や世間は萌え擬人化を通り越してゆるキャラブームである。いやブームさえ通り越して文化である。べく太はゆるいというよりマイルドなためかこのブームに乗っかろうという動きはまだ見せていない。これは残念なことである。(はてなもゆるキャラ路線をやめてしまうのだろうか

ところどころかいつまんで述べたため、いくぶん主題がぶれた印象はあるが、

ベクターとはそういう社会的責任を持つサイトなのである




そんなベクターユーザリーチすることを考えないで、一足飛びに海外にロンする発想はちょっとチョンボしすぎなんじゃないの。その前にIEのセキュリティ問題で右往左往する人たちを相手にするのが先でしょ。そのあとは日本人口のメイン層である前期高齢者な。

情報社会を牽引する立場のソフトウェア開発者とは言っても、テストコード書いてこまめにリファクタリングしていくらでもデプロイしては動作確認できる人たちばかりじゃないの。一次請けから渡された画面設計書をメンバーに一人一枚ずつ手渡してアサイン完了、がんすけで開発スケジュールを引きつつ「これでどうだ?」とメンバー一人一人と納期交渉をするSEもいるの。ソースコードとほぼ同じ内容なので、スケジュールには含まれ得ない詳細設計書を「まぁ気持ちは分からんでもないが本来はそういうもの」という理由で実装前提出させたりするの。すべてが決まって検討課題がメンバーメンタル面だけになった時点でキックオフミーティングを始めるのが開発フローになっていたりするの。

これに対して事あるごとに穏やかな語り口で「私は雑用ですから」とつぶやくSEもいて、彼の場合は画面設計書をメンバーひとりひとりに渡して顔を伏せつつ実に申し訳なさそうな口調で「これぐらいでお願いできませんか」と納期交渉をしつつがんすけ2スケジュールを引く人でした。

そんながんすけダウンロードできるのもベクターソフトウェアライブラリなのであるがんすけ / がんすけ2 / (窓の杜にもあるよ) / (公式です)

話がそれたので本題に戻そう。

タイプは違うが、両者とも大差なくマッチョメンであった。SEなのに。ここから少し余談を挟むが、その後面接をしたとある派遣会社の派遣プロマネマッチョマンであったが、マッチョメンに出会ったのはそれくらいなので特に私の人生がマッチョメンで占められているという話でなはい。

私も筋トレすれば強くてたくましいSEになれるのかな、、、

いやスケジュールが押したからって突然開催されるようになった朝会に、シドニアの騎士のOPを歌いながら入ってくるようなSEは私の目指すところではないな。戦いの場への入場曲はもういいので設計をして下さい、設計を。適切な設計で工数を減らすのは、あなた方の役目でしょ。あなたの敵はここにはいません。何も打ち砕かなくていいのです。そんなことよりぴょんぴょんしましょう。ぴょんぴょんのほうがメンタル的に優しくていいです。ぴょんぴょんですよぴょんぴょん。

このままで、果たして定年までぴょんぴょん続けられるのかな……。定年……って何歳だっけ……。

元々は55歳か。それが20年で60歳になって……さらに20年経って65歳が当たり前になったのね。じゃあ、あと20年したら70歳が定年かぁ……今働き盛りの人たちは70歳から年金受給者だね☆ 平均寿命が延びたぶん定年がずれていくということは「人は働くために生まれる」というのがこの国の常識なんだろうね。(だって政治家は自分を選んでくれた選挙区の空気を読んで法律に反映させる役職でしょ?) そんでもって現在の定年が65歳、日本人平均寿命は80代前半。最高齢が110代なので医療福祉諸々の発展で平均寿命と定年があと30年延びる可能性も?95歳で定年!?いやいやいや……そのころには日本人人生観も変わってるだろうから……いやいやいや……変わってるかなあ。

だったらプログラマーは何歳定年説になっているんだろう。IE9をシェアNo.1に押し上げるような職場に勤めていれば何も心配ないのかな……また大きなパラダイムシフト──という言葉がもうずいぶん久しぶりだけど──が起きてプログラマー定年が上がるのかな……パラダイムシフトじゃ上がらないかな……ライブラリツールのほうが大事かな……(大体、オブジェクト指向だって末端のアプリケーションエンジニアにとっては「例にならえばいいだけのもの」だったし)……何かを速く便利に自動化するツールよりも、テストコードを書けばそれに合うライブラリを探してきてくれるエージェント指向システムが実現されないかな。今のところ再利用可能なコードを探す手段はドキュメントを検索するのと、ソーシャルふにゃふにゃで誰かに教わることくらいしか無いし。そんなパラダイムシフトが早いとこ起きないかなー起きればいいなー「お前が起こすんだよ」とか言う奴ぜったいいるだろうけどおれはおこせないしなー。

結局、定年って定まってないんだよね。不定年だよ。定年は不定年。同じ境遇の人間が多数いればその都度社会が対策とってくれるだろうし、先のことを気にしても仕方が無いよね。──ってことでハラオチ。




そんな私のベクター体験を元に、ベクターユーザからも訴求されそうなはてなブックマークUIを考案するのが本稿の主題である



(Dan the full stuck engineer.)

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2014-06-20

大学から博士までの進路選びと受験戦争のゴールについて

進路選びというのは日本受験戦争が行われている限り尽きない。

周りに相談できる人がいればいいが、私のように高卒の両親、親戚も高卒、まわりも…

という場合大学選びの選択のヒントが少ない。

あと、あまり自分に夢がなくて進路に興味がないという人もいると思う。

この文章はそういう人に大いに役に立つと思う。

話題としては

文系理系の選択
学部の選択
大学院に行くという選択
博士に進むという選択

の4つになる。

文系理系の選択は?

得意科目をみて適正を決めよう。もし適正がわからないなら理系に進もう。

文系理系には大きな差があるというのは高校までくると大体わかってくるかもしれない。

なかには自分みたいにマトモに勉強しなさすぎて

得意かどうかわからないぐらいテストの成績が全部悪い、ということもある。

こういう場合は本当に困る。

これは、少なくとも理系クラスに進んでおくべきと思う。

文系から理系というのは、独学が難しいので追いつくのが非常に困難だ。

文系科目は暗記中心なので一人でできる。

理系科目はそうでもない。解法がわからないとサッパリ解けないということがある。

解説を読んでわからないことだって本当に多い。

なので、得意科目を考えてみても自分理系文系判断しかねる人はとりあえず理系に進もう。

あと貧乏で塾に通えない場合文系になるしかないのはしょうがない。頑張ろう。

学部の選択について

気に入った学部を選ぼう。気に入る学部がない場合総合大学に行こう。

学部の選択というのは難しい。選択肢が多すぎるのである

そこで出てくるのが、総合大学である総合大学というのは学部複数ある大学のことで

ふつう入学してからも転学部という専攻を変えることができるシステムがある。

入学に比べたら全然大した手間じゃない手続きで専攻の変更が完了する。

から、やべえ興味なさすぎる、と入学してからなっても安心である

学部の選択に対して保険がきくので、迷ったら総合大学に進もう。

大学院に行くという選択

もし行ってダメそうならさっさと就活して退学でもしよう、と軽い気持ちで進もう。

さて、文系であれば大学院に残ろうというのはよほど志が高いか、

学部から専門的な内容の環境だったということで、院にすすむことは悩まないかもしれない。

理系なら研究室のナガレで進んでしまうこともあるかもしれない。

院に進むと20歳を超えているので自己責任世界だ。

責任自分で取るとして、あまり悩まずに進学してもよいと思う。

研究は厳しかったり、放置だったり、いろいろあるが正直学部と比べて異様な世界だ。

教授学生研究、いろいろあるが、合う合わないで途中で退学していく人も本当に多い。

そういう人うまく就職している。気軽に出入りするべきだと思う。

本を読むと大江健三郎小学校のころまでは研究者になろうと思っていたが、

教師から「体力、知力、金」の3つのうち2つが研究職になるには必要と言われ、やめたらしい。

まさに、その通りで、ここまでくると本当に実家が裕福な人間が多い。

貧乏場合、個人的な体験だが、

周りが当たり前のように時間を金で買う様子を見て吐きそうになることがあるので、

体力と知力だけでなく、それでも資本主義を憎まないという精神力を高める必要がある。

博士に行く選択

好きだからという理由だけなら絶対に進まないでおこう。

ここで、一度よく考え直してほしい。

好きだから、というので進むには本当にリスクが大きい。

自己責任で、好きだからと選んできたために

途中くじけた時に二度と大学にも社会にも出ていけなくなる人だって本当にいる。

博士過程だってただでさえお金がないのに多くのただ働きを体験するだろう。

修士に引き続いて、金持ちに対して相当なストレスたまる

さらに優秀な学生博士からDCなど金が出ている人だっていて、ストレスもっと発生する。

こんなにストレスをためてもし博士が取れたとして、これだけでは本当に食っていけない。

医学部卒業したら医者で食っていけるのと全くわけが違う。

大変優秀な知り合いだって日本トップクラス研究を長くしていたにもかかわらず、

給料修士卒業して就職した子と同じぐらいだった。これはそういうものなのだ

博士に進学するのを迷う年齢であれば、もう周りの友達結婚している年齢である

それも数年たてば、こっちがポスドク先を探して就職活動をする中、

今度は周りは車や家を買って、子供もいる。年賀状家族写真が増えていく。

いくら好きなことをしているからと言っても、まともに生きる周りの人間と違いすぎて死にたくなる。

ある日気づくと社会と大きな壁ができているのがわかる。

次は研究という自分と似た人間コミュニティ特別居心地がよく、ここしかないと感じてくる。

博士進学から、どんどん社会と隔絶された変態に仕上がっていくのだ。

運よく変態にならずに済んだとして、

まわりの社会性のない変態たちと付き合いを長くしていくことができるだろうか。

社会性の備わっていない変態たちだ。よっぽど好きでもない限り、これは本当につらい仕事だ。

文系なら、公務員になっとけばよかったと思うし、

理系なら医学部にいっときゃよかったと、思うこともよくあるだろう。

まだ、遅くはない。

普通の家庭の出身で、普通未来を捨てても後悔しないぐらいの覚悟がないならば

君はよく頑張った。進学先というのがある限り、このレーンから外れるのは怖いだろう。

もう進学しなくてもいい。

博士後期課程の手前が受験戦争のゴールだ。

https://www.youtube.com/watch?v=FtP-RQFpRtc

2014-06-18

全てやめて実家に帰った。

上京したのは18の時。

目標や夢なんか何も持っていなかった。

勉強スポーツも何一つ真剣に打ち込んだこともなかった。

子供の頃から母親には「あんたは大抵のことがそれなりにできるけど、なにか一つでも真剣に打ち込めるものを作らないとダメだよ。」と常々言われていたが、その頃の自分はどれも上手く出来ている実感は持っていなかった。

今思えば確かに「それなり」にできていて、得意科目だった英語は周りの同級生必死で家で勉強してようやく偏差値60ぐらいだったのに、一切家では勉強せずにビートルズの曲と歌詞・和訳をすべて暗記しているだけで偏差値70オーバーだった。

つい最近にはじめてテストをやって知ったが、IQ無駄に134もあるらしい。

高校卒業後は入試科目が国語英語だけのFラン大学に進学した。

大学に入って軽音サークルに入ると、高校時代までは出会ったことがないようなタイプ人間がたくさん居た。

僕が在籍していたサークル大学軽音サークルでは珍しく、オリジナルバンド、いわゆる外バンを多数抱えるサークルだった。

一番多い時には30近くのバンドが学外で活動していた。

楽器を始めたのが高校2年生の頃で、そもそも不器用でそれほどうまくなかった僕はサークルでできた友人たちとコピーをやることすらままならない腕前だった。

それでもあまり個性的で魅力的な彼らと遊ぶことはそれまでに経験したことがないような楽しい時間で、知らない音楽を教え合ったり集まって練習したり、悪ふざけをしたりとこれから人生も含めて二度と訪れないかけがえのない時間だった。

サークルの先輩に大学2年になる頃にバンドに誘われた。

全く自信がないから初めは断っていたが、ある日何故か承諾してしまった。

未だに自分がどういう心境だったのか理解できない。

とにかくこの決断が僕の人生を大きく変えた。

そのバンドは加入した時点では大学付近ライブハウスで月1ぐらいのペースでライブをやっていたぐらいのよくあるアマチュアバンドだったが、リーダーである件の誘ってくれた先輩というのが天才的なソングライティングの才能を持っており、かつ、人間関係を築く天才だったため加入してから瞬く間にCDを全国のレコードショップで発売するまでになった。

それに伴い、ライブの回数は増え、レコーディング地方遠征する機会も多くなっていった。

大きく変わっていく生活に僕はなかなか慣れず、また、もとよりやる気を出すのに凄くエネルギーが要る(この時は気づいていなかったがADHDだということが後で分かった)ため行動力は鈍り、授業にはどんどん出なくなった。

その分、楽しくバンド活動をやっていたのかというと、そうでもなかった。

バンドの活動の幅が広がるにつれて、自分の下手さが足を引っ張っていると思い込んでしまい、プレッシャーを感じていた。

ただ下手くそなだけだったらどれだけ良かったか。運が悪いことに、僕はどうやらアレンジセンスがあったらしい。

センスだけは代えが効かない。いつの間にかバンド必要不可欠な人間になってしまっていた。

そんなこんなで加入して3年目。ついには大学中退した。

もうこうなったら練習してうまくなりさえすれば良かったが、この頃にはギターを弾くことが苦痛とさえ思うようになっていた。

それでもライブは決まっている。

学校にいく必要もなくなったので更に本数は多くなり、その次の年には年間とおして4

日に1回というペースでライブをやった。

これだけやってればそれなりに認知度も上がってきて、ファンだと言ってくれる人も多くなった。

そういった人たちに褒められたり応援してもらう度に自分が下手すぎて死にたくなった。

なおさら後に引けない状態になっていった。

もう自分の都合だけではなくなってしまっていた。

しかしたら他のメンバーも同じような気持ちだったのかもしれない。

3枚目のアルバムリリースしようとする頃にリーダーがついに心折れた。

「このCDを出してどうにもならなかったら、終わりにしよう。」

一番身近で一番頼もしい仲間が夢を諦めた直後だった。

メンバーの誰も反対はしなかった。

その後の1年間はそれまでが嘘だったかのように必死で練習して曲も作ってレコーディングした。

よく肩の荷が下りたというが、そんな感覚だった。

あっという間に1年が過ぎて、バンドは活動停止した。

その後、知り合いのバンドにうちでやってくれと頼まれた。

初めはもうバンドはやるつもりはないと断っていたが、あまりのしつこさで折れてしまった。

その1年間で多少自信をつけていたせいもあるかもしれない。

その後はまた同じようなことを繰り返した。

学習しないやつだ。

2つ目のバンドに加入して3年目。

就職していたが、社長とソリが合わなくて喧嘩して辞めることになったので、これを理由にして実家に帰ることにした。

バンドも辞めた。

この10年間は一体何だったのだろう。

幸いにも初めのバンドをやっていた頃に働いていた会社ウェブマーケティングスキルを身につけていたので、田舎賃金が安いとはいえ全く生活には困っていないどころかちょっと本気を出せばそれなりに余裕のある生活すらできる。

ただ、生きている実感がまったく無い。

実家に戻って2ヶ月ほど。思い出すのは大学時代の友人たち。

むちゃくちゃなことばっかりやっていたけど、音楽をやる時だけはみんな真剣だった。

就職した後も次は仕事真剣で、中には28上場企業副部長クラス地位を得ていたり、だれでも知っているような会社営業所長になっていたりする奴もいる。

こう言うとアレだが名前書ければ入学できるようなFラン大学出の人間出世コースじゃない。

仕事の話を聞いてもやっぱり彼らのやること考える事は真剣だ。真剣にやって来た結果が彼らにはある。

僕は到底彼らにかなわない。

別にお金地位も栄誉もいらないが、これから先も一度たりとて彼らのように真剣に何かに向き合うことができずに生きていくのかと思うと怖くてしょうがない。

俺も一度でいいからあいつらみたいに輝きたいんだ。

追記

たくさんの反響を頂きました。

後で読みなおしてみると書きなぐった感がすごくてとても読みにくい文章でした。すみません

急に誰かに聞いて欲しくなって勢いで書いたので・・・

いろいろな意見を頂いて、自分の中で今後どうやって行くのか決意が出来ました。

以下のエントリ決意表明として記させていただきます

http://anond.hatelabo.jp/20140619160649

読んでいただいた方、意見を頂いた方ありがとうございました。

いつかまたいい報告ができればと思います

2014-03-28

グロバリバリぜーション

大学時代掃除バイトをやっていた。

70歳くらいの浮浪者みたいなお爺さんが面接に来た。

履歴書みみずみたいな字で読めたもんじゃない。

得意科目の欄には「国語」と書かれていた。

会話はフガフガと何を言っているのかもわからない。

面接が終わった帰り際に「うどんを食べたいので200円貸してくれ」ときた。

その姿を見てベテランバイトの2人(45歳くらいと元刑務所の看守の70歳くらい)が、

「あれで採用されると思ってるのかね?身の程知らずが、私が社長ならその場で帰らせてる、不採用確定。」

っと言っていた...

しかし結果は採用

ベテランバイトは衝撃を受けていた。

それ見て当時の私は

「身の程知らずは君達だ、命令が理解できて手足が満足に動いたら誰でもいい。バイト3日目の学生の私と10選手貴方達の時給一緒だよ。」

と思っていた。

時代は流れて2024年

お爺さんの姿は黒人に変わっていた。

2013-12-06

http://anond.hatelabo.jp/20131206152431

生物学をある程度やると、自分も他人もイヌネコミジンコも、生物は肯定するしか無くなってしまう。

私はたまたま高校まで生物得意科目だったけれど、生命想像を絶する精妙さに、とても否定なんか出来なくなってしまった。

物理学とかもそうで、学べば学ぶほど、自分が居る世界というものが、とんでもなく大変なものだという事が分かってくる。

知れば知るほど、世界を否定できなくなっていく。

科学教育は大切だと言うけれど、その1つの側面はこれじゃないかなと思う。

増田さんの話とはズレてるかもしれないけれど、ひとつの考え方としてこういうのもあるのだと思っていただければ。

2013-08-11

階層から落ちる作用と、それを戻す作用について。

http://anond.hatelabo.jp/20130809115823

http://d.hatena.ne.jp/potato_gnocchi/20130809/p1

上記のエントリなど、最近学歴の高低や階層に関して語る人が多い。

旬が過ぎないうちに、俺も自分と姉のことを書きたい。

 

俺と姉が育ったのはとある地方大都市の近郊。

当時は県全体が公立王国と称され、出来のよい者は上位公立高から旧帝大早慶に進学することができた。

上澄みのそのまた上澄みは中学から近県の一貫校へ進み、難関医学部などを狙っていた。

 

我が家があったのは高度成長に合わせてベッドタウン化が進み、会社員家庭が多い地域

坊ちゃんお嬢ちゃんはいかないまでも、比較的余裕のある生活をしていた家が多かった。

公立小・中と進学したが、学級崩壊とは無縁だったし、非行いじめもごく稀だった。

二つ三つ隣の町には不良が多いらしい、なんて話が聞こえてくる程度だった。

 

そういった土地にあって、うちはちょっとだけ目立つ家だった。父は地元旧帝の大学教員、母は専業主婦だった。

一族には一流企業役員や上級公務員が多く、研究者医師弁護士などの専門職も散見される。

子どもながらに自分たちは上の下か、まあ中の上くらいには居るのだろう、との自覚があった。

俺も特に苦労なく、公立トップから父の働く旧帝大入学した。従兄弟たちもそれぞれに優秀だった。

 

そんな中、姉一人だけが違っていた。学年の中でも土地からは珍しいDQN連中と付き合い、勉強の出来も悪かった。

高校あたりから素行の悪さがさらに目立ち、髪を染め、彼氏を頻繁に取り替えては深夜に帰宅する日が続いた。

隣室からは、姉と父が怒鳴りあう声がしょっちゅう聞こえたものだった。

 

両親いわく、姉弟で育て方を変えた覚えはないと。

付き合う友人が悪かったのか、本人のもてる性か、姉はとにかくそのように育った。

 

それでも親の強い勧めもあり、一族の水準からはずっと落ちるレベルだが、

唯一の得意科目を生かした一芸入試で姉は地元私大に滑り込んだ。

大学の間も姉の奔放な生活は続いた。この時期両親は、なんとかあいつが

就職して大卒の男でも捕まえてくれれば、という話を頻繁にしていた。

 

そんな3年目、姉の妊娠が発覚した。当時付き合って間もない、左官の子だ。姉は産みたいと言ったそうだ。

なんのために大学にやったのか、なんてバカな子だ、あのような家と親戚付き合いなどできるものか、

と母がさめざめと泣いていた姿が忘れられない。この頃になると父も叱ることをやめ、

終始むすっとした顔で黙って過ごすことが多く、家の空気物心ついてから最悪だった。

 

この出来事以降、俺は全てのデキ婚が許せない。

物事の順番を無視し、家族の気持ちを踏みにじる最低の行為だ。スラム文化だ。

下層を象徴する行為我が家で目の当たりにし、俺は恥と怒りを覚えるほかなかった。

 

話が少々逸れた。結局姉は式も挙げないまま、追い出されるように家を出て行った。

これで子どももろとも下層行きか、気の毒に、愚かな女だ、と思った。それきり姉とは連絡を取らなくなった。

 

数年後俺は大学院卒業して、ある大企業研究部門の職を得た。

ある日久しぶりに帰省してみると、実家には母の姿がなく、父が言うには「姉の家へ手伝いに行ってる」と。

 

勘当したんじゃなかったのか、と驚いて父に尋ねると、どうやら母が孫の姿を見て思い直したようで、

頻繁に姉のところを訪ねては買い物や料理の仕方から家事全般、保険選びから習い事小学校区選びの

助言までしているらしい。口を出す代わりに援助もしているよ、あそこは安月給だからね、と父は言った。

不思議と、高校以来初めて姉と両親が良好な関係に見えた。

 

の子はというと、お利口に育っているとのことだった。

俺も結婚し、実家で姉とお互いの子を見る機会が一度あったが、ごく普通の子だった。

甥っ子を見て、よかったな、お前は助かったのかもしれないよ、と思った。

うちは子(姉)の教育には失敗したが、孫の世代では間に合ったということか。

 

基本的には高階層・低階層世界は違っており、固定化しがちだとの論もある。

だが上の階層に生まれたものが、すんなり育って階層を維持するのではない。姉のように下へ落ちようとするものもいる。

そうした場合でも、うちのように階層を戻す力が働きうる、という事例を知って欲しい。

 

今はただ、自分の子が道を踏み外さないように願うばかりである

2011-07-18

http://anond.hatelabo.jp/20110717152546

100点も取れないくせに得意科目と思う奴は馬鹿だと高校の教師が言ってたな。

数学特にそういう傾向が強いそうだ。

本当に分かってれば必ず百点を取る。それ以外はありえない。

一点でも不正解なら、そいつの99点は全て勘であって実力でも何でもない。

とにかく数学というのはそういう科目なんだと。

2011-06-28

そんなとこ真似しなくていいよ

男のコミュニケーション得意科目の一つに、自慢話がある。

これは結構危険なツールで、KYと組み合わさると高確率でウザがられるのはご存知のとおり。


しかしこれをそっくりそのまま真似たような女がいたので驚いた。

まさか女相手に「お前いつも自慢話ばっかでうぜえきめえ」と思う日が来るとは予想してなかった。


まあ思春期からネトゲ上で自慢話ばかりのクソ廃人な男どもに囲まれてきた結果の過剰適応だろうけど、

お前それ男から間違ったものを学んでるよと言いたくなった。


面倒だから言わずにフェードアウトしたけど。

2010-08-04

新卒者応援プロジェクトやってて思ったこと

前説明もほとんど受けられず、企業新卒者も制度を把握しないまま続いてるカオス制度

聞けば教えてくれるけど、聞かなければほとんど何も教えてくれない。

ほんとお笑い

 

二ヶ月間くらい肉体労働系の会社に行ってたけど、まるで駄目だったので、このまま続けても仕方がないかと思って辞めようと派遣会社に連絡したら、担当の人から「企業を変更することも可能なんですよ!」なんて素晴らしい台詞を頂いた。

今度は卒業した学校の関係でIT企業(Web系)を受けてみたのだけど、企業担当者と話すときに社員数や熱意とかを聞かなかったせいで中々酷い目にあった。

実際にこの企業研修が始まったら、まず社員が来ない。

後でわかったのだが、社長副社長しかいないらしい、そりゃこねーわwww

 

正直、ここのは社会研修でもなんでもなかった。

事務所は貸してあげるからウチの業務を好きに勉強してね☆ミって方針。

出来る子ならいいんだろうけど、生憎俺にそこまでの気力はなかった。

プログラミングとかデザインとかサッパリなんですけど!

(なんで、その企業を受けたの?って話ですけど、甘い考えですけど、僕はてっきりある程度までは教えてくれるんだと思ってたんですよ。)

つーか、前からいたインターン生の一人が何やら仕切っているのだが、大してわかってないくせに妙に仕切ってるからなんだかムカつくし…。

言動とかも妙に癪に障るし。

しかも、あと少ししたら気味にも実務を担当してもらうから必死に勉強してね!とかそのインターン生が言うもんなんで挫折した。

もうここではやっていけないっていう確信を持った。

プレッシャーが凄い。やるかやらないか、やれないなら出て行けって感じ。

確かにその通りなんだけど、その通り過ぎて出ていくしかないっていう。

 

正直、前の企業にいた方が随分とましだった(役には立てなくても籍だけは置けたから)

このIT企業で唯一学べたことはベンチャーは糞だってことだった。

丁度最近GIGAZINEとかみてもそうだし、全部が全部ではないとはいえ、第一印象は糞だった。

取り敢えずはWeb系=ベンチャーってことにしておこう。少なくとも地雷

 

取り敢えず、今日でこのIT企業は辞めようと思うのだが、記憶が確かならもう企業は選べないらしい。

親元を離れて単身の僕はこれからどうするべきだろうか?

精神的に親元には帰りたくないし、実質帰れない。

実家に帰ると精神障害者がいるので自分まで池沼になりそうだし、

また実家地方なので、そもそも求人がほとんどない

今住んでるところを出ると契約の関係で高額の違約金を払わないといけないので)

 

選択肢としてはアルバイトくらいだろうが、生まれてこの方やったことがないというね。

このあいだネカフェバイトネットから応募して面接受けに入ったら、店の人から「いやいや、そんなのしらないし、聞いてませんよ」とか白い目で見られたし。意味不明だし。

俺が間違ってたのかと思って、家に帰って求人情報見たら面接日時も場所も合ってたし、マジ意味不明

勿論、次のバイト先も探して応募するけど、果たして雇ってもらえるのか?という疑念はある。

早くしないとお金もないから辛いし。

まぁ、雇ってもらえるかどうか気にしてたら埒が明かないから、応募しまくるしかないんだけど。

落とされなかったら可能性があるってことだろう多分!って信じてる。

若いうちは何でもやった方がいい気がするんだ。挑戦だ!

 

一番は、新卒者応援プロジェクトで別の企業の斡旋を受けられることなんだけど、多分無理だからね。

新卒者応援プロジェクトを続けられれば就活スムーズにできるんだけど(今まではやってなかった)

それが無理ならバイトしながら就活するしかない…となると結構厳しそうではある

バイト先に就職とかもしてみたいけど、バイト募集してるのって将来性がなさそうな場所ばっかなんだよね

ぶっちゃけフランチャイズライン工場は絶望的だろうしね

 

果たして僕はどこへ進んでいけばいいのだろうか…。

因みに学生時代就活は40社程度受けました。全部落ちました。

警備・食品廃棄物・清掃・小売・営業・流通・IT・飲食他にも色々受けました。

選り好みしなさすぎですね。介護だけは受けませんでしたが。

まぁこれが就活に失敗した要因の一つであることは間違いがないんですが。

 

漠然と持っているのは、事務職なら勤まりそうっていうのと、ネットワークとかサーバー運用管理に興味があるってことくらい。

(具体的に企業名は挙げませんが、興味のある鯖屋一社だけあります。もとい、その企業のせいで興味が芽生えたに近い。)

プログラマーとかシステムエンジニアは向いてない気がする。

趣味はこういう感じで長文をグダグダ書いたり、ラノベを読んだり、ひたすらネット上の情報を読んだり、漫画を読んだり、RPGやったり、ネトゲしたり、オタショップ渡り歩いたり、買い物することです。

一番好きなラノベキノの旅です。

長く続けていることは自己サイトの運営、もう9年目です。老舗とかそういう部類に入ってる頃ですね。

コンテンツは昔っから日記しかないんですがw

ここ数年では時代の波(笑)にのってブログ形態に移行してます。

PC歴は年齢-3年。そこらの餓鬼絵本読んでた頃にはブロック崩しとかインベーダーやってました。PC-9801で。MS-DOS3.2だったかなぁ?

専門学生になるまでインベーダーゲームはパソゲーだと思ってました。まさかゲーセンゲームだったとはw

 

基本的スペックとしては、平凡なオタクって感じですね。

でも別にコアゲーマーでもないし、アニメもそこまで見てません(1クール1,2作)

変態ベクトル大分逝ってると思います。そんじょそこら変態に負けない自信はあります(キリッ

ピザではなくガリの部類です

特技は特にありませんし、得意科目と言えるものもないです

「高校の情報」なら学年トップだった気はします

英語の成績が一番よかった気がします。基本文系

大したもんでもないですが、情報活用二級程度は何もせず取れました。

基本情報技術者は問題の1割くらいしか解けません。

だけど何故か有識者から結構解ってる人と誤解される事があります。

 

まぁ、ぶっちゃけ何もできないただの新卒です。

能力普通科高校卒レベルかそれ以下くらいじゃないですかね?

なんかどうでもいい御託をつらつら並べましたけど、誰か僕みたいな人間ほしいトコありませんか?

2010-07-19

サボり魔は一生そのままなのか?

私はサボり魔である。筋金入りで予後不良の。

幼少の頃から厭なものから逃げ続け気がついたら三十路になってた。そんな私はサボり癖が元で精神を病み社会生活を送れない体になってしまった。

ふつう精神疾患なら投薬と適度な休養で概ね治るはずなのだが、私の場合はサボり癖という精神疾患の根元になるものがあるので質が悪い。投薬も5年以上続いているし、休養も自分でもうイヤだと思うほど取った。でも治らない。ある程度回復したと思い就職活動して仕事を始めるが長続きしない。そしてクビになってまた精神的にダウナーになり休養が必要になる。こんなのを何度も何度も繰り返した。真面目に職歴書いたら30近くになるんじゃないだろうか。20代もそんなのに翻弄され暗黒の時代、黒歴史になった。気がつけば三十路である。もう後はない。

少しづつ焦りだしてきた私はふと考えた。何故こんな風になってしまったのだろう、と。

私のサボり癖の根元を語るには幼少の頃からの話をしなければならない。


私がまだ幼稚園にも入る前の事だ。当時の私は英語に非常に興味を持っていた。よく買い物に出かけた横浜駅ジョイナス地下駐車場英語ブロック分けされていて、それを見て初めてアルファベットという物に触れた。何故か判らないけどアルファベットが非常に気に入ってしまい英語という物に少しづつはまるようになった。

ある日TV英語教室CMをやっているのを見て母に「これかよいたいー」とせがんだことがある。母はその申し出に協力的で父に頼んでみる、と言ってくれた。それを聞いてワクワクしていたのを覚えている。

しかし父は「まだ習い事するなんて早い!」と、私の幼い願いを一蹴した。英才教育なんて言葉があった時代か判らない。グローバル化のグの字もまだ無い時代だったし英語の将来性を見いだせなかったのかもしれない。ともかく私の願いは絶たれてしまった。

そのことについて父を恨むつもりはない。でもちょっと根に持っている。だってもしその時英語教室に通っていたら私の人生は大きく変わっていただろうと思う。飽きっぽいけどのめり込む時はとことんのめり込む私のことだ、通訳とか外資系エリート・・・なんて言わないけど少なくても英語には不自由しない人生を送れたかもしれない。

それから数年の時が過ぎ私は小学校3年生になった。

ある春の日のこと、私は父に呼び出された。そして「出かけるぞ」みたいな事を言われ、半ば強引に車の乗せられて駅前のダイエーに連れて行かれた。何が起こるのか全く判らない私、何も言わず私の手を引っ張る父。?マークを頭に3つくらいグルグル回しながら連れられて行き着いた先スイミングスクールの上の階の階段を下りた先の小さな部屋だった。父は「ほら行け」と言わんばかりに私をその部屋に置いてどこかへ行ってしまった。

何ここ何が起きるの?

幼いながらも恐怖した。

部屋には私と同い年くらいの子供が数人いた。大人も何人かいて、何か冊子のような物をを配っていた。私の順番がきて冊子を渡される。そこでようやく理解した。冊子の中身は全て英語だった。

父がどう心変わりしたのか判らないけれど、私は数年越しに英語教室に通うことができたのだった。

しかし、だ。

それは遅すぎた。

小学校3年の私はもうすでに英語に対する興味を失っていた。正直、いまさら?だった。

それから4年間英語教室に通った。楽しいこともあったし、友人もできたけど根底にあったのは「苦痛」だった。

その苦痛が形としてでることがあった。それは「逃避」。有り体に言うとサボリだ。一人で自転車ダイエーに行くのでサボることがバレることは基本的に無かった。何度か買い物に来た母親にサボってコロコロ読んでるところを目撃されて大目玉を喰らったことがあるがそれでもサボる事は止まらなかった。年数が経てば経つほどサボリはエスカレートしていき週一回の教室に月3回サボるなんて酷い事態になることも多々あった。何が厭だったのかは今となっては思い出せないがサボりたくなるくらい苦痛だったのは覚えている。

小学校5年の時に友人の誘いで公文に通い始めた。

初めの頃は問題もスラスラ解けて楽しかったのだけど、ランクが上がって難しくなってくると少しずつ「苦痛」になってきた。苦痛になると私は逃避を始める。サボリ始めたのだ。きっかけは些細だった。友人が「今日サボんね?」と言ってたのだ。それに乗ってしまって後はそのままズルズルと・・・。これも週二回の教室で月数回しか通わない程になり公文講師のおばちゃんに「ちゃんと毎回来なさい!」と毎回言われたものだった。

それから中学に入って少しして英語教室は辞めた。学校でも英語の授業が始まったしこれ以上受ける意義を当時の私は見いだせなかったのだ。

公文はサボリながらも中学卒業まで続けた。高校受験の時はさすがに真面目に公文勉強した。でもそれは友人が周囲にいっぱい居たからであって、私一人だけだったらどうなっていたかは判らない。

義務教育が終わりを告げ私は高校生になった。

一番の志望校じゃなかったけど目標にしていた地元の公立高校に入学した。

高校時代は楽しかった。今までの人生で一番楽しかった。友人もたくさん居たし、心から楽しいと思える授業もいくつかあった。そのせいもあって驚くことに三ヶ年皆勤卒業式の時に表彰されメダルを貰った。

なんというか極端だな・・・と。

しかし、その影にも私の逃避、サボリ癖はあった。

高校では三年間図書委員だった。特に理由はなかったけれど図書委員になっていた。

図書委員の活動は図書室の貸出係の業務と月一回の委員会活動があった。貸出係は昼休み放課後に当番であったのだけどこれに私は全くでなかった。当番は殆ど放課後だったのだけど、早く帰ってゲームしたい盛りだった私はとにかくサボってサボりまくった。たぶん3年間で10回出てないんじゃないかと思う。委員会は強制参加なので仕方なく出たのだがその時よく「貸出係をサボる輩が居ます。ちゃんと出ましょう!」とほぼ名指しで委員長に言われることがあった。挙げ句には「てめぇいい加減にしやがれ!!」とキレられたこともある。それでもゲームがしたい、寝たいばかりにさっさと自転車で家に帰る自分が居た。救いようがない。

この頃まではサボっていても何とか回っていた。学力はそこそこあったしテストでも苦手科目の数学以外はそれなりの点数を取っていた。

しかし、だ。努力する者としない者。その差をまざまざと見せつけられることになると当時の私は知らなかった。

高校二年の冬のこと。そろそろ大学受験視野に入れなければならなくなってきた。周囲でも予備校に入学して対策を講じる者が増えてきた。

私も「予備校かー、どうしようかなー」と脳天気なりにも意識し始めていた。ある日、図書室の前にあった予備校案内のチラシを見て何枚か持ち帰り検討し、その中から一行選んで入校することにした。両親は特に何も言わずに入校を許可し私は予備校に通うことになった。

地域ではマイナー予備校だったが友人もいることが判り喜び勇んで予備校行く・・・はずだった。

予備校は私が想像していた以上に過酷なモノだった。英語は毎回英単語テストがあったし数学は高校よりもずっと高度だった。正直ついていけなかった。ついていけない結果はテストダイレクトアウトプットされる。志望校合格ランクDとかEとか当たり前だった。

今までどうにかなっていたモノがどうにかいかなくなってしまった。劣等生。そんなレッテルを貼られた気がした。

それはとても苦痛だった。苦痛苦痛で仕方なかった。

苦痛の先にあるのは小学校からやらかしているサボリ、だ。

高校3年になって予備校に行かなくなった。辞めたわけでなくサボるようになった。劣等生な自分を認めるのが厭だった。劣等生であるという事実を突きつける予備校に近づきたくなかった。英語の授業は友人が来いとうるさかったので月に数回出た。数学は全くついていける気がしなかったのでチューターの人に怒られるまで殆ど出なかった。高3から受講し始めた化学は授業がすごく面白かったし得意科目で余裕でついていけたのでこれだけは出席率が高かった。それでも7割ってところだけど・・・。

がんばった者とがんばらなかった者

努力した者と努力しなかった者

逃げなかった者と逃げた者

そんな二通りの人間審判が下される時がきた。

大学受験--

無論私はボロボロだった。無惨だった。

センター試験自己採点。数学は2点だった。得意の化学でも5割いかなかった。

死を覚悟した。

一般入試が始まった。

私は高校担任教師の薦めで無名のFラン大学化学科を受けた。目標にしていた大学は「絶対に無理だからやめろ」と言われた。返す言葉もなかったので大人しく言われた大学受験した。

結果。補欠合格

はは、引っかかちゃった。

当時の私は安堵した。浪人生活をしないで済んだから。浪人は落第者で敗北者だと思っていた私は本当に喜んだ。

でも、気がつかなかった。おまえは運が良かっただけだ。

だって・・・「努力したのかい?」

大学生活が始まった。中学からずっと同じの友人が一緒の学校だったので初めはよく一緒に登校した。学科は違ったので登校と昼休みくらいしか一緒ではなかったけど知る人が居ない学内ではとても安心できるものだった。

大学1年の授業は楽しかった。特に有機化学と分析化学が好きだった。2年から生物化学の授業があってそれを目標にしていきたいと思った。

しかし、異変は訪れる。とある教科を落としてしまった。有機化学の概論。難しい授業だったけど好きな授業だった。ただ落としただけなら来年取り直せばいいだけなのだが、この授業はとても大きな、そして致命的なものがあった。

この教科を落とすと生物化学を受講できない

偏屈で有名だった生物化学教授が設けたハードル。私はものの見事にそれに引っかかってしまったのだ。

何かが壊れた。

大学2年。目標生物化学を受講できず腐った。さらに悪いことにほかの授業が難しくなった。特に物理化学は私が苦手だった物理概念が入って手に負えなくなってきた。

大学苦痛になった瞬間だった。

苦痛になると訪れる甘い囁き

「逃げちまえよ」

それにあがらえる訳がなかった。

初めは大学内の図書館で本を読むだけだった。それから街のゲームセンターになって・・・兎に角大学に近づかなくなった。金だけは親から必要額貰っていたので不自由はしなかった。適当に旅に出て時間つぶして家に帰るとかざらだった。

努力した者と努力しなかった者

その差は歴然と表れる。

次の年、私は留年ギリギリだった。

いままでどうにかなっていたものがどうにかならなくなった。

背中に火を付けられたような感じがした。

兎に角焦った。

焦って勉強をする。でもついていけなかった。下の学年の授業を受けることも多々あった。誰あいつ落とした上級生?だせぇ。そんな声が聞こえてきた気がした

屈辱的だった。変にプライドの高い私には凄まじく苦痛だった。

苦痛を感じると出てくる麻薬のような囁き。

「ニゲチャイナヨ」

でも逃げると今度は留年だ。

逃げちゃダメ

逃げちゃダメ

逃げちゃダメ

14歳の少年は逃げずに立ち向かうことを選択したのに20歳のアホは逃げることを選んでしまった。

このあたりでだんだん精神的におかしくなってきた。

不安焦燥感、誰かに笑われてる感覚、必要以上に自分を責める。木の棚にカッターで何度も切りつけて酷い跡が残ったこともあって母親にそれを見られて酷く心配されたことがあった。

ロクな精神状態じゃないときにロクな思考はできない。

真っ暗な夜道の中をひたすら逃げているような状態だった。

次の年の春。私は留年した。

その日私は父親に叱責された。この後どうするんだ、と

ロクな精神状態じゃなかったので思考は回らず兎に角逃げることしか考えられなかった。

がんばるから、がんばるから

この時はそれで何とかなった。

留年生活のことは正直覚えてない。思いだそうとしても頭がアクセス拒否をする。

唯一判るのは焦ってどうにもならなかったこと。そして逃げ回っていたこと。

翌年、再び私は留年した。

二度目の父との対話。

今度はなかった。

こうして私は大学中退した。

そして社会に放り出された私は働かなければならなかった。当時は引きこもりニートという言葉もなかった。父親には働けと強く言われたので働くしかなかった。

ハローワークにあししげく通って何度も何度も追い返されてとある会社研究所に拾われた。

そこは農薬を作っている会社研究所で初めはそこの農場のアルバイトと言うことで面接を受けた。

でも、せっかく化学バックグラウンドがあるんだしということで話が少しぐらついた。

とっさだった。とっさに私はこう言った。

お金貯めて大学に復学したいんです!」

何でこう言ったのか今では判らない。

しかしそれは項をそうした。「じゃあそういうことなら勉強する意味も込めて」と研究所助手採用してくれることになった。

運が良かった。

研究所での仕事は本当に楽しかった。学校で習いきれなかった事も学べた。とにかくがんばったので会社も評価してくれた。

「今はアルバイトだけどがんばったら正社員にもするよ」なんて総務の部長さんが冗談めいて言ってくれた。

本気にしてがんばろうと思った。

でも、なんでなんだろうね。上手く行かないときはとことんうまくいかない。

入社して少し、変な奴が研究所にいると言うのを知った。

ほぼ同じ歳で今年正社員入社。しかも京大大学院卒。

「同じ位の歳だし仲良くしたら?」と言われてそいつに会いに行った。

すんげぇイヤな奴だった。

京大大学院卒というのをさりげなくアピールしてFラン中退の私を見下してくる。

正直あんまり関わりたくなかった。

ある日、通勤バスの中でふと考えた。

なんでだろうって。

殆ど歳同じなのにあのいけ好かない奴は京大大学院卒で正社員、私はFラン中退バイト。この差はなに?

それがずっとこびりついて離れなかった。

それはそいつと顔合わせなくても研究所内に居るだけで考えてしまう。

苦痛」だった。

とにかくとにかく苦痛だった。

また別の日、通勤バスに乗っていると不思議なことが起こった。

降りるべき停留所に近づくにつれて妙に息苦しくなるのだ。そして頭が真っ白になって「ニゲロゲロ」って告げてくる。

そして降りるべき停留所が来た。

降りられなかった。

こんなことは初めてだった。なにが起きたか判らなかった。

その日は慌てて次のバス停で折り返して事なきを得た。

それから数日同じ事が何度も何度も続いた。症状はエスカレートする。降りるバス停が延びていき遅刻が酷くなる。それを上司に注意されたら今度は体調不良で休むととっさに電話で言うようになってしまった。

さらに数日して何とか出勤できた日、所属部長に呼び出された。

最近休み多いけどどうしたの?」

怒っているわけでなく本当に心配しているようだった。なので症状を正直に話すと

「無理はしないようにしてほしいけど、勤怠が悪いと正直こっちも困る」

と言われた。

その日早退し精神科を探した。

小さなクリニックで老医師がこう言った。

「そりゃウツだ」

そう診断され一日三日分のホリゾンを貰った。

ホリゾンを飲んだけど少しぼんやりしただけであまり変わらなかった。

それからも朝の戦いは続いた。負け戦ばかり。

休みが10日ほど続いたところで家に電話がいった。

「大切な話があるから明日は必ず来るように」



翌日。何とか私は出社した。

研究所入り口総務部長が待っていた。

そのまま会議室に連れて行かれた。

そこには研究所の所長と所属部長が居て3対1の面談が始まった。

単刀直入に言う。辞めてくれないかな?」

総務部長がそう言った。

そのときの私は妙に冷静でその言葉意味もきちんと理解した。

あぁ、クビか。

後は事務的に話は進みその日のうちに私は解雇された。


それからいくつかの会社を転々とした。

どこも悪いところではなかったけれど、必ず不思議なことが起きた。

朝起きて家を出ることはできるけど電車バスで最寄り駅に近づくと呼吸が荒くなって怖くなる。頭は囁く「ニゲロゲロ」と

そんな状況に陥り全く出社ができなくなってしまったのだ。

最長で半年、最短で一日。これはクビになるまでの日数。

職歴は正確に書くと30は行くんじゃないかと思う。

ここ1・2年はさらに酷くなり、部屋から出られなくなってしまった。

朝起きてその時点で恐怖発作と「ニゲロゲロ」という囁きが頭を支配する。

精神科にはもう6年かかっている。

はじめはホリゾンだけだったけど今は抗鬱剤3種類と抗不安薬睡眠薬まで貰って飲んでいる。

挙げ句には自立支援の申請をして精神障害者手帳まで交付された。

ふと思った。何でこうなってしまったんだろう、と

最近また会社をクビになったので少し考える時間ができた。で、考えを整理するためにこれを書いている。

結論を言うと私のこの病気の根元は「サボり」だと思っている。

苦痛」からの「退避」。小学校の頃の英語教室からずっと続いているこの癖。これが原因じゃないかと考えている。

おそらくこれは正しい。

正しいことは判ったが対策がわからない。

生来のサボり魔たる私はどうしたら正常の社会的な生活を送れるのだろうか?

そもそも私の病気は何だ?

鬱病適応障害?それともただの怠けでサボリなのか?

精神科で投薬治療は受けているがこれだけでは改善にいたっていない。というかここ最近悪化しているとすら思う。直近でクビになった会社では不安の恐怖、あと鬱的思考から自殺をほのめかすメールを送ってしまい大騒ぎになった。

年々悪化しているこの「現象」

いったいこれは何なんだ?

どうしたら治るんだ?

どうしたら社会的な生活を送れるんだ?

だれか、教えてほしい

2010-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20100709161932

http://anond.hatelabo.jp/20100709161115

情報ありがとう。

でも、増田の勤務先が学習塾だったとして、

私の意見は変わらないかなー。

しかし元増田仕事を知らない、つまり斜め読みしかしていないのに今更話題に加わる増田は頭悪そうだね。学歴は知らないけど。

 

増田の基準だと、

情報を網羅する」か「空気読んだタイミングで話題に加わる」のが「頭いい」んだね。そうか、なんかすみません。これ書いたらツリー全部読んできます。

海外大学にいたので、学歴はあってないようなもの。秋に卒業して帰ってきて、就職までのつなぎで大手の学習塾バイトしたりもしたけど、社員さんとの縁故でお願いして雇ってもらってた(だから、「やる気」はすげーあったけどねw社員さんの顔に泥塗れないじゃんwww)ので、元の増田とは状況が違うだろうが、教えられる側の年代と教える側の学歴・知識の関係はこんな感じだった。

----------

高校生高卒程度の知識があればOK。国数英理社いずれかに得意科目があればよい。

      ただし、知識について理解を深めていることが必要。

中学生高卒程度の知識があればOK。マニュアル化されていれば、理解が多少足りなくても大丈夫

小学生高学年:中卒程度の知識があればOK。基本、マニュアル化されていなくても、大丈夫

小学生低学年以下:カオス子育て経験っていうか保育士っていうか、なんかそういう知識あった方が業務遂行上いいかも。

      言葉がなかなか通じないので、ある意味一番専門知識が必要そう。(児童心理学とか)

----------

接客というか、ニンゲンカンケイ仕事だから、対人スキルは必要だし、重要。もちろん、塾っていう集団で働くのだから、社会性も必要。「もともとの能力学歴」なワケがない。

しかも、子供は成長段階によって対応を変えないといけないから、並より上の対人スキルが必要かも知んないw彼らは「客」じゃない。「教える」だけだと、も、全然だめ。まったくわかってくれないんだよ。

 

ま、どこまで元増田の塾と被るかはわかんない。

ただ、「学習塾における業務遂行能力」の話題だったらなおさら、「高卒」<<<「院卒」みたいな話が出るのはおかしい、と改めて思った次第です。

 

そりゃあ、中卒の人が高校生を教えるのは無理だし、東大に●●人入れました!みたいな進学塾とかお受験予備校とかで、大学出てない人間講師にいたら生徒のモチベーションが下がるってんなら話は別だけど、そもそもそういうとこだと高卒かつ社会経験ない人は採用しないと思うんだよね。履歴書出してテスト受けて採用された時点で、「学歴学力という能力」の最低条件はクリアしていて、あとは、+対人ほかの能力が「もともとの能力」なんじゃないのーって思った。

 

 

院卒さんが精神疾患なのか発達障害なのかは、会ったことないし生育歴も知らないからわかんないな。

バイトとはいえ、教育関係の末席にいた人間としては、そういうこと軽はずみで口に出しちゃいけないって思っている。

そして、元増田学習塾勤務なのだったら、是非はともかく学歴コンシャスなのは、とてもよくわかる。仕方ないとも思う。

遅いかもしれないけど、頑張ってください。

でも、あまり子供を不幸にしないでね。

2010-04-17

国公立医学部に入るまでまとめ

そろそろ予備校も始まる時期だと思うので、一浪で底辺国公立医学部に受かった体験記的なのを書いとこうと思う。誰かの参考になれば。

現役

わたしは小中高と公立に通ってきて、高校のレベルもそんなに高くない。高校2年までバリバリ文系で、成績が5だったのは世界史くらい。数学化学あたりは2だった。まったく理系科目についてわかってなかったんだけど、医学部に行きたくなって3年から理転。sin,cosがなんなのかわかんないし、増減表かけないし、molがなんなのかわかってないっていうレベル。しかも夏休みをまるまる文化祭の準備についやして、ほとんど勉強せず。

それで高校時代にやってた勉強を。数学はまず学校の授業は、3Cで意味わからなかったんだけど、全部起きて聞いてた。あと4STEP化学東進ではないんだけど、そんな感じの映像講座と、セミナー化学生物学校の授業と、ニューグローバルとかいう問題集。英語は小さい塾行って、いろんな大学過去問やったり、和訳の添削受けてた。英語生物が好きだったので、この二科目ばっかりやってた。

偏差値ベネッセ模試で、数学45→50、化学45→55、生物55→65、英語60→65くらいの感じだったと思う。

受験の結果は、センター77%で、国公立は出願しなくて、私大医学部3つ全敗。

浪人

浪人河合塾。二次で必要な4科目はほぼ河合の前期のテキストしか勉強してない。特に数学は本当に前期のテキストのみ。下の予習っていうのはだいたい、さらっと問題解く程度で、あんまり時間はかけてない。前期は全部休まず授業出た。過去問は直前に2年ずつくらいしかやらなかった。

数学

夏までは授業の予習を一応して、授業のあと、授業のノートを白紙に再現する作業をしてた。思い出せなかったらちらっとみる。解答をパターンで覚え込もうとしてたんだけど、このやり方はあまりよくなかった。後期からは、授業は微積の授業と添削のある授業だけ出て、数学のできる友達とか講師にわからないところ聞きまくった。どうしてこの作業にもってくのか、っていうのをわかってる人に聞いて、上の作業をやってみると結構伸びる。わたしの場合、最後まで偏差値は出なかったけど、入試本番は全く手が出ない問題はなくて、国立二次は大問3問中の2問完答できた。

化学

前期も後期もテキストの予復習と、セミナー化学重要問題集とかで類題をやってた。あと講師にも類題もらったりしてた。どの科目もだけど、特に化学は演習量が大切。わたしが一番時間をかけたのは化学だと思う。

生物

テキストは予習だけで、復習はほんとに解けなかった問題しかしてなくて、主に論述演習をやってた。論述生物独特の言い回しとかもあるし、基礎知識がしっかりしてないとできないから、かなり勉強になると思う。あと英語生物系の洋書読んで基礎知識忘れないようにしたり。

英語

前期は予習して、答え合わせ的に授業出るだけ。復習は単語をさらう程度。後期は授業は英文法しか出ないで、あとはテキストの問題といて、仲良い講師添削してもらってた。あと英作文の添削があったから、それは全部出した。あと、辞書英英辞典しか使ってなくて、知らない単語ノートに項目丸写しした。これで結構英作文が伸びたと思う。それからこれは趣味なんだけど、洋書とか一般向けの簡単な論文とか読んでた。

センター対策

国語はもともと文系で得意だったから予習と授業にでることしかしてなかったら、センター古文漢文で大失敗。まじめに勉強するの推奨。政経は授業に出て、12月の終わりから本格的に始めた。センター過去問といて、間違えたところを教科書テキスト面白いほどわかる本を3つ並べて、まとめる。それ使って昼ご飯の間とかに友達と口頭試問。あとは12月の初めくらいから、朝8時から授業が始まる前にセンター過去問演習してた。

偏差値は最終的に、数学55、化学70、生物75、英語75くらいだった。センターは83%、私大は3つ受けて、2つ受かった。1つしか受からないだろうと思ってたから、2つ受かったのは結構自信になって、余裕を持って国立二次に臨めたと思う。

ポイント

  • 現役時代に一つくらいは得意科目を作っておこう

現役時代に英語ばっかりやってたので、浪人して英語は遊び程度で平気だったので、ほかのことにいろいろ時間まわせた。あと得意科目があると自信になるから、ほかの科目もがんばれる。

いろんな話も聞けるし、些細なことも質問しやすいし、受験校決めのときもチューターより俄然、頼りになる。

  • 友達をつくろう

医学部進学コースみたいの入ってれば、多浪のだめな感じの人もいるけど、みんなそこそこやる気もあるから、仲間がいるとモチベーション維持しやすいと思う。食事の時間を決めて一緒に食べたりすると勉強に区切りもついて効率よくなる。

  • 自分の実力を見極めよう

これ一番大切。だいたい多浪してるひとは自分のこと見極められてないひとが多いと思う。どのくらい、どういう努力が必要か、自分レベルにあった大学はどこか、ちゃんと判断できるひとは受かってる。だめだと思ったら早くほかの道を見つけた方がいいんじゃないかな。

こんな感じかな。他の人には当てはまらないところもあるだろうけど。

不景気医学部志望増えてると思うけど、がんばってね受験生

2010-03-30

自分クズな18年間を思い起こして、泣く

地方田舎に生まれた。

無口なので小学校では1年間くらいイジメをうけていた。成績は良いほうだった。というかずっと1番だった。小5のときにネットに出会った。最初はテレビゲーム攻略サイトとかチャットルームをよく見ていた。はじめはチャット荒らしまくっていた。まぁ普段無口な小学生ネット弁慶になるって言うのは今でもあるだろ。遊戯王とかパワプロホームページを作って遊んだ。中身はないようなものだったが。

今思えば中学時代が最も充実していたかもしれない。卓球部に入った。仲の良い友達もいたし後輩とも親しくなれた。しかし練習はちょくちょくサボっていたので中学最後の団体戦には1年生に枠を奪われて出られなかった。塾に通い始めたおかげで、学校での成績は良好だった。ホームページ作りに飽きて(人が集まらない)、ブログをやり始めた。が、書くネタも別になかったので何度も削除しては新しいブログを作った。塾と部活以外は本当にだらだらネットしている中学生だった。親にパソコンをねだったが却下される。

学区内で2番目の高校に入った。進学校を自称しているが、大半の生徒は偏差値55から60をさまよっているレベルだ。東大京大に受かる人間などまずいない。仲の良い友人たちは別の学校に行った。非コミュの俺はあまりクラスになじめなかった。

高校最大のミスは数ヶ月で部活運動部)の幽霊部員になったことだ。中学卓球部でだらだらしてた俺にとっては練習がおそろしくきつかった。廊下で先輩と顔を合わせるのがつらかった。

塾に行かず独学を決意したのが2つ目の大きな間違いだった。入学直後の進路希望には一橋大学社会学部早稲田大学社会科学部を書いた。当時は「働きマン」を読んでいて雑誌編集者になるつもりだったのだ。しかし数学理科は早々に理解できなくなったので私立大学を目指すことにした。

梅田望夫の本を読んでプログラマーになろうと決意した。志望を慶応SFC早稲田人科に変えた。再度、親にパソコンをねだったが却下される。

2年生のクラスではついにまったくのハブになった。学校祭とか体育祭が本当につらかった。昼休みトイレにこもって2chしてた。家に帰ってネットしたり漫画読んだりする日々。俺が短期間部員だった部活の人たちはすげえリア充になっていた。

塾という外部強制から解き放たれた俺は授業2年の冬まで全く勉強しなかった。得意科目偏差値やばいことになり、そろそろ勉強し始めた。プログラミングも文字を表示させるレベルで挫折して、志望はいつの間にか早稲田になっていた。将来のビジョンなど頭から消えていた。英語現代文ばかりやっていた。楽だったから。おかげで模試の判定はいつもEかDだった。だからといって焦ることもなかった。勉強する習慣が身に付いていなくて、30分くらいでネット漫画に走ってしまう。中学のときもほとんど塾で勉強していたからかな。大学に行きたい理由も特になかったんだと思う。大学に入ってからやりたいことをやろうと考えていた。俳優とか政治家とか記者とか証券マンとかなりたかったかも。どれも3日くらいで忘れたが。

3年生になってもダラダラで、歴史科目の勉強も苦しくて苦しくてやっていられなかったので成績は悪いまま。それでも英語だけは偏差値70だったのでまぁなんとかなるだろと思っていた。夏休みは全く勉強せず。図書館に行くふりしてネカフェまったりしてることも。家では部屋にこもっていたので、親は俺がそれなりに勉強していると思っていただろう。冬休みは冬期講習を受けたが、予習も復習もしなかったから金をドブに捨てたようなものだけど。歴史科目は半分くらいしか進んでなかった。親には偏差値50くらいの中堅私立大も受けとけと言われた。

明治に落ちて。

入試本番。早大入試の前日に秋葉原漫画を買ってマック食べながら読んでるレベル。それでも10パーセントくらいの確率でもしかしたら受かるかもしれないと思っていた。試験が終わった後は浪人を頼み込もうと思っていた。母親浪人も考えていてくれたようだが、父親は定年退職も近くてこれから給料が下がる、妹もいるということで浪人ダメだと言った。国立一本でがんばっていれば、浪人という選択肢も出ていたかもしれないことを後悔した。

早稲田。落ちた。

中堅私立しか受からなかった。

そして高校卒業

部活勉強中途半端な結果で、高校生活は幕を閉じた。

友達もできず、恋愛に夢中になることもなかった。

趣味もない。なにか熱中できることもひとつとしてない。

上に書いてあること全部こなしてるやつだってたくさんいるというのに。

小学生の頃から何かひとつ技術にはまって、今頃は全国有数の実力者になっているやつだっているだろう。

俺みたいな奴も少なからずいるだろうから、そういうやつは一度自分を見つめ直してほしいとは言わない。どんどん堕落しろ。他人の不幸は蜜の味。

受験勉強にすらがんばれなかったという後悔は今もある。学歴コンプレックスこじらせてるな。やっぱりネットとかが好きなのでそういうものに少しでも関われる仕事をしたい。



なんだかんだあって4月からとある都内の文系学部に進むことになった。

やりたいことにどんどんチャレンジしていこう。

役に立つスキル磨いていこう。

なかのいい友達を作ろう。

熱い恋をしよう。


大学デビュー乙って思うかもしれんが、それはなにか違うんだよ。

ただ春のやわらかな風が俺の背中を押しているのを感じているんだ。





俺は変わってやる。変わらなくちゃいけない。

自分クズっぷりを思い起こして、泣く

地方田舎に生まれた。

無口なので小学校では1年間くらいイジメをうけていた。

成績は良いほうだった。というかずっと1番だった。

小5のときにネットに出会った。最初はテレビゲーム攻略サイトとかチャットルームをよく見ていた。はじめはチャット荒らしまくっていた。まぁ普段無口な小学生ネット弁慶になるって言うのは今でもあるだろ。

遊戯王とかパワプロホームページを作って遊んだ。中身はないようなものだったが。

今思えば中学時代が最も充実していたかもしれない。

卓球部に入った。仲の良い友達もいたし後輩とも親しくなれた。しかし練習はちょくちょくサボっていたので中学最後の団体戦には1年生に枠を奪われて出られなかった。

塾に通い始めたおかげで、学校での成績は良好だった。

ホームページ作りに飽きて(人が集まらない)、ブログをやり始めた。が、書くネタも別になかったので何度も削除しては新しいブログを作った。

塾と部活以外は本当にだらだらネットしている中学生だった。親にパソコンをねだったが却下される。

学区内で2番目の高校に入った。

進学校を自称しているが、大半の生徒は偏差値55から60をさまよっているレベルだ。東大京大に受かる人間などまずいない。

仲の良い友人たちは別の学校に行った。非コミュの俺はあまりクラスになじめなかった。

高校最大のミスは数ヶ月で部活運動部)の幽霊部員になったことだ。廊下で先輩と顔を合わせるのがつらかった。

塾に行かず独学を決意したのが2つ目の大きな間違いだった。入学直後の進路希望には一橋大学社会学部早稲田大学社会科学部を書いた。当時は「働きマン」を読んでいて雑誌編集者になるつもりだったのだ。しかし数学理科は早々に理解できなくなったので私立大学を目指すことにした。

梅田望夫の本を読んでプログラマーになろうと決意した。志望を慶応SFC早稲田人科に変えた。再度、親にパソコンをねだったが却下される。

2年生のクラスではついにまったくのハブになった。

学校祭とか体育祭が本当につらかった。

休みトイレにこもって2chしてた。

家に帰ってネットしたり漫画読んだりする日々。

俺が短期間部員だった部活の人たちはすげえリア充になっていた。

塾という外部強制から解き放たれた俺は授業2年の冬まで全く勉強しなかった。

得意科目偏差値やばいことになり、そろそろ勉強し始めた。プログラミングも文字を表示させるレベルで挫折して、志望はいつの間にか早稲田になっていた。将来のビジョンなど頭から消えていた。

英語現代文ばかりやっていた。楽だったから。おかげで模試の判定はいつもEかDだった。だからといって焦ることもなかった。

勉強する習慣が身に付いていなくて、30分くらいでネット漫画に走ってしまう。中学のときもほとんど塾で勉強していたからかな。

大学に行きたい理由も特になかったんだと思う。大学に入ってからやりたいことをやろうと考えていた。俳優とか政治家とか記者とか証券マンとかなりたかったかも。どれも3日くらいで忘れたが。

3年生になってもダラダラで、歴史科目の勉強も苦しくて苦しくてやっていられなかったので成績は悪いまま。それでも英語だけは偏差値70だったのでまぁなんとかなるだろと思っていた。

夏休みは全く勉強せず。

図書館に行くふりしてネカフェまったりしてることも。

家では部屋にこもっていたので、親は俺がそれなりに勉強していると思っていただろう。

冬休みは冬期講習を受けたが、予習も復習もしなかったから金をドブに捨てたようなものだけど。

歴史科目は半分くらいしか進んでなかった。

親には偏差値50くらいの中堅私立大も受けとけと言われた。

明治には落ちてた。

入試本番。早大入試の前日に秋葉原漫画を買ってマック食べながら読んでるレベル。それでも10パーセントくらいの確率でもしかしたら受かるかもしれないと思っていた。

試験が終わった後は浪人を頼み込もうと思っていた。

母親浪人も考えていてくれたようだが、父親は定年退職も近くてこれから給料が下がる、妹もいるということで浪人ダメだと言った。

国立一本でがんばっていれば、浪人という選択肢も出ていたかもしれないことを後悔した。

早稲田。落ちた。

中堅私立しか受からなかった。

そして高校卒業

部活勉強中途半端な結果で、高校生活は幕を閉じた。

友達もできず、恋愛に夢中になることもなかった。

趣味もない。なにか熱中できることもひとつとしてない。

上に書いてあること全部こなしてるやつだってたくさんいるというのに。

小学生の頃から何かひとつ技術にはまって、今頃は全国有数の実力者になっているやつだっているだろう。

俺みたいな奴も少なからずいるだろうから、そういうやつは一度自分を見つめ直してほしいとは言わない。どんどん堕落しろ。他人の不幸は蜜の味。

受験勉強にすらがんばれなかったという後悔は今もある。

学歴コンプレックスこじらせてるな。

なんだかんだあってネットとかが好きなのでそういうものに少しでも関われる仕事をしたい。

なんだかんだあって4月からとある都内の文系学部に進むことになった。

やりたいことにどんどんチャレンジしていこう。

役に立つスキル磨いていこう。

なかのいい友達を作ろう。

熱い恋をしよう。

大学デビュー乙って思うかもしれんが、それはなにか違うんだよ。

ただ春のやわらかな風が俺の背中を押しているのを感じているんだ。

俺は変わってやる。変わらなくちゃいけない。

2010-03-03

http://anond.hatelabo.jp/20100303180042

できたといっても地方の話なので、ぜんぜんたいしたもんじゃないです。

それにあくまでも自分の周囲との比較なので…。


自分語りになって恥ずかしいのですが、具体的に回答すると。

高校では家庭での学習はほぼ0で1教科のみ塾利用。

業態度は聞かずに寝てるか手紙書いてるか好きに教科書読んでる感じ。

その状態で市内で1番の進学校で、総合で30位文系科目で10位以内に入れるくらい。

生徒の進学先は東大京大阪大慶応早稲田も含むしそこらの推薦も持ってたので、

地方にしてはレベルは低くない方…かもしれません。


大学進学については親が家から出さないと言い張って…。

通える国公立ってな基準で選んだので、そんなランクが高くないとこだったから。

受験勉強は軽く気が向いたときに趣味程度にしたくらい。

苦手科目は一切やらず、得意科目だけで他をカバーして合格


努力したらもっと上に行けたのかもな…と思いつつ、なんもしてこなかったあほなので。

積み重ねたものもない、努力の仕方もわからなくて就職でレールを外れてからはもうぐだぐだ。

将来設計という意味では救いようがないかなーと自分でも思います。人がまぶしい。


まぁキャリア以外の面が充実してて幸せなのがせめてもの救いですかね…。

2009-09-29

http://anond.hatelabo.jp/20090927160615

日本でも高いレベルの人たちは尊重し合っています。

下の方は、

数学のできなかったコンプレックス

数学やる時間で本当は遊びたかったコンプレックスとで

やんややんやしています。

 

成績と得意科目で進路決めるんだもん、しゃーない。

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